2015/07/14 - 2015/07/28
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jijidarumaさん
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“ドイツ黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
(2015年の行程)
:オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・
アルザス地方・シュヴァーベン地方・タウヌスとラインガウ・ルール地方:
期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅
7月23日(木) 136km
南ドイツのバイエルンにある新白鳥城のイメージに近いと言える城Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪ね、Schillerstadt Marbachシラーの町マルバッハに至った。
写真はシラーの肖像画
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
Schillerstadt Marbachシラーの町マルバッハ:
http://www.schillerstadt-marbach.de/
Stuttgartシュトゥットガルトの北20kmにシラーの町マルバッハがある。
人口15千人の田舎町であるが、ドイツの国民的作家シラー(1759年生まれ)はこの地に誕生している。そして現在もシラーの生家があることで知られている。
この町の見どころにはその生家と、シラーの銅像、シラー国立博物館が入っている。
シラー作品には処女作“Die Raeuber群盗” 1781年作、歴史大作“Wallensteinヴァレンシュタイン三部作” 1799年作、スイス独立運動の英雄“Wilhelm Tellウイリアム・テル”1804年作などが代表作である。
写真は後にCharlotte von Schillerシラーの妻となるCharlotte von Lengefeld シャルロッテ・レンゲンフェルト -
ドイツの人は歴史に名を遺した人の名を町の名前に冠することが好きなようである。
宗教改革の創始者Martin Lutherマルティン・ルターにもLutherstadtルターシュタット・ルターの町と公式に称する町がいくつかあるのを知っているが、シラーの名を冠した町があるのは知らなかった。
写真は現在のシラーの生家 -
SchillerシラーとGoetheゲーテは同時代に活躍した誰でも知っているドイツの国民的作家である。
ゲーテの処女作・戯曲『Goetz von Berlichingen mit der eisernen Hand鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』1773年、
小説『Die Leiden des jungen Werthers若きウエルテルの悩み』1774年、
小説『Wilhelm Meisters Lehrjahreヴィルヘルム・マイスターの修行時代』1796年、
叙事詩『Hermann und Dorotheaヘルマンとドロテーア』1798年、
詩劇『Faustファウスト』〜1831年など、
広い分野で重要な作品を残した・・・が、有名なGoethestrasseゲーテ街道を筆頭に、外国人の為のドイツ語学校であるGoethe-Institutゲーテ・インスティトゥート(ドイツ政府が設立した公的な国際文化交流機関)、ゲーテ広場、ゲーテ通り、ゲーテカフェ、ゲーテ大学などその名を冠した諸々があるとはいえ、ゲーテの名を冠した町があるのかどうか?
よくわからなかった。
写真はシラーの生家(1850年のスケッチ) -
調べてみるとGoethestadt Bad Lauchstaedtゲーテの町バート・ラウヒシュタットがそれであった。
ザクセン・アンハルト州の宗教都市Merseburgメルゼブルクの11 km西にあり、人口は9千人、温泉のある保養地である。
ここでは2008年10月9日から、ゲーテの町バート・ラウヒシュタットと、公式に称することになった。
http://www.goethestadt-bad-lauchstaedt.de/
写真はゲーテの肖像画 -
さて、この温泉の町、保養地ラウヒシュタットはゲーテの来訪と共に歴史的・文化的意味が生まれたそうです。
ゲーテは当時、ワイマールHoftheater宮廷歌劇場(現在はDeutsches Nationaltheaterドイツ国立劇場)の長官であり、1791年6月13日から、夏の季節に宮廷歌劇場の公演を保養地ラウヒシュタットで定期的に行うことにした。
ただ、劇場内の収容数が少ないため、新しいKurtheater保養地劇場を建設する事となった。
写真は保養地バート・ラウヒシュタット -
写真はワイマール宮廷歌劇場1800年
-
この年、ゲーテはラウヒシュタットの町で4週間以上も滞在し、この事業を推進した。
ゲーテはワイマール宮廷歌劇場の長官を26年務めたが、その間に唯一、自ら手掛けたのがラウヒシュタット保養地劇場であった。
後にGoethe-Theaterゲーテ・テアターと呼ばれる劇場が建てられ、1802年6月26日、ゲーテの臨席の下で保養地劇場の落成式と公演が始まり、この日、672人の観劇者がいたそうです。また、その際100余の人が入場できなかったと云われている。
http://www.goethe-theater-bad-lauchstaedt.de/
写真は現在のGoethe-Theaterゲーテ・テアター -
劇場の落成式に、ゲーテがJenaイエナの町で8日の間に作った小品・“Was wir bringen. 我々が持ってくるもの”と、
モーツァルトの死の年に作られたオペラ“Die Milde des Titus(La clemenza di Tito)『皇帝ティートの慈悲』”が上演された。
尚、『皇帝ティートの慈悲』は2幕もので、1791年9月6日にプラハで初演された。
実在したローマ皇帝ティトゥス(在位:紀元79〜81年)を描いたもので、古代ローマの町ポンペイが大噴火で埋まった時の皇帝であり、災害復旧に寝る間も惜しんで尽力したが、激務のために早死にしてしまった。その事で大変慈悲深い皇帝として知られている。
オペラの筋ではローマ皇帝ティトゥスが自分を裏切り、殺害しようと企てた全員の罪を寛大な慈悲の力で許すという話である。
写真はゲーテ時代そのままの劇場の舞台 -
ゲーテは次の年も何度か、ラウヒシュタットにやってきたが、ゲーテ夫人のChristiane Vulpiusクリスティアーネ・ヴルピウス(1765〜1816年)も喜んで上演を楽しんだと云う。
写真は観客席 -
また、上演に際し、当時の芸術家、学者たちも競って当地に参集したそうで、その人たちの名が残る。:
詩人Christian Fuerchtegott Gellertクリスティアン・ゲッレールト、
文学者Johann Christoph Gottschedヨハン・ゴットシェート、
詩人・作家Christoph Martin Wielandクリストフ・ヴィーラント、
哲学者Georg Wilhelm Friedrich Hegelゲオルク・ヘーゲル、
哲学者Friedrich Wilhelm Joseph Schellingフリードリヒ・シェリング、作曲家・指揮者Richard Wagnerリヒャルト・ワーグナーなど。
写真は1785年のKurtheater保養地劇場 -
ナポレオン戦争時代(1792 〜1815年)は保養地での営業は制限され、1809年には禁止された。この事は保養地ラウヒシュタットの劇場活動に大きなダメージを与えた。
1814年、ワイマールの俳優たちが最後のゲスト公演をした後、1815年のウィーン会議(ナポレオン戦争終結後の領土取決め)の結果、ザクセン王国は北半分の領土をプロイセン王国に割譲させられることになり、ザクセンに属したラウヒシュタットの地では、このまま公演を続ける力は無くなっていった。
1834年、若きRichard Wagnerヴァーグナーはラウヒシュタット保養地劇場でデビューし、Mozarts "Don Giovanni"モーツアルトの“ドン・ジョバンニ” 1787年作を指揮したと云う。
この時、最初の妻になる女優Minna Planerミンナ・プラナーと知り合った。
写真はゲーテ時代そのままの劇場の舞台 -
1908年初め、バート・ラウヒシュタットのかつての保養地劇場は再び使用された。
1965年から1968年にかけて劇場は改装され、1968年改装後の上演作はゲーテの“Iphigenie auf Taurisタウリス島のイフィゲーニエ”1787年作でした。
尚、1789年、シラーはラウヒシュタットの地で後にCharlotte von Schillerシラーの妻となるCharlotte von Lengefeld シャルロッテ・レンゲンフェルトと婚約している。(Wik他)
XXX
写真は舞台の袖 -
Lutherstadtルターの町:
2011年に旧東独地域を巡ったが、Lutherstadtルターの町と称する3つの町があるのをドイツでは一番良く知られているだろう。
私共はカトリックや、プロテスタントには縁遠いのですが、この旅では宗教改革者ルターの足跡の広さに驚いた。
一方で、それによって引き起こされた新旧キリスト教徒の争いでもある30年戦争(1618〜48年)の影響が、更に広範囲だったことを、巡る町々の歴史で知らされたものです。
その影響の証のように多くの町には大きなルターの銅像が立っている。
写真はルターの肖像画 -
Lutherstadt Wittenbergルターシュタット・ヴィッテンベルク:
1938年より公式に町の名にルターの名を冠した。
エルベ川沿いに発展した町で、約60km南にライプツィヒ、65km北東にポツダムがある。人口は約47,000人。
ルターが宗教改革運動を始めた事で知られる小さな町、ヴィッテンベルクはいわゆる「95ヶ条の論題」が提示された町であり、ルターの活動を語る上で最も重要な中心地である。
ルターは42歳であった1525年6月13日に修道女Katharina von Boraボラ家のカタリーナと結婚した。町はこれを記念し、1994年から毎年6月に“Luthers Hochzeitルターの結婚式”という祭りを開催しているそうだ。
写真はルターシュタット・ヴィッテンベルク“Luthers Hochzeitルターの結婚式”という祭り -
Lutherstadt Eislebenルターシュタット・アイスレーベン:
1946年より公式に町の名にルターの名を冠した。
人口26千人の町はHalle (Saale)ハレ (ザーレ)から西に30 kmにある。
Luthers Sterbehausルター晩年の家、Martin Luthers Geburtshausルターの生家などがあり、つまりルターが生まれた町であり、最期を迎えた町でもある。
ルターは死の1か月近く前に生まれた町であるアイスレーベンに居を定めた。生まれ故郷の領主達の争いを仲介するためであったとされているが。1546年2月にその家で没した。ほぼ当時のまま現存する最期を迎えた家は博物館となっている。
ルター(1483〜1546年)は生後9ヶ月目にマンスフェルトに転居したため、生家にいた期間はほとんどなかったと云う。
写真はルターシュタット・アイスレーベンの市庁舎とマルクト広場のルター像 -
写真は切手:世界遺産・ルター記念碑のあるアイスレーベンとヴィッテンベルク
-
Mansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタット:
1996年より公式に町の名にルターの名を冠した。
アイスレーベンの北西10kmにある。人口1万人。
ルターが幼年期を家族と共に過ごした町である。
この町は銅や銀の鉱山と共に発展した町で、ルターの父は精錬所の工場長をしていたと云う。ルターは生まれた翌年にはアイスレーベンからマンスフェルトに移り、その幼年期を家族と共に過ごした(1484〜1496年)。
Elternhaus von Martin Luther両親の家は博物館になっている。
写真はマンスフェルトの俯瞰 -
≪世界遺産“Lutherstadtルターの町“と“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”≫
宗教改革は近世ヨーロッパ史上の一大事件であり、社会体制が変革するなどといった事はそうそうあるわけではないから、すごい事です。新旧どちらに正義があるかは別にして、すさまじい宗教戦争の幕開けともなった。
とことん徹底して戦うところは、宗教改革によって巻き起こった、騎士戦争、農民戦争、30年戦争(たとえばマグデブルクの戦い)などの新旧キリスト教徒による様々な戦いに見てとれる。その影響は主戦場になったドイツの各地に大きな爪痕を残している。
中心人物であったMartin Lutherマルティン・ルターの足跡をたどる上で、重要な町(Eisleben 、Wittenberg)が1996年に世界遺産に登録された。
“Lutherstadt“はLutherstadt Eisleben 、Lutherstadt WittenbergとMansfeld-Lutherstadtの三つを言う。
写真はマンスフェルトのルターの泉 -
また、“Bund der Lutherstaedteルターに関連する諸都市の連盟“が 1993年に Wormsヴォルムス(同地のルター記念碑建立125周年の時)で結成されている。
Eisleben 、Wittenberg と共にWorms 、Augsburg、Coburg、Eisenach、Erfurt、Halle (Saale)、Heidelberg、Magdeburg、Marburg、Nordhausen、Schmalkalden、Speyer、Torgau、Zeitz等の都市である。
ルターが活躍し、影響を与えた範囲に驚く。
写真はWormsヴォルムスのルター像 -
XXX
Barlachstadt Guestrowバルラハの町ギュストロー:
2014年にはドイツ北方2州を周遊したが、メクレンブルク・フォアポンメルン州の第二都市ギュストローは表現主義の彫刻家、画家、劇作家であるErnst Barlachエルンスト・バルラハの名を冠し、Barlachstadt Guestrowバルラハの町ギュストローと称しているのを知った。
バルラハ又はバルラッハ(1870年〜1938年)は20世紀ドイツの、表現主義の彫刻家、画家、劇作家である。
第一次世界大戦に始めのうちは賛同していたが、自身が戦争を体験することにより転換。反戦的、厭戦的な作品を多く残すようになった。
しかし、そのためにナチスによって退廃芸術の烙印を押され、多くの作品が没収、いくつかは破壊された。彼は彫刻家として最もよく知られているが、絵画、陶芸、版画、戯曲、小説といった幅広い分野で作品を残している。
初期のアール・ヌーヴォースタイルの絵画は日本の浮世絵の影響を受けているという。
写真はバルラハの自画像 -
写真はバルラハの作品”再会”Wiedersehen_1926年_Mahagoni
-
XXX
以下の3つの都市は歴史上の人物と深い、濃い関係があり、観光的にも分かりやすい表現として、“誰々の町”と称しているが、前述した“冠都市”ではない。
このケースは探せばもっとあるかもしれないが・・・。
“Goethestadt Wetzlarゲーテの町ヴェッツラー”:
2006年、ヘッセン州のラーン渓谷沿いにあるWetzlarヴェッツラーを訪ねた。ヴェッツラーはゲーテの“Die Leiden des jungen Werthers若きウエルテルの悩み”の舞台となった町で世界に知られている。
ゲーテの“若きウエルテルの悩み”はヴェツラー高等法院の研修生としての3ヶ月の短い体験から生まれている。1774年に出版されたゲーテ26歳の作品であり、ドイツの新しい文芸思潮が生まれた時代、Sturm und Drangシュトルム・ウント・ドランク:疾風怒涛時代の代表的作品と言われる。
ゲーテが恋した大変な美人Charlotteシャルロッテ(ゲーテ曰く、「理知的で、素朴でそれでいて親切」と評するほどの好人物であった)の両親Buffブーフ・・・三代続いた・・・の家であったLottehausロッテハウスは1922年より、町の博物館となっている。
この為、この町を観光的に分かりやすく表現する際に“Goethestadt Wetzlarゲーテの町ヴェッツラー”と書くようだが、公式にはゲーテの名を町の名に冠していない。
写真はラーン川にかかる石橋とヴェッツラーの大聖堂 -
蛇足になるが、
ロッテハウスには各国で翻訳された“若きウエルテルの悩み”本の数々が陳列され、日本版も置いてあります。
驚く事に、シャルロッテのご主人が亡くなられた後、8人もの子供をかかえ、シャルロッテは経済的に困っていたと云う。実弟への経済援助を依頼した書状が展示されていた。
館員の方に『ゲーテの支援は有ったのでしょうか?』と聞いてみると、『それは有ったと思う!』との事でしたが・・・。
世界青春文学名作集の解説では、老境に入ったゲーテとシャルロッテが一度会った事があるそうです。周辺が興味深げにした事もあってか?ゲーテにとっては煩わしく?!シャルロッテにとってもまた、あまり良い印象をゲーテに持たなかった?!とある。
写真はシャルロッテ -
“Goethestadt Weimarゲーテの町ワイマール”:
2001年に16年ぶりにドイツを訪れ、ゲーテ街道を走った。
テューリンゲン州のWeimarワイマールはゲーテが26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をワイマール公国の首都ワイマールで過ごしたので足跡も事績も色濃いものがある。
当時、ワイマールはドイツ・古典主義文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがあり、さらには1919年ドイツ最初の共和国が設立され、“ワイマール憲法”という民主的な憲法が制定されたことでも、世界史上に特筆されている。
ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、この地はゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナッハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。
ワイマールは1999年に“Kulturhauptstadt Europas欧州文化都市(2005年以降は欧州文化首都と言う)”に指定されたこともあってか、
ゲーテにとり一番身近であったともいえるワイマールの町だがヴェツラー同様、“Goethestadt Weimarゲーテの町ワイマール”とゲーテの名を町の名に冠していない。
写真は今のワイマール・ドイツ国立劇場とゲーテ・シラーの銅像 -
Brueder-Grimm-Stadt(ブリューダー・グリム・シュタット)グリム兄弟の町:
また、かつて何度も巡ったMaerchenstrasseメルヘン街道はBrueder-Grimmグリム兄弟と共にある。
メルヘン街道はドイツ中部の町ハーナウから北部の都市Bremenブレーメンを経て、ブレーマーハーフェンまでを結ぶドイツ観光街道の一つであり、グリム兄弟とその童話や伝説が残る各地を巡る観光街道となっている。街道は全長約600kmにもなる。
写真はグリム兄弟ヤーコプとヴィルヘルム(左)の肖像画1815年 -
Hanauハーナウの町はBrueder-Grimm-Stadtグリム兄弟の町と称している。
グリム兄弟生誕の地であることで、メルヘン街道の起点になっており、市庁舎前に立派なグリム兄弟記念像が立っている。
写真はハーナウ市庁舎前に立派なグリム兄弟記念像 -
Steinau an der Strasseシュタイナウ・アン・デア・シュトラーセの町は Brueder-Grimm-Stadtグリム兄弟の町とも称している。
グリム兄弟の祖父が教会の牧師を務め、兄弟の誕生後、父が判事となり赴任した町で兄弟が子ども時代を過ごしたからである。グリム記念博物館が当時住んでいた場所にある。
上述の2つは町の名を変えているのではなく、観光上Grimm-Stadtグリム兄弟の町と称しているようだ。
写真はシュタイナウ・グリム兄弟の家と蛙の王様の像 -
それ以外に
Marburgマールブルク:グリム兄弟がマールブルク大学で学んだ。
Kasselカッセル:グリム兄弟博物館がある(兄弟の母の実家があった)。
Goettingenゲッティンゲン:ゲッティンゲン大学の教授であった。
・・・などの町はBrueder-Grimm-Stadtグリム兄弟の町といった表現はしてないようだ。
(2015年6月12日完)
写真は保養地バート・ラウヒシュタット
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この旅行記へのコメント (4)
-
- スノーマンさん 2016/01/29 10:25:59
- 私もこの街にいってみたいです
- jijidaruma 様
ゲーテとかシラーとか、ドイツの文豪と記憶していますが、具体的にどのような活動をされていたかは知りませんでした。たしか、「自由博愛平等」を唱えたのが彼らですよね? ちがうかな?
写真がお上手ですね。
私も見習いたいです。その町の様子が、伝わってきます。
スノーマン
- jijidarumaさん からの返信 2016/01/30 12:15:45
- RE: 私もこの街にいってみたいです
- スノーマンさん
おはようございます。
沢山のご投票と、フォローしていただきありがとうございました。
ドイツの伝説・民話も大好きなので、訪れた町々で知った話も
訳して、いろいろと掲載しています。
口コミにも古城ホテルやグルメ料理、観光地、基本情報などを比較的長く書いていますので、そちらもご参考にお読みいただければと思います。
ゆっくりじっくりと、お読みいただけるとありがたいですね。
この項は旅に出る前に資料として調べていくうちに、町の名に偉大な人たちの名を冠している都市について書き出したものです。日本はこうしたことが無いですので、ドイツではとても新鮮に思いました。
今回の旅ではシラーの町を訪れています。
そのうちに掲載の予定です。
「自由博愛平等」はフランス革命のスローガンでもありましたが、ゲーテやシラーが活躍した時代は少し前になります。
写真がお上手ですね。=>大変恐縮ながら、これらの多くは観光局等のHPの写真を拝借しております。
私の旅行記は自分が訪れた時に写した写真が主ですが、単なる街歩きということより、歴史的な事柄も多いので、それだけでは物足りない場合はしばしば歴史的な画像などを含めて利用しています。
それでは宜しくお願いします。
jijidaruma
-
- のまどさん 2015/06/15 05:30:48
- 今年の旅
- jijidarumaさん、こんにちは。
お帰りなさい。今年もドイツに行かれたのですね。
ゲーテとシラーを巡る第一弾、興味深く拝見しました。
ドイツを代表する二人の文豪、旅行記を読みながら随分前に訪れたワイマールの像がずっと頭にあったので、最後の方に出てきてやはりと思いました。ドイツ東部はなかなか車で行けないので、再訪したいのですがなかなか叶いません。
確かに歴史的人物の名前を冠した街が多いのはドイツ独特ですね。街道シリーズと同様観光誘致を目的にしているのかもしれません。ルターシュタットは命名されたのが1938年という時代背景から考えて国威掲揚でしょうね。
ドイツのアール・ヌーヴォーと言えば、この間古城街道に行った時、偶然Darmstadtについて知ったので機会があれば行ってみたいです。
旅行記の続きを楽しみにしています。
私は今週ハンガリーに行って参ります。
- jijidarumaさん からの返信 2015/06/15 12:16:54
- 今年の旅
- のまどさん
こんにちは。次はハンガリーですか!
中欧3ヶ国を訪ねたのはもう2003年の事ですので、
ハンガリーの旅行記を楽しみにしています。
皇妃エリザベートの足跡も見て回るのでしょうか?
さて、私のドイツの旅はまだなのです。来月の7月ですが、
投稿の都合上、5月としました。帰ったら月は訂正しますが。
従って、まだ旅の資料を纏めたばかりです。70ページほどの行程を
作り、持参します。その中でシラーの町を行程に入れたのですが、
はて?ゲーテの町は・・と疑問に思って調べたのが、今回の
旅行記です。
順序が逆になりましたが、私のここでの旅日記は
少し変わっていますので、お許しいただけるかと・・・。
それではまた、お気をつけて行ってらっしゃい。
jijidaruma
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