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2021年8月14日(土)11時前、旧中山道と竜の口の少し西で分かれて坂道を下ると大門通りに出る。国道20号線との交差点にある春宮大門から春宮春宮の大鳥居まで続く通り。かつては春宮の専用道路で、下社の大祝の金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場だった。通りに出るとすぐ右手に春宮の大鳥居が建ち、その左手前に手水舎がある(下の写真1)。<br /><br />諏訪大社下社春宮は諏訪湖を挟んで二社四宮が鎮座する諏訪大社の一つで、毎年2月から7月末まで祭神が祀られるため、春宮と呼ばれている。これで、約3年半かけて二社四宮を制覇!(下の追記参照)<br /><br />高さ8.2mあり、柱の太さが周囲2.1mの大鳥居は江戸初期の1675年に大坂から来た職人により建立されたもので、諏訪大社最古の石造物。柱頂と柱元が半径ずれた半ころびの均整のとれた構えは、まもなく350年を迎えるが微動だしていない。<br /><br />鳥居を抜けて坂道を上がり境内に入ると秋宮同様に、境内の真ん中に神楽殿があり、その奥に幣拝殿・左右片拝殿、そしてさらにその奥に2棟の宝殿がある。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩によって計画された時に同じ絵図面が与えられたので、大きさこそ違うがその構造は全く同じで、両社は彫刻で競っている。参道の左側を歩き、御柱とは反対に逆時計回りに回るのが地元の皆さんの参拝ルートらしい。<br /><br />神楽殿は江戸前期の天和年間(1681~1684年)に諏訪藩が寄進したものだが、その後修改築が幾度となくされており、最近では1936年に改修された。<br /><br />幣拝殿は御門屋(みかどや)とも言われ、安土桃山時代の1578年に下馬橋と共に造営された記録があるが、現在の建物は江戸中期のもの。1777年に秋宮の建替えを立川和四郎富棟が請負うことを知った高島藩御用の大隈流宮大工、村田長左衛門矩重が秋宮の半額以下で建替えを請け負った。秋宮の工事より遅れて始めたにも拘らず秋宮落成より約1年早く1779年(1780年と云う説もあり)に竣工した。左右片拝殿も同じ。<br /><br />幣拝殿は一間一戸の楼門造りで、屋根は切妻造平入の銅板葺(元は桧皮葺だった)、正面に軒唐波風をつけ、二階四方は吹き放ちとなっている。正面下には、飛末をあげる波から上層に向かって、水・空・地の構成で彫刻を配置している。虹梁上の牡丹花咲く岩野に戯れる親子獅子、木鼻の唐獅子、持送り牡丹、上層中央には二体の麒麟、若葉を彫る虹梁の上には雲をまく龍、側面の鶴と様々の彫刻に囲まれている。内部の桁には守護龍が巻きつく。両脇羽目の竹に雌雄の鶏、欄間の獅子等写生に徹した彫刻の美的構成は見事で。<br /><br />左右の片拝殿は桁行柱間5間、梁行同1間。屋根は棟を上げた片流招屋造で、正面側に屋根が長く裏面側は短くなっている。三面は吹き放ち、裏面に格子窓がはめてある。内部の宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造り。春宮は杉の木を御神木としている。<br /><br />幣拝殿・左右片拝殿の周りには、当然ここにも4本の御柱が建つが、写真にすごく写り込んでるようなひどい雨だったので、左片拝殿奥の三の御柱の写真は撮ってない。<br /><br />左片拝殿側に末社の子安社(下の写真2)が、右片拝殿側に摂社の若宮社と末社の上諏訪社(下の写真3)が鎮座している。子安社は建御名方神(たけみなかたのかみ)の母神、高志沼河姫(こしのぬなかはひめ)を祀る。若宮社は建御名方神の御子神十三柱を、上諏訪社は上社の祭神である建御名方神を祀る。<br /><br />子安社の南側には筒粥神事と云う、農作物の出来具合や世の中の吉凶を占う、諏訪大社の年中行事でも大事な行事が行われる筒粥殿がある。反対側、若宮社と上諏訪社の南には結びの杉。地上10m付近で二股に分かれているが、根元近くでは一緒になっていることから縁結びの杉と云われる。<br /><br />大雨に煙る結びの杉の南にある社務所(下の写真4)でお守り購入し、筒粥殿の横から境内の西側に出ると砥川が流れており、春宮の西側の浮島と云う中州に末社の浮島社がある。清め祓いの神を祀っており、6月30日の大祓式「夏越の祓い」はここで行なわれる。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられる。このお宮はどんな大水でも流されないと云う下社七不思議の一つになっているが、この日の川の様子もえげつなく、浮島の南端の石灯籠は流れていきそうだった(下の写真5)。<br /><br />砥川を浮島から西側に渡って少し上流に行くと万治の石仏がある。巨大な自然石の胴体にアンバランスな頭がちょこんと乗るユーモラスな風貌で、胸部に描かれた逆卍や雷、月や太陽などの記号がミステリアス。いや、これはユニークだわ。<br /><br />江戸初期の1657年、諏訪高島三代目藩主忠晴が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時のこと、石工がこの地にあった大きな石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立したのがこの石仏だと伝えられている。建立した願主が万治3年と刻まれていることから、万治の石仏と称されることになった。<br /><br />折り返して砥川を下って行き、浮島を過ぎると岡本太郎画伯揮毫の石碑。画伯が1974年にこの石仏と初めて対面した折に、カメラを持つ手を震わせながら「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛されたそうだ。<br /><br />砥川を浮島の南で右岸から左岸に渡り川沿いに少し下ると左手におんばしら館よいさ。2016年4月にオープンした、御柱祭に関する資料などを展示する施設。<br /><br />そして、おんばしら館よいさから大門通りに出て行ったところにあるのが下馬橋。今は無くなった御手洗川に架けられた屋根付きの反り橋。年に2回、遷座祭のお舟祭りの折、御霊代を運ぶ神輿はここを通る。どんなに身分の高い人もこの橋の前で馬や籠を降りて、参拝したと云う。下社で最も古い室町時代の建造物とされ、江戸中期の改修の記録が神社に残る。近年では1960年に檜皮葺から銅板葺に改修され、損傷した橋の踏み板が取り替えられた。<br /><br />下馬橋の少し南の左手に石碑群と力石がびっしり並んでいるところがある。石碑はかつては少し北にある明新館のところにあった行屋と呼ばれたお堂の庭にあったもので、元禄10年(1697年)の年号が記されたものもある。観世音の碑は天龍道人の書と伝えられる。力石は村の集会所の庭に置かれ、昭和の初期まで若者たちの力比べに使われたもので、重いものは60kg位あり民族的資料として貴重とのこと。<br /><br />そこから500mほど南に進むと春宮大門。春宮の一の鳥居で、高さ8.5mあり、1892年(明治25年)に建てられたもの。さらにこの大門の50m南には高さ6mの大灯籠があり、「奉納・諏訪宮」と「信陽・一之宮」が彫られている。江戸末期の1829年に山田金衛門により建てられたもので、市街化に伴い地元有志により現在地に移動されたそうだが、そう遠くない位置だったようだ。当時は灯籠に火が入ると諏訪湖からも見え、人々はこの灯火を目印にしたと伝えられている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7845258022210820&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />(22/9/2追加)全く思い出さなかったが、42年前の1979年の8月に家族で行ったことがあった。私が運転して行ったのだが、全然覚えてない・・・(下の写真6)。その時に秋宮にも行ってるので、二社四宮制覇は3年半前に果たしてたことも判明!<br /><br /><br />大門通りをさらに南に諏訪湖に向かうが、続く

長野 諏訪大社下社春宮(Lower Spring Shrine,Suwa-taisha,Shimosuwa,Nagano,JP)

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2021/08/14 - 2021/08/14

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年8月14日(土)11時前、旧中山道と竜の口の少し西で分かれて坂道を下ると大門通りに出る。国道20号線との交差点にある春宮大門から春宮春宮の大鳥居まで続く通り。かつては春宮の専用道路で、下社の大祝の金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場だった。通りに出るとすぐ右手に春宮の大鳥居が建ち、その左手前に手水舎がある(下の写真1)。

諏訪大社下社春宮は諏訪湖を挟んで二社四宮が鎮座する諏訪大社の一つで、毎年2月から7月末まで祭神が祀られるため、春宮と呼ばれている。これで、約3年半かけて二社四宮を制覇!(下の追記参照)

高さ8.2mあり、柱の太さが周囲2.1mの大鳥居は江戸初期の1675年に大坂から来た職人により建立されたもので、諏訪大社最古の石造物。柱頂と柱元が半径ずれた半ころびの均整のとれた構えは、まもなく350年を迎えるが微動だしていない。

鳥居を抜けて坂道を上がり境内に入ると秋宮同様に、境内の真ん中に神楽殿があり、その奥に幣拝殿・左右片拝殿、そしてさらにその奥に2棟の宝殿がある。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩によって計画された時に同じ絵図面が与えられたので、大きさこそ違うがその構造は全く同じで、両社は彫刻で競っている。参道の左側を歩き、御柱とは反対に逆時計回りに回るのが地元の皆さんの参拝ルートらしい。

神楽殿は江戸前期の天和年間(1681~1684年)に諏訪藩が寄進したものだが、その後修改築が幾度となくされており、最近では1936年に改修された。

幣拝殿は御門屋(みかどや)とも言われ、安土桃山時代の1578年に下馬橋と共に造営された記録があるが、現在の建物は江戸中期のもの。1777年に秋宮の建替えを立川和四郎富棟が請負うことを知った高島藩御用の大隈流宮大工、村田長左衛門矩重が秋宮の半額以下で建替えを請け負った。秋宮の工事より遅れて始めたにも拘らず秋宮落成より約1年早く1779年(1780年と云う説もあり)に竣工した。左右片拝殿も同じ。

幣拝殿は一間一戸の楼門造りで、屋根は切妻造平入の銅板葺(元は桧皮葺だった)、正面に軒唐波風をつけ、二階四方は吹き放ちとなっている。正面下には、飛末をあげる波から上層に向かって、水・空・地の構成で彫刻を配置している。虹梁上の牡丹花咲く岩野に戯れる親子獅子、木鼻の唐獅子、持送り牡丹、上層中央には二体の麒麟、若葉を彫る虹梁の上には雲をまく龍、側面の鶴と様々の彫刻に囲まれている。内部の桁には守護龍が巻きつく。両脇羽目の竹に雌雄の鶏、欄間の獅子等写生に徹した彫刻の美的構成は見事で。

左右の片拝殿は桁行柱間5間、梁行同1間。屋根は棟を上げた片流招屋造で、正面側に屋根が長く裏面側は短くなっている。三面は吹き放ち、裏面に格子窓がはめてある。内部の宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造り。春宮は杉の木を御神木としている。

幣拝殿・左右片拝殿の周りには、当然ここにも4本の御柱が建つが、写真にすごく写り込んでるようなひどい雨だったので、左片拝殿奥の三の御柱の写真は撮ってない。

左片拝殿側に末社の子安社(下の写真2)が、右片拝殿側に摂社の若宮社と末社の上諏訪社(下の写真3)が鎮座している。子安社は建御名方神(たけみなかたのかみ)の母神、高志沼河姫(こしのぬなかはひめ)を祀る。若宮社は建御名方神の御子神十三柱を、上諏訪社は上社の祭神である建御名方神を祀る。

子安社の南側には筒粥神事と云う、農作物の出来具合や世の中の吉凶を占う、諏訪大社の年中行事でも大事な行事が行われる筒粥殿がある。反対側、若宮社と上諏訪社の南には結びの杉。地上10m付近で二股に分かれているが、根元近くでは一緒になっていることから縁結びの杉と云われる。

大雨に煙る結びの杉の南にある社務所(下の写真4)でお守り購入し、筒粥殿の横から境内の西側に出ると砥川が流れており、春宮の西側の浮島と云う中州に末社の浮島社がある。清め祓いの神を祀っており、6月30日の大祓式「夏越の祓い」はここで行なわれる。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられる。このお宮はどんな大水でも流されないと云う下社七不思議の一つになっているが、この日の川の様子もえげつなく、浮島の南端の石灯籠は流れていきそうだった(下の写真5)。

砥川を浮島から西側に渡って少し上流に行くと万治の石仏がある。巨大な自然石の胴体にアンバランスな頭がちょこんと乗るユーモラスな風貌で、胸部に描かれた逆卍や雷、月や太陽などの記号がミステリアス。いや、これはユニークだわ。

江戸初期の1657年、諏訪高島三代目藩主忠晴が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時のこと、石工がこの地にあった大きな石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立したのがこの石仏だと伝えられている。建立した願主が万治3年と刻まれていることから、万治の石仏と称されることになった。

折り返して砥川を下って行き、浮島を過ぎると岡本太郎画伯揮毫の石碑。画伯が1974年にこの石仏と初めて対面した折に、カメラを持つ手を震わせながら「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛されたそうだ。

砥川を浮島の南で右岸から左岸に渡り川沿いに少し下ると左手におんばしら館よいさ。2016年4月にオープンした、御柱祭に関する資料などを展示する施設。

そして、おんばしら館よいさから大門通りに出て行ったところにあるのが下馬橋。今は無くなった御手洗川に架けられた屋根付きの反り橋。年に2回、遷座祭のお舟祭りの折、御霊代を運ぶ神輿はここを通る。どんなに身分の高い人もこの橋の前で馬や籠を降りて、参拝したと云う。下社で最も古い室町時代の建造物とされ、江戸中期の改修の記録が神社に残る。近年では1960年に檜皮葺から銅板葺に改修され、損傷した橋の踏み板が取り替えられた。

下馬橋の少し南の左手に石碑群と力石がびっしり並んでいるところがある。石碑はかつては少し北にある明新館のところにあった行屋と呼ばれたお堂の庭にあったもので、元禄10年(1697年)の年号が記されたものもある。観世音の碑は天龍道人の書と伝えられる。力石は村の集会所の庭に置かれ、昭和の初期まで若者たちの力比べに使われたもので、重いものは60kg位あり民族的資料として貴重とのこと。

そこから500mほど南に進むと春宮大門。春宮の一の鳥居で、高さ8.5mあり、1892年(明治25年)に建てられたもの。さらにこの大門の50m南には高さ6mの大灯籠があり、「奉納・諏訪宮」と「信陽・一之宮」が彫られている。江戸末期の1829年に山田金衛門により建てられたもので、市街化に伴い地元有志により現在地に移動されたそうだが、そう遠くない位置だったようだ。当時は灯籠に火が入ると諏訪湖からも見え、人々はこの灯火を目印にしたと伝えられている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7845258022210820&type=1&l=223fe1adec

(22/9/2追加)全く思い出さなかったが、42年前の1979年の8月に家族で行ったことがあった。私が運転して行ったのだが、全然覚えてない・・・(下の写真6)。その時に秋宮にも行ってるので、二社四宮制覇は3年半前に果たしてたことも判明!


大門通りをさらに南に諏訪湖に向かうが、続く

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  • 写真1 手水舎

    写真1 手水舎

  • 写真2 子安社

    写真2 子安社

  • 写真3 若宮社と上諏訪社

    写真3 若宮社と上諏訪社

  • 写真4 社務所

    写真4 社務所

  • 写真5 浮島 砥川合流地点

    写真5 浮島 砥川合流地点

  • 写真6 42年前の写真

    写真6 42年前の写真

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