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yoshimune-kunさんのクチコミ(5ページ)全99件

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  • 津本陽「幕末巨龍伝」の主人公の住寺

    投稿日 2015年08月18日

    法福寺 和歌の浦

    総合評価:4.0

    津本陽氏の作品「幕末巨龍伝」の主人公である北畠道龍は、文政3年、この浄土真宗本願寺派法福寺住職の長男として生まれました。

    道龍は、幼い頃から仏典、徂徠学、易学、禅学などを学ぶとともに、剣は柔剛流、槍は大島流、柔術は関口流を学び、武芸にも秀でた能力を示しました。
    20歳の頃から諸国を巡って本山や他の宗派の関係者と交流するとともに、諸国の志士と交流を深めます。紀州へ戻った道龍は、万延元年、農民や漁民らをメンバーとする民兵組織「法福寺隊」を結成しました。これは、長州藩の奇兵隊よりも10年早く、「日本初の民兵組織」だったのです。
    法福寺隊は、天誅組の乱に参戦して一躍名を馳せ、後に、第二次長州征伐において紀州藩軍先鋒として石州口に出陣し、唯一とも言える戦果を挙げるなど、精鋭で知られました。
    道龍は、民兵にプロシア式の訓練を行っていたことから、やがて紀州藩はプロシア人カール・ケッペンを指導者として招聘し、プロシア式軍隊を整備することになりました。これが、四民平等による徴兵制を元にし、洋服を着用する、という「日本初の洋式軍隊」へとつながり、結果的にこれが明治政府の軍隊へと昇格していくことになるのです。
    つまり、この法福寺の住職が明治政府の軍隊の基礎を全て作ったということができるのです。

    道龍は、この後、本願寺改革に取り組んだり、明治大学の創立者である矢代操とともに「北畠講法学舎」を設立して弁護士の養成に取り組んだり、日本人として初めてインドのムンバイにある「仏蹟」の巡礼に成功するなど、様々な活躍をします。
    こうしたことから、明治18年、「今日新聞」が「現今日本十傑」として各界のナンバー1を選んだ際には、政治家では伊藤博文、著述家では福沢諭吉らと並んで、教法家では北畠道龍が1位となるほど高く評価されました。

    晩年は、大学設立を目指していたものの、会計係りの不正により大きな負債を追ったことからあまり恵まれた状況ではありませんでしたが、いずれにせよ、和歌山から出て日本を大きく動かした、傑出した人物であったことは間違いありません。



    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本の飛行船のパイオニア

    投稿日 2015年08月18日

    山田猪三郎顕彰碑 和歌の浦

    総合評価:3.0

    和歌浦の旅館「萬波」の前から高津子山へのぼる遊歩道の途中に「山田猪三郎顕彰碑」という石碑があります。

    山田猪三郎は、1864年和歌山市生まれ。
    船舶用のゴム製救命具の開発に始まり、後に気球の開発に尽力。彼が発明した日本初の円筒型係留気球は日露戦争で実際に偵察用に使用されました。
    続いて飛行船の開発を始め、1910年に「山田式1号飛行船」で自由飛行に成功。翌年9月には「山田式3号飛行船」で総飛行距離約20Kmの「帝都訪問周回飛行」に成功しました。
    毎年9月20日は国土交通省が定めた「空の日」ですが、かつてこの日は山田式飛行船の帝都訪問飛行を記念して定められた「航空日」に由来すると言われていました。(「航空日」の由来には諸説あり、現在は公式にはこの説は採られていないようです)
    彼が興した「気球製作所」という会社は現在も高層気象観測用のゴム気球を気象庁や防衛庁に納入しているほか、公害調査用、空中写真撮影用、広告宣伝用(アドバルーン)など、様々な気球を作り続けています。

    高津子山の遊歩道にある顕彰碑は、彼の功績を広く知ってもらおうと、昭和4年、当時の文部大臣鎌田栄吉を含む有志により建立されたものです。
    近年、痛みが激しくなってきたため、地元の顕彰会のメンバーが中心となって寄附を募って耐震化工事を行いました。
    また、同時に児童向けの伝記「山田猪三郎物語〜大空へかけた夢」を作成し、市内の書店で販売することになりました。

    詳しくは、下記のホームページ(和歌山放送ニュース)でもご覧になれます。
    http://wbs.co.jp/news/2013/04/08/20581.html

    旅行時期
    2013年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 徳川頼宣公の母の菩提寺

    投稿日 2015年08月17日

    養珠寺 和歌の浦

    総合評価:3.0

    この寺は、紀州徳川家初代の頼宣公が、実母である養珠院の菩提を弔うために建立したものです。

    養珠院は徳川家康の側室で、徳川頼宣公と水戸徳川家の祖である徳川頼房公の母君です。別名「お万の方」とも呼ばれ、父は上総国(千葉県)勝浦城主の正木頼忠、兄は紀州徳川家家老の三浦為春です。
    最近、横須賀市で「三浦一族」の歴史を見直す動きが進められており、同市によれば、養珠院はこの三浦一族に連なる人物であるとされていることから、何度か横須賀の方々が和歌山市を訪れたこともあります。

    ちなみに、写真の釈迦堂の脇には、ガメラやバルタン星人、ゴジラ、ウルトラマンの4体の石像がさりげなく配置されています。

    旅行時期
    2013年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    4.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 雑賀衆の本拠

    投稿日 2015年08月17日

    雑賀城跡 (妙見山城) 和歌の浦

    総合評価:3.0

    ここ妙見山は、戦国時代、雑賀衆の拠点となった「雑賀城」が置かれていた山です。

    雑賀衆の頭領であった雑賀孫一は、ここに本陣となる雑賀城を築き、東北にわずかに離れた弥勒寺山(現在の秋葉山)に弥勒寺山城を築きました。
    その頃、石山合戦において石山本願寺の顕如上人を助けて織田信長の軍勢に立ち向かった雑賀衆を殲滅しようと、信長は紀州征伐の大軍を雑賀の本拠地へと送り込みます。
    天正5年(1577年)2月、和歌川を挟んで信長軍と対峙した雑賀の軍勢は、川の中に壺や瓶を埋めたり馬防柵を設けたりして信長軍の騎馬隊を足止めし、山上から雨あられと銃弾を浴びせかけて、一方的な攻勢に出ました。
    大きな損害を被った信長軍は攻めるに攻められず、一旦は雑賀衆と講和を結んだ形をとって紀州から這々の体で引き上げることになってしまいした。

    このとき足を負傷していた雑賀孫一が喜び勇んで踊ったのが、現在も伝わる「雑賀踊り」であると言われています。

    旅行時期
    2013年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    2.5

  • 聖武天皇が感激した景観

    投稿日 2015年08月17日

    奠供山 和歌の浦

    総合評価:4.0

    和歌浦の玉津島神社の脇を通って坂道を5分ほど上ると「奠供山(てんぐやま)」の山頂に着きます。

    この山は、聖武天皇が神亀元年(724年)同年10月8日に和歌浦へ行幸した際、「山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足る、故に弱浜(わかはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)と為せ、宜しくし守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ、春秋二時官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せよ」という詔を発した場所として知られています。
    つまり、この地を「明光浦」と名付けるとともに、この地の景観を守るための役人を置けという命令を出したわけです。

    この「明光浦」という名称が現在の「和歌の浦」の語源になったと伝えられているいるので、この「奠供山」はある意味では「和歌の浦」のルーツとなる山であると言えるわけです。

    旅行時期
    2013年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.0

  • 漂泊の歌人 西行法師のルーツはここに

    投稿日 2015年08月06日

    西行法師像 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    西行法師の本名は「佐藤義清」と言います。
    平安時代末期に裕福な武士の家系に生まれ、エリート武士の集団と言われる「北面武士(ほくめんのぶし)」に選ばれていることで分かるように、武芸全般に秀でているばかりか、容姿端麗、和歌や有職故実にも詳しい、という、まさに非の打ち所のない人物として将来を嘱望された若者だったようです。

    ところが、23歳の時に、それまでの地位も名誉も全て捨てて、突然出家してしまうのです。その原因は友人の死であったとも、失恋であったとも言われますが、ともかくこれによって、全国を旅してまわり、各地で歌を詠むという「漂泊(ひょうはく)の歌人 西行」が誕生したのです。

    西行の歌としては、
    伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる
     「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
    辞世の歌とされる(実際には生前に詠まれたものですが)
     「願はくは 花のしたにて 春しなん その如月の 望月のころ」
    などが有名です。

    西行の生家である佐藤家は紀伊国田中庄(現在の紀の川市竹房周辺)の地主であり、出家前の西行はこの田中庄で生まれ、ここで荘園経営に携わっていたと言われています。
    平治元年(1159年)には、西行の兄で田中庄の管理者であった藤原仲清が隣にある荒川庄との間で境界争いを起こしたとういう記録が残されていることから、西行が田中庄の管理者となっていた可能性もおおいにあったと思われます。

    これを顕彰して、西行の生地に近い紀の川市竹房の国道424号線沿いには、「歌聖 西行法師」と刻まれた、高さ約2mの銅像が建立されています。

    西行は、出家した後、全国を漂泊しながらも32歳の頃から約30年間は高野山を拠点として暮らしていました。つまり、西行は生まれてから50年以上を和歌山の地で過ごしていたことになるのです。

    旅行時期
    2014年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 約100年前の悲しい事故の記録

    投稿日 2015年08月06日

    遭難女学生之碑 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    大正4年(1915年)9月4日の早朝、現在の竹房橋の下流付近で一艘の渡し舟が転覆しました。記録によると、当時の状況は次のようであったと伝えられています。
    「夜来の豪雨はやみたれども、東天はまだ暗く雨気をはらみ、濁水は滔々として紀ノ川に漲り、流るる水は轟々たる響を立てて渦を巻きながら流れてゐた。折から起る悲鳴、これは只ただごと事ならずと川面を見れば、一艘の渡舟は濁水に押流され押流されて、今にも安樂川井堰より落ちやうとしてゐた。」

    その結果、舟に乗っていた旧制中学生19人、高等女学生9人、小学生3人、ほか1人、船頭3人の計32人が川に投げ出され、このうち高等女学生8人と小学校3年生1人が亡くなるという痛ましい事故が発生したのです。
    川の流れが速かったため、女学生の遺体の中には和歌浦沖まで流されたものもあり、遂に1人の遺体は発見されないままに捜索が打ち切られてしまったということです。

    その後、「渡し船ではなく、橋が架かってさえいれば・・・」との地域住民の思いを受けて竹房橋が架けられたのは昭和4年(1929年)のことでした。

    この記憶を永く人々の心にとどめておくため、地元の人々が作詞作曲した「竹房哀歌」という歌(歌唱:宮本静)が、平成27年2月にMEG-CDという形で販売開始されています。

    旅行時期
    2014年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 水平社宣言の起草者の碑

    投稿日 2015年08月06日

    西光万吉寓居跡 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    西光万吉は、明治28年(1895年)、奈良県南葛城郡掖上(わきがみ)村(現在は御所市)に生まれました。幼少時から出自を理由にいわれのない差別に苦しんだことから、青年期には社会活動に積極的に参画し、ついに大正11年(1922年)3月、差別の解消と人間の尊厳の確立を目的として「全国水平社」を設立するのです。

    万吉は全国水平社の創設者であるとともに、「日本最初の人権宣言」といわれる「水平社宣言」の起草者でもありました。この宣言の最後の一節に書かれた「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉はあまりにも有名です。

    永く奈良を拠点として活動を行ってきた万吉ですが、昭和16年(1941年)に和歌山県打田町(現在の紀の川市)に転居し、以後、生涯をこの地で過ごました。
    この頃から、万吉の関心は差別問題から反戦平和の取り組みへと移っていきました。昭和26年(1951年)に発表した論文では、「祖国防衛のために百万の戦闘軍をつくるより 世界平和のために百万の奉仕団をつくりたい 何千億の軍事費用をつかうより 何千億の平和費用をつかいたい」と述べるなど、「不戦和栄」を訴える言論活動を盛んに行いました。

    昭和45年(1970年)、万吉は享年76歳で生涯を終えますが、それまで30年近くの歳月を過ごした紀の川市の住居跡に、これを記念した「西光万吉永住の地 不戦和栄の碑」が建立されています。

    旅行時期
    2014年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    民家の脇にありますので、駐車場はありません
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 全国でも珍しい全高2mの陶製の金太郎像

    投稿日 2015年08月06日

    米金の金時像 高野山周辺

    総合評価:4.0

    「米金の金時像」は、高さ約2mの陶製の金太郎像で、このように大きな陶像は全国でも珍しいものと言われています。「米金」というのはお店の屋号のようですが、米屋であったという話と、薬局・医院であったという話とがあり、今となっては定かではないようです。

    この像は井端荘平(南紀荘平)という陶芸家が大正時代の初め頃に九度山に設けた窯で焼き上げた「九度山焼」の代表作品です。
    井端荘平は、後に那智山に招かれて「銀竜焼」を創始するなど各地で活躍しましたが、大正9年に44歳で亡くなっており、現在残されている「九度山焼」の作品は数少ないとされています。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    南海高野線九度山駅から約700m、道の駅「柿の郷くどやま」から約1km
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    5.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 「畿内」の南端の地

    投稿日 2015年08月06日

    妹山 背山 (妹背山) 高野山周辺

    総合評価:3.0

    奈良に都があった頃、大和平野に住む人々は海を知らずに育ちました。今でも奈良県に住む人々は和歌山市へ海水浴に来ることが多いのですが、今よりもはるかに交通が不便だった飛鳥時代や奈良時代の頃には、広い海に明るい太陽が降りそそぐ和歌山の海の景観は多くの人の憧れの的であったことでしょう。

    奈良から五條へ下り、紀の川沿いに和歌浦へと向かうルートは一般に「大和街道」と呼ばれますが、都に住む人々はこのルートを「紀州街道」と呼び習わしていました。この時代、多くの人々がこの紀の川の中州にある島(船岡山)と、その両岸にある小山(妹山・背山)に至ったときに大きな感慨を覚えたのですが、それには歴史の転換点に係わる重要な意味がありました。

    「大化の改新」と言えば、誰でも名前を聞いたことのある歴史上の重大な出来事です。このとき初めて「大化」という元号が用いられ、「公地公民制」、「租庸調の税制」、「班田収授法」などの制度が定められました(近年の研究では異説もあるようですが)。
    また、このとき初めて「畿内(きない)」という言葉も定められました。畿内とは、いわば朝廷の直轄地の範囲を指し示す言葉です。(現在良く使われる「近畿」という言葉は、「畿内とその近隣地域」という意味です)

    このとき、畿内とは「東は名墾(名張)の横河、南は紀伊の兄山、西は赤石(明石)の櫛淵、北は近江の合坂山(逢坂山)」と定められたのです。
    「紀伊の兄山」とは、船岡山の北側にある「背山」のことを指します。つまり、この場所は、ある意味で「異国」への出入り口だったのです。都から来た人々が背山を越えるときに、「いよいよ朝廷の勢力範囲を出て、異国へと入っていくのだ。帰りには、無事にここまで戻ってこられればよいが・・・。」という深い感慨に浸ったのも当然のことだったのでしょう。

    こうしたことから、ここは古代の人々にとって特別な意味を持つ場所であると考えられており、万葉集には、この地を題材にした歌が15首取り上げられています。

    和歌でしばしば取り上げられる場所のことを「歌枕(うたまくら)」と呼びますが、万葉集の歌枕としては、妹山・背山の15首は第2位の記録になります。ちなみに、1位は茨城県の筑波山で23首、3位が富士山で14首、次いで和歌の浦・玉津島13首、和歌山県の海南9首、真土(橋本・五條)8首、という順番だと言われています。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    約1Km東に「道の駅 紀の川万葉の里」があります
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 万葉集の歌枕 「蛇島」の別名も

    投稿日 2015年08月06日

    船岡山 高野山周辺

    総合評価:4.0

    紀の川の中州にある島で、南北両岸には万葉集の歌枕として知られる「妹山(いもやま)」「背山(せやま)」があります。

    船岡山には、地元のロータリークラブが万葉学者の犬養孝氏に揮毫していただいた石碑が建立されており、

      勢の山に 直に向へる 妹の山
       事聽せやも 打橋渡す

    という歌が紹介されています。

    意味は、「背の山の真正面にある妹の山は、背の山が通ってくることを許したのだろうか、二つの山の間の紀ノ川に、打橋が渡されているのだから」と解説されています。

    島の中央には弁財天を祀る厳島神社があります。江戸時代に社殿が焼失したとのことで創建の由来等は判らないそうですが、ご祭神の市杵嶋姫命は「神に仕える島の女性」という意味を持っているそうですから、もともとはこの船岡山自体をご神体としてお祀りした神社であると思われます。

    また、この島は地元の人からは、通称「蛇島(へびじま)」と呼ばれています。
    名前の由来はよく判らないのですが、厳島神社のご神体が白蛇であるという説や、その昔、洪水で紀の川が増水したときにこの島に大量の蛇が流れ着いたからだ、との説などがあるようです。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    県道和歌山橋本線沿い、駐車場あり
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    狭い吊り橋を渡っていきます

  • 「大和国」と「紀伊国」の国境

    投稿日 2015年08月06日

    真土の飛び越え石 高野山周辺

    総合評価:4.0

    「真土」とは、現在の奈良県と和歌山県の県境にある標高100mほどの小山で、古代から、ここを流れる「落合川」が「紀伊国」と「大和国」の国境とされていました。

    その頃は、大きな橋を架ける技術が無かったため、旅行者が川を渡るためには、川幅が狭く、徒歩や馬でも渡れるような場所を探さなければなりませんでした。その点で、この「真土」では川の両岸に大きな岩が張り出しており、水量の少ない時期にはひとまたぎで川を渡れるようになっていたことから、自然とこの場所が国境を越える道となっていったようです。

    このため、誰言うとなく、川の両岸にある大きな岩を「真土の飛び越え石」、この場所全体を「真土の飛び越え」と呼ぶようになったものと思われます。

    当時の奈良からの行程を考えると、平城京から真土山までは2日、飛鳥・藤原京からは1日の距離にあったと言われており、ここに至った古代の旅人は、現在の橋本市周辺に広がる平野を目にして、いよいよ大和を離れ、異国に入ったことを実感したのでしょう。

    現在、この場所へ行くには、国道24号線を奈良に向かって真土山を越える峠の直前を南に入り、「慈願寺」というお寺の脇を抜けていくことになります。道が狭く、駐車場が無いので車で行くのは難しいですが、機会があればぜひ訪れて見て下さい。
    位置的には、国道24号線からわずか100mほど離れただけの場所なのですが、飛び越え石のまわりには静謐な空気が漂い、この場所だけが奈良時代にタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われます。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 粉河寺の守護神、「粉河祭」の中心

    投稿日 2015年07月29日

    粉河産土神社 岩出・紀の川

    総合評価:4.0

    粉河産土神社は、粉河の土地と、そこで生まれた人全員を守護するための神社です。
    その創建は、粉河寺開創(宝亀元年、770年)の10年ほど後の延暦年間(782年~806年)であるとされ、粉河寺の守護のために近隣にあった丹生神社を勧請(分社)したことが始まりと伝えられます。

    主祭神は、高野山の地主神として知られる「丹生都姫命」と、天照大神の長男であり農業神とされる「天忍穂耳命」です。

    毎年7月末に盛大に開催される「粉河祭」はこの神社の祭礼で、記録で確認できる最も古いものは康永3年(1344年)であるとされ、少なくとも670年以上は続けられています。

    粉河祭は、もともとは粉河寺の創建者である大伴孔子古の子である船主が奥州征伐に向かい賊徒を退治して凱旋した時の姿を伝えると言われる「渡御式」が祭のメインであり、後にだんじりが追加されました。
    しかし、「渡御式」は祭事として特定の人々しか参加できなかったのに対し、だんじりは町衆が誰でもが参加できる派手なイベントであったため、やがてだんじりが祭の中心行事となっていったようです。

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR和歌山線粉河駅から約1km 粉河寺の境内にあります 粉河寺の有料駐車場が利用できます
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本の中世はここで終焉を迎えた

    投稿日 2015年07月28日

    来迎寺 和歌山市

    総合評価:5.0

    ここは、戦国時代の末期、雑賀衆の一部である「太田党」の本拠であった太田城の本丸があった場所であると伝えられています。

    太田城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めによって陥落しますが、その際の「水攻め」は、備中高松城、武州忍城と並び「日本三大水攻め」と呼ばれます。

    この「太田城の戦い」には、日本の歴史上特筆すべきいくつかの特徴があります。
    その一つが、指導者として53人もの処刑が行われたことです。
    普通は、指導者は「城主」あるいは「領主」一人であり、秀吉はその指導者を処刑すればよかったのですが、太田城についてはいわば53人の「指導者」がいたと考えられるのです。
    一説には、初期の戦いで太田勢に討ち取られた秀吉軍の死者の数に合わせたとも言われますが、もう一つの見方として、太田城には「一人の絶対的なリーダー」はいなかったとする説もあります。

    当時の太田城主は太田左近という人物ですが、この人物はいわば「連合自治会長」のような立場であって、この他に50人ほどのいわば「単位自治会長」のような存在が居て、戦の指揮もこれらの指導者の合議により決定されていたというのです。
    だから、誰か一人の首をはねてもこの「合議体」が無くならない限り指導体制には大きな影響を与えることができないと考えられるのです。

    これはつまり、現在の形に非常に近い「自治制度」が和歌山には定着していたということであり、他の地域で主流となっていた「封建領主による支配」とは全く違った形の地域運営が行われていたと言えるのです。

    もう一つが、太田城陥落の直後、秀吉は籠城していた太田一族の兵に対して「在々百姓ら、自今以後、弓箭・槍・鉄砲・腰刀等停止せしめ訖(おわん)ぬ」との文書を発していることです。
    この意味は、「戦いに参加した農民は、これ以後、弓、槍、鉄砲、刀等の武器を持つことを禁止する」というものです。秀吉は、続けて「鋤(すき)・鍬(くわ)等農具を嗜(たしな)み、耕作を専らにすべき」と書いて、農民は農業に専念せよと命じています。

    歴史の教科書でも取り上げられている秀吉の「刀狩り」に関する通達(刀狩令)は天正16年(1588年)に発出されていますが、太田城の残党に対して上記の文書が出されたのはそれより3年も前のことであり、これをモデルとして刀狩令が作成されたと考えられています。このため、研究者によっては、この太田城への文書を「原刀狩令」と呼ぶこともあるそうです。

    こうした一連の流れを指して、和歌山大学の海津(かいづ)教授は、「太田城水攻めは、中世自治のシンボルであった紀州惣国一揆が終焉を迎え、時代が中世から近世へ、一揆の地域自治から天下人の天下統一へと移り変わる、歴史の大きな節目となる事件であった」と述べています。

    和歌山駅のすぐそばで、住民自治から封建社会へ、時代が中世から近世へ、と移り変わる歴史上のドラマがあったということは、もっとよく知られるべきことだと思います。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR和歌山駅から徒歩5分
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 秀吉の水攻めによる犠牲者の首塚

    投稿日 2015年07月28日

    小山塚 和歌山市

    総合評価:4.0

    天正13年(1585年)、秀吉による紀州攻めは総勢10万の大軍勢によるものであったが、わずか5,000余の兵力しか無い太田城をなかなか攻め落とすことができなかった。このため、秀吉は得意の「水攻め」に切り替えてようやく陥落させることに成功した。これは、備中高松城、武州忍城と並び、秀吉の「三大水攻め」としてよく知られている。

    この戦いで、秀吉軍は高さ約4~6m、総延長約7kmにも及ぶ壮大な堤防を築造したと言われ、約1か月間の攻防により物心両面で精根尽き果てた太田一族は遂に城を明け渡すことになった。
    このとき、降伏の条件として太田城の指導者であった太田左近ら53名が自刃したと言われ、その首が城周辺の3か所に埋められたと伝えられる。この「小山塚」は、これらの首が埋められた場所に建立された碑である。(碑は昭和27年に建立されたものであるが、区画整理のためもとの場所からは移転された)

    この戦いの様子は、当時日本に来ていたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、母国に送付した手紙にも書き残されている。

    --
    残った城は、最も重要なオンダナシロ(太田の城)と称するもののみとなったが、この城は一つの市の如きもので、雑賀の財宝は悉くここに集め、根来ならびに雑賀の主立った諸将等もここにいた。軍需品・兵士及び糧食は、非常に多量で、日本の常食である米のみでも20万俵を超えたということである。
    而してこの城ははなはだ強固で、四方に十分の備えがあったので、突撃によって攻め入れることは困難とされた。よって、羽柴筑前殿は、甚だ高く、かつ厚い土壁をもってこれを囲み、彼等が防禦と頼んだ水多き大河をその中に引き、これによって敵を溺死せしめんと決した。
    而して、そのため軍隊の諸将にこの土壁を負担させた。壁の厚さは20プラザ以上、高さ6プラザを有し、城より銃を発しても害をなすこと能わざる距離に在った。同所より来た者の言によれば、この壁は周回2レグワあった。
    城内の者はこれを見て、堀に接して対壁を作り、水の城内に入ることを防がんとした。
    その後、秀吉は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)に命じて、船で攻撃したので、城内の者も抗し得ず、遂に降伏した。
    --

    和歌山大学の海津教授によれば、この戦いは、我が国の中世の終焉と近世の開幕を示す重要な意味を持つものであったとされる。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR和歌山駅から徒歩5分
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 「美人は夜作られる」明色化粧品のルーツはここに

    投稿日 2015年07月28日

    桃谷政次郎記念館 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    JR和歌山線の粉河駅から粉河寺に向かう参道沿いに、「桃谷政次郎記念館」という看板が掲げられた一軒の家屋があります。

    この家は、大阪市に本社を置く「株式会社 桃谷順天館」の創業の地であり、創業者である桃谷政次郎氏の記念館です。
    桃谷順天館は、日本の弱酸性化粧品の先駆けとなった「明色アストリンゼン」や、我が国広告史に残る作品と言われる「美人は夜つくられる」というCMコピーなどで知られる老舗化粧品メーカーです。

    桃谷政次郎の生家は寛永年間から粉河で代々薬種商「正木屋」を営む家系で、政次郎自身も21歳で紀州初の薬剤師となりました。
    そんな政次郎は、経営難に苦しむ家業の立て直しのために東京へ出て東京帝国大学で薬学の勉強を行いました。そんな中、実家に置いてきた妻がニキビに悩んでいたことから、サリチル酸という成分を主原料とした化粧水を考案したのです。
    粉河へ戻った政次郎が妻「コウ」にこの化粧水を薦めたところ、コウの肌は近所でも話題になるくらい美しくなっていきました。その評判を聞きつけた近所の女性達が続々とこの化粧水を求めて正木屋を訪れるようになったため、政次郎はこれを「にきびとり美顔水」と名付けて広く売り出すことになったのです。
    驚くべきことに、この製品は130年後の現在もなお現役商品「美顔水」として販売され続けているのです。

    明治18年(1885年)、政次郎は正木屋を「桃谷順天館」と改めました。これが現在に続く「株式会社 桃谷順天館」のルーツとなります。
    大正10年(1921年)には本社を大阪に移転しますが、その後も桃谷順天館の評判はますます高まり、昭和4年(1929年)にはついに美顔化粧品を天皇陛下・皇后陛下に献上するまでに至ります。

    また、積極的なCM展開でも知られ、ミス・ユニバース日本代表の伊藤絹子(八頭身美人)や女優の香川京子、浅丘ルリ子、巨人の長嶋茂雄、俳優の石原裕次郎、プロレスラーの力道山などを次々にイメージタレントとして起用し、話題を呼びました。ある年代の方々には、TV「明色ものまね歌合戦」の番組スポンサーとしてもお馴染みだと思います。

    そんな桃谷順天館のWEBサイトでは、桃谷政次郎と妻コウによる美顔化粧水開発の物語がマンガで読めるようになっています。
    http://www.e-cosmetics.co.jp/manga/

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR和歌山線粉河駅から約700m
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 首から上に霊験あらたか! 偉大な仏師の碑「能光尊」

    投稿日 2015年07月28日

    仏師能光尊之史跡 高野山周辺

    総合評価:3.5

    九度山町の慈尊院から「道の駅 柿の郷くどやま」へ向かう道の途中に、「能光尊」と書かれた石塔があります。
    これは、名工として知られる仏師能光(のうこう)を祀った碑です。

    能光は、備前(岡山県)美作郡の生まれで、九度山に住居し、永治元年(1141年)には高野山中門の多聞天、持国天の像を製作したのをはじめ、多くの仏像を彫刻した偉大な仏師です。
    高野山の歴史が綴られた「高野春秋編年輯録」によれば、「象牙で笛を作り鳥羽院に奉献した」と記され、「希代の妙工」と讃えられているばかりか、「木馬を造り、これに乗って京都まで行った」という、にわかには信じがたいような話まで残されているそうです。

    また、この碑は、首から上を病む人に霊験あらたかであると伝えられており、多くの人々の信仰を集めています。毎年4月第1日曜日には盛大に供養祭が開催され、大投餅などが行われています。

    ちなみに、地元の人々はこの碑を親しみをこめて「のうこんさん」または「のんこんさん」と呼んでいるのだそうです。

    旅行時期
    2015年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    南海高野線九度山駅から約1.5km、道の駅「柿の郷くどやま」から約300m
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 真田幸村が大阪冬の陣に出陣する際に使った抜け穴!?

    投稿日 2015年07月23日

    真田古墳 高野山周辺

    総合評価:4.0

    大坂冬の陣のおり、徳川家から蟄居を命じられていた真田幸村が、紀州藩の監視を逃れて真田屋敷を脱出するために使った「抜け穴」とされる場所です。

    残念ながら、昭和28年(1953年)に行われた調査によって古墳時代後期(6世紀)に造られた横穴式石室を持つ円墳、つまり単なる古墳であることが判明していますが、伝承をもとに「真田古墳」と名付けられています。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    南海高野線九度山駅から約500m 道の駅「柿の郷くどやま」から約700m
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本で唯一!の「勝利」の寺

    投稿日 2015年07月17日

    勝利寺 高野山周辺

    総合評価:4.0

    高野山開創(816年)の1年前に42歳となった空海が厄除け祈願のために十一面観音を奉納した寺として信仰を集めています。
    また、かつては天皇や上皇の遺髪を高野山へ納める使者の宿舎としても利用されており、嘉応元年(1169年)に後白河上皇が高野山を参詣した際にここで宿泊したことをきっかけに建築された「御幸門」という施設も残されています。

    勝利寺の「勝利」というのは、十一面観音の顔の上にある10個の小さな顔がもたらす現世での利益(これを「十種勝利」と呼びます)に由来するものですが、現代では「試合に勝利する」という意味に解釈して、スポーツ選手などの参拝も多いそうです。
    かつてはプロ野球球団も必勝祈願に訪れたことがあるとのこと。

    意外なことに「勝利寺」という名前のお寺は全国にここ一か所だけだと言われています。

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    慈尊院近くに大型駐車場あり。道の駅「柿の郷くどやま」からも近い。九度山駅からは約2km。
    人混みの少なさ:
    5.0
    知る人ぞ知る、というお寺です。
    バリアフリー:
    2.5
    スロープもありますが、ちょっと厳しい。
    見ごたえ:
    3.0
    山門に続く石段から紀の川が綺麗に見えます。

yoshimune-kunさん

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