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yoshimune-kunさんのクチコミ(2ページ)全99件

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  • 基本情報
  • 紀州徳川家の台所を支えた物流拠点

    投稿日 2015年10月06日

    納屋河岸の碑 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市内を流れる川を一般的に「内川」と呼びますが、この名称は一つの川の名前では無く、和歌川、市堀川、大門川、真田堀川、有本川という5つの川の総称です。

    このうちの、市堀川沿いで現在は市営京橋駐車場になっているあたりを「納屋河岸(なやがし)」と言います。
    このあたりは、かつて紀州徳川家の台所を支える一大物流拠点となっていた場所で、紀ノ川を通じて米や野菜、魚などの物産が大量に荷揚げされていました。この周辺には米問屋や米倉が軒を並べ、近隣の万町(よろずまち)では一年を通じて総菜が扱われ、西の店(にしのたな)では魚市場が開かれるなど、和歌山で最も賑やかで活気のある町並みであったようです。

    今でこそ、「和歌山で最も賑やか」と言っても「全国からみればどうってことはない」と思われがちですが、実は江戸時代の和歌山は全国有数の都市であったのです。和歌山県立博物館によると、幕末の頃の和歌山市の人口は約9万人といわれ、これは、なんと江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ全国6番目の規模になるのです。

    全国6番目の都市といえば、現在の都市の人口ランキングでみれば東京都特別区、横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市、神戸市に次ぐ「京都市」ぐらいの位置づけであったと言えるわけで、そんな大都市の台所をこの納屋河岸周辺が支えていたわけです。

    そう考えると、現在も納屋河岸の近くにある「ぶらくり丁商店街」の歴史が非常に重厚なもののように思えてくるではありませんか。

    旅行時期
    2014年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「番町皿屋敷」のお菊さんの皿が納められている寺

    投稿日 2015年10月06日

    窓誉寺 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市内にある「寺町通り」と呼ばれる通りの中ほどに「窓誉寺」という寺院があります。
    このお寺が、あの有名な怪談「番町皿屋敷」にゆかりのある寺だというのをご存じでしょうか?

    番町皿屋敷とは、江戸時代、江戸五番町にあった青山主膳の屋敷に奉公していた「菊」という女が、主膳の大事にしていた皿10枚のうち1枚を割ってしまったことに始まります。主膳は罰として菊の中指を切り落とし、一室に監禁しますが、菊はこっそり部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げます。それ以降、毎夜毎夜、井戸の底から「いちまい、にまい、・・・」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、主膳らを恐怖に陥れる・・・というお話です。

    皿屋敷の話には後日談があり、お菊の亡霊に責めさいなまれた青山主膳は、和歌山に住んでいた伯母エイに問題となった皿を預け、エイがこれを自らの菩提寺であった窓誉寺に供養のために持ち込んだのだそうです。これを預かった窓誉寺の第三世住職である良天大和尚が盛大に供養を行ったところ、主膳の屋敷の怪異はぴたりと収まったとか。

    現在、窓誉寺にはお菊の皿が7枚(1枚はお菊さんが割り、あとの2枚は行方不明だそうです)保管されています。残念ながらこの皿は非公開ですが、境内には「お菊地蔵」と呼ばれるお菊さんを供養するためのお地蔵様が祀られており、こちらは誰でもお参りすることができます。

    旅行時期
    2014年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 紀州徳川家により寺院が集積された地域

    投稿日 2015年10月06日

    寺町通り 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市内中心部にある日赤和歌山医療センターの近く、国道42号線の小松原4丁目交差点から東に向かい、屋形通りへ抜ける道を「寺町通り」と呼びます。

    もともとは、紀州藩の初代藩主である浅野幸長公が現在の「シティ ワカヤマ」のあるあたりを「寺町」と定めたことから、この周辺に寺院が多く建立されていたのですが、紀州徳川家の初代である徳川頼宣公が藩主になった頃に多くの寺院が和歌山城の南側に移転し、現在の寺町通りが形成されてきたようです。
    これに伴い、以前の寺町は「もとの寺町」、つまり現在の地名である「元寺町(もとでらまち)」と呼ばれるようになったのです。

    寺町通りには現在もなお多くの寺院が建ち並んでおり、周辺地域にはかつての城下町のたたずまいを偲ばせる景観を残した場所も数多くあります。時間があればこの周辺を散策してみるのも良いですよ。

    旅行時期
    2014年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「日本三大忍術伝書」のひとつ「正忍記」の作者が眠る寺

    投稿日 2015年10月06日

    恵運寺 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市の「寺町通り」にあるこの寺には、名取三十郎正澄(なとり さんじゅうろう まさずみ)という人物の墓石があります。

    「名取三十郎」と聞いてピンと来る人はまずいないと思いますが、この人物は江戸時代初期の紀州藩の軍学者で、「正忍記」という書物を書いたことで知られています。この書物は「紀州流」や「名取流」と呼ばれる和歌山の忍者に伝わる秘伝書で、伊賀・甲賀の「萬川集海」、伊賀の「忍秘伝」と並ぶ「日本三大忍術伝書」のひとつであると言われています。

    この「正忍記」には、「古法十忍」と呼ばれる忍術の基本が10個並べられています。その基本とは、

    1 音声忍(方言や声色をまねる)
    2 順忍(無為無策を策とする)
    3 無生法忍(混乱を起こして目的を果たす)
    4 如幻忍(疾風迅雷の早業で事を行う)
    5 如影忍(相手に影の如く伴う)
    6 如焔忍(人心の隙を突く)
    7 恕夢忍(夜陰に乗じて事を行う)
    8 恕響忍(地の利を勘案して策を立てる)
    9 如化忍(人心の動きに応じて臨機応変の策を練る)
    10 如空忍(相手に気付かれないよう空と化す)

    の10個です。2番目に挙げられているのが「無為無策を策とする」というのが面白いところですが、これで見る限り、荒唐無稽なものではなく、かなり現実的な秘伝であると言えるのではないでしょうか。

    紀州藩と忍者との関わりで言えば、徳川吉宗公が八代将軍になった際に、紀州から呼び寄せた者達を「御庭番」と名付けて諜報活動に携わらせたという記録が残っています。「御庭番」と忍者とは役割が異なっていたと言われますが、上のような「正忍記」の精神が紀州藩士に受け継がれていたとすれば、彼らもやはり忍者だったと言えるのではないでしょうか。

    実は、恵運寺に名取三十郎の墓石があることが判明したのは2012年6月のこと。同寺のブログで「名取家」という文字を目にしたイギリス人研究者からの問い合わせに応じて過去帳をもとに調査したところ、供養塔の中から墓石と位牌が発見されたというのです。

    現在、同寺では「正忍記を読む会」を立ち上げて、正忍記の精神を現代に活かす取り組みを行っています。詳しくは同寺へお問い合わせ下さい。

    旅行時期
    2014年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 神武天皇と名草戸畔との激戦の地

    投稿日 2015年09月30日

    クモ池 海南

    総合評価:3.5

    海南の市街地から県道秋月海南線を北上し、海南ドライビングスクールからクリーンセンター、温水プールなどが並ぶ場所にある池が「クモ池」です。

    ここは、熊野古道の「汐見峠」にほど近い場所にあり、神武東征の際に、神武の軍勢と地元の女性首長である名草戸畔(なぐさとべ)との最終決戦が行われた場所として知られています。

    一説には、安原盆地から一旦退いた名草軍は、杉尾神社のある高倉山を本拠として竈山神社周辺に陣取る神武軍を攻め立てたものの、神武軍の別働隊が海から船尾に上陸して汐見峠経由で名草軍の背後を突こうとしたため、これを察した名草軍が急遽討って返し、クモ池周辺で激戦が繰り広げられたと伝えられます。
    結果的に、南と北から挟撃されて形勢不利となった名草軍は高倉山まで退却し、ここでリーダーの名草戸畔は討たれてしまいます。そして、頭、腹、足の3つに切り裂かれて、それぞれ宇賀部神社(おこべさん)、杉尾神社(おはらさん)、千種神社(あしがみさん)の3か所に分かれて埋葬されることになりました。

    「クモ池」の名は、神武天皇がここで土蜘蛛を退治したという伝承に基づくものと言われますが、もともと「土蜘蛛」とは古代日本において天皇に従属しなかった土着の豪族などに対する蔑称として用いられる言葉であることから、ここではまさに名草戸畔のことを指しているのでしょう。そう考えると、「クモ池」というのは、「名草戸畔池」と読み替えても良いのかもしれません。

    県道沿いのありふれた池のように思える場所ですが、このような歴史のあることを知るとまた違った風景が見えてくるというのが、歴史の面白いところです。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    景観:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 「最後の日本兵」小野田寛郎さんの記念碑

    投稿日 2015年09月30日

    宇賀部神社 海南

    総合評価:4.0

    若い方はご存じないかもしれませんが、小野田寛郎さんは和歌山県海南市出身で、陸軍少尉としてフィリピン・ルバング島で情報員の任務を与えられたまま終戦を迎えたものの、上官からの作戦解除命令がないことからそのまま山中にとどまり、30年後の1974年になって捜索に来た元上官から任務解除命令を受けたことによって初めて敗戦の事実を受け入れて、日本に戻ってきた人物です。

    帰国後はブラジルに移住して原野を開拓して牧場経営を行っていましたが、1984年からは、たくましい青少年育成のために福島県で「小野田自然塾」を開設し、自然教育キャンプ等の活動を行うかたわらで勢力的に出版や講演などの活動も行ってこられました。

    また、日本書紀において神武天皇軍に滅ぼされたとされる「名草戸畔(なぐさとべ)」の遺体の頭部を祀ったと言われる海南市の「宇賀部神社」の宮司家の出身であり、2013年には作家の「なかひらまい」さんとともに和歌山市内で「名草戸畔を語る」という講演会に出席されたことも記憶に新しいところです。今から考えると、和歌山で小野田さんの肉声を聞く最後の機会であっただけに、都合で参加できなかったことを心から残念に思います。ご冥福をお祈りします。

    写真は、宇賀部神社の境内に設置された小野田さん揮毫の石碑です。「不撓不屈」、まさに小野田さんの人生を表した言葉だと思います。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 役行者の母が没した地、子の大成を願う母の信仰を集める霊場

    投稿日 2015年09月30日

    墓の谷 行者堂 和歌山市

    総合評価:4.0

    「墓の谷行者堂」は、正式には「墓の谷山行者寺」といい、「修験道の開祖」とされる役行者ゆかりの寺院です。

    由緒によれば、役行者が修行のため大峰山に籠もっていた際、お母様の白専女(しらとうめ)が息子の身を案じて跡を追おうとしましたが、女人禁制のため山に入れなかったため、この地で大成を念じながら没したと伝えられています。
    後に、役行者が「妓楽」、「妓女」という二匹の鬼をこの地に遣わせてその霊を祀ったことから、この地を「墓の谷」または「母の谷」と呼び、母が子の大成を願う霊地として多くの信仰を集めることとなったそうです。

    現在も、役行者のお母様の月命日にあたる毎月7日には全国から多くの人々が訪れてご祈祷を受けているそうです。特に最近は受験合格祈願に訪れる方が多いそうですので、受験生のご家族の方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

    JR六十谷駅から歩いて詣られる方が多いのですが、その場合は片道約5km、1時間半ぐらいの道のりになりますのでご注意下さい。それほど険しい道ではありませんが、石ころの多い未舗装道路で、わき水が出て泥状になっている場所もありますので、足元にはくれぐれもお気を付けください。

    なお、この行者堂には寺務所等はありませんが、麓の「直川観音(本恵寺)」さんが問い合わせやご祈祷の依頼に対応していただけます。

    ちなみに、「六十谷」駅は「むそた」と読みますが、これはもともと「墓所谷(むしょたに)」と書いて「むそた」と呼んでいたものを、「墓」の字は縁起が悪いということで後から「六十谷」の字を当てたのだそうです。
    六十谷駅は実は「墓の谷」駅だったのですね。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 髪の悩みに霊験あらたかと言われる勅願寺

    投稿日 2015年09月30日

    本恵寺 (直川観音) 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市直川にある役行者ゆかりの霊場「墓の谷」の参道の入り口に位置するのが、通称「直川の観音さん」と呼ばれる「本恵寺(ほんえいじ)」です。山門には立派な仁王さんがいて、参詣者を怖い顔で出迎えてくれます。

    この寺は、今から1,300年あまり前の大宝時代に役行者が開いたと言われ、本堂の千手千眼の観音像は役行者自身の作であると伝えられています。また、延暦23年(804年)には当時の桓武天皇が勅使を遣わして読経したとの記録も残されており、格式の高い「勅願寺(天皇が祈願を行う寺)」でもあります。

    さらに、墓の谷行者堂でのご祈祷はここの住職が行っていて、墓の谷の社務所のような役割も担っていただいています。

    この寺は、もともとは背後にある大福山の中の「弁天の窟」と呼ばれる場所にあり、真言密教の霊場であったそうですが、由良の興国寺の開祖である法燈国師の霊夢に基づいて正安元年(1299年)に現在地へ移されて禅宗となり、江戸時代に入って天和3年(1683年)に新宮城主であった水野源重が日蓮宗に改宗し、現在の「大福山 本恵寺」という名前になったと伝えられています。

    寛文元年(1661年)、愛娘の白髪に悩んだ大岡六太夫という紀州藩士が、本尊の観音様に祈願をしたところたちまち黒髪に戻った、という伝承があり、近年まで「直川まつり」の日の参詣者にはこれを記念した「白髪餅」というお餅が配られていたそうです。髪にお悩みの方はここを参詣するのがいいかもしれません。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 紀泉高原ハイキングコースの休憩所

    投稿日 2015年09月30日

    大福の名水 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市直川にある役行者ゆかりの霊場とされる「墓の谷」への参道の途中に「井関橋」という橋があります。
    この橋を渡ると「墓の谷」へと向かうのですが、渡らずにハイキングコースを井関峠へ向かって200mほど進んだところに、こんこんと湧き水の出ている場所があります。

    これは「大福の名水」と呼ばれ、わざわざ遠くからこの水を汲むために来る人もいるそうです。年中枯れることのない湧き水だと言われ、紀泉高原ハイキングコースを歩くハイカーにとっても一服の清涼剤としての役割を果たしています。

    地元に保存会があり、看板やパイプなどの設備は保存会の方々が整備されているようです。奥深い山々と自然林がもたらす大自然の恵みの水、大切に守っていきたいものです。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 幕末から明治にかけて70年間も日記を書き続けた「日本最古の主婦日記」作者の塚

    投稿日 2015年09月30日

    川合小梅の筆塚 和歌山市

    総合評価:3.0

    「川合小梅」という人物は、文化元年(1804年)に紀州藩士川合鼎、妻辰子との間に生まれた女性で、16歳の時に祖父の養子となった梅本修(川合梅所)と結婚、紀州藩お抱え絵師に師事して文人画を学び、明治4年(1871年)に夫が亡くなってからは川合家の事実上の当主として家計を切り盛りし、息子を教師に育て上げた後、明治22年(1889年)に86歳で亡くなっています。

    歴史に何事かをなしとげた人物というわけではなく、有名な事件に直接関わりのあった人物でもありません。しかし、この「小梅さん」に関しては実に多くの事柄が詳しく判っているのです。
    それはなぜか?

    実は、小梅さんは16歳で結婚してから86歳で亡くなるまで70年間にわたって毎日のように日記を綴っており、現在もその約3分の1が残されているのです。日記には、家族のこと、料理や洗濯などの家事のこと、お客様を迎えたり遊びに行ったりしたこと、などの日常的なことから、黒船来航、安政の大地震など全国的なニュースに関することまで、様々な出来事が生活者の視点で描かれており、「日本最古の主婦日記」とも言われます。小梅さんはお酒が好きだったようで、5歳の息子に間違って酒を呑ませて12日間も看病をしたことや、夫の同僚らと紀ノ川へ花見に出かけて酒を呑みすぎ、家へ帰ってから夫に介抱された、というようなことも描かれています。
    また、安政6年(1859年)8月23日の項には「朝 するがや(駿河屋)に饅頭数二百とりにやる」との記述が見え、この時代でも駿河屋が菓子処として名声を得ていたことを感じさせる記述があります。これを受けて、駿河屋さんでは紅白の梅の形をした小さな落雁(らくがん)を「小梅日記」と名付けて販売しています。
    この筆塚は、小梅さんが聖天宮法輪寺の歓喜天を生涯にわたって篤く信仰していたということで、この寺の境内に建立されたものだそうです。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「墓の谷」の参道にある出世不動

    投稿日 2015年09月30日

    出世不動明王 和歌山市

    総合評価:3.0

    和歌山市直川にある、通称「墓の谷」と呼ばれる役行者ゆかりの霊場へ向かう道の途中に「出世不動明王参道」と書かれた石柱が立っています。

    この案内に従い脇道に入っていくと、千手川を渡った対岸に立派な不動明王様を祀ったお堂があります。由緒等は書かれていないので詳細は分かりませんが、「行者神変大菩薩」と刻まれた碑や行者様とおぼしき石像なども一緒に祀られていますので、こちらも役行者にゆかりのあるお不動様だと思われます。

    この「出世不動明王」様のお堂の周辺には、観音様や弁財天様、お稲荷様、お地蔵様など、様々な神様や仏様がお祀りされています。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 首から上の願いはなんでも叶えてくれる大仏さん

    投稿日 2015年09月25日

    無量光寺 和歌山市

    総合評価:4.0

    寺町通りからひとつ南側の通りに面して山門が建てられているため少し判りにくい場所にありますが、ここには高さ約3mの首だけの大仏が鎮座しています。

    縁起によれば、江戸時代の享保年間(1730年頃)、蓮心という僧侶が和歌山市納定(現在の宮北小学校周辺)にあった大福寺という寺院で村人の寄進を得て高さ一丈六尺(約5m)の仏像を建立しました。この仏像は近隣の人々の信仰を集めて大変賑わいましたが、蓮心の死後に火災が発生し、この仏像も焼失してしまいました。

    村人達は悲嘆にくれますが、やがて再興を決意し、今度は鎌倉の大仏に匹敵するような大仏を作ろうと、まずは毘盧舎那佛(大日如来)の首だけを鋳造し、天保11年(1804年)に開眼大法要を営みました。その後、胴体を作ろうと金策に苦心しますが、なかなか思うにまかせず、やがて安政元年(1854年)の南海地震により大福寺自身も壊滅してしまいます。
    これにより大福寺は寺の維持が困難になったため、明治41年(1908年)に至って廃寺となってしまいます。このときに、首だけの大仏は大福寺の本山にあたる無量光寺へと移して安置されることとなったのです。

    ちなみに、この首大仏にあわせた胴体を作った場合、バランスを考えると仏像の高さは約13m程度になると考えられますが、これはモデルとなった鎌倉の大仏(像高11.39m)よりも大きいものになるのだそうです。

    この首大仏は「おぼとけさま」と呼ばれて現在も多くの人々の信仰を集めており、「首から上の願いはなんでも叶えてくれる」として、受験生の参詣者も多いそうです。

    旅行時期
    2015年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 黒江漆器や「紀州流土木工法」の始祖である井沢弥惣兵衛、ミノルタカメラ創業者の田嶋一雄関連資料など、意外に盛り沢山の展示があります

    投稿日 2015年09月24日

    海南歴史民俗資料館 海南

    総合評価:4.0

    ここは、市街地からやや離れた住宅地の中にある資料館ですが、内部では当地の地場産業である漆器づくりの歴史や、以前ご紹介した治水の天才、紀州流土木工法の始祖である井沢弥惣兵衛(いざわ やそべえ)の功績、熊野古道一の鳥居「藤白神社」をはじめとする熊野古道の紹介、など、意外に盛り沢山の展示が行われています。

    しかし、私が今回ここを訪ねた本来の目的は、そこではありません。
    実は、ここには、なんと、「ミノルタカメラ」の貴重なカメラが多数展示されているのです。以前から行きたいと思いつつなかなか機会に恵まれなかったのですが、このたびやっと念願がかないました。

    何故ここにそんな貴重な展示があるのか?
    ご存じの方も多いとは思いますが、ミノルタの創業者である田嶋一雄(たしま かずお)氏は海南市(当時は海草郡日方町)の生まれなのです。一雄氏は、市立和歌山商業学校を経て慶應義塾大学を卒業した後、神戸市で父が経営していた貿易会社へ入社します。その際にヨーロッパで光学機器の工場を見学したことがきっかけでカメラ製造を決断し、昭和3年(1928年)に「日独写真機商店」を設立します。これが、ミノルタカメラ(現在はコニカミノルタ株式会社)の前身となるのです。

    海南市歴史民俗資料館には、ミノルタカメラや関係者から寄贈されたカメラがたくさん展示されており、それぞれに解説も添えられています。私が興味を持ったカメラでいえば次のようなカメラがあります。

    ミノルタハイマチック・・・世界で初めて宇宙飛行士が使ったカメラとして、ミノルタが世界的に有名になる大きなきっかけとなった商品。ちなみに、このカメラが乗った宇宙船が「フレンドシップ7号」で、これ以来ミノルタの主要モデルには「7」の数字が使われることになりました。

    コーナン16・・・甲南大学写真部OBが作った「甲南カメラ研究所」が開発し、千代田光学(当時のミノルタカメラの社名)が販売した超小型カメラ。いわゆる「スパイカメラ」の類で、マニアには大人気でした。私も欲しかったなぁ~。

    ライツミノルタCL・・・ドイツの名門ライカと共同開発した小型高級カメラ。あの「ライカ」がミノルタと! という驚きがありました。

    SR-T101・・・ミノルタ一眼レフの初期のベストセラー機。大学生の頃に中古で買ってしばらく使ってましたが、道具として信頼できる使いやすいカメラでしたね。

    XE・・・高校時代、写真部に入っていた友人が買ったのでちょっと使わせて貰ったことがあります。非常に質感の高い、使いやすいカメラでした。

    X-7・・・ご存じ、「今のキミは、ピカピカに光って~」という宮崎美子のCMでお馴染みの一眼レフ入門機。1980年発売。当時熊本大学の学生だった宮崎美子も今や50代半ばですからね~(^^;

    α7000・・・ミノルタ初のオートフォーカス一眼レフ。事実上、世界で初めて商業的に成功した(=実用になった)AF一眼レフと言われています。個人的には押しボタン式の操作感覚にはあまりなじめませんでしたが、未来的ではありました。

    このほかにも昭和初期のモデルや二眼レフ、実験機的なモデルなど書ききれないほどのカメラが展示されているのですが、実は、ここには展示できないぐらい多数のカメラがまだ未展示で保管されているのだそうです。
    ミノルタカメラについては、会社がコニカと統合したばかりか、カメラ事業そのものがソニーに売却されてしまったので、系統立てた情報を入手できる場所がなくなってしまいました。
    海南市歴史民俗資料館が所蔵するミノルタカメラ収蔵品を一挙に公開するような特別展があれば楽しいんですけどね。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 神武東征軍に倒された名草戸畔の腹部を祀る神社、お腹の守り神として知られる

    投稿日 2015年09月24日

    杉尾神社 (海南市) 海南

    総合評価:4.0

    ここは東征中の神武天皇軍に倒された名草戸畔(なぐさとべ)の腹部を祀っていると伝えられる神社です。

    伝承によれば、「毛見ノ浜」に上陸した神武軍は、これを迎え撃つ地元勢力の女性リーダーである名草戸畔(なぐさとべ)の軍勢と死闘を繰り広げたとされます。このとき、現在の和歌山市と海南市との境にある汐見峠からクモ池の周辺で最後の戦闘が行われますが、形勢不利となった名草戸畔は高倉山に退却し、そこで惨殺されて、頭、腹、足の三つに切り裂かれたのです。このときそれぞれの亡骸が葬られた場所が、現在の宇賀部神社(頭)、杉尾神社(腹)、千種神社(足)であると伝えられており、これらの神社は今でも「おこべ(頭・こうべ)さん」「おはら(腹)さん」「あし(足)がみさん」と呼ばれて、それぞれ頭、腹、足に御利益のある神社として地域の人々の信仰を集めています。

    こうしたことから、この杉尾神社はお腹の守り神として多くの人の崇敬を集めているのです。ただ、「お腹痛けりゃ杉尾のお宮、腹のくろいのはなおりゃせぬ」という戯れ歌が伝わっているそうで、腹痛は治してもらえますが、腹黒なのは直してもらえないそうです(^^;

    杉尾神社は高倉山の南側の中腹に造営されています。この山が名草戸畔終焉の地と伝えられていることを考えると、杉尾神社は名草戸畔が亡くなったこの山そのものを聖地として守るために創建された神社なのかもしれません。
    神社の石段の上からは、木々に隠れてはいるものの、高倉山の麓に広がる集落が見えます。今はバイパスが通って、近くにスーパーマーケットもある比較的賑わう場所となっていますが、かつてこのあたりに名草一族が暮らしていたと考えると感慨深いものがあります。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 神武東征伝ゆかりの神社、「最後の日本兵」小野田寛郎さんの実家でもあります

    投稿日 2015年09月24日

    宇賀部神社 海南

    総合評価:5.0

    「宇賀部神社」は、正式には「うかべじんじゃ」と呼ぶのが正しいそうですが、一般には「おこべじんじゃ」、あるいは「頭の宮 おこべさん」として親しまれており、特に受験シーズンには合格を祈願して多くの参詣客が訪れる有名神社です。
    また、先日亡くなられた「最後の日本兵」小野田寛郎(おのだ ひろお)さんのご実家が代々同神社の宮司職を務められているということでも良く知られています。

    宇賀部神社が「頭の宮」として知られるようになった背景には、日本書紀に描かれる神武天皇の東征の物語があります。
    伝承によれば、「毛見ノ浜」に上陸した神武軍は、これを迎え撃つ地元勢力の女性リーダーである名草戸畔(なぐさとべ)の軍勢と死闘を繰り広げたとされます。このとき、現在の和歌山市と海南市との境にある汐見峠からクモ池の周辺で最後の戦闘が行われますが、形勢不利となった名草戸畔は高倉山に退却し、そこで惨殺されて、頭、腹、足の三つに切り裂かれたのです。このときそれぞれの亡骸が葬られた場所が、現在の宇賀部神社(頭)、杉尾神社(腹)、千種神社(足)であると伝えられており、これらの神社は今でも「おこべ(頭・こうべ)さん」「おはら(腹)さん」「あし(足)がみさん」と呼ばれて、それぞれ頭、腹、足に御利益のある神社として地域の人々の信仰を集めています。
    宇賀部神社が「頭の宮」とされているのは、名草戸畔の頭をお祀りしているからなのですね。

    ところで、小野田寛郎さんによれば、小野田家はこの名草戸畔の末裔であるという伝承が代々伝えられているそうです。これが事実であれば、日前宮の宮司家であり日本最古の家系の一つであると言われる紀(きい)家に匹敵する歴史を有する家系であることになります。小野田さんの不撓不屈の精神は、こうした家系の中で培われたものであったのかもしれませんね。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 神武東征軍に倒された名草戸畔の足を祀る神社、通称「あしがみさん」

    投稿日 2015年09月24日

    千種神社 海南

    総合評価:4.0

    ここは神武天皇東征伝に描かれた名草戸畔(なぐさとべ)ゆかりの神社です。
    かつては、百草神社(ももくさじんじゃ)と言われていたそうですが、明治時代に周辺の他の神社を合祀したことから名前を千種神社と改めたそうです。

    伝承によれば、神武東征の際、「毛見ノ浜」に上陸した神武軍は、これを迎え撃つ地元勢力の女性リーダーである名草戸畔の軍勢と死闘を繰り広げたとされます。
    このとき、現在の和歌山市と海南市との境にある汐見峠からクモ池の周辺でる最後の戦闘が行われますが、形勢不利となった名草戸畔は高倉山に退却し、そこで惨殺されて、頭、腹、足の三つに切り裂かれたのです。このときそれぞれの亡骸が葬られた場所が、現在の宇賀部神社(頭)、杉尾神社(腹)、千種神社(足)であると伝えられており、これらの神社は今でも「おこべ(頭・こうべ)さん」「おはら(腹)さん」「あし(足)がみさん」と呼ばれて、それぞれ頭、腹、足に御利益のある神社として地域の人々の信仰を集めています。

    こうしたことから、この千種神社には、神前に履物を供えて足腰の無病を祈る人が多く訪れており、崇敬を集めています。

    また、この神社の境内には海南市の天然記念物に指定されている「千種神社のクスノキ」がそびえています。高さ約30mにも及ぶ大きなクスノキですが、伝承によれば、この木の下にお地蔵さまが安置されていたのですが、クスノキが生長するに伴い、いつしか幹の中に巻き込まれてしまったとされています。100年程前までは幹の間からお地蔵さまの一部を見ることが出来たとも言われ、地元には「行たら見て来ら 重根の宮の 楠に巻かれた地蔵尊」という歌が残っているそうです。
    近くを走る県道海南金屋線から少し東側に上ったところにあり、ちょっと判りにくい場所にある神社ですが、境内に入ってから西を眺めると遠くに和歌山マリーナシティを望むことができます。

    かつては現在の海南市街地がほとんど干潟のような状態であったことを考えると、古事記・日本書紀に記された時代には、この神社周辺が海岸部と内陸部との境界線に近い場所にあったのかもしれません。地図を見れば、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の3社は南北にほぼ直線的に並んでいますので、もしかすると、このあたりのラインが、海から攻める神武軍の勢力圏と、内陸を拠点として紀伊半島を支配する在地勢力(紀氏など)との境界線となったのかもしれません。

    旅行時期
    2014年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 古代の大型倉庫群の遺跡

    投稿日 2015年09月16日

    鳴滝遺跡 和歌山市

    総合評価:3.0

    昭和57年、和歌山市善明寺の高台に近畿大学附属和歌山高等学校を建設することになり、これに先だって遺跡の発掘調査を行ったところ、非常に多くの柱跡と思われる遺構が発見されました。
    調査の結果、この遺構は7棟からなる高床式の建物跡で、1棟の平均床面積が約65平米、総床面積約450平米という非常に大規模な倉庫群であったことがわかりました。これは、5世紀前半という古い時代の大規模な倉庫群としては我が国最初の発見例で、その後に発見されたものを含めても難波宮跡(大阪市法円坂)、蛍池東遺跡(豊中市)、南郷遺跡群(奈良県御所市)、布留遺跡(奈良県天理市)と近畿地区に5例しかないものです。

    古墳時代、大和朝廷と朝鮮半島との交易のルートとして早くから開けたのが太平洋から紀伊水道を経由して紀の川河口部に到るルートでした。発掘調査結果を考えると、ここに荷揚げされた朝鮮半島からの交易品はこの地の支配者であった紀氏が倉庫に保管して管理し、ここから川船に積みかえて紀の川を遡上し、奈良県へ入ってからは御所市周辺を本拠とする葛城氏に引継いだうえで、最終的に「ヤマト政権の武器庫」とも呼ばれる石上神宮がある天理市付近まで運び込まれ、ここで宝物として管理された、というようなストーリーが描けます。

    紀の川河口部と並ぶもう一つの物流拠点として考えられているのは難波津(なにわつ、現在の大阪市中央区高麗橋あたりと推定されています)ですが、先に挙げた難波宮跡で発掘された大規模倉庫群は善明寺のものと比べるとやや建築時期が遅い(新しい)と考えられているため、紀の川ルートよりも少し遅れて、北九州から瀬戸内海を通るルートが開拓されるに従って難波津が物流拠点として発達してきたようです。
    こうしたことを考えると、トラックや鉄道など影も形もなかった太古の時代であっても、意外に人や物が国境を越えてダイナミックに動いていたのだなあとあらためて感心してしまいます。

    善明寺で発見された大規模倉庫群の遺構は、「鳴滝遺跡」と呼ばれて古代の物流ルートを考えるうえで非常に重要な資料となっています。遺跡そのものは調査後に埋め戻されて現在は近畿大学附属和歌山高等学校のテニスコートになっているとのことですが、復元された倉庫群の模型は紀伊風土記の丘で見学することができます。

    旅行時期
    2013年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • ハイキングに最適、山頂部は県内最大級の古墳

    投稿日 2015年09月16日

    紀伊風土記の丘 和歌山市

    総合評価:4.5

    紀伊風土記の丘の資料館から園内の遊歩道を西の端まで歩いたところにあるのが標高141.8mの大日山です。

    この山は岩橋丘陵の最西端にあり、北に紀の川平野、西に和歌山市街地が見渡せる非常に景色の良い場所です。古墳見学とは関係なく、景色を見るためだけにここまで登ってきても充分に楽しめる場所ですね。

    実は、この山頂部は「大日山35号墳」と名付けられた古墳になっており、この山頂そのものが墳丘長約86mという和歌山県内最大規模の前方後円墳なのです。その規模と立地を考えると、ここに埋葬されていたのは古墳時代のこの地域の支配者であった紀氏の首長級の人物であったと考えられています。死後の世界でもこの場所から「紀の国」を見守り続けていたのでしょうか。

    この古墳の石室は古くから信仰の対象とされており、内部に大日如来が祀られていたそうで、「大日山」という名前が付けられたのはこれに由来するものだそうです。その大日如来は、現在石室の外部にお祀りされています。
    この大日如来が祀られている場所のそばに石室への入り口があります。
    古墳内には、石梁と石棚を備えたいわゆる「岩橋型石室」の代表例とされる長さ4.33m、幅2.38m、高さ2.85mの石室が設けられているそうですが、残念ながら普段は石室に入ることができません。特別公開が年に2回程度行われているそうですので、タイミングがあえばぜひ参加してみて下さい。

    旅行時期
    2015年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0

  • 全国で初めて鉄製の馬冑が発掘された古墳

    投稿日 2015年09月16日

    大谷古墳 和歌山市

    総合評価:4.0

    和歌山市大谷、県道粉河加太線のすぐ北側の丘の上に「大谷古墳」があります。
    この古墳をGoogleMapの航空写真などで見ると非常に綺麗な前方後円墳の姿を確認することができますが、これは5世紀末期頃に造られた全長70mという県内では比較的大規模な古墳です。

    この古墳からは馬冑(ばちゅう)が発掘されたことで一躍有名になりました。馬冑というのは、馬にかぶせる鉄製の兜(かぶと)のことですが、それまで日本国内では出土例が無く、大谷古墳で初めて発見されたものだったのです。後に、朝鮮半島南部で同型式の馬冑が十数例発掘されたことから、この発見はこの地域において古墳時代から朝鮮半島と密接な交易が行われていたことを示す第一級の史料になりました。

    その後、国内では同形式の馬冑が埼玉県の将軍山古墳で発見されたほか、最近になって福岡県の船原古墳からも出土されたという発表があったため、発掘例としては全国で3例ということになりますが、今でも完全な形で発掘されたのは大谷古墳の馬冑だけなのです。

    大谷古墳は昭和32年に本格的な発掘調査が行われるまで盗掘された形跡がなく、銅鏡、ガラス製の勾玉(まがたま)、埴輪(はにわ)などの副葬品が多数発見されました。その多くが朝鮮半島由来のものか、朝鮮半島の影響を受けたものと言われていますので、和歌山では他の地域に先駆けて朝鮮半島、中国大陸との間で密接な交流が行われていたことがうかがえます。

    天気の良い日に大谷古墳の上に立って前方後円墳の正面方向を眺めると、紀の川の流れの先に紀伊水道の海が広がり、古代人がこの海の先に朝鮮半島を、そして中国大陸を、意外と身近に感じていたのではないかという思いがわき上がってきます。

    旅行時期
    2013年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 他の地域に例のない「岩橋式石室」を持つ古墳

    投稿日 2015年09月16日

    紀伊風土記の丘 和歌山市

    総合評価:5.0

    「紀伊風土記の丘」には総数700基を越える古墳がありますが、いくつかの古墳では石室の見学ができます。現在内部が公開されているのは、横穴式石室10基、竪穴式石室2基だそうです。

    公開されている古墳のうち、内部の高さが約4.3mと最大規模の石室を有するのが「将軍塚古墳」です。これは、岩橋前山(標高約150m)の山頂付近にある全長約42.5mの前方後円墳で、石室の内部には石棚と石梁が設けられています。この、石棚と石梁を設けた形の石室は岩橋千塚古墳群に作られた古墳の特徴であると言われており、「岩橋型石室」と呼ばれることもあります。

    石室の中には照明も設けられているので細かいところまでよく観察することができます。私も久しぶりに石室に入ってみましたが、重機もセメントもない時代に、このような大規模な構造物を構築し、それが1500年以上もの間、その姿を保ち続けているということに一種の感動を覚えます。

    旅行時期
    2013年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    5.0

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