2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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ドバイ出発が遅れましたが、イスタンブールに到着した後、ダータネル海峡をフェリーで渡りました。エーゲ海の港街、チャナッカレに到着したのは1時半頃でした。シャワーを浴びて2時間ほど睡眠し、4時頃には起床し、暗い内にトロイ遺跡に向けて出発しました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 観光バス 船
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- エミレーツ航空
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- その他
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チャナッカレのホテルを出発したのは、まだ暗いうちでした。その総長光景です。『トロイ遺跡の見学』ですが、その前に、まずは『ハインリヒ・シュリーマン(1822~1920年)』の紹介です。ドイツの考古学者で、実業家でした。ギリシア神話に登場する伝説の都市『トロイア』を発掘しました。1865年には日本にも訪れ、八王子紀行などを記しました。(同上)
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自身の著作では、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしています。これは功名心の高かった彼による後付けの創作である可能性が高いとも指摘されています。発掘当時は『トロイア戦争はホメーロスの創作』と言われ、『トロイアの実在も疑問視されていた』というのもシュリーマンの著作に見られる記述ですが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われていたようです。(同上)
*写真は、『トロイ遺跡の世界遺産標識』の光景です。 -
彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返しました。実際には発掘調査に必要な費用が用意できたので、事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたようです。シュリーマンに厳しい意見を先に紹介しましたが、私個人としては、若い頃に彼の自伝を読み、感激した思い出の方が強く残っています。(同上)
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イチオシ
『トロイの木馬(トロイアの木馬)』のシルエット光景です。勿論、後世の造りものです。ギリシア神話のトロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったとされる装置です。中に人が隠れることができるようになっていました。この伝説の主な典拠は、共和制ローマのラテン語詩人・ウェルギリウスの『アエネーイス』です。また、紀元前8世紀の吟遊詩人・ホメロスの『オデュッセイア』でも言及されています。ギリシャ人のシノーンは味方を裏切ったように装いトローイアの捕虜となりました。シノーンは、拷問にあっても欺きとおし、巨大な木馬を城内に運び込ませることに成功しました。トロイア人は、アテーナーの神殿に木馬を奉納しました。その後、市を挙げて宴会を開き、人々が寝静まり、守衛さえも手薄になりました。(同上)
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それを好機と木馬からオデュッセウスたちが出てきました。そして計画どおり松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れました。その後ギリシア勢はイーリオス市内を暴れ回りました。酔って眠りこけていたトロイア人たちは反撃することができませんでした。トロイアの王プリアモスも殺され、ここにトロイアは滅亡しました。(同上)
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イチオシ
吟遊詩人の『ホメーロス(ホメロス)』についての紹介です。西洋文学最初期の二つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられています。『ホメーロス』という語は、『人質』、もしくは『付き従うことを義務付けられた者』を意味します。今日でも、ホメーロスが実在したのかそれとも作り上げられた人物だったのか、また、二つの叙事詩の作者だったと断ずるのも難しいようです。(同上)
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『ホメーロス』についての紹介の続きです。伝承ではしばしばホメーロスは盲目だったとされ、人格的な個性が与えられています。しかし、彼が実在の人物であったとしても、その時代は確定していません。最も信じられている伝説では、紀元前8世紀とされています。(同上)
*写真は、この地で出土した遺物展示です。この後、ズームアップで紹介します。 -
『イーリアス(Iliad)』は、ホメーロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品です。 ギリシア神話を題材としています。また、『オデュッセイア』は『イーリアス』の続編作品にあたります。英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中の10年間に及ぶ漂泊が語られます。(同上)
*写真は、この地の古城(砦)の復原想像図のようです。 -
白大理石が使われた石柱の一部のようです。中央にさび付いた鉄棒らしいものが見えました。側面に彫刻されているのは、ギリシャ建築で有名な、『アカンサス』です。和名は『ハアザミ(葉薊)』、キツネノゴマ科の植物です。推測ですが、上下が逆になって展示されているのかも知れません。ギリシャ建築では、古い方から順に『ドーリア式』、『イオニア式』、『コリント式』の様式が生まれましたが、アカンサスの装飾は、『コリント式』で用いられました。余談ながら、アカンサスは、地元・名古屋では鶴舞公園など、複数個所で見ることが出来ます。(同上)
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ギリシャ建築の『ドーリア式』の石柱の一部になるようです。上下の繋ぎの部分は、オリジナルではなく、レプリカ(模造品)のようでした。こちらも白大理石が使われているようです。ギリシャ建築の三様式のうち最も古い時代の、紀元前6~5世紀に用いられた様式です。柱は太くてエンタシスが強く、簡素な四角形の柱頭がありますが、柱台はありません。柱頭に鉢形装飾や柱基を持たず、しばしば『荘重』と表現される様式です。(同上)
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『イオニア式』の石柱の遺物は展示されていなかったようです。イオニア式は、 紀元前6世紀半ばに、イオニア人が植民した小アジアの南西沿岸及び島嶼からなるイオニア地方で誕生し、紀元前5世紀 にはギリシア本土でも用いられるようになりました。写真は、この地で出土した大型のツボのようです。石造では作るのが難し用ですから、素焼きの焼き物でしょうか、現代でも『テラコッタ』の呼び名で『鉢』が流通しています。(同上)
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同じく、素焼きらしい大きな壷の展示品です。こちらには、補修した跡らしい筋が見えていました。先ほどの壷より、背丈が低く胴回りはふっくらとしていました。壷と呼ぶより、甕(かめ)の呼び名が正しいかも知れません。『テラコッタ(terra cotta)』は、イタリア語の『焼いた(cotta)・土(terra)』に由来する言葉です。(同上)
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次は、トロイ遺跡についての紹介です。シュリーマンによる発掘が行われるまでは、イリアスは神話上の架空都市というのが一般の通念でした。このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意したと述べています。(同上)
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トロイ遺跡についての紹介が続きます。一般に、シュリーマンによって発掘された遺跡が、『イリオス』に比定されています。神話では、かなりの規模を持った都市国家で、それが事実であった事を示唆する遺構も幾つかは確認されています。しかし、現在は城塞以外の遺構は殆んど残っていません。ギリシア神話では、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされています。(同上)
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伝説では、イリオスのある地域は、スカマンドロス河とニュンペーのイダイアの子であるテウクロスが王として治めていて、テウクロイと呼ばれていいました。そこへアトラースの娘エーレクトラーに、ゼウスが生ませた子であるダルダノスが、サモトラケ島からやって来ました。ダルダノスは、テウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらいました。彼はそこにダルダノスという都市を築き、テウクロス王の死後、テウクロイの一帯はダルダニアと呼ばれるようになりました。(同上)
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ダルダノスの後は、エリクトニオスが相続しました。エリクトニオスの後はトロースが継ぎました。トロースは、自分の名に因んでダルダニアの地を『トロイア』と呼ぶことにしました。トロースは、スカマンドロス河の娘カリロエーと結婚し、クレオパトラー(プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世とは別人)、イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースをもうけました。ガニュメーデースが気に入ったゼウスは、鷲に変身してガニュメーデースを攫い、オリュンポスの給仕係としました。そして、その代償に馬を与えました。(同上)
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トロースの子イーロスは、プリュギアで、その地の王が主催した競技会の相撲の部に優勝し、賞品として50人の少年と50人の少女を得ました。また、王は彼に斑の牛をあたえ、『その牛が横になったところに都市を築けという神託が下ったから、その通りにしなさい』と言いました。イーロスが牛の後についていくと、牛はアテという丘で横になりました。そこでイーロスはそこに都市を築き、『イリオス』と名付けました。(同上)
*写真は、熱心にトロイ遺跡のことを解説してくれた現地ガイドさんです。 -
イーロスは、アドラーストス(テーバイ攻めの七将の一人のアドラーストスとは別人)の娘エウリュディケと結婚し、ラーオメドーンをもうけました。イーロスの後はラーオメドーンが継ぎました。(同上)
*写真は、遺跡に残る石積みの光景です。日本の城郭などでは、横方向に水平を揃えた、『布積み』と呼ばれています。石の表面も平らに加工してあるようです。 -
あるときアポローンとポセイドーンは、ゼウスに対する反乱を企てました。このためゼウスの怒りを買い、イリオス王ラーオメドーンのためにイリオスの城壁を築くという罰を受けました。城壁完成の後にアポローンとポセイドーンが報酬を貰おうとしますと、ラーオメドーンはそれを拒絶しました。アポローンとポセイドーンは怒り、アポローンは疫病で、ポセイドーンは海の怪物でイリオスを悩ませました。(同上)
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その後、怪物にラーオメドーンの娘ヘーシオネーを捧げれば、災いから逃れることができるという神託が下りまし。そこで、海から来る怪物に見えるように、海岸近くの岩にヘーシオネーを縛り付けました。それを見たヘーラクレースは、ガニュメーデースの代償にゼウスが与えた馬をくれるなら、怪物を倒してヘーシオネーを救おうと申し出ました。(同上)
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ラーオメドーンが請合いましたので、ヘーラクレースは、怪物を倒してヘーシオネーを救いました。ヘーラクレースが報酬の馬を貰おうとすると、ラーオメドーンは拒絶しました。ヘーラクレースは、いずれイリオスを攻め落としに来るぞ、と捨て台詞を残して去っていきました。(同上)
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イチオシ
ヘーラクレースは、参加者を募ってイリオス攻めを行いました。18艘の船による軍勢の中にはペーレウス(アキレウスの父)やテラモーン(大アイアース、テウクロスの父)もいました。軍勢は、船をおりてイリオスを目指しました。イリオス王ラーオメドーンは、ヘーラクレースらの留守に船を襲いましたが、逆にヘーラクレースたちに包囲され、捕虜となりました。ヘーラクレース達は、イリオスを包囲し、テラモーンがイリオスへの一番乗りを果たました。(同上)
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ヘーラクレースは、自分よりも優れた者の存在が許せなかったので、テラモーンを殺そうとしました。テラモーンは、機転をきかせて石を集めるふりをしました。不思議に思ったヘーラクレースが、テラモーンに尋ねると、テラモーンは勝利者ヘーラクレースに捧げる祭壇を築いているのだ、と答えました。ヘーラクレースは喜び、ラーオメドーンの娘ヘーシオネーを彼に与えました。(同上)
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戦いの後、ヘーラクレースはヘーシオネーに捕虜のうちから一人だけ連れて行くことを許しました。ヘーシオネーは、ラーオメドーンの息子ポダルケースを選びました。ヘーラクレースがポダルケースの購いを求めると、ヘーシオネーは代償としてベールを差し出しました。この時、ポダルケース以外のラーオメドーンの息子はすべて殺されました。(同上)
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次の伝説の紹介は、『トロイ(トロイア)戦争』です。トロイア戦争(Trojan War)は、ギリシア神話に記述された、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争です。トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものです。(同上)
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この戦争の記述から、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る一大叙事詩環が派生しました。また、ウェルギリウスはトロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を『アエネーイス』で描いています。(同上)
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この戦の起因は、古代ギリシアの叙事詩・『キュプリア』に詳しく述べられています。『大神ゼウスは、増え過ぎた人口を調節するために、ヘーラーとは別の妻でもある、秩序の女神・テミスと試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた』と、その原因を紹介しています。(同上)
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オリンポスでは人間の子ペーレウスとティーターン族の娘テティスの婚儀が行われていましたが、争いの女神・エリスのみはこの饗宴に招待されず、怒った彼女は、「最も美しい女神へ」と書かれた、ヘスペリデスの黄金の林檎(不和の林檎)を神々の座へ投げ入れました。この供物をめぐって、殊にヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神による激しい対立が起りました。(同上)
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ゼウスは、この林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子パリスに委ねました(パリスの審判)。三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ち、ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい女を、それぞれ与える約束を行いました。(同上)
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パリスはその若さによって富と権力を措いて愛を選び、アプロディーテーの誘いによってスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネーを奪い去りました。パリスの妹で、トロイアの王女カッサンドラーは、この事件が国を滅ぼすことになると予言しましたが、アポローンの呪いによって聞き入れられませんでした。(同上、続く)
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