「尾山神社」へのアクセスは、金沢駅前(東口)から金沢大学行きの北陸鉄道バスに乗り、「南町・尾山神社」停留所で下車します。下...
続きを読む車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。
「尾山神社」は、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社です。創建は、明治6年(1873年)で、廃藩置県後に、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずですが、旧「金谷御殿」の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。それまで「前田利家」の神霊は卯辰山麓の「卯辰八幡宮(現:宇多須神社)」に合祀されていました。明治8年(1875年)築の最大のみどころである「神門」は、和漢洋折衷の3層構造で国の重要文化財に指定されています。3層目に色とりどりのギヤマン(ガラス)がはめ込まれており、夜には灯りが灯り幻想的な雰囲気を醸しだすそうです。「本殿」の建造は古式に則った「三間社流造」で、シンプルであり、威厳に満ちた「社殿」です。「社殿」の右側にある「玉垣」は珍しいレンガ造りとなっていて、「剣梅鉢」のご紋すかしになっています。金沢でレンガを使用したのは「尾山神社」が最初だそうです。
ところで、何故、「前田利家」が亡くなり230年近くたった明治になって「尾山神社」が建立されたかというと、その歴史的背景には、外様大名という足かせが浮かび上がってきます。当時、徳川幕府の許可なくして、神社を
創建するような勝手なことはできませんでした。「前田利長」でさえ、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。そこで「前田利長」は、守護神としていた「物部八幡宮」ならびに「榊葉神明宮」を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、「前田利家」の神霊を合祀しました。これが、「卯辰八幡宮」です。
《「尾山神社」のお薦め散策順路》
①「神門」⇒②「手水舎」⇒③「授与所」⇒④「お松の方像」⇒⑤「前田利家公像」⇒⑥「神苑」⇒⑦「拝殿」⇒⑧「金谷神社」⇒⑨「本殿」⇒⑩「東神門」⇒次の観光地へ
それでは、「尾山神社」を見学したいと思います。まずは、「石鳥居」をくぐり石段を上った先にあるのが、和漢洋の「神門」です。
《①「神門」⇒②「手水舎」》
「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。
「神門」をくぐると「手水舎」がすぐ右手にあります。ここで身を清めます。そして、「手水舎」の後ろには、完成して真新しい「授与所」があります。
《③「授与所」》
「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、「金沢城」など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあり、ここでも金沢の良さを再確認することができます。
「授与所」の後ろには、「前田利家公像」と「お松の方像」が相並んでいます。
《④「お松の方像」と⑤「前田利家公像」》
「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。
「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です
「前田利家公像」と「お松の方像」の背景にあるのが「神苑」です。
《⑥「神苑」》
「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。
「神苑」の景観を堪能した次は、右手にある「拝殿」です。
《⑦「拝殿」》
「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。
「拝殿」を右手に進むと、もう一つの神社である「金谷神社」があります。
《⑧「金谷神社」》
「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。
さらに、すぐ左手に「本殿」があります。
《⑨「本殿」》
「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。
そして、最後が「東神門」です。
《⑩「東神門」》
「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。
01_【「尾山神社」見どころ】
⑴ 「本殿」
「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。
⑵ 「拝殿」
「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。
⑶ 「神門」
「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。
⑷ 「前田利家公像」
「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。
⑸ 「お松の方像」
「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です
⑹ 「授与所」
「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。
⑺ 「金谷神社」
「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。
⑻ 「東神門」
「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。
⑼ 「神苑」
「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。
02_【「尾山神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0918 石川県金沢市尾山町11-1 電話:076-231-7210
⑵ お祓い時間…9:30〜15:30 授与所・御朱印受付時間…9:00~17:00
03_【「尾山神社」へのアクセス】
⑴ JR「金沢駅前」東口から徒歩25分1700m
⑵ バスを利用して「尾山神社」へ
① [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:93号≫
② [金沢駅前(東口)] ⇒[香林坊経由行]≪北陸鉄道:号≫
③ [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:94号≫
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(8番のりば)
・3停留所目(「武蔵ケ辻・近江町市場」の次の停留所) 所要時間約7分
・9時から17時の間に1時間平均1~3便
・「南町・尾山神社」停留所で下車し「尾山神社」まで徒歩3分210m
⇒バスは「南町・尾山神社」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。
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投稿日:2024/03/26