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2021年8月14日(土)10時過ぎ、諏訪大社下社秋宮参拝を終えて、旧中山道の下諏訪宿跡を春宮に向けて歩く。諏訪大社下社秋宮の宝物殿の前の鍵辻に下諏訪宿甲州道中口番屋跡の碑が建つ。ここが下諏訪宿の南の入口だったようだ。現在の宝物殿の辺りに番屋が建っていたのだろうか?(下の写真1)。<br /><br />甲州街道は北に真っ直ぐ続くが、鎌倉街道ロマンの道の案内で寄り道(下の写真2)。なお、この道は下諏訪町が整備した散策コースで、実際の鎌倉街道とは関係ない。宝物殿の裏の細い道を進むと秋宮スケートリンクがある。1909年(明治42年)に地元旅館業者やスケート関係者等によって開設されたフィギュアスケート発祥の地とも云われる歴史ある、自然を利用した人工スケートリンク。<br /><br />1905年(明治38年)の鉄道開通以来、諏訪湖が日本スケート界の一大中心地となったが、結氷時期が限られ、また結氷状態の悪い時もあったので、それを補うために水田を利用して作られた。秋宮の森蔭となるので12月上旬から結氷し、アーク灯を設置して夜間の滑走も可能であった。1922年(大正11年)国際ルールにそった日本で最初のフィギュアスケートの競技会が開かれた所で、その2年後に初のアイスホッケー公式試合が行われた所でもある。現在も現役と云っても8月だったので、単なる芝生広場だった。<br /><br />街道に戻って歩き始めると、左からの国道142号線に合流する手前に新鶴本店と云う年代物の建物。塩羊羹で知られる和菓子店で1873年(明治6年)創業。楢の薪を焚いて練り上げられた塩羊羹は職人ならではの味。今も昔も、下諏訪のお茶タイムに欠かせない甘味として親しまれている。幕末尊皇派志士で南画家の天龍道人の住居跡でもある(下の写真3)。<br /><br />新鶴本店の先、国道142号線と合流した先、左側にある桔梗屋は江戸初期の1690年創業の老舗旅館。皇女和宮の母君をはじめ、「弥次喜多道中」で有名な十返舎一九や安藤広重、竹久夢二、斎藤茂吉など多くの文人墨客にも愛され、また、明治には多くの外国人でにぎわった宿。現在の建物は安曇野市生まれの現代の建築家、降幡廣信氏によって設計、建て替えられたもの。<br /><br />この桔梗屋のある三差路が甲州街道の終点で中山道(高札場が復元された立町通り)との合流地点。中山道は江戸から高崎、軽井沢から和田峠を経て下諏訪に至り、ここからは現在の中央本線、東海道線と並行して滋賀県の草津で東海道に合流する。現在の中央本線のイメージとは結構違う。したがって、下諏訪宿は塩尻宿と和田宿の間に位置し、塩尻宿から来ると南に行かず北に向かっている。<br /><br />この三差路の北西角、桔梗屋と立町通りを挟んであるのが御宿まるや。創業は江戸前期の1688年と古い歴史をもつ宿。当時は脇本陣旅籠として一般の旅行者も利用することができた。現在の建物は1993年に古民家再生のパイオニア、降幡廣信氏とともに、江戸末期の下諏訪宿の旅籠の建築様式を丁寧に研究し、以前の建物の梁材等をできるだけ再利用し復元したもの。<br /><br />中山道を北に進むとすぐ右手に本陣岩波家。大名の宿泊先だったところで、下諏訪宿の少ない耕地の大部分を所有する岩波家が運営していた。遺構としては庭園などごく一部が残されているだけだが、皇女和宮が宿泊した折に使用した上段の間も現存している。その先、左手の小松屋は下諏訪宿随一の人気料理屋だったそうだ。<br /><br />その小松屋の裏手(西側)にあるのは青塚古墳。墳長57mの諏訪地方では唯一の前方後円墳。石室の構造や出土した円筒埴輪などから6世紀後半から末頃の築造と推定されている。長野県指定史跡。<br /><br />先に進むと国道142号線は衣装坂との合流地点から1957年(明治29年)に旧中山道の上に新たに開削されたお花見新道に続くが、その少し奥にあるのが来迎寺。浄土宗知恩院派の寺で、戦国時代の1541年栄海上人の中興開山。開基は諏訪大社大祝金刺氏の一族で諏訪右衛門尉。江戸時代の初めには増上寺22世位産和尚がこの寺で得度したと伝えられます。<br /><br />大雨が降ってたこともあり、写真は撮れてないが、山門の右手に下諏訪町の建立年月日の明らかな建物の中で一番古い1731年完成の銕焼(かなやき)地蔵堂がある。祀られている秘仏の銕焼地蔵尊は最明寺入道(鎌倉幕府第5代執権北条時頼)が京都から自ら担いで運んだと伝えられるもので、和泉式部の幼少期にまつわる伝説がある。<br /><br />その伝説では和泉式部はこの寺に程近い温泉宿に奉公人として働いていた「かね」と呼ばれる少女だったそうで、ある時いじめで顔に傷を負った際に、日頃から守り本尊として信仰し、食事や御供え物を施していた地蔵尊に泣いて話すと、地蔵尊の顔に傷が移った。以後この地蔵尊は「かなやき様」として信仰されるようになり、かねは噂が届いた京にいた越前守大江雅致の養女として迎えられ、後に和泉式部となったとのこと。で、和泉式部の死後、その旧宅を訪れた最明寺入道に来迎寺に安置して欲しいと夢枕に立ったそうだ。<br /><br />また、今はないが境内から湧き出た温泉は銕焼地蔵尊の御利益があるとされ、最明寺入道や高島藩の藩主諏訪氏も利用したと伝えられている。なお、山門正面の本堂は1907年(明治40年)に焼失したものを1936年(昭和11年)に再建したもの。<br /><br />衣装坂との合流地点に戻ると旧中山道の下り坂を進む。この坂は湯田坂と云う(下の写真4)。片側の電柱が撤去されていい感じの坂になってる。交差点からすぐ先の山側に「タロウ珈琲弐号店」と云う看板が掛かった古民家がある。大阪出身の店主はドイツの女子サッカーリーグ4部でプレーされた方で、帰国後フィットネストレーナーやメンタルケアをされていたが、2012年にこの地に移住され、古民家をリノベーションをこの店を整体院、メンタルヘルスサポートと共に始められたそうだ。<br /><br />なお、弐号店とあるが、壱号店や参号店はなく、また、名前と違って珈琲専門店ではなく、クラフトビールとドイツソーセージが売りの夜カフェだそうで、2軒隣の日帰り温泉でひと風呂浴びて寄ってみたいものだ。<br /><br />その日帰り温泉は旦過(たんが)の湯と云う。鎌倉時代の諏訪大社下社春宮近くにある慈雲寺に来た修行僧のために建てられた旦過寮が始まりとされる歴史ある公衆浴場。湯口は52度と高温で、切り傷や吹き出物に効く源泉と伝えられている。2012年にリニューアルオープンし、伝統の高温湯と常温湯に加え露天風呂も設置された。駐車場の前にはお湯汲み場もある。また、この湯屋の入口の横に諏訪大社下社春宮の奥にある万治の石仏の案内碑があるが、あの岡本太郎画伯が揮毫(きごう)されたものとの説明がある(下の写真5)。<br /><br />道を挟んだ向かい側には下諏訪で幼少女期を過ごした、大正から昭和に掛けて活躍したアララギ派の歌人、今井邦子の文学館がある。建物は中山道随一の宿場として賑わいを見せていた江戸時代の下諏訪宿で茶屋を営んでいた邦子の実家を復元したもの。<br /><br />旦過の湯の駐車場の先には鉄鉱泉本館。ここには江戸時代に仕出しなどを行う割烹が出来、後に「つたや」と旅籠を営んでいた。1904年(明治37年)にこの旅籠を譲り受け開いたのがこの旅館。建物は大正時代の宮大工によるものに増改築を重ねている。内部の彫刻は秋宮と同じ宮大工立川流によるものをそのまま残しており、特にゆるやかな弧を描いた引き戸を作る技は現在の職人には伝わってなく、修復や復元ができないそうだ。<br /><br />鉄鉱泉本館から湯田坂を降りた交差点に写真はないが、中山道口の番屋跡の碑が建つ。ここまでが下諏訪宿だったようだ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7830654883671134&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />旧中山道をもう少し歩くが、続く

長野 下諏訪宿(Old Shimosuwa Post Station,Nagano,Japan)

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2021/08/14 - 2021/08/14

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旅行記グループ 松本

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年8月14日(土)10時過ぎ、諏訪大社下社秋宮参拝を終えて、旧中山道の下諏訪宿跡を春宮に向けて歩く。諏訪大社下社秋宮の宝物殿の前の鍵辻に下諏訪宿甲州道中口番屋跡の碑が建つ。ここが下諏訪宿の南の入口だったようだ。現在の宝物殿の辺りに番屋が建っていたのだろうか?(下の写真1)。

甲州街道は北に真っ直ぐ続くが、鎌倉街道ロマンの道の案内で寄り道(下の写真2)。なお、この道は下諏訪町が整備した散策コースで、実際の鎌倉街道とは関係ない。宝物殿の裏の細い道を進むと秋宮スケートリンクがある。1909年(明治42年)に地元旅館業者やスケート関係者等によって開設されたフィギュアスケート発祥の地とも云われる歴史ある、自然を利用した人工スケートリンク。

1905年(明治38年)の鉄道開通以来、諏訪湖が日本スケート界の一大中心地となったが、結氷時期が限られ、また結氷状態の悪い時もあったので、それを補うために水田を利用して作られた。秋宮の森蔭となるので12月上旬から結氷し、アーク灯を設置して夜間の滑走も可能であった。1922年(大正11年)国際ルールにそった日本で最初のフィギュアスケートの競技会が開かれた所で、その2年後に初のアイスホッケー公式試合が行われた所でもある。現在も現役と云っても8月だったので、単なる芝生広場だった。

街道に戻って歩き始めると、左からの国道142号線に合流する手前に新鶴本店と云う年代物の建物。塩羊羹で知られる和菓子店で1873年(明治6年)創業。楢の薪を焚いて練り上げられた塩羊羹は職人ならではの味。今も昔も、下諏訪のお茶タイムに欠かせない甘味として親しまれている。幕末尊皇派志士で南画家の天龍道人の住居跡でもある(下の写真3)。

新鶴本店の先、国道142号線と合流した先、左側にある桔梗屋は江戸初期の1690年創業の老舗旅館。皇女和宮の母君をはじめ、「弥次喜多道中」で有名な十返舎一九や安藤広重、竹久夢二、斎藤茂吉など多くの文人墨客にも愛され、また、明治には多くの外国人でにぎわった宿。現在の建物は安曇野市生まれの現代の建築家、降幡廣信氏によって設計、建て替えられたもの。

この桔梗屋のある三差路が甲州街道の終点で中山道(高札場が復元された立町通り)との合流地点。中山道は江戸から高崎、軽井沢から和田峠を経て下諏訪に至り、ここからは現在の中央本線、東海道線と並行して滋賀県の草津で東海道に合流する。現在の中央本線のイメージとは結構違う。したがって、下諏訪宿は塩尻宿と和田宿の間に位置し、塩尻宿から来ると南に行かず北に向かっている。

この三差路の北西角、桔梗屋と立町通りを挟んであるのが御宿まるや。創業は江戸前期の1688年と古い歴史をもつ宿。当時は脇本陣旅籠として一般の旅行者も利用することができた。現在の建物は1993年に古民家再生のパイオニア、降幡廣信氏とともに、江戸末期の下諏訪宿の旅籠の建築様式を丁寧に研究し、以前の建物の梁材等をできるだけ再利用し復元したもの。

中山道を北に進むとすぐ右手に本陣岩波家。大名の宿泊先だったところで、下諏訪宿の少ない耕地の大部分を所有する岩波家が運営していた。遺構としては庭園などごく一部が残されているだけだが、皇女和宮が宿泊した折に使用した上段の間も現存している。その先、左手の小松屋は下諏訪宿随一の人気料理屋だったそうだ。

その小松屋の裏手(西側)にあるのは青塚古墳。墳長57mの諏訪地方では唯一の前方後円墳。石室の構造や出土した円筒埴輪などから6世紀後半から末頃の築造と推定されている。長野県指定史跡。

先に進むと国道142号線は衣装坂との合流地点から1957年(明治29年)に旧中山道の上に新たに開削されたお花見新道に続くが、その少し奥にあるのが来迎寺。浄土宗知恩院派の寺で、戦国時代の1541年栄海上人の中興開山。開基は諏訪大社大祝金刺氏の一族で諏訪右衛門尉。江戸時代の初めには増上寺22世位産和尚がこの寺で得度したと伝えられます。

大雨が降ってたこともあり、写真は撮れてないが、山門の右手に下諏訪町の建立年月日の明らかな建物の中で一番古い1731年完成の銕焼(かなやき)地蔵堂がある。祀られている秘仏の銕焼地蔵尊は最明寺入道(鎌倉幕府第5代執権北条時頼)が京都から自ら担いで運んだと伝えられるもので、和泉式部の幼少期にまつわる伝説がある。

その伝説では和泉式部はこの寺に程近い温泉宿に奉公人として働いていた「かね」と呼ばれる少女だったそうで、ある時いじめで顔に傷を負った際に、日頃から守り本尊として信仰し、食事や御供え物を施していた地蔵尊に泣いて話すと、地蔵尊の顔に傷が移った。以後この地蔵尊は「かなやき様」として信仰されるようになり、かねは噂が届いた京にいた越前守大江雅致の養女として迎えられ、後に和泉式部となったとのこと。で、和泉式部の死後、その旧宅を訪れた最明寺入道に来迎寺に安置して欲しいと夢枕に立ったそうだ。

また、今はないが境内から湧き出た温泉は銕焼地蔵尊の御利益があるとされ、最明寺入道や高島藩の藩主諏訪氏も利用したと伝えられている。なお、山門正面の本堂は1907年(明治40年)に焼失したものを1936年(昭和11年)に再建したもの。

衣装坂との合流地点に戻ると旧中山道の下り坂を進む。この坂は湯田坂と云う(下の写真4)。片側の電柱が撤去されていい感じの坂になってる。交差点からすぐ先の山側に「タロウ珈琲弐号店」と云う看板が掛かった古民家がある。大阪出身の店主はドイツの女子サッカーリーグ4部でプレーされた方で、帰国後フィットネストレーナーやメンタルケアをされていたが、2012年にこの地に移住され、古民家をリノベーションをこの店を整体院、メンタルヘルスサポートと共に始められたそうだ。

なお、弐号店とあるが、壱号店や参号店はなく、また、名前と違って珈琲専門店ではなく、クラフトビールとドイツソーセージが売りの夜カフェだそうで、2軒隣の日帰り温泉でひと風呂浴びて寄ってみたいものだ。

その日帰り温泉は旦過(たんが)の湯と云う。鎌倉時代の諏訪大社下社春宮近くにある慈雲寺に来た修行僧のために建てられた旦過寮が始まりとされる歴史ある公衆浴場。湯口は52度と高温で、切り傷や吹き出物に効く源泉と伝えられている。2012年にリニューアルオープンし、伝統の高温湯と常温湯に加え露天風呂も設置された。駐車場の前にはお湯汲み場もある。また、この湯屋の入口の横に諏訪大社下社春宮の奥にある万治の石仏の案内碑があるが、あの岡本太郎画伯が揮毫(きごう)されたものとの説明がある(下の写真5)。

道を挟んだ向かい側には下諏訪で幼少女期を過ごした、大正から昭和に掛けて活躍したアララギ派の歌人、今井邦子の文学館がある。建物は中山道随一の宿場として賑わいを見せていた江戸時代の下諏訪宿で茶屋を営んでいた邦子の実家を復元したもの。

旦過の湯の駐車場の先には鉄鉱泉本館。ここには江戸時代に仕出しなどを行う割烹が出来、後に「つたや」と旅籠を営んでいた。1904年(明治37年)にこの旅籠を譲り受け開いたのがこの旅館。建物は大正時代の宮大工によるものに増改築を重ねている。内部の彫刻は秋宮と同じ宮大工立川流によるものをそのまま残しており、特にゆるやかな弧を描いた引き戸を作る技は現在の職人には伝わってなく、修復や復元ができないそうだ。

鉄鉱泉本館から湯田坂を降りた交差点に写真はないが、中山道口の番屋跡の碑が建つ。ここまでが下諏訪宿だったようだ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7830654883671134&type=1&l=223fe1adec


旧中山道をもう少し歩くが、続く

  • 写真1 下諏訪宿甲州道中口番屋跡の碑

    写真1 下諏訪宿甲州道中口番屋跡の碑

  • 写真2 鎌倉街道ロマンの道案内

    写真2 鎌倉街道ロマンの道案内

  • 写真3 天竜道人住居跡

    写真3 天竜道人住居跡

  • 写真4 湯田坂案内板

    写真4 湯田坂案内板

  • 写真5 万治の石仏の案内碑

    写真5 万治の石仏の案内碑

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