traveldogさんのクチコミ(8ページ)全180件
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
上野の東照宮の社殿は現在工事中でしたが、一番古いという銅燈籠を見てきました。
それは藤堂高虎が奉納した寛永5(1628)年のもので、社殿向かって左側の一番遠いところにあります。基盤の石部分には虎が彫ってありました。
上野山は東照宮や寛永寺が建てられる前は、藤堂、津軽、堀家の屋敷があったとのことです。
藤堂高虎−伊賀上野−上野 この流れ面白いですね(本当かわかりません)。
その他の銅燈籠は、慶安4(1651)年、5(1652)年とだいぶ後になります。
寛永のころのものには
銅燈籠 藤堂高虎奉納 寛永5(1628)年 参道左側
お化け燈籠 佐久間勝之奉納 寛永8(1631)年 大鳥居に向かって左の方、精養軒寄り
大鳥居 酒井忠世奉納 寛永10(1633)年 参道入り口
がありました。- 旅行時期
- 2012年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2013年03月12日
総合評価:3.5
最近、科学博物館の前の林がすっきりと整備されたので、今まで目立たなかった野口英世像の場所が分りやすくなりました。東京に○十年住み、幼少時から上野公園に通っているのですが、林が整備され、道も広くなったせいか、最近、ここに野口英世像があることを知りました。
野口英世、明治9(1876)年11月9日福島県猪苗代湖畔の農家に生まれ、幼少時に囲炉裏で火傷した左手の治癒を切っ掛けに医学を志した話は有名です。改名前の名は清作。
黄熱病の研究中に自ら感染し、昭和3(1928)年5月21日ガーナで没したそうです。
野口英世は、黄熱病ウィルスを見ることができない光学顕微鏡で発見に挑んでいました。電子顕微鏡が作られたのは死後のことだそうです。
像の案内によると、野口英世の偉業を後世に伝えるために製作されました。彫刻家吉田三郎(1889年5月25日-1962年3月16日)により製作され、昭和26(1951)年3月21日に除幕式が行われました。- 旅行時期
- 2013年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年04月07日
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投稿日 2013年03月08日
総合評価:3.5
法華経の信仰厚かった賢治は、大正9年に国柱会信仰部に入会し、大正10年1月突如花巻から上京し、街頭での布教、下足番など国柱会への奉仕活動を開始した。そのとき国柱会理事の高知尾智耀から法華文学の創作を勧められ、奉仕活動とともに1日300枚の原稿用紙を書き上げるという驚異的な執筆活動を行った。
賢治が間借りした本郷菊坂町75番地の稲垣方の建物の跡地がここである。上道から下道に下る坂の途中にある案内板には、賢治旧居跡は右手建物の中央付近と書かれていた。2階6畳に間借りしたという。
この場所を確かめたく、ちょうど家から出てきた男性に旧居跡の絵葉書を見せて尋ねた。とても懐かしそうに「この電信柱は昔と変わらないです。この坂の向かいの建物がそうです。」と教えてくれた。かつての二階建ての木造家屋は、三階建てのモダンな建築に変わっていた。
同年8月中旬妹トシの発病により、花巻に帰える。その後、賢治は花巻農業高校教諭となり、優れた教育者として、また非凡な文学者として、賢治自ら「愉快で明るい」といわせた充実した4年余の日々を送ることとなる。ただ一つ哀しいことは、翌年の大正11年11月に最愛の妹トシがなくなったことである。- 旅行時期
- 2013年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年03月12日
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投稿日 2013年02月18日
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投稿日 2013年02月01日
総合評価:5.0
国府台には里見公園と国府台公園があって、初めての人は混乱するかもしれません。
国府台城跡があるのは里見公園で、国府台の北西、江戸川に近い方にあります。
一方、国府台公園は、スポーツセンターの場所で国府台の南東、弘法寺の北側に位置しています。
国府台城跡からの江戸川越しの夕日が美しいです。スカイツリーと右に富士山が見えて、日没時には富士山のシルエットが浮き上がります。立冬と立春頃には、夕日が富士山頂に沈むダイヤモンド富士が見えるそうです。
国府台城は、太田道灌が築いたとされていて、その後何度が合戦の舞台になりました。
・文明10年(1478)太田道灌が千葉自胤を助けるために、国府台に陣屋を設け、千葉孝胤と境根原(柏市)で戦い破る。
関東一円に覇権を広げようとする北条氏とそれに抵抗する安房里見氏がここで戦いました。
・天文7年(1538)小弓公方足利義明・里見義堯が国府台城に立て籠もり、北条氏綱と戦うが敗北。
・永禄7年(1564)里見義堯・義弘が北条氏康と戦い多くの戦死者を出して安房に敗走。
戊辰戦争時にも官軍と旧幕府軍との戦争の舞台になりました。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- バス
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 最近人気のスポットで結構カメラマンが多い
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2013年02月15日
総合評価:5.0
小石川後楽園に2月中旬に行きました。梅園には白梅、紅梅が咲き、蝋梅が香りを運んでいました。寒牡丹の花も咲いてました。
後楽園には、枝垂れ桜、菖蒲畑、藤棚、松林があり、紅葉も見事で四季それぞれ楽しめます。園内には京都の風景にあやかった渡月橋に大堰川、愛宕坂(愛宕神社)をはじめ、朱塗りの通天橋や満月の形の円月橋、西湖の堤、白糸の滝、木曽山、寝覚め滝などがあり、園内を一周しながら各地を旅する気分が味わえました。
梅林の端に「藤田東湖護母致命之處」の碑がありました。安政大地震で水戸藩江戸上屋敷において、御母堂を助けようとした藤田東湖が崩れた鴨居の下敷きになり亡くなりました。場所は少し違いますが、その記念碑です。
入口に涵徳亭という食堂があり、安価630円で昼定食を提供してました。鉄火丼、カレーの煮つけ定食などあり、美味しかったです。
後楽園入口へは飯田橋駅(メトロ、JR)の水道橋側から行くのがお勧めです。予想以上に近いです。東京都の公園で入園料300円、65歳以上150円です。- 旅行時期
- 2013年02月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2013年02月09日
総合評価:4.0
「今度子どもが生まれるんだってね」「そうでありま(有馬)の水天宮」
こんなダジャレの元になってる東京人形町にある水天宮の総本宮は、久留米の水天宮で、江戸時代後期に久留米有馬藩の上屋敷(江戸の赤羽橋付近)に分祀されました。どちらも壇ノ浦で入水した安徳天皇、建礼門院、平時子(二位の尼)を祀る神社です。
江戸の庶民にとって有馬藩邸内の水天宮と火の見櫓が有名でした。水と火の組み合わせがいいですね。水天宮への御賽銭が有馬藩の財源のひとつだったとか。
それが明治5年に今の地に遷りました。(中央区日本橋蛎殻町2丁目4番1号 東京メトロ半蔵門線の水天宮前駅 5番出口)
この辺り下町情緒が残っています。粕漬けの魚久、重盛の人形焼、甘酒横丁・・・・
水天宮は安産の御利益があるとのことで、商店街にマタニティの店が並んでました。- 旅行時期
- 2011年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年11月23日
総合評価:5.0
大宰府展示館の方から大宰府政庁跡に入るところに有名な万葉集の歌「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり」の碑がありました。
作者は大宰少弐小野老と解説文にあり。大宰府での宴会のときに詠った歌だそうです。奈良の都で詠まれた歌ではないのですね。
都から着任したばかりの小野老に、だれかが「奈良の都は今頃はどんな風でしょうか」と尋ねて、「それはそれは奈良の都はまるで満開の花のようににぎわっていますよ」と答えた光景を思い浮かべてしまいました。
大宰府の皆が都に帰りたくて仕方がない、都のことを知りたくて仕方がない、そんな気持ちに答えることから生まれた歌なのでしょう。- 旅行時期
- 2012年08月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2013年02月08日
総合評価:2.5
東京スカイツリーにある「すみだ水族館」に行きました。ワンフロアーの小さな水族館ですが、ペンギンが泳いでいました。館内に売店があって、ドリンクなどを売ってました。階段状のベンチがあって、座って飲食ができます。
入館料2000円(大人)でちょっと高いという感じですが、年間パスポート4000円(大人)で売ってたので、つい比べてしまい、年間パスポートを買ってしまいました。その後、行ってません。1年以内にもう一回行くと元が取れると思いつつ、なかなか行く機会がありません。- 旅行時期
- 2012年10月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年02月09日
総合評価:4.0
いつの頃のことでしょうか、貧しいけれども見目麗しい乙女が市川の真間に住んでいました。一説には国造の娘で、分けあって世を忍んでいるとも伝えられています。名を手児奈と云いました。
娘には多くの男たちが言い寄って来て、最後には争い合う様子でした。それに心を痛めた娘は真間の入江に身を投じてしまいます。
この話は、奈良時代には、都へも聞こえていたらしく、山部赤人や高橋虫麻呂といった万葉の歌人たちが手児奈の墓を訪ねて、歌に残しています。手児奈を哀れに思ったのちの人たちがここに霊堂を造り、その霊を祀りました。
何やら知らないが、今では手児奈には安産の御利益もあるとか云われています。
JR市川駅から歩いて15分ほどの所、真間山下にあります。途中の道の両側の塀には、万葉集の歌のパネルが貼られていて、きれいな筆文字を眺めながら歩いているとあっという間に着いてしまいます。境内には真間の入江の名残りと思われる池が残っていて、静かなたたたずまいです。入口の手前に真間の継橋の赤い橋があり、このあたり万葉集の宝庫です。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年12月14日
総合評価:4.0
現地の案内に「元禄6年12月この地先の隅田川に架設起工し52日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり」と書かれ、両国橋に対して新大橋と名づけられたそうです。
当時の新大橋は現在の新大橋よりも南に架かっていました。
芭蕉も施工中に「初雪や かけかかりたる 橋の上」、完成後「ありがたや いただいて踏む はしの霜」と詠んだとのことです。芭蕉庵跡がこの近くにあります。
その日、六間堀跡、猿子橋跡と思しき交差点等を散策しました。『居眠り磐音 江戸双紙』の坂崎磐音が明和9年10月足を引きづるように新大橋を渡り、帰って行った六間堀町の金兵衛長屋は、まさにこの付近の設定です。- 旅行時期
- 2012年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 周辺の旧跡を訪ねがてらがお勧めです
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 通行人だけです
- 見ごたえ:
- 3.5
- 単なる碑です
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投稿日 2012年12月02日
総合評価:4.0
深川の地名は、この地を開拓した深川八郎右衛門の姓に由来しています。この八郎右衛門が信仰する伊勢神宮をこの地に分祀したのが、深川神明宮の始まりで、深川発祥の地とされています。
神明宮前の由緒書によると、慶長元年に徳川家康がこの地を巡察した際に、葦原だった深川の地を一族率いて開拓した深川八郎右衛門を召して、地名を尋ねたが、名もない土地であると答えたところ、家康が八郎右衛門の姓「深川」をもって地名とするように命じたのが、深川の地名の由来とのことです。
この辺りにはかつて六間堀があって、『居眠り磐音 江戸双紙』の舞台でもあります。芭蕉記念館近くに旧新大橋の碑もあります。
都営地下鉄森下町からが近いですが、東西線門前仲町から清澄庭園、深川江戸資料館、芭蕉稲荷の芭蕉庵跡などを見学しながらのんびりと歩くのがお勧めです。- 旅行時期
- 2012年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年02月02日
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投稿日 2013年02月01日
総合評価:4.0
木場洲崎神社の境内に寛政の波除碑(なみよけひ)があります。
寛政3年9月に木場を襲った台風が甚大な被害をもたらし、洲崎一帯の民家を押し流しました。
その後寛政6年に幕府は洲崎神社の西側一帯(東西285間、南北30余間)を買い上げ空地としました。その東西北側の角に波除碑を建て、高潮への警鐘としました。洲崎神社境内と平久橋西詰に2基現存しています(上部が破損していますが)。
現地に建てられている新しい標識には「津波警告の碑」と書かれていますが、次の東京市史稿には大風雨による海嘯、高潮とあるので、地震ではなく台風の被害であると思われます。津波と高潮ではかなり意味が違います。
「9月4日には、大風雨、海嘯有り。深川・霊巌島・築地芝浦等、瀕海の地は皆高潮上り、就中州崎の被害最も甚しく、吉祥寺門前の民家は住民と共に流亡す。市中の諸川また為に漲溢し、橋梁の損破少なからず。」(『東京市史稿』)
洲崎神社はもと洲崎弁財天と称し、吉祥寺と一体でしたが、明治維新の神仏分離で洲崎神社となりました。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 木場の駅から近い
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人は少ないです
- バリアフリー:
- 3.0
- 木場駅にはエレベータがあります。
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2013年01月21日
総合評価:4.0
市川駅から真間大門会の商店街をまっすぐ行くと弘法寺の石段の下に着きます。
100段ばかりの石段を上がると仁王門があります。
名前の弘法寺から真言宗開祖弘法大師を連想させますが、今は日蓮宗の寺です。「ぐほうじ」と読みます。
なんでも鎌倉時代にこの寺の住持了性が中山法華経寺の日常との問答に負けて、日蓮宗に改宗したとか。
奈良時代に行基が手児奈の霊を供養するために求法寺(ぐほうじ)という寺を建てたのが始まりだそうです。弘法大師が七堂を建てたので弘法寺に変わったとのこと。
境内は見所がいっぱい。里見八犬伝の伏姫の名がついて枝垂れ桜―伏姫桜、一茶の句碑、前方後円墳の弘法寺古墳、伝運慶作の金剛力士像など。
境内から見た市川の景色もまあまあです。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 15分ほど歩きます
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- ちらほら散策している人がいる程度
- バリアフリー:
- 1.0
- 正面は石段と坂があります
- 見ごたえ:
- 4.5
- 東京に近い割には歴史文化が残っているので◎
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投稿日 2013年01月21日
総合評価:4.0
全国の国分寺とともに聖武天皇の詔により創建されたものですが、建築時期は不明とのことです。江戸時代は、国分山金光明寺といったそうですが、今は国分山国分寺です。
戦後発掘調査が行われ、講堂(奥中央)、金堂(右)、七重塔(左)の法隆寺様式の伽藍配置であったことがわかりました。
また、朱塗りの仁王門が復原されて、思わず目を引きます。このあたり下総の農村の景観を残していて、仁王門のお蔭で江戸時代と天平時代が合わさった不思議な感じを抱かせます。
国分寺から更に歩いて10分ほどのところに下総国分尼寺の史跡があります。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 市川駅から2km程 歩くしかない
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 観光客は皆無
- 見ごたえ:
- 3.5
- 仁王門は必見
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投稿日 2013年01月17日
総合評価:3.5
浅草の松が谷にある曹源寺は、「かっぱ寺」の通称で知られています。
文化年間に雨合羽商人の合羽川太郎(合羽屋喜八)が私財を投げ打って水はけを良くするために排水の掘割工事をしたそうです。その時以前に川太郎に助けられた隅田川の河童が工事の手助けをしたという伝説が残っています。
銀座線稲荷町駅か田原町駅から歩いて15分ほどです。道具街で有名な合羽橋商店街を見物しながら行くのでしたら田原町の方が良いです(こちらの方が楽しいです)。合羽橋交差点を左折するとすぐです。
住所 東京都台東区松が谷3-7-2- 旅行時期
- 2012年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2013年01月17日
総合評価:3.5
御朱印帳の御朱印についてです。
寺院の御朱印は、御本尊名を墨書きした上に御朱印を押します。
神社の御朱印は、神社名を墨書きした上に御朱印を押す場合と御朱印だけを押す場合があります。
伊勢神宮内宮は、「内宮之印」という御朱印だけを押して、神宮、伊勢神宮、内宮、皇大神宮等の文字は書きません。- 旅行時期
- 2012年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0






































