今回の奈良旅行の大きな目的は、「古都奈良の文化財」として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅です。急ぎ足になりました...
続きを読むが、一泊二日で「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」、「元興寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねてみました。当初は、「鑑真和上像」の特別公開があるので、「唐招提寺」だけ行き、奈良市内をブラブラする予定でしたが、せっかく奈良まで来たので、急きょ予定を変更して、欲張って世界遺産に指定されている寺院も訪ねてみることにしました。
まず、奈良旅行の第一日目の最初の訪問先は、「東大寺」です。その前にJR奈良駅東口にある「奈良市総合観光案内所」へ行き奈良のお寺のお得な巡り方や交通等の情報をゲットするために訪れました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で散華を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。また、バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを聞き、一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。
JR奈良駅西口から「ぐるっとバス」の奈良公園ルートの停留所へ向かうと、バスに乗る観光客の長蛇の列でした。こんなに乗れるかと思うくらいギュウギュウ詰のバスに乗り、待っている乗客がいましたが、満員で途中の停留所はやむなくスルーし、「東大寺大仏殿・春日大社前」停留所で下車しました。所要時間は約13分ということでしたが、奈良公園近くまでは順調に進みましたが、祝日のため車が渋滞していて、東大寺大仏殿駐車場まで25分くらいかかりました。バスを降りると1分もかからないところに「東大寺」への入口である「南大門」があります。
「東大寺」は、誰もがしっているように学校の教科書にも出てくる奈良の大仏さまで知られる「聖武天皇」の勅願によって建立されたお寺です。世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。「東大寺」は、奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の「国分寺」の中心として建立されました。また、「大仏殿」は世界最大級の木造建造物で、天平15年(743年)に「聖武天皇」が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、「盧舎那大仏」造立の詔を発し、延べ260万人もの人々の協力によりすべてのものの幸福を願い造られた大仏様は、天平勝宝4年(752年)に、「開眼供養会」が盛大に営まれました。そして、「東大寺」の境内には、「大仏殿」ばかりでなく、創建当時の遺構を残す「転害門」、「法華堂」をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である「南大門」、「鐘楼」、江戸時代再建の「二月堂」といった数多くの国宝建造物がたち並び、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。ちなみに、「東大寺」は、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。その他に。世界遺産に登録されている古都奈良の文化財は、「興福寺」、「春日大社」、「春日山原始林」、「元興寺」、「平城宮跡」、「薬師寺」、「唐招提寺」のなど「「東大寺」」を含め8遺産群が平成10年(1998年)に指定されています。
まず「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。高さ21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにもなります。「南大門」の下の西側(左側)には「阿形」の「金剛力士像(仁王像)」が東側(右手)には「吽形」の「金剛力士像(仁王像)」が配置されています。もちろん「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝へ指定されています。東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。また、夏になると、「大仏殿」や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立つそうです。そして、「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。「金剛力士(仁王) 像」を撮影しようと思いましたが、太陽の日差しが入り込んでうまく取れませんでした。
「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。
少し進むと「東大寺」の「鏡池」があります。そして、「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」で、その紅葉に彩られた姿にはしばし足を止め見とれてしましました。他の観光客も美しい紅葉の風景をカメラにおさめていました。カメラで夢中になっていて、気が付かなかったのですがふと足元をみると鹿が日光浴でもしているのでしょうか、足元に横たわっていました。ちなみに、「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。
「鏡池」の反対側には、「谷川喜六建立慰霊碑」と「会津八一歌碑」が並ぶようにしてあります。向かって左側にあるのが「谷川喜六建立慰霊碑」、右側にあるのが「会津八一歌碑」です。「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」さんが、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。
「会津八一歌碑」の少し先の左手に「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれてありました。目の前には、「東大寺」の「中門」がそびえ立っているので、見逃される確率の高い穴場スポットです。参道は坂になっていて途中の左手に「五百立神社」、そして坂を上り切ったところに「鉄道職員殉職者供養塔」の石造十三重塔が建っています。「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。「五百立神社」は、最初なんと読むのかと思い、その場でスマホを検索し調べてみたところ、「五百立」と書いて「イホタチ」と読むそうです。日本語はつくづく難しいですね。「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。
「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道を下ると左手に「大仏殿」への入口である「中門」があります。「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。
「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。
「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。
「手向山八幡宮」を左に折れると正面に「法華堂(三月堂)」があります。「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。
「法華堂(三月堂)」をさらに奥に進むと右手に「二月堂」があります。勾配の急な石段を上り切ると「手水舎」があり、何と水が飲めると書いてありました。「二月堂」には、もう一か所に「手水舎」がありますがこちらの水は飲めませんと注意がきがありました。「二月堂」の舞台に到着し、そこから眺める風景は素晴らしいものです。急勾配の石段を上り息が切れることさえ忘れさせてくれます。「二月堂」へは、昼間と娘の薦めもあり夜間のライトアップへの計二回訪れてみました。ライトアップされた幻想的な「二月堂」と光がともる奈良の街並みを見ると何とも言えない気分になってきました。「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。お見逃しなく!
次は、「東大寺」裏手にある「正倉院」へ向かいました。「正倉院」へ向かう途中の築地塀のような塀が並んでいる風景がとても印象的でした。また、「大仏殿」を後ろから見るとその大きさには驚かされました。そして「正倉院」へ着いたのですが、残念ながら祝日は開放していないというで見学することができませんでした。
最後が「戒壇堂」です。「正倉院」の前にあるイチョウ並木を通り「戒壇堂」に到着しました。天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂、講堂、僧坊、鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。
01_【「東大寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8587 奈良市雑司町406-1 電話: 0742-22-5511
⑵ 拝観時間
① 大仏殿…4月~10月 開門7:30 閉門17:30 11月~3月 開門8:00 閉門17:00
② 法華堂(三月堂)・戒壇院千手堂…開門8:30 閉門16:00
③ 拝観料…大仏殿、法華堂(三月堂)、戒壇堂…大人(中学生以上)600円、小学生300円
※ お堂ごとに入堂料が必要となります。
02_【「東大寺」へのアクセス】
⑴ 奈良交通バスを利用して
① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・5停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約11分
・9時から17時の間に1時間平均4便:[JR奈良駅)]毎時 10分、25分、40分、55分発
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
② [JR奈良駅)] ⇒[藤原台・山村町・鹿野園町行き]≪奈良交通:57・58・61・62≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(2番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・4停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分
・9時から17時の間に1時間平均3便~6便
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
⑵ ぐるっとバスを利用して
① [近鉄奈良駅)] ⇒「ぐるっとバス大宮通りルート」または「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「近鉄奈良駅(1番出口)」(ぐるっとバスのりば:B5、R7)
・2停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約4分
・9時から17時の間に「大宮通りルート」または「奈良公園ルート」1時間平均各4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
② [JR奈良駅西口)] ⇒「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「JR奈良駅西口(ぐるっとばすのりば: R5)
・4停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約13分
・9時から17時の間に1時間平均4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
⑶ 電車を利用して
近鉄「奈良駅」出口から徒歩約20分、1400m
03_【「東大寺」の主な見どころ】
「東大寺」は、国宝や重要文化財に指定されている歴史的価値が高い建造物が多いお寺です。その中でも特に世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。
⑴ 「南大門」
「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにも及びます。門の中は西側に「阿形」、東側に「吽形」の「金剛力士」(仁王)像が配置されています。「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝へ指定されています。建仁3年(1203年)に当時の仏師によって、わずか69日で仕上げられたというから驚きです。夏になると、大仏殿や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立ちます。「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。
⑵ 「南大門の金剛力士像」
東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。
⑶ 「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカ
「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。
⑷ 「鏡池」と池に浮かぶ島にある「厳島神社」
「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」です。ちなみに、「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。池の中央にひっそりと佇むこの神社は思いのほか神秘的な雰囲気を漂わせています。
⑸ 「谷川喜六建立慰霊碑」
「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」さんが、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。
⑹ 「会津八一歌碑」
「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。
⑺ 「五百立神社」
「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。
⑻ 「鉄道職員殉職者供養塔」
「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。
⑼ 「中門」
「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。
⑽ 「大仏殿」
「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。
⑾ 「手向山八幡宮」
「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、「宝庫」(重要文化財)は「東大寺」から移築された校倉造の建築物です。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。
⑿ 「法華堂(三月堂)」~東大寺最古の建造物~
「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。
⒀ 「二月堂」
「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。
① 「修二会」 3月1日~3月14日
「東大寺二月堂」の「修二会」は、天平勝宝4年(752年)に、東大寺開山良弁僧正の高弟「実忠和尚」が始めたそうです。それ以来、令和5年(2023年)で1272回になり、連綿と歴史を未来に向かい繋いでいます。「修二会」の正式名称は「十一面悔過法要」で、「修二会」は、「二月堂」の本尊「十一面観音」に「東大寺」の僧侶が全ての人の罪過を悔い改めて国家の安泰と人々の豊楽を祈る法要です。一般によく親しまれるのは12日の「お水取り」で、「修二会」の別名ともなった行事です。
ア たいまつ上堂…1日~13日19:00(12日は19:30、14日は18:30) 毎日10本(12日は11本)
イ お水取り…12日深夜(13日未明)
⒁ 「戒壇院戒壇堂」
天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂・講堂・僧坊・鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。
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投稿日:2023/11/29