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yoshimune-kunさんのクチコミ(3ページ)全99件

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  • 古代の朝鮮半島とのかかわりを示す古墳群

    投稿日 2015年09月16日

    晒山古墳群 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市北部には、大谷古墳や鳴滝遺跡のほか、晒山(さらしやま)古墳群、雨ケ谷古墳群、鳴滝古墳群などの古墳が密集しています。

    このエリアには、現在の楠見小学校も含まれます。
    昭和42年、楠見小学校の校舎増築工事の際に調査を行ったところ、杯、高杯、壺などの土師器や、甕、壺、器台、鉢などの須恵器が大量に発見されました。
    土師器は、弥生式土器と同じように手で成形した土器を「野焼き(地面に穴を掘って土器を並べ、回りに木材を置いて大きな焚き火をおこして焼き上げる)」という技法を用いて焼くもので、いわゆる「素焼き」の一種です。これに対して、須恵器というのは、轆轤を使って形を整えた土器を、登り窯という設備を使って高温(1,100度~1,200度)で焼き固めたもので、「陶質土器」とも呼ばれます。

    土師器が縄文時代から弥生時代へと続く日本の歴史とともに発達してきた技法であるのに対して、須恵器は4世紀末頃に朝鮮半島から日本に伝えられた技法であると言われています。土師器と比べて非常に硬く、水漏れしにくいという性質を持つ須恵器は非常に重宝されますが、轆轤や登り窯という当時としては最先端の技術を駆使して作られるものであったため、どこでも誰でも作れるというものではなかったようです。
    日本最古の須恵器生産地は堺から岸和田にかけての大阪府南部だと言われていますが、楠見小学校のあたりでもこれとあまり変わらない時期に須恵器の生産をするための窯が設けられていたと推定されています。

    この地域で、かなり早い時期から須恵器が生産されていたこと、及びこの古墳群に隣接する大谷古墳から発掘された馬冑(ばちゅう、うまかぶと)が朝鮮半島から伝えられたものと思われること、などをあわせて考えると、当時、ここには最先端の知識と技術を携えて朝鮮半島から渡来した技術者集団が居住していたのであろうと思われます。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 雑賀孫一の墓がある寺

    投稿日 2015年09月16日

    連乗寺 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市平井地区に蓮乗寺(れんじょうじ)というお寺があります。

    この寺は雑賀孫一にゆかりの深い寺として知られています。同寺に伝わる由緒書によれば、天正10年織田信長の命による紀州攻めの際に孫一の身を守った阿弥陀如来尊像を祀ったのが蓮乗寺のはじまりとされています。つまり、この寺は創建そのものに孫一が深く関わっているのです。

    また、この寺には「雑賀庄 平井孫市郎藤原義兼」の墓があります。
    平井孫市郎藤原義兼とは誰か? 実はこれは非常に難しい問題だそうですが、確実なことはこの人物は孫一本人もしくは極めて孫一に近い人物であったということです。
    一般に「雑賀孫一」と呼ばれている人物の本名は「鈴木孫一重秀」であると伝えられています。しかし、当時の和歌山市周辺の地名である「雑賀庄」の名から「雑賀の孫一」と呼ばれたり、その居館が平井地区にあったことから「平井の孫一」などとも呼ばれていました。これをもとに考えれば、「平井孫市郎」という名は、「鈴木孫市郎」の別名であると考えられますし、時には「雑賀孫市郎」と呼ばれたであろうことは容易に想像できます。また、「孫一」の字は「孫市」と記載されることもあったようですので、これを考慮すると、「平井孫市郎(=雑賀孫市郎)」は「雑賀孫一(=平井孫市)」に極めて近い血縁者であったのではないかと思われます。研究者によっては、「孫一重秀」の弟であるとの説や、「孫一重秀」の息子であるとの説も挙げられていますが、今のところいずれも決定的な証拠はないようです。

    さらに、「孫一」が活躍したとされる時期を考えると、「孫一」は一人ではなく、平井における雑賀衆の頭領である鈴木一族の当主が代々この名を名乗っていたのではないかとの説もあります。「孫一重秀」は天正13年を最後に歴史の表舞台から消えているので、この墓石に刻まれた天正17年という年号が「平井孫市郎藤原義兼」没年であるとすれば、この人物は重秀から「孫一」の名を継いで「2代目雑賀孫一」として活躍した人物なのかもしれません。

    謎は広がりますが、ある意味、自由な想像の余地があるところが歴史の面白さかも知れませんね。

    なお、同寺は駐車場が無く、大勢の観光客を受け入れられるような規模でもありませんので、参詣の際にはくれぐれも周辺や同寺の方々に迷惑とならないようご配慮をお願いします。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 雑賀孫一の居城跡

    投稿日 2015年09月16日

    平井中央公園 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市の北部に「平井中央公園」があります。
    人工芝の広場が非常に綺麗な公園で、滑り台やトレーニング遊具があるほか、地域の災害時避難場所になっており、備蓄倉庫も設けられています。公園の端から見下ろすと、すぐ下にゆるやかな台地が広がり、その先に紀ノ川と和歌山の市街地を見渡すことができます。さらにその先には名草山、大日山、高積山が見え、遠く黒沢山、生石山までも展望できます。

    このあたりは「平井平(ひらいだいら)」と呼ばれる場所で、この下にある台地の一帯は「政所の坪(まんどころのつぼ)」と呼ばれます。「政所」というのは平安時代から鎌倉時代にかけての時期に設けられた役所や荘園の管理事務所などのことを指しますが、この平井においては、かつてこの付近にあったと言われる雑賀孫一の館のことを表していると言われています。

    平井は、紀ノ川河口の北岸にあたり、古代から瀬戸内海を通じて朝鮮半島との交易が盛んに行われていた場所であり、紀ノ川沿いに奈良の都へ向かう「南海道」の要所でもあったことから、雑賀衆の活躍していた戦国時代においても海外貿易や水上交通の拠点として栄えていたようです。また、平井から和泉山脈を越える「平井峠」は、他の和泉山脈越えのルートと比べれば比較的緩やかなことから利用者も多かったようですので、その峠の南端にあたるこの場所は、国境の重要な「関所」として、あるいは有事の際に大阪から南下する敵を迎え撃つ拠点として、非常に重要な役割を担っていたものと思われます。

    こうしたことを考えると、雑賀庄(現在の和歌山市)の頭領であった雑賀孫一がこの場所に館(城であったとも言われます)を構えたことは当然のことであったのでしょう。そして、その館から目前に広がる紀ノ川平野を眺めながら、「日本最後の共和国」とも呼ばれるこの紀州の地を信長や秀吉の侵略から守るための計略を図っていたに違いありません。

    残念ながら物的な遺構はほとんど残っていませんが、この平井中央公園からの景色を眺めているだけで、そんな孫一の思いが伝わってくるような気がするのです。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「理研」の発展の基礎を築いたビタミンA製造法発明者

    投稿日 2015年09月16日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:3.0

    岡公園の中に、高橋克己博士の頌徳碑があります。

    高橋氏は、明治25年、木ノ本村(現在の和歌山市木ノ本)に生まれました。その後、東京帝国大学農科大学農芸化学科、同大学大学院を経て、財団法人理化学研究所で油脂の研究に携わりました。理化学研究所は、大正6年に皇室からの御下賜金等をもとに設立された日本で唯一の自然科学の総合研究所で、現在も独立行政法人理化学研究所、通称「理研」として運営が続けられています。例のスーパーコンピューターの「京」を運用しているのもこの理研なのです。

    大正2年、アメリカの研究者が動物の成長を促進させる物質「ビタミンA」を発見します。これが不足すると夜盲症になることも判ってきました。ところが、ビタミンAは非常に不安定な物質で、世界中の科学者が抽出を試みましたが誰も成功する者はいませんでした。しかし、高橋氏は油脂に関する豊富な経験を活かして高温で蒸留するなど当時の常識を覆す方法を用い、大正11年、世界で始めてビタミンAの抽出に成功するのです。

    当時の理化学研究所の所長であった大河内正敏は、この時、ビタミンAを自ら工業化して販売することを決断します。こうして発売された「理研ビタミン」は爆発的に販売を伸ばし、当時の理化学研究所の支出の大半を賄えるほどの莫大な収入を研究所にもたらしたと言われます。この商品を販売するために理研が設立した「理化学興業」という会社は、その後さまざまな経過を経て現在も「理研ビタミン株式会社」として存続しています。「リケンの『わかめスープ』、『ふえるわかめちゃん』」と言えば、「ああ、あの会社!」と思い出す方がいるかもしれません。

    歴史に残る大きな功績を挙げた高橋氏ですが、大正13年に腸チフスに感染し、翌年満32歳の若さで亡くなります。東京帝国大学農学部が臨時教授会で農学博士の学位を授与したわずか8日後のことでした。
    高橋氏は、生前、帝国学士院賞の賞金を母校である和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)に全額寄附し、同校ではこれを基金として理化学分野の成績優秀な生徒に「高橋賞」を授与していました。現在は、この意思を継ぐ高橋克己顕彰会が、「日本学生科学賞」の県審査の優秀者に対して「高橋克己特別賞」を贈る活動を続けています。高橋博士の後を継ぐ優秀な科学者が和歌山からどんどん出てきて欲しいものです。
    なにしろ、高橋博士の発明がなければスーパーコンピューター「京」を運用する理化学学研究所も財政難で潰れていたのかもしれないんですから(^_^)v

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 明治38年に作られた武道奨励のための稽古場

    投稿日 2015年09月16日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:4.5

    岡公園の南端に木造の大きな建物があります。庭園で有名な「あおい茶寮」の前と行った方が判りやすいかもしれません。この建物は「武徳殿」と呼ばれます。

    明治28年、日本古来の武道を奨励しようという機運の高まりを受けて京都に「大日本武徳会」という団体が発足しました。これを受けて、明治34年に警察関係者が中心となって和歌山県支部が設立されました。この組織が寄付を募って明治38年に完成させたのが「和歌山武徳殿」なのです。当時、同様の施設が全国に作られたようですが、現在では佐賀や山口など11か所が残されており、そのうち9か所が現在も道場として使用されているそうです。

    ちなみに、大日本武徳会は武道振興のために各種の事業を行いましたが、中でも特筆すべきは、当時「剣術」「撃剣」などと様々な呼び名があった剣を用いる武術を「剣道」の名称に統一し、競技のルールなどを定めたことです。また「弓道」「柔道」も同会が中心となって名称の変更や競技ルールの制定などに取り組みました。村上もとか作の漫画「龍-RON-」で、主人公の押小路龍が青春時代を送った武専(大日本武徳会武道専門学校)を設立した団体と言えば判りやすいでしょうか。

    和歌山武徳殿は当初は和歌山市真砂町にありましたが、昭和36年に現在の岡公園内へ移築され、昭和37年には当時の所有者であった和歌山警察義勇会から和歌山市へ寄贈されました。現在では和歌山市役所が管理していますが、建築から100年以上を経過した今でも毎日のように合気道や少林寺拳法などの稽古が行われています。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 熊野古道の安全を見守るお不動さん

    投稿日 2015年09月16日

    雄ノ山峠の不動明王の祠 和歌山市

    総合評価:3.0

    雄ノ山峠は、古来、紀伊国と和泉国の境界となる峠として知られていました。この峠を通る道は、かつて「南海道」とも「熊野街道」とも「紀州街道」とも呼ばれていました。

    「南海道」は、本来、都から淡路島を経て四国に至る街道(海路を含む)のことを指しますが、都が奈良にある頃には五條、橋本を経て紀の川の北岸を通り、加太から淡路へ到るルートを示していました。それが、都が京へ移ったことから徐々に和泉から山中渓を通り、雄ノ山峠を越えて紀伊国へと到るルートも南海道と呼ばれるようになったようです。(雄ノ山峠越えだけではなく、孝子峠を越えるルートも南海道と呼ばれることがあります)

    現在、雄ノ山峠の大半は県道和歌山貝塚線になっており、急峻でカーブの多い自動車道が続いています。往時を偲ばせる風景はほとんど無くなっていますが、峠の山頂のすぐ手前にある「峠の不動明王」だけは、かつての峠道の風情を感じさせてくれています。詳しい由来は判らないのですが、看板には「路傍に立ち、風雪に耐えて幾百年、旅人の安全を守ってくださいました。」とありました。今でこそ自動車で簡単に越えられる峠となり、その横を平行して走る高速道路には多くのトラックや乗用車が毎日何千台と通過していきますが、つい何十年か前まではここで行き倒れになる人も珍しくはなかったのでしょう。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 坂本龍馬や勝海舟も関わった「日本最後の仇討ち」

    投稿日 2015年09月16日

    日本最後の仇討ち場跡 阪南・岬

    総合評価:4.0

    熊野古道の一部である「雄ノ山峠」を和歌山から大阪側へ進むと「境川」という小さな川があります。この川が和泉国と紀伊国との国境であったことから名付けられたようで、現在もこの川が和歌山県と大阪府との府県境になっています。
    この川を大阪府側へ渡ったところに、「日本最後の仇討ち場」という看板があります。
    安政4年(1857年)、土佐藩士の棚橋三郎は酒に酔って同じ土佐藩士の廣井大六に斬りかかり、川中に落として水死させました。棚橋三郎は藩を追放されましたが、廣井大六の一人息子であった磐之助は、父の仇を討つために17歳にして棚橋を探す旅に出ます。
    磐之助は、大阪に旧知の坂本龍馬を尋ね、龍馬から紹介を受けた勝海舟の協力を得て幕府の仇討ち免許状と諸国の役人宛ての探索依頼状を受け、勝海舟の門弟になりながら捜索を続けました。当時、幕府は公式には仇討ちを禁じてはいなかったものの、仇討免許状の交付は既に行っていなかったため、磐之助が免許状を受けられたのはまさに勝海舟の尽力の賜であったと言えましょう。

    それから6年たった文久3年(1863年)、紀州加太で工事人夫にそれらしき人物が居ると知ると、磐之助は紀州藩に申し出て憎き仇の棚橋三郎を取り押さえてもらいました。しかし、仇討ちを申し出たところ、紀州藩では「現在幕府では公式に仇討ちを許可していない。このため、御三家の一つである紀州藩において禁を破って仇討ちを認めることはできない。」とのつれない答え。
    「もう仇討ちはできないのか」と磐之助が唇をかんだその時、紀州藩の役人は、「棚橋三郎を国払いとして、和泉国との国境である境橋まで連れて行ってそこで解放する。そこから先は紀州藩ではないから、仇討ちをしたければそこで勝手にすればよい。」との言葉が下されました。

    勇躍、磐之助は境川で待ち受け、国払いにされた棚橋三郎を討って見事父の仇討ちを果たしたのです。その後もいくつか「仇討ち」とされる事件は起こりますが、幕府が発行した「仇討免許状」に基づいて実行された仇討ちはこれが日本で最後のものになるのだそうです。

    仇討ち自体はもちろん現在の社会では到底認められることではありませんが、紀州藩が面子と人情の間で粋なはからいをしたこと、最後の仇討ちに坂本龍馬や勝海舟が関わっていたことなど、非常に興味深い出来事であることは間違いありません。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 和歌山城築城の際の石切場

    投稿日 2015年09月16日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:3.5

    岡公園にそびえる天妃山(てんぴさん)は岩山です。
    和歌山城築城の際に石垣を作るために、この天妃山に石切場が設けられていたそうです。現在も岡公園では石切場の跡を見ることができ、建設工事の「現場事務所」にあたる「御作事所(おさくじしょ)」跡の標識も建てられています。

    天妃山から切り出された石は主に緑色片岩(緑泥片岩)と呼ばれる種類の石でした。この石は、全体が青みがかっている中に白い筋模様が入っており、一定の方向に薄く板状に割れやすい構造になっているのが特徴で「紀州の青石」とも呼ばれます。和歌山にいると「青石」はどこにでもあるので意外と見過ごしがちなのですが、全国的には、中央構造線に沿った地域に産出することが知られており、秩父、伊予、紀州などの特産品として庭石などに用いられる比較的珍しい種類の石にあたるそうです。

    和歌山城が築城された虎伏山も青石の山だったようですが、この天妃山から切り出された青石も加えて、和歌山城の石垣には「紀州の青石」がふんだんに使われています。和歌山城の石垣には、築造の時期によって「野面積み(自然石をそのまま積んだもの)」、「打ち込みはぎ(石の角や面をたたいて平たくし隙間を減らして積んだもの)」、「切り込みはぎ(石を直線的に切り出して密着させて積んだもの)」の3種類がありますが、紀州の青石は主に「野面(のづら)積み」の石垣に使われています。城の石垣に青石が大量に使われているのは和歌山城と徳島城のみだそうですので、これも和歌山城の大きな魅力であると言えるでしょう。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 幕府の軍艦奉行であった勝海舟が海岸砲台検分のために滞在した場所

    投稿日 2015年09月08日

    勝海舟寓居地碑 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市駅前にある「ファミリーショップ クイノセ」の前にこの石碑はあります。

    幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しました。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入したことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友が島に台場(砲台)を築造するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3年になってからのことでした。

    勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
    このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。その際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いています。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
    この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ケ島に大規模な砲台が建設されることにより実現することになります。

    また、この時には、勝の門弟だった坂本龍馬も紀州藩を訪れており、勝海舟とともに海防施設の巡視に参加したと考えられています。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    4.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 5分で登れる手軽な登山

    投稿日 2015年09月07日

    打越山 遊歩道 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市打越町にある打越山は、国土地理院が測量した三角点が置かれた、れっきとした山です。

    その標高は45.23m、麓からの登山時間約5分、と誰でも簡単に登れる山ですが、おそらく登ったことのある人はほとんど無いと思われます。
    登山道は、高松から小雑賀へ抜ける細い道に面した場所にあります。
    北側からと南側からの2か所に登山口がありますが、南側の入り口は「打越峠」と呼ばれ、「打越延命夜泣地蔵尊」が祀られているのでわかりやすいと思います。
    山頂にはコンクリート製のテーブルやベンチがあり、公園として整備されていますが、どう見てもあまり多くの人が利用している感じではないですね。
    三角点も草に埋もれて全く見えなくなっていたのですが、なんとか発見することができました。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    駐車場はありません
    景観:
    2.0
    眺望は開けていません
    人混みの少なさ:
    4.0
    登ったことのある人は少ないはず
    バリアフリー:
    1.0
    健常な方ならすぐ登れます

  • 紀伊続風土記の編纂者による磨崖碑

    投稿日 2015年09月07日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:3.5

    岡公園の南東の岸壁に磨崖碑があります。
    非常にわかりにくい場所にあるのですが、弁財天神社の脇から天妃山へ上る石段の途中を右に入ったところにあります。草や落葉に埋もれていることが多く、見つけるのは若干苦労するかもしれませんが、一度探してみて下さい。

    この碑は、江戸時代の儒学者である仁井田好古(にいだ こうこ)のもので、「山寿仁人徳 水清廉士風」(やまはいのちながしにんじんのとく みずはきよしれんしのふう)という文字が刻まれています。

    仁井田好古は、加太浦(現在の和歌山市加太)の農民の子として生まれましたが、幼年時代より学問に優れていたため,16歳で藩校の教員となったと伝えられます。
    文化3年、好古は紀州藩第10代藩主徳川治宝から「紀伊続風土記」の編纂に総裁として取り組むよう命ぜられます。そして、編纂開始からなんと33年の年月をかけて天保10年に全192巻を完成させるのです。これは、藩内を郡ごとにわけて過去の地名との比較を考察するほか、田畑石高、人口、自然地理、水利、社寺・城跡などを詳細に記述した、いわゆる「郷土誌」で、近世の和歌山の状況を知る第一級の基礎史料です。類似の史料は日本全国に多数ありますが、紀伊続風土記は中でもとりわけ優れたものであると言われています。

    好古は嘉永元年に79才で亡くなりますが、その墓所は加太の光源寺にあります。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 明治初期の四戦役における和歌山県出身兵士の慰霊碑

    投稿日 2015年09月07日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:3.5

    岡公園の中にある「天妃山(てんぴさん)」の山頂に碑があります。
    これは「四役戦亡記念碑」と言われるもので、明治時代初期に行われた4つの戦役(佐賀の乱(明治7年)、台湾出兵(明治7年)、神風連の乱(明治9年)、西南戦争(明治10年1877年)に参加して亡くなった491人の和歌山県出身の兵士の慰霊のために建立されました。
    建立されたのは明治12年で、これを契機として天妃山全体の公園整備が行われたということですので、いわばこの記念碑が岡公園のルーツであると言えるものです。

    明治2年、紀州藩ではプロイセン(ドイツ)から軍事顧問を招き、1万4千人に上る本格的洋式軍隊を養成します。また、和歌浦の法福寺住職であった北畠道龍が率いる民兵組織「法福寺隊」も精強で知られていました。ところが、明治4年の廃藩置県によりこれらの紀州藩の軍事勢力は消滅し、一部は明治新政府へと移行されることになりましたが、和歌山に残った者も数多くいたようです。

    この時期に発生した4つの戦役において、政府軍として活躍をした兵士の中にはこうした訓練を受けた紀州藩出身の者が数多くいたと思われます。また、和歌山に残った者の中でも政府軍に志願兵として参加した者があり、一説によれば西南戦争に参加した7,500余名の志願兵のうち4分の1が紀州藩の出身であったとも伝えられています。

    この碑は、旧紀州藩14代藩主徳川茂承と旧紀州藩出身の陸軍将校らの発起によって明治12年に建立されたもので、碑の文字は有栖川宮熾仁親王の揮毫によります。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.0
    小高い丘の上にあります
    見ごたえ:
    3.0

  • 「昇仙」の碑

    投稿日 2015年09月07日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:3.0

    岡公園の南端には池があり、その池の上に張り出した岩に「磨崖碑(まがいひ)」があります。

    「磨崖碑」というのは、自然の岩壁に文字を刻んで石碑としたものを言います。
    ここには「昇仙」という文字が刻まれています。

    「昇仙」といえば山梨県の「昇仙峡」が有名ですが、「仙人の住む所、あるいは俗界を離れた清浄な世界」へ「昇る」心地であるというような意味ですから、古来この場所は俗世間から隔絶されたような静謐な美しい場所であったのでしょう。今は随分趣が変わってはいますが、この場に立ってかつての雰囲気を想像するのも一興です。

    碑文は、江戸時代後期(文政10年)に伊勢に生まれた陽明学者、漢学者の倉田績(くらた いさお)によるものです。
    倉田績は大塩平八郎から陽明学を、佐藤一斎から儒学をそれぞれ学んで、紀州藩に仕えた人物で、南方熊楠が小学校に通っていた頃、塾で漢学を教えた人物としても知られています。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 和歌山市で一番怖いすべり台

    投稿日 2015年09月07日

    岡公園 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市民であれば、「岡公園」と聞いてまず思い浮かべるのは「岡公園の滑り台」ではないでしょうか。

    子供の目線から見れば隆々とそびえ立つ大きな山の上からまっさかさまに滑り降りる長大なスロープ、しかも途中に微妙な凸があるので、一瞬空中に放り出されるような感触が味わえる恐怖の滑り台。和歌山市民にとっては、これを征服することが「幼児」から「子供」への通過儀礼であるとさえ言えるように思われます。

    ちなみに、岡公園の滑り台は、和歌山の地域情報紙「ニュース和歌山」の2011年1月3日号で「未来に輝く和歌山遺産」のひとつに選定されています。(ちなみに、他の和歌山遺産は「グリーンソフト」、「和歌山ブルース」、「片男波海岸だるま夕日」、「バスケットピンポン」、「メロディーロード(紀美野町)」、「日本一楽しい山彦スポット(日高川町)」でした。)
    同紙の記事によると、この滑り台は1965年に和歌山市が設置したもので、直径11メートル、高さ5メートルのコンクリート製、正式名称は「プレイマウンテン」なのだそうです。

    ロンドンオリンピック体操競技で大活躍した田中3きょうだいの末弟である田中佑典さんは、和歌山市の広報誌「市報わかやま」の平成25年1月号で大橋市長と対談した際に、「(2011年の全日本学生体操選手権大会の時)久々に岡公園で遊ぼうと思って、あの急な滑り台に行ったのですが、今じゃもう怖くて滑れませんでした。」と告白しています。鉄棒や吊り輪で高難度の技を次々と成功させるような体操選手でも、岡公園の滑り台は怖いようです。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    2.5
    いつも子供達で大人気です
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 和歌山県で初めて国の登録有形文化財に登録された土木構造物

    投稿日 2015年09月07日

    木積川渡井 (小田井用水) 岩出・紀の川

    総合評価:4.0

    小田井用水は、紀州藩第5代藩主徳川吉宗の命を受けた大畑才蔵が作った橋本市高野口町から岩出市に至る約30kmに及ぶ灌漑用水路です。
    この水路は紀の川の北岸を東から西へと結んでいますが、その途中で紀の川の支流を何回か横断しています。そこでは、サイホンの技術を応用したトンネル式の水路や、水路橋を利用した立体交差などの技術を見ることができます。

    写真は、紀の川市と岩出市との境を流れる木積川を越えるところに架けられた「木積川渡井」と呼ばれる水路橋です。
    橋の下を流れるのが木積川で、用水路はレンガづくりの橋の上を横断しています。江戸時代に作られた時には木製の橋でしたが、大正3年に改修工事が行われ、レンガ造りのアーチ式の橋として完成しました。
    この木積川渡井は、同じく小田井用水にある龍之渡井(たつのとい)、小庭谷川渡井(こにわだにがわとい)、中谷川(なかたにがわ)水門(サイホン)とともに、平成18年に国の登録有形文化財に登録されました。これは、和歌山県の土木構造物では初めての登録になります。
    あまり目立たない場所にある小さな水路ですが、歴史的には大きな意味を持つ美しい水路橋です。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 徳川吉宗が大畑才蔵に命じて作らせた堰

    投稿日 2015年09月07日

    小田井堰 高野山周辺

    総合評価:3.5

    この堰は、江戸時代に、紀州藩第5代藩主であった徳川吉宗公が大畑才蔵(おおはたさいぞう)に命じて作らせたのが始まりです。

    才蔵は学文路(かむろ)村(現在の橋本市学文路)の庄屋の子として生まれましたが、少年時代から数学に明るく、後に土木技術に関心を持つようになりました。
    当時の紀の川の北側地域は、「月夜でも乾く」と言われたほど水不足に悩んでいました。このため、紀州藩第5代藩主となった徳川吉宗公は、紀の川の水を利用した大規模な灌漑用水路を作ることによって周辺の水不足を解消し、米の生産高を増やそうと考えました。その際に抜擢されたのが大畑才蔵です。

    水路を利用して水を遠くへ送るためには、水路の勾配を厳密に管理した精密な工事を行う必要があります。才蔵は竹筒と木で作った「水盛台」という測量器具を自ら考案し、勾配が3000分の1から5000分の1(3Km~5Kmの距離をあけた最初の地点と最後の地点との高低差がわずか1m)という難工事を実現しました。
    また、才蔵は、ほかにも工事区間をいくつかに分けて、区間ごとに必要な資材や切り盛りをする土量、作業人数などを事前に詳細に見積って経費の適正配分を図るとともに、各区間を同時着工することにより工期を短縮するという手法を編み出しました。ある意味、「一人スーパーゼネコン」とも言える存在だったのです。

    こうして才蔵は、旧那賀町の藤崎から和歌山市の千手川へと続く藤崎井、和歌山市弘西から西へ続く六カ井などの用水路を次々と完成させていきます。そして、才蔵が最後に取り組んだのがこの小田井用水工事でした。当時、紀州藩の藩主は徳川吉宗公に代わっていましたが、小田井堰の工事を見た人から「えらいもんじゃよ大殿様は、紀州・紀の川、米でせく(堰を作る土嚢が米俵のように見える)」と戯れ歌に歌われた記録が残るほどの大工事であったと伝えられています。

    才蔵は、第一期工事の延長約21Kmを完成させた時点で第一線から退きますが、この時齢74歳でありました。その後も工事は続けられ、延長約30Km、灌漑面積1,100ヘクタール以上もの規模を持つ小田井用水は現在も多くの農地を潤しているのです。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    少しわかりにくい場所にあります
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 南北朝時代、北朝方の畠山軍の本拠地

    投稿日 2015年09月04日

    和佐山城跡 和歌山市

    総合評価:3.5

    一般的に「高積山」と呼ばれている山は、別名「和佐山連峰」とも呼ばれ、複数のピーク(山頂)を有しています。このうち、旧中筋家住宅の方から見て左(北)側にあるピークを「高積山(標高237m)」、右(南)側にあるピークを「城ケ峯(標高255m)」と呼びます。城ケ峯は、名前のとおりかつて「和佐山城」と呼ばれる城のあった場所です。

    14世紀のはじめ、後醍醐天皇が奈良の吉野に転居したのに対し、足利尊氏が平安京で光明天皇を立てて、吉野の「南朝」と京の「北朝」の二つの朝廷が並び立つ「南北朝時代」に突入します。
    この時期、紀伊国では南朝方に付く者が多く、北朝の攻勢に対抗して「最初が峰(紀の川市)」に四条中納言隆俊、塩屋伊勢守、山本党、湯浅党などの南朝勢力が集結しました。これに対抗して北朝方では、関東執事であった畠山国清に紀伊国の南朝鎮圧を命じ、1360年になって国清の弟である畠山義深を大将とする3万の軍勢を送り込みました。この時、畠山軍の本拠地となったのがこの和佐山城なのです。

    一旦は龍門山(紀の川市)の闘いで南朝方が大勝するものの、やがては畠山勢が数にものを言わせて南朝の軍勢を破ります。その後、南朝方の大将であった四条中納言らは有田の阿瀬川城(有田川町)へと落ちのびていくのです。
    実は、その後また南朝方は勢力を盛り返し、結果的には畠山氏は名ばかりの守護職となるのですが、いっときこの地が北朝方の勢力の中心地となったことは間違いありません。

    当時の城は砦に毛の生えたようなものであり、天守閣や高石垣があったわけではないため、城跡と言っても本丸跡と思われる平地や土塁とおぼしき地形が確認できるだけですが、和歌山市内では貴重な南北朝時代の遺構ですので、ここで時代の雰囲気を感じてみるのも良いでしょう。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    標高244mの山上にあります
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    1.0
    健常な方であれば問題無く上れます
    見ごたえ:
    3.5

  • 埋蔵金伝説が現実のものになった!

    投稿日 2015年09月04日

    高積山古銭埋蔵地 和歌山市

    総合評価:4.0

    古くから高積山の麓で語り伝えられていた言葉に「朝日さし 夕日輝くその中に 大判千枚 小判千枚 朱3石おわします」というものがあるそうです。各地によくある「埋蔵金伝説」に繋がる暗号のようですが、なんと、高積山ではこれが現実のものとなり、実際に埋蔵金が発見されました。

    昭和3年、子供の頃からこの埋蔵金伝説を聞かされて育った高西凡骨氏が高積神社の神下博氏とともに発掘調査を行ったところ、神社の南端の地下から4枚の宋銭を発見しました。
    さらに調査を進めたところ、神社の北側にある碑の近くの地下60cmほどのところから、上下左右を瓦で囲まれた大量の古銭が発見されたのです。古銭の総数はなんと約15,000枚。その多くが北宋時代(960年-1127年)から南宋時代(1127年-1279年)の中国の貨幣で、確認できる限り最も新しいものが1368年に鋳造されたものであったとされます。

    日本が独自に全国共通の通貨をきちんと発行できるようになるのは江戸時代になってからのことであり、それまでは中国から輸入された宋銭(後には明銭)が貨幣経済の中心となっていました。ですから、これはまぎれもなく「埋蔵金」だったのです。

    14世紀後半から15世紀頃といえば、日本では南北朝時代から室町時代にかけての頃。その頃の紀州は、南朝方の勢力が強かったところに北朝方の畠山氏が守護として乗り込んできた時代ですから、あるいは畠山氏に駆逐された南朝方の勢力が再興を期して軍資金を隠したものかもしれません。

    このような大量の古銭が発掘されたことは和歌山県下では初めてのことで、全国的にも珍しい事例だそうです。現在、発掘された古銭は国立博物館に収蔵されています。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    標高約237mの山上
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    1.0
    健常な方であれば問題無く上れます
    見ごたえ:
    3.5

  • 疫病退散の信仰篤い神社

    投稿日 2015年09月04日

    高積神社 (上ノ宮) 和歌山市

    総合評価:5.0

    高積神社(下の宮)の横から登山道を約40分ほど上ったところが高積山の山頂(標高237m)で、ここに高積神社の本殿(上の宮)があります。
    それなりに険しい山上にある神社としては異例なほど立派なお社で、多くの人々の信仰を集めていたことがうかがえます。

    高積山は、別名を「高山」「高の山」ともいうことから、この神社は以前は「高の御前」「高の宮」と呼ばれていたそうです。また、疫病退散の信仰があったようで、由緒書によれば、疱瘡(天然痘)流行の節には県内外からの参詣者が絶えなかったとのことです。

    現在は神社のまわりに大木が生い茂っており眺望は望めませんが、「高積神社奉賛会趣意書」によれば、かつて「高山は麓から八町余も登る山頂にあり海草平野に屹立し眺望の絶佳なることは他に比類が無く、西は和歌山市は足下にありて、遠く淡路四国まで一望の中にあり、東は高野山、南は生石山が手にとるが如く日高方面までも直ぐ間近に見え、北は紀の川が伊都方面から河口まで脚下を流れ、由緒と云ひ絶景なることは近隣に絶えて無く為めに戦時中までは参拝客其跡を絶たない状態でありました。」とあるように絶景の場所として広く知られていたようです。

    古墳時代から平安時代にかけての時期には紀の川の氾濫域が今よりもはるかに大きく、高積山は紀の川沿いを通行する水上、陸上の交通を監視する絶好の位置にあると考えられるので、この場所の地政学的な意味合いは、現在の我々が考えるよりはるかに大きかったのかもしれません。
    それを考えると、山東地区にある伊太祁曽神社と、そのほぼ真北に位置し紀の川を見晴らす位置にある高積山上の高積神社、そこから紀の川をはさんで対岸の宇田森地区に位置する大屋都比売(おおやつひめ)神社が、それぞれ同じ三柱の神々を祀る兄弟(兄妹)神社であるということにも、大きな意味があったように思われます。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    高積神社下の宮から徒歩で上る必要があります
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    1.0
    健常な方であれば問題無くたどりつけます
    見ごたえ:
    4.0

  • 「経営の神様」も崇敬した神社

    投稿日 2015年09月04日

    高積神社 (下ノ宮) 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市禰宜(ねぎ)、旧中筋家住宅から東に500mほど入ったところに高積神社があります。

    高積神社の本殿は背後にある高積山の山頂にある通称「上の宮」と呼ばれる社で、麓にあるこの社は通称「下の宮」と呼ばれる遙拝所です。

    高積神社の主祭神は「都麻都比売命(つまつひめのみこと)」ですが、あわせて「五十猛命(いたけるのみこと)」「大屋都比売命(おおやつひめのみこと)」も祀られています。
    これは伊太祁曽神社と同じ祭神ですが、これら三柱の神々はもともと秋月(現在の日前宮の社地)に祀られていました。その後、一旦は伊太祁曽の地に三神とも遷座したものの、大宝2(702)年に三神分祀の勅令が出たため、都麻都比売命は高山(高積山)に、五十猛命は伊太祈曽に、そして大屋都比売命は和歌山市宇田森(現在の大屋都比売神社)に分かれて祀られたと言われています。この三柱の神々はいずれも素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子・娘であり、我が国に樹木の種をもたらせたとされる樹木の神様です。
    ですから、この高積神社と伊太祁曽神社、そして宇田森の大屋都比売神社とはもともと一つの兄弟神社(正式には兄妹神社)であると言えるのです。

    この神社一帯は旧和佐村であり、「経営の神様」松下幸之助氏も和佐村の出身であることから、高積神社の改修にも松下電器産業から多額の寄付が送られています。松下幸之助氏もこの神社の崇敬者であったのでしょう。

    旅行時期
    2013年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

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