「萬昌院功運寺」に到着すると山門が閉まっていました。山門の前で途方に暮れていると、柵の向こう側に警備員がいて、どのような用...
続きを読む件か訊かれました。「吉良上野介義央」の墓をお参りしたい旨を告げると、訪問者一覧のノートに月日、氏名、住所を記載するように言われました。そして、警備員から境内では写真撮影は一切禁止であると告げられました。せっかくここまで来て写真が撮れなかったのは残念でしたが、それはルールなので仕方がないと思い、「吉良上野介義央」の墓参りをしました。「萬昌院功運寺」へのアクセスは、都営大江戸線「東中野駅」A2出口を出て、右方向に進みます。30mほど進むと「エイブル」がありますので、手前の角を右折して「東中野銀座通り」に入ります。後は道なりに700mほど直進すると右手に「萬昌院功運寺」の山門があります。途中に「早稲田通り」があり、そこから300mほどの距離です。
「萬昌院功運寺」は、曹洞宗の寺院です。実は、昭和23年(1948年)に合併するまでは「久寶山萬昌院」と「竜谷功運寺」という別々のお寺でした。「久寶山萬昌院」は、戦国武将として有名な「今川義元」の子である「今川(一月)長得」(開祖)が天正2年(1574年)に「佛照圓鑑禅師」(開山)をまねいて半蔵門の近くに開きました。その後、いくどか移転し、大正3年(1914年)に、牛込より中野に移りましたが、3年後の大正6年(1574年)に本堂が焼失してしまいました。「竜谷山功運寺」は、慶長3年(1598年)に、「永井尚政」(開祖)が父「永井尚勝」・祖父「永井重元」のため、「黙室芳禅師」(開山)をまねいて桜田門外に開いたお寺です。「功運寺」がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922年)のことです。
「萬昌院功運寺」には、忠臣蔵で有名な「吉良上野介」、作家の「林芙美子」、戦国武将の「今川家」、浮世絵師の「歌川豊国」など有名人の墓が沢山あります。「吉良家」の墓所は、平成3年(1991年)に中野区登録文化財に指定されています。また、昭和55年(1980年)には、「吉良上野介」の墓の前には、「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
01_【「萬昌院功運寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒164-0002 東京都中野区上高田4丁目14-1 電話:03-3387-6321
⑵ 「萬昌院功運寺」の概要 ①山号…久宝山龍谷山 ②寺号…萬昌院功運寺 ③宗派…曹洞宗
⑶ 御本尊…釈迦如来坐像
⑷ 「吉良家」と「高家」について
「吉良家」は、「清和天皇」そして「源氏」の流れを受け継ぐ名門です。鎌倉時代には、足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した足利家支流で、「足利将軍家が途絶えた場合は吉良家から次の将軍を出す。」と言われた程の名門の家柄です。江戸時代には儀式や典礼を司る役職の「高家」の筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどっていました。高家職は、幕府側の朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、高い官位を授けられていました。吉良家の17代当主で赤穂義士に討たれた「吉良上野介義央」は、江戸幕府で儀典礼法を主導し、朝廷外交の中心的役割を担っていました。
⑷ 意外や意外!別の側面の「吉良上野介」
忠臣蔵では「浅野内匠頭長矩」に理不尽な仕打ちをした人物とされていますが、実際は善政をおこなって人びとから慕われた名君だったそうです。また、「吉良上野介」は、茶道「吉良流」(朴一流)の家元です。「忠臣蔵」では、上野介のいじめに耐えかねた浅野内匠頭が斬りかかったことをきっかけとして刃傷事件に発展しましたが、しかし実際には斬りかかった理由は未だ不明だそうです。赤穂義士の討ち入りの詳細も、当時の奉行所が作成した赤穂浪士たちの取り調べ記録と大分異なるそうです。ネットで調べた時に投稿された中に、萬昌院功運寺の住職のこんな談話も見つけました。「吉良さんの実像は教養も高いし茶人としても一流で、悪者の代表にされた吉良さんは気の毒というほかありません。先代や先々代の頃には、上野介の墓が倒され、唾をかけられる。」といったことも度々あったそうです。私も調べるうちにどれが本当の歴史的事実か分からなくなりました。それぞれの立場により思いは違うものですね。
02_【「萬昌院功運寺」へのアクセス】
⑴ JR「東中野駅」西口から徒歩13分900m
⑵ 東京メトロ東西線「落合駅」1番出口から徒歩8分550m
⑶ 西武新宿線「新井薬師駅」南口から徒歩12分900m
⑷ 都営大江戸線「東中野駅」A2出口から徒歩11分750m
03_【「萬昌院功運寺」の見どころ】
⑴ 「吉良上野介義央」の墓
「仮名手本忠臣蔵」では有名な、「吉良上野介」の墓所です。吉良家は高家で、「吉良上野介」は、茶道の「吉良流」(朴一流)の家元です。吉良家は、この寺を菩提寺としていました。「吉良義定」、「吉良義弥」、「吉良義冬」、「吉良義央」の4代にわたってその墓石と供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも「宝篋印塔」です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。墓域に向かって一番右が「吉良上野介」の墓です。
⑵ 「今川家」の墓
萬昌院の開基である「今川長得」(一月長得)は、駿河の大名今川義元の息子です。「今川義元」の後を嗣いだ「今川氏真」から「萬昌院」が菩提樹となりました。
⑶ 「林芙美子」の墓
「林芙美子」は作家で、落合三輪に在住し、「放浪記」、「浮雲」などの名作を残しました。「林芙美子」は、明治36年(1903年)の福岡県門司区生れました。大正7年(1918年)に尾道高女に入学し、大正11年(1922年)に卒業すると愛人を追って上京しました。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めました。これが後の「放浪記」の原形となりました。「手塚緑敏」という画学生と結ばれてから生活が安定し、昭和3年(1928年)に「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始しました。昭和5年(1930年)に「放浪記」が出版されベストセラーとなりました。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけました。
⑷ 「栗崎道有」の墓
「栗崎道有」は、江戸中期の南蛮流の外科医です。祖父の「栗崎道喜」から続く南蛮流の外科医術を取得し、その後オランダ流の外科を習得しました。「栗崎道有」は、元禄4年(1691年)に、江戸へ出て江戸幕府の官医となりました。元禄14年(1701年)に「吉良上野介」が「浅野長矩」によって傷を負わされたとき、「栗崎道有」が手厚く治療しました。また元禄15年(1702年)の赤穂義士の討ち入り後には、「吉良上野介」の首と胴体を縫い合わせたのも「栗崎道有」です。
⑸ 「糟屋武則」の墓
「糟屋武則」は、安土桃山時代から江戸時代にかけての戦国武将で、「賎ヶ岳七本槍」の一人として有名です。ちなみに、「賤ヶ岳の七本槍」とは、「賤ヶ岳の戦い」で活躍した「加藤清正」、「福島正則」、「加藤嘉明」、「平野長泰」、「脇坂安治」、「糟屋武則」、「片桐且元」の七人の武将のことです。
⑹ 「水野重郎左衛門」の墓
「水野重郎左衛門」は江戸初期の旗本です。旗本奴の首領として、旗本奴組織の1つ「大小神祇組」をまとめていました。市中を横行無瀬の生活を送っていましたが、明暦3年(1657年)に町奴の大物である「幡随院長兵衛」と争ってこれを殺しました。意外なことに、この件で「水野重郎左衛門」は咎がありませんでしたが、幕府は素行不良の罪で「水野重郎左衛門」に切腹を命じました。「水野重郎左衛門」の墓の墓所は、平成6年(1994年)7月に中野区登録文化財に指定されています。
⑺ 「長沼国郷」の墓
長沼家は剣術真影流の家で「長沼国郷」は最も有名です。今日の剣道で使用の面・篭手などの防具を完成させました。
⑻ 「長沼活然斎(綱郷)」の墓
「長沼国郷」以後、長沼半の剣術師範を勤めました。
⑼ 「永井家の墓」
「功運寺」の開基である「永井尚政」より永井家の菩提樹となりました。永井家の墓域には、将軍家綱の法要という大切な儀式の最中に「浅野長矩」の叔父「内藤忠勝」に殺された「永井尚長」の墓もあります。
⑽ 「歌川豊国」(初代~三代)の墓
「歌川豊国」は江戸後期の浮世絵師です。初代は「歌川春英」に学び、特に、美人風俗画に秀でていました。また、役者絵でも数多くの作品があります。「歌川豊国」(初代~三代)の墓は、平成6年(1994年)7月に中野区登録文化財に指定されています。
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投稿日:2024/02/12