yoshimune-kunさんのクチコミ全99件
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投稿日 2015年12月11日
総合評価:4.0
和歌川は昭和初期までは市民の憩いの場として親しまれていましたが、周辺の都市化が進むとともに製材、皮革、化学、染色などの工場が建ち並び始めたため、家庭の下水と工場排水で急速に水質が悪化しはじめました。
水質悪化のピークとなった昭和40年代には川底に大量のヘドロが堆積し、悪臭の漂う「死の川」とまで言われるようになります。
これを解消するため、昭和44年からヘドロの浚渫(しゅんせつ)が始められ、浚渫した汚泥で和歌川の一部を埋め立てることになりました。
こうして出来た土地が、現在の和歌川河川公園です。
今では水質も改善され、自然豊かな公園は再び市民に愛される憩いの場を取り戻しました。
公園内には東屋やベンチ、遊具などのほか、テニスコート(オムニコート、クレーコート)、児童野球場、サッカー場、ゲートボール場などのスポーツ施設もあります。
また、2月から3月にかけては赤い寒緋桜、3月から4月にかけてはピンクのソメイヨシノ、白いオオシマザクラなどが次々と咲き、ぼんぼりも設置されて花見の名所となります。- 旅行時期
- 2015年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年12月08日
総合評価:4.0
「AIR」は、株式会社ビジュアルアーツが「Key」というブランドで2000年に発売した恋愛アドベンチャーゲームの名称です。
Keyが制作したゲームは、少年少女の恋愛をテーマにしつつもその内容が感動的で泣ける、という「泣きゲー」として知られており、中でも「AIR」はその代表作とされています。
もともとはエロチックな表現のある18禁ゲームとして制作されましたが、その後表現を修正した全年齢対象版のゲームが発売され、2005年には劇場版公開、TVアニメ版の放送(BS-i)、と様々な媒体に広がっていきました。
その後もゲームは次々と発売されており、2013年にはスマホ用にAndroid版(18禁)とiOS版(全年齢)が発売されるなど、まだまだ現役のコンテンツであると言えます。
そして、このゲームをベースとして制作されたTVアニメ版AIRの舞台となっているのが、御坊市とその隣接の美浜町です。中でも一番といって良いほど有名な「聖地」が、この紀州鉄道西御坊駅の線路なのです。
ウソだと思う方は、一度、パソコンやスマホで「AIR 西御坊」と検索してみて下さい。結構な数の人たちが「聖地巡礼」としてここを訪れているレポートがご覧いただけると思います。- 旅行時期
- 2015年04月
- 施設の快適度:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月19日
総合評価:4.5
「まことちゃん」と言えば、楳図かずお先生の代表作とも言えるギャグ漫画で、「週刊少年サンデー」に1976年から1981年まで連載されていた作品です。
今の子供には馴染みがないかもしれませんが、「グワシ」「サバラ」「マッチョメ」など、この作品発の流行語が頻出する大人気漫画でした。
この作者の楳図さんは、「まことちゃん」のようなギャグ漫画のほか、「漂流教室」「わたしは真吾」「14歳」などのSFテイスト溢れる作品、「猫目小僧」「へび少女」などの恐怖漫画など、幅広いジャンルの作品を手がけています。
また、自らバンド活動を展開したり、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたりと音楽関係の活動を行うこともあります。色々な形でタレント活動も行っていますので、赤白のボーダーのシャツを着ている姿を見たことのある人も多いでしょう。
そんな楳図さんは、昭和11年、和歌山県伊都郡高野町で生まれました。本籍は奈良県五條市ですが、出産の便宜のためにお母さんが高野山に来ていたようです。
お父さんは小学校の教員で、楳図さんが幼少の頃は奈良県の山間部を転々としていたそうですが、6歳からは五條市に定住するようになり、東京へ出て行く27歳まではそこで過ごしたため、一般的には「高野山生まれ、五条育ち」として紹介されることが多いようです。
その頃、楳図さんは五條市の隣にある橋本市へもしばしば出かけていたそうで、そんな関係から一時は橋本市の広報誌に「オデンバ日記」という4コママンガを載せていたこともあるそうです。
こうした縁もあって、平成14年に橋本で駅前商店街の活性化をめざした「駅前一番計画」が立ち上がった際に楳図さんに「まことちゃん像」の設置をお願いしたところ、快諾を得られたということでこの像が建てられたのだそうです。
今年の春に行われた「高野山開創1200年記念大法会」の期間中(4月2日~5月21日)には高野山のマスコットキャラクター「こうやくん」に変身したこともあるなど、橋本市民には永く愛されてる「まことちゃん」、皆さんも1度会いに行ってはどうでしょう。- 旅行時期
- 2015年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2015年10月19日
総合評価:4.0
今年、開創1200年記念大法会が行われた高野山への町石道の起点であり、来年は九度山で13年間暮らした真田幸村を主人公とするNHK大河ドラマ「真田丸」が放映されるということで、九度山町は大変な盛り上がりを見せています。
世界遺産情報センターは、「道の駅 柿の郷くどやま」に併設されている観光案内所です。ここには、緋縅の鎧に六文銭と鹿の角を戴く兜を揃えた「真田の赤備え」と呼ばれる甲冑が展示されており、九度山で暮らしていた真田昌幸、幸村父子に関わる情報が入手できるほか、町内にある「慈尊院(女人高野)」、「丹生官省符神社」、「高野山町石道」などに関するパネル展示なども行われています。
このセンターを起点として、様々な歴史が数多く残されている九度山の町内や、世界遺産ゆかりの地を歩いて巡る人々もたくさんいるようです。
南海高野線の九度山駅からも近いですし、道の駅には大きな駐車場もあるので、観光の拠点としては大変良い場所です。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
ワールドカップのキャンプ地の背景にはひとりの勇気あるデンマーク人の物語があった
投稿日 2015年10月19日
2002 FIFAワールドカップ デンマーク和歌山キャンプ記念碑 和歌山市
総合評価:4.0
2002年の「日韓ワールドカップサッカー」では、デンマーク・ナショナルチームが和歌山でキャンプを行いました。
実は、その決定にあたっては、ひとりのデンマーク人の勇気ある行動と、その恩をいつまでも忘れない和歌山の人々の「想い」が後押しをしたのではないかと言われています。
昭和32年2月10日午後9時40分頃、名古屋から神戸へ向かっていたデンマークの貨物船「エレン・マースク号」は、和歌山県美浜町の日ノ岬(ひのみさき)沖を航行中に、機帆船「高砂丸」が炎上しているのを発見しました。
早速マースク号は救命艇を下ろして救助に向かいましたが、当日は風速20メートルを越す風が吹く大荒れの天候で、救命艇ばかりかマースク号さえも危険にさらされる状態となってしまいました。やむなくマースク号は救命艇を回収し、直接高砂丸に近づいて乗員を救助することを決めました。その時高砂丸に残っていた船員はただ一人だけとなっていましたが、彼はマースク号から投げられた綱を頼りに海に入り、やっとの思いでマースク号の綱ハシゴにたどり着くことができました。
ところが、あと少しで船上にたどりつくというまさにその時、船員は力尽きて海へと転落してしまったのです。
その瞬間、船上で彼の様子を見守っていたヨハネス・クヌッセンという名の機関長が、一瞬のためらいも見せずに救命ベルトを締めて海に飛び込んでいきました。クヌッセン機関長は必死で救命ブイを船員に渡そうとしますが、荒れ狂う海の中では思うに任せず、ついに2人の姿は波間に消え、見えなくなってしまいました。
マースク号では急遽救命艇を出動させたものの、激しい波でエンジンが壊れて沈んでしまい、救助は断念せざるを得なくなってしまいました。
翌朝、クヌッセン機関長の遺体とマースク号の救命艇は日高町の田杭港周辺で発見されました。クヌッセン機関長の勇気ある行動を聞いた地元の人たちは一同に驚き「あの嵐の中で日本の船員を助けるために海に飛び込むなど、人間のできることではない。この人は神様だ!」と流れる涙をこぶしでぬぐいながらひざまづき、その手はいつのまにか合掌に変わっていった・・・と伝えられています。
この勇気ある行動は、当時、日本全国で大きな話題となり、日本政府から勲章(勲五等双光旭日章)が贈られることになりました。
その後、遺体が漂着した日高町田杭地区には「クヌッセン機関長遺骸発見の地」と記された供養塔が建てられるとともに、同時に発見された救命艇が保存されていて、今も地域の人々によって守られています。
また、美浜町の日ノ岬には、クヌッセン機関長の顕彰碑と胸像が建てられており、「クヌッセンの丘」として毎年2月には慰霊行事が行われています。
それから45年後、この和歌山でデンマークのワールドカップキャンプが実現したことは、こうした歴史と無関係ではないと思います。
最近は、メディアに取り上げられることも少なくなり、ご存知の方が少なくなってきたのかもしれませんが、日本とデンマークを結ぶ感動の物語が和歌山にあったということは多くの方々に知っていただきたいものです。
http://www.wsk.or.jp/report/tani/15.html- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2015年10月14日
総合評価:4.0
「まことちゃん」と言えば、楳図(うめず)かずおの代表作とも言えるギャグ漫画で、「週刊少年サンデー」に1976年から1981年まで連載されていた作品です。
今の子供には馴染みがないかもしれませんが、「グワシ」「サバラ」「マッチョメ」など、この作品発の流行語が頻出する大人気漫画でした。
この作者の楳図さんは、「まことちゃん」のようなギャグ漫画のほか、「漂流教室」「わたしは真吾」「14歳」などのSFテイスト溢れる作品、「猫目小僧」「へび少女」などの恐怖漫画など、幅広いジャンルの作品を手がけています。
また、自らバンド活動を展開したり、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたりと音楽関係の活動を行うこともあります。色々な形でタレント活動も行っていますので、赤白のボーダーのシャツを着ている姿を見たことのある人も多いでしょう。
そんな楳図さんは、昭和11年(1936年)、和歌山県伊都郡高野町で生まれました。本籍は奈良県五條市ですが、出産の便宜のためにお母さんが高野山に来ていたようです。
お父さんは小学校の教員で、楳図さんが幼少の頃は奈良県の山間部を転々としていたそうですが、6歳からは五條市に定住するようになり、東京へ出て行く27歳まではそこで過ごしたため、一般的には「高野山生まれ、五条育ち」として紹介されることが多いようです。
その頃、楳図さんは五條市に隣接する橋本市へもしばしば出かけていたそうで、そんな関係から一時は橋本市の広報誌に「オデンバ日記」という4コママンガを載せていたこともあるそうです。
こうした縁もあって、平成14年(2002年)に橋本で駅前商店街の活性化をめざした「駅前一番計画」が立ち上がった際に楳図さんに「まことちゃん像」の設置をお願いしたところ、快諾を得られたということでこの像が建てられたのだそうです。- 旅行時期
- 2015年09月
- 施設の快適度:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
紀の川の「岩出頭首工」近くの堤防沿いに、「六箇井樋門改築記念碑」という碑が建立されています。
現在「六箇井」と呼ばれている農業用水路は古くからあったもののようですが、記録によれば、大畑才蔵の指揮監督により元禄14年(1701年)に現在の和歌山市山口地区から直川地区へと延長されています。
その後、さらに西の地域で干ばつが相次いだため、今度は中村成近という人物の主導で用水路の西進が計画され、文化2年(1805)から文政5年(1822年)まで17年の歳月をかけて直川から松江まで約16kmの水路を完成させ、これによって和歌山市北西部の農業生産力は飛躍的に向上することになったのです。
こうして六箇井の灌漑能力は大幅に向上したのですが、紀の川からの取水口は元のままであったためしばしば取水量が不足し、また洪水による破損も相次いだことから、天保7年(1836年)に取水口の位置を約40m上流に移し、現在の岩出頭首工付近から取水することとなりました。
その後、昭和12年になって紀の川の水害被害をなくすための大規模な改修工事が行われるとともに、六箇井の取水口も延長350mの鉄筋コンクリート造に改築されたのです。
写真の記念碑は、この取水口改築事業が完了したことを記念して、昭和14年12月に建立されたものです。和歌山市の紀の川北岸にはまだまだ多くの農地がありますが、こうした農地はそのほとんどがこの「六箇井」によって潤されているのです。
その背景には、驚くほど長い期間にわたっての、多くの人々の努力の積み重ねがあったのですよ。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
和歌山市船所の和歌山バス「水道橋」停留所そばに、「六堰続渠之碑(ろくせきぞっきょのひ)」という碑が建立されています。
これは、江戸時代、中村成近という人物が17年の歳月をかけて約16kmにわたる農業用水路の延長事業を行ったということを顕彰して建てられたものです。
宝永5年(1708年)に完了した大畑才蔵による六箇井改修工事(直川への延長)の後も、それより下流の楠見・粟・福島・北島・野崎・梶取・狐島・延時・西土入・貴志の10か村は水利が悪く、水不足に悩んでいました。
これを案じた船所の農民 中村成近は、六箇井用水路を延長してこれら10か村を潤す灌漑用水路を作ろうと考えたのです。
彼は、文化2年(1805年)に藩の許可を得て六箇井の延長工事に着手し、同年中に5か村の灌漑が実現しました。さらに、文化11年(1814年)から文政5年(1822年)まで約8年の歳月をかけて現在の和歌山市松江まで用水路を延長し、ついに全長16kmに及ぶ大工事を完成させて、計17か村、約120ヘクタールが灌漑可能となったのです。
この碑は、その功績を顕彰するために天保5年(1834年)に建立されたもので、碑文は「紀伊続風土記」の編纂者として有名な仁井田好古によるものです。この碑は、和歌山市指定文化財にも選ばれています。
参考に、石碑の横に立てられている説明板の内容をご紹介します。
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和歌山市指定文化財(歴史資料)
仁井田好古撰文碑 六堰続渠之碑
昭和63年3月30日指定
この石碑は、江戸時代の儒学者である仁井田好古の撰文によるもので、文化2年(1805)から文政5年(1822)にかけて行われた紀ノ川北岸農業用水路の開削事業を顕彰したものである。砂岩製で碑の高さは162センチ(総高223センチ)ある。
仁井田好古(1770~1848)は、紀伊国海部郡加太浦(現在の和歌山市加太)に生まれ のち和歌山藩へ儒者として出仕した。藩命により「紀伊続風土記」の編さんにあたり、天保10年(1829)に全192巻を完成させた。
この「紀伊続風土記」編さんの関連事業として、好古の撰文によって史跡および伝承地の顕彰碑が藩内24箇所に建てられた。和歌山市内には10基が建てられたが、現在は木碑や和歌浦玉津島神社境内にある「奠供山碑(てんぐやまのひ)」など5基が知られているにすぎない。
これらの碑は歴史顕彰事業の先駆的存在として、また和歌山藩の学術文化施策の一端を示すものとして重要な資料である。
平成2年3月1日 和歌山市教育委員会- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
「頭首工」とは、川から農業用水などを用水路へ導き入れるための施設のことを言い、取水用の堰や用水の取入口などを含めた施設全体を指す言葉です。
紀の川流域は、江戸時代に徳川吉宗が強力に推進した「紀州流治水工法(連続した堤防で水害を防ぐとともに、大規模な用水路を設けて流域一帯を灌漑することにより耕作可能地を増やす)」によって新田開発を積極的に推進しました。
そのシンボルとも言えるものが、吉宗が大畑才蔵に命じて作らせた小田井と藤崎井という用水路です。この二つの用水路の取水口は、「小田頭首工」、「藤崎頭首工」として改修を加えながら現在も利用され続けています。
そして、紀の川にはもう一つ、重要な頭首工があります。それが、この「岩出頭首工」なのです。
かつて、この周辺の紀の川には、「六箇井」「四箇井」「小倉井」「宮井」という4つの用水路の取水口がありました。
「六箇井」は、古くからあった水路を大畑才蔵の指導により現在の和歌山市山口から和歌山市直川まで堀りつなげたものであると伝えられていますが、天保6年(1835年)に現在の岩出頭首工まで堀りのぼってきたようです。
「四箇井」は、和歌山市四箇郷一帯を流れる用水路で、鳴神~出水、松島~有本周辺を灌漑しています。
「小倉井」は、岩出町船戸から上三毛・新庄、新在家・大垣内・馬次などを経て旧小倉村一帯を灌漑する用水路です。
「宮井」は、和佐・秋月・出島・中島一帯を灌漑するもので、昔から水量豊かで水車による精米などにも用いられたと言われます。
ちなみに、豊臣秀吉が太田城を水攻めにした際には、宮井・小倉井を使って紀の川の水を太田城周辺へ引き込んだと伝えられており、これらの用水路は歴史の表舞台に立ったこともある重要な施設であったのです。
昭和28年に発生した大水害によってこの周辺の地域も甚大な被害を受けました。六箇井、四箇井、小倉井、宮井の4用水路も被害にあったことから、その災害復旧事業の一環として、これらの用水路の取水口を一箇所にまとめて作られたものが、この「岩出頭首工」なのです。
普段なにげなく見過ごしてしまう川の中の施設ですが、このような役割と歴史があることを知っていただくと、もしかしたら見方が変わるかもしれません。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年10月13日
総合評価:4.0
岩出橋から700mほど上流に「いわで御殿」という建物があります。
現在は、通所介護や介護予防通所介護のサービスなどを行うデイサービスセンターを中心とする施設となっていますが、もともとは、ここに紀州徳川家の「巌出(いわで)御殿」という建物が作られていた由緒ある場所なのだそうです。
現場に建てられている看板に詳しい解説が書かれていましたので、その内容を引用させて頂きます。
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いわで御殿の由来と沿革
昔からこのあたりには風光明媚な小山があり、周辺の人々に景勝地として親しまれてきました。そこに妙見堂という建物がありましたが、慶安2年(1649)紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣がこれを和歌浦に移した後、その跡地に別荘を築かれたそうです。この建物を「巌出(いわで)御殿」と呼び、歴代藩主が参勤交代の時など、ここに宿泊していたそうです。八代将軍吉宗も幼少の頃は、ほとんどここで過ごしていたと伝えられています。
この地からは大台ケ原や吉野に源を発する紀の川、箱山、紀州富士の名で知られる龍門山の美しい姿を望むことができます。また当時は岩出の地名どおり川の中には人とり岩・畳岩・なまず岩・えぼし岩や車岩などと呼ばれる奇岩が点在していたそうです。さらに上流は我国有数の材木の産出地でしだので、筏が下り、景観に風情を添えていたと思われ、紀州家が別荘を建てたことがなるほどと頷ける景勝の地であったと思われます.
巌出御殿は、宝暦14年(1764)に取り壊された後、時代の流れとともに大阪では八州軒、横浜では臨春閣と所・名前を変えながらも、現在は横浜市・三渓園に「臨春閤」として国の重要文化財に指定され当時の姿を残しています。
さてこの地は、巌出御殿が取り壊された後、御殿山と呼ばれ昭和のはじめ頃まで公園として地元の人々に親しまれていましたが、奇岩のあった辺りが川の流れの障害となり再三にわたる岩出の水害の原因となっていたので川幅を広げるため、奇岩及び御殿山の一部を取り崩すことになり、かつての姿は失われています。
岩出市
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解説にあるような奇岩の景観は失われてしまいましたが、現在でもこの場所からは悠々と流れる紀の川の景観を楽しむことができ、絶景の場所であることに変わりはありません。
また、文中にあるとおり、もともとの巌出御殿の建物は横浜の「三溪園」という庭園に移築されて、現在も「臨春閣(重要文化財)」として大切に保存されています。
岩出市の「岩出」という名称は、紀の川に様々な奇岩が点在する、という景観から付けられた名前だったのですね。しかも、そこに紀州徳川家の立派な御殿が建てられていたのです。
こうした歴史を知る人も、今では少なくなってしまったのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
小野小町は、平安時代の女流歌人で、一般には「百人一首」の中の
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」
という歌でよく知られています。
ところが、その実像は良く判っていないことが多く、出生地も通説では現在の秋田県湯沢市であると言われますが、京都、山形、福井、福島、熊本、神奈川など様々な説があるようです。
また、亡くなった場所についても様々な説があり、宮城、福島、栃木、茨城、京都、滋賀、鳥取、岡山、山口など各地に「小野小町の墓」と伝えられる場所があります。
そして、実は、その「小野小町の墓」が和歌山市にもあるのです。
場所は和歌山市湯屋谷。熊野古道の「雄ノ山峠」から南へ下ったところに「山口王子跡」があり、そこから100mほど南にある畑の中に「小野小町の墓」があります。(一般の墓と同じ敷地内にありので、見学の際にはご注意ください)
江戸時代に発行された「紀伊国名所図会」によると、晩年、年老いた小野小町が熊野参詣からの帰途この地で生涯を終えたため、不憫に思った村人たちがその地に「小町堂」と呼ばれる庵を建て小町の像を安置し、その菩提を弔ったとのことです。小町堂は後に白鳥山小野寺という寺院となり多くの女性が参拝に訪れたそうですが、残念ながら明治時代に廃寺となりました。
広場の中に一つだけポツンと立ってる石碑をよく見ると、わずかに「小町堂」の文字が読み取れます。この場所がかつての小野寺であったのでしょう。
そして、「小野小町の墓」と伝えられる墓石は、その広場の一角で、無縁仏と思われる墓石がいくつも並べられている中にあります。他の石は角形のものが大半の中で、一つだけ卵形をした墓石は目立ちますが、そこに刻まれた文字は読み取ることができませんでした。
資料によれば、「宝暦十一巳 迎空了雲沙弥 正月十日」と刻まれているそうです。
宝暦11年といえば1761年、江戸時代中期ですから小野小町の時代からは何百年も後のことになりますので、これが本当に小野小町を供養するために作られたものであったとしても、随分後世になってから作られたもののようです。
また、ここから2kmほど南にある「遍照寺」というお寺には、小野小町88歳のものと伝えられる木像が安置されています。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
和歌山市里に「遍照寺」というお寺があります。
この寺には、小野小町が88歳の時の姿をうつしたものと伝えられる木像が安置されています。
「絶世の美女」と謳われながらその生涯が謎に包まれている小野小町ですが、その晩年についてもやはりよく判っていません。京都府井手町にあった井提寺の別当の妻となり、幸せな晩年を過ごして69歳で没したという説もあるのですが、若い頃の栄華に反して大変不幸な晩年を送ったという話の方が多く伝えられています。
その代表的なものが鎌倉時代の説話集「古事談」にあります。
平安時代の歌人 在原業平が東北地方へ行ったとき、突然
「秋風の 吹くにつけても あなめあなめ」
(秋風が吹きつけて 目が痛い目が痛い)
という和歌の上の句が聞こえてきました。
ところが、あたりを見回しても人の姿は見えず、代わりに眼の穴からススキが生え出した髑髏が見つかったのです。土地の人が「あれは歳をとって醜い老婆となり、行き倒れになった小野小町の髑髏だ」と言うので、哀れに思った業平は髑髏を人目につかない別の場所に移し
「小野とは言はじ 薄(ススキ)はひけり」
(小野小町の哀れな最期とはいうまい。ただ薄が生えているだけのことだ)
と下の句を付けて、小町の霊を慰めたと言うものです。
小野小町は晩年、年老いた姿で全国を流浪したとも伝えられますが、和歌山の伝承によれば、熊野参詣を果たした後、雄ノ山峠を前にしたこの地で落命したと言われます。遍照寺に伝わるのは、その時88歳であった小町の姿を写したとされる木像です。
私も実物を見たことはないのですが、資料によれば高さ50cmほどの木像で、あばらの浮き出た胸をはだけ、左膝を立てて座っている姿のものだそうです。お世辞にも「美女」と呼べる容姿ではないということで、小町の晩年の哀れさを際立たせるものとなっているのでしょう。
一般に広く公開されているものではありませんが、機会があればぜひ遍照寺を訪れて小野小町と対面してみて下さい。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
平成23年9月に日本列島を襲った台風12号は、紀伊半島の各地で連続雨量が2,000mm近くにも達する猛烈な雨を記録し、甚大な被害をもたらしました。
この雨が一段落した後、紀の川を管理する国土交通省和歌山河川国道事務所の職員が見たものは、紀の川大堰の上流の川の中から突きだした2本の枝。
調べて見ると、なんと、これは巨大なクスノキの一部だったのです。
このまま放置して万が一紀の川大堰にぶつかっては大きな損害が生じる恐れがあったことから、和歌山河川国道事務所では川の中からの引き上げを試みましたが、最初に試みた25tクレーンでは動かず、次に試みた70tクレーンではワイヤーが切れ、と失敗が相次ぎました。最終的に50tクレーンと70tクレーンの2台を使って、やっとのことで引き上げに成功したのです。
引き上げてみると、幹周り12m、高さ7m、重さ40tという巨大なクスノキで、年代測定の結果、樹齢は350年程度、今から1,300年ぐらい前に枯れて紀の川に沈んだものとわかりました。
つまり、このクスノキが生きていた時代は、西暦で言えば350年頃から700年頃であったと考えられます。この頃、日本の歴史では「古墳時代」から「飛鳥時代」、「奈良時代」へと移り変わっていく時期ですが、和歌山ではちょうど岩橋千塚古墳群が築造された時代にあたります。
そんな繋がりもあり、この巨大クスノキは防腐処理を施した上で、岩橋千塚古墳群のある「紀伊風土記の丘」に移設し、常設展示されることとなりました。また、一般公募により「紀伊大王」という愛称も付けられました。
岩橋千塚古墳群は、紀の川の南岸に築かれた700基以上の古墳の集積地で、当時この地域を支配していた紀氏を祀ったものであると言われています。
紀氏は現在も日前神宮・國懸神宮の宮司職を務めていますが、このクスノキもまた古墳時代の紀氏の活躍を身近に見つめていたのかもしれません。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2015年10月13日
総合評価:4.0
秋葉山は、戦国時代に全国に名を轟かせた雑賀衆の砦「弥勒寺山城」があった場所として知られています。
天正4年(1576年)、石山本願寺を攻めた織田信長は、本願寺方についた雑賀衆の鉄砲による攻撃で大きな損害を被りました。これに脅威を感じた信長は、翌天正5年(1577年)、雑賀衆の本拠地である紀州へ討伐軍を送り込んだのです。
10万人の大軍を擁して攻め込んだ信長軍に対抗する雑賀衆の軍勢はわずかに数千人。数に勝る信長軍は、弥勒寺山に立てこもる雑賀衆に対し、和歌川をはさんだ南岸から騎馬隊を先頭に力まかせに攻めかかります。
ところが、雑賀孫一率いる雑賀衆はこれを予測してあらかじめ川の中に「馬防柵」という木の柵を設けるとともに、川底におびただしい数の壺や桶を埋めていたのです。一気に攻め寄せる信長軍ですが、川の中途で馬防柵に行く手を阻まれて立ち往生すると同時に、馬が川底の壺や桶に足をとられて次から次へと倒れていきます。にもかかわらず後方からは続々と徒歩の兵が押し寄せてくるため、信長軍は川の中で進むことも退くこともできない状態になってしまいました。
これを待ち構えていた雑賀衆は、複数人が組になって火縄銃の清掃、弾と火薬の装填、点火準備、射撃などの作業を分業する戦術(これが雑賀衆の強さの秘密!)を用いて、熟練の射手が山上から息もつかせぬ速度で正確に鉄砲を連射し続けます。反撃しようとしても、川から山の上に向かって撃ち上げる形となる信長軍の銃弾は雑賀衆の兵にまでは届かず、信長軍は事実上何もできないまま次々と倒れていったのです。
とはいえ、雑賀衆も信長軍を一気に撃破するほどの戦力は無いことから、このあと戦況は和歌川をはさんで約一か月にも及ぶ膠着状態に陥ります。予定が狂った信長軍は、「織田軍苦戦」の噂が全国に広まると本願寺などの反織田勢力が反撃に出る恐れがあるため、雑賀衆に対し「本来ならば成敗するところだが、降伏するなら許してやる」という書状を送りつけます。要するに、「『まいりました』と言ったら、今日はこれぐらいにしておいてやる」という「強がり」ですね(笑)。
あまり戦いを長引かせても利益にならないと考えた雑賀衆は、名を捨てて実を取ることを選択し、「降伏」したことにして信長軍を退去させます。
数千人の軍勢で10万人の大軍を追い返した雑賀衆は実質的な勝利であると大喜びし、この時雑賀孫一が喜び勇んで踊った姿が、今も「和歌祭」で演じられる「雑賀踊り」の原型であると伝えられています。
今は静かな秋葉山ですが、戦国時代に一躍雑賀衆の名を高めた戦いの場であると思えば、また違った風景が見えてくるかもしれません。- 旅行時期
- 2014年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.0
和歌山市直川地区にある「さんさん公園」にある屋根付多目的広場の横に石碑があるのに気がついたので、この碑を詳しく見てきました。
碑には「高田曹長之碑」と刻まれていました。
その横に立てられた説明版を読むと、これは、大正10年に直川上空を飛んでいた軍の飛行機がエンジン故障により墜落したが、その際、同機を操縦していた高田傳十郎曹長が地上の人々にハンカチを振って危険を知らせつつ、民家を避けるように機を誘導したことから、その勇気ある行為を顕彰するために建立されたものだということでした。
碑は昭和10年に当時の村長ら有志により建立されたものですが、その後荒廃していたものを、近年になって地区の老人クラブの方々が再びきれいに維持管理するようになり、直川用地開発に伴い現在地へ移設したのだそうです。
旧軍の飛行機乗りの話としては、映画にもなった「永遠の0」が非常に有名ですが、この和歌山にも高田曹長のように勇敢な飛行機乗りの物語があったのですね。
参考に碑の説明文を書き起こしておきます。
故陸軍曹長高田傳十郎の碑
大正10年(1921年)4月16日、陸軍第61連隊(和歌山)の合同演習に参加のため僚機5機と共に岐阜県各務ケ原飛行場から和歌山へ飛行途中大阪と和歌山との境界(和泉山系)上空付近において高田曹長機の発動機が故障したが、直川民家集落への墜落を避けつつ、現碑の東南東約200メートルの地点に炎上墜落・殉死したものと言い伝えられる。目撃者によれば高田曹長は、ハンカチを振って危険を知らせつつ民家を避けて墜落したもので、その行為はひとり軍人のみならず我々国民にとっても範とすべき人格者であったと称されている。
昭和10年(1935年)には当時の村長等の有志により「英霊を慰め勇敢なる飛行士を偲び」墓碑が建立された。
その後、第二次世界大戦の敗戦を経て碑は荒廃のままとなっていたが、平成10年頃から直川老人クラブ連合会会員の奉仕により維持管理が図られてきた。
この度、直川工業用地の開発、和歌山北インター設置工事等に伴い碑の移転が必要となり、直川の歴史遺産として関係当局のご支援により約200メートル南から当地に移設したものである。
平成20年7月吉日
直川地区連合自治会- 旅行時期
- 2014年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年10月13日
総合評価:3.5
和歌山市内にある秋葉山は、浄土真宗本願寺派(一向宗)と深い関係を持つ場所です。
浄土真宗本願寺派の和歌山への布教は、1476年頃に現在の海南市冷水に設けられた冷水道場が始まりだと言われています。その後、1507年に海南市黒江へ移転し、1550年には現在の秋葉山(当時の名前は弥勒寺山)へ移転してきました。このため秋葉山は別名「御坊山」とも呼ばれるようになります。(「御坊」というのは一般的に浄土真宗の寺院のことを指す言葉です)
ここに紀州御坊が移転した経緯については詳しくはわかりませんが、当時精強をもって全国に知られていた「雑賀衆」の中には浄土真宗の熱烈な信者が多かったと言われていることから、雑賀衆が自らの本拠地であった弥勒寺山に紀州御坊を招いたのかもしれません。
その後、1563年に本願寺の指導者である顕如上人が弥勒寺山を訪れ、ここにあった紀州御坊を和歌山市鷺森へと移転させました。これが現在の「本願寺鷺森別院」であり、一時期は全国の本願寺の本拠地となっていた場所です。
顕如上人率いる浄土真宗本願寺派は、当時、「戦国時代最大の宗教的武装勢力」であったと言われ、全国統一を目指す織田信長の強力なライバルでした。このため、1570年に発生した「野田城・福島城の戦い」を皮切りに、本願寺と信長は11年にも及ぶ激しい戦いを全国で繰り広げます。これがいわゆる「石山合戦」で、教科書に出てくる「長島一向一揆」や「越前一向一揆」というのもこの合戦の一環として位置づけられています(「加賀一向一揆」は信長との直接対決ではないので少し意味合いが異なります)。
最終的にこの戦いは、1580年に本願寺が朝廷の仲介を受け入れて信長と講和したことにより終結するのですが、その際の講和条件の一つが、「顕如上人の大阪からの退去」でした。これに基づき、顕如上人が移り住んだ先が本願寺紀州御坊なのです。
これにより、「本願寺紀州御坊(現在の鷺森別院)」は、「本願寺」の本拠地となりました。
こうした歴史を受けて、秋葉山の山頂には「顕如上人桌錫所の碑」が建立されています。「桌錫」というのは、「錫杖を突き立てる」ということで、「顕如上人がこの地に立った」というような意味だそうです。
この碑は、顕如上人の300回忌を記念して、明治24年(1891年)に信者らが建立したものと伝えられています。
和歌山と宗教との関わりを考えていく上で高野山や熊野信仰についてはよく語られるのですが、本願寺と雑賀衆との関係は我が国の戦国時代を考える上で絶対にはずせないトピックであり、浄土真宗においても和歌山は重要な地域であると言うことができるのです。- 旅行時期
- 2014年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年10月07日
総合評価:4.0
学文路苅萱堂は、説経節「苅萱」として知られる「苅萱道心と石動丸」の物語で広く知られています。
この物語のあらすじは、次のようなものです。
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平安時代、筑紫の国の領主であった加藤左衛門繁氏は、正妻桂子と側室千里の争いを見たことによりこの世の無情を実感して、地位も家族も捨てて出家しました。はじめは京都で法然上人の弟子になりましたが、後に高野山で庵を設け、苅萱道心と称して修行の生活に入りました。
道心が出家した後、側室であった千里に童心の息子石童丸が誕生します。石童丸が14歳になったとき、父が高野山で修行している噂を耳にしたことから、まだ見ぬ父に会いたい一心から、石動丸は母と共に高野をめざして旅立ちました。
ようやく学文路までたどりつきましたが、高野山は女人禁制の地であったため、母はこれより先に進むことが許されませんでした。やむを得ず石童丸は母を宿に残し、一人で高野山へ向かいました。
石動丸が奥の院の「無明の橋(御廟橋)」にたどり着いた時、一人の僧と出会いました。その僧こそが父・苅萱道心だったのですが、道心は家族を捨てて出家した身であったことから、父と名乗ることはできませんでした。
道心は、石動丸に「おまえの父は既にこの世にない」と告げて山を下りるよう論します。実の父親に会いながらそうとは知らない石動丸が落胆して学文路へ戻ってくると、母は、息子の帰りを待ちわびつつ長旅の疲れで亡くなってしまっていました。
悲しみにうちひしがれた石童丸は、仏の道に進むことを決意し、再び高野に戻って苅萱道心の弟子となりました。石動丸は道心が父であることを知ることができたのかどうかは判りませんが、二人は生涯、父子の名乗りをすることはありませんでした。
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この物語は、中世以後、高野聖によって全国に広められました。正室と側室の二人の女性の争い、父と子が対面しながらも名乗れない父の苦悩、父に会いつつもそれと知らない石動丸の悲哀、息子の帰りを待ちわびつつ死んでいく母の寂しさ、そして実の父子でありながら互いに名乗らず生涯を送る苅萱道心と石動丸・・・、と日本人の心を揺さぶる様々な要素を備えたこの物語は全国で感動を集めました。
江戸時代になると、説経節や浄瑠璃、琵琶歌などと色々なジャンルでこの物語が取り上げられるようになります。特に説教節では、「苅萱」というタイトルで、「小栗判官」「山椒大夫」「俊徳丸」「梵天国」とともに「五説教」と称される代表曲になっています。
この物語の中で、学文路は、石動丸の母・千里が息子の帰りを一日千秋の思いで待ち続けた場所として知られています。千里が滞在していたのは「玉屋」という旅籠であったと伝えられており、その宿があったとされる場所には、現在も「石動丸物語玉屋宿跡」という標識が建てられています。
そして、千里が再び息子に会うことなく亡くなってしまった後、その菩提は学文路苅萱堂に祀られることとなりました。
このお堂は、昭和の末には大変寂れて廃寺になりかけていたのですが、地元住民らが「学文路苅萱堂保存会」を結成して浄財を集めて平成4年に修復し、現在は隣の西光寺によって管理されています。境内には「千里ノ前の墓石」が建立されており、石動丸の物語を知る人の涙を誘います。- 旅行時期
- 2015年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
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- 3.0
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- 3.0
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投稿日 2015年10月06日
総合評価:4.0
和歌山市と海南市の境界にほど近い毛見地区に「鵬雲洞(ほううんどう)」というトンネルがあります。
このトンネルは、もともとは海南駅前から和歌山市駅を結ぶ鉄道(いわゆるチンチン電車)のために和歌山水力電気株式会社が掘削したものです。
「和歌山軌道線」と呼ばれるこの鉄道は、「和歌山水力電気株式会社」が開設したもので、明治42年に県庁前−和歌浦口間で営業運転を開始。その後、同年に市駅−県庁前、明治44年に紀三井寺−琴の浦、を順次開通させました。
そして、明治45年に開通した琴の浦−黒江の路線の一部として掘削されたのが、この「鵬雲洞」なのです。
その後、大正2年には和歌浦支線(和歌浦口−新和歌浦)開業、昭和4年には海南駅前まで延伸、昭和5年には公園前−和歌山駅前開業と、どんどん路線を延ばしていきました。
この間、営業母体であった和歌山水力電気は大正11年に京阪電気鉄道に合併され、その後、合同電気、東邦電力、阪和電気鉄道、南海鉄道、近畿日本鉄道、和歌山電気軌道、南海電気鉄道とめまぐるしく変遷していきます。最終的には「南海電鉄和歌山軌道線」として運営されていましたが、モータリゼーションの波には勝てず、昭和46年3月31日をもって全線が廃止となってしまいました。
この時期での廃線については、その翌年の和歌山国体に向けて道路整備を進めていくという政策の影響もあったと言われています。
鉄道の紹介が長くなりましたが、この鵬雲洞は、明治44年に竣工したもので、専門的に言えば「楯状迫石を持った煉瓦づくりの坑門」という明治時代の鉄道トンネルの典型的な構造なのだそうです。
このトンネルを含む紀三井寺〜琴の浦間はいわゆる路面電車ではなく、専用軌道がひかれていましたので、その跡地は現在も「紀三井寺緑道」として歩行者・自転車専用の遊歩道になっています。貴重な土木遺産の見学がてら、紀三井寺まで延長約3kmの遊歩道ウォーキングを楽しんでみてはいかがでしょうか。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
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- 3.0
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投稿日 2015年10月06日
総合評価:4.0
和歌山駅東口近くにあるこの像は、備中高松城、武州忍城と並び「日本三大水攻め」に数えられる豊臣秀吉の水攻めにより陥落を余儀なくされた太田城の城主・太田左近の像です。
秀吉による紀州攻めは、天正13年、総勢10万の大軍勢によるものでしたが、わずか5,000余の兵力しか無い太田城をなかなか攻め落とすことができなかったため、秀吉得意の「水攻め」によりようやく陥落させることに成功したものです。
この戦いで、秀吉軍は高さ約4~6m、総延長約7kmにも及ぶ壮大な堤防を築造したと言われ、約1か月間の攻防により物心両面で精根尽き果てた太田一族は遂に城を明け渡すことになりました。このとき、降伏の条件として太田城の指導者であった太田左近をはじめとする53名が自刃したと言われています。
この像は、その太田左近を偲んで作られたものです。
像の周囲には、太田左近をキャラクター化した「自由の戦士 さこんくん」を描いた幟がはためいていますが、もうひとつ、「愛の戦士 ませんなちゃん」というキャラクターも見えます。
これは、太田城水攻めの際、水に囲まれた城から一人船を漕ぎ出して10万を擁する秀吉の大軍に攻め入り、朱柄の槍を手に縦横無尽に暴れ回ったと伝えられる「朝比奈摩仙名(あさひな ませんな)」という尼法師をモチーフにしたものです。この女性は、奮闘の末に秀吉軍に捕らえられたものの、その戦いぶりのあまりの見事さに感心した秀吉に許されてそのまま太田城に戻ったと言われます。
近年になって太田一族を顕彰する地元の人々の間で「朝比奈摩仙名」をキャラクター化してアピールしていこうという動きがあり、この「さこんくん」と「ませんなちゃん」が世に出ることになったもののようです。
豊臣秀吉と命がけの攻城戦を行った朝比奈摩仙名と太田左近に想いを馳せればちょっと可愛いすぎるかな・・・、とも思いますが、少しでも多くの人にこの二人の事績を知って貰おうとすれば、これぐらいインパクトがあった方がいいのでしょうね。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
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- 見ごたえ:
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投稿日 2015年10月06日
総合評価:3.0
和歌山市内を流れる川を「内川(うちかわ)」と呼びますが、この名称は一つの川の名前ではなく、和歌川、市堀川、大門川、真田堀川、有本川という5つの川の総称です。
写真はその中の1つ、市堀川です。
この川の名前を「いちぼりがわ」と呼ぶ人がいるのですが、実は、この川の名前は正しくは「しほりかわ」と読みます。かつて「和歌山市堀川(わかやましほりかわ)」と呼ばれていたものを、「和歌山」を省略して市堀川(しほりかわ)と呼ぶようになったのだそうです。
この市堀川沿いには遊歩道が設けられています。
江戸時代、このあたりは「納屋河岸」と呼ばれ、紀州徳川家の台所を支える一大物流拠点となっていました。現在も近くに商店街やオフィス外が広がる地域ですが、この遊歩道沿いにはまた別のゆったりとした時間が流れています。
近年は、またこの市堀川沿いでイルミネーションを飾ったり、屋台やクルーズ船の運行を行うなど、新たなイベントも行われてきていますので、往時の賑わいが復活するかも知れません。- 旅行時期
- 2014年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0





































