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写真はエンダヤのHOTEL DE LA GARE「駅ホテル」のフロントの前に<br />展示されていたウナムーノの伝記書籍。<br /><br />千代紙で私が作ったやっこさん(右側の本の上)も<br />ちゃっかりと一緒に展示されることになった。<br /><br />※ウナムーノの趣味の一つは日本の折り紙を作ることであった。<br /><br />2019年6月22日(土)夏至の日、ウナムノのサラマンカ大学<br />反戦演説のドラマを見た。<br />5分ほどの短いドラマであったがウナムノが苦悶の表情を浮かべ<br />演壇に登場し、壇上で射殺されるかもしれない状況下で<br />”Vencereis,pero no convencereis!&quot;<br />  「あなたは我々を打ち負かすであろう。<br />   しかし我々は心までは屈服しない!」<br />と叫ぶ姿に胸が熱くなるほど感動した。<br />年老いた哲学者は「知の殿堂」を守る殉教者として<br />ひとり言葉だけでフランコ軍政に立ち向かったのだ。<br />(ウナムノはその年の暮れ、失意のまま自宅で死亡した)<br />私も七十路を迎える今となって彼の勇気の何百分の一でも<br />良いので持ちたいと思った。<br />(エンダヤの町を思い出して)<br /><br />14:30にバヨンヌに向けサンセバスチャンのバス停を出発した。<br /><br />途中は何処でスペイン、フランスの国境を<br />越えたのかわからなかったが<br />町の表示がスペイン語からフランス語に変わったので<br />もうフランスに入ったのだとわかった。<br /><br />16:00にバヨンヌのバス停に到着した。<br /><br />バス停近くに観光情報センターがあったので<br />ホテルの情報を手に入れるため相談に行く。<br /><br />最初、若い女性スタッフにホテルを探していると相談した。<br /><br />私のフランス語が通じないのか困ったような顔をしている。<br /><br />上司に相談した方が良いということで<br />年配の女性のデスクに連れて行かれた。<br /><br />彼女は英語が話せるので<br />今夜から8月1日まで宿泊できるホテルを<br />探していると同じことを相談した。<br /><br />すると彼女は、<br /><br />「8月1日までこの町のホテルはすべて予約済みだ。」<br />という回答だ。<br /><br />「どうして?」と尋ねると、<br /><br />「7月26日から8月1日までバヨンヌの町でバスク地方の<br /> 大きな祭りがあって<br /> 各地からバスク人が大勢この町に集まって来ている。<br /> そのためホテルは既にすべて予約されていて満杯状況だ。」<br />と言う。<br /><br />仕方がないので近くの町でホテルがないかどうか<br />調べてほしいと依頼した。<br /><br />彼女はとても親切だった。<br /><br />あちこちのホテルに直接電話を入れて<br />部屋が開いていないかどうか調べてくれた。<br /><br />また、近隣の観光情報センターに電話をして情報を確認し<br />更にホテルに電話をして予約状況を調べてくれた。<br /><br />1時間程本当に熱心に調べてくれた。<br /><br />観光情報センターでも普通はここまで親切にはしてくれない。<br /><br />「感謝!感謝!」の気持ちを込めて千代紙でやっこさんを<br />折ってさし上げた。<br /><br />4つほど折った時にようやく予約可能なホテルが見つかった。<br /><br />バヨンヌから汽車で1時間ほど逆戻りした<br />スペイン国境側に近い<br />エンダヤという町のホテルを紹介された。<br /><br />一つはHOTEL DE LA GARE(7/28~7/31の4泊)「駅ホテル」<br /><br />もう一つはHOTEL VALENCIA(8/1の1泊)<br />「ホテルバレンシア」である。<br /><br />彼女のホスピタリティに深く感謝し、<br />この恩返しは日本に帰国後、<br />困っている外国人がいれば<br />手助けすることを誓った。<br />(2020年のオリンピックでは<br /> できればボランティア通訳士<br /> として訪問してくる外国人の支援をしたい)<br /><br />エンダヤ行きの列車が<br />17:30出発するということで<br />私はバヨンヌ駅に急いだ。<br /><br />この時、私はまだ気が付いていなかった。<br /><br />エンダヤはスペインの哲学者ウナムーノに<br />ゆかりが深い町だった。<br /><br />ウナムーノは私がスペイン語学習を<br />通じてとても好きになった<br />哲学者であり、<br />スペインを理解する「Sentimiento(感情的)」<br />という言葉の意味を知るきっかけになった哲学者だ。<br /><br />以下でこの町でウナムーノの足跡を<br />発見した経緯を説明する。<br /><br />全くの偶然出会った。<br />しかしこれも私のカミーノ(巡礼路)で起こった<br />「Synchronicity(意味のある偶然)」の一つであったの<br />かもしれない。<br /> <br /><br /><ウナムーノの略歴><br /> スペインを代表する哲学者、文学者、詩人、劇作家。<br /><br />・1864年9月29日、スペイン、バスク地方のビルバオで生まれた。<br /> 厳格なカトリック教徒の家庭で育つ。<br />・1880年、16歳の時にマドリード大学に入学し、文学、哲学、<br />言語学を学ぶ。<br />・1891年、27歳の時に生涯にわたって彼の心の支えとなる<br /> コンセプシオン・リサラガ(愛称はコンチャ)と結婚。<br /> 同年にサラマンカ大学でギリシャ語の教授となる。<br />・1900年、36歳でサラマンカ大学総長に選出される。<br />・1914年、50歳の時に反政府的な考えの保有者という<br />ことで サラマンカ大学総長を罷免される。<br />・1924年、60歳の時プリモ・デ・リベラの独裁政権を強く<br />批判したためサラマンカを追放されカナリア諸島の<br />フェルテテンペトウラ島に 島送りとなった。<br /> その後島から脱出し、1930年までフランスで亡命生活を<br />送った。<br /> ※フランスとスペインの国境であるエンダヤの町には<br />  1925年から1930年まで住んでいた。<br />  <br />  「ドンキホーテの哲学(ドン・キホーテの哲学」<br />   -ウナムーノの思想と生涯 <br />   佐々木孝氏著(講談社現代新書)の169ページには<br />   次のように書かれている<br /> <br />  「ついに彼は望郷の念にいたたまれず、1925年8月の末に、<br />   故郷スペインがつい眼と鼻の先に見える国境の町エンダヤ<br />   に居を移す。<br />   こんどの仮の宿は、駅前の小さなホテル「ブローカー」<br />   である。」<br /><br />   ※現在、このホテル「ブローカー」は名前を変更し<br />    HOTEL DE LA GAREとなっている。<br />・1931年、67歳の時スペイン第2共和国が成立し国会議員となる。<br /> 同年、終身総長としてサラマンカ大学に正式に復帰した。<br />・1934年、70歳の時に最愛の妻コンチャが死亡。<br />・1936年、72歳の時にスペイン内戦が始まる。<br /> 同年10月12日にサラマンカ大学で反戦の演説(※)<br /> をし 大学を追放され自宅に軟禁される。 <br /> ※サラマンカ大学事件としてウナムーノの次の言葉が<br />  有名である。<br />  ”Vencereis,pero no convencereis!&quot;<br />    「あなたは我々を打ち負かすであろう。<br />   しかし我々は心までは屈服しない!」<br /><br />・12月31日、失意のままに自宅の書斎にて72歳で静かに息を<br /> 引き取った。<br /><br /><ウナムーノの著書><br /> 著書は多数あるが次が有名である。<br />・「ドン・キホーテとサンチョパンサの生涯」<br /> (小説41歳時の作品)<br />  ”Vida de don Quijote y Sancho&quot;<br />・「生の悲劇的感情」<br /> ”Del sentimiento tragico de la vida en los hombres y <br />  los pueblos&quot; (49歳時の随筆)<br />・「霧」(50歳時の小説)”Niebla&quot;<br />・「殉教者 聖マニュエル・ブエノ」(67歳時の小説)<br />  ”San Manuel Bueno,martir&quot;<br /><br /><br />私が定年退職後にスペイン語を学んだ大学の<br />スペイン人の教授に<br />「日本人がスペイン文化とスペイン人を理解するためには<br />”Sentimiento(感情的)&quot;という言葉がキーワードになる。」と<br />彼の研究室で説明を受けたことがある。<br /><br />そのためにはウナムーノを<br />研究してみてはどうかと勧められた<br />ことがあった。<br /><br />今回のエンダヤでのウナムーノとの出逢いは<br />私の今後の<br />スペイン語学習の指針を与えてくれたように思う。<br /><br />以下では私のエンダヤでの5日間の生活を簡単に説明する。<br /><br /><br /><br /> <br /><br /><br />

還暦一人旅帰還の道程(2~6日目)国境の町エンダヤ 折り紙のご縁で失意の哲学者、ウナムノと出逢う  

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2015/07/28 - 2015/08/03

30位(同エリア365件中)

2013tomo

2013tomoさん

写真はエンダヤのHOTEL DE LA GARE「駅ホテル」のフロントの前に
展示されていたウナムーノの伝記書籍。

千代紙で私が作ったやっこさん(右側の本の上)も
ちゃっかりと一緒に展示されることになった。

※ウナムーノの趣味の一つは日本の折り紙を作ることであった。

2019年6月22日(土)夏至の日、ウナムノのサラマンカ大学
反戦演説のドラマを見た。
5分ほどの短いドラマであったがウナムノが苦悶の表情を浮かべ
演壇に登場し、壇上で射殺されるかもしれない状況下で
”Vencereis,pero no convencereis!"
「あなたは我々を打ち負かすであろう。
   しかし我々は心までは屈服しない!」
と叫ぶ姿に胸が熱くなるほど感動した。
年老いた哲学者は「知の殿堂」を守る殉教者として
ひとり言葉だけでフランコ軍政に立ち向かったのだ。
(ウナムノはその年の暮れ、失意のまま自宅で死亡した)
私も七十路を迎える今となって彼の勇気の何百分の一でも
良いので持ちたいと思った。
(エンダヤの町を思い出して)

14:30にバヨンヌに向けサンセバスチャンのバス停を出発した。

途中は何処でスペイン、フランスの国境を
越えたのかわからなかったが
町の表示がスペイン語からフランス語に変わったので
もうフランスに入ったのだとわかった。

16:00にバヨンヌのバス停に到着した。

バス停近くに観光情報センターがあったので
ホテルの情報を手に入れるため相談に行く。

最初、若い女性スタッフにホテルを探していると相談した。

私のフランス語が通じないのか困ったような顔をしている。

上司に相談した方が良いということで
年配の女性のデスクに連れて行かれた。

彼女は英語が話せるので
今夜から8月1日まで宿泊できるホテルを
探していると同じことを相談した。

すると彼女は、

「8月1日までこの町のホテルはすべて予約済みだ。」
という回答だ。

「どうして?」と尋ねると、

「7月26日から8月1日までバヨンヌの町でバスク地方の
 大きな祭りがあって
 各地からバスク人が大勢この町に集まって来ている。
 そのためホテルは既にすべて予約されていて満杯状況だ。」
と言う。

仕方がないので近くの町でホテルがないかどうか
調べてほしいと依頼した。

彼女はとても親切だった。

あちこちのホテルに直接電話を入れて
部屋が開いていないかどうか調べてくれた。

また、近隣の観光情報センターに電話をして情報を確認し
更にホテルに電話をして予約状況を調べてくれた。

1時間程本当に熱心に調べてくれた。

観光情報センターでも普通はここまで親切にはしてくれない。

「感謝!感謝!」の気持ちを込めて千代紙でやっこさんを
折ってさし上げた。

4つほど折った時にようやく予約可能なホテルが見つかった。

バヨンヌから汽車で1時間ほど逆戻りした
スペイン国境側に近い
エンダヤという町のホテルを紹介された。

一つはHOTEL DE LA GARE(7/28~7/31の4泊)「駅ホテル」

もう一つはHOTEL VALENCIA(8/1の1泊)
「ホテルバレンシア」である。

彼女のホスピタリティに深く感謝し、
この恩返しは日本に帰国後、
困っている外国人がいれば
手助けすることを誓った。
(2020年のオリンピックでは
 できればボランティア通訳士
 として訪問してくる外国人の支援をしたい)

エンダヤ行きの列車が
17:30出発するということで
私はバヨンヌ駅に急いだ。

この時、私はまだ気が付いていなかった。

エンダヤはスペインの哲学者ウナムーノに
ゆかりが深い町だった。

ウナムーノは私がスペイン語学習を
通じてとても好きになった
哲学者であり、
スペインを理解する「Sentimiento(感情的)」
という言葉の意味を知るきっかけになった哲学者だ。

以下でこの町でウナムーノの足跡を
発見した経緯を説明する。

全くの偶然出会った。
しかしこれも私のカミーノ(巡礼路)で起こった
「Synchronicity(意味のある偶然)」の一つであったの
かもしれない。
 

<ウナムーノの略歴>
 スペインを代表する哲学者、文学者、詩人、劇作家。

・1864年9月29日、スペイン、バスク地方のビルバオで生まれた。
 厳格なカトリック教徒の家庭で育つ。
・1880年、16歳の時にマドリード大学に入学し、文学、哲学、
言語学を学ぶ。
・1891年、27歳の時に生涯にわたって彼の心の支えとなる
 コンセプシオン・リサラガ(愛称はコンチャ)と結婚。
 同年にサラマンカ大学でギリシャ語の教授となる。
・1900年、36歳でサラマンカ大学総長に選出される。
・1914年、50歳の時に反政府的な考えの保有者という
ことで サラマンカ大学総長を罷免される。
・1924年、60歳の時プリモ・デ・リベラの独裁政権を強く
批判したためサラマンカを追放されカナリア諸島の
フェルテテンペトウラ島に 島送りとなった。
 その後島から脱出し、1930年までフランスで亡命生活を
送った。
 ※フランスとスペインの国境であるエンダヤの町には
  1925年から1930年まで住んでいた。
  
  「ドンキホーテの哲学(ドン・キホーテの哲学」
   -ウナムーノの思想と生涯 
   佐々木孝氏著(講談社現代新書)の169ページには
   次のように書かれている
 
  「ついに彼は望郷の念にいたたまれず、1925年8月の末に、
   故郷スペインがつい眼と鼻の先に見える国境の町エンダヤ
   に居を移す。
   こんどの仮の宿は、駅前の小さなホテル「ブローカー」
   である。」

   ※現在、このホテル「ブローカー」は名前を変更し
    HOTEL DE LA GAREとなっている。
・1931年、67歳の時スペイン第2共和国が成立し国会議員となる。
 同年、終身総長としてサラマンカ大学に正式に復帰した。
・1934年、70歳の時に最愛の妻コンチャが死亡。
・1936年、72歳の時にスペイン内戦が始まる。
 同年10月12日にサラマンカ大学で反戦の演説(※)
 をし 大学を追放され自宅に軟禁される。 
 ※サラマンカ大学事件としてウナムーノの次の言葉が
  有名である。
  ”Vencereis,pero no convencereis!"
「あなたは我々を打ち負かすであろう。
   しかし我々は心までは屈服しない!」

・12月31日、失意のままに自宅の書斎にて72歳で静かに息を
 引き取った。

<ウナムーノの著書>
 著書は多数あるが次が有名である。
・「ドン・キホーテとサンチョパンサの生涯」
 (小説41歳時の作品)
  ”Vida de don Quijote y Sancho"
・「生の悲劇的感情」
 ”Del sentimiento tragico de la vida en los hombres y
  los pueblos" (49歳時の随筆)
・「霧」(50歳時の小説)”Niebla"
・「殉教者 聖マニュエル・ブエノ」(67歳時の小説)
”San Manuel Bueno,martir"


私が定年退職後にスペイン語を学んだ大学の
スペイン人の教授に
「日本人がスペイン文化とスペイン人を理解するためには
”Sentimiento(感情的)"という言葉がキーワードになる。」と
彼の研究室で説明を受けたことがある。

そのためにはウナムーノを
研究してみてはどうかと勧められた
ことがあった。

今回のエンダヤでのウナムーノとの出逢いは
私の今後の
スペイン語学習の指針を与えてくれたように思う。

以下では私のエンダヤでの5日間の生活を簡単に説明する。



 


旅行の満足度
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配

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  • 14:30にバスはサンセバスチャンを出発しバヨンヌを<br />目指す。<br /><br />一度バスに乗ってしまうと<br />「歩く」という意識が遠のいて<br />行くのが分かる。<br /><br />便利さが私の基本的巡礼能力を<br />侵食して行くのを感じる。

    14:30にバスはサンセバスチャンを出発しバヨンヌを
    目指す。

    一度バスに乗ってしまうと
    「歩く」という意識が遠のいて
    行くのが分かる。

    便利さが私の基本的巡礼能力を
    侵食して行くのを感じる。

  • バヨンヌの観光情報センターでは<br />本当にお世話になった。<br />相談終了後、17:30にエンダヤ駅行きの<br />汽車が出発するので<br />対岸のバヨンヌ駅に向け急いで橋を渡る。<br /><br />町では祭りの装束をした男女とすれ違う。<br />(白色の上下を着て、腰には赤い布を巻いている)<br />

    バヨンヌの観光情報センターでは
    本当にお世話になった。
    相談終了後、17:30にエンダヤ駅行きの
    汽車が出発するので
    対岸のバヨンヌ駅に向け急いで橋を渡る。

    町では祭りの装束をした男女とすれ違う。
    (白色の上下を着て、腰には赤い布を巻いている)

  • バヨンヌ駅には何とか間に合った。<br /><br />祭りと反対方向なのでエンダヤ駅行きの<br />乗車客は少ない。

    バヨンヌ駅には何とか間に合った。

    祭りと反対方向なのでエンダヤ駅行きの
    乗車客は少ない。

  • エンダヤ駅の駅舎。<br /><br />すこし文字が薄いが「Gare de Hendaye(エンダヤ駅)」<br />の文字が見える。

    エンダヤ駅の駅舎。

    すこし文字が薄いが「Gare de Hendaye(エンダヤ駅)」
    の文字が見える。

    アンダイエ駅

  • HOTEL DE LA GARE「駅ホテル」は駅前の道を渡り右手の<br />石段を上がる少し小高い所にある。<br /><br />ホテルのバルのテラスが路まで張り出していている。<br /><br />ガラスに覆われた屋根の下にはたくさんのテーブルと椅子が<br />並んでいた。<br /><br />

    HOTEL DE LA GARE「駅ホテル」は駅前の道を渡り右手の
    石段を上がる少し小高い所にある。

    ホテルのバルのテラスが路まで張り出していている。

    ガラスに覆われた屋根の下にはたくさんのテーブルと椅子が
    並んでいた。

  • フロントデスクは大きくない。<br /><br />横に部屋の鍵かけがあるが<br />部屋数も十数位の小さなホテルである。<br /><br />ホテルに入ると中年の男性スタッフが<br />「観光局から電話予約をもらっていますよ。<br /> Tomoさんですね。」<br />と言って迎え入れてくれた。

    フロントデスクは大きくない。

    横に部屋の鍵かけがあるが
    部屋数も十数位の小さなホテルである。

    ホテルに入ると中年の男性スタッフが
    「観光局から電話予約をもらっていますよ。
     Tomoさんですね。」
    と言って迎え入れてくれた。

  • フロントの前を見るとウナムーノの伝記書籍が展示してあった。<br /><br />この時はこのホテルとウナムーノのフランス亡命とは頭の中で<br />結びついていない。<br /><br />チェックイン後、フロントデスクの後ろを通り抜けバルに<br />行ってコーヒーを注文した。

    フロントの前を見るとウナムーノの伝記書籍が展示してあった。

    この時はこのホテルとウナムーノのフランス亡命とは頭の中で
    結びついていない。

    チェックイン後、フロントデスクの後ろを通り抜けバルに
    行ってコーヒーを注文した。

  • 中年の男性スタッフはバルで働いていた。<br /><br />彼に<br />「なぜここにウナムーノの伝記書籍が<br /> 展示されているのですか?」<br />と聞くと、<br />「ウナムーノはこのホテルに<br />1925年から1930年まで<br /> 亡命生活で宿泊していた。」<br />と言うではないか。<br /><br />「えぇ!あのウナムーノがこのホテルに!」<br />と膝が抜けるほど驚いた。<br /><br />全くの偶然で私は時間を越えて<br />あのウナムーノとこの空間を共にする<br />ことになったのだ。

    中年の男性スタッフはバルで働いていた。

    彼に
    「なぜここにウナムーノの伝記書籍が
     展示されているのですか?」
    と聞くと、
    「ウナムーノはこのホテルに
    1925年から1930年まで
     亡命生活で宿泊していた。」
    と言うではないか。

    「えぇ!あのウナムーノがこのホテルに!」
    と膝が抜けるほど驚いた。

    全くの偶然で私は時間を越えて
    あのウナムーノとこの空間を共にする
    ことになったのだ。

  • コーヒーを飲みながら<br />芭蕉の「奥の細道」を読んだ。<br /><br />冒頭の「百代(はくたい)の過客(くわかく)」に<br /><br />「舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて<br /> 老いをむかふる者は<br /> 日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。<br /> 古人も多く旅に死せるあり。」<br /><br />という言葉がある。<br /><br />90年以上も前にこのホテルで<br />バスクへの望郷の念を抱きながら<br />5年間の亡命生活を送らざるを<br />得なかったウナムーノの心を<br />思うと切なくなる。<br /><br />丁度、私と同年齢のころに<br />彼はこのホテルで望郷の念に魂を苦しめ<br />同時に彼の思想を深めていったのだ。

    コーヒーを飲みながら
    芭蕉の「奥の細道」を読んだ。

    冒頭の「百代(はくたい)の過客(くわかく)」に

    「舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて
     老いをむかふる者は
     日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。
     古人も多く旅に死せるあり。」

    という言葉がある。

    90年以上も前にこのホテルで
    バスクへの望郷の念を抱きながら
    5年間の亡命生活を送らざるを
    得なかったウナムーノの心を
    思うと切なくなる。

    丁度、私と同年齢のころに
    彼はこのホテルで望郷の念に魂を苦しめ
    同時に彼の思想を深めていったのだ。

  • バルの出口を出て後ろを振り返り、見上げてみると<br />そこには懐かしいカミーノのエストレーヤ(星の標識)と<br />コンチャ(貝殻)が飾られていた。<br /><br />私はまだカミーノ(巡礼路)の中にいることに気が付いた。<br /><br />まだ私の巡礼は終わっていなかったのだ。

    バルの出口を出て後ろを振り返り、見上げてみると
    そこには懐かしいカミーノのエストレーヤ(星の標識)と
    コンチャ(貝殻)が飾られていた。

    私はまだカミーノ(巡礼路)の中にいることに気が付いた。

    まだ私の巡礼は終わっていなかったのだ。

  • バルのテラスの横にある壁には<br />ウナムーノがこのホテルに1925年から1930年まで<br />居住していたことを示す掲示板があた。<br /><br />私はこのホテルに4日間宿泊することになった。<br /><br />午前中はバルでウナムーノの伝記を少しずつ読む<br />ことを日課にした。<br /><br />ホテル代は簡単な朝食込みで<br />4泊280ユーロ(1日70ユーロ)である。<br />ツインでシャワー、トイレ付<br /><br />サンセバスチャンの4星ホテルと比較するからか割安に感じた。

    バルのテラスの横にある壁には
    ウナムーノがこのホテルに1925年から1930年まで
    居住していたことを示す掲示板があた。

    私はこのホテルに4日間宿泊することになった。

    午前中はバルでウナムーノの伝記を少しずつ読む
    ことを日課にした。

    ホテル代は簡単な朝食込みで
    4泊280ユーロ(1日70ユーロ)である。
    ツインでシャワー、トイレ付

    サンセバスチャンの4星ホテルと比較するからか割安に感じた。

  • 4日間の昼食、夕食はホテルを出てすぐ右側にある<br />レストランで食べた。<br /><br />写真の美人姉妹とお母さんが経営していた。<br /><br />料理は日替わりで種類が多くおいしかった。<br /><br />毎日ビールとワインも飲んでいたので私の体重は<br />確実に回復して行った<br /><br />これで約1か月の巡礼ダイエットの効果はなくなった。

    4日間の昼食、夕食はホテルを出てすぐ右側にある
    レストランで食べた。

    写真の美人姉妹とお母さんが経営していた。

    料理は日替わりで種類が多くおいしかった。

    毎日ビールとワインも飲んでいたので私の体重は
    確実に回復して行った

    これで約1か月の巡礼ダイエットの効果はなくなった。

  • 最終日に食べたイカスミライス。<br /><br />久しぶりのお米だったので夢中で<br />食べた。<br /><br />目の前にはビールと白ワインのピッチャーが<br />置いてある。

    最終日に食べたイカスミライス。

    久しぶりのお米だったので夢中で
    食べた。

    目の前にはビールと白ワインのピッチャーが
    置いてある。

  • デザートのアイスクリーム<br /><br />料金はアルコール込みで25ユーロだったと<br />記憶している。<br /><br />スペインと比べるとフランス側は物価が高いと思う。

    デザートのアイスクリーム

    料金はアルコール込みで25ユーロだったと
    記憶している。

    スペインと比べるとフランス側は物価が高いと思う。

  • 写真は海岸通りに行く途中にあるエンダヤ湾である。<br /><br />このあたりから海岸通り迄、遊歩道があり<br />多くの人がサイクリング、<br />ランニング、散歩を楽しんでいた。<br /><br />ウナムーノのこの湾を背景とした写真が残っているので<br />彼も散歩を楽しんだのであろうか。<br /><br />8月1日、朝食をすませて約4キロ離れた海岸通り向かった。<br /><br />ここへは毎日昼食後に散歩を兼ねて<br />HOTEL DE LA GARE「駅ホテル」から<br />歩いていた。<br /><br />海岸通りにある観光相談センターに<br />パソコンが設置されており30分3ユーロ<br />で使用できたのでここから家内とメールのやり取りをしていた。

    写真は海岸通りに行く途中にあるエンダヤ湾である。

    このあたりから海岸通り迄、遊歩道があり
    多くの人がサイクリング、
    ランニング、散歩を楽しんでいた。

    ウナムーノのこの湾を背景とした写真が残っているので
    彼も散歩を楽しんだのであろうか。

    8月1日、朝食をすませて約4キロ離れた海岸通り向かった。

    ここへは毎日昼食後に散歩を兼ねて
    HOTEL DE LA GARE「駅ホテル」から
    歩いていた。

    海岸通りにある観光相談センターに
    パソコンが設置されており30分3ユーロ
    で使用できたのでここから家内とメールのやり取りをしていた。

  • 8月1日の午前中は写真のように低い雲が垂れ込めていた。<br /><br />しかし昼過ぎから天候が回復し海水浴日和になってきた。

    8月1日の午前中は写真のように低い雲が垂れ込めていた。

    しかし昼過ぎから天候が回復し海水浴日和になってきた。

  • 私が8月1日に宿泊したHOTEL VALENCIAだ。<br /><br />瀟洒な感じで海に面しているので見晴らしが良さそうだ。<br /><br />料金は朝食なしで1泊70ユーロであった。<br /><br />フロントは若いマダムが対応してくれた。<br /><br />小柄でチャーミングな方であった。<br /><br />うっかりして写真を撮るのを失念して<br />しまったのが残念である。

    私が8月1日に宿泊したHOTEL VALENCIAだ。

    瀟洒な感じで海に面しているので見晴らしが良さそうだ。

    料金は朝食なしで1泊70ユーロであった。

    フロントは若いマダムが対応してくれた。

    小柄でチャーミングな方であった。

    うっかりして写真を撮るのを失念して
    しまったのが残念である。

  • 私の部屋は1階にあり海の景色は見えなかった。<br /><br />ギリギリに予約したので景色が良くないのは<br />仕方がない。<br /><br />しかし清潔で住みやすかったしテレビもあった。

    私の部屋は1階にあり海の景色は見えなかった。

    ギリギリに予約したので景色が良くないのは
    仕方がない。

    しかし清潔で住みやすかったしテレビもあった。

  • このホテルの1階の海岸通りに面した所にレストランがあった。<br /><br />早速ビールを頂きながら昼食をした。<br /><br />海風に吹かれながらの食事は良い気持ちだ。

    このホテルの1階の海岸通りに面した所にレストランがあった。

    早速ビールを頂きながら昼食をした。

    海風に吹かれながらの食事は良い気持ちだ。

  • 浜辺は海水浴客で混雑していた。<br /><br />ストイックに巡礼路を歩いていた風景とは<br />異なり華やかである。<br /><br />老若男女、家族連れでごった返している。<br /><br />しかし平和な光景である。

    浜辺は海水浴客で混雑していた。

    ストイックに巡礼路を歩いていた風景とは
    異なり華やかである。

    老若男女、家族連れでごった返している。

    しかし平和な光景である。

  • ふと<br />「ここは私の今回の巡礼のフィニステーラ(最終地)だ。」<br />という想いが湧き上がってきた。<br /><br />

    ふと
    「ここは私の今回の巡礼のフィニステーラ(最終地)だ。」
    という想いが湧き上がってきた。

  • フィニステーラはスペイン巡礼路の最終地である<br /> コンポステーラより<br /> 更に西へ90km離れた所にある<br /> スペイン最西端にある港町である。<br /> 1時間歩いたところにある灯台が有名(私も2度訪れた)。<br /><br /> 数は少ないがコンポステーラにたどり着いた巡礼は<br /> この地まで歩き<br /> 巡礼が終わったことを祝って<br /> 持ち物を燃やす習慣がある。<br /><br />「ここにて地果て、海始まる」という場所である。

    フィニステーラはスペイン巡礼路の最終地である
     コンポステーラより
     更に西へ90km離れた所にある
     スペイン最西端にある港町である。
     1時間歩いたところにある灯台が有名(私も2度訪れた)。

     数は少ないがコンポステーラにたどり着いた巡礼は
     この地まで歩き
     巡礼が終わったことを祝って
     持ち物を燃やす習慣がある。

    「ここにて地果て、海始まる」という場所である。

  • 夕暮れには太陽がビスケー湾を<br />ブドウ色に染めながら<br />岬の向こうに沈んで行った。<br /><br />夕方の浜辺は人も少なく寂しい風景となる。

    夕暮れには太陽がビスケー湾を
    ブドウ色に染めながら
    岬の向こうに沈んで行った。

    夕方の浜辺は人も少なく寂しい風景となる。

  • 8月2日、翌朝は早く起きて浜辺に出てみた。<br /><br />写真では小さくて分かりにくいが空には<br />満月が出ていた。<br /><br />今日はパリのモンパルナス駅まで行くのだ。

    8月2日、翌朝は早く起きて浜辺に出てみた。

    写真では小さくて分かりにくいが空には
    満月が出ていた。

    今日はパリのモンパルナス駅まで行くのだ。

  • 朝食はホテルの2階レストランで食べた。<br /><br />朝日が部屋に差し込みテーブルの上に光が踊っている。<br /><br />窓から見える海の青も幸せ色をしている。

    朝食はホテルの2階レストランで食べた。

    朝日が部屋に差し込みテーブルの上に光が踊っている。

    窓から見える海の青も幸せ色をしている。

  • 朝食である。<br /><br />若いマダムのお母さんが出してくれた。<br /><br />朝食は確か7ユーロくらいだった。<br /><br />エンダヤでの最後の朝食だ。

    朝食である。

    若いマダムのお母さんが出してくれた。

    朝食は確か7ユーロくらいだった。

    エンダヤでの最後の朝食だ。

  • 海岸通りのホテルからエンダヤ駅までの<br />約4キロを歩いた。<br /><br />私の影が長く伸びている。<br /><br />巡礼杖はログローニョでフランチェスコにあげたので<br />杖の影は映っていない。<br /><br />杖を持っていない私はもう巡礼者ではないのだと思う。<br /><br />「あの巡礼の日々は夢であったのだろうか。<br /> それとも今が夢なのだろうか。」<br /><br />荘子の「胡蝶の夢」ではないが夢と現実の垣根が<br />一瞬崩れるような不思議な感覚を感じる。<br /><br /><br />歩きながらある本で読んだ言葉を思い出した。<br /><br />「我々は霊的な体験をしている人間ではない。<br /> 人間的な体験をしている霊的存在なのである。」<br /><br />”We are not human beings having a spiritual experience.<br />We are spiritual beings having a human experience.&quot;<br /><br />            ティルハード・D・チャーディン<br /><br />私の心はまだ巡礼の夢にまどろんでいるような気持だ。

    海岸通りのホテルからエンダヤ駅までの
    約4キロを歩いた。

    私の影が長く伸びている。

    巡礼杖はログローニョでフランチェスコにあげたので
    杖の影は映っていない。

    杖を持っていない私はもう巡礼者ではないのだと思う。

    「あの巡礼の日々は夢であったのだろうか。
     それとも今が夢なのだろうか。」

    荘子の「胡蝶の夢」ではないが夢と現実の垣根が
    一瞬崩れるような不思議な感覚を感じる。


    歩きながらある本で読んだ言葉を思い出した。

    「我々は霊的な体験をしている人間ではない。
     人間的な体験をしている霊的存在なのである。」

    ”We are not human beings having a spiritual experience.
    We are spiritual beings having a human experience."

                ティルハード・D・チャーディン

    私の心はまだ巡礼の夢にまどろんでいるような気持だ。

  • その夢のまどろみもエンダヤ駅に着くころには覚めてきた。<br /><br />駅のロビーは旅立つ旅行者で混雑していた。<br /><br />特にバヨンヌのバスク祭りに向かう人たちがたくさん乗り込んできた。<br /><br />私は祭りの町を通り越して一路パリに向かった。

    その夢のまどろみもエンダヤ駅に着くころには覚めてきた。

    駅のロビーは旅立つ旅行者で混雑していた。

    特にバヨンヌのバスク祭りに向かう人たちがたくさん乗り込んできた。

    私は祭りの町を通り越して一路パリに向かった。

    アンダイエ駅

  • モンパルナス駅には17:30過ぎに到着した。<br /><br />大きなターミナル駅らしく人がごった返している。<br /><br />私は雑踏の中に紛れながらモンマルトルの町に<br />押し出されていった。<br /><br />明日はドゴール空港から日本の我が家に帰るのだ。<br /><br /><br /><br />明日で「シベリア鉄道と巡礼の路45日間」の<br />このブログも最終回になります。<br />パリのドゴール空港、イスタンブールの乗り換え、成田空港到着<br />そして我が家への帰還までを報告します。<br /><br />我が家に帰ると新しい命の訪問が早速予定されていました。

    モンパルナス駅には17:30過ぎに到着した。

    大きなターミナル駅らしく人がごった返している。

    私は雑踏の中に紛れながらモンマルトルの町に
    押し出されていった。

    明日はドゴール空港から日本の我が家に帰るのだ。



    明日で「シベリア鉄道と巡礼の路45日間」の
    このブログも最終回になります。
    パリのドゴール空港、イスタンブールの乗り換え、成田空港到着
    そして我が家への帰還までを報告します。

    我が家に帰ると新しい命の訪問が早速予定されていました。

    モンパルナス駅

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この旅行記へのコメント (6)

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  • しにあの旅人さん 2019/06/28 15:01:41
    通読しました
    ここから読みはじめたようなので、ここにひとつ戻りました。
    4年前の旅なのですね。いい旅をなさいました。私にはできない旅ですが、感動的でありました。歩くのはやはり旅の原点ですね。

    2013tomo

    2013tomoさん からの返信 2019/06/28 17:13:15
    Re: 通読しました(ありがとうございました2013tomo)
    私のシベリア鉄道・南フランス、北スペインのカミーノ旅行記
    を通読いただきありがとうございました。
    私もシニアの旅人さんの後姿を追いながら久し振りに通読する
    ことが出来ました。
    これもシニアの旅人さんにグループ機能でまとめてみたら
    というアドバイスを頂いたおかげと感謝しています。
    やっぱり旅は楽しいですね。
    歩くスピードはますます遅くなりましたが流れ去る時間を
    踏みしめるような旅を続けたいと思います。
    シニアの旅人さんも益々旅を楽しんでください。
    それではまた旅のブログでお会いいたしましょう。

  • しにあの旅人さん 2019/06/27 10:50:44
    読みやすくなりました
    さっそく旅行記グループ機能で読んでいます。前後が出てくるので非常に読みやすくなりました。奥様によろしくお伝えください。
  • しにあの旅人さん 2019/06/26 06:49:04
    熟読しております
    フェデリーコ2世を読んでいただきありがとうございます。

    還暦1人旅熟読しております。
    ひとつお願いがあるのですが。いくつかのシリーズを書いておられますが、これを4Traの旅行記グループ機能で分類していただけないでしょうか。各シリーズが長いので、順番にじっくり読みたいと思います。

    バイヨンヌからサン・セバスティアンはもう35年くらい前にオートキャンプしながら通ったことがあります。なんにも知らないで通り過ぎました。
    あの辺はバスクですよね。ウナムーノというのは、バスク独立を望んだ人なのでしょうか。フランスにはバスク独立運動というのはないので、スペイン側のバスク人の感情がいまひとつ分かりませんでした。

    2013tomo

    2013tomoさん からの返信 2019/06/26 08:11:57
    Re: 熟読しております
    シニアの旅人様

    お便り有難うございます。
    2013tomoです。

    お互いに旅を楽しむシニアとして
    旅のブログを通じてエール交換ができることは
    うれしい限りです。

    さて「4Traの旅行記グループ機能で分類」という
    ご依頼ですが私たちのブログ管理は家内が担当して
    いますので彼女にお願いしておきます。
    日付順にブログを書いていたつもりですが修正や追記を
    しているうちにブログに時空的混乱が生じ私自身も
    どこに何を書いたのかわからないラビリンス(迷路・迷宮)
    状態になってしまいました。
    申し訳ありません。

    ウナムノについてはウィキペディア(Wikipedia)の
    サイトを見るとコンパクトにまとまっていました。
    彼はスペインの代表的な思想家として亡くなる直前まで
    サラマンカ大学の学長をしていました。
    書籍としては大分古い本ですが
    「ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯」
    佐々木孝氏著(講談社現代新書)1976年
    が良く書かれていると思います。
    図書館にあるかもしれません。

    私たち夫婦の旅はまだ「旅の中空(なかぞら」ですので
    体力、気力の許す限り暫くは旅を続けることになり
    そうです。

    またブログを通してお互いにエール交換をいたしましょう。
    それでは、また。

    2013tomo

    2013tomoさん からの返信 2019/06/27 09:41:49
    Re: 熟読しております
    シニアの旅人様

    2013tomoです。

    還暦一人旅のシベリア鉄道からフランス巡礼旅行記
    について4Traの旅行記グループ機能で本日分類いたし
    ました。
    日付が少し順不同になっているブログもありますが
    ほぼグループになっています。
    編集し直す良い機会を頂き感謝いたします。

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