和佐大八郎の墓
名所・史跡
3.12
クチコミ・評判
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三十三間堂の「通し矢」の記録を持つ日本一の弓の名人
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- 旅行時期:2013/08(約12年前)
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矢田峠の北側の道路沿いに「弓の名人 和佐大八郎の墓」と書いた小さな看板があります。
和佐大八郎範遠は、寛文3年紀伊国和佐... 続きを読む村禰宜(現在の和歌山市和佐)に生まれました。14才にして身長約2mに達するような大男であったと伝えられ、その恵まれた体格を見込んだ紀州藩弓術師範の指導を受けて、弓の実力を伸ばしていきます。
当時、京都蓮華王院(三十三間堂)では、全長約121m、高さ4.5~5.3m、幅2.36mの軒下空間で弓を射通す「通し矢」という競技が盛んに行われていました。記録によると、慶長11年に清洲藩の朝岡平兵衛が100射中51本を成功させたのを皮切りとして、全国の弓自慢がどんどん記録更新を図っています。競技は、距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせた様々なルールで行われましたが、中でもハイライトは一昼夜(24時間)矢数無制限で打ち続ける「大矢数」という競技でした。
寛永12年に尾張藩の杉山三右衛門が6,082射で3,475本成功という記録を挙げてからは尾張藩と紀州藩との威信をかけた闘いが始まり、交互に記録更新が続けられますが、寛文9年に尾張藩の星野勘左衛門が打ち立てた10,542射で8,000本成功という記録は、空前にして絶後であると思われました。
事実、貞享3年に至るまで17年間にわたりこの記録は破られませんでしたが、これに敢然と挑戦したのが当時24歳になっていた和佐大八郎です。一昼夜にわたり総矢数13,053本を放ち、うち8,133本を成功させます。24時間に換算すると、1時間あたり544本、1分あたり約9本のペースで121m先の目標に向けて矢を放ち続け、そのうち62%を成功させるというのはもうまさに神業の世界であると言えます。
ちなみに、このとき、大八郎は緊張と疲労の蓄積で一旦は弓が引けなくなったものの、見物人の中から一人の武士が近づき、いきなり取り出した小刀で左手を切ってうっ血を取り去ってくれたことにより気力と体力をとり戻してついに大記録を樹立することができた、大八郎を助けたその武士こそがそれまで17年間にわたり記録を保持していた尾張藩の星野勘左衛門であったのだ・・・というドラマのような物語も語り継がれています。
この大記録により和佐大八郎は「天下惣一」の名誉を得ました。現在もこの記録は破られておらず、三十三間堂には大八郎が奉納した額が展示されています。
また、これにより尾張藩との長年の競争に決着をつけることとなった紀州藩の喜びは熱狂的であったと伝えられ、第2代藩主徳川光貞公も紀の川の八軒屋船着き場まで直々に出迎えをし、知行300石を与えたと言われます。
晩年は残念ながらスキャンダルに巻き込まれた形で失脚し、田辺で生涯を閉じることとなりますが、天下一の弓の名人であるという名誉にはいささかの揺るぎもありません。 閉じる投稿日:2015/08/27
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基本情報(地図・住所)
- 施設名
- 和佐大八郎の墓
- 住所
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- 和歌山県和歌山市祢宜
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- 登録者
- yoshimune-kun さん
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yoshimune-kunさん