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yoshimune-kunさんのクチコミ(4ページ)全99件

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  • 「和佐富士」との異名を持つハイキングに適した山

    投稿日 2015年09月04日

    高積山参道 和歌山市

    総合評価:4.0

    高積山は、和歌山市東部にある標高237mの山で、麓には「高積神社下の宮」、算長には「上の宮」があり、その参道が手頃なハイキングコースになっています。
    また、その道沿いにはさまざまな見所があり、さながら「パワースポット街道」のような雰囲気もあります。

    上りはじめてしばらくすると左手に見えてくるのが福地蔵尊と「南無阿弥陀佛」の石碑。この石碑は、徳本上人(とくほんしょうにん)の名号碑(みょうごうひ)といわれ、江戸時代に全国を行脚して「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで人々を救ったとされる徳本上人ゆかりの碑です。文化9(1812)年、上人は紀州藩十代藩主徳川治宝公に招かれてこの高積山に庵を設け、同11(1814)年まで約2年間、この碑の近くに滞在したと伝えられています。

    道路の脇には、「一丁」「二丁」と記した標石があり、山頂までの距離を示しています。下の宮付近が八丁、山頂が一丁となっており、これを目安にすれば山頂までのだいたいの距離が判ります。

    尾根に出ると、左に高積神社上の宮、右に行けば城ケ峰へと至る分岐点に梵字の刻まれた標石があります。この梵字は、観音菩薩や勢至菩薩、阿弥陀如来、大日如来などを表しているそうで、この場が山岳修験などの行場としても利用されたのではないかと思わせます。

    下の宮から約40分ほどで尾根まで到着します。距離は短いのですが、結構な斜度がある登山道ですので、キャラバンシューズなどしっかりした靴で歩かれることをお勧めします。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    旧中筋家住宅から南へ約300mにある公共駐車場が利用できます
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.0
    健常な方であれば問題のないハイキングコースです
    見ごたえ:
    5.0

  • 宮内庁管理の彦五瀬命(神武天皇の兄)の墓

    投稿日 2015年09月04日

    竈山神社 和歌山市

    総合評価:5.0

    和歌山市和田の竃山神社は神武天皇の兄である彦五瀬命(ひこいつせのみこと)をお祀りしたものですが、その神社に隣接して宮内庁所管の陵墓があります。

    これは「彦五瀬命竃山墓(ひこいつせのみこと かまやまのはか)」といい、もともと竈山神社と一体に祀られていたものが、明治時代になって当時の宮内省が陵墓を一括管理することになったため、神社と分離されたものです。このため、竈山神社の境内からは直接竃山墓に入ることはできず、神社の東側を通る県道秋月海南線に面した小さな橋が入り口になっています。

    「陵墓」とは、天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る場所である「陵(みささぎ・りょう)」と、皇太子、親王、他の皇族を葬る場所である「墓(はか・ぼ)」とを指す言葉で、宮内庁では、陵188,墓553を管理しています。しかし、これらの多くは古代の都に近い奈良・大阪・京都に集中しており、和歌山県内にある陵墓はこの「彦五瀬命竃山墓」ただひとつです。

    ところで、初代天皇は神武天皇であり、本来の「陵」は神武から始まることになるのですが、実はそれ以前の時代の「陵」として、神武天皇の曽祖父・祖父・父が葬られた場所が「神代三山陵(じんだいさんさんりょう)」と呼ばれていずれも鹿児島県に祀られています。竃山墓はこれらの陵に準ずるものと位置付けられているようですが、彦五瀬命は神武天皇のお兄さんであり、もしこの竃山の地で亡くならなければ神武に代わって初代天皇になっていた可能性もあったわけですから、もっともっと注目されても良い場所であると思います。

    竈山神社は知っていても、ここに宮内庁所管の陵墓があることをご存じの方は少ないと思います。宮内庁所管であるためみだりに立ち入ることははばかられますが、参拝自体はどなたでも可能なようです。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 神功皇后が三韓征伐の帰途で応神天皇を預けた地

    投稿日 2015年09月04日

    八幡神社 和歌山市

    総合評価:4.0

    安原小学校を東に少し行ったところに八幡神社(安原八幡神社)があります。
    八幡神社の祭神は「八幡神(やはたのかみ)」と言われますが、別名「誉田別命(ほんだわけのみこと)」とも呼ばれており、これは応神天皇のことを指します。

    応神天皇の母である神功皇后は、夫である仲哀天皇が九州で急死した後に妊娠したまま朝鮮半島に出兵し、勝利を挙げた帰途に誉田別命を産んだと言われます。ところが、誉田別命の異母兄にあたる忍熊王(おしくまのみこ)らが誉田別命を亡き者にしようと反乱を企てました。

    そこで、神功皇后は大阪から大和へ入るルートを避けていったん紀水門(和歌山市)に上陸し、臣下である武内宿禰(たけのうちの すくね)に誉田別命を預けて、自らはさらに南下して衣奈(日高郡由良町)まで迂回をしました。その後、再び皇后は安原の地を訪れますが、その際に仮の宮殿を造って滞在した場所がこの安原八幡の地であると伝えられています。これは、この地域が武内宿禰の生誕地であり、彼の一族が支配する土地であったために安心して皇子を託すことができたからだと言われています。

    やがて忍熊王の反乱が平定されると、神功皇后は誉田別命とともに紀の川に沿って大和の都へ戻ります。その際、海南市旦来、紀美野町小畑、貴志川町岸宮、橋本市隅田など各地に立ち寄ったと伝えられており、後にそれぞれの場所に誉田別命を祭神とする八幡神社が造営されることとなりました。これがそれぞれ、且来八幡神社、野上八幡宮、貴志川八幡宮、隅田八幡神社などの造営の由来とされています。

    神宮皇后の旅程には諸説あるものの、安原八幡宮は神功皇后の紀伊国での旅程の最初の地であると伝えられていることから、江戸時代に描かれた「紀伊国名所図絵」には「当社は日本最初の御旧跡なり」と紹介されています。
    神社の名称が正式には「八幡神社」であり、「安原」という地名が付けられていないのは、この神社が和歌山で一番の八幡神社であるということの証なのでしょうか。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 神武天皇の兄の終焉の地

    投稿日 2015年09月02日

    竈山神社 和歌山市

    総合評価:4.0

    神社の規模自体はそれほど大きなものではありませんが、明治時代に定められた「社格」では「官幣大社」として最上級に位置づけられている神社です。

    竃山神社の主祭神は彦五瀬命(ひこいつせのみこと)。古事記等によれば、彦五瀬命は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、後の神武天皇)の兄で、神武天皇の東征はこの二人の兄弟の合議によって決定されたものでした。
    その後、筑紫、宇佐、阿岐、吉備などを経て兄弟が浪速国の白肩津(東大阪周辺)に着いた時、兄弟の軍勢は長髄彦らに襲われ、兄の彦五瀬命は矢に撃たれてしまいます。
    その時、彦五瀬命は弟の神倭伊波礼毘古命に向かって「自分達は日の神の御子だから、太陽の上る方角である東に向かって戦うのが良くなかった。南から廻り込んで、太陽を背に西に向かって戦おう。」と進言したので、海路で南方へ回り込むこととしました。
    そして、紀の国に上陸した所で傷が悪化したため、彦五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と雄叫びをあげました。それ以来、この地は雄水門(おのみなと、男之水門)と呼ばれることになったのです。(雄水門の位置には諸説あるようで、学術的には泉南市男里という説が優勢のようですが、私としては和歌山市の水門吹上神社付近説を採りたいところです。)

    そして、雄水門から竃山への進軍の道中で彦五瀬命は息を引き取ったため、その亡骸は竃山に葬られました。この霊を祀っているのが現在の竈山神社です。
    つまり、竈山神社は初代天皇である神武天皇のお兄様の終焉の地なのです。

    残念なことに、秀吉の紀州攻めによって神宝や古文書などが焼失したと伝えられ、現在の社殿が再建されたのは紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の治世になってからだということですが、境内に一歩入れば周辺の喧噪から離れた荘厳な雰囲気が感じられます。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 古代史のスーパーマン「武内宿禰」の生誕地

    投稿日 2015年09月02日

    武内神社 和歌山市

    総合評価:4.0

    この神社は、伝説的なスーパーマンであった武内宿禰(たけのうちの すくね)の生誕地として知られています。

    武内宿禰は、「古事記」「日本書紀」の時代にあって多くの天皇に仕え、国政を補佐したと言われる伝説的人物です。父は天皇家の皇子、母は日前宮を祀る紀伊国造の娘と言われており、紀氏の一族であるとともに、「巨勢」「平群」「葛城」「蘇我」などの諸豪族の祖との説があります。

    非常な長命であったと伝えられ、没した時には280歳であったとも360歳であったとも言われています。この間5人の天皇と1人の皇后に忠臣として仕え、景行天皇時代には勅命を受けて東北諸国の形勢・民情の視察を行い、成務天皇には大臣に任じられ、仲哀天皇とともに熊襲征伐に向かい、仲哀天皇崩御の後は身重の神功皇后を補佐して朝鮮半島に進出し、応神天皇時代には朝鮮半島の人々を指揮して「韓人の池(奈良県田原本町)」を掘らせ、晩年には仁徳天皇の政道に参与したと伝えらます。

    明治時代には、忠臣の象徴として紙幣の肖像画に登場したことでも知られています。明治22年の一円紙幣、明治32年の五円紙幣、大正5年の五円紙幣、昭和18年の一円紙幣、昭和20年の二百円紙幣と合計5回も紙幣に登場しており、これは聖徳太子の7回、菅原道真・和気清麻呂の6回に次ぐ記録です。

    武内宿禰の生誕地については諸説あるのですが、享保16年に当時の第71代紀伊国造俊範によって、和歌山市松原にある井戸が宿禰の産湯の井戸であると考証されました。それ以後、長寿で知られる武内宿禰にあやかるため、紀州徳川家に子供が生まれたときには、この井戸の水を産湯として用いることとしたそうです。
    武内宿禰誕生井は、安原八幡神社の奥宮とされる武内神社の境内にある長寿殿という建物の中にあります。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 雑賀衆の守り神

    投稿日 2015年09月02日

    矢宮神社 和歌山市

    総合評価:4.0

    矢宮神社は、和歌山市関戸にある神社です。
    主祭神は賀茂建津之身命(かもたけつのみのみこと)といいますが、これよりも別名の八咫烏命(やたがらすのみこと)の方がわかりやすいと思います。

    八咫烏は、神武東征の際、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、後の神武天皇)を熊野から大和へと導いたと言われる三本足のカラスで、日本サッカー協会のシンボルマークになっていることでもおなじみです。

    矢宮神社が有名なのは、この八咫烏をお祀りしているということもそうなのですが、なんといっても雑賀の守り神であったという史実でしょう。「雑賀」というのは現在の和歌山市全体にあたる非常に広い地域の総称ですが、矢宮神社はこの雑賀荘21か村全体の産土神社として荘民の崇敬を集めていました。もちろん、雑賀孫一率いる雑賀衆もこの例外ではなかったようです。

    織田信長による雑賀攻めの際、村民が矢宮神社に戦勝を祈ったところ、「敵兵は3月3日の干潮を待って攻めて来るであろう。しかし、私が村民のために潮を満ちたままにしておこう」との御神託があり、事実、その日は大潮が充ち満ちて敵兵は雑賀川を渡れず進攻を免れた、という伝承があります。また、奇襲戦法によって織田信長の大軍を押し返したことを祝って孫一たちが踊ったとされる「雑賀踊り」が現在も伝わっているほか、孫一が吹いたとされるほら貝もこの矢宮神社に保管されているそうです。

    信長と三度戦って一度も負けなかった孫一にあやかって「勝ち神様」とも呼ばれる矢宮神社は、地域の人々から今も多くの信仰を集めています。

    旅行時期
    2013年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 神武天皇に倒された女王「名草戸畔」を祀る神社

    投稿日 2015年09月02日

    中言神社 和歌山市

    総合評価:4.5

    この神社は、名草姫命、名草彦命を主祭神とする名草地方の産土神社です。

    日本書紀の神武東征伝に関する物語の中で、「神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)の軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔(なぐさとべ)を誅殺した」との記述があります。伝承によれば、中言神社の祭神である名草姫命こそがこの名草戸畔であり、この人物が神武東征以前のこの地域の統治者(女王)であったと言われています。

    神武軍の攻勢に抵抗した地元勢力のリーダーである名草戸畔の軍勢は、海南市のクモ池周辺で激しい戦いをくりひろげましたが、ついに力尽きます。名草戸畔の遺骸は、なんと頭、胴、足の三つに切り離され、それぞれ別々の場所に埋葬されることとなりました。そして、頭を埋めた場所に宇賀部神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)という神社を設けて霊を慰めているのだそうです。これらの神社はいずれも海南市にあります。

    伝承を信ずれば、この名草山周辺には大和朝廷成立前から女王に率いられる強大な勢力が存在しており、その中心地がこの中言神社であったということになります。実際にこの場所に立ってみると、眼前に豊かな平地が広がり、この地の女王の本拠地としては最適の立地であったような思いがします。
    境内は地元の人の尽力で綺麗に整備されており、神社前にはあじさいや季節の花々が育てられています。ここから名草山への登山道も続いており、非常に良い場所です。

    旅行時期
    2013年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 「古事記伝」で知られる本居宣長ゆかりの寺

    投稿日 2015年09月02日

    吹上寺 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山地方気象台の西隣にある吹上寺は、「古事記伝」を完成させた本居宣長にゆかりのある寺院です。

    本居宣長(もとおり のりなが)は伊勢松阪の人で、30代の半ばから古事記に関する研究を開始し、35年の歳月をかけて44巻にのぼる古事記の注釈本「古事記伝」を記しました。当時は、既に古事記の読み方すら判らなくなっていたため、現在につながる古事記の研究は、ほとんど全てが本居宣長の成果を受け継いだものと言っても過言ではないほどです。

    この当時、伊勢松阪は紀州藩の領地であり、宣長は63歳で紀州藩に仕官します。そして、紀州藩のために「玉くしげ」「秘本玉くしげ」「玉くしげ別本」などの書を記し、国学の思想、政治経済の具体論、死刑の緩和などを論じました。

    宣長自身は松阪を本拠としており、その長男の春庭が松阪の本居家を継ぐのですが、その学問は養子として家督を継ぎ現在の和歌山市内に居を移した本居大平(もとおり おおひら)の系譜に連なる「和歌山本居家」が支えていくことになります。つまり、本居宣長の国学は、大平以後、和歌山を拠点として発展していくことになったのです。

    しかも、びっくりすることに、本居大平を2代目とする和歌山本居家の第6代当主にあたる本居長世(もとおり ながよ)は、「日本童謡の父」とも賞される童謡作曲家で、誰もが知っている「七つの子」「青い眼の人形」「赤い靴」「十五夜お月さん」「めえめえ児山羊」などの童謡を次々と作曲した人物なのです。また、その長女みどりは、「十五夜お月さん」を歌い、童謡歌手として始めてレコードの吹き込みを行ったため、日本で最初の童謡歌手と言われています。

    吹上寺には、こうして発展を遂げることとなった和歌山本居家の祖となった本居大平の墓所があります。

    旅行時期
    2013年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本三大水攻めの一つ

    投稿日 2015年09月02日

    太田城 水攻め遺構 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市出水地区にある「きのくに信用金庫」の駐車場の東隣に、こんもりと木の茂った小高い丘のような場所があります。
    実は、これは太田城水攻めの際に秀吉軍が築いた堤防の遺構なのです。

    豊臣秀吉は、天正13年(1585年)、総勢10万の大軍勢を紀州に派遣して雑賀衆の殲滅を図ります。
    当時の雑賀衆の本拠地は現在のJR和歌山駅近くにあった太田城でしたが、秀吉の軍勢はわずか5,000余の兵力しか無い太田城をなかなか攻め落とすことができなかったことから、秀吉得意の「水攻め」に切り替えることとなりました。
    このとき、秀吉軍は高さ約4~6m、総延長約7kmにも及ぶ壮大な堤防を築造したと言われ、約1か月間の攻防により物心両面で精根尽き果てた太田一族は遂に城を明け渡し、太田城の指導者であった太田左近ら53名が自刃しました。

    この戦いは、備中高松城(岡山市)、武州忍(おし)城(埼玉県行田市)と並び、秀吉の「三大水攻め」としてよく知られています。(忍城については、2012年の映画「のぼうの城」で一躍有名になりました)

    秀吉による水攻めの遺構のうち、現在も残されているのはこの場所のみであるとされています。

    旅行時期
    2013年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「紀伊国名所図会」にも描かれた名所

    投稿日 2015年09月02日

    猊口石 和歌山市

    総合評価:3.0

    秋葉山の麓、国道42号線沿いに「猊口石(げいこうせき)」という看板の掲げられた岩があります。
    これは、俗に「紀州の青石」と呼ばれる緑色片岩でできた東西約20m、南北約15mの岩山です。

    その大きく穴の空いた岩の形が口を開けた猊(獅子)の姿を思わせることから「猊口石」と呼ばれており、「紀伊国名所図会」にも取り上げられている江戸時代から知られた名所です。
    このため、この岩には、紀州藩の高名な儒学者である李梅渓(りばいけい)の筆による「猊口石」の刻銘があります。

    実は、この岩からは縄文時代晩期の土器片と貝殻などが出土しており、「秋葉山貝塚」と呼ばれる小規模な岩陰遺跡でもあります。大きく開いた口の一番奥深いところには当時の海面の高さを表すノッチ(海食窪)という海岸地形が見られ、ここがかつては波打ち際であったことがわかります。
    縄文時代には、この周辺は海だったのでしょう。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    国道42号線沿いです
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 紀州徳川家初代藩主頼宣公が作成した人生訓

    投稿日 2015年09月02日

    父母状の碑 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山城の近くにある「あおい茶寮」という日本料理店の入り口に、「父母状の碑」という石碑があります。
    これは、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣公が書いた「父母状」と呼ばれる教訓状を記念したものです。

    万治3年(1660年)、熊野で親殺しの罪を犯した者がいました。ところが、その者は反省もせずに「私が殺したのは他人ではなく自分の親だ。我が儘ばかり言って家の者も困り果てたので殺した。間違ったことはしていない。」と抗弁するばかり。これを知った紀州藩主徳川頼宣公は、「自らの罪が解らないまま処刑すべきではない」と言って、藩主お抱えの儒学者である李梅渓に命じて、この者を教え諭すように命じました。3年の年月を経て、ようやく自らの罪に気がついたその者は、自らの罪を悔い、刑を受けました。

    この報告を受けた頼宣公は、「藩の教育に問題があった。彼一人の罪でない。私の不徳を恥じるのみだ。」と言い、自ら筆を取って教訓状を書き、これを李梅渓に清書させたものを藩内にくまなく配りました。これが「父母状」と呼ばれるものです。
    父母状の内容は、

    父母に孝行に
    法度を守り
    へりくたり
    奢らすして
    面々家職を勤
    正直を本とすること
    誰も存たる事なれとも
    弥能相心得候様に
    常々可申聞者也

    というもので、現代文にすれば「父母に孝行し、法を守り、質素に、家業に勤め、正直に暮らすことは、誰でも知っていることではあるけれども、しっかりと心得るように常々言い聞かせなければならない」というような意味になります。
    この教えは、広く人生訓として紀州藩に永く浸透し、市内には今でも園児にこの内容を暗唱させている幼稚園があります。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    和歌山城の近くです
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 不平等条約の改正を成し遂げた「カミソリ大臣」

    投稿日 2015年08月27日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山城から三年坂通りをはさんで南側に位置する「岡公園」には、「カミソリ大臣」との異名を持った明治政府の外務大臣、陸奥宗光の銅像があります。

    陸奥宗光は和歌山市で生まれましたが、15歳で脱藩して江戸に出ています。

    明治21年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功。明治25年に第二次伊藤内閣の外務大臣となって以降は諸外国との不平等条約の撤廃に尽力します。
    明治27年にはイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し治外法権の撤廃に成功、次いでアメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなど不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正に成功して治外法権を撤廃、日清戦争においてはイギリス、ロシアの中立化に成功、など輝かしい成果を挙げます。
    もし宗光のの外交手腕がなかったならば、日本は欧米列強の属国になっていたのかもしれないのです。

    宗光の唯一の外交の敗北とも言えるのが、いわゆる「三国干渉」による遼東半島の返還ですが、宗光は、この判断について後に「他策なかりしを信ぜんと欲す」と記しています。「我が国にとっては容易に受け入れられる内容ではないが、国を守るためにはこれ以外の方策は無かったであろう、そう信じたい」という意味ですが、あらゆる不可能を可能に変えた陸奥宗光の言葉であるからこそ、重みと深みのある言葉になっています。

    こうした宗光の業績を讃えて、明治40年には外務省にも陸奥宗光の銅像が建立されています。和歌山県の仁坂知事によると、外務省の敷地内に銅像が建てられている人物は陸奥宗光ただ一人なのだそうです。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    岡公園の中にあります
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    4.0
    駐車場のそばにあります
    見ごたえ:
    4.0

  • 三十三間堂の「通し矢」の記録を持つ日本一の弓の名人

    投稿日 2015年08月27日

    和佐大八郎の墓 和歌山市

    総合評価:4.0

    矢田峠の北側の道路沿いに「弓の名人 和佐大八郎の墓」と書いた小さな看板があります。
    和佐大八郎範遠は、寛文3年紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山市和佐)に生まれました。14才にして身長約2mに達するような大男であったと伝えられ、その恵まれた体格を見込んだ紀州藩弓術師範の指導を受けて、弓の実力を伸ばしていきます。

    当時、京都蓮華王院(三十三間堂)では、全長約121m、高さ4.5~5.3m、幅2.36mの軒下空間で弓を射通す「通し矢」という競技が盛んに行われていました。記録によると、慶長11年に清洲藩の朝岡平兵衛が100射中51本を成功させたのを皮切りとして、全国の弓自慢がどんどん記録更新を図っています。競技は、距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせた様々なルールで行われましたが、中でもハイライトは一昼夜(24時間)矢数無制限で打ち続ける「大矢数」という競技でした。
    寛永12年に尾張藩の杉山三右衛門が6,082射で3,475本成功という記録を挙げてからは尾張藩と紀州藩との威信をかけた闘いが始まり、交互に記録更新が続けられますが、寛文9年に尾張藩の星野勘左衛門が打ち立てた10,542射で8,000本成功という記録は、空前にして絶後であると思われました。

    事実、貞享3年に至るまで17年間にわたりこの記録は破られませんでしたが、これに敢然と挑戦したのが当時24歳になっていた和佐大八郎です。一昼夜にわたり総矢数13,053本を放ち、うち8,133本を成功させます。24時間に換算すると、1時間あたり544本、1分あたり約9本のペースで121m先の目標に向けて矢を放ち続け、そのうち62%を成功させるというのはもうまさに神業の世界であると言えます。
    ちなみに、このとき、大八郎は緊張と疲労の蓄積で一旦は弓が引けなくなったものの、見物人の中から一人の武士が近づき、いきなり取り出した小刀で左手を切ってうっ血を取り去ってくれたことにより気力と体力をとり戻してついに大記録を樹立することができた、大八郎を助けたその武士こそがそれまで17年間にわたり記録を保持していた尾張藩の星野勘左衛門であったのだ・・・というドラマのような物語も語り継がれています。

    この大記録により和佐大八郎は「天下惣一」の名誉を得ました。現在もこの記録は破られておらず、三十三間堂には大八郎が奉納した額が展示されています。
    また、これにより尾張藩との長年の競争に決着をつけることとなった紀州藩の喜びは熱狂的であったと伝えられ、第2代藩主徳川光貞公も紀の川の八軒屋船着き場まで直々に出迎えをし、知行300石を与えたと言われます。

    晩年は残念ながらスキャンダルに巻き込まれた形で失脚し、田辺で生涯を閉じることとなりますが、天下一の弓の名人であるという名誉にはいささかの揺るぎもありません。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    少しわかりにくい場所にあります
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「稲むらの火」の主人公、「生ける神」の銅像

    投稿日 2015年08月27日

    濱口梧陵像 和歌山市

    総合評価:4.0

    県庁の東別館前には、和歌山県議会の初代議長である濱口梧陵(はまぐち ごりょう)の銅像があります。
    濱口梧陵は、安政元年、安政南海地震の際に津波から避難するための道しるべとして自家の稲むらに火を放って多くの村人を救ったという「稲むらの火」の物語で有名です。

    梧陵は、幕末時代に醤油醸造業を営む濱口家の分家の長男として生まれましたが、12歳で本家の養子となり、銚子に移りました。その後、海外留学を志願するものの認められず、30歳で広村(現在の広川町)に帰郷しました。1852年には現在の耐久高等学校の前身となる「耐久舎」の開設にも関わっています。
    安政南海地震の後には、私財を投じて災害復旧につとめたほか、広村堤防の修理・築造にも取り組みました。これは、荒廃した被災地の住民に仕事を与える一種の失業対策事業であるとともに、将来の災害に備えての防災事業でもありました。現在で言えば緊急雇用対策としての防災・改良復旧事業であり、これに投じた梧陵の私財は4,665両にのぼると伝えられています。

    江戸時代最後の年である1868年には商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、維新後には藩校教授や大参事(副知事に相当)を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力しました。その後、1871年には、大久保利通の要請で明治新政府の初代駅逓頭(えきていのかみ、郵政大臣)に就任するものの、権頭(次官)であった前島密との確執もあって半年足らずで辞職することになります。
    そして、1880年に第1回通常会が開催された和歌山県議会では県内1区8郡から選ばれた43人の議員を代表して初代の県会議長に就任しました。県庁にある銅像は、こうした偉大なる政治家であるとともに稀代の篤志家であった濱口梧陵の功績をたたえて建立されたものです。

    濱口梧陵は、「稲むらの火」の物語であまりにも有名なため、篤志家、政治家といった側面ばかりが強調されやすいのですが、彼はまた濱口家の家業である醤油醸造業もおろそかにせず、「ヤマサ醤油」の7代目当主として幕末の動乱の中で事業を守り、キッコーマンに次ぐ業界2位となる大メーカーの礎を築いたという面で実業家としての優れた才能を発揮しています。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 古事記にちなんだ保田龍門のレリーフ

    投稿日 2015年08月27日

    和歌山県庁本館のレリーフ 和歌山市

    総合評価:5.0

    和歌山県庁本館の中央階段には保田龍門という和歌山県紀の川市出身の画家・彫刻家が作成したニ枚のレリーフがあります。

    龍門は、那賀郡龍門村荒見に生まれ、東京美術学校(現在の東京藝術大学)在学中に二科展に入選、卒業制作が文部省美術展覧会で特選を得ます。アメリカ、ヨーロッパで学んだ後、郷里の龍門村にアトリエ付き住居を建てて制作に励みました。
    和歌山県庁にある作品は、昭和13年4月に竣工したこの庁舎のために、昭和14年に龍門が制作したものです。

    レリーフのモチーフは、「丹生都比売命」と「高倉下命」です。

    丹生都比売命は、かつらぎ町天野にある丹生都比売神社の祭神としてよく知られていますが、高野山の地主神としてもまた知られています。社伝によれば、密教の根本道場の地を求めていた空海の前に、丹生都比売大神の子である高野御子大神(狩場明神とも呼ばれます)が狩人に化身して現れて高野山へと導き、丹生都比売大神が空海に神領であった高野山を貸し付けたと伝えられています。事実、壇上伽藍には根本大塔をはじめとした諸堂のほかに、丹生明神と高野明神を祀った神社である「御社」が建てられているのです。

    高倉下命は、神武東征伝における重要な登場人物です。
    神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)の軍が熊野へ着いたとき、そこで丹敷戸畔という現地の女王を倒しました。ところが、そのとき神が毒気を吐いて神武軍はみな力を失い倒れてしまったのです。そこへ、熊野の高倉下という人物が剣を持ってくると神倭伊波礼毘古命は息を吹き返し、彼が剣を受け取ると彼の軍勢も目覚めて、熊野の荒ぶる神々を倒すことが出来ました。この際に高倉下命が神倭伊波礼毘古命に渡された霊剣は「布都御魂」と言い、奈良県天理市の石上神宮の御神体として今も祀られています。

    和歌山県庁へお越しの際には、このレリーフもぜひご覧ください。

    旅行時期
    2013年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    階段の踊り場にあります
    見ごたえ:
    5.0

  • 元伊勢の大神、日前宮の前社地

    投稿日 2015年08月26日

    濱宮神社 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市の南端、和歌山マリーナシティへ渡るサンブリッジのたもと近くにある濱宮神社は、大変由緒のある神社です。

    この神社の由来によれば、神武天皇東征の際に現在の日前宮の御神体となる二つの神宝をお祀りしたのが始まりであり、後にこの神社の二柱の祭神である天懸大神と国懸大神が遷座したのが現在の日前宮であると言われています。

    また、崇神天皇51年(紀元前47年)には天照皇大神もこの地に祀られており、後に伊勢の五十鈴川のほとりに移られたのが現在の伊勢神宮であるということから、濱宮神社は「元伊勢の大神」とも呼ばれています。

    伊勢神宮と日前宮は、いずれも全国の神社の中でも特別な扱いを受ける非常に位の高い神社です。その両社がいずれもこの濱宮の地から出たものであることは、古代においてこの地がいかに重要な場所であったかを物語っています。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 茶道表千家は紀州藩の庇護の下で発展しました

    投稿日 2015年08月26日

    紀州藩表千家屋敷址 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市内の築地通りにある三木町堀詰橋の南側の歩道沿いに「紀州藩表千家屋敷址」という石碑が建っています。

    千利休の直系第四代にあたる江岑宗左(こうしんそうざ)は、紀州藩初代藩主である徳川頼宣公に招かれ、紀州徳川家に仕えました。
    この頃に千家は「表」「裏」「武者小路」の三流派に分かれていくのですが、江岑宗左に連なる表千家の家元はこの後も代々紀州徳川家の茶頭として仕えることとなり、紀州藩の庇護の下で表千家の茶の湯は庶民にまで広がっていきました。
    江戸時代中期には富裕層を中心とした江戸の町人文化の中に表千家の茶道が広く取り入れられることとなりましたが、これは、紀州藩主であった徳川吉宗が江戸へ移って八代将軍となったことと無関係では無いはずです。

    また、表千家茶道で使われる道具の中に「三木町棚」というものがありますが、これは江岑宗左が三木町にあった紀州藩表千家屋敷に住んでいた際に好んで使用していた形のものであり、現在も茶道の世界では「三木町」の名前が残されているのです。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「経営神様」の生誕地

    投稿日 2015年08月26日

    松下幸之助生誕地の碑 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市東部の千旦(せんだ)地区にある和佐遊園に「松下幸之助生誕地」の碑があります。

    1894年、松下幸之助は和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)で生まれました。実家は裕福でしたが、父が米相場に失敗したため土地と家を人手に渡し、和歌山市内に移り住みます。
    その後、幸之助は、小学校を4年で中途退学して大阪へ奉公に出ました。16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社、そこで電球の新型ソケットの着想を得て自ら会社を興し、今や伝説となった「二股ソケット」で一世を風靡します。その後もヒット商品を出し続け、松下電器産業(現在のパナソニック)を世界的大企業に育て上げました。

    「水道水のごとく、物資を大量にかつ廉価で提供することに産業人の使命がある」とする幸之助の哲学は「水道哲学」とも呼ばれて、「経営の神様」として多くの人々の心を捉えました。まさに高度成長時代の日本を代表する偉大な経営者の筆頭と言っても差し支えないでしょう。

    この石碑はその松下幸之助の生誕地に建立されたものですが、「松下幸之助君生誕の地」という文字はノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の筆によるものです。
    日本人初のノーベル賞受賞者となった湯川博士も、お父様の代までは和歌山県にお住まいであったため、和歌山にゆかりのある人物としてこの碑の揮毫を引き受けていただいたもののようです。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 政界の寝業師、京阪電気鉄道創業に尽力、陸奥宗光の従兄弟で盟友

    投稿日 2015年08月26日

    岡崎邦輔の像 和歌山市

    総合評価:4.0

    けやき大通りの新町橋(三木町新通バス停)の東南側にある小さな公園に、岡崎邦輔の銅像が建てられています。
    岡崎邦輔は1854年和歌山市生まれで、「カミソリ大臣」と呼ばれた同じく和歌山市出身の陸奥宗光とは従兄弟の関係にあります。

    1888年には駐米特命全権公使となった陸奥に従い渡米。1891年の第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に初当選し、以後当選回数10回。立憲政友会の結成などに活躍し、「政界の寝業師」「策士」として知られています。
    また、実業家としての顔もあり、渋沢栄一らとともに京阪電気鉄道の設立に関わって1917年には社長に就任しています。
    社長在任時には大阪~和歌山間の新たな鉄道路線開設にも尽力し、後にJR西日本阪和線となる阪和電気鉄道の設立に大きな役割を果たしました。

    ちなみに、2014年に亡くなられた外交評論家の岡崎久彦氏は岡崎邦輔の孫にあたります。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本の化学産業のルーツがここに

    投稿日 2015年08月26日

    ベンゼン精留装置 (近代化産業遺産) 和歌山市

    総合評価:5.0

    和歌山市小雑賀は全国的に有名な化学産業の集積地です。
    その中でもひときわ大きいのが本州化学の和歌山工場で、その正門前に展示されている古びたレンガ造りの設備が、経済産業省の「近代化産業遺産群」にも指定された日本初のベンゾール(ベンゼン)精製装置です。

    本州化学の創業者である由良浅次郎は明治11年和歌山市に生まれました。
    家業の染色業に従事していましたが、第一次世界大戦でドイツからの合成染料の輸入が途絶し日本の染色業界が危機に瀕した際、染料の主原料である「アニリン」の国産化を目指した研究を始めました。そして、大正3年ついにアニリンの原料となるベンゾール(ベンゼン)の精製に成功、引き続きアニリンの製造装置を完成させて、合成染料の国産化に成功したのです。
    ベンゼンとは、炭素原子6個と水素原子6個が六角形に繋がったもので、いわゆる「亀の甲」という構造式で知られる物質です。化学分野では極めて基礎的な物質であり、これを原料とすることで、染料のみならず樹脂、ゴム、潤滑剤、洗剤、医薬品、爆薬、殺虫剤など様々な物質を製造することができます。日本を代表する産業の一つである「化学」産業は、このベンゼン精製装置から始まったと言っても過言では無いのです。

    ちなみに、由良浅次郎は大正7年、染料(化学)産業の保護育成を時の大蔵大臣高橋是清に迫り「揺藍期の染料工業を育て、平時は染料を造り、一朝有時の際は、直ちに火薬爆薬に転換できる様に、この工業を育成すべし」と直訴したと伝えられています。事実、由良精工合資会社から分離して設立された由良染料株式会社はベンゼンから合成されたフェノールを原料とするピクリン酸火薬の製造を行っており、日本海軍に大量に供給しました。この事業は、現在も「ワイ・エス・ケー株式会社」として由良浅次郎の曾孫により引き継がれているのです。

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
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    見ごたえ:
    4.0

yoshimune-kunさん

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