2013/10/14 - 2013/10/28
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2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅
ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
2013年10月14日(月)〜10月28日(月)15日間
10月14日(月)
≪800年間イーゼンブルク伯爵家の居城であったビューディンゲン城に残る伝説≫
旅行時期 2013/10/14 - 2013/10/28 (2014/01/07投稿)を先に掲載していますが、
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10846815/
この古城ホテルにまつわるもう一つの伝説がありました。
写真はビューディンゲン城
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
≪若き伯爵夫人エリザベート妃とビューディンゲンの蛙(カエル)戦争≫
ビューディンゲンの町を散策していると、旧市街の木組み建築の家の壁に大きな、緑色に彩色されたカエルが貼りついていた。
ビューディンゲン城の城門の壁にも同様に多色で彩られた大きなカエルが居た。
グリム童話の冒頭を飾る“Der Froschkoenigカエルの王様”はここの話なのかと、出発前にレセプションで小母さんに聞いてみた。
“イエ、言われるような”カエルの王様“ではなく、この城にまつわる伝承の蛙ですよ。ご興味あれば、説明書きをあげます。”と親切に独・英の2つの説明書を差し出した。帰国してから、まずこの伝承から読みだした。
写真はビューディンゲンのシンボルのカエル像 -
以下は、その説明書きと、Web検索して見つけたPortal Rhein-Mainの一文を参考にして、訳してみた。
其々の題名は“Buedingen und seine Fraeraeschビューディンゲンと町のカエル”、
“Die Frosch-Geschichteカエルの歴史”、
“ Der Froschkriegカエル戦争” 、
“Buedinger Froescheビューディンゲンのカエル”
と、様々である。
写真はビューディンゲンのカエル祭り -
≪若き伯爵夫人エリザベート妃とビューディンゲンの蛙戦争≫
ビューディンゲンの町の人を世間では≪Die Fraeaesch≫つまり“Buedinger Froescheビューディンゲンのカエル”と呼んでいます。
このニックネームは1522年に起こった事件・・・そう今は伝説になっていますが、それに因ったものでした。
1522年のこの時、Graf Anton zuYsenburg(=Isenburg)und Buedingenアントン・イーゼンブルク・ビューディンゲン伯爵はElisabeth von Wiedヴィート家の娘エリザベートと新婦の故郷で結婚式を挙げ、若く、美しい新婦とともにビューディンゲンの町で盛大に結婚披露宴をあげる為に帰国したのでした。
蛇足ながら、新婦はドイツの王族・侯爵ヴィート家の出ですが、この一族に同名のElisabeth Pauline Ottilie Luise zu Wiedエリザベート・パウリーネ・オッティリーエ・ルイーゼ・ツー・ヴィート(1843~1916年)という方がいて、ルーマニア王カルロ1世と結婚し、ルーマニア王妃になっている方がいる。
写真はビューディンゲン城の本丸(天守閣・城内博物館) -
ビューディンゲンの町の人々は新婚の城主夫妻を喜び、大騒ぎして迎えたのです。
この結婚を祝う旗がいくつも掲げられ、新婚夫婦がくぐり登場する門も美しく、きらびやかに飾り立てられ、篝火は盛大にたかれ、真っ白の衣装に着飾った侍女たち、制服に身を整えた銃隊が立ち並び、それは、それは盛大な歓迎式典になったのでした。
写真はビューディンゲン城の城門に張り付くカエル像 -
そして、夜がふけると共に歓迎の宴が終わり、新婚夫婦は寝室に向かい、アントン伯爵は新婦を抱きかかえて、今宵の準備も万全な、張り出し窓の部屋に入りました。
ところが、新郎は疲れであっという間に寝てしまいました。
・・・が、エリザベート妃は眼が冴えて、寝られません。夫が目覚めるのを待って、寝台の片方に横たわり、静かにあれこれと考えていました。
写真はビューディンゲンの木組みの家に張り付くカエル像 -
すると、城の内外の池や広い水濠から、妃の耳に大きな合奏が聞こえてきました。とてもコンサートの音楽のようなものではない、雑音!です。
1000匹ものカエルが一斉に鳴きだした音のように聞こえたのです。ゲロゲロ、ケロケロ(ドイツのカエルの鳴き声は良く分からないけど・・・)、グアー、ガアーの合唱ですから、うるさい事でしょう。
賑やかな宴会最中はカエルも静かにしていたのでしょうが、辺りが静寂に包まれると、自分たちの世界とばかりに、やかましく鳴きだしたのです。
写真はお城の前の広場 -
宴の後の疲れと興奮もあって、神経が過敏となっていた新妻と違って、アントン伯はカエルの声も聞こえぬまま熟睡を続けていました。
若い新妻には何やらここで起きた事の全てが許されないものと思われ、これは離縁する要因だと思ったのです。
“貴方はこの事を隠していたのね!ゲロゲロ、ケロケロ、グアー、ガアーの合唱なんて、一時も我慢が出来ないわ!もう頭痛がしてきた。
明日になったら、お父様の所に帰ってしまいますからね。貴方、これに対処して頂けるのかしら?!それとも私を失う?!”と喚いたのです。
写真は町を流れるゼーメンバッハ川(全長37km) -
さて、これを聞いて、アントン伯は頭の中で、カエルの合唱など、幼少の頃から聞かされて、町の人々と同様にこの声に慣れ親しんできたのにと思いつつも、新妻の怒りに新郎も何とかせねばならぬと・・・、絶えず鳴くカエルを出来るだけ急いで、始末せねばと考えたのでした。
夜中、寝室から遠ざけていた宮中顧問官、侍従、召使い、そして町の人々に対して伯爵の意向として、直ちに町中の鐘を鳴らし、緊急に人々を城前の広場に招集し、“平和を乱す!カエルを黙らせよ!”と命令したのです。
写真は城内の中庭 -
そこで、彼らはまだ夜明け前の時間でしたが、手に、手にバケツや篭、ワナ、網、フック、弓、槍を持って、木立や宮殿周辺の掘割に分け入りました。
とりわけ町長は“これはイーゼンブルク・ビューディンゲン家とヴィート家の政治的な繋がりにとって大変重要な事なのだ。”と皆を叱咤激励したそうです。
はせ参じた少年少女たちも早速、目に入った緑色した生物は全て掴み取り、篭に取り込んでいきました。正午までには、城の周辺は全て取りつくし、その結果、カエルの騒がしい鳴き声はもう全く耳に聞こえてきません。
そこで、人々は市街のマルクト広場に移り、更にカエルを取り続けました。
写真はビューディンゲン城と庭園の道 -
この頃、大量のカエルたちを捕らえた後、どうするか?そろそろ考える時間に至ったと人々は思ったのです。
町の参事会員の会議で議論が続いている頃、妃のエリザベートが目覚めたのです。そして、あたりの静寂さがとても快く、満足げに喜んだのでした。
さて、一方の町の参事会員の間では取ったカエルの処分方法で揉めていました。カエルも捕らえ方に依り、死んだものや、息絶え絶えの傷を負ったのもいます。“火あぶりにして焼いてしまえ!”“カエルは水にぬれて、湿っているから燃すのも大変だぜ!”“カエルの足は美味いと聞くが!”“銃で皆殺しにしたらどうか?”といった極論まで出て、議論は一向に纏まりません。
写真はビューディンゲン城の高台にある城主の館・“黄色のヴィラ”と呼ばれる邸宅 -
すると、町長がマルクト広場に現れて、“一案がある。町を流れるゼーメンバッハ川(全長37km)にカエルを投げ込んでしまうのはどうか?”と言ったのです。人々は目から鱗がとれた思いがして、漸く、皆の意見が一致したのです。
そこでお城に急ぎ使いを送り、新郎新婦に“ゼーメンバッハ川に架かる水車門橋までお出まし頂きたい。”と願ったのです。
再び、バケツなどにカエルをいっぱい詰め込んだ人々は水車門橋まで来て、椅子に座った新郎新婦の目の前で、川の中にカエルどもを投げ入れたのです。
あっという間にカエルは水中に引き込まれていきました。投げ込んだカエルの姿はもう見る事はありません。
町の人たちは“やった!やった!”と喜びの声をあげたそうです。
その夜、生き残ったカエルたちの小さな合唱が聞こえたそうです。それは勿論ロマンチックなものではありませんが・・・。それらのカエルも他の町に追いやり、町の人々はついにカエルを全て放逐する事に成功したのです。
写真はビューディンゲン城の冬景色 -
伯爵夫人がカエルの鳴き声に眠りを妨げられると感じておられるか、もう彼らが知る事はありませんでしたし、妃からもカエルについての感想を、誰も聞く事も無かったのです。
妃はこの事件で説得力のある行動をして見せたのか?!それとも・・・。誰もそれについて説明できるものではないが、城主夫妻の危機に町の人々が懸命に行動した事を目の当たりにして、妃の気持ちに何かが芽生えたのでしょう。
この後の妃はビューディンゲンの町の人々に徐々に親しみを感じ、この町と人々に馴染んでいったのです。
写真はビューディンゲン城 -
ビューディンゲンの町の人々はその後、祭りのある度に、記憶すべきこの夜の事をしばしば語りあったと云います。しかも、人々はこの町はカエルのいない、最もドイツで清潔な町であると、楽しげに自慢したそうです。
それ以来、ビューディンゲンの町の人々は近隣の町々から、≪Die Fraeaesch≫つまり“Buedinger Froescheビューディンゲンのカエル”と呼ばれています。
この事を町の人たちは“名誉称号”と受け取り、そう理解し、自分たちの行為を少々自慢に思ったそうです。
その後、カエルはビューディンゲンの町のシンボルとなり、怒りや迷惑な存在から、人々を和ませる存在になって行きました。
町の各所に立ち、壁に張り付き、よじ登るといった多彩なカエルの姿が見られ、人々の人気も高いのです。
今や、町の人々はカエルのシンボルマークを付けたサッカーチームの応援に熱中している。
(2013.11.13.訳・編集)
写真はビューディンゲンのサッカーチーム -
町長さん以下、市民総出の活躍でカエルの一斉駆除が行われた努力に驚きました。やはり16世紀の頃、城塞都市の町、城主以下、対外的には一致団結が大変重要な意味があったのでしょう。
とりわけ、政略結婚(当時としては当たり前であった。)の花嫁、その実家の実力を思えば、花嫁の一言はとてつもない重みがあった事でしょう。
この際、妃が美しいか、そうでないかは重要でなく、折角の結婚披露の夜を台無しにするかもしれなかったカエルの所業は住民にとっても”悪”であった。
このような伝説には当時の人々の考え、時代の流れとかいったものが見られて、私には興味深く、たいへん面白いのです。
XXX
写真はカエルの王様 -
追記;
私共が知っているグリム童話の“Der Froschkoenigカエルの王様”の粗筋とは:
『ある国の王女が、泉に金の鞠を落としてしまう。
そこへカエルが「自分を王女様のお友達にしてくれるのなら、池に落とした金の鞠を拾ってきてあげよう」と申し出る。王女は鞠を取り戻したい一心で、その条件をのむ。
しかし、王女は鞠を取り返すと約束を破ってカエルを置いて帰る。
それでもカエルは自力で城にたどり着き、王女に約束を守るように言う。
王女は嫌々ながらもカエルと一緒に夕食をとった後、すぐに寝室に戻るが、カエルは寝室にまであがりこんできていた。
図々しいカエルを見て王女は怒りのあまりカエルを壁に叩きつけるが、そのおかげでカエルの魔法が解け、立派な王に戻る。
これまでの無礼を詫びた王の求婚を受け、二人は幸福な結婚をする。』
といったものだ。
写真はカエルの王様・ドイツの童話切手シリーズから -
10.14.(月)
(1泊)Hotel Schloss Buedingen 古城ホテル ビューディンゲン城
D-63654 Buedingen 、Schlossplatz 1
Tel:+49 (0) 6042 - 9647- 0 、Fax: - 9647-10
http://www.schloss-buedingen.de/index.php?q=startseite.html
ヘッセン州Wetterauヴェッテラウ地区、中世の趣ある城塞都市に、この古城ホテルHotel Schloss Buedingenビューディンゲン城がある。ビューディンゲンの町はフランクフルトより北東に凡そ60kmの距離にある。
街道開設37周年を迎えるという“Deutsche Maerchen Strasse ドイツ・メルヘン街道”・・・ハーナウから、グリム童話の世界を目にしながら、ブレーメンに至る600kmの街道にも近く、
写真はBurg Ronneburgロンネブルク城(今は城址) -
また、“Deutsche Fachwerk Strasseドイツ木組み建築の家街道”の1ルート上にある。
Vom Weserbergland ueber Nordhessen zum Vogelsberg und Spessartヴェーザーベルクラントから、北部ヘッセンを経由し、フォーゲルスベルク・シュペッサートへの道 は次の町々を通る。;
Hannoversch Muenden - Eschwege - Hessisch Lichtenau - Spangenberg - Melsungen - Wolfhagen - Bad Arolsen - Korbach - Fritzlar - Homberg (Efze) - Rotenburg an der Fulda - Bad Hersfeld - Schwalmstadt - Alsfeld - Schlitz - Lauterbach - Gruenberg - Lich - Butzbach - Buedingenビューディンゲン - Gelnhausen - Steinau an der Strasse
写真はBurg Runkel_Lahnルンケル城(ラーン川流域) -
古城ホテルは城門をくぐって、左手にあり、かつてのVorburg一の丸の郭のようなもので、ぐるりと輪を描くように城郭の一角がホテルになっており、その2階に部屋があった。
この夜の古城ホテルにはお客が私共だけで、城主も帰り、誰もいなくなったホテルはかつて何度か体験していたが、古色然としたビューディンゲン城に”城の幽霊”が出てくるかと思いました。
古城ホテルの部屋は少々傾いた床で、部屋の鍵を開け閉めするのに少々コツを要した。
写真はBurg Limburgリンブルク城(今は町の行政部門が使用)、 -
部屋には“白雪姫の部屋=5号室”とあり、右から広い浴室、中の間(休暇用の食事を作る設備もあった)、そして寝室があり、古いが落ち着いた色合いの部屋であった。
室料はEuro125(朝食込み・12,812円)。
3星・全16室、全ての部屋には名前が付いている。
それらは“いばら姫、ラプンツェル、カエルの王様、青いランプ、雪白とバラの赤”と言った名前が見られたから、メルヘン街道に因んだ遊び心のようだ。但し、“Das blaue Licht青いランプ、Schneeweisschen und Rosenrot雪白とバラの赤”の童話は知らない。
写真は“白雪姫の部屋=5号室”! -
<ビューディンゲン城の歴史>
1131年に城の起源は遡り、Hohenstaufenホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝バルバロッサ(フリードリヒ1世の呼び名、赤髭王と称されて、ドイツ人に人気の高い皇帝)治下のビューディンゲンの騎士の水城であった。
元来はビューディンゲンの森にあった赤髭王の狩猟地の防衛拠点として、水城は築城されたそうで、1219年には古い歴史資料に登場している。
驚く事に13世紀から今日まで、Grafschaft Isenburgイーゼンブルク伯家の居城であった。
イーゼンブルク伯家はイーゼンブルク城(現在のラインラント・プファルツ州のノイヴィート郡イーゼンブルクを発祥の地として)を名字にしたらしい。
18世紀には、伯爵領は現在のヘッセン州カッセルおよびダルムシュタット地域に広がっていた。
写真はIsenburger Schloss in Offenbachイーゼンブルク城(オッフェンバッハ芸術造形大学が所有)、 -
13世紀からの25.8m高さを持つ天守閣を中心にした城郭はかつての水城を思わせる水掘が見られ、城の後ろには小川が流れ、池が点在し、その跡を示している。
城郭の後背には広大な庭園が広がり、緑の中に中世のロマネスクからバロック様式の城が立っている。
写真はSchloss Birsteinビルシュタイン城(侯爵家の居城)、 -
21代を数えるIsenburg-Buedingenイーゼンブルク・ビューディンゲン家は現在、"Fuerst zu Isenburg"イーゼンブルク侯爵家の称号を名乗っている。
現城主はWolfgang- Ernst zu Ysenburg(=Isenburg) und Buedingenヴォルフガング・エルンスト・イーゼンブルク・ビューディンゲン侯爵と言う。
侯爵殿は広大な庭園の少し高台に、レセプションの小母さんの言う“黄色のヴィラ”と呼ばれる邸宅に住んでいるとのことだが、2011年には侯爵家の私有会社と、ヴォルフガング・エルンスト社長自身も破産したと云う。
2013年5月9日のBildビルト紙!によると、香港の貸主某氏から侯爵殿は借りた金100万ユーロの金利、凡そ6万ユーロの支払いを求められて裁判沙汰になっているとあり、
侯爵家の没落(Der Niedergang)・・・イーゼンブルク侯爵家の頭上に漂う黒い雲・・・という記事が散見されている。
イーゼンブルク侯爵家は今日まで、ヘッセン州最大の広大な私有地(8,500ha=約3,000坪X8,500なので25.5百万坪)であったビューディンゲンの森を売り、2001年に1578年以来の侯爵家のビール醸造会社を手放し、更に2005年には175年の歴史を持ったWaechtersbacher Keramikベヒテルバッハー陶磁器工場も売却しており、今後の侯爵家とビューディンゲン城の行方が気になる所だ。
写真はビルト紙の写真:黒雲を背景にしたヴォルフガング・エルンスト・イーゼンブルク・ビューディンゲン侯爵と城 -
<城内博物館>
14〜17時開館(月は休み)。今年の城庭園祭りは9月5日〜8日だった。
月曜日の到着で、翌日も次の目的地に向かう為、博物館を見るチャンスが無かったが、頂いたパンフレットを見てみると、本丸には門番の石像、魅力的な張り出し窓、階段塔、天守閣があり、宮廷内には幾つものフレスコ絵画の間、台所、曲線状の広間(城内図書館)城内礼拝堂、暖炉の間、食堂の間、武器の間等が見られ、見学したいと思った。
写真はSchloss Arenfelsアーレンフェルス城(19世紀に大改装したままが現存) -
XXX
長い歴史を持つイーゼンブルク侯爵家一族の居城は
*ビューディンゲン城(侯爵家の居城)の他に、
*Burg Ronneburgロンネブルク城(今は城址)、
*Burg Runkel_Lahnルンケル城(ラーン川流域)、
*Schloss Birsteinビルシュタイン城(侯爵家の居城)、
*Burg Limburgリンブルク城(今は町の行政部門が使用)、
*Isenburger Schloss in Offenbachイーゼンブルク城(オッフェンバッハ芸術造形大学が所有)、
*Schloss Meerholzメーアホルツ城(現在、養護施設)、
*Schloss Waechtersbachヴェヒタースバッハ城(個人所有)、
*Schloss Philippseichフィリップスアイヒ城(Dreieich・Goetzenhain個人所有)、
*Schloss Arenfelsアーレンフェルス城(19世紀に大改装したままが現存)
*Stammburg Isenburgイーゼンブルク城(城址・一族の発祥の地)、
*Niederburg Kobernコーベルン城(城址)、
*Burg Grenzauグレンツァウ城(城址)、
・・・と12の古城・城址がある。
写真はSchloss Waechtersbachヴェヒタースバッハ城(個人所有)、 -
写真はSchloss Meerholzメーアホルツ城(現在、養護施設)、
-
尚、Schloss Philippseichフィリップスアイヒ城はイーゼンブルク・オッフェンバッハ伯Johann Philippヨハン・フィリップにより、1715年頃にDreieichドライアイヒ・Goetzenhainゲッツェンハインに築城されたものだ。
写真はSchloss Philippseichフィリップスアイヒ城(Dreieich・Goetzenhain個人所有)、 -
フランクフルトの近郊にNeu-Isenburgノイ・イーゼンブルクという町がある。
レンタカー返却前に最後の給油をしばしば行う町なのだが、この町の歴史は17世紀末にフランスのユグノー教徒を受け入れて作られた町(亡命地)だと云う。従って、”ユグノー教徒の町“と呼ばれているとの事です。
(フランスの新教徒でフランスでは迫害された。これを“ユグノー戦争”と云い、1562〜98年までフランスの新旧キリスト教徒間で起きた。)
彼らの新しい領主となったイーゼンブルク・オッフェンバッハ伯Johann Philippヨハン・フィリップはユグノー教徒を保護し、フランス語の使用や信仰の自由を認めた。伯は亡命者達に、Offenbachオッフェンバッハの南、Dreieichドライアイヒの森の中にある中世に建設された巡礼地である聖十字架礼拝堂付近を開墾して定住することを許した。
オッフェンバッハ伯への感謝を表すために、この町は彼に因んで「ノイ・イーゼンブルク」と命名されたとWikにあります。
写真はStammburg Isenburgイーゼンブルク城(城址・一族の発祥の地)、 -
写真はNiederburg Kobernコーベルン城(城址)、
-
ついでながら、イーゼンブルク・オッフェンバッハ伯はイーゼンブルク侯爵家とは分枝した親族同士で、1628年から1631年にかけてビューディンゲン系統とオッフェンバッハ系統に分かれたのだそうです。
因みにイーゼンブルク・オッフェンバッハ伯の居城イーゼンブルク城(オッフェンバッハ)は現在、オッフェンバッハ芸術造形大学が所有している。
XXX
写真はBurg Grenzauグレンツァウ城(城址)、
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