足軽の身分でただ一人討ち入りに参加した勇気ある人物です。決して逃げてなんかいません。
- 3.5
- 旅行時期:2024/01(約2年前)
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by Lily-junjunさん(男性)
麻布 クチコミ:1件
「曹渓寺」へのアクセスは、都営三田線「白金高輪駅」の3番出口を出て左方向に10mほど進むと「麻布通り」(都道415号線)になります。そこを左折し、「麻布通り」沿いに道なりに480mほど進みます。途中に「首都高速2号目黒線」の高架をくぐります。「みずほ銀行麻布支店」の手前の角を左折します。100mほど進むと「古川橋病院」があり、進行方向正面に細い路地がありますので、それを道なりに進むと「曹渓寺」の山門があります。
「曹渓寺」は、臨済宗妙心寺派の寺院です。「曹渓寺」は、酒井雅楽頭忠世の室で榊原式部少輔康政の息女「聖興寺殿梅月慈光大姉」が開基しました。そして、「勅諡圓覺大鑑禅師絶江和尚」が元和9年(1623)に麻布今井に開山し、承応2年(1653年)の現在の地へ移転しました。ちなみに、時代の背景として、江戸時代には、参勤交代の大名に江戸屋敷を与えるために移転させられた寺院が多かったそうです。また、赤穂義士の一人「寺坂吉右衛門信行」が寺男として「曹渓寺」で働いていました。そして、明治23年(1890年)には「麻布獣医学園麻布大学」の前身が当寺境内で設立されましたという由緒あるお寺です。
赤穂義士の「寺坂吉右衛門信行」は足軽頭の「吉田忠左衛門」の組下で、足軽ではただ一人の加盟者でした。討ち入りまでは「伴介」と変名し、「吉田忠左衛門」の下僕として働き、仇討ちの後、「大石内蔵助」の使者として浅野内匠頭夫人である「瑶泉院」に終始を報告し、更に大石夫人のいる但馬国豊岡へ向いました。その後、「吉田忠左衛門」の長女が嫁いでいる伊藤家に仕え、それから麻布「曹渓寺」の寺男となり、最後は或る人の紹介で旗本の山内家へ出仕し、83才で大往生したと伝えられています。曹渓寺の墓には「節岩了貞信士 寺坂信行 延亨四丁卯年十月六日卒」と刻まれています。延亨4年は西暦1747年で、「寺坂吉右衛門」は83才でした。隣には、寄り添うように「粛室知秋信女 寺坂信行妻 延亨二乙牛年九月十二日」と刻まれた妻の墓もありました。
また、「寺坂吉右衛門」の墓は46士とともに「泉岳寺」にもあります。刻まれている文字は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行 元禄十六年二月四日」となっています。「大石内蔵助」を始め四十六士の戒名には「刃」と「剱」の文字がありますが、「寺坂吉右衛門」にはそうした文字は刻まれていません。
01_【「寺坂吉右衛門信行の墓」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒106-0047 東京都港区南麻布2丁目9-22 電話:03-3441-8687
⑵ 「曹渓寺」の概要 ①山号…日東山 ②寺号…曹渓寺 ③宗派…臨済宗妙心寺派
⑶ 御本尊…釈迦牟尼仏
02_【「寺坂吉右衛門信行の墓」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ南北線・都営大江戸線「麻布十番駅」5b出口から徒歩16分1200m
⑵ 東京メトロ南北線・都営三田線「白金高輪駅」3番出口から徒歩10分700m
03_【「麻布獣医学園麻布大学発祥の地」について】
「曹渓寺」の山門左手の塀の前に、黒い御影石でできた記念碑と説明板が設置されています。これが「麻布獣医学園麻布大学発祥の地」です。「麻布獣医学園」は, 明治23年(1890年)9月10日に「與倉東隆」がここに「東京獣医講習所」を 開設したのを始まりとしています。帝国大学農科大学助教授の「與倉東隆」は、曹溪寺境内にできた私立「慈育小学校」の一部を借りて校舎とし、全国から選抜推薦された獣医師に6か月間、解剖、生理、薬物、内科、外科、装蹄、病院実習、装蹄実習を教授しました。その後 「麻布獣医学校」、「麻布獣医畜産学校」名称を変更しました、そして、戦後 神奈川県相模原市に移転し、「麻布獣医科大学」となりました。さらに、昭和55年(1980年)に、「麻布大学」に名称を変更しました。現在は、獣医学部と環境保健学部の2つの学部があり, 他に付属動物病院、付属高校があります。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ南北線・都営三田線「白金高輪駅」3番出口から徒歩10分700m
クチコミ投稿日:2024/02/12
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