1. ホーム
  2. 国内旅行
  3. 近畿地方
  4. 奈良県
  5. 奈良市
  6. 奈良市 観光
  7. 唐招提寺
  8. クチコミ詳細
奈良市×
旅行ガイド
観光
グルメ
ショッピング
交通
ホテル
航空券
旅行記
Q&A
唐招提寺 施設情報・クチコミに戻る

念願の鑑真和上像とやっと御対面することができました。感激が込み上げてきました。

  • 4.5
  • 旅行時期:2023/11(約6ヶ月前)
Lily-junjunさん

by Lily-junjunさん(男性)

奈良市 クチコミ:14件

旅行第二日目は、今回の旅行の最大の目的である「唐招提寺」の「鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開」へ向かいました。近鉄「奈良駅」から奈良交通の「奈良県総合医療センター行き」のバスに乗りました。近鉄「奈良駅」では、4~5人程度しか乗りませんでしたが、JR「奈良駅」に着くと長蛇の列ができていて、バスに乗車できない観光客が10名程度いました。このバスの路線には、「唐招提寺」、「薬師寺」があるからでしょうか。電車を利用して行くのもいいかもしれません。電車を利用する場合は、近鉄橿原線の「西ノ京」で下車すると「唐招提寺」までは徒歩約10分、「薬師寺」は2~3分の距離です。そして「唐招提寺」前のバス停では、約3分の2の観光客が降車しました。「唐招提寺」の拝観の入口は、バス手直ぐそばにある「南大門」です。まず、「南大門」で拝観のチケットを購入し、20m右手にあった白いテントで特別拝観料を支払い、拝観時間が記載された整理券をもらいます。6月の「特別拝観」の時は、拝観客が多くて長蛇の列ができ2~3時間待ちだったそうですが、運よくあまり待たずに、10時30分からの拝観時間の整理券をゲットできました。
「鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開」は、令和5年(2023年)は「唐招提寺」の開祖である「鑑真大和上」が来日してから1270年であたり、また、没後からは1260年にあたります。そして、令和4年(2022年)に「鑑真和上坐像」(国宝)を奉安する「御影堂」の大修理が完了したこともあり、例年は6月だけの特別公開を令和5年(2023年)は10月と11月にも実施しました。
最初に「唐招提寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「唐招提寺」は、「聖武天皇」の招きに応じ、幾多の苦難を乗り越え、日本にやってきた唐僧「鑑真和上」によって建立された「南都六宗」の一つである律宗の総本山です。日本に来た「鑑真和上」は、「東大寺」で5年を過ごし、「戒壇院」で授戒の制度を確立するために努力しました。「東大寺」で5年を過ごした後、故「新田部親王」の旧宅地(現在の奈良市五条町)を賜り、天平宝字3年(759年)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。奈良の大きな寺のほとんどが勅願による官寺であるのに対し、「唐招提寺」は鑑真和上発願による私院であることが特徴です。そして、そこを「唐律招提」と名付けました。「鑑真和上」の私寺として始まった当初は、「講堂」や新田部親王の旧宅を改造した「経蔵」、「宝蔵」などがあるだけでしたが、やがて「鑑真和上」を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、「食堂」、「講堂」、「仮金堂」などが建てられました。鑑真和上の没後も金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招提」から「唐招提寺」となりました。また、「金堂」は8世紀後半に「鑑真和上」の弟子の一人であった「如宝」の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代に建立された「金堂」、「講堂」が天平の建築様式を伝える貴重な伽藍となっています。

《「唐招提寺」のお薦め拝観順路》
① 「金堂」⇒② 「鼓楼」⇒③ 「講堂」⇒④ 「礼堂」⇒⑤ 「経蔵と宝蔵」⇒⑥ 「新宝蔵」⇒
⑦ 「北原白秋歌碑」⇒⑧ 「御影堂」⇒⑨ 「鑑真和上御廟」⇒⑩ 「開山堂」と「松尾芭蕉句碑」⇒
⑪ 「戒壇」⇒⑫ 「鐘楼」⇒⑬ 「会津八一歌碑」と「松瀬青々句碑」

《金堂》
それでは、早速「唐招提寺」の境内に足を踏み入れたいと思います。「南大門」を入ると左手に「世界遺産記念碑」がありその奥に「金堂」がどっしり構えています。まさに荘厳という言葉がピッタリです。「金堂」は、創建当時の8世紀後半の姿を残す代表的な建築物です。「金堂」の外観で目を奪われるのは、正面に並ぶ8本の柱です。これらの柱により、光と影の美しいコントラストを演出しています。建築様式は、正面間口七間、奥行き四間の寄棟造・本瓦葺です。堂内には、いずれも国宝である中央に本尊の「盧舎那仏坐像」、右に「薬師如来立像」、左に「千手観音立像」が並んでいます。本尊の「盧舎那仏坐像」は、高さが3mを超え、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像です。奈良時代に盛んに用いられた「脱活乾漆造」という方法で造られ、背後の光背の化仏の数は、862体ありますが、本来は1000体であったといわれています。そして、本尊「盧舎那仏坐像」に向かって右側に安置されている「薬師如来立像」は、高さが3.36mあり、平安時代初期に造られたそうです。本尊「盧舎那仏坐像」に向かって左側に安置されているのは、「千手観音立像」で、高さが5.36mの最古最大の立像です。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕があるそうです。その他、「持国天立像」、「増長天立像」、「広目天立像」、「多聞天立像」の「四天王立像」と「梵天・帝釈天立像」もあります。身につけている装飾品や表情をみると興味深いものになります。また、「金堂」の屋根に上げられていた2体の鴟尾のうち、西側が天平時代、東は鎌倉時代の作だそうです。

《鼓楼》
次が、「金堂」と「講堂」に挟まれて建つのが国宝に指定されている「鼓楼」です。「鼓楼」は、鎌倉時代の仁治元年(1240年)に建立され、建築様式は入母屋造り、本瓦葺きの2階建ての楼閣です。名称は「鼓楼」ですが、現在は「鑑真和上」将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿」とも呼ばれています。「如来舎利三千粒」(仏舎利)は、「鑑真和上」がわざわざ唐から「仏舎利」を収めるために持参したという中国唐代のペルシャ製ガラス容器の「白瑠璃舎利壺」に収納され、さらにレース状の「方円彩糸花網」に包まれ、南北朝時代に作られた「金亀舎利塔」に入れられて、堂内の厨子に安置されているそうです。この「鼓楼」で5月19日に通称「うちわまき」の「梵網会」では、楼上から縁起物のうちわが撒かます。うちわが宙をユラユラさまよう様が目に浮かびますね。

《講堂》
次が、「鼓楼」のすぐ裏手にあるの「講堂」です。「講堂」は、「平城宮」の「東朝集殿」を移築・改造したもので、現在では「講堂」は、平城宮の面影をとどめる唯一の「平城宮」の建物で、開放的な空間となっています。「講堂」は、移築・改造したときに、切妻造から入母屋造・本瓦葺にし、天井を張り、窓や出入口などを設けています。堂内には、重要文化財で、鎌倉時代に制作された御本尊の「弥勒如来坐像」や重要文化財で、奈良時代に制作された「持国天立像」、「増長天立像」などが安置されています。御本尊の「弥勒如来坐像」は、高さが2.84mあり、構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情が特徴です。それと屋根の瓦には「唐招提寺」と刻まれていたのが印象的です。

《礼堂》
「講堂」の右手にある南北に細長い建物が国の重要文化財に指定されている「礼堂」です。「礼堂」は、鎌倉時代に建立された木造りの入母屋造り、本瓦葺の建物です。「礼堂」は、南北19間の細長い建物の南側8間が「礼堂」です。北側10間が「東室」、その間の1間は、「馬道」と呼ばれる通路になっています。「礼堂」は、隣の「鼓楼」に安置された「仏舎利」を礼拝するための堂で、内部に重要文化財の「釈迦如来立像」、同じく重要文化財の「日供舎利塔」を安置しています。「釈迦如来立像」は、正嘉2年(1258年)に制作され、木造で高さが約1.66mで、礼堂内の厨子に安置されています。「日供舎利塔」は、別名が「火炎宝珠形舎利容器」で、高さ47.8cmの木製で黒漆塗りの金銅金具です。「鑑真和上」が唐から持参し、現在では「鼓楼」に収められた仏舎利「如来舎利三千粒」から分けられた数十粒が収められた容器のことです。つまり、日々の勤行礼拝用ということで、日々供養されるため、「日供」の舎利塔という名が付いています。

《経蔵と宝蔵》
「礼堂」をさらに右手に進むと校倉造の建物で、国宝に指定されている「経蔵」と「宝蔵」があります。手前にある小さいほうが「経蔵」です。「経蔵」は、「唐招提寺」ができる前の「新田部親王邸」の米倉を改造したものといわれ、「唐招提寺」で最も古い建造物であり、「東大寺」の「正倉院」より古い日本最古の校倉です。非公開ですが、「経蔵」の中には、14世紀の北朝時代の作品である木造りの「文殊五尊像」が安置されています。ちなみに、「文殊五尊像」は寄木造で、獅子に乗った「文殊菩薩」と「善財童子」、「優でん王」、「仏陀波利」、「最勝老人」の4人の従者からなる菩薩が、仏教を中国から日本へと伝えようとする姿を描いた「渡海文殊」と呼ばれる像です。そして、奥にあるのが「宝蔵」です。「宝蔵」も寄棟造り、本瓦葺きの建物で、「唐招提寺」の創建にあわせて建立されたといわれ、「経蔵」より一回り大きなたてものです。「経蔵」と「宝蔵」は御汝ように見え、区別がつきませんが、大きい方が「宝蔵」と覚えておけば迷うことはありません。

《新宝蔵》
「宝蔵」の先に細い道がありその突き当りにあるのが「新宝蔵」です。途中の右手の「滄海池」には、紅葉が見られ、目の保養になりました。通りかかる人は皆カメラのシャッターを切っていました。「新宝蔵」は、「唐招提寺」が伝える多くの文化財を管理・収蔵するために、昭和45年(1970年)に校倉造りを真似て建てられた収蔵殿です。建築様式は鉄筋コンクリート造りです。「金堂」に安置されていた重要文化財の「木造大日如来坐像」のほか、「旧講堂木彫群」と呼ばれる奈良時代末期に制作された多数の木彫像や「鑑真和上」の渡航を描いた「東征絵巻」などが保管されています。
① 開館期間…3月1日~6月30日、9月1日~11月30日、12月31日~1月3日
※8月10日頃に数日間の臨時開館があります。
② 開館時間…9:00~16:00

《北原白秋歌碑》
次に、「新宝蔵」へ来た道を戻り「経蔵」のところを右手に曲がり「御影堂」へ行くとその途中の左手に、「北原白秋歌碑」があります。「北原白秋」の歌碑には、「水楢の 柔き嫩葉は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」と刻まれています。「北原白秋」は、昭和12年(1937年)、52歳の時に、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血で、その視力をほとんど失ってしまいます。この歌は「芭蕉の句」である「若葉して おん目のしずく ぬぐはばや」をもとに、自分の眼のことも詠んでいるのかもしれないということです。

《御影堂》
「北原白秋歌碑」の先を右に曲がると、「御影堂」です。念願の「鑑真和上坐像」との御対面です。「御影堂」の正門で整理券と特別拝観券を提示して、「御影堂」に入りました。玄関先で係の方がいて、ビニール袋を渡してくれるので靴を脱いで「御影堂」に入ります。その前に、「鑑真和上」の足跡と「御影堂」の歴史を紐解いておきたいと思います。唐の高僧「鑑真和上」は、度重なる難航海と両目失明という苦難の末に渡来しました。そして、東大寺に到着したのが天平勝宝6年(754年)です。天平宝字3年(759年)に「東大寺戒壇院」を退き、「唐招提寺」を創建しました。その国宝である「鑑真和上像」を安置するのが「御影堂」です。「御影堂」は、境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした建物です。「御影堂」は、元々は興福寺」の別当坊だった「一乗院宸殿」の遺構で、1649(慶安2)年に建立されました。明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964年)に移築復元したものです。「鑑真和上坐像」は、高さが80.1cmで、日本最古の肖像彫刻で、天平時代を代表する彫刻です。そして、「鑑真和上坐像」は、肖像彫刻としては異例の目を閉じた形です。「鑑真和上」の不屈の精神まで感じさせる傑作です。ちなみに、「脱活乾漆」は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞となります。「鑑真和上坐像」は、弟子たちによる集大成で、弟子の「忍基」が制作を指導したとされています。また、御影堂内の襖絵は、日本を代表する画家「東山魁夷」が、10年を超える歳月をかけ、「鑑真和上」に捧げた大作です。日本の風土をテーマとして、「山雲」、「濤声」、それと墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」、「黄山暁雲」、「桂林月宵」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も「東山魁夷」の作によるものです。それと、「御影堂」の文化財指定名称は「旧一乗院宸殿殿上及び玄関」ですのであしからず。また、「御影堂」は、春と秋に公開されています。実際に「鑑真和上坐像」を見て思ったのは、眼を閉じて無の境地に入っているように思えました。そして、その姿は、高僧の雰囲気が十分に表現されています。今思えば、何とも言えない空間に導かれた気がしました。眼を閉じても心の目で、真理を悟りかけているようでした。また、画家「東山魁夷」の襖絵等は、彼独特の青の色遣いで、お寺に新鮮な旋風を吹き起こしているのではないかと思いました。薄暗い空間が鮮やかな世界に変わっているようでした。また、「鑑真和上坐像」の前にある庭園を板の間から眺めていると、「鑑真和上」が荒波を乗り越えてきたように、木々が風に揺られてまるで大海原に旅立つかのように思えました。

《鑑真和上御廟》
「鑑真和上坐像」を参拝し、次は、「御影堂」を出て左手に進み、「鑑真和上御廟」へ向かいました。「鑑真和上御廟」は、もちろん字の如く「鑑真和上」の墓所ですが、もう一つ見るべきポイントがあります。それは「鑑真和上御廟」の門を潜ると、目の前にモスグリーンの世界が広がってきます。そのモスグリーンの波は、「鑑真和上御廟」へ続く池のところまであり、その美しさに思わず見とれてしまいました。「鑑真和上御廟」は、小高い方墳上の土壇の上に、鎌倉時代後期の高さ2.5mの宝篋印塔が立っています。「鑑真和上御廟」の前に立つとそこには、「鑑真和上」の故郷である揚州から贈られた、ガクアジサイに似た白い可憐な花を4月から5月頃に咲かせる瓊花が植えられていました。「鑑真和上」は、同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えないそうです。そして、「鑑真和上御廟」の右側には、「趙樸初居士之碑」と書かれた石碑があります。「趙樸初」は、中国の著名な仏教指導者で、日中仏教文化の交流に貢献しました。そして、「唐招提寺」の「鑑真和上」の墓地に石碑を建てた初のケースだそうです。

《「開山堂」と「松尾芭蕉句碑」》
「鑑真和上御廟」を出て、「北原白秋歌碑」の先に「開山堂」があります。「開山堂」は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立されました。その後明治14年(1881年)に「鑑真大和上」の尊像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の「鑑真和上像」が「御影堂」へ移されたのち、「覚盛上人」、「聖武天皇」、「徳川家康」の坐像を安置した本願殿として参拝されていましたが、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い「鑑真和上」が亡くなってから1250年になる平成25年(2013年)に、「鑑真和上」を模写した「御身代わり像」がつくられ、再び「開山堂」として完成しました。ここは、「御身代わり像」は撮影禁止です。そして、「開山堂」に向かって左手に「松尾芭蕉句碑」があります。「松尾芭蕉句碑」には「若葉して おん目のしずく ぬぐはばや」と刻まれています。「松尾芭蕉」は貞享5年(1688年)4月に「笈の小文」の旅の途中で、「唐招提寺」を訪れた時の句です。「開山堂」で「鑑真和上」の像を前に、しみじみと感じ入ったそうです。句意は「ああ和上、幾多の困難を乗り越え、ついに目の光を失われた。お痛ましいことです。せめてこの若葉で、御目のしずくをぬぐってさしあげたいと。」だそうです。

《戒壇》
「開山堂」の次は、「開山堂」を出て左方向に直進すると突き当たります。そこを左折し、紅葉がきれいな参道をしばらく歩くと、右手に「戒壇」があります。位置的には、「金堂」の西側になります。「戒壇」は、僧となるための授戒が行われる場所のことです。「戒壇」は創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により「戒壇」は焼失しました。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978年)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。

《鐘楼》
「戒壇」から「金堂」方向へ戻ると正面に「鐘楼」があります。「鐘楼」は、「金堂」・「講堂」を結ぶ「唐招提寺」の伽藍中心線から見て「礼堂」と対称の場所に位置しています。「鐘楼」に懸かる「梵鐘」は平安時代のものです。12月31日の大晦日には、人間が持つ108の煩悩を清めるため、除夜の鐘が撞かれる。23時頃より「南大門」にて整理券が配布され、抽選で当選した人は、23時40分頃より「鐘楼」にて108組の人が順番に鐘を撞くことができるそうです。ちょっと寒そうですが除夜の鐘を撞いてみたいものですね。

《「会津八一歌碑」と「松瀬青々句碑」》
「鐘楼」を「南大門」の方へ進むと、歌人で美術史家の会津八一が詠んだ「会津八一」の歌碑があります。歌碑には、「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」と刻まれていました。ちなみに、漢字かな交じり文・現代かな使いで表すと「大寺の 円き柱の 月影を 土にふみつつ ものをこそ思え」となります。「会津八一」は、明治14年(1881年)8月1日に新潟市古町通5番町で会津家の次男として生まれました。「会津八一」は、新潟県が生んだ文人・歌人・書家・美術史家で奈良の仏教美術を熱心に研究した人物です。「会津八一歌碑」の脇の小道を入った雑木林の中に「松瀬青々句碑」があります。「松瀬青々」とは昭和初期の俳人で、大阪朝日新聞に入社して朝日俳壇の選者をしていた人物です。句碑には、「門を入れば 両に稲田や 招提寺」です。「招提寺」とは「唐招提寺」のことで、門を入ったら両側が田んぼであるという当時の「唐招提寺」の経済状況の窮状が詠われたものだそうです。

全部は見ることができませんでしたが、「鑑真和上像」を拝観するという当初の目的は達成です。とにかく、奈良のお寺は、京都のお寺に比べスケールが大きいので、一つのお寺を見るのに時間を費やしてしまいます。次は、「唐招提寺」からあるいても10分もかからない「薬師寺」の拝観です。


01_【「唐招提寺」一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8032 奈良市五条町13-46 電話番号:0742-33-7900
⑵ 拝観料…①大人・大学生1000円 ②中・高校生400円 ③小学生200円
⑶ 国宝「鑑真和上坐像」特別公開拝観料…①大人・大学生1000円 ②中・高校生400円 ③小学生200円

02_【「唐招提寺」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して
近鉄「西ノ京駅」東出口から徒歩11分800m
⑵ 奈良交通バスを利用して
① [JR奈良駅)] ⇒[奈良県総合医療センター行]≪奈良交通:≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(6番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(8番のりば:駅前交番前)
・ア 「JR奈良駅」から10停留所目(「唐招提寺東口」の次の停留所) 所要時間約16分
・イ 「近鉄奈良駅」から12停留所目(「唐招提寺東口」の次の停留所) 所要時間約21分
・9時から15時の間に1時間平均2~3便:[JR奈良駅]毎時 28分、58分発
                   :[近鉄奈良駅]毎時 23分、53分発
・「唐招提寺」下車で下車し「唐招提寺南大門拝観受付」入口まで徒歩1分60m

施設の満足度

4.5

利用した際の同行者:
家族旅行
アクセス:
2.0
バスが大混雑で、途中のJR奈良駅から乗れない人もいました。。近鉄を利用していった方がよいかもしれません。西ノ京駅から10分ほどで行けます。
人混みの少なさ:
3.0
鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開で結構混んでいましたが、お寺自体が広いので圧迫感は全然感じられませんでした。
見ごたえ:
4.5
見どころはたくさんありますので、事前にウェブ等で調べていった方がいいと思います。そうすると結構楽しく回れます。

クチコミ投稿日:2023/12/06

いいね!:0

利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する

PAGE TOP