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観音寺

寺・神社・教会

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赤穂浪士討入りの会合にもよく使われたお寺です。本堂に向かって右側に宝篋印塔があります。

  • 3.5
  • 旅行時期:2024/01(約2年前)
Lily-junjunさん

by Lily-junjunさん(男性)

谷根千 クチコミ:1件

「観音寺」の「赤穂浪士供養塔」へのアクセスは、東京メトロ千代田線「千駄木駅」の1番出口を出て左方向に進むとすぐに信号(表示名「団子坂下」)があります。その信号の横断歩道を渡り、右折して信号の道路の反対側に渡ります。「ミスタードーナッツ千駄木ショップ」のがあり、ゆるやかな「三崎坂」になりますので、それを570mほど上ると、「谷中墓地」の手前の信号の左側に中華料理「珎々亭」があります。そこを左折し、250mほど直進すると左手に「観音寺」の「山門」があります。
「観音寺」は、慶長年間(1596年-1615年)に神田北寺町に建立し、延宝8年(1680年)に神田から現在地に移転し、以来「谷中寺町」の一角を形成しています。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「観音寺」は、はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。「築地塀」のそばを通ると江戸時代の風景が見えてくるような気がしました。
「赤穂浪士供養塔」は、「本堂」に向かって右側にある「宝篋印塔」です。「赤穂浪士」討入りに名を連ねた「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」が「観音寺」の第6世「朝山大和尚」の兄弟であったことから、「赤穂浪士討入り」の会合にもよく使われ、討入り後には「赤穂浪士供養塔」が建立されました。
また、「観音寺」門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じる、いわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが、四季おりおりに杖をひいたと言われています。そして、「観音寺」は、「御府内八十八ヶ所霊場」42番札所、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」32番、御府内二十一ヶ所霊場3番札所となっています。

01_【一口メモ】
⑴ 所在地…〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目8-28 電話:03-3821-4053
⑵ 「観音寺」の概要 ①山号…蓮葉山 ②院号…妙智院 ③寺号…観音寺 ④宗派…新義真言宗
⑷ 国の登録有形文化財指定…築地塀
⑶ 観音寺所蔵の文化財…赤穂浪士供養塔

02_【アクセス】
⑴ 東京メトロ千代田線「千駄木駅」1番出口から徒歩11分850m
⑵ JR「日暮里駅」北改札口から徒歩5分400m
⑶ 東京メトロ千代田線「根津駅」1番出口から徒歩15分1100m

03_【「観音寺」の見どころ】
⑴ 「築地塀」とは
今まで知らなかったのですが、「観音寺」を訪れ初めて「築地塀」の正しい読み方を学習しました。正しくは、「築地塀」は、「つきじべい」いではなく「ついじべい」と発音するそうです。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。
⑵ 「赤穂浪士供養塔」
「赤穂浪士」の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られています。47士に名をつらねる「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」は、当時に「長福寺」と呼ばれていた後の「観音寺」で修行していた「文良」の兄と弟でした。「文良」とは、「長福寺」第6世となった「朝山大和尚」のことです。寺伝によれば、「文良」は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたそうです。明治末の「福本日南」の著作「元禄快挙録」には、「勘六」は死にのぞみ「今日の仕儀「勘六」喜んで身罷ったと、「長福寺」の「文良」へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されています。「観音寺」はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。 本堂に向かって右側にある「宝篋印塔」は「四十七士慰霊塔」として古くから霊を弔う人が訪れている。上部に「四方仏」を表す種字(梵字)、下部に「宝篋印陀羅尼経」、宝永4年(1707年)3月吉日、長福寺6世朝山の名が刻まれています。

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
3.0
東京メトロ千代田線「千駄木駅」1番出口から徒歩11分850m

クチコミ投稿日:2024/02/13

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