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“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” <br />オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。<br /><br />期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅<br /><br />参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”<br />http://4travel.jp/travelogue/11027937<br /><br />7月23日(木)  朝は小雨、午後徐々に晴れる 17.5〜27.5℃  140km<br />Sonnenbuehl-Erpfingenゾンネンビュール・エルプフィンゲン =>L? 15km Lichtensteinリヒテンシュタイン=>B28 (Tuebingenテュービンゲン)・(Herrenbergヘレンベルク)=>A81・A8(Pleidelsheimプライデルスハイム)=>L? 91km Marbachマルバッハ=>(Bietigheimビーティックハイム)=>B27・L? 34km Neckarwestheim ネッカーヴェストハイム・Ringhotel Schloss Liebenstein古城ホテル リーベンシュタイン城<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城(2007年の旅で:天気が良かった)

黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅㉓中世の騎士への憧れから築城された可愛いリヒテンシュタイン城

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2015/04/17 - 2015/04/28

63位(同エリア472件中)

jijidaruma

jijidarumaさん

“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅

参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
http://4travel.jp/travelogue/11027937

7月23日(木)  朝は小雨、午後徐々に晴れる 17.5〜27.5℃  140km
Sonnenbuehl-Erpfingenゾンネンビュール・エルプフィンゲン =>L? 15km Lichtensteinリヒテンシュタイン=>B28 (Tuebingenテュービンゲン)・(Herrenbergヘレンベルク)=>A81・A8(Pleidelsheimプライデルスハイム)=>L? 91km Marbachマルバッハ=>(Bietigheimビーティックハイム)=>B27・L? 34km Neckarwestheim ネッカーヴェストハイム・Ringhotel Schloss Liebenstein古城ホテル リーベンシュタイン城

写真はリヒテンシュタイン城(2007年の旅で:天気が良かった)

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ルフトハンザドイツ航空 ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • *朝食はWintergartenn(冬の園・温室)で7:30〜8:15。朝食後はいつもの様にホテルの周辺や庭を散策する。<br /><br />9:00チェックアウト。<br /><br />出発日は朝から雨で17.5℃と昨日とは様変わりの天候になった。<br /><br />写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の正面

    *朝食はWintergartenn(冬の園・温室)で7:30〜8:15。朝食後はいつもの様にホテルの周辺や庭を散策する。

    9:00チェックアウト。

    出発日は朝から雨で17.5℃と昨日とは様変わりの天候になった。

    写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の正面

  • 写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の看板

    写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の看板

  • 写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の朝食:Wintergartenヴィンターガルテン(温室)にて

    写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の朝食:Wintergartenヴィンターガルテン(温室)にて

  • 写真はWintergartenヴィンターガルテン(温室)前の庭

    写真はWintergartenヴィンターガルテン(温室)前の庭

  • 写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の横・・・こちらの一階にグルメレストランがあり、裏手には車を置いた駐車場がある。

    写真はロマンチックホテル ヒルシュ(鹿)の横・・・こちらの一階にグルメレストランがあり、裏手には車を置いた駐車場がある。

  • 小降りだが、折角の名城リヒテンシュタイン城が雨だと・・困ったなと思いながらReutlingenロイトリンゲン(人口11万人とこのあたりでは一番の都市だが、一度もここは訪れたことが無い。)に向かって走る。<br /><br />途中、リヒテンシュタイン城の案内を見て左折し、山中に上がっていく。<br />8年ぶりになる城の見覚えのある駐車場に入る。バスが泊まっていたものの、乗用車が少なく、近くの森林公園にあるアスレチック施設を利用する者や、校外学習の子供たちは多いが、あまり個人の観光者がいないようだ。<br /><br />ゾンネンビュール・エルプフィンゲンからは15km、9:30には到着した。<br /><br />写真はLichtenstein,_Wilhelm_Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説リヒテンシュタイン1826年の表紙

    小降りだが、折角の名城リヒテンシュタイン城が雨だと・・困ったなと思いながらReutlingenロイトリンゲン(人口11万人とこのあたりでは一番の都市だが、一度もここは訪れたことが無い。)に向かって走る。

    途中、リヒテンシュタイン城の案内を見て左折し、山中に上がっていく。
    8年ぶりになる城の見覚えのある駐車場に入る。バスが泊まっていたものの、乗用車が少なく、近くの森林公園にあるアスレチック施設を利用する者や、校外学習の子供たちは多いが、あまり個人の観光者がいないようだ。

    ゾンネンビュール・エルプフィンゲンからは15km、9:30には到着した。

    写真はLichtenstein,_Wilhelm_Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説リヒテンシュタイン1826年の表紙

  • Lichtensteinリヒテンシュタイン:  <br /><br />9:30〜11:15 駐車料Euro2(278円)<br /><br />2007年4月28日、シュヴァーベン地方の素晴らしい名城群巡りでSchloss Sigmaringenジクマリンゲン城、Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)と共に、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪れた。<br /><br />其々の口コミは以下に;<br />リヒテンシュタイン城<br />http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/the_other_spots_of_germany/tips/11793188/<br /><br />ホーエンツォレルン城<br />http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany-baden_wurttemberg/kankospot/10265599/tips/11787385/<br /><br />ジクマリンゲン城<br />http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany-baden_wurttemberg/kankospot/10265592/tips/11775455/<br /><br />写真はStamps_of_Germany_(Berlin)_1982,リヒテンシュタイン城の郵便切手1982年

    Lichtensteinリヒテンシュタイン:  

    9:30〜11:15 駐車料Euro2(278円)

    2007年4月28日、シュヴァーベン地方の素晴らしい名城群巡りでSchloss Sigmaringenジクマリンゲン城、Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)と共に、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪れた。

    其々の口コミは以下に;
    リヒテンシュタイン城
    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/the_other_spots_of_germany/tips/11793188/

    ホーエンツォレルン城
    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany-baden_wurttemberg/kankospot/10265599/tips/11787385/

    ジクマリンゲン城
    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany-baden_wurttemberg/kankospot/10265592/tips/11775455/

    写真はStamps_of_Germany_(Berlin)_1982,リヒテンシュタイン城の郵便切手1982年

  • 今回の旅では「ジクマリンゲン城」はボイロン僧院見物の帰途、時間のないまま、ジクマリンゲンの町を通過した。<br /><br />「ホーエンツォレルン城」はリヒテンシュタイン城から西におよそ45km、美しい円錐状の山の頂上に見える。11世紀に建てられたホーエンツォレルン家のもので、プロイセン国王やドイツ皇帝も輩出した名城です。今回の旅でも近くを走るが2度訪れたこともあり、今回は見送った。<br /><br />ホーエンツォレルン城はノイシュバンシュタイン、ハイデルベルクと並ぶドイツ3大名城の一つと称されているそうだが、何をもって名城というのかは、意見が分かれるところだろう。<br /><br />因みに「ヨーロッパ100名城」(日本城郭協会の選定)にはハイデルベルク城が選ばれているが、上記の2城の名はなく、選考基準が理解できない。<br /><br />写真は可愛らしいリヒテンシュタイン城(2007年に訪れた時の写真)

    今回の旅では「ジクマリンゲン城」はボイロン僧院見物の帰途、時間のないまま、ジクマリンゲンの町を通過した。

    「ホーエンツォレルン城」はリヒテンシュタイン城から西におよそ45km、美しい円錐状の山の頂上に見える。11世紀に建てられたホーエンツォレルン家のもので、プロイセン国王やドイツ皇帝も輩出した名城です。今回の旅でも近くを走るが2度訪れたこともあり、今回は見送った。

    ホーエンツォレルン城はノイシュバンシュタイン、ハイデルベルクと並ぶドイツ3大名城の一つと称されているそうだが、何をもって名城というのかは、意見が分かれるところだろう。

    因みに「ヨーロッパ100名城」(日本城郭協会の選定)にはハイデルベルク城が選ばれているが、上記の2城の名はなく、選考基準が理解できない。

    写真は可愛らしいリヒテンシュタイン城(2007年に訪れた時の写真)

  • <Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城> :⑰番目の城<br /><br />10:15~45、入場料Euro12(1,671円)<br />開館;4月~10月毎日、9時~17時半 。<br /><br />D-72805 Lichtenstein<br />http://www.schloss-lichtenstein.de/<br />https://www.youtube.com/watch?v=2zhxj06jo-4<br /><br />今年もリヒテンシュタイン城に来たくて、近くのホテルを見つけた。幸い鄙には稀な、ミシュラン1星のオーナーシェフが経営するホテルだった。<br /><br />この日は朝方から小雨も城に行ったときは晴れてきましたが、撮ってみた写真は今一つでした。写真を比べてみると2007年の方が天気は良かった。<br /><br />写真は駐車場からリヒテンシュタイン城への道を歩く。

    <Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城> :⑰番目の城

    10:15~45、入場料Euro12(1,671円)
    開館;4月~10月毎日、9時~17時半 。

    D-72805 Lichtenstein
    http://www.schloss-lichtenstein.de/
    https://www.youtube.com/watch?v=2zhxj06jo-4

    今年もリヒテンシュタイン城に来たくて、近くのホテルを見つけた。幸い鄙には稀な、ミシュラン1星のオーナーシェフが経営するホテルだった。

    この日は朝方から小雨も城に行ったときは晴れてきましたが、撮ってみた写真は今一つでした。写真を比べてみると2007年の方が天気は良かった。

    写真は駐車場からリヒテンシュタイン城への道を歩く。

  • 緩やかなスロープを上っていくと、木々の先に城門に付随した建物が現れ、第一の城門をくぐると切符売り場がある。<br /><br />ここでは切符売り場で城内の案内書(日本語!)を貸してくれる。その際保証金Euro2をとるが、案内書を返却すると返金される仕組みだ。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城の城門を這入った所、左手先に切符売り場がある。<br />

    緩やかなスロープを上っていくと、木々の先に城門に付随した建物が現れ、第一の城門をくぐると切符売り場がある。

    ここでは切符売り場で城内の案内書(日本語!)を貸してくれる。その際保証金Euro2をとるが、案内書を返却すると返金される仕組みだ。

    写真はリヒテンシュタイン城の城門を這入った所、左手先に切符売り場がある。

  • ガイドの時間を聞くと、10:15からだと言う。まだ30分もあるので、直ぐ近くだと言う夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの記念碑を見に行くことにした。<br /><br />作家ハウフの記念碑はリヒテンシュタイン城に対面するような形で、岩壁上に彼の胸像が建てられていた。歴史小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』が出版された1826年から丁度100年を記念して、1926年に建てられたようだ。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・城を望んだヴィルヘルム・ハウフの胸像(出版100年記念碑)

    ガイドの時間を聞くと、10:15からだと言う。まだ30分もあるので、直ぐ近くだと言う夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの記念碑を見に行くことにした。

    作家ハウフの記念碑はリヒテンシュタイン城に対面するような形で、岩壁上に彼の胸像が建てられていた。歴史小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』が出版された1826年から丁度100年を記念して、1926年に建てられたようだ。

    写真はリヒテンシュタイン城・城を望んだヴィルヘルム・ハウフの胸像(出版100年記念碑)

  • その近くに、その小説を読んでリヒテンシュタイン城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯の3m近い大きな顕彰碑が立っていた。<br /><br />紋章の下に、伯爵のシュヴェービッシュ・アルプ地方の友人たちが1902〜3年にこれを建てたと碑文に記されていた。<br />同時にこの地域は数百万年も前にジュラ紀の海底が隆起した土地で、化石の発掘において世界的に知られた所だそうだが、それらの説明文も添えられていた。<br /><br />城外の少し離れたこの場所は初めて見るもので、以前の旅ではハウフの存在すら知らなかったという事になります。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・Wilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のWilhelm I. Herzog von Urachヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の顕彰碑

    その近くに、その小説を読んでリヒテンシュタイン城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯の3m近い大きな顕彰碑が立っていた。

    紋章の下に、伯爵のシュヴェービッシュ・アルプ地方の友人たちが1902〜3年にこれを建てたと碑文に記されていた。
    同時にこの地域は数百万年も前にジュラ紀の海底が隆起した土地で、化石の発掘において世界的に知られた所だそうだが、それらの説明文も添えられていた。

    城外の少し離れたこの場所は初めて見るもので、以前の旅ではハウフの存在すら知らなかったという事になります。

    写真はリヒテンシュタイン城・Wilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のWilhelm I. Herzog von Urachヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の顕彰碑

  • 戻って再び門をくぐり、左手に付随した建物Fuerstenbaus侯爵の館(1901年)や、面白い格好をした小人(妖精)のような像がベンチ下に隠れるように置かれていた。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・Fuerstenbaus侯爵の館

    戻って再び門をくぐり、左手に付随した建物Fuerstenbaus侯爵の館(1901年)や、面白い格好をした小人(妖精)のような像がベンチ下に隠れるように置かれていた。

    写真はリヒテンシュタイン城・Fuerstenbaus侯爵の館

  • 写真はリヒテンシュタイン城・小人(妖精)のような像

    写真はリヒテンシュタイン城・小人(妖精)のような像

  • 写真はリヒテンシュタイン城の縄張り図:右手に橋、中央下に円塔、左に“Erkerzimmer張り出しの間”がある。

    写真はリヒテンシュタイン城の縄張り図:右手に橋、中央下に円塔、左に“Erkerzimmer張り出しの間”がある。

  • 左の先に円筒の白い塔があり、深い堀で隔てた城郭が見える。木造の短い橋があり、その先に小さな城門がある。<br /><br /><br />写真はリヒテンシュタイン城を塔側から撮った

    左の先に円筒の白い塔があり、深い堀で隔てた城郭が見える。木造の短い橋があり、その先に小さな城門がある。


    写真はリヒテンシュタイン城を塔側から撮った

  • 小さな飾りの塔も幾つか見え、緑の谷から垂直な、自然の岩山に可愛い城が立っている。<br /><br />岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所だろうと推測したが、その上に建てられた城はとても絵になる立ち姿である<br /><br /><リヒテンシュタイン城の歴史><br /><br />Burg Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城はこの新リヒテンシュタイン城から南に500m程行った所に建てられた。今も城址が残る。<br /><br />1100年頃から騎士領主リヒテンシュタイン家はここを発祥の地としていた。その後、力を付けた帝国都市ロイトリンゲンにより1311年と1377年の二度、攻め落とされている。<br /><br />現在のリヒテンシュタイン城の地に、1180年、Gebhard von Lichtensteinゲプハルト・リヒテンシュタインにより、城砦が築かれた。<br /><br />1388年、Graf von Wuerttembergヴュルテンベルグ伯がこれを所有した。1687年オスマントルコ軍との戦いで落城し、その後の長い間はほったらかしになってしまう。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城(2015年の写真は曇天で残念だが)

    小さな飾りの塔も幾つか見え、緑の谷から垂直な、自然の岩山に可愛い城が立っている。

    岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所だろうと推測したが、その上に建てられた城はとても絵になる立ち姿である

    <リヒテンシュタイン城の歴史>

    Burg Alt Lichtenstein旧リヒテンシュタイン城はこの新リヒテンシュタイン城から南に500m程行った所に建てられた。今も城址が残る。

    1100年頃から騎士領主リヒテンシュタイン家はここを発祥の地としていた。その後、力を付けた帝国都市ロイトリンゲンにより1311年と1377年の二度、攻め落とされている。

    現在のリヒテンシュタイン城の地に、1180年、Gebhard von Lichtensteinゲプハルト・リヒテンシュタインにより、城砦が築かれた。

    1388年、Graf von Wuerttembergヴュルテンベルグ伯がこれを所有した。1687年オスマントルコ軍との戦いで落城し、その後の長い間はほったらかしになってしまう。

    写真はリヒテンシュタイン城(2015年の写真は曇天で残念だが)

  • 1837年、ヴュルテンベルク王国(首都はシュトゥットガルト)の王族であったWilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のWilhelm I. Herzog von Urachヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)は父から譲られたこの地に、簡単な狩りの為の、且つ森林監督官の館を建てた。<br /><br />その後、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826年)に憧れを抱き、1840〜42年にかけて、中世の趣むきをもったロマンチックなドイツの騎士の城をシュヴェービッシュ・アルプの断崖上に築城した。<br /><br />戦災から免れたリヒテンシュタイン城はヴィルヘルム公の家系に繋がるUrachウラッハ公爵が現在も私有している。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城から眼下の町を望む

    1837年、ヴュルテンベルク王国(首都はシュトゥットガルト)の王族であったWilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のWilhelm I. Herzog von Urachヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)は父から譲られたこの地に、簡単な狩りの為の、且つ森林監督官の館を建てた。

    その後、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826年)に憧れを抱き、1840〜42年にかけて、中世の趣むきをもったロマンチックなドイツの騎士の城をシュヴェービッシュ・アルプの断崖上に築城した。

    戦災から免れたリヒテンシュタイン城はヴィルヘルム公の家系に繋がるUrachウラッハ公爵が現在も私有している。

    写真はリヒテンシュタイン城から眼下の町を望む

  • 眼下の谷間を埋める赤い屋根の家々が見え、少し雲が湧き、湿った空気が流れていく。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城の岸壁からの眺望

    眼下の谷間を埋める赤い屋根の家々が見え、少し雲が湧き、湿った空気が流れていく。

    写真はリヒテンシュタイン城の岸壁からの眺望

  • 右手を少し行くと、丸い稜堡があり、中をのぞくと大小の大砲や丸い弾丸が置かれていた。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・丸い稜堡

    右手を少し行くと、丸い稜堡があり、中をのぞくと大小の大砲や丸い弾丸が置かれていた。

    写真はリヒテンシュタイン城・丸い稜堡

  • 写真はリヒテンシュタイン城・稜堡内の大砲など

    写真はリヒテンシュタイン城・稜堡内の大砲など

  • 写真はリヒテンシュタイン城とハウフの絵葉書<br /><br />尚、25歳という若さで亡くなった作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの童話作品等については次の項で書いた。<br /><br />黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅<br />①シュペッサートの森の盗賊宿?の一夜<br />http://4travel.jp/travelogue/11040924

    写真はリヒテンシュタイン城とハウフの絵葉書

    尚、25歳という若さで亡くなった作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの童話作品等については次の項で書いた。

    黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅
    ①シュペッサートの森の盗賊宿?の一夜
    http://4travel.jp/travelogue/11040924

  • 相当な山奥にこんな小さな、可愛い城を見るのは楽しい。<br /><br />が、このリヒテンシュタイン城は19世紀半ば、海抜822m、谷底から255mの高さの岩壁上に、ヴュルテンベルグ伯が中世の騎士への憧れから築城したものだから、軍事的意味が全く無い代物だ。<br /><br />憧れで建てた城と言えば、南ドイツのバイエルンにある新白鳥城が頭に浮かんでくる。 <br /><br />写真はリヒテンシュタイン城の入口と橋

    相当な山奥にこんな小さな、可愛い城を見るのは楽しい。

    が、このリヒテンシュタイン城は19世紀半ば、海抜822m、谷底から255mの高さの岩壁上に、ヴュルテンベルグ伯が中世の騎士への憧れから築城したものだから、軍事的意味が全く無い代物だ。

    憧れで建てた城と言えば、南ドイツのバイエルンにある新白鳥城が頭に浮かんでくる。 

    写真はリヒテンシュタイン城の入口と橋

  • 城内見学: <br /><br />ガイド付きの見学は30分、以前はそうではなかったが今はカメラ撮影が不可です。<br />ガイドに案内されて、小学生の課外授業のグループと共に深い堀にかけられた短い木造の橋を渡って、城の小さな中庭に至る。<br /><br />ここで概略の説明がある。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城内の小さな広場

    城内見学: 

    ガイド付きの見学は30分、以前はそうではなかったが今はカメラ撮影が不可です。
    ガイドに案内されて、小学生の課外授業のグループと共に深い堀にかけられた短い木造の橋を渡って、城の小さな中庭に至る。

    ここで概略の説明がある。

    写真はリヒテンシュタイン城内の小さな広場

  • ①“Waffenhalle武器の間”<br /><br />1階にはまず、“武器の間”があり、Wilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯が旅の際に蒐集した中世の武器類が展示されている。<br /><br />入口近くには30年戦争時代の銃が陳列されていて、この大きな、重い銃は二人係りで使用したと云う。その他にはピストル、儀典用の銃、17世紀の弓、中世時代の兵隊が使用した鉾槍、斧もある。<br /><br />中でも特筆するのは1m93cmの長身だったWilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯の甲冑がある事だろう。1846年の騎士祭りの際に彼はこれを着用したそうだ。<br />入口横の肖像画は1347年に亡くなった皇帝LudwigⅣルートヴィヒ4世のもの。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・①“Waffenhalle武器の間”

    ①“Waffenhalle武器の間”

    1階にはまず、“武器の間”があり、Wilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯が旅の際に蒐集した中世の武器類が展示されている。

    入口近くには30年戦争時代の銃が陳列されていて、この大きな、重い銃は二人係りで使用したと云う。その他にはピストル、儀典用の銃、17世紀の弓、中世時代の兵隊が使用した鉾槍、斧もある。

    中でも特筆するのは1m93cmの長身だったWilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯の甲冑がある事だろう。1846年の騎士祭りの際に彼はこれを着用したそうだ。
    入口横の肖像画は1347年に亡くなった皇帝LudwigⅣルートヴィヒ4世のもの。

    写真はリヒテンシュタイン城・①“Waffenhalle武器の間”

  • ②“Schlosskapelle城内礼拝堂”<br /><br />ここではウラッハ公爵家の日曜ミサが行われていた。規模は勿論小さいけれども、“礼拝堂”には15~6世紀のステンドグラスが目を引く。<br /><br />写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

    ②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

    ここではウラッハ公爵家の日曜ミサが行われていた。規模は勿論小さいけれども、“礼拝堂”には15~6世紀のステンドグラスが目を引く。

    写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

  • 聖母マリアの死、聖母マリアのお告げ、キリスト誕生が描かれている。祭壇の左右にドイツルネサンス期の画家、版画家、数学者Albrecht Duererアルブレヒト・デューラーの先生だった方の絵(15世紀後半)がある。<br /><br />写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

    聖母マリアの死、聖母マリアのお告げ、キリスト誕生が描かれている。祭壇の左右にドイツルネサンス期の画家、版画家、数学者Albrecht Duererアルブレヒト・デューラーの先生だった方の絵(15世紀後半)がある。

    写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

  • 何故ここにあるのかはわからないが、天井には7つの“要石かなめいし”の装飾が美しく、ニュルンベルクのSt.LorenzKircheローレンス教会にあるもののレプリカだそうです。<br /><br />写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

    何故ここにあるのかはわからないが、天井には7つの“要石かなめいし”の装飾が美しく、ニュルンベルクのSt.LorenzKircheローレンス教会にあるもののレプリカだそうです。

    写真は②“Schlosskapelle城内礼拝堂”

  • ③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”<br /><br />トリンクシュツーベは食事や宴会が行われた場。狩りの絵が壁に描かれていることで“狩人の部屋”とも云われる。<br /><br />狩りの後、獲物自慢で賑やかに酒量が上がる様子が目に浮かぶようである。この部屋には16世紀の木製の時計、ボヘミア地方のガラス細工がある。<br /><br />写真は③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”

    ③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”

    トリンクシュツーベは食事や宴会が行われた場。狩りの絵が壁に描かれていることで“狩人の部屋”とも云われる。

    狩りの後、獲物自慢で賑やかに酒量が上がる様子が目に浮かぶようである。この部屋には16世紀の木製の時計、ボヘミア地方のガラス細工がある。

    写真は③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”

  • やはりここでも特筆するのは城主様の身長と同じ1m93cmのシャパングラスだろう。<br />このグラスにはなんと3本のシャパンが入ると云う。<br /><br />そしてこのグラスで飲むのに3人が必要だと・・・グラスを抱え上げる人、飲み干す人、飲み干す人を支える人の3人だ。<br /><br />写真は③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”

    やはりここでも特筆するのは城主様の身長と同じ1m93cmのシャパングラスだろう。
    このグラスにはなんと3本のシャパンが入ると云う。

    そしてこのグラスで飲むのに3人が必要だと・・・グラスを抱え上げる人、飲み干す人、飲み干す人を支える人の3人だ。

    写真は③“Trinkstubeトリンクシュツーベ:Jaegerstubeイエガーシュツーベ”

  • 写真はSchloss Lichtenstein Trinkstube_リヒテンシュタイン城・かつてのTrinkstubeトリンクシュツーベ・・・この写真と上の写真では少々変わっている。

    写真はSchloss Lichtenstein Trinkstube_リヒテンシュタイン城・かつてのTrinkstubeトリンクシュツーベ・・・この写真と上の写真では少々変わっている。

  • ④“Koenigszimmer王の間”<br /><br />先祖の胸像があるWendeltreppe螺旋階段を2階に上がると“王の間”になる。<br />まだ城が狩猟の館であった頃、ヴュルテンベルク王国初代国王Friedrich I. Wilhelm Karl von Wuerttembergフリードリヒ1世・ヴィルヘルム・カール・ヴュルテンベルグ(1754~1816年、在位:1805~1816年)が宿泊したことに由来する。<br /><br />この部屋にはご先祖様24人の絵が飾られているが、この城にとって大事なのは2人の城主の絵であろう。<br /><br />一人は現在の城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)である。シュヴァーベンの連合軍に追われたヴィルヘルムが、昼間は4km離れた鍾乳洞に身を隠し、夜はこの城にやってきて世話を受けたと云う。<br /><br />写真は④“Koenigszimmer王の間”:Wilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の肖像画

    ④“Koenigszimmer王の間”

    先祖の胸像があるWendeltreppe螺旋階段を2階に上がると“王の間”になる。
    まだ城が狩猟の館であった頃、ヴュルテンベルク王国初代国王Friedrich I. Wilhelm Karl von Wuerttembergフリードリヒ1世・ヴィルヘルム・カール・ヴュルテンベルグ(1754~1816年、在位:1805~1816年)が宿泊したことに由来する。

    この部屋にはご先祖様24人の絵が飾られているが、この城にとって大事なのは2人の城主の絵であろう。

    一人は現在の城を建てたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)である。シュヴァーベンの連合軍に追われたヴィルヘルムが、昼間は4km離れた鍾乳洞に身を隠し、夜はこの城にやってきて世話を受けたと云う。

    写真は④“Koenigszimmer王の間”:Wilhelm Graf von Wuerttembergヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の肖像画

  • もう一人は“Eberhard im Bartエーバーハルト髭公”の異名で人気の高かったEberhard 1. von Wuerttembergエーバーハルト1世・初代ヴュルテンベルク公(1445~1496年、在位:1495~1496年)である。<br />公爵に昇格するまではGraf Eberhard V. von Wuerttemberg-Urachヴュルテンベルク・ウラッハ伯エーバーハルト5世であった。<br /><br />エーバーハルト1世(エーバーハルト5世)は1477年、テュービンゲン大学を創設した。同時代人達からもエーバーハルト1世は学識者として評判が高かったが、19・20世紀のドイツの愛国主義的な歴史著述家たちはエーバーハルト1世を好んで美化したと云う。<br /><br />ヴァルハラ神殿(注:ヴァルハラ神殿は「賞賛に値する著名なドイツ人」の殿堂である。<br />ドイツ語を母語とするドイツ史上の有名人、すなわち政治家、支配者、科学者、芸術家などを祭った、レーゲンスブルクの東のドナウ川岸の丘にある新古典主義の建物)には、そうそうたるメンバーに交じって彼の胸像が置かれている。・・・この事については知らなかったのだが。<br /><br />詩人ユスティヌス・ケルナーはシュヴァーベンへの頌歌「Preisend mit viel schoenen Reden」において、「エーバーハルト髭公はヴュルテンベルク人に愛されし支配者であった」としている。<br />ヴュルテンベルク人の愛郷歌となっているこの歌では、「賛辞で褒め称えよう・・から始まり、あなたの国は宝石の首飾りをしている・・で終わる」のだと云う。<br /><br />エーバーハルト1世は並みいるドイツ諸侯の中で最も富裕で、また命や財産を奪われることなど気にせずどの領民の膝の上にでも自分の頭を置いて休むことができた、としている。<br />エーバーハルト1世はヴュルテンベルクの最も優れた統治者の一人だったと。<br /><br />写真は④“Koenigszimmer王の間”:“Eberhard im Bartエーバーハルト髭公”の肖像画

    もう一人は“Eberhard im Bartエーバーハルト髭公”の異名で人気の高かったEberhard 1. von Wuerttembergエーバーハルト1世・初代ヴュルテンベルク公(1445~1496年、在位:1495~1496年)である。
    公爵に昇格するまではGraf Eberhard V. von Wuerttemberg-Urachヴュルテンベルク・ウラッハ伯エーバーハルト5世であった。

    エーバーハルト1世(エーバーハルト5世)は1477年、テュービンゲン大学を創設した。同時代人達からもエーバーハルト1世は学識者として評判が高かったが、19・20世紀のドイツの愛国主義的な歴史著述家たちはエーバーハルト1世を好んで美化したと云う。

    ヴァルハラ神殿(注:ヴァルハラ神殿は「賞賛に値する著名なドイツ人」の殿堂である。
    ドイツ語を母語とするドイツ史上の有名人、すなわち政治家、支配者、科学者、芸術家などを祭った、レーゲンスブルクの東のドナウ川岸の丘にある新古典主義の建物)には、そうそうたるメンバーに交じって彼の胸像が置かれている。・・・この事については知らなかったのだが。

    詩人ユスティヌス・ケルナーはシュヴァーベンへの頌歌「Preisend mit viel schoenen Reden」において、「エーバーハルト髭公はヴュルテンベルク人に愛されし支配者であった」としている。
    ヴュルテンベルク人の愛郷歌となっているこの歌では、「賛辞で褒め称えよう・・から始まり、あなたの国は宝石の首飾りをしている・・で終わる」のだと云う。

    エーバーハルト1世は並みいるドイツ諸侯の中で最も富裕で、また命や財産を奪われることなど気にせずどの領民の膝の上にでも自分の頭を置いて休むことができた、としている。
    エーバーハルト1世はヴュルテンベルクの最も優れた統治者の一人だったと。

    写真は④“Koenigszimmer王の間”:“Eberhard im Bartエーバーハルト髭公”の肖像画

  • ⑤“Wappenzimmer紋章の間”<br /><br />“紋章の間”にはヴュルテンベルグの最初の伯爵から最初の公爵までの紋章がある。<br />ドアの左側に様々な絵画が掛けられているが、これらはシュヴァーベン派の画家たちの作品で、氏名は不詳だ。右にはロシ皇帝から贈られた4つの孔雀石が陳列されている。<br /><br />写真はRittersaalリヒテンシュタイン城・かつての騎士の間

    ⑤“Wappenzimmer紋章の間”

    “紋章の間”にはヴュルテンベルグの最初の伯爵から最初の公爵までの紋章がある。
    ドアの左側に様々な絵画が掛けられているが、これらはシュヴァーベン派の画家たちの作品で、氏名は不詳だ。右にはロシ皇帝から贈られた4つの孔雀石が陳列されている。

    写真はRittersaalリヒテンシュタイン城・かつての騎士の間

  • ⑥“Erkerzimmer張り出しの間”<br /><br />張り出し窓の如く突出した部屋で、16世紀の裁縫箱、19世紀のソファーが見られ、驚いたことにデスマスクがある。<br /><br />ゲーテ、シラーの文人、ナポレオン皇帝、詩人Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント、そしてこの城で亡くなったヴィルヘルム1世のデスマスクである。<br /><br />注;ルートヴィヒ・ウーラント(1787~1862年)<br />ドイツ・ロマン派(シュヴァーベン派のリーダー)の詩人、弁護士、政治家、大学教授。<br />テュービンゲンに生まれ、テュービンゲン大学で法律を学び弁護士となり,議員にも選出された。民謡風の抒情詩、バラードで有名である。<br /><br />参考;「春の想い &quot;Fruehlingsglaube&quot;」は1820年、シューベルトが23歳の折にルートヴィヒ・ウーラントの詩に作曲をした作品ですが、この曲は「12の歌曲」の第7曲目として作曲されました。<br /><br />詩の内容は、自然の生命の息吹が感じられる「春」に、惧れを持つことなく自身も新たに生命の胎動、人生の歩みを始めていこうとする詩人ー「おおみずみずしい香り、おお新しい響き! さあ、あわれな心よ、怖れるな! 今やすべて、すべてが移り変わるのだ」ーのこころを謳い上げた作品ですが、ここでの詩人のこころとは若き作曲家シューベルト自身のこころそのものでもあります!<br />http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/64760668.html<br /><br />Fruehlingsglaube (D686)春の想い  Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント作詞<br /><br />Die linden Lufte sind erwacht,      快い風が吹き起こる。<br />Sie saeuseln und weben Tag und Nacht,   それは昼と夜とざわめきそよぐ。<br />Sie schaffen an allen Enden.            風はあらゆる隅で吹いている。<br />O frischer Dufte, o neuer klang!         おおみずみずしい香り、おお新しい響き!<br />Nun, armes Herze, sei nicht bang!       さあ、あわれな心よ、怖れるな!<br />Nun muss sich alles, alles wenden.     今やすべて、すべてが移り変わるのだ。<br />Die Welt wird sch?・ner mit jedem Tag,   世界は日々美しくなっていく。<br />Man weiss nicht, was noch werden mag,   この先どうなるかなどは分からない。<br />Das Bluehen will nicht enden;       だが花が終わることはないだろう。<br />Es blueht das fernste, tiefste Tal:     遥か彼方の遥か深い谷にも花は咲くのだから。<br />Nun, armes Herz, vergiss der Qual!    さあ、あわれな心よ、苦しみを忘れろ!<br />Nun muss sich alles, alles wenden.     今やすべて、すべてが移り変わるのだ。<br /><br />写真は騎士の間のLeuchterweibchen婦人の燭台

    ⑥“Erkerzimmer張り出しの間”

    張り出し窓の如く突出した部屋で、16世紀の裁縫箱、19世紀のソファーが見られ、驚いたことにデスマスクがある。

    ゲーテ、シラーの文人、ナポレオン皇帝、詩人Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント、そしてこの城で亡くなったヴィルヘルム1世のデスマスクである。

    注;ルートヴィヒ・ウーラント(1787~1862年)
    ドイツ・ロマン派(シュヴァーベン派のリーダー)の詩人、弁護士、政治家、大学教授。
    テュービンゲンに生まれ、テュービンゲン大学で法律を学び弁護士となり,議員にも選出された。民謡風の抒情詩、バラードで有名である。

    参考;「春の想い "Fruehlingsglaube"」は1820年、シューベルトが23歳の折にルートヴィヒ・ウーラントの詩に作曲をした作品ですが、この曲は「12の歌曲」の第7曲目として作曲されました。

    詩の内容は、自然の生命の息吹が感じられる「春」に、惧れを持つことなく自身も新たに生命の胎動、人生の歩みを始めていこうとする詩人ー「おおみずみずしい香り、おお新しい響き! さあ、あわれな心よ、怖れるな! 今やすべて、すべてが移り変わるのだ」ーのこころを謳い上げた作品ですが、ここでの詩人のこころとは若き作曲家シューベルト自身のこころそのものでもあります!
    http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/64760668.html

    Fruehlingsglaube (D686)春の想い Ludwig Uhlandルートヴィヒ・ウーラント作詞

    Die linden Lufte sind erwacht,      快い風が吹き起こる。
    Sie saeuseln und weben Tag und Nacht,  それは昼と夜とざわめきそよぐ。
    Sie schaffen an allen Enden.  風はあらゆる隅で吹いている。
    O frischer Dufte, o neuer klang!   おおみずみずしい香り、おお新しい響き!
    Nun, armes Herze, sei nicht bang!  さあ、あわれな心よ、怖れるな!
    Nun muss sich alles, alles wenden. 今やすべて、すべてが移り変わるのだ。
    Die Welt wird sch?・ner mit jedem Tag,   世界は日々美しくなっていく。
    Man weiss nicht, was noch werden mag, この先どうなるかなどは分からない。
    Das Bluehen will nicht enden;       だが花が終わることはないだろう。
    Es blueht das fernste, tiefste Tal:     遥か彼方の遥か深い谷にも花は咲くのだから。
    Nun, armes Herz, vergiss der Qual!    さあ、あわれな心よ、苦しみを忘れろ!
    Nun muss sich alles, alles wenden.     今やすべて、すべてが移り変わるのだ。

    写真は騎士の間のLeuchterweibchen婦人の燭台

  • ⑦“Rittersaal騎士の間”<br /><br />城一番に美しい大きな騎士の間は“祝宴の間”として利用された。<br />パイプオルガンがあり、木の壁、天井、窓枠のアーチと美しく描かれている。<br />当時の有名肖像画家Stirnbrandシュツルンブランドの作品・築城者Wilhelmヴィルヘルム公の等身大の絵がかかっていた。<br /><br />写真は2015.07.23.Schloss Lichtenstein_Rittersaal:騎士の間

    ⑦“Rittersaal騎士の間”

    城一番に美しい大きな騎士の間は“祝宴の間”として利用された。
    パイプオルガンがあり、木の壁、天井、窓枠のアーチと美しく描かれている。
    当時の有名肖像画家Stirnbrandシュツルンブランドの作品・築城者Wilhelmヴィルヘルム公の等身大の絵がかかっていた。

    写真は2015.07.23.Schloss Lichtenstein_Rittersaal:騎士の間

  • ヴィルヘルム公がリヒテンシュタイン城で59歳の生涯を終えると、二番目の公妃であったFlorestine von Urachフロレスティーネ・ウラッハ(モナコ大公の一人娘:1833〜1897年)がリヒテンシュタイン城の管理を継承し、この城の最後の居住者になった。<br /><br />部屋の窓からの眺めは、遠くの町、遥か下のEchazエシャッツ川(ネッカーの支流で全長23km)や道路も見える。<br /><br />写真は騎士の間:リヒテンシュタイン城・気品があり、穏やかで優しそうな表情をしたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の肖像画

    ヴィルヘルム公がリヒテンシュタイン城で59歳の生涯を終えると、二番目の公妃であったFlorestine von Urachフロレスティーネ・ウラッハ(モナコ大公の一人娘:1833〜1897年)がリヒテンシュタイン城の管理を継承し、この城の最後の居住者になった。

    部屋の窓からの眺めは、遠くの町、遥か下のEchazエシャッツ川(ネッカーの支流で全長23km)や道路も見える。

    写真は騎士の間:リヒテンシュタイン城・気品があり、穏やかで優しそうな表情をしたヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯(後のヴィルヘルム1世ウラッハ公爵)の肖像画

  • ⑧“Der beruehmte Schuetze von Lichtensteinリヒテンシュタインの有名な射手”<br /><br />このWendeltreppe螺旋階段の下り口には“リヒテンシュタインの有名な射手”と題された絵画があります。<br /><br />この絵は所謂“だまし絵”で、どの方向から見ても射手がこちらを狙っているように見える。<br /><br />ここでガイドの案内は終了となった。<br /><br />写真はだまし絵:⑧“Der beruehmte Schuetze von Lichtensteinリヒテンシュタインの有名な射手

    ⑧“Der beruehmte Schuetze von Lichtensteinリヒテンシュタインの有名な射手”

    このWendeltreppe螺旋階段の下り口には“リヒテンシュタインの有名な射手”と題された絵画があります。

    この絵は所謂“だまし絵”で、どの方向から見ても射手がこちらを狙っているように見える。

    ここでガイドの案内は終了となった。

    写真はだまし絵:⑧“Der beruehmte Schuetze von Lichtensteinリヒテンシュタインの有名な射手

  • リヒテンシュタイン城には塔の部屋、3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、事前の許可が必要だと言う。<br /><br />XXX<br /><br />写真はLichtenstein,_Wilhelm_Hauffリヒテンシュタイン城・ヴィルヘルム・ハウフの小説リヒテンシュタイン1826年

    リヒテンシュタイン城には塔の部屋、3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、事前の許可が必要だと言う。

    XXX

    写真はLichtenstein,_Wilhelm_Hauffリヒテンシュタイン城・ヴィルヘルム・ハウフの小説リヒテンシュタイン1826年

  • XXX<br /><br />尚、口コミ参照:<br />中世の趣むきをもったロマンチックな騎士の城Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城<br />http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/the_other_spots_of_germany/tips/11793188/<br /><br />リヒテンシュタイン城に夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフのハウフの記念碑がある。<br />ハウフの童話は後期ロマン派(グリム兄弟も属するとか)文学に分類され、ロマン派歌劇の頂点を極めたリヒャルト・ワーグナーも、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も大きい範疇ではロマン派なのでしょう。<br /><br />それにしても憧れから新白鳥城を建てたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も驚きですが、小粒ながらヴィルヘルム1世ウラッハ公爵の築城したリヒテンシュタイン城も素晴らしいです。<br /><br />私のPCの壁絵は晩春から初夏まで、2007年に撮ったこの城の写真になっています。<br /><br />写真はリヒテンシュタイン城・ヴィルヘルム・ハウフの小説リヒテンシュタインの日本語版

    XXX

    尚、口コミ参照:
    中世の趣むきをもったロマンチックな騎士の城Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城
    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/the_other_spots_of_germany/tips/11793188/

    リヒテンシュタイン城に夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフのハウフの記念碑がある。
    ハウフの童話は後期ロマン派(グリム兄弟も属するとか)文学に分類され、ロマン派歌劇の頂点を極めたリヒャルト・ワーグナーも、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も大きい範疇ではロマン派なのでしょう。

    それにしても憧れから新白鳥城を建てたバイエルン国王ルートヴィヒ2世も驚きですが、小粒ながらヴィルヘルム1世ウラッハ公爵の築城したリヒテンシュタイン城も素晴らしいです。

    私のPCの壁絵は晩春から初夏まで、2007年に撮ったこの城の写真になっています。

    写真はリヒテンシュタイン城・ヴィルヘルム・ハウフの小説リヒテンシュタインの日本語版

  • 写真はLichtenstein_Forsthausリヒテンシュタイン城・かつての森林監督官の館

    写真はLichtenstein_Forsthausリヒテンシュタイン城・かつての森林監督官の館

  • 写真はAbbruch_des_Forsthauses_auf_dem_Lichtensteinリヒテンシュタイン城・かつての森林監督官の館の取り壊しの様子

    写真はAbbruch_des_Forsthauses_auf_dem_Lichtensteinリヒテンシュタイン城・かつての森林監督官の館の取り壊しの様子

  • 写真はLichtenstein_drei_Epochen_リヒテンシュタイン城:右に1400年、左に1802〜1838年、中央に現在の姿1840年と、三時代の城がある。<br />

    写真はLichtenstein_drei_Epochen_リヒテンシュタイン城:右に1400年、左に1802〜1838年、中央に現在の姿1840年と、三時代の城がある。

  • 写真はリヒテンシュタイン城

    写真はリヒテンシュタイン城

  • 写真はSchloss_Lichtenstein_Forsthausリヒテンシュタイン城・と森林監督官の館

    写真はSchloss_Lichtenstein_Forsthausリヒテンシュタイン城・と森林監督官の館

  • 写真はSchloss_Lichtenstein_リヒテンシュタイン城と眼下の眺望を描いたもの

    写真はSchloss_Lichtenstein_リヒテンシュタイン城と眼下の眺望を描いたもの

  • 写真はSchloss_Lichtenstein_(1)リヒテンシュタイン城を渓谷側からの眺め・・・岩壁上の城がよく分かる。

    写真はSchloss_Lichtenstein_(1)リヒテンシュタイン城を渓谷側からの眺め・・・岩壁上の城がよく分かる。

  • 写真はSchloss_Lichtenstein,_nach_leichtem_Schneefall2007年3月の雪景色

    写真はSchloss_Lichtenstein,_nach_leichtem_Schneefall2007年3月の雪景色

  • 写真はSchloss_Lichtensteinリヒテンシュタイン城の冬景色・俯瞰…中央下に城門入口がある。

    写真はSchloss_Lichtensteinリヒテンシュタイン城の冬景色・俯瞰…中央下に城門入口がある。

  • 写真は崖上のリヒテンシュタイン城を町から見上げて写真を撮ったもの。

    写真は崖上のリヒテンシュタイン城を町から見上げて写真を撮ったもの。

  • さて、このリヒテンシュタイン城を好んで、似たような建物を建てた人がいる。<br /><br />一つはバルト海に浮かぶドイツ最大の島・Ruegenリューゲン島のLietzowリーツツオウという村(人口246人)に立つSchloesschen Lichtensteinリヒテンシュタイン小城である。1892〜93年にかけて建て替えた3階建ての小城には切妻屋根と階段破風が見られ、6階建て円形の塔が付いている。<br /><br />写真は2015.07.23.(Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城):Schloss‐ Lietzow Ruegen

    さて、このリヒテンシュタイン城を好んで、似たような建物を建てた人がいる。

    一つはバルト海に浮かぶドイツ最大の島・Ruegenリューゲン島のLietzowリーツツオウという村(人口246人)に立つSchloesschen Lichtensteinリヒテンシュタイン小城である。1892〜93年にかけて建て替えた3階建ての小城には切妻屋根と階段破風が見られ、6階建て円形の塔が付いている。

    写真は2015.07.23.(Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城):Schloss‐ Lietzow Ruegen

  • もう一つはラインラント・プファルツ州Alzey-Wormsアルツァイ・ヴォルムス郡のOsthofenオストホーフェン村(人口8700人)にあるWeinbergshausヴァインベルクスハウス(もしくはMiniaturburgミニアチュアブルク)で、Leckzapfen レックザップフェンのブドウ畑の高台に立っている。<br /><br />写真は2015.07.23.(Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城):Weinbergshaus ・Leckzapfen in Osthofen

    もう一つはラインラント・プファルツ州Alzey-Wormsアルツァイ・ヴォルムス郡のOsthofenオストホーフェン村(人口8700人)にあるWeinbergshausヴァインベルクスハウス(もしくはMiniaturburgミニアチュアブルク)で、Leckzapfen レックザップフェンのブドウ畑の高台に立っている。

    写真は2015.07.23.(Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城):Weinbergshaus ・Leckzapfen in Osthofen

  • ついでに言えば、私も初めて知ったのだが、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城と同じ日本語になるBurg Liechtensteinリヒテンシュタイン城がある。<br />・・多分発音も近いと思うが、こちらはFuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公爵家と関係がある。<br /><br />リヒテンシュタイン家の先祖であるHugo von Petronell-Liechtensteinフーゴ・ペトロネル・リヒテンシュタイが12世紀に居城として築城したもので、オーストリアのウィーンの南に位置するMaria Enzersdorf in Niederoesterreichニーダーエステライヒ州マリア・エンツェルスドルフに中世の姿の城がある。<br /><br />Burg Liechtensteinリヒテンシュタイン城と称しており、前者はLichであり、後者は Liechで、つまり間に( e )が挟まっている。<br /><br />意外と気がつかないのだが。<br /><br />Burg Liechtensteinリヒテンシュタイン城<br />Am Hausberg 2, 2344 Maria Enzersdorf, Austria<br />https://www.youtube.com/watch?v=LaGhJXCj5BA<br /><br />Fuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国(侯爵)家が現在も所有する城なので、公国はオーストリア国内に飛び地を持っていることになる。<br />リヒテンシュタイン公国はスイスとオーストリアに囲まれた37千人の小国だが、「銀行の守秘義務」、「タックス・ヘイブン」、「切手」で良く知られている。<br />ここには1974年、初めてドイツに赴任した年から3度ほど訪れたことがある。<br /><br />XXX<br /><br />写真はBurg_Liechtensteinリヒテンシュタイン城

    ついでに言えば、私も初めて知ったのだが、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城と同じ日本語になるBurg Liechtensteinリヒテンシュタイン城がある。
    ・・多分発音も近いと思うが、こちらはFuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公爵家と関係がある。

    リヒテンシュタイン家の先祖であるHugo von Petronell-Liechtensteinフーゴ・ペトロネル・リヒテンシュタイが12世紀に居城として築城したもので、オーストリアのウィーンの南に位置するMaria Enzersdorf in Niederoesterreichニーダーエステライヒ州マリア・エンツェルスドルフに中世の姿の城がある。

    Burg Liechtensteinリヒテンシュタイン城と称しており、前者はLichであり、後者は Liechで、つまり間に( e )が挟まっている。

    意外と気がつかないのだが。

    Burg Liechtensteinリヒテンシュタイン城
    Am Hausberg 2, 2344 Maria Enzersdorf, Austria
    https://www.youtube.com/watch?v=LaGhJXCj5BA

    Fuerstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国(侯爵)家が現在も所有する城なので、公国はオーストリア国内に飛び地を持っていることになる。
    リヒテンシュタイン公国はスイスとオーストリアに囲まれた37千人の小国だが、「銀行の守秘義務」、「タックス・ヘイブン」、「切手」で良く知られている。
    ここには1974年、初めてドイツに赴任した年から3度ほど訪れたことがある。

    XXX

    写真はBurg_Liechtensteinリヒテンシュタイン城

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