「水稲荷神社」へのアクセスは、都電荒川線「早稲田駅」の改札口を出て、右側にある横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し...
続きを読む、180mほど道なりに進みます。最初の信号を渡り左折します。130mほど直進すると右手に、「水稲荷神社」へ通じる石段があります。
「水稲荷神社」は、新宿区西早稲田にある神社です。「水稲荷神社」の創建年代は不詳ですが、天慶4年(941年)に鎮守府将軍「俵藤太秀郷朝臣」が、現在の境内から南方およそ300mにあった旧社地の富塚の上に「稲荷大神」を勧請しました。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれていました。また、別の説として、文亀元年(1501年)に「上杉治部少輔朝良」が勧請したともいわれています。天文19年(1550年)には「牛込主繕正時国」が社殿を造営しました。そして、江戸中期には境内の大椋に霊水が湧き、「水稲荷神社」の霊水が眼病治癒に効果あり、また、火難除けにも効果があると信仰され、それ以来「水稲荷」と呼ばれるようになりました。
そして、「水稲荷神社」には、赤穂義士の一人である「堀部武庸加功遺跡碑」があることでも有名です。「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部武庸」(安兵衛)はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。まさに人生を大きく左右する分岐点であったことにはまちがいありません。
01_【「水稲荷神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒169-0051 東京都新宿区西早稲田3丁目5-43 電話:03-3200-4621
⑵ 「水稲荷神社」の概要
①社号…水稲荷神社 ②御祭神…倉稲魂大神 ③相殿…佐田彦大神・大宮姫大神
④境内社…北野神社、浅間神社、高木神社、三島神社、水神社
02_【「水稲荷神社」へのアクセス】
1 電車を利用して
⑴ 都電荒川線「面影橋駅」から徒歩7分450m
⑵ 都電荒川線「早稲田駅」から徒歩5分300m
⑶ 東京メトロ東西線「早稲田駅」3b出口から徒歩10分650m
2 バスを利用して
① [小滝橋車庫前] ⇒[上野公園]≪都営バス:上69≫
・バス乗り場:「小滝橋車庫前」(1番のりば)
・7停留所目(「高田馬場二丁目」の次の停留所) 所要時間約12分
・9時から17時の間に1時間平均3便~4便
・「西早稲田」下車で下車し「水稲荷神社」まで徒歩1分80m
★ JR山手線「高田馬場駅」から乗車可
② [上野公園] ⇒[小滝橋車庫前]≪都営バス:上69≫
・バス乗り場:「小滝橋車庫前」(13番のりば)
・14停留所目(「甘泉園公園前」の次の停留所) 所要時間約30分
・9時から17時の間に1時間平均3便~4便
・「西早稲田」下車で下車し「水稲荷神社」まで徒歩1分80m
★ JR山手線「上野駅」、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目駅」、
東京メトロ丸の内線・都営大江戸線・三田線「春日駅」から乗車可
03_【「水稲荷神社」の見どころ】
⑴ 「堀部武庸加功遺跡碑」
「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。「堀部安兵衛」は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の「菅野六郎左衛門」の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒しました。この果し合いの場所は、現在の「西北診療所」のあたりといわれています。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部安兵衛武庸」はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。「堀部安兵衛」は、「浅野内匠頭」切腹後は、あだ討ちの推進派として活躍しました。「堀部武庸加功遺跡碑」は、明治43年(1910年)に「堀部安兵衛」の石碑が旧高田馬場に建立されました。現在の茶屋町通りの一隅です。その後、昭和46年に現在の「水稲荷神社」の現在の場所に移されました。ちなみに、題額は、明治の終わりから大正の初めにかけて、二度にわたって総理大臣を務めた「西園寺公望」だそうです。
⑵ 「水稲荷の御神木」
元禄15年(1702年)に、霊水が湧き出たとされるのは、「水稲荷」の御神木である大椋の根元です。その水で眼を洗ったところ、眼病がたちまち治ったとされ、江戸市中で大評判となりました。また、それが「水稲荷神社」の由来のひとつとなり、長い間、御神木として人々の信仰を集めたものです。昭和20年(1945年)5月に、戦災により「社殿」をはじめ神木の「椋」も焼失しましたが、「大椋」の根元だけは残りました。
⑶ 「冨塚古墳」
「冨塚古墳」は、「社殿」の裏手にあります。「藤原秀郷」が最初に「稲荷明神」を勧請したのもこの塚の上であり、「冨塚稲荷」と呼ばれていました。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って「戸塚」と呼ばれるようになりました。「冨塚古墳」と「冨塚稲荷」は、もともとは、早稲田大学9号館裏にありましたが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換にここに移されました。
⑷ 「高田富士塚」と「浅間神社」
「旧水稲荷神社」の境内である早稲田大学9号館のあたりには、「高田富士塚」と呼ばれる江戸の名所がありました。江戸時代中期以降、江戸では富士信仰がさかんとなり、各地で「富士塚」という模造富士がつくられました。そのなかでも「高田富士」は江戸で一番古く、安永8年(1779年)に、高田村の植木職である「高田藤四郎」が手がけました。「高田富士塚」は、早稲田大学が昭和38~39年に当時の「水稲荷神社」の社地を購入したため崩されて、区立甘泉公園のわきに移転しましたが、現在の「水稲荷神社」境内で復元されました。「高田富士塚」は、通常は登拝できないが、7月の海の日およびその前日に催される「高田富士祭」にて登拝が可能です。
「浅間神社」は、安永8年(1779年)に、高田村の植木職である「高田藤四郎」により築かれました。江戸市中で最大最古と言われた「高田富士塚」の麓に御鎮座しています。「浅間神社」の御祭神は「木花咲耶姫尊」と「石長姫尊」です。「高田富士塚」の一合目には「浅間神社里宮」の祠、五合目には「小御岳神社」の祠、頂上には「浅間神社奥宮」の祠があります。そして、御祭神には、「木花咲耶姫尊」、「石長姫尊」を祀っています。
⑸ 「耳欠け神狐」
「水稲荷神社」には「霊水」ともう一つ信仰を集めているとても有名な「耳欠け神狐」がいます。自分の身体で痛い所と同じ箇所を撫でさせてもらい、その撫でた手で自身の痛い箇所を摩ると痛みが消えるそうです。後ろ足を跳ね上げた「飛び狐」は、霊感が強い神様が多いそうです。「耳欠け神狐」が有名なので、スポーツ選手が大勢訪れているそうです。
⑹ 「三島神社」
「三島神社」は、甘泉園の旧所有者である清水家(清水徳川家)の守護神をお祀りしています。「三島神社」は、「源頼朝」が創建したといわれ、「徳川清水家」が当地に屋敷を構えて以降はその守護神となっていました。
⑺ 「大国社」
「大国社」は、鳥居をくぐった右手、手水舎の左手にあります。「社殿」に大黒天像を配し、御祭神に「大国主命」をお祀りし、元来、産業の神様ですが、転じて身体健全、金銀融通の神様です。
⑻ 「木神社」
「木神社」は、文亀年間(1501-04年)の創建で、「高木神」(高御産巣日神)を祀っています。そして、「高木神社」は、「水神社」と「事比羅神社」を合祀しています。「高木神社」は、元々、早稲田大学構内にあったものを移しました。そのためか近年特に早稲田大学入学御祈願の霊験が顕著と評判です。また、早稲田大学の創立者である「大隈重信」が日々信奉したと伝わる神社です。
⑼ 「北野神社」
「北野神社」は、天神様である「菅原道真」をお祀りしています。「大友義乗」(義延)が奉祀した大宰府の御分霊で、大友家が断絶後、牛込天神町から遷座してきました。学問上達・受験合格などに御利益があるとされています。「木神社」と同様に、早稲田大学の創立者である「大隈重信」が日々信奉したと伝わる神社です。
⑽ 「駒繋松」
「大国社」の左手には、「太田道灌駒繋松」があります。駒は馬のことなので、「太田道灌」の愛馬を繋ぎ留めた松です。
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投稿日:2024/02/12