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hiroさんのクチコミ(7ページ)全476件

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  • 小規模な神社ですが宮司さんの取り組みが再度参拝してみたくなるアットホームな神社です!

    投稿日 2021年06月06日

    導きの社 熊野町熊野神社 池袋

    総合評価:3.5

    『導きの社 熊野町熊野神社』は、南北方向に通る「山手通り」(都道317号・環状6号線)と東西方向に通る「川越街道」(国道254号)が立体交差する「熊野町交差点」の北西側に位置し、御祭神として「伊佐奈美命(いざなみのみこと)」、「速玉之男命(はやたまのおのみこと)」、「事解之男命(ことさかのおのみこと)」を祀る板橋区熊野町に鎮座する小規模な神社です。
    『熊野町熊野神社』の創建年代は不詳ですが社殿によるその歴史は、平安時代・前期「第59代・宇多天皇」〈在位期間:887年(仁和3年)から897年(寛平9年)〉の第8皇子「敦実親王」から数えて14代のちの子孫となる「庭田主水正氏兼」(後に岩田と改姓)が、室町時代前期から中期(室町幕府第3代から第5代将軍)の時代であった応永年間(1394年から1428年)に故あって武州豊島郡中丸村(現在の板橋区中丸町)に移り住んだ際に一族が信仰していた「熊野三山」(「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」)に祀られる神々である「紀州熊野権現」を勧請(神様の分霊を迎え祀ること)したのが創建と伝えられ、安土桃山時代の歴史的な事件として知られる「本能寺の変」から5年後の1587年(天正15年)になると「庭田主水正氏兼」から5代のちの子孫となる「岩田忠経」によって現在の地に遷座(神様の場所を移すこと)したことにより、神社の名称が現在の町名の由来となっています。
    江戸時代には中丸村周辺の鎮守として幾度にも渡り氏子によって社殿の造営が繰り返されていますが、1913年(大正2年)に建てられた社殿は「太平洋戦争」下の1945年(昭和20年)5月25日に東京を襲った大規模な空襲により本殿・社務所などが焼失、1948年(昭和23年)に仮社殿が建てられ、現在の本殿・拝殿など主要な建物は1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)にかけて建てられたものになります。
    『熊野町熊野神社』へのアクセスは、最寄り駅の東武東上線「大山駅」から徒歩12分程度(約1キロメートル)となり、そのほか東武東上線「下板橋駅」・「北池袋駅」、東京メトロ有楽町線・副都心線「要町駅」、都営地下鉄三田線「板橋区役所前駅」からも徒歩14分から16分程度となります。
    「山手通り」(都道317号・環状6号線)を自動車で通ることもあるので『熊野町熊野神社』の存在は以前より知っていましたが、数日前に自動車から境内に”こいのぼり”が吊るされているのが見えて気になっており、今回初めてゴールデンウィークの午前中に東京メトロ「要町駅」方面から徒歩で『熊野町熊野神社』を参拝してみました。
    想像していたよりも狭い境内でしたが、小さな”こいのぼり”が境内に沢山つるされており、参拝者も絶えることなく皆さん”こいのぼり”で飾られた境内の写真撮影をしていました。
    この”こいのぼり”は、「熊野こいのぼり祭」(端午祭)というイベントで「子供の健やかなる成長・恋愛運の上昇(恋昇り)」を祈願して奉納されたもので見応えがあります。
    また境内奥に「伏見稲荷神社」、「厳島神社」、「不動尊」などの小さな祠が配置された「幻想の庭」と称する空間があったり、境内各所に「熊野信仰」の神使とされる「八咫烏(やたがらす)」の可愛らしい小さなキャラクターが配置されており、思わず境内各所を見渡して探してしまいました・・・
    (この「八咫烏」は、社務所で”八咫烏おみくじ”として販売されています。)
    そのほか境内には”都内最初「厄割良縁石」厄を割って良縁を当てよう!”など参拝者の気を引く掲示物など宮司さんのさまざまな取り組みが感じられ、再度参拝してみたいと思うアットホームな神社です。

    旅行時期
    2021年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    2.5
    東武東上線・大山駅・下板橋駅・北池袋駅、東京メトロ・要町駅、都営地下鉄・板橋区役所前駅からそれぞれ1キロメートル以上となります。
    人混みの少なさ:
    3.5
    ゴールデンウィーク期間の午前中に参拝しましたが、参拝者は絶えませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    拝殿の前に数段の石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    ”熊野こいのぼり祭”で小さな”こいのぼり”が境内に沢山つるされていました。

  • 日本の首都東京の玄関口にふさわしい格調高い道路空間に圧倒されました!

    投稿日 2021年05月29日

    行幸通り 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『行幸通り』は、JR東京駅の山手線ほか各路線と並行して南北に通る「大名小路(都道402号)」の「東京駅 丸の内駅前広場」に面する「東京駅中央口交差点」から「皇居前広場」に面する南北に通る「内堀通り(都道301号)」までの東西区間を結ぶ延長およそ390メートルの「都道404号・皇居前東京停車場線」であり、天皇が全国各地を行幸する際に「皇居」から「東京駅」までの移動に利用する由緒ある道路でもあることから『行幸通り』の通称で呼ばれています。
    また、「皇室公式行事」のほか各国大使の「信任状捧呈式」(外国の新任特命全権大使が信任状を天皇に捧呈する儀式)などで「東京駅」から「皇居」まで送迎する際に皇室専用自動車や儀装馬車が通行する道路にもなっています。
    『行幸通り』の歴史については、明治政府の官有地として陸軍練兵場などがあった現在の「丸の内エリア」が1890年(明治23年)に民間に払い下げられた後の1894年(明治27年)に国内初の近代的オフィスビルとなる「三菱一号館」が竣工してから赤レンガのオフィスビルが次々と建てられる中、1903年(明治36年)の都市計画において『行幸通り』が重要街路に位置付けられ、1914年(大正3年)になると「東京駅」の開業にあわせて「皇居」から「東京駅 赤レンガ駅舎」に直結する『行幸道路』として整備されるとともに『行幸通り』を中心に「丸の内エリア」が国内初の本格的なオフィス街へと発展しています。
    その後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」後の1926年(大正15年)には、震災復興再開発事業の一環として当時の東京市を代表する広規格道路となるイチョウ並木などの街路樹を配置した道路幅員73メートルにおよぶ日本の首都東京の玄関口にふさわしい格調高い道路空間に再整備が実施されています。
    また、近年においては「東京駅 丸の内駅前広場」に面する「東京駅中央口交差点」から「日比谷通り(国道1号)」と交差する「和田倉門交差点」までのおよそ190メートル区間が歩行者専用地下通路の建設および地上部分の景観のほかに「ヒートアイランド対策」などの環境面にも配慮した再整備事業が実施されており、2018年度(平成30年度)に「東京駅 丸の内駅前広場から行幸通りに繋がる景観」(駅前広場と道路空間からなる景観)として「日本デザイン振興会」主催の「グッドデザイン賞・金賞」を受賞、「東京駅丸の内広場及び行幸通り整備事業」として日本の建設技術の発展に寄与することを目的とした「全日本建設技術協会」による「全建賞(都市部門)」を受賞しています。
    「東京駅」の駅構内および八重洲口方面によく利用していますが、今回は平日の午後に大手町周辺を訪れる機会があり少し時間に余裕があったので「東京駅」から「皇居」に通じる『行幸通り』にはじめて立ち寄り、道路幅員が73メートルあるの中で普段は歩行者道として開放されている馬車道と呼ばれる中央帯部分(幅員30メートル)を「和田倉門交差点」から「東京駅中央口交差点」まで歩いてみました。
    南北総延長335メートルにもおよぶ「東京駅 赤レンガ駅舎」の外観を正面に見ることができ日本の首都東京の玄関口にふさわしい格調高い道路空間に圧倒されました。
    また、観光と思われる方の写真撮影やウエディング用の記念写真撮影する方なども見かけ撮影スポットとしてもお薦めできます。
    そのほか4列に整備されているイチョウ並木の紅葉もお薦めできます。
    機会があれば、皇室の儀装馬車が通行する際にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京駅と皇居を結ぶ延長およそ390メートルの道路です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、馬車道と呼ばれる道路中央帯部分を歩く人はまばらでした。
    バリアフリー:
    4.0
    馬車道と呼ばれる道路中央帯部分に段差はありませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    日本の首都東京の玄関口にふさわしい格調高い道路空間とイチョウ並木の紅葉はお薦めです。

  • 1821年(文政4年)に寄進された精巧な唐獅子像は見ごたえがあります!

    投稿日 2021年05月09日

    花園神社 新宿

    総合評価:4.0

    『花園神社』は、創建時期が不詳ですが新宿区新宿5丁目に鎮座する新宿総鎮守として「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)以前に「大和吉野山」より現在の新宿区新宿3丁目「新宿伊勢丹」付近に勧請(神様の分霊を迎え祀ること)され御祭神として信仰を集めていた稲荷神の穀物の神とされる「倉稲魂命(うかのみたまのみこ)」(のちに「尾張徳川家」下屋敷内の庭の一部であった現在地に遷座することになった「花園稲荷神社」)、現在地が「尾張徳川家」下屋敷内であった時代に祀られていたとされる「大鳥神社」御祭神とされる戦勝の神である「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、現在の新宿区新宿4丁目に以前鎮座していた「雷電稲荷神社」御祭神の穀物・農業を司る女神である「受持神(うけもちのかみ)」の3神がそれぞれ合祀され本殿に祀られています。
    社名の由来は、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である寛永年間(1624年から1645年)に「尾張徳川家」下屋敷の庭の一部で多くの花が咲き乱れていた美しい花園の跡(現在の境内)に遷座(神様の場所を移すこと)したことによるとされています。
    『花園神社』境内への出入は、境内東側の「明治通り(都道305号)」に面する朱塗り・鉄骨造りの大鳥居が建つ表参道、境内南側の「靖国通り(都道430号)」に面する石造りの鳥居が建つ南参道、境内西側(本殿裏側)に「新宿ゴールデン街」に通じる道路から石段を上がり石造りの鳥居が建つ裏参道があり、近くを訪れた際に今までに数回に渡り参拝に立ち寄っています。
    「靖国通り(都道430号)」に面するビルとビルに挟まれた幅が4~5メートル程度の南参道から石造りの鳥居をくぐってすぐの場所に配置されている雌雄一対の銅製「唐獅子像」は、1984年(昭和59年)に「新宿区指定有形文化財 彫刻」に登録されています。
    以前に参拝で立ち寄った際は「唐獅子像」全体が金網で覆われていましたが、今回は金網が取り払われていたので写真撮影してみました。
    (自分が金網で覆われていた「唐獅子像」を最後に確認したのは今回の1か月ほど前になります。)
    この「唐獅子像」(像高75センチメートル)は、江戸時代末期の徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1821年(文政4年)に氏子たちによって寄進されたもので、江戸末期の鋳工として活躍した初代「村田整(むらたせいみん)」の代表作であり、彫工「佐脇主馬(さわきかずま)」が制作した木彫り原型から頭部を四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分割、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分割して鋳造したものを鋳掛け溶接技法で接合したとされる小さな像ですが精巧な造りに目を奪われました。
    また「唐獅子像」が設置されている石工「本橋吉平衛(もとはしきちべえ)」により制作された注連縄を浮彫にした石造りの台座(台座高:137センチメートル)も鋳造の「唐獅子像」とともに見ごたえがあり必見です。
    そのほか『花園神社』は、「鷲神社(東京都台東区)」、「大國魂神社(東京都府中市)」とともに「関東三大酉の市」のひとつとに数えられるなど新宿歌舞伎町から徒歩圏内のお薦めできるパワースポット神社でもあります。
    機会があれば、「酉の市」にあわせて立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・新宿三丁目駅E2出入口を出たところです。歌舞伎町からも徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝者が絶えることがあるませんが、企業の安全祈願などがある場合を除き込み合うことはありません。
    バリアフリー:
    2.5
    本殿を参拝するには、石段を昇ります。
    見ごたえ:
    4.0
    江戸時代の鋳工・彫工・石工の匠たちが制作した唐獅子像があります。

  • 古代から現在に至るまでの貨幣コレクションは多彩で見応えがあります!

    投稿日 2021年05月05日

    日本銀行金融研究所貨幣博物館 日本橋

    総合評価:4.5

    『日本銀行金融研究所 貨幣博物館』は、1882年(明治15年)に制定された「日本銀行条例」に基づき設立した「日本銀行」の創立100周年を記念し、金融・経済の基本問題に関する研究、金融・経済に関する歴史的資料の収集・保存・公開、学界等との連絡・交流を目的に「日本銀行本店」に属する部署として1984年(昭和59年)に設置された『日本銀行金融研究所』が管理・運営する博物館であり、1985年(昭和60年)に開館したのちの2015年(平成27年)になると館内が全面リニューアルされて新たな『貨幣博物館』としてオープンしています。
    『貨幣博物館』のある場所は、1974年(昭和49年)に国の「重要文化財」に指定された「日本銀行本店・旧館(本館)」南側の東西に通る道路(江戸桜通り)を挟んだ場所に位置する1984年(昭和59年)に竣工した「日本銀行本店・分館」内の2階となります。
    『貨幣博物館』へのアクセスは、東京メトロ・半蔵門線「三越前駅」B1出入口の目の前にある「常盤橋」交差点の横断歩道で外堀通り(都道405号)を渡ってすぐの場所、そのほか東京メトロ・銀座線「三越前駅」B5出入口から「江戸桜通り」をまっすぐ「常盤橋」方面(西側)に徒歩3分程度(約200メートル)の場所に位置します。
    (「日本銀行本店・分館」建物出入口には、警備員の方が立っているのですぐわかると思います。)
    今回は、大手町周辺を訪れた際に「日本銀行本店・旧館(本館)」の外観などを写真撮影しようと思い立ち寄った際に『貨幣博物館』の存在を知り、初めて『貨幣博物館』に立ち寄ってみました。
    『貨幣博物館』は、入館無料ですが建物内に入ると1階に入館受付があり手荷物のX線検査および金属探知機による身に付けている所持品の検査があり、厳重な警備体制と自動ドアで仕切られている2階展示室内が写真撮影禁止エリアであることから展示品に対する期待感も高まりました。
    手荷物・所持品検査完了後に階段またはエレベーターで2階の展示フロアに移動しますが、5年ほど前の全面リニューアル時にエレベーターの設置や2階フロアに多機能トイレが完備されているほか館内用車椅子の常備、盲導犬・介助犬・聴導犬を伴っての入館が可能など館内のバリアフリー施設はとても充実しています。
    展示室内には、古代から現在に至るまでの日本貨幣史について、実際に使用されていた多彩な貨幣コレクションを展示のしながら”お金とはどのようなものか、お金がどのようにして生まれ、使われてきたのか、お金の価値を安定させることがなぜ大切なのか、・・・”などが分かりやすく展示されており、貨幣についての知識を楽しく学ぶことができました。
    また、日本の各年代を中心に展示されている実際に使用されていた貨幣コレクション(一部海外貨幣も含む)は、多彩で見応えがありお薦めできます。
    『貨幣博物館』に立ち寄った際は、最終入館時間の16時(閉館時間16時30分)が近づく15時過ぎだったので、機会があれば再度早めの時間に入館して展示室内をゆっくりと見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ半蔵門線・三越前駅(B1出口)より徒歩1分程度です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    入館したのが平日の15時過ぎで展示室内は、数人の方のみでした。(最終入館時間16時、閉館時間16時30分)
    展示内容:
    4.0
    古代から現在に至るまでの貨幣コレクションは多彩で見応えがあります。
    バリアフリー:
    4.5
    館内のバリアフリー施設はとても充実しています。

  • スタジオジブリ制作の映画宣伝用イラストとしてモデルにもなった歴史の古い駄菓子屋です!

    投稿日 2021年05月04日

    上川口屋 目白

    総合評価:4.0

    『上川口屋』は、豊島区雑司ヶ谷3丁目に位置する「鬼子母神堂」境内に徳川幕府第10代将軍「徳川家治」の時代である1781年(天明元年)に創業したとされる歴史の古い駄菓子屋として雑誌・テレビなどのメディアでもよく紹介されています。
    ちなみに『上川口屋』が店を構える「鬼子母神堂」の歴史は、室町時代後期の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した「鬼子母神像」を村人が安土桃山時代の1578年(天正6年)に現在の地に祀るための草堂を建立したのが始まりとされ、現在の「鬼子母神堂」本殿は、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に建立されたとされ、本殿につながる拝殿と相の間(幣殿)部分が徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に加賀藩第2代藩主(加賀前田家第3代当主)「前田利常」の三女で安芸国広島藩第2代藩主「浅野光晟」の正室となった「満姫(自昌院)」の寄進により増築されたと伝えられており、江戸時代には「雑司谷鬼子母神」として現在の台東区下谷の「入谷鬼子母神」と千葉県市川市の「中山法華経寺の鬼子母神」とあわせて「江戸三大鬼子母神」と称されて、江戸時代の庶民から武家まで多くの信仰を集めたほか徳川将軍家の御成りもあったとされています。
    また、1960年(昭和35年)に「東京都有形文化財」に指定されたほか2016年(平成28年)になると国の「重要文化財」に指定されています。
    『上川口屋』については、もともと加賀藩御用達となった飴屋が前身とされる説があり、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1834年(天保5年)と1836年(天保7年)の2回に分けて刊行された江戸府内と近郊(武蔵)の地誌として、寺社・旧跡・橋・坂などの名所が鳥瞰図を用いながら記されている「江戸名所図会」(全7巻20冊)の中で後半の1836年(天保7年)に刊行された4巻において鳥瞰図で描かれた「雑司谷鬼子母神」境内に現在の『上川口屋』と同じ位置に「あめや」と書かれた屋号「川口屋」があり、風車・麦藁細工の獅子とともに飴がこの地の名産として紹介されています。
    また、間口6メートル程度である現在の『上川口屋』の建物は建築様式などから江戸時代後期から明治期に建てられたと推測されています。
    このノスタルジックな建物は、1991年(平成3年)に劇場公開されたスタジオジブリ制作の長編アニメ「おもひでぽろぽろ」(脚本・監督:高畑 勲)の映画宣伝用イラストの中で1966年(昭和40年)当時の小学5年生の主人公が友達と駄菓子屋の前で話しをしているシーンのモデルとして描かれており、海外のメディアからも『上川口屋』が紹介されています。
    (自分は「おもひでぽろぽろ」の映画を観たことがないので定かではありませんが、駄菓子屋のシーンは映画宣伝用イラストであり映画本編の中で使用されていないようです。)
    今回は、10月と11月の2回に渡り平日の午後に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう機会があり、その途中で「鬼子母神堂」に立ち寄りました。
    「鬼子母神堂」があるエリアは、推定樹齢400年以上とされる樹木を含む「鬼子母神大門ケヤキ並木」の参道および境内に推定樹齢が600年以上とされる江戸時代に「子授けイチョウ」として親しまれていた「雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ」など多くの樹木に囲まれた静かな住宅街であり、ノスタルジックな『上川口屋』の建物や陳列されている駄菓子類などを見ると時代が遡ったような懐かしさを感じる癒しの空間となっています。
    樹木に囲まれている「鬼子母神堂」境内は、夏場の夕涼み場所としても最適だと思いますので機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた立ち寄り、夏場の暑い時期であれば『上川口屋』で冷たいラムネなどを飲んで癒されながら休憩してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅1番出入口から徒歩5分程度です。
    お買い得度:
    4.0
    昔ながらの駄菓子屋です。
    サービス:
    4.0
    ベテランのおばあちゃん店主が対応しています。
    品揃え:
    4.0
    昔懐かしいフタ付容器や木枠ケースに物干ハンガーなどを利用して数多くの駄菓子をコンパクトに陳列しています。
    バリアフリー:
    4.0

  • 湯島聖堂最古の第5代将軍・徳川綱吉の時代となる唯一の木造建造物です!

    投稿日 2021年05月03日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂 入徳門』は、中華人民共和国(中国)の春秋時代に思想家かつ儒教の創始者であった「孔子」(生誕:紀元前552年頃から死没:紀元前479年)の霊とあわせて儒教における先哲を先師・先聖として祀る文京区湯島1丁目にある「孔子廟(大成殿)」を中心に構成された『湯島聖堂』の関連施設であり、『湯島聖堂』が1922年(大正11年)に国指定の「史跡」となった翌年の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において多くの施設が被災する中で被災を免れて現存する唯一の木造建造物です。
    『湯島聖堂』の歴史については、江戸時代初期に徳川将軍家4代(家康・秀忠・家光・家綱)に仕えた朱子学派の儒学者である「林 羅山」が徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1632年(寛永9年)に「忍岡聖堂」と称する私塾でもある「孔子廟(先聖殿)」を現在の上野恩賜公園である私邸内の上野忍岡に創建していますが、儒教の教えを学問の儒学として重んじていた徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」により儒学の振興を図ることを目的として「忍岡聖堂」を新たな現在の文京区湯島1丁目となる神田湯島の地に移転させ『湯島聖堂』と称する「孔子廟(大成殿)」を中心とした施設を1690年(元禄3年)に創建したのがはじまりとされ、現在の『入徳門』は徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」末期の時代である1704年(宝永元年)に建造されたものとなります。
    その後に度重なる火災などに見舞われ荒廃していた『湯島聖堂』を徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)に林家の私塾としての学問所から徳川幕府直轄教学機関の「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大しての大規模な改築が行われ「孔子廟(大成殿)」は創建時のおよそ2.5倍に拡張した規模の建物になっています。
    ちなみに『湯島聖堂』の地が昌平坂と呼ばれる由来は、「孔子」の生誕地である中国東部の黄海に面する当時の魯国・昌平郷(現在の山東省曲阜市)の地名からつけられたものです。
    明治維新を迎えると明治政府に引き継がれ官立の「昌平学校」となりますが、1871年(明治4年)に閉鎖となり儒学の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
    また、1923年(大正12年)の「関東大震災」で『入徳門』と「水屋」以外の被災し焼失した現在の建物は、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造による建造物として再建されています。
    今回は、平日の午後にお茶の水エリアを訪れた際に少し時間があったので久しぶりに日本の寺院とは異なり独特な異国を感じさせる『湯島聖堂』に立ち寄りました。
    高低差のある『湯島聖堂』の敷地内は、正門となる「仰高門」から石段を上がりながら『入徳門』を通り、さらに石段を上がった最上部の「杏壇門」をくぐると正面に「孔子廟(大成殿)」とその両側を「回廊」で囲まれた神聖な雰囲気が漂ってくる石畳の「前庭(広場)」空間が広がります。
    過去にも数回に渡り『湯島聖堂』に立ち寄ったことがありますが、毎回とても静寂で独特な雰囲気が漂ってくる敷地内の石段を上がって『入徳門』を通り「孔子廟(大成殿)」のある石畳の「前庭(広場)」空間に立つと時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分になります。
    また、土曜・日曜・祝日などの限られた日のみ「孔子廟(大成殿)」内部が公開され、「孔子像」と「孔子」の高弟とされる四賢像の「孟子像」、「顔子像」、「曾子像」、「子思像」などが拝覧できますので土曜・日曜・祝日に立ち寄ることをお勧めします。
    機会があれは、土曜・日曜・祝日および「孔子祭」(4月第4日曜)などの行事が開催される日にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    湯島聖堂最古の5代将軍・徳川綱吉の時代となる唯一の木造建造物です。

  • 紅葉シーズンは池を囲むモミジの赤色とイチョウの黄色に空の青色のコンストラストが奇麗です!

    投稿日 2021年05月02日

    日比谷公園 雲形池 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:4.0

    『日比谷公園 雲形池(くもがたいけ)』は、「皇居外苑」南側に位置する「東京都公園協会」が管理する都立公園である『日比谷公園』(敷地面積:161,636.66平方メートル)敷地内の西側出入口となる「霞門」付近に公園が開園した当初から整備されているドイツ式庭園の要素を取り入れた池です。
    ちなみに『日比谷公園』一帯は、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がる地域であり、「徳川家康」が江戸に入府後の1592年(天正20年)から「江戸城・西の丸」の拡張工事などに伴い「日比谷入江」の埋め立てが始り、「徳川幕府」が誕生した1603年(慶長8年)以降から外濠や運河の開削など江戸府内の大改造に伴い本格化した埋め立て事業によって「日比谷入江」は完全に姿を消し、各大名の上屋敷地となっていました。
    明治維新後の1871年(明治4年)になると「大日本帝国陸軍・操練所(近衛師団練兵場)」が設置されますが、1888年(明治21年)に「練兵場」が現在の「明治神宮外苑」に移転したことに伴い1893年(明治26年)に跡地が陸軍から当時の「東京市」に払下げとなり、大規模建築に適さない軟弱な埋め立て地であったことから1903年(明治36年)にドイツ式庭園の要素を取り入れて整備をしながら「江戸城・外郭城門」のひとつであった「日比谷御門(通称:日比谷見附)」の石垣の一部を残すとともに石垣西側の「江戸城」中濠の面影を偲び和風の「心字池(しんじいけ)」として整備するなど日本庭園の手法も取り入れた日本国内初となる「洋風近代式公園」(洋風7割・和風3割)として開園しています。
    100年以上の歴史ある『日比谷公園』は、開園当初から庶民に親しまれる”東京のシンボル的公園”であり、1989年(平成元年)に公園に対する愛護の精神を高め整備を推進するために「日本公園緑地協会」などが選定した「日本の都市公園100選」に選ばれているほか、2006年(平成18年)に「都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会」により「日本の歴史公園100選」にも選定され、2007年(平成19年)になると景観法による「景観重要公共施設(景観重要都市公園)」に指定されています。
    『雲形池』の中央部分には、鶴が翼を広げて天を仰ぎくちばしから水を噴く姿が特徴的な「鶴の噴水」が設置されており、詳細な制作・設置年が定かではありませんが公園内の案内板によると1905年(明治38年)ごろに日本を代表する鋳金・鋳造の工芸家・彫金家であった東京美術学校(現在の東京芸術大学)の「津田信夫」氏と「岡崎雪声」氏の共同制作によるブロンズ製の装飾用噴水とされており、日本における装飾用噴水の設置された歴史としては「鶴の噴水」が3番目に古い制作と言われています。
    今回は、平日の午後に日比谷エリアを訪れた際に東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」から『日比谷公園』に立ち寄り、短時間でしたが公園内を散策して『雲形池』などを写真撮影してみました。
    『日比谷公園』に立ち寄った際は、天候も良く『雲形池』周囲のモミジとイチョウの紅葉した赤色と黄色に空の青色の調和のとれたコンストラストが水面にも映りとても奇麗で癒されました。
    紅葉シーズンの『雲形池』周辺は、写真撮影スポットとしてお薦めできます。
    機会があれば、『雲形池』のほかに公園内各所の四季折々の草花や樹木とともに敷地内に点在しているさまざまな遺構・記念碑などをゆっくりと時間をかけて見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ・霞ヶ関駅から日比谷公園・霞門を利用すると最短です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、園内ベンチで休憩したり散策する人がまばらでにいる程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    公園内の遊歩道は舗装されています。
    見ごたえ:
    4.0
    紅葉シーズンは池を囲むモミジの赤色とイチョウの黄色に空の青色のコンストラストが奇麗です。

  • 四季折々の景観とあわせて江戸城址の建築遺構など写真撮影ポイントが多彩な都心のオアシスです!

    投稿日 2021年04月29日

    北の丸公園 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『北の丸公園』は、「皇居」南東側に位置する「皇居前広場」を中心に旧皇室苑地の一部であった「皇居外苑地区」が1949年(昭和24年)に開園した「皇居外苑」に属する現在の環境省が管理する「国民公園」(皇居外苑・新宿御苑・京都御苑)として、明治時代に「皇居」警護のために配置されたのがはじまりとされる旧近衛連隊の跡地となる「皇居」北側に位置する「北の丸地区」に「昭和天皇」の還暦を記念して1969年(昭和44年)に開園した敷地面積193,297平方メートルの森林公園です。
    公園の名称および町名でもある『北の丸公園』の由来は、室町幕府・第8代将軍「足利義政」の時代となる1457年(長禄元年)に「太田道灌」によって築城されたとされる「本丸」と「二の丸」で構成されていた小規模な「江戸城」を「徳川家康」が江戸に入府してから「三の丸」・「西の丸」・「吹上」・「北の丸」などを全国の諸大名によって増築・拡張工事が実施され大城郭に整備された「江戸城」の「本丸」と「吹上」に隣接する「北の丸」の地であり、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる江戸時代初期には、徳川将軍家・近親者となる「徳川忠長」(第2代将軍・徳川秀忠の三男)、「徳川綱重」(第3代将軍・徳川家光の三男)、「天樹院(千姫)」(第2代将軍・徳川秀忠の長女)、「春日局」(第3代将軍・徳川家光の乳母)など将軍に対する忠誠度の高い者の屋敷地となっています。
    その後の徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代となる江戸時代中期には、徳川将軍家より分立し徳川将軍家に後嗣がいない場合に将軍の後継者を提供する役割を担った大名家の「徳川御三卿」(田安家・清水家・一橋家)となる「田安家」と「清水家」の屋敷地となり、明治維新後に明治政府により近衛師団の兵営地が設置されていました。
    現在の『北の丸公園』内には、公園として整備される以前からある緑葉樹林に野鳥が好む実のなる樹木のほか花木など種類豊富な落葉樹林や芝生広場とあわせて池や小川が整備されおり四季折々の里山の景観を満喫することができる都心のオアシスです。
    また、『北の丸公園』北側出入口に通行可能な旧・「江戸城」最古の建築遺構であり1636年(寛永13年)に再建された城門とされる「田安門」、公園東側出入口となる1658年(万治元年)に再建された城門「清水門」から旧・「江戸城」敷地内の高低差部分を江戸時代に整備された階段状の坂道となる旧・「江戸城」に現存する唯一の「雁木坂」が残されています。
    ちなみに「田安門」および「清水門」は、旧・「江戸城」の建築遺構として1961年(昭和36年)に国の「重要文化財(建造物)」に指定されています。
    そのほか1964年(昭和39年)に「東京オリンピック・柔道競技会場」として竣工した「日本武道館」、同じく1964年(昭和39年)に開館した現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く国民に対して普及・啓発する目的で開館した博物館(科学館)である「科学技術館」、日本で最初の国立美術館として1952年(昭和27年)中央区京橋に開館したのち1969年(昭和44年)に現在地に移転した日本の20世紀初頭から現代まで多様なジャンルの近現代美術作品を随時コレクションする「東京国立近代美術館」などの文化施設が配置されています。
    今回は、都営地下鉄・新宿線「九段下駅」から九段エリアを訪れ久しぶりに「田安門」から『北の丸公園』に立ち寄り「科学技術館」までのエリアを短時間でしたが散策しモクレンなどの樹木に癒されました。
    『北の丸公園』は、種類豊富な樹木・水辺のある芝生広場など四季折々の里山の景観散策、「江戸城址」建築遺構の歴史探訪のほか文化施設の利用など多彩な楽しみ方ができるお薦めにエリアです。
    機会があれば、「江戸城址」建築遺構とあわせて四季折々の景観など写真撮影ポイント多数あるのでゆっくりと時間をかけて公園内を散策したいと思います・・・

    旅行時期
    2021年03月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅または竹橋が最寄り駅です。敷地内に駐車場が完備されています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の朝と昼頃に田安門から出入りしましたが、公園内ですれ違う人は数名いました。
    バリアフリー:
    3.5
    遊歩道は、舗装されているところが多く歩きやすいです。
    見ごたえ:
    4.0
    江戸城址の建築遺構として現存する最古の田安門のほか里山の樹木など写真撮影ポイントが多彩です。

  • 地名発祥由来を後世に伝える目的で開園した小さな広場です!

    投稿日 2021年04月24日

    元池袋史跡公園 池袋

    総合評価:3.5

    『元池袋史跡公園』は、「池袋」という地名の由来とされる現在の豊島区西池袋1丁目に袋型の通称「丸池」と呼ばれる池が存在していた「旧・元池袋公園」(現在:高級賃貸タワーマンション敷地内)が下水道工事に伴い涸れ池の状態で残されていた「丸池」が完全に埋め立てられたことを偲び、1998年(平成10年)に敷地東側に隣接する現在の地に地名発祥由来を後世に伝える目的で開園した新たな豊島区立の小さな遺跡公園(敷地面積:167.98平方メートル)です。
    ちなみに「池袋」の地名は、室町幕府・第13代将軍「足利義輝」の時代である1559年(永禄2年)に相模国の戦国大名「北条氏康」が作らせたとされる古文書の分限帳(家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面)である「小田原衆所領役帳」の中に”太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋”の記載があり、「池袋」周辺一帯が「太田道灌」の子孫である「太田新六郎(康資)」の所領であったことが確認されています。
    かつての武蔵国豊嶋郡池袋村の一帯は、多数の池や川が存在する低湿地の湧き水が豊富な地域であり「丸池」から湧き出た水が当時の「雑司ヶ谷村」の農業用水として利用されるなど「弦巻川」として「雑司ヶ谷」から「護国寺」方面を流れ「江戸川橋」の西側で「神田川」に合流していましたが、1932年(昭和7年)になると暗渠化工事により「弦巻川」は消滅し、都市化が進む中で「丸池」の水も涸れはてて涸れ池となっていました。
    『元池袋史跡公園』へのアクセスは、「池袋駅」各路線を東西方向に結ぶ3つある地下連絡通路(北通路・中央通路・南通路)の中で「南通路」西口方面にある「ルミネ池袋(メトロポリタンプラザ)」部分のガラス屋根の吹き抜け空間となっている「プリズムガーデン」のエスカレーターを昇り地上に出て正面にある「メトロポリタン通り」を左手方向(南側)に100メートル程度先の信号機のある交差点の一画となる「ホテル メトロポリタン」の向かいにある広場です。
    『元池袋史跡公園』敷地内は、隣地境界取り合い部分の花壇の中に「池袋地名ゆかりの池」の石碑とベンチ、広場中央に池をイメージした舗装とともに夜間にライトアップされるフクロウが宿る雑木林をイメージしたステンレス柱のモニュメントがあるだけのシンプルな広場です。
    「ホテル メトロポリタン」を利用する際などに『元池袋史跡公園』の前をよく通ったりしているので夜間にライトアップされる広場の存在を以前から知っていましたが、今回はじめて足を止めて広場内を見て廻り「池袋地名ゆかりの池」の石碑が存在することを知り「池袋」の地名に関する歴史を学ぶことができました。
    機会があれば、夜間ライトアップされたモニュメントの写真撮影をしてみようと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    ホテル メトロポリタンの向かいにあります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    敷地内に立ち止まる人は殆どいません。
    バリアフリー:
    4.0
    敷地内に段差はありません。
    見ごたえ:
    3.0
    ”池袋地名ゆかりの池”の石碑があります。

  • 関東三大天神として受験生が合格祈願に訪れる都内有数の神社です!

    投稿日 2021年04月17日

    湯島天満宮 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島天満宮』の創建は、社伝によると「第21代・雄略天皇」の勅命により458年(雄略天皇2年)に海や湿地に囲まれた台地であり島のように見える温泉の湯煙が立っていたとされる「湯島」(現在の文京区湯島3丁目)の頂に力の神・技芸の神と崇められる「天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)」を御祭神として祀ったのが始まりとされる歴史の古い神社(旧称:湯島神社)です。
    南北朝時代である1355年(北朝:正平10年、南朝:文和4年)になると村人からの請願により平安時代前期の845年(承和12年)から903年(延喜3年)までの生涯を廷臣、学者、文人として「第60代・醍醐天皇」の時代に右大臣を務めた「菅原道真」を文道の大祖と崇め勧請し御祭神として奉祀されています。
    その後に衰退していましたが、戦国時代初期の室町幕府・第9代将軍「足利義尚」の時代である1478年(文明10年)に江戸城を築城したことで知れわたる関東を代表する武将「太田道灌」により再興され、1487年(文明19年)に天台宗の学僧であり歌人の「堯恵法師」が諸国をめぐりまとめた紀行文「北国紀行」で豊島郡湯島郷とともに当時の風致が称えられています。
    また、「徳川家康」が江戸に入府した翌年の1591年(天正19年)に徳川家の領地となった関東250万石の知行割により豊島郡湯島郷の5石が朱印地として『湯島神社(通称:湯島天神)』に寄進され、江戸時代の「林 羅山」、「松永尺五」、「堀 杏庵」、「新井白石」など学者・文人の参拝者も多くなる中で、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1812年(文化9年)になると現在の「宝くじ」に相当する「富くじ(富突き)」の興行が『湯島神社(旧称)』境内で徳川幕府に公認されるようになり、江戸庶民からも通称の『湯島天神』として親しまれる神社になっています。
    ちなみに江戸府内で「富くじ」の興行が行われていた場所は、『湯島天神(通称)』のほかに「瀧泉寺(通称:目黒不動尊)」(現在の目黒区下目黒)と「感應寺(現在:天王寺)」(現在の台東区谷中)の3箇所であり「江戸の三富」と呼ばれています。
    そのほか現在の『湯島天満宮』は、「亀戸天神社」(江東区亀戸)と「保谷天神」(国立市保谷)ともに「関東三大天神」に数えられ、学問の神様として受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れる都内有数の神社です。
    今回は、平日の午後に「御茶ノ水」周辺を訪れた際に久しぶりに『湯島天満宮』まで足を延ばして南側の表鳥居から境内に入り本殿参拝に立ち寄りました。
    『湯島天満宮』境内の見どころは、毎年テレビなどで報道されるおよそ300本(樹齢:70年から80年程度)にもおよぶ梅園のある「梅の名所」としても有名で受験シーズンと重なる2月ごろには「梅まつり」が開催され多くの参拝者で賑わうイメージですが、時期がずれていたのと天候も不安定であったため閑散としていました。
    権現造りの本殿建物は、老朽化のため1995年(平成7年)に建て替えられた新しい建物となっており、境内の建造物としては南側に位置する表鳥居が最も古く徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1667~8年(寛文7~8年)に寄進されたとされる鋳銅製の鳥居(総高4.95メートル、総幅6.81メートル、柱根元径0.39メートル)で1970年(昭和45年)に東京都の「有形文化財」に指定されています。
    参拝に立ち寄った際に表鳥居をバックにウエディング用の記念写真撮影をするカップルがおり、表鳥居の写真撮影や細部を見て廻れませんでした・・・
    機会があれば、表鳥居をゆっくりと見て廻ったり「梅まつり」の時期にあわせて立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    最寄り駅は、東京メトロ千代田線・湯島駅です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    受験シーズン外の平日は、閑散としていました。
    バリアフリー:
    3.0
    湯島駅方面の境内東側は、敷地に高低差(階段)があります。
    見ごたえ:
    4.0
    梅園と境内南側の表鳥居(東京都指定有形文化財)がお勧めです。

  • 煉瓦主体の建物物として国内最大規模となる南北総延長335メートルの巨大駅舎です!

    投稿日 2021年04月12日

    東京駅 赤レンガ駅舎 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『東京駅 赤レンガ駅舎』建設までの経緯は、日本初の鉄道となる「新橋駅」を起点に「横浜駅(現・桜木町駅)」までの区間を1872年(明治5年)に「官設鉄道」(国鉄)が開業してから、1883年(明治16年)に日本初の私鉄「日本鉄道」が「上野駅」を起点に「熊谷駅」までの区間を開業するなど日本国内に鉄道網が整備されていく中で、東京市区改正計画の一環として1889年(明治22年)に官民それぞれの起点駅となる「新橋駅」と「上野駅」を結ぶ新たな高架鉄道建設計画が定められ、その翌年に途中駅として「中央停車場(現・東京駅)」を設置する訓令が発せられ、「日清戦争」終結後の1896年(明治29年)に「中央停車場(現・東京駅)」の建設費が国会(帝国会議)で可決されたことが始まりとなります。
    その後の1904年(明治37年)から1905年(明治38年)に勃発した「日露戦争」に勝利したことも加わり”日本にふさわしい、世界があっと驚くような駅を”という要望の中で日本建築界の近代建築の巨匠と称される建築家「辰野金吾」の設計により1908年(明治41年)から「中央停車場」として駅舎建設が着工後、1914年(大正3年)に『東京駅 赤レンガ駅舎』として開業しています。
    皇居に向かって西側を正面とする『東京駅 赤レンガ駅舎』開業当時の建物概要は、鉄骨煉瓦造・スレート葺(地上3階・一部地下1階建て)となる南北方向の総延長およそ335メートルにもおよぶ長大な建築物(建築面積7,821.39平方メートル)であり煉瓦を主体とする建築物としては国内最大規模となります。
    その他に建物基礎部分には、約11,000本にもおよぶ松丸太杭(長さ5.5メートルから7.3メートル程度)を55センチメートルから66センチメートル間隔で蒸気杭打ち機械を用いて地中に打ち込み、その松丸太杭上部に2層のコンクリート基礎(延べ厚さ1.32メートル)さらに2層の花崗岩(延べ厚さ68センチメートル)を重ねた上に鉄骨柱を建てるなど建物各所に使用した鉄骨部材の総重量が約3,135トンとなる堅牢な建築物となっており、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」においても特に被害を受けることはありませんでした。
    しかし、「太平洋戦争」末期となる1945年(昭和20年)5月25日の空襲による火災が原因で、コンクリート造の床とレンガ造の壁部分が残ったものの鉄骨造の屋根と3階部分さらに内装部分の大半が焼失し、終戦直後から「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」の要求など制限のある中で本格的に復旧計画が進められその年の年末から1947年(昭和22年)に復旧工事が実施され、開業当時と異なる意匠の2階建ての駅舎となったほか南北両側にあった丸形ドーム屋根も八角台形に変更されていますが、2003年(平成15年)になると意匠的・歴史的価値が高いと評価され国の「重要文化財」に指定されています。
    その後の2007年(平成19年)から2012年(平成24年)にかけて大規模な復元工事により、開業当時の3階建ての建築物として南北両側の丸形ドーム屋根が復元されるとともに駅舎の免振化工事が実施されています。
    今まで東京駅を利用しても足を止めてじっくりと『東京駅 赤レンガ駅舎』を見て廻ることがありませんでしたが、今回は大手町周辺を訪れた際に少し時間があったので皇居に通じる「行幸通り」や「東京駅丸の内駅前広場」に立ち寄り、復元工事完了後の『東京駅 赤レンガ駅舎』外観を見て廻り、改めて南北方向の総延長およそ335メートルの巨大駅舎に圧倒されました。
    また、立ち寄ったのが平日の午後でしたが『東京駅 赤レンガ駅舎』周辺は観光と思われる方の写真撮影やウエディング用の記念写真撮影する方などを見かけ、開業当時から日本の首都東京を代表する建築物であることを実感しました。
    今回は駅舎の内観まで見て廻れませんでしたが、駅舎内部はいつも人通りが多いので邪魔にならない程度で機会があれば駅舎の内観もゆっくりと見て廻りたいと思います。
    その他に『東京駅 赤レンガ駅舎』内にある「東京ステーションホテル」も利用してみたいです・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京駅の丸の内側(皇居側)の駅舎です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    常に人の出入りがあります。
    バリアフリー:
    4.0
    駅前広場に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    南北総延長335メートルの巨大駅舎です。

  • 誰でも気軽に立ち寄ることができる”やすらぎの空間”です!

    投稿日 2021年04月10日

    玉川上水 内藤新宿分水散歩道 新宿

    総合評価:4.0

    『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』は、「新宿御苑」北側エリアの東側「大木戸門」から西側「旧新宿門」まで総延長およそ540メートルとなる区間を3工区に分割して、2009年度(平成21年度)に「大銀杏区間」(およそ240メートル)の整備を開始してから2010年度(平成22年度)に「大木戸区間」(およそ120メートル)さらに2011年度(平成23年度)に「旧新宿門区間」(およそ180メートル)までを3年間にわたり整備して、江戸時代にこの地を流れていた「玉川上水」の面影を次世代に継承することをコンセプトに再現した散策路です。
    「玉川上水」は、江戸時代に大都市化する江戸府内の生活用水を確保するために多摩川上流の羽村(現在の羽村市)を「取水堰」として徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1653年(承応2年)に開削された水路であり、「四谷大木戸」(現在の四谷4丁目交差点付近)までの全長およそ42.7キロメートル(高低差およそ92.3メートル)区間の地上部分を開渠とした水路で生活用水となる上水を流し、「四谷大木戸」以降の区間は地中部分に樋(木樋、石樋)を用いた暗渠として当時の江戸府内に上水が供給されています。
    「内藤新宿」については、「徳川家康」が江戸に入府した翌年となる1591年(天正19年)に徳川家の家臣で「徳川秀忠」(後の第2代将軍)の守役を務めた「内藤清成」の長年にわたる功績が認められ、現在の「四谷」から「代々木」までの東西区間と「千駄ヶ谷」から「大久保」までの南北区間におよぶ広大な敷地を「徳川家康」から賜り、その地名が「内藤町」と呼ばれるようになったことが始まりとされています。
    その後の1604年(慶長9年)に「日本橋」を起点として定められ「五街道」のひとつに数えられるようになった「甲州街道」最初の宿場「高井戸宿」までの距離が「日本橋」から約4里であり、その他の「五街道」最初の宿場と比較するとその距離が約2倍と長かったため、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1698年(元禄11年)に「日本橋」と「高井戸宿」の中間地点であり「甲州街道」から分岐する「成木街道(青梅街道)」の起点となる「新宿追分」付近の内藤家が賜わっていた広大な下屋敷の一部を徳川幕府に返還することにより、町屋や馬継ぎの施設を設けた新たな「甲州街道」最初の宿(新宿)が設置され「内藤新宿」と呼ばれるようになっています。
    ちなみに現在の「新宿御苑」は、1691年(元禄4年)より幕末まで高遠藩(現在の長野県伊那市)の藩主を勤めた内藤家の「四谷荘」と呼ばれていた下屋敷跡であり、「新宿御苑」の『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』に再現された「玉川上水」は、散策路の地下部分を通る「甲州街道(国道20号)・新宿御苑トンネル」内の共同溝に湧出していた地下水を水源として活用するための約100トンの水を貯留できる地下水槽を設けてポンプアップ方式により地上部分の水路に循環させて流し、水路周辺を武蔵野の雑木林等に生育する草木類を主体に四季の変化が楽しめる多様な植栽が配置されており、2010年(平成22年)に「第26回 都市公園コンクール」(材料・工法・施設部門:大規模施設)において「国土交通大臣賞」を受賞しています。
    今回は、「新宿御苑」周辺を訪れた際に『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』に立ち寄りました。
    『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』は、「新宿御苑」内の和洋式によるさまざまな庭園が整備されている有料エリアと異なり、誰でも気軽に立ち寄ることができる無料エリアとなっており、大銀杏などの樹木とあわせて水路周辺の草木類など多様な植栽で囲まれていて雑木林の中にいるような都会の中であることを感じさせない”やすらぎの空間”に癒されました。
    機会があれば、「新宿御苑」エリアを訪れた際にまた立ち寄りと感じるお薦めの散歩道です。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ・新宿御苑前駅の1番出入口から徒歩1分程度(約60メートル)です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、数名の方を見かけるていどでした。
    バリアフリー:
    4.0
    散歩道に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    江戸時代の玉川上水をイメージして再現された水路周辺に草木類など多様な植栽で囲まれていている”やすらぎの空間”です。

  • 静かな住宅地の中の歴史ある寺院です!

    投稿日 2021年03月29日

    法明寺 池袋

    総合評価:4.0

    『法明寺』は、現在の豊島区南池袋3丁目に位置する山号を「威光山」と号する日蓮宗の寺院であり、もともとは真言宗の「威光寺」として平安時代初期となる第52代「嵯峨天皇」の時代にあたる810年(弘仁元年)に開創しています。
    開創したのちの鎌倉時代後期である1312年(正和元年)になると、日蓮宗の宗祖である「日蓮聖人」の直弟子として中老僧のひとりに数えられる「日源上人」により日蓮宗に改宗された歴史ある寺院です。
    ちなみに「日源上人」は、天台宗の「岩本實相寺」(駿河国)で学問をする僧たちの監督など学事に関することを統括する「学頭職」とされる学業の高い知徳の広い「智海法印」と称する名僧であり、「日蓮聖人」に帰依して「日源」の名を賜ったのちに中老僧のひとりとして『法明寺』改宗のほか各地を行脚して日蓮宗の布教活動を行っています。
    『法明寺』本堂のある境内の建物は、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」および1945年(昭和20年)の「太平洋戦争」による被災を受けてすべて焼失しており、現在の『法明寺』本堂をはじめとした境内にある建物は、本堂が1959年(昭和34年)に再建、書院が1963年(昭和38年)に再建、山門ならびに鐘楼堂が1968年(昭和43年)に再建されたものです。
    また、『法明寺』山門から約200メートルほど離れた現在の豊島区雑司ヶ谷3丁目にある「鬼子母神堂(きしもじんどう)」は『法明寺』の飛地境内であり、室町時代後期(戦国時代)の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土したとされる「鬼子母神像」を祀る草堂が安土桃山時代である1578年(天正6年)に村人により建立されたと伝えられています。
    現存する「鬼子母神堂」本殿部分は、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に建立されたものであり、本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)部分は徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に増築された江戸時代の建造物であり、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され2016年(平成28年)に国の「重要文化財」に指定されています。
    今回は、東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう機会があり途中で『法明寺』飛地境内となる「鬼子母神堂」と『法明寺』山門から本堂と鐘楼堂に立ち寄ることにしました。
    「雑司ヶ谷駅」1番出入口から「鬼子母神大門」を通り徒歩5分程度(およそ350メートル)の場所に位置する「鬼子母神堂」とさら徒歩3分程度(およそ200メートル)の場所に位置する『法明寺』の周辺は、JR山手線の内側に位置する「池袋駅」からも徒歩圏内のエリアですが、1956年(昭和31年)に東京都の「天然記念物」に指定されたほか2018年(平成29年)に豊島区の「景観重要樹木」第1号にも指定されている推定樹齢が600年以上とされる「雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ」が「鬼子母神堂」境内に存在するほか、1940年(昭和15年)に当時の東京府により「天然記念物」に指定された推定樹齢400年以上とされる東京都所有の「ケヤキ」とあわせて豊島区所有の「ケヤキ」の若木で構成されているおよそ100メートルにおよぶ「鬼子母神大門のケヤキ並木」、『法明寺』本堂のある境内も昭和の時代に再建された建物ですがサクラの木をはじめ建物と整備された植栽が調和のとれた空間となっており、多くの樹木に囲まれた都会のイメージとは程遠い静かな住宅地が広がる癒しのエリアとしてお勧めできるスポットです。
    機会があれば、サクラの咲く春先の季節に『法明寺』本堂のある境内とあわせて飛地境内となる「鬼子母神堂」のエリアを散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅の1番出入口から徒歩8分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後に立ち寄りましたが本殿のある境内に人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    山門部分に段差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    本堂などの建物は、昭和の時代に再建されたものですが、整備された植栽と調和のとれた空間となっています。

  • 世界最大の孔子銅像です!

    投稿日 2021年03月23日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:3.5

    『湯島聖堂 孔子銅像』は、1975年(昭和50年)に「中華民国台北ライオンズクラブ」から寄贈されたもので、文京区湯島1丁目に位置する『湯島聖堂』敷地内に設置されている世界最大の『孔子銅像』(丈高4.57メートル、重量約1.5トン)です。
    「儒教」の創始者である『孔子』については、世界の偉大な思想家としてインドの「釈迦」・ユダヤの「イエス・キリスト」・古代ギリシアの「ソクラテス」とともに「四聖人」に数えられている人物であり、近隣諸国間での争いが盛んであった春秋時代末期となる紀元前552年(紀元前551年説もあり)に現在の「中華人民共和国(中国)」東部の黄海に面する「山東省」(当時の魯国・昌平郷)で生まれ、紀元前479年に逝去するまでの74年間にわたる生涯を全うしています。
    ちなみに『孔子』が生存していた当時の日本国内は、縄文時代晩期から弥生時代早期となる「第2代・綏靖(すいぜい)天皇」から「第4代・懿徳(いとく)天皇」の時代となります。
    思想家の『孔子』が自身の弟子たちと交わした問答については、『孔子』の死後およそ400年の歳月をかけて「論語」として編纂されており、その思想は戦国中期の「孟子」のほか戦国末期の「荀子」などにより継承され、2000年以上にわたり正統な思想として各地に浸透しています。
    その『孔子』が唱えた「儒教」には、「五常」の徳目「仁・義・礼・智・信」を守ることで「五倫」とされる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するなど武力による支配を批判し、上下の秩序を守り徳によって政治をおこなうといった思想があり、定かではありませんが日本国内には「仏教」よりも早く「第26代・継体(けいたい)天皇」の時代となる513年に伝来したとされ、その後に伝来した「仏教」の信仰とともに僧侶のたしなみとして「儒教」の思想が日本国内に浸透していきますが、江戸時代になると学問としての「儒学」として捉えられるようになり、1690年(元禄3年)に「儒学」の振興を図ることを目的とした徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」により、「湯島聖堂」が現在の地に創建されています。
    徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると私塾の学問所であった「湯島聖堂」が徳川幕府直轄教学機関となる「昌平坂学問所(通称:昌平校)」となり、幕末後の1871年(明治4年)に「儒学」の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
    さらに1922年(大正11年)になると「湯島聖堂」が国の「史跡」に指定されますが、翌年に発生した「関東大震災」により1799年(寛政11年)に改築された「湯島聖堂」敷地内に建つ各所施設の大部分が焼失し、現在の敷地内に建つ建物のほとんどが1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、お茶の水周辺を訪れた際に久しぶりに「湯島聖堂」に立ち寄りましたが、敷地内には世界最大の『孔子銅像』のそばに『孔子』の墓所(中国山東省・曲阜)に今も植えつがれている楷(かい)の木の子孫とされる大木があるほかに「湯島聖堂」のメインの建物となる「大成殿(孔子廟)」など『孔子』にまつわる見どころが多数あります。
    「湯島聖堂」敷地内は、日本の神社・仏閣と異なる独特で神聖な異国の雰囲気が感じられる空間が広がりお薦めの観光スポットです。
    なお「大成殿(孔子廟)」の内部には、『孔子像』をはじめに『孔子』の高弟とされる四賢像の「孟子像」、「顔子像」、「曾子像」、「子思像」などが祀られており、平日を除く土曜・日曜・祝日のみ「大成殿(孔子廟)」内部が公開されて拝覧可能となりますので土曜・日曜・祝日に立ち寄ることをお勧めします。(入場無料です)
    今回は平日に立ち寄ったので「大成殿(孔子廟)」内部に入ることができませんでした。
    機会があれは、土曜・日曜・祝日および「孔子祭」(4月第4日曜)などの行事が開催される日にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐの湯島聖堂敷地内にあります。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    敷地内は高低差があり石段があります。

  • 現存する旧・江戸城最古となる建築遺構の城門です!

    投稿日 2021年03月21日

    北の丸公園 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『田安門』は、江戸時代初期である徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代に完成したとされる「江戸城」を囲むように整備された外濠および内濠の要所に設置された城門のひとつであり、その中でも「江戸城」と全国各地を結ぶ主要街道に通じる要衝の城門として「江戸五口」に数えられます。
    ちなみに「江戸五口」に数えられている城門は、上州道に通じる『田安門』のほかに外郭の正門であった奥州道に通じる「常盤橋門」、将軍が菩提寺である「上野寛永寺」や「日光東照宮」に参詣する際に使用した「神田橋門(芝崎口)」、甲州道に通じる「半蔵門」、小田原道(東海道)に通じる「外桜田門」とされています。
    この『田安門』は、「江戸城・北の丸」の北側(外側)に面する「高麗門」の内側に石垣で周囲を囲むよう桝形に積み上げた四角形の空間を配置した西側に「高麗門」と直交する「渡櫓門」が設けられている防御性の高い「枡形門」と呼ばれる二重城門で構成されています。
    『田安門』の創建は定かではありませんが、徳川幕府第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1607年(慶長12年)に焼失した記録が残されいるほか、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である1629年(寛永6年)に越前福井藩主「松平忠昌」によって修覆された記録があり、「高麗門」の扉にある肘壷金具に刻銘されている年代から同じく徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である1636年(寛永13年)に再建された建造物とされており、現存する旧・「江戸城」の建築遺構の中では徳川幕府第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」に数えられる「明暦の大火(振袖火事)」以前に遡ることのできる唯一の文化遺産であり、1961年(昭和36年)に国の「重要文化財(建造物)」に指定されています。
    『田安門』を含む旧・「江戸城・北の丸」エリアは、「日本武道館」・「科学技術館」・「国立近代美術館」などの文化施設を備えた敷地内を1969年(昭和44年)に昭和天皇の還暦を記念して里山の木々などを整備した森林公園となる「北の丸公園」として一般に公開され、『田安門』が「北の丸公園」の「靖国通り(都道302号)」からの北側出入口となっており、通行可能な旧・「江戸城」最古の現存する建築遺構として重厚な城門をいつでも間近で見ることができます。
    『田安門』へのアクセスは、東京メトロ・東西線および半蔵門線、都営地下鉄・新宿線「九段下駅」2番出入口から徒歩3分程度(約200メートル)となります。
    今回は、九段エリアを訪れた際に久しぶりに『田安門』から「北の丸公園」に立ち寄り、短時間でしたが「北の丸公園」内のモクレンなどの花木を見て廻り癒されました。
    地下鉄「九段下駅」から『田安門』に向かう「靖国通り」(九段坂)沿いの「牛ヶ淵」から『田安門』の先に続く「千鳥ヶ淵」の外濠は、ソメイヨシノの花見の名所でもあり、サクラの咲く季節は花見とあわせてな旧・「江戸城」の歴史探訪にお薦めできます。
    機会があれば、『田安門』とあわせて同じく「北の丸公園」にあるる旧・「江戸城」城門で国の「重要文化財(建造物)」に指定されている「清水門」にも足を運んでみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年03月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅の2番出入口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    常に人の通りがありますが、日本武道館でイベントが開催されるとき以外に込み合うことはありません。
    バリアフリー:
    4.0
    段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    現存する旧・江戸城最古となる建築遺構の城門で間近で手に触れてみることができる国指定の重要文化財です。

  • 国内初の日本人建築家の設計による本格的西洋風石造建築物です!

    投稿日 2021年03月15日

    日本銀行 日本橋

    総合評価:4.0

    『日本銀行』は、1882年(明治15年)に制定された「日本銀行条例」に基づき設立した中央銀行であり、日本で唯一の流通貨幣を発行する発券銀行として現在の中央区日本橋箱崎町に位置する「日本橋川」の終点で「隅田川」に合流する場所に架かる「豊海橋」の袂にあった「旧北海道開拓使物産売捌所」を明治政府から借用しての仮店舗として開業しています。
    その後の1896年(明治29年)に当時の「大蔵省(現:財務省)」および「大蔵省紙幣寮(現:国立印刷局)」のほか金融機関が集中していた利便性のよい現在の中央区日本橋本石町に移転し、本店として現在では「旧館(本館・2号館・3号館)」、「新館」、「分館」の各建物で構成されています。
    『日本銀行』本店において最も古い建築物となる「旧館(本館)」(地上3階・地下1階)は、現在の地に移転した当時の建築物であるとともに国内初の日本人建築家の設計による本格的西洋風石造建築となる国家的な建築プロジェクトとして竣工した日本建築史の中でとても重要な建築物です。
    この「旧館(本館)」設計者は、明治期の近代建築の巨匠とされる建築家「辰野金吾」によるもので、建設当時としては最先端の設備となる水洗トイレ、エレベーター(国内での設置は「浅草凌雲閣」に次ぐ2例目)のほかにスチール製サッシ・シャッターなど外国製品が多数採用されています。
    また、設計当初に総石造建築として工事着工してから約1年が経過した1891年(明治24年)に岐阜県で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震とされる「濃尾地震」の教訓をもとに耐震性を高めるために建物上層階を軽量化する工法に設計変更され、地下から1階までが花崗岩による石造、2階部分をレンガ造・3階部分が穴あきレンガを用いて軽量化を図りながら、2階から上部のレンガ外壁面に安山岩の石板貼りとする工法が採用され建物外観に違和感を感じさせない総石造建築と変わらない重厚な意匠に仕上げ約5年5か月の工事期間を要した末に竣工しています。
    竣工後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」では、近隣で発生した火災の飛び火により建物中央部分のドーム屋根のほか内装の過半を焼失しましたが、地震の揺れによる大きな損傷はありませんでした。
    その他に太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の「東京大空襲」などでも大きな損傷に見舞われることなく、1974年(昭和49年)になると国の「重要文化財」に指定されています。
    今回は、大手町周辺を訪れた際に『日本銀行』前に立ち寄り「旧館(本館)」の外観を写真撮影しましたが、威厳のある重厚な外観は見ごたえがあります。
    『日本銀行』本店では、事前予約制による「旧館(本館)」などの解説付き・見学ツアーが開催されているとのことなので、機会があれば見学ツアーに参加して「旧館(本館)」の建物内部や細部などを見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ半蔵門線・三越前駅(B1出口)より徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、本館前を歩いている人はほとんどいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    外観を見て廻るのに段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    国の重要文化財に指定されています。

  • 新宿新都心・超高層ビル群の中で一番高い建物の展望室です!

    投稿日 2021年03月07日

    東京都庁舎展望室 新宿

    総合評価:4.0

    『東京都庁舎展望室』は、1898年(明治31年)から1965年(昭和40年)までの67年間にわたり「東京の近代水道発祥の地」として日本の首都である大都市東京に上水を供給し続けた「旧淀橋浄水場跡地」を含む西新宿エリアの約56ヘクタールにおよぶ広大な敷地に超高層ビル(高さ100メートル以上)群による商業施設などを集中させる「新宿副都心計画事業」により開発がスタートした「新宿副都心(現在の新宿新都心)再開発地域」の4号地となる西新宿2丁目に建設当時としては日本一高い建築物として1990年(平成2年)に竣工した『東京都庁・第一本庁舎』の地上33階部分から上部階が北棟と南棟に分かれている北棟と南棟のそれぞれ45階部分となる地上高さ202メートルの2か所に「北展望室」と「南展望室」として設置されています。
    ちなみに『東京都庁舎』は、日本を代表する8社の設計事務所による「指名設計コンペ」が実施され1986年(昭和61年)に「丹下健三都市・建築設計研究所」の設計案が採用された建物であり、その建物概要は「再開発地域・4号地」に「第一本庁舎」(地上48階・地下3階建て、高さ243.4メートル)、「再開発地域・1号地」に「第二本庁舎」(地上34階・地下3階建て、高さ163.3メートル)、「再開発地域・5号地」に「都議会議事堂」(地上7階・地下1階建て、高さ41.0メートル)の3棟と「都民広場」(再開発地域・5号地)で構成され、現在も「新宿新都心」の超高層ビル群の中で一番高い建物となっています。
    今回は、平日の午後に西新宿の超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」エリアを散策して廻り久しぶりに『東京都庁舎展望室』(北展望室)に立ち寄りました。
    『東京都庁舎展望室』へのアクセスは、「第一本庁舎」1階正面出入口の左右に設置されている直通の速度240メートル/分の「展望室専用エレベーター」に乗り約55秒で誰でも簡単に無料で展望室を利用することができます。
    (「第一本庁舎」1階正面出入口から建物内に入り右手側が「北展望室専用エレベーター」、左手側が「南展望室専用エレベーター」となります。)
    訪れた際は、新型コロナウイルス感染予防対策として「展望室専用エレベーター」に乗る前にマスク着用の確認と検温の実施とあわせて、テロ防止対策として手荷物検査がありましたが、展望室の利用者がほとんどいなかったため行列も出来ずスムーズに「展望室専用エレベーター」に乗り展望室まで行くことができました。
    また、天気も良く地上202メートルとなる展望室からの「新宿新都心」の超高層ビル群および都心の眺望をゆっくりと堪能することができました。
    『東京都庁舎展望室』は、天井高が高くフロア全体に間仕切り壁のないゆったりとした空間でベンチなども配置されており、くつろぎながら360度大きな窓から都心の眺望が楽しめる「新宿新都心」のお薦めの観光スポットです。
    機会があれば、西新宿エリアを訪れた際にまた立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    JR新宿駅西口から徒歩10分程度です。(最最寄り駅:都営地下鉄大江戸線・都庁前駅)
    人混みの少なさ:
    4.0
    北展望室には20名程度の人がいました(平日の午後)。
    バリアフリー:
    4.0
    庁舎なのでバリアフリー対策は、しっかりしています。
    見ごたえ:
    4.0
    新宿新都心・超高層ビル群および都心の眺望を360度堪能することができました。

  • 推定樹齢が600年以上の樹木です!

    投稿日 2021年02月28日

    雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ 目白

    総合評価:4.0

    『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』は、現在の豊島区雑司ヶ谷3丁目に位置する「鬼子母神像」を祀る「鬼子母神堂(きしもじんどう)」の境内(豊島区南池袋3丁目に位置する日蓮宗「威光山 法明寺」の飛地境内)に生育する推定樹齢が600年以上、樹高が約30メートル、幹周が約8メートルの巨大な樹木です。
    東京都内に現存するイチョウの中では、港区元麻布1丁目に位置する「麻布山 善福寺」のイチョウに次ぐ巨木とされており、1956年(昭和31年)に東京都の「天然記念物」に指定されたほか、2018年(平成29年)に豊島区の「景観重要樹木」第1号にも指定されています。
    ちなみに『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』が生育する「鬼子母神堂」は、室町時代後期(戦国時代)となる1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した「鬼子母神像」を現在の「法明寺」内の一寺院であった「東陽坊」(後に「大行院」と改称)の一画に祀ったのがはじまりとされ、その後の安土桃山時代となる1578年(天正6年)に村人により草堂が建立されたと伝えられています。
    『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』については、「鬼子母神堂」で祀られている「鬼子母神像」が出土される以前の室町時代前期となる室町幕府第3代将軍「足利義満」・第4代将軍「足利義持」・第5代将軍「足利義量」の時代となる「応永年間」(1394年から1428年)に僧侶によって植樹されられたと伝えられています。
    また、江戸時代前期の徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に現在の「鬼子母神堂」の本殿部分が建立され、徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)が増築されており、「鬼子母神像」が「安産・子育の守り神」として江戸庶民から武家まで多くの信仰を集めるとともに「子授けイチョウ」として『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』に抱き着くと子宝に恵まれる「鬼子母神堂」の御神木とされたいました。
    今回は、10月と11月の2回に渡り平日の午後に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう機会があり、その途中で「鬼子母神堂」に立ち寄りました。
    「雑司ヶ谷駅」1番出入口から「鬼子母神大門」を通り5分程度(およそ350メートル)の場所に位置する「鬼子母神堂」の周辺は、『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』のほかに「鬼子母神大門」から約100メートルの区間に推定樹齢が400年以上の樹木が含まれるケヤキ並木が続き1940年(昭和15年)に東京都の「天然記念物」に指定された「鬼子母神大門のケヤキ並木」など樹木に囲まれた静かな住宅街の中に広がる癒しのエリアとなっています。
    現在の『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』周囲は、柵で囲われているため樹木に直接触れることがでませんが、太い幹が真っすぐ空に向かって伸びるその大きさには圧倒されます。
    立ち寄った際は、紅葉のピーク前でしたがこのイチョウは雄株であり実をつけることがありませんので、銀杏の実特有の臭い匂いがありません。
    境内はひっそりとしていましたが地元の人と思われる方々などの参拝者が入れ替わり訪れていました。また、樹木に囲まれているので夏場の夕涼み場所としても最適だと思います。
    機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた立ち寄りたいと思います・・・
    そのほかに本殿と拝殿・相の間(幣殿)とで異なる特徴を持つ江戸時代の建造物であることから歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され2016年(平成28年)に国の「重要文化財」に指定された「鬼子母神堂」は、見どころとしてお勧めできます。

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅1番出入口から徒歩5分程度です。
    景観:
    4.0
    東京都天然記念物および豊島区景観重要樹木(第1号)に指定されています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    地元の方と思われる人方々の参拝者が入れ替わり訪れていました。
    バリアフリー:
    4.0
    境内は平坦ですが、鬼子母神堂に参拝する際は段差があります。

  • ガラス大屋根で覆われた130メートルを超える吹き抜けが特徴的な超高層ビルです!

    投稿日 2021年02月21日

    新宿NSビル 新宿

    総合評価:4.0

    『新宿NSビル』は、「旧・淀橋浄水場」のあった跡地を含む西新宿エリアの約56ヘクタールにおよぶ広大な敷地に超高層ビル(高さ100メートル以上)群による商業施設を集中させる「新宿副都心計画事業」により開発がスタートした西新宿2丁目の日本最大級となるオフィス街「新宿新都心」の一画に最初の超高層ビルとなる「京王プラザホテル」(地上47階、地下3階、高さ178メートル)が1971年(昭和46年)に竣工してから数えて10棟目の超高層ビルとして1982年(昭和57年)に竣工した複合商業ビル(地上30階、地下3階、高さ133メートル)となります。
    ちなみに建物名称の”NS”とは、2社による共同事業として建設された建物であることから事業主である「日本生命」(建物持分比率:55%)および「住友不動産」(建物持分比率:45%)のそれぞれ社名であるアルファベットの頭文字が用いられています。
    「新宿新都心」に建設されている高さ200メートル級の超高層ビルが建ち並ぶ中で高さ133メートルとこのエリアでは決して高いとはいえない『新宿NSビル』の外観形状は、平面および立面がともに四角形であり外装仕上げも目を見張る様な特徴も見られず地味な建物に感じますが、建物内部に入ると中央部分が1階から最上階屋上まで達する130メートル超えの吹き抜けアトリウム空間が構成されており、その屋根部分を鋼管立体トラス構造によるガラス大屋根で覆い自然採光を建物内に取り込むことによる照明負荷の低減など省エネルギー型ビルとして設計段階から環境に配慮した建物となっています。
    また、建物外観と異なり建物内部の29階部分には吹き抜けアトリウム空間を横断する歩行用ブリッジが設置されいるほかに吹き抜けアトリウム空間の壁面に「ギネスブック」にも認定されている世界最大級の振り子時計「ユックリズム振り子時計」が設置されているなど特徴的な内部空間が構成されています。
    そのほか『新宿NSビル』は、1982年度(昭和57年度)に日本国内で最も権威ある建築の賞となる「日本建築学会賞(作品)」を受賞したほか、1984年度(昭和59年度)に「第25回 BCS賞」を受賞(現在の「日本建設業連合会」が表彰する名誉ある賞、受賞した当時の団体名は「建築業協会(通称:BCS)」)、1985年度(昭和60年度)に現在の「サステナブル建築賞」の前身となる「第1回 建築省エネルギー賞・建設大臣賞」を受賞(現在の「建築環境・省エネルギー機構」、受賞した当時の団体名は「住宅・建築省エネルギー機構」)するなど各種業界団体によるさまざまな視点から評価されている建物です。
    『新宿NSビル』には竣工して2年目くらいの時に訪れたことがありましたが、今回は西新宿の超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」エリアを散策しながら現在の『新宿NSビル』がどのようになっているのか少し気になり立ち寄ってみることにしました。
    平日のランチタイムが過ぎた午後でしたので、建物内のオフィスで勤務していると思われる方々が建物内を出入りする程度で1階アトリウムは閑散としていました。
    以前訪れた際は、29階と30階が「スカイレストラン街」となっていましたが、「展望エレベーター」(29階・30階専用)を利用して最上階の30階にいくと30階部分が「スカイカンファレンス(会議室)」になっており「スカイレストラン街」は29階のみでした。
    29階の「スカイレストラン街」も平日のランチタイムが過ぎた時間帯であったため営業している店舗も少なく閑散としおり寂しさを感じました。
    また、休日ランチライムの時間帯がどのような状況であるのか気になりましたので、機会があれば、休日ランチライムの時間帯にあわせてどのような状況になっているか確認しに立ち寄ってみたいと思います・・

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.0
    東京都庁・第二庁舎の東側に位置します。
    雰囲気:
    4.0
    建物内部の1階から最上階屋上まで達する130メートル 超えの吹き抜けアトリウム空間は圧巻です。
    バリアフリー:
    4.0
    建物敷地と隣接する道路歩道部分に高低差がありますが、スロープが設置されています。
    観光客向け度:
    4.0
    スカイレストラン街(29階)に吹き抜けアトリウム空間を横断する歩行用ブリッジが設置されています。

  • 東京の三大銅像のひとつに数えられています!

    投稿日 2021年02月14日

    皇居外苑 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:3.5

    『楠木正成銅像』は、皇居の前庭となる皇居前広場を中心に「国民公園」として1949年(昭和24年)に開放された「皇居外苑」南東側の一角に「二重橋」を正面に見据えるように設置されている銅像本体高さ約4メートル(台座を含めた高さ約8メートル)・銅像本体重量が約6.7トンの騎馬像です。
    『楠木正成』の出自については不祥ですが、「河内国」(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)が生誕地とされ、鎌倉時代末期から南北朝時代の激動期に「後醍醐天皇」に奉じて鎌倉幕府討伐から南朝側の忠臣として貢献し、日本史上屈指の忠臣として名高い武将のひとりです。
    「皇居外苑」に建つ騎馬像は、1331年(元弘元年)の「元弘の乱」で鎌倉幕府に大敗し日本海に浮かぶ「隠岐の国」(現在の島根県隠岐郡)に島流しとなっていた「後醍醐天皇」が1333年(元弘3年)に「隠岐の国」から脱出してきたところを兵庫の道筋でお迎えした『楠木正成』の勇姿をかたどったものとされています。
    この『楠木正成銅像』の制作については、徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1690年(元禄3年)に現在の愛媛県新居浜市の南側に位置する赤石山系の旧・別子山村に良好な鉱脈があることわかり、その翌年に「住友財閥」の大躍進の礎となる「別子銅山」の採鉱を開始されてから開坑200年を迎えた1891年(明治23年)に住友家が記念事業として「東京美術学校」(現在の東京藝術大学)に依頼したもので、「別子銅山」で採鉱された銅を用いて10年の歳月を費やし1901年(明治33年)に完成したのち宮内庁へ献納されています。
    ちなみに「別子銅山」は1973年(昭和48年)に閉山していますが、江戸時代から昭和の時代までの282年間に採鉱された銅の総重量が約65万トンといわれ、坑道の深さが日本国内では人間が到達した最深部とされる海抜マイナス1,000メートルに達しているほか坑道の総延長が約700キロメートルにもおよぶ世界でも有数の銅鉱山でした。
    そのほか『楠木正成銅像』は、日本初の西洋式銅像として1893年(明治26年)に制作され「靖国神社」境内にある「大村益次郎銅像」ならびに1898年(明治31年)に制作され「上野恩賜公園」にある「西郷隆盛銅像」とともに「東京の三大銅像」と称されています。
    今回は、平日に有楽町周辺を訪れた際の日没まもない夕方でしたが「皇居外苑」に立ち寄りました。
    東京メトロ・千代田線「二重橋前駅」B6出入口のある「馬場先門交差点」から徒歩3分程度(およそ300メートル)に位置しますが、『楠木正成銅像』周辺を歩いている人はほとんどいませんでした。
    10年の歳月を費やして制作された甲冑を纏い凛々しい表情の躍動感のある精密な騎馬像を目の当たりにするとその大きさに圧倒されました。
    機会があれば、『楠木正成銅像』のほかにクロマツが点在し開放的な芝生が広がる「皇居外苑」を散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ千代田線・二重橋前駅B6出入口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の日没まもない夕方でしたが、ほとんど人はいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    銅像の周囲は広く段差も無く、ぐるりと一周できます。
    見ごたえ:
    4.0
    高さ約4メートルの甲冑を纏い凛々しい表情の躍動感のある精密な騎馬像です。

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