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2021年8月14日(土)、今回の旅の2日目、この日は思ってもみなかった大変な日になった。朝の6時45分過ぎ、7時前の長野行の篠ノ井線に乗る積もりで松本駅に向かったのだが、なんと大雨の所為で運休している(下の写真1)。あれまあ・・・<br /><br />この日は、夜にこの旅の最大の目的である私の全国スタジアム廻りの未制覇スタジアムであるサンプロアルウィンスタジアムでのサンガ・松本山雅戦の夜の6時キックオフまでの間、朝から42年振りに長野の善光寺に参って、午後は下諏訪の諏訪大社下社を訪れる予定だった。<br /><br />どうしようもないので、長野に着いてから食べようと思ってた朝食の代わりをコンビニで買って、いったんホテルの部屋に戻って食べながらどうするか検討。長野へ行くのはバスでも無理なので諦め。この時点では大糸線は信濃大町までは動いてたし、私鉄の松本電鉄も動いてたので、どっか代わりに行くことも考えたが、結局は午後に予定していた諏訪大社に早めに行くことにする。それが良かったのか、悪かったのか・・・<br /><br />8時40分過ぎの電車で、当初の予定より約4時間早く松本から下諏訪に向かう(下の写真2)。塩尻から先の中央本線、昨日乗って来た中央西線は運休だったが、東京へ向かう中央東線は幸いに動いている(下の写真3)。中央西線で翌日帰る予定なんだけど大丈夫やろうかと心配しながら電車は進む。<br /><br />中央東線は1889年(明治22年)にまずは甲武鉄道として新宿・立川間が開通し、同じ年の4か月後に八王子まで延伸される。八王子から先は1901年(明治34年)に官設鉄道が八王子・上野原間を開業、1906年に篠ノ井までの全線が開業し、さらに甲武鉄道を買収し、御茶ノ水駅-篠ノ井駅間鉄道となる。1908年(明治41年)に昌平橋・御茶ノ水間が開業、翌年昌平橋・塩尻・篠ノ井間が中央東線と命名された。<br /><br />1911年(明治44年)に中央西線の全通に合わせて昌平橋・塩尻・名古屋駅間が中央本線となり、篠ノ井線が分離。最終的に東京駅まで通じたのは1919年(大正8年)だった。1983年には岡谷・塩尻間の新線が開業し、辰野経由の旧線は支線となった。1987年の国鉄分割民営化によりJR東日本に継承。全線電化で、全線222.1㎞のうち普門寺信号場(辰野・上諏訪間)と岡谷駅間の約11.5㎞と辰野支線のみ単線。<br /><br />18きっぷだけでなく、特急「あずさ」ででも何度も乗ってる線だが、前回は2018年の1月、駒ケ根でJICAの協力隊の訓練中の休みの日に諏訪湖の御神渡りと諏訪大社上社を見に来るのに、飯田線から辰野支線経由で上諏訪・辰野に来て、上諏訪から戻った。この時、計画では今回行こうとしている諏訪大社下社も行こうとしてたのだが、上社本宮から乗ったバスが御神渡り渋滞にはまって断念したんだよな。<br /><br />9時15分の定刻に少し遅れて下諏訪駅到着。諏訪湖の北に位置する諏訪大社下社、下諏訪温泉といった観光地の拠点となる駅。標高767.5mで、諏訪湖を取り巻く駅の中では最も高い位置にある。1905年(明治38年)、鉄道院中央本線の富士見・岡谷間開通と同時に開業。戦後の1949年(昭和24年)に国鉄に移管され、1987年からJR東日本の駅となった。上述のように3年前に使う計画はあったのだが、結局は使わなかったので、この駅で乗り降りするのは初めて。<br /><br />北側の駅舎に接して単式ホーム1面1線、その奥に島式ホーム1面2線の、合わせて2面3線をもつ地上駅。2つのホームは駅の岡谷駅方に1本ある跨線橋によって連絡されている。改札口は駅舎にある1箇所のみ。駅の南側からは利用できない。<br /><br />駅舎は和風の鉄筋コンクリート1階建てで1998年に1963年の建物をリニューアルしたもので、さらに2020年に駅舎の外観、駅舎内のコンコースや待合室などもリニューアルされた。このリニューアルでは、旧中山道の宿場町の街並みをイメージした黒い木目調の資材が中心に使用された。<br /><br />駅前広場の入口には2本の御柱が建つ。1998年の長野オリンピック開会式の際、「長野オリンピックスタジアム」の選手入場口に建てられたもの。東側の御柱の下には「燦」温泉モニュメントがある。御柱祭やお舟祭りで御柱やお舟を曳く綱を使い、人々の団結、協力、絆をイメージしているとのこと。下諏訪町の未来は「燦(さん)」として輝くと云うことから名付けられている。<br /><br />さて、その下諏訪町だが、諏訪湖の北側、岡谷市と諏訪市に挟まれた町で、諏訪湖や八島ヶ原湿原、下諏訪温泉、諏訪大社などがある観光地かつ鳥居前町で、かつては中山道、甲州街道が分岐する宿場として栄えた。北側は松本市や長和町と接しているが、直接的な結びつきは少なく、平野続きで同じ「諏訪」のアイデンティティーを持つ諏訪市、岡谷市と非常に密接な関係にある。<br /><br />縄文時代から人が住んでいた地域で、古代の律令制下においては信濃国の一部に組み込まれていたが、地域的には諏訪湖から伊那谷までの天竜川流域一帯を総めて南信地方と呼ばれる。戦国時代には諏訪市および茅野市の諏訪氏と対決していたが、最終的には甲斐の武田家に占領される。<br /><br />江戸時代は諏訪氏の高島藩の所領となり、中山道、甲州街道の分岐点として発展する。明治に入ると製糸業が発展し、昭和に入ると大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、東洋のスイスと呼ばれるようになった。一時は世界のオルゴールムーブメントシェア80%を誇った三協精機製作所(現日本電産サンキョー)はこの町で生まれ、現在も本社を置いている。<br /><br />下諏訪村が誕生したのは1874年(明治7年)。1893年(明治26年)に下諏訪町となった。面積は約67平方㎞で長野県の77自治体中55位と下位にある。また人口約2万1千人は21位と比較的上位。町域は細長いが実際に住民が居住しているところは諏訪湖周辺の砥川(とがわ)の扇状地。町域全体が本州島の真ん中、フォッサマグナの上にある。<br /><br />駅前の御柱の間を抜けてそのまま北に進み、オルゴール通りと名付けられた道を200mほど進むと国道20号線に突き当たる。国道20号線は東京と塩尻を結ぶ国道で、東京からここ下諏訪までは甲州街道、ここから塩尻までは中山道をほぼ辿っている。<br /><br />三差路を右折し、国道20号線を東に進む。この道は諏訪大社下社秋宮の参道に当たる道で、大社通りとも呼ばれており、石灯籠やベンチが並んでおり、とてもいい雰囲気。200m足らず進むと国道20号線は右に曲がり、佐久から軽井沢へ続く国道142号線となる。<br /><br />その交差点を過ぎたすぐ右手に2010年にオープンした門前ひろば食祭館がある。食事処と土産物屋が入った観光施設で、入口を入ったところには「神の湯和楽」と云う足湯があり、大型モニターが併設され、観光案内が流されている。ただ、残念なことにコロナ禍で足湯が閉鎖中だった。<br /><br />その少し先には2015年に復元された高札場。街道の分岐点や関所などの人目につきやすい場所に法令などを公示する掲示板である高札を掲示したもの。旧中山道はこの高札場から左手の立町通りに続く。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7816345015102121&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />諏訪大社下社秋宮に到着するが、続く

長野 下諏訪(Shimosuwa,Nagano,Japan)

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2021/08/14 - 2021/08/14

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年8月14日(土)、今回の旅の2日目、この日は思ってもみなかった大変な日になった。朝の6時45分過ぎ、7時前の長野行の篠ノ井線に乗る積もりで松本駅に向かったのだが、なんと大雨の所為で運休している(下の写真1)。あれまあ・・・

この日は、夜にこの旅の最大の目的である私の全国スタジアム廻りの未制覇スタジアムであるサンプロアルウィンスタジアムでのサンガ・松本山雅戦の夜の6時キックオフまでの間、朝から42年振りに長野の善光寺に参って、午後は下諏訪の諏訪大社下社を訪れる予定だった。

どうしようもないので、長野に着いてから食べようと思ってた朝食の代わりをコンビニで買って、いったんホテルの部屋に戻って食べながらどうするか検討。長野へ行くのはバスでも無理なので諦め。この時点では大糸線は信濃大町までは動いてたし、私鉄の松本電鉄も動いてたので、どっか代わりに行くことも考えたが、結局は午後に予定していた諏訪大社に早めに行くことにする。それが良かったのか、悪かったのか・・・

8時40分過ぎの電車で、当初の予定より約4時間早く松本から下諏訪に向かう(下の写真2)。塩尻から先の中央本線、昨日乗って来た中央西線は運休だったが、東京へ向かう中央東線は幸いに動いている(下の写真3)。中央西線で翌日帰る予定なんだけど大丈夫やろうかと心配しながら電車は進む。

中央東線は1889年(明治22年)にまずは甲武鉄道として新宿・立川間が開通し、同じ年の4か月後に八王子まで延伸される。八王子から先は1901年(明治34年)に官設鉄道が八王子・上野原間を開業、1906年に篠ノ井までの全線が開業し、さらに甲武鉄道を買収し、御茶ノ水駅-篠ノ井駅間鉄道となる。1908年(明治41年)に昌平橋・御茶ノ水間が開業、翌年昌平橋・塩尻・篠ノ井間が中央東線と命名された。

1911年(明治44年)に中央西線の全通に合わせて昌平橋・塩尻・名古屋駅間が中央本線となり、篠ノ井線が分離。最終的に東京駅まで通じたのは1919年(大正8年)だった。1983年には岡谷・塩尻間の新線が開業し、辰野経由の旧線は支線となった。1987年の国鉄分割民営化によりJR東日本に継承。全線電化で、全線222.1㎞のうち普門寺信号場(辰野・上諏訪間)と岡谷駅間の約11.5㎞と辰野支線のみ単線。

18きっぷだけでなく、特急「あずさ」ででも何度も乗ってる線だが、前回は2018年の1月、駒ケ根でJICAの協力隊の訓練中の休みの日に諏訪湖の御神渡りと諏訪大社上社を見に来るのに、飯田線から辰野支線経由で上諏訪・辰野に来て、上諏訪から戻った。この時、計画では今回行こうとしている諏訪大社下社も行こうとしてたのだが、上社本宮から乗ったバスが御神渡り渋滞にはまって断念したんだよな。

9時15分の定刻に少し遅れて下諏訪駅到着。諏訪湖の北に位置する諏訪大社下社、下諏訪温泉といった観光地の拠点となる駅。標高767.5mで、諏訪湖を取り巻く駅の中では最も高い位置にある。1905年(明治38年)、鉄道院中央本線の富士見・岡谷間開通と同時に開業。戦後の1949年(昭和24年)に国鉄に移管され、1987年からJR東日本の駅となった。上述のように3年前に使う計画はあったのだが、結局は使わなかったので、この駅で乗り降りするのは初めて。

北側の駅舎に接して単式ホーム1面1線、その奥に島式ホーム1面2線の、合わせて2面3線をもつ地上駅。2つのホームは駅の岡谷駅方に1本ある跨線橋によって連絡されている。改札口は駅舎にある1箇所のみ。駅の南側からは利用できない。

駅舎は和風の鉄筋コンクリート1階建てで1998年に1963年の建物をリニューアルしたもので、さらに2020年に駅舎の外観、駅舎内のコンコースや待合室などもリニューアルされた。このリニューアルでは、旧中山道の宿場町の街並みをイメージした黒い木目調の資材が中心に使用された。

駅前広場の入口には2本の御柱が建つ。1998年の長野オリンピック開会式の際、「長野オリンピックスタジアム」の選手入場口に建てられたもの。東側の御柱の下には「燦」温泉モニュメントがある。御柱祭やお舟祭りで御柱やお舟を曳く綱を使い、人々の団結、協力、絆をイメージしているとのこと。下諏訪町の未来は「燦(さん)」として輝くと云うことから名付けられている。

さて、その下諏訪町だが、諏訪湖の北側、岡谷市と諏訪市に挟まれた町で、諏訪湖や八島ヶ原湿原、下諏訪温泉、諏訪大社などがある観光地かつ鳥居前町で、かつては中山道、甲州街道が分岐する宿場として栄えた。北側は松本市や長和町と接しているが、直接的な結びつきは少なく、平野続きで同じ「諏訪」のアイデンティティーを持つ諏訪市、岡谷市と非常に密接な関係にある。

縄文時代から人が住んでいた地域で、古代の律令制下においては信濃国の一部に組み込まれていたが、地域的には諏訪湖から伊那谷までの天竜川流域一帯を総めて南信地方と呼ばれる。戦国時代には諏訪市および茅野市の諏訪氏と対決していたが、最終的には甲斐の武田家に占領される。

江戸時代は諏訪氏の高島藩の所領となり、中山道、甲州街道の分岐点として発展する。明治に入ると製糸業が発展し、昭和に入ると大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、東洋のスイスと呼ばれるようになった。一時は世界のオルゴールムーブメントシェア80%を誇った三協精機製作所(現日本電産サンキョー)はこの町で生まれ、現在も本社を置いている。

下諏訪村が誕生したのは1874年(明治7年)。1893年(明治26年)に下諏訪町となった。面積は約67平方㎞で長野県の77自治体中55位と下位にある。また人口約2万1千人は21位と比較的上位。町域は細長いが実際に住民が居住しているところは諏訪湖周辺の砥川(とがわ)の扇状地。町域全体が本州島の真ん中、フォッサマグナの上にある。

駅前の御柱の間を抜けてそのまま北に進み、オルゴール通りと名付けられた道を200mほど進むと国道20号線に突き当たる。国道20号線は東京と塩尻を結ぶ国道で、東京からここ下諏訪までは甲州街道、ここから塩尻までは中山道をほぼ辿っている。

三差路を右折し、国道20号線を東に進む。この道は諏訪大社下社秋宮の参道に当たる道で、大社通りとも呼ばれており、石灯籠やベンチが並んでおり、とてもいい雰囲気。200m足らず進むと国道20号線は右に曲がり、佐久から軽井沢へ続く国道142号線となる。

その交差点を過ぎたすぐ右手に2010年にオープンした門前ひろば食祭館がある。食事処と土産物屋が入った観光施設で、入口を入ったところには「神の湯和楽」と云う足湯があり、大型モニターが併設され、観光案内が流されている。ただ、残念なことにコロナ禍で足湯が閉鎖中だった。

その少し先には2015年に復元された高札場。街道の分岐点や関所などの人目につきやすい場所に法令などを公示する掲示板である高札を掲示したもの。旧中山道はこの高札場から左手の立町通りに続く。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7816345015102121&type=1&l=223fe1adec


諏訪大社下社秋宮に到着するが、続く

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  • 写真1 篠ノ井線運休

    写真1 篠ノ井線運休

  • 写真2 松本駅ホーム

    写真2 松本駅ホーム

  • 写真3 JR運休情報

    写真3 JR運休情報

  • 写真4 大社通り

    写真4 大社通り

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