2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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トロイ遺跡の紹介が続きます。広範囲に発掘調査が行われていました。トロイには古くから都市が築かれ、地震や火災などで街が破壊されても、同じ場所に新しい都市が再建されて来た歴史があります。発掘調査により、大きく分けると九つの層によって、トロイ遺跡が構成されていることが判明しました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
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- 観光バス
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トロイ遺跡の九層になった地層の紹介です。数字が大きいほど、新しい地層です。
〇第1層:紀元前3000~2500年:最も古い層からは、都市というよりは小さな村と呼べるような住居の遺構が出ています。石が積まれた壁が作られ、家屋は石や泥レンガの壁で出来ていました。青銅器時代のこの層からは黒い陶器や銅で出来た加工品が出土しています。この街は火災によって滅びてしまいました。(同上) -
〇第2層:紀元前2500~2250年:エーゲ海から黒海に向かう交易船が立ち寄り商業によって発展し、I層の街に比べ街の大きさは2倍ほどになりました。土地の低い場所に街が築かれ、高い場所には石壁で覆われたメガロン様式の宮殿が建っていました。
プリアモスの財宝と呼ばれている数多くの出土品がこの層から出ていて、街の繁栄を物語っています。しかし、ヨーロッパと中東との貿易が少なくなると国の経済が衰退し、最後は再び火災によって町が消失しました。(同上) -
イチオシ
〇第3層:紀元前2250~2100年
〇第4層:紀元前2100~2000年
〇第5層:紀元前2000~1750年:これらの三つの地層は発掘者シュリーマンによって、雑に掘り進められてしまい発掘記録も残されていないため情報が非常に少ないです。わずかに残った痕跡から、町は密集して家が建てられ、第II層時代の壁をそのまま利用し、さらに石壁の規模を拡大させたことが分かっています。料理用のかまどの形跡や、ギリシャのミノス島との交易品も出土をしています。(同上) -
〇第6層:紀元前1750~1300年:後期青銅器時代になり、人口が増え5,000~10,000人が都市内に住んでいたと考えられています。高台に城塞が築かれ、城塞の南側に街が広がる都市構造を持っていました。城塞は厚さ約5mの壁で囲まれており平野や海を監視するための塔が城壁に作られていました。
城壁跡は現在のトロイ遺跡で見ることが出来ます。高官の家は複数の階層を持ち、石で作られた1階部分は窓がなく家自体が要塞の役割をしていました。堅牢な都市でしたが、紀元前1250年頃に起こった地震によって都市が崩壊してしまいました。(同上)
*写真は、ローマ街道を思わせるような石畳の道です。 -
〇第7層:紀元前1300~950年:地震で崩壊した後、被害を逃れた人々によってすぐに都市の再建がされました。被害が少なかった城壁を改修し、城壁内の空いているスペースに家がたくさん建てられました。この時代はミケーネ文明諸国(現在のギリシャ)との交易品がほとんど見つかっていなく、城壁内で都市が発達をしたことから、ミケーネからの攻撃に備えていたと考えられています。(続く)
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〇第7層:紀元前1300~950年:(続き):しかし紀元前1180年頃にミケーネの侵攻によりトロイは滅んでしまいます。この時代の地層からは、敵に攻撃をされた痕跡や大火災にあった痕跡が出ています。この戦いこそがホメロスが記したトロイア戦争であると考えられています。しかし、この時代の地層は発掘者のシュリーマンによって削り取られてしまったため、現代での歴史考察が困難となっています。(続く)
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〇第7層:紀元前1300~950年:(続き):戦争で滅んでしまったトロイはその後、破壊を免れた建造物を再利用しすぐに再建されました。ミケーネ諸国との交易も再開され、ヨーロッパから移民が来ることで、新しい文化や製鉄技術が伝わりました。第7層前半に比べ都市が大きくなり繁栄しましたが、紀元前950年頃に起きた火災により、城壁内の一部の家を除き、街のほとんどが焼失しました。(同上)
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〇第8層:紀元前950~85年:火災後、しばらく都市の再建は行われませんでしたが、紀元前700年ごろにギリシャから来た人々によって都市が作られました。防御のための城壁は以前の時代の物がそのまま使われましたが、青銅器時代の建物は壊され、ギリシャ式の都市として作り変えられました。(続く)
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〇第8層:紀元前950~85年:(続き):『イリウス』と呼ばれるようになったトロイには、歴史上に名を連ねる王たちが訪れました。多くの劇場や神殿が作られ、紀元前334年のアレキサンダー大王による東方遠征の際は、トロイのアテネ神殿に自分の鎧を捧げ、英雄アキレウスの墓参りが行われています。(同上)
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〇第9層:紀元前85~西暦500年:ヘレニズム時代で繁栄したトロイですが紀元前85年に破壊されてしまいました。しかしローマ帝国の支配の元、街はすぐに再建され、紀元前20年にはローマ皇帝アウグストゥスもトロイを訪れています。しかし西暦500年に連続して地震が発生し建物が崩壊し、トロイは廃墟と化して、5世紀には忘れ去られた都市となってしまいました。(以上、同上)
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〇纏め:シュリーマンは、都市遺構と出土した装飾品からこの場所がトロイア王国であると確信をし、トロイア王国はおとぎばなしではなく実在したと発表を行いました。シュリーマンは、財宝が出土した第2都市の層を物語で読んだトロイア王国の時代と推測をしましたが、第2都市はトロイア戦争の時代よりもさらに1300年ほど古い地層でした。(同上)
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〇纏め:その後の研究で、第7層Aに見られた大火災の痕跡などから、第7層が紀元前1300年~1190年のトロイア戦争の時代であると考えられています。なお第7層Aはシュリーマンによって雑に掘り進められたことで、トロイア戦争の考古学検証が難しくなってしまったようです。(同上)
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昨日の夜に通過したため、感想を述べられなかった『ダーダネルス海峡』についての紹介です。『チャナッカレ海峡』とも呼ばれています。地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡で、ボスポラス海峡とともに、ヨーロッパとアジアの境界をなす海峡です。ダーダネルスの語源は、古代ギリシア神話の伝説の王ダルダノスに由来しています。ビザンツ時代のギリシア語で、ダルダネリスと転じ、さらにそれを英語が採用してダーダネルスの呼び名となりました。(同上)
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次に、『チャナッカレ海峡』という名称の紹介です。海峡のアジア側にある都市のチャナッカレに由来します。地名に含まれる『カレ(kale)』は、『城』を意味するアラビア語起源の言葉です。付近には、チャナッカレの地名のもとになった有名な城塞群があります。ヨーロッパ側はガリポリ半島で、軍事上の要衝であるゲリボル(ガリポリ)の町があります。(同上)
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イチオシ
海峡の延長は約60キロメートルですが、幅は1.2キロから6キロほどしかありません。水深は最大103メートル、平均55メートルです。表層水はマルマラ海からエーゲ海に流れ、底層水は逆方向に流れています。最も狭い所に、全長約3.7キロのトルコ最大の吊り橋の『チャナッカレ1915橋』が建設されました。(同上)
*写真は、パン焼きの窯のように見えましたが、生け贄関連施設かも知れません。 -
『ダーダネルス海峡』の紹介が続きます。この海峡は、古代より戦略的な要衝であり、例えばトロイア戦争はこの海峡のアジア側の地で戦われました。ペルシア帝国のクセルクセス1世やマケドニアのアレクサンドロス大王は、それぞれ海峡の反対側に遠征するためにこの海峡を渡っています。(同上)
*写真は、地層8~9の出土品などの紹介のようです。 -
オスマン帝国(1299~1922年)のオルハンが、ビザンツ帝国(330~1453年)のヨハネス6世カンタクゼノス帝の要請を受けて初めてヨーロッパに渡ったのもこの海峡でした。のちにオスマン帝国はこの地で艦隊を創設し、帝国が東地中海の覇権を握る上でも、首都イスタンブールを南から防衛する上でも非常に重要な地となりました。(同上)
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第一次世界大戦中の1915年、オスマン帝国の首都攻撃を目指すイギリスなどの連合国により、ダーダネルス海峡進攻作戦が行なわれましたが、ガリポリ半島を戦場として行なわれた上陸作戦は、ムスタファ・ケマル率いるオスマン軍の猛烈な抵抗にあい、多大な犠牲者を出して失敗に終りました。(ガリポリの戦い)、(同上)
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1915年の『ガリポリの戦い』では、当時のイギリス海軍大臣の『ウィンストン・チャーチル(1874~1964年)』は、3月18日に作戦失敗の引責により一時的に政治の舞台から身を引くことになりました。第一次大戦後のセーヴル条約(1920年)で海峡委員会に主権が移りましたが、モントルー条約(1936年)によって、再びトルコに海峡での主権が戻ることになりました。21世紀初頭でもこの条約は有効であるとされ、同海峡を航行する船舶・艦艇等には制約がかけられています。(以上、同上)
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トロイ遺跡についての『補遺1』:トロイがアナトリアの文明かミケーネ文明か、どこの文明に属しているのかが未だにテーマになることがあるようです。トロイはエーゲ海での存在感は十分ありますが、発掘された陶器や建築設計からアナトリアの文化が濃いことが解っています。また、火葬墓が発見されていて、ミケーネでは火葬は有り得なく、火葬はアナトリアの文化でみられる習慣です。(同上)
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トロイ遺跡についての『補遺2』:アナトリアは小トルコとも呼ばれます。トルコ中東部にあり、特に中央アナトリア地方は人類の文明がもっとも早く開かれたとされている地方です。コンヤ市の南東の チャタルホユック遺跡では、紀元前8000年の集落跡が発見されていて、10000年以上前に文明が興ったようです。現在は、トルコ共和国のアジア側、トルコ全体の9割以上の土地がアナトリア地域に入ります。(同上)
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トロイ遺跡についての『補遺3』:アナトリアの別名は『小アジア(ギリシャ語:Mikra Asia)』です。アジアの起源とされているのが、史上初の世界帝国とされている『アッシリア』です。紀元前18世紀頃、現在のトルコがある地域で勃興し、古代オリエントを統一するなど大きく発展しました。長らく古代では『アジア=現在のトルコ周辺』とされましたが、後代にアジアの区域が広がりを見せました。(同上)
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トロイ遺跡についての『補遺4』:ヨーロッパと中東、アジアをつなぐアナトリア半島は、交通の要所であるだけでなく、文明が交差する地でもありました。古来より数々の文明・文化が入り交じりながら発展したこの地は、しばしば 『文明の交差点』と言い表されます。多様性に富んでいたため、世界でも早い時期から文明が生まれたアナトリアです。(同上)
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トロイ遺跡についての『補遺5』:先に紹介した『東ローマ(ビザンツ)帝国』や11世紀~12世紀のイスラム王朝の『セルジューク王朝』、15世紀に東ローマ帝国を滅ぼし、トルコの前身の『オスマン帝国』といった強大な国々がアナトリアの地を求めたことから、さまざまなルーツを持つ人種が暮らしてきたのも特徴です。現在この地に住むトルコ人もまた、アナトリア土着の民族ではありません。現在に至るまで長く複雑な歴史を辿り、オリエント世界を語る上では欠かせない地域がアナトリアです。(同上)
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階段状に作られた、石造の施設は屋外劇場のようです。手元のガイドブックには、『第9市・オデオン(劇場・小劇場)」と紹介されていました。最も新しい地層ですから、保存状態はいいようです。かつては『大劇場』もありましたが、完全に崩壊してしまい、痕跡は残っていないようです。『第9市』の表現は、『第9地層に存在した都市』のようです。(同上)
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イチオシ
保存状態の良い『オデオン(劇場)』の光景が続きます。かつては、大劇場には、木製の屋根が掛けられ、音響効果も良かったようです。ローマ皇帝も訪れたとされます。手元のガイドブックには、大劇場跡の位置は記されていませんでした。屋外劇場遺跡では、真っ先に思い浮かべるのが、『古代ギリシャ・ローマ時代』や『ローマ劇場』です。(同上)
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同じく、『オデオン(劇場)』の光景です。『ローマ劇場』は、古代ローマ時代に建設された半円形の劇場のことです。『グナエウス・ポンペイウス(紀元前106~紀元前48年)』が、古代ギリシアの劇場の特徴の大部分を取り入れて、ポンペイウス劇場を建設したことが始まりとされます。ローマはギリシアから建築上の影響の多くを受けています。(同上)
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劇場の設計もギリシャの影響を受けている面では、他の建築物と全く変わらないようです。しかし、ローマ劇場は独立した基礎の上に築かれているのが特徴とされ、土を掘ったり斜面を利用したりするギリシアの劇場とは異なります。『ローマ劇場』は、最初の恒久的ローマ劇場であるポンペイウス劇場の基本設計を受け継いで派生していきました。(同上)
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ローマ劇場は、基本的に半円形であり、立地条件によって若干の相違はあるものの、一定の固有な建築構造となっていました。その劇場では演劇、パントマイム、合唱、演説などが催されました。ローマ劇場は、スペインから中東までローマ帝国の版図のあちこちに建設され、ローマの建築が各地の建築技法に影響を与えました。(同上)
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トルコ原産の犬種は、およそ6000年前から存在していた超古代犬種『ジョパン・コペギ』が分化して、トルコ中部の『カンガール・ドッグ』と『アナトリアン・シェパード・ドッグ』、西部の『アクバシュ』、東部の『カルス・ドッグ』が誕生したようです。『カンガール・ドッグ』は、『最強の犬』とも称され、牧羊犬や軍用犬として活躍していたようです。その犬を連想しました。(同上)
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