wiz さんのクチコミ(7ページ)全448件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
3人の聖ジュリアンに捧げられ 最終的に名を残したのは 貧者(ル・ポーヴル)聖ジュリアン Eglise Saint-Julien-le-Pauvre (5区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.5
サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会 Eglise Saint-Julien-le-Pauvre はの創立は6世紀、当初はオーヴェルニュ地方のブリウッドの殉教者、聖ジュリアンが祀られ、ついで、ル・マンの司教、聖ジュリアンが合祀されたそうです。 彼はいつも財布が空っぽになるほどの施しをするので、「貧者 ル・ポーヴル le-Pauvre」という名がついたそうです。 ついで、渡し守で施療師であった聖ジュリアンが加わったそうですが、最終的には貧しい者の味方、貧者聖ジュリアン(Saint-Julien-le-Pauvre)がまさって現在の教会の名の由来となったそうです。
この教会は、ノートルダムとほぼ同じ時期にロンポン(Longpont-sur-Orge)修道院の人たちによって1165年から1220年までかかって建てられたもので、13世紀から16世紀までは、パリ大学の集会はこの教会で行われるならわしがあって、学長もここで選出されていたそうです。 1889年からは、メルキト派の典礼カトリック教会。
サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会 のある通り=サン・ジュリアン・ル・ポーヴル通り Rue Saint-Julien le Pauvre は、ルネ・ヴィヴィアーニ小公園 Square Rene Viviani 越しに見るセーヌ河川向こうのノートルダム大聖堂の姿が近くに見え、美しく、撮影スポットとしてもおすすめの場所です。
ここにあったパリ最古(1680年に植えられた)の大樹ニセアカシアの木は、もうだいぶ病気になっていたみたいで、去年切られたのだそうです。- 旅行時期
- 2014年10月
-
13世紀 あざみ(シャルドン Chardon)を植えた囲い地だった場所に建てられた礼拝堂がはじまり Eglise Saint-Nicolas du Chardonnet (5区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.0
サン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会 Eglise Saint-Nicolas du Chardonnet は、13世紀、あざみ(シャルドン Chardon)を植えた囲い地だった場所に建てられた礼拝堂がはじまりなのだそうです。
東に土地がなかったので(正式には東向きが原則)北向きに建てられたようです。 船頭の守護聖人、聖ニコラに捧げられた教会。
画家ユトリロによっても描かれた教会でもあります。- 旅行時期
- 2014年10月
-
サント・ジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の丘に建つ教会 Eglise Saint-Etienne du Mont (5区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.5
サン・テティエンヌ・デュ・モン教会 Eglise Saint-Etienne du Mont は、5世紀、オーセールの司教聖ジェルマンによって列聖されたナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女、蛮族侵入に際しパリを守り活躍)の墓を納めた教会で、思想家パスカルや劇作家ラシーヌも眠る教会。 パンテオンの裏側、サント・ジュヌヴィエーヴの丘に建つ教会です。
パンテオン周辺には、かつて、サント・ジュヌヴィエーヴ修道院 Abbaye Sainte-Genevieve があり、宗教的、法的権威いと領地の”大きさ”の点で、この修道院は サン・ジェルマン・デ・プレ Abbaye de Saint-Germain-des-Pres と肩を並べる存在だったのだそうです。 この”大きさ”というのは、パリの古地図を見るとよく分かります。
ガイドブックなどでは、パンテオン正面側(西側)から見るサン・テティエンヌ・デュ・モン教会の写真が載っていることが多いですが、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会のまわり・・
(1)モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り Rue de la Montagne Sainte Genevieve (聖ジュヌヴィエーヴ/パリの守護聖女が祈るために通った道) から見る サン・テティエンヌ・デュ・モン教会 Eglise Saint-Etienne du Mont を横から見る姿
(2)デカルト通り Rue Descartes から サン・テティエンヌ・デュ・モン通り Rue Saint-Etienne du Mont の狭い道越しに見る サン・テティエンヌ・デュ・モン教会の美しい鐘楼
などもとても美しいです。
この教会横の、サン・テティエンヌ・デュ・モン通り、モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り、ラベ・バセ広場 などは、映画『ミッドナイト・イン・パリ』の中で印象的なシーンが撮られた場所です。- 旅行時期
- 2014年10月
-
パリでロマネスク期の柱頭彫刻が残る数少ない教会のひとつ Eglise abbatiale Saint-Germain-des-Pres (6区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:5.0
パリ市内に残るロマネスク期の教会は少ないですが、その中のひとつが、サン・ジェルマン・デ・プレ教会 Eglise Saint-Germain-des-Pres です。
ギルデベルト1世がスペイン遠征のおり(542年)に聖ヴァンサン(サラゴサで204年に殉教)の着衣と彼の聖遺物を得、それを持ち帰ったが、パリ司教であった聖ジェルマンに促されて、それを祀るために「草原 プレ pres」の真ん中にバジリカを建て558年に完成。 ところが、亡くなって葬られた聖ジェルマンのまわりでさまざまな奇蹟が起こり、治癒体験が生まれたので、少しずつ聖ヴァンサンよりも聖ジェルマンの名前が知られるようになったのだそうです。
教会の名前の由来は、 ”オーセロワ(オーセール)のサン・ジェルマン” (→サン・ジェルマン・ロクセロワ教会) と混同されやすいので 「草原 プレ pres」 がついて、 ”サン・ジェルマン・デ・プレ” となったようです。
この教会の鐘楼の真下の扉口はロマネスク期のもの。 また、周歩回廊の柱頭もロマネスク期のものだそうで、人物、獅子、女面鳥、葉文様などで飾られています。- 旅行時期
- 2014年10月
-
ネロの治下で殉死したローマ軍士官 2人の兄弟 聖ジェルヴェと聖プロテに奉献する Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais (4区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.0
サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais の地には、6世紀当時にすでに、聖ジェルヴェと聖プロテに奉献するバジリカ聖堂があったのだそうです。 聖ジェルヴェと聖プロテの2人は兄弟で、ネロの治下で殉死したローマ軍士官だったのだそうです。
1918年3月29日の聖金曜日に、ドイツ軍の砲弾がこの教会のボールトを吹き飛ばし、信者160人が死傷してしまった、という事件もあったそうです。
画家ユトリロが、サン・ルイ島からルイ・フィリップ橋とこの教会を入れた構図で描いています。- 旅行時期
- 2014年10月
-
生まれつき両腕のなかった画家が足で描いた宗教画 『ガリア人に説教するサン・ドニ』 Eglise Saint-Louis-en-l'ile (4区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.5
サン・ルイ・アン・リル教会 Eglise Saint-Louis-en-l'ile は、サン・ルイ島の中心に位置する教会です。
この教会には、生まれつき両腕のなかった セザール・デュコルネ( Louis Joseph Cesar Ducornet, ne le 10 janvier 1806 a Lille ; mort le 27 avril 1856 a Paris, est un peintre francais. ) という画家が足で描いた 『ガリア人に説教するサン・ドニ』 という宗教画があるというのに、前回訪問した時に見逃したので、今回は見ようと思い、中へ入ったのですが・・ ちょうど16時からの無料コンサートをしていたところでしたので、教会内をあまりうろうろするのも申し訳なかったので、結局今回もまた見れず終いとなってしまいました。 ちょっと残念でしたがまた次回のお楽しみにしておきます。
ただ、ちょうど無料コンサートの時間に入ることができたの点ではラッキーでした。 少しですが、カメラで動画を撮ってきたのでリンクを貼っておきます。 よろしければ・・こちらで。 http://youtu.be/PsU-qJQRxJo- 旅行時期
- 2014年10月
-
宰相リシュリュー、モリエール、ポンパドゥール夫人らの洗礼式、幼いルイ14世の初聖体 などが行われた Eglise Saint Eustache (1区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.0
もともとこの地に、聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂が建ったのは1214年。 それから数年後に、この礼拝堂は ” 聖ウスタッシュ(ウスターシュ)Saint Eustache ” に捧げられることになったのだそうです。
聖ウスタッシュ(=聖ウスターシュ=聖エウスタキウス=よい実を結ぶ木)は、もともとローマ軍の将軍だったが、鹿の角の間に現れた十字架を見てキリスト教に改宗した、という聖人。
→ 聖ウスターシュの改宗を表現したヴェズレーの柱頭彫刻の写真を載せていますので、よろしければコチラで・・。 http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=27123275
現在の教会の礎石が置かれたのは1532年、完成したのは1世紀以上あとの1637年、とのこと。 配置や骨組はゴチック式、装飾はルネッサンス式。
宰相リシュリュー、モリエール、ポンパドゥール夫人らの洗礼式、幼いルイ14世の初聖体、ラ・フォンテーヌ、モリエール、ミラボーらの葬儀なども行われたという教会です。 19世紀にはベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏したこともあるそうです。- 旅行時期
- 2014年10月
-
ルイ13・14・15世時代に王宮礼拝堂 聖バルテルミー事件で有名なコリニー提督の像がある Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre (1区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.0
ルーヴル美術館のすぐ北側に位置するオラトワール・デュ・ルーヴル教会。
この教会の後陣側(ルーヴル美術館側、リヴォリ通り側)には、”コリニー提督の像”があります。
コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人物。( ※ サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 参照 )
16世紀には、この地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうで、ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られ、男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けたという事件もあったそうです。
1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により ” 礼拝堂 ” (1621~30)を建立させ、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には 王宮礼拝堂 となったそうです。- 旅行時期
- 2014年10月
-
ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセールの司教聖ジェルマンを祀った教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois (1区)
投稿日 2014年11月12日
総合評価:4.0
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois は、ルーヴル美術館の東、地下鉄のルーヴル・リヴォリ駅の近くに位置しています。
ここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセールの司教 Saint-Germain-l'Auxerrois で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマン Saint Germain de Paris とは違います。
ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりしたそうです。
1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となったことで有名です。
(※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。)- 旅行時期
- 2014年10月
-
地元の方にも人気みたい サン・ミッシェル界隈、日本人経営の居酒屋さん Lengue
投稿日 2014年10月30日
総合評価:4.0
今回は、滞在ホテルがサン・ミッシェル界隈だったので、旅行前に、サン・ミッシェル界隈の和食が食べられるお店を探していました。 (旅行前から、お腹の調子が良くなかったので、 もしも食べれない状況の時のため。)
フランスやパリ在住の方のブログでこのお店をみつけ、どうやら地元の方にも人気のようなので、お腹の調子もいまいちなので結局行ってみることにしました。
行ってみると(夜2回)、お店のある通りはこの辺では落ち着いた通りなのですが、事前情報どおり、お店はたしかに混んでいました。 (特に21時以降?) 日本人の方もいたし、フランス人の方もけっこういらっしゃいました。 私たちはタイミングが良かったのか2回ともちょうど入れましたが、わりと予約をしてから来る方も多いようです。
カウンターには日本酒が並べられ、隣りの席のフランス人の方もたしなまれていました。
-------------------------------------------------
カウンター前にあったメニューはこんな感じでした。
だいたい、ひとつ3~15EURのようです。
えだまめ、たこわさび、漬物の盛り合わせ。お茶漬け各種、小あじのみりん干し、若鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、小えびの唐揚げ、かぼちゃのコロッケ、揚げ出し豆腐、海老フライ、レバニラ炒め、豚の生姜焼き、牛のたたき、焼き魚、海老チリマヨネーズ・・。 ごはん、お味噌汁など、他にもあったと思います。
-------------------------------------------------
私は、相変わらずお腹の調子が良くなくて、鮭茶漬けを頂きました。
鮭茶漬け(写真左)は、見た目より鮭が多く入っていて、私としては満足でした。 こんぶ茶漬け(写真右)は、私としてはちょっとしょっぱく感じました。
お店の方は、たぶん全員日本人の方で、7~8人はいらっしゃいました。 パリの日本人、がんばっているなぁ、と感じました。 (*^^*)
HPの中で一部日本語表記の情報もあるのでご覧になってみてください。 http://lengue.fr/- 旅行時期
- 2014年10月
-
映画 『ミッドナイト・イン・パリ』 で印象的な あの場所 へ Place de l'Abbe-Basset
投稿日 2014年10月30日
総合評価:5.0
映画『ミッドナイト・イン・パリ Midnight in Paris』(仏:ミニュイ・ア・パリ Minuit a Paris)で印象的なロケ地、 “ 主人公ギルが車に乗り込む あの場所 ” へ行ってきました。
-------------------------------------------------
1人で真夜中のパリを歩いていた(作家志望の)主人公ギルは、道に迷ってラベ・バセ広場に迷い込み、物思いに耽っていると時計台が午前0時の鐘を鳴らす。 そこに、ヴィンテージ・プジョーがやってきて、その車に乗せられたギル。 彼がたどりついたのは、彼の憧れの1920年代のパリだった。 5回ほどタイムトリップしたギルが出会った1920年代の人物は、フィッツジェラルド夫妻、ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン、ピカソとその愛人アドリアナ、ダリ、マン・レイ、ロートレック、ゴーギャンなど、憧れの1920年代パリの伝説の作家や芸術家たちだった。 ・・
-------------------------------------------------
映画の中では、観光名所もたくさん出てきて、これぞパリという目にも楽しい映画ですが、有名な観光名所以外にも美しい通りや広場の風景が出てきて楽しめますよね。 そして、この映画の中で一番印象的なのは、やはり、夜中0時に、主人公ギルを憧れの1920年代のパリへ連れて行ってくれるプジョーがやってきて、その車に乗り込むシーンです。
映画の中で、主人公ギルは、サン・テティエンヌ・デュ・モン通り Rue Saint-Etienne du Mont の狭い道を歩き、ラベ・バセ広場 Place de l'Abbe-Basset に迷い込み、ラベ・バセ広場の前の モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り Rue de la Montagne Sainte Genevieve を走ってくるアンティークなプジョーに乗せられ、車はパンテオン広場 Place du Pantheon の方に去っていきます。 (何度かの)1920年代へのタイムスリップはいつもこのシーンからはじまりました。
こっちからのカットもあったかなぁ、あっちからのカットもあったかなぁ、なんて考えながら、映画を思い出し、たくさん撮ってしまいました^ ^;
パリ5区カルティエ・ラタン地区、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会脇の通り=サン・テティエンヌ・デュ・モン通り Rue Saint-Etienne du Montを デカルト通り Rue Descartes 側から入ると見える教会の塔もとても美しいですし、 曲線を描く坂道=モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り Rue de la Montagne Sainte Genevieve を少し下ったところから見る ラベ・バセ広場 と サン・テティエンヌ・デュ・モン教会 Eglise Saint-Etienne-du-Mont の横からの姿もとても美しいです。
※ちなみに、Google地図で Place de l'Abbe-Basset を検索すると多分ヒットしません。 mappy.frだとちゃんと出てきます。- 旅行時期
- 2014年10月
-
パリがルテティア(仏:リュテス)と呼ばれていた ガロ・ローマ時代(紀元1世紀) の遺跡
投稿日 2014年10月24日
総合評価:4.0
パリに残る最も古い建造物のうちのひとつが、セーヌ川左岸のカルチエ・ラタンにある高台の小さな公園に残る、紀元1世紀の円形闘技場(amphitheatre)、『 アレーヌ・ド・リュテス Arenes de Lutece 』。
パリがルテティア(仏:リュテス)と呼ばれていた ガロ・ローマ時代の遺跡です。
大通りから一歩入ったところですが、静かでのんびりしたところ、現在は地元住民の憩いの場といった感じです。
2000年前のパリに思いを馳せるには、もってこいのスポットです!- 旅行時期
- 2014年10月
-
投稿日 2014年11月07日
総合評価:5.0
シャルトル大聖堂は、1194年の火災でほとんどが焼失し、現在のシャルトル大聖堂の大部分はそれ以後に再建されたものです。
(※最初の建物は、ガロ・ロマン時代(ガリアがローマ帝国の支配下にあった時代)の市の城壁の足元にあり、4世紀にさかのぼります。 司教ジルベール、司教聖フュルベール、などにより時代時代に建てられ、何度か火災にあい再建。 しかしまた1194年に火災。)
しかし、この1194年の火災を逃れた部分があり、それが、大聖堂の有名な 西正面 ”王のポルタイユ” 、有名なステンドグラス ”美しき絵ガラスの聖母” の聖母の部分、そして 地下聖堂 <クリプト> などです。
このクリプトの部分には、現在、ガイドツアーという形でしか入場できないので、見学されたい方は、ガイドツアーで入場できる曜日や時間を公式ホームページで調べて行かれた方が良いと思います。 私たちが訪問した10月の日曜日は、午前にガイドツアーがないので、お昼頃パリ・モンパルナス駅を出て、14時15分からのガイドツアーに間に合うように訪問しました。 ガイドツアーはフランス語でしたが、日本語の説明が書かれたプリントをもらうことができました。 この日本語プリントですと、南翼廊脇の出入口から入って、北翼廊の出入口から出るような順番で説明が書かれていましたが、私たちがまわった時は、この日本語プリントの説明の逆の順番で、北翼廊出入口から入り、地下の周歩廊をまわり、南翼廊出入口から出ました。 ガイドツアーの見学時間は40分くらいでした。 ガイドツアー料金は3ユーロ。
クリプトには、現在のシャルトル大聖堂の建物の中で最も古い部分、ガロ・ロマン時代の(ガリア人たちによって崇拝されていた)奇跡の井戸 ”サン・フォールの井戸” や、カロリング王朝の聖堂である ”聖リュバン聖堂” (そこにガロ・ロマン時代の壁もあり) 、巡礼者が厳しい祈祷に精進するときこもった ”地下聖母聖堂” 、 日時計の天使など王のポルタイユのオリジナルの彫刻の一部がある ”サン・マルタン聖堂”、 12世紀の壁画が残る ”サン・クレメント聖堂” などが残っています。
今日のシャルトル大聖堂が建つ小高い地がキリスト教化される以前はガリア人たちの巡礼地であったという歴史(※シャルトル Chartres の地名は カルヌーテース Carnutes に由来している。 今日大聖堂が建つ所はカルヌーテース族の神聖な場所だった。)、シャルトル大聖堂の歴史、などに興味がある方は、是非、地下聖堂 <クリプト> を見学されてみてはいかがでしょうか。- 旅行時期
- 2014年10月
-
12世紀ロマネスクのステンドグラスがあるというので Eglise Saint-Pierre de Chartres
投稿日 2014年11月04日
総合評価:3.5
シャルトル訪問前に、事前に調べたところによると、フランスに残る ”12世紀ロマネスクのステンドグラス” (※13世紀以降のものは多い。) は、下記に書いたとおりなのですが(有名なもの)・・
その中で、シャルトルには、シャルトル大聖堂(「西正面の三つの窓」、「美しき絵ガラスの聖母」。 ※シャルトル大聖堂のこれ以外はすべて13世紀以降のステンドグラス) より少し早い時期のステンドグラスが、同じシャルトルの サン・ピエール教会 の周歩廊にあるというので、これは行ってみないと・・と思い、ウール川沿いを散歩した後に寄ってみました。
結果、みつけられませんでした。。。
というか、長く続いている シャルトル大聖堂 の修復にお金がかかりすぎているせい?なのか? 原因は分からないですが・・、 同じシャルトルにある ここ サン・ピエール教会 のステンドグラスの状態は痛々しすぎて、悲しくなりました。 探していた12世紀のステンドグラスがあるという周歩廊のステンドグラスは、ところどころプラスチックの板?のようなものがはめられていて悲惨でした。
もしかしたら、今は美術館などで保存されているのか・・。
(※シャロン・シュル・マルヌは博物館にあるみたいなので。)
それとも私が見逃しただけなのか・・。。
-------------------------------------------------
”12世紀ロマネスクのステンドグラス”
-------------------------------------------------
◆印は今回の旅で見てきたもの。
◇印は以前見たもの。
◎西部
1140~45年頃 ル・マン サン・ジュリアン大聖堂 身廊南側廊 「昇天」
1165~70年頃 ポワチエ
サン・ピエール大聖堂 シュヴェ中央の窓 「磔刑」◆
1180年頃 アンジェ サン・モーリス大聖堂
身廊北側 「聖母の葬列と埋葬」
◎イル・ド・フランス(王領の地)
1140~45年頃 聖ベネディクトゥスの昇天を目撃する二人の修道士
サン・ドニ修道院聖堂に由来(クリュニー美) ◇
1145年頃 サン・ドニ修道院聖堂
放射状祭室 シュジェールのステンドグラス◆
1150~55年頃 シャルトル大聖堂 西正面の三つの窓◆
「キリストの幼年時代」 「エッサイの樹」 「受難」
1175年 シャルトル サン・ピエール聖堂 「昇天」 のメダイヨン
1180年頃 シャルトル大聖堂 「美しき絵ガラスの聖母」◆
※サン・ドニは、シュジェール (Suger de Saint-Denis 1081頃~1151 サン・ドニ大修道院長であり、学友のルイ6世と、その子ルイ7世の2代にわたって政治顧問をつとめた。) の時代、さまざまな芸術的傾向が集中した坩堝だった。
◎シャンパーニュ地方
1147年頃 シャロン・シュル・マルヌ 聖エチエンヌ大聖堂 「磔刑」
※シャンパーニュ地方のロマネスクのステンドグラスは様式的にはムーズ川流域に栄えたモザン芸術に属している。
-------------------------------------------------
ちなみに、12世紀の中頃から、シュジェールのサン・ドニ大聖堂を筆頭としてゴシック建築が現れはじめますが、そうしたゴシック建築の構造が建築の採光を変えた時でさえも、ステンドグラスにおいては、ロマネスクの色彩法の原則は踏襲されるケースが多く見られたのだそうです。 サン・ドニのゴシック建築の(放射状祭室の)窓は、なおもロマネスク的な色彩のステンドグラスを受け入れていたのだそうです。 12世紀半ばは、時代的にはロマネスクとゴシックの端境期なので。
※参考: 『世界美術大全集9』 小学館- 旅行時期
- 2014年10月
-
≪サン・ドニ参り・その2≫ 聖ドニが切り落とされた自分の首を洗った場所 Square Suzanne Buisson
投稿日 2014年10月24日
総合評価:4.0
スクワール・シュザンヌ・ビュイッソンは、モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園。
聖ドニが切り落とされた自分の首を洗ったという井戸があった場所に、現在は、サン・ドニ(聖ドニ)の像が立っています。
サクレクール寺院と曲線を描くアブルヴォワール通りを入れたピクチャレスクな構図の写真が撮れるダリダ広場からも近いので、この辺を散策したなら、モンマルトルに縁のある聖ドニ伝説の地に寄ってみてはいかがでしょうか。
パリ市の最初の司教でフランスの国民的聖人で14救難聖人のひとり、聖ディオニシウス( サン・ドニ / 聖ドニ / Saint Denis de Paris、?〜250年頃 )。
彼は、首を切られると、その首を持ってモンマルトル(殉教者の丘)まで歩いたという ” 伝 説 ” が有名ですが、 (※ディオニュシウスは、多くの人々を改宗させたために異教の僧侶の怒りを買い、ドルイドの聖地であったと思われるパリ近郊の最も高い丘(現在のモンマルトル)で斬首刑に処せられた。)
10月9日は、ディオニュシウス(=サン・ドニ =聖ドニ)と、その同志で彼とともに殉教し埋葬された司祭ルスティクス(リュスティック)、助祭エレウテルス(エリュテール)の祝日として伝統的に祝われてきたという日、なのですが・・
今回の旅行の出発日は、10月9日だったので
これも何かの縁と思い?! サン・ドニ参りをしてみました。
≪サン・ドニ参り・その1≫
◎聖ドニが殉教した地が
→ モンマルトルのふもと、現イヴォンヌ・ル・タック通りにある
『マルチリウム・ドゥ・サン・ドニ Martyrium de Saint-Denis』
≪サン・ドニ参り・その2≫
◎聖ドニが切られた自分の首を洗った場所が
→ モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園
『シュザンヌ・ビュイッソン小公園 Square Suzanne Buisson』
≪サン・ドニ参り・その3≫
◎聖ドニが、その後、切られた自分の首を持ちながら、
さらに数キロ北まで歩き、倒れた地が、
→ 現在の『サン・ドニ市 Saint-Denis』
→ サン・ドニの遺体が(ともに殉教した聖リュスティックと
聖エリュテールと並び)安らっている場所が
『サン・ドニ大聖堂 Basilique de Saint-Denis』
(パリの聖ドニに関する伝説はさまざま絡み合っているので複雑ですが・・)- 旅行時期
- 2014年10月
-
≪サン・ドニ参り・その1≫ 聖ドニが殉教した地 Crypte du Martyrium de Saint-Denis
投稿日 2014年11月04日
総合評価:3.5
モンマルトルの丘のふもと、アベス駅に近い、 イヴォンヌ・ル・タク通りに位置する ここ 『クリプト・ドゥ・マルチリウム・ドゥ・サン・ドニ Crypte du Martyrium de Saint-Denis』 は、 ”パリ市の最初の司教” で ”フランスの国民的聖人” で ”14救難聖人のひとり” である 聖ディオニシウス( サン・ドニ / 聖ドニ / Saint Denis de Paris、?〜250年頃 ) が、 聖リュスティック 、 聖エリュテール とともに首をはねられ殉教したといわれる場所、 です。
また、16世紀には、イグナチウス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルたちがイエズス会を結成したのもここの地下礼拝堂だったのだそうです。
地下礼拝堂には、金曜・土曜の15時から入れるのかな?と思い行ってみたのですが、土曜日は入れませんでした。 金曜日だけと書いてあったと思います。 中に入れなかったのはちょっと残念でした。
10月9日は、ディオニュシウス(=サン・ドニ =聖ドニ)と、その同志で彼とともに殉教し埋葬された司祭ルスティクス(リュスティック)、助祭エレウテルス(エリュテール)の祝日として伝統的に祝われてきたという日、なのですが・・
今回の旅行の出発日は、10月9日だったので
これも何かの縁と思い?! サン・ドニ参りをしてみました。
≪サン・ドニ参り・その1≫
◎聖ドニが殉教した地が
→ モンマルトルのふもと、現イヴォンヌ・ル・タック通りにある
『マルチリウム・ドゥ・サン・ドニ Martyrium de Saint-Denis』
≪サン・ドニ参り・その2≫
◎聖ドニが切られた自分の首を洗った場所が
→ モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園
『シュザンヌ・ビュイッソン小公園 Square Suzanne Buisson』
≪サン・ドニ参り・その3≫
◎聖ドニが、その後、切られた自分の首を持ちながら、
さらに数キロ北まで歩き、倒れた地が、
→ 現在の『サン・ドニ市 Saint-Denis』
→ サン・ドニの遺体が(ともに殉教した聖リュスティックと
聖エリュテールと並び)安らっている場所が
『サン・ドニ大聖堂 Basilique de Saint-Denis』
(パリの聖ドニに関する伝説はさまざま絡み合っているので複雑ですが・・)- 旅行時期
- 2014年10月
-
毎年10月第2週末、ブドウの収穫を祝うだけでなく、パレードあり、花火あり、飲食スタンドあり、モンマルトルがいつも以上に盛り上がるイベントです!
投稿日 2014年10月23日
総合評価:5.0
”モンマルトルのブドウ収穫祭”は、毎年10月第2週末にパリ18区、モンマルトル地区で行われるイベントです!
今日もブドウ畑が残るモンマルトルの丘。 このモンマルトルで、その年のぶどう収穫を祝って盛大なお祭り(セレモニーなど)が行われていますが、その他、フランス各地方の文化や名産品を紹介する飲食スタンドなどが立つほか、伝統芸能を紹介するパレードや、花火があがったりします。
2014年のお祭りは、10月8日(水)~12日(日)開催、パレードや花火は土曜日に行われました。 私は、パレードや花火を見たり、予約制イベントのブドウ畑訪問などに参加し、とても楽しかったです。
いつも以上に盛り上がるモンマルトルの楽しいイベント、この時期に旅行される際は、是非出掛けてみてください!
オフィシャル・ホームページ
Fete des vendanges de Montmartre
http://www.fetedesvendangesdemontmartre.com/- 旅行時期
- 2014年10月
-
投稿日 2013年04月20日
総合評価:4.0
パリから、海を見たいと大西洋岸の町ラ・ロシェルへ日帰り列車の旅。
( PARIS MONTPARNASSE ⇔ LA ROCHELLE VILLE 1人2等片道32.5EUR)
列車のチケットは、自宅(日本)で voyages SNCF : http://www.voyages-sncf.com/ から、インターネットにて事前購入しました。 ( * 添付写真2枚目が自宅でA4プリントアウトした早割切符 TGV PREM'S)
往路は、予定どおりの発着でしたが、 復路は、パリに近づき、突然TGVは止まったまま動かず・・ 結局、パリ到着は約1時間遅れました。
当初(海が見たくて)ラ・ロシェルの他に、だいたい同じ時間で行ける南仏のマルセイユも考えたのですが、voyages-SNCFのサイトからインターネットで切符購入をする際に、TGV地中海線の(大幅な)遅れの記事を読んだので、地中海線はやめて、アトランティック(大西洋)線にしてみたのです。
(フランス在住の知人いわく)TGVはけっこう遅れることも頻繁にあり問題もあるみたいですね。 一度止まるとあまり丁寧な案内もなくただ悶々と待たされることが多いようです。
私は列車の中で少し具合が悪かったので、たいした案内もないまま列車が止まっている時間は少々つらかったです。
早めにパリに戻った後は、夜のイベントに行く予定だったので良かったですが、列車で乗換を予定する場合等は、やはり日程に余裕を持った方が良いですね。
とはいえ!インターネット事前購入で列車に乗るのは便利なので、また利用しますけれど!
列車遅延に関する払い戻しについて
http://aide.voyages-sncf.com/toute-laide-train/suite-mon-achat/reclamations/retard-de-votre-train-et-garantie-ponctualite
参考まで、voyages-SNCFインターネット予約(フランス語版)の画面コピーを以下に載せてあります!
http://bit.ly/1mqnyfb- 旅行時期
- 2012年10月
- 利用目的
- 中・長遠距離
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 利便性:
- 5.0
-
パリからヴェズレー(ブルゴーニュ地方)往復 * 行き先分岐に注意 * Gare de Paris-Bercy
投稿日 2012年10月31日
総合評価:5.0
今回、パリから日帰りヴェズレー(ブルゴーニュ地方)への往復をした際に、SNCF(フランス国鉄)のパリ・ベルシー駅を利用しました。
パリから乗った8時38分発の列車(Ter)は、
(添付写真の電光時刻表の一番上2段なのですが)
Ter 8h38 AVALLON
Ter 8h38 CRAVANT−B/CLAMECY PAR AUTOCAR
と表示されているとおり、Avallon 行き と Clamecy 行き の車両が連結していました。
つまり、クラヴァン・バザルヌ Cravant Bazarnes駅 までは車両が連結されていて、(Cravant Bazarnes駅 で、車両が離され、) アヴァヨン Avallon 行き と クレマシー Clamecy 行き に分かれたということです。
(一応乗車時確認したのですがけっこう適当で?!こっちでOKとのことだったのですが) 結局、私たちは、間違った車両に乗っていたらしく・・Cravant Bazarnes駅 で、車掌さんがちゃんと教えに回って来てくれたので、(SERMIZELLES駅まで走る)正しい車両 Avallon 行きの車両に乗り換えられました^^;
この方面に行かれる際は、SNCFパリ・ベルシー駅の電光時刻表と車両に注意されてみて下さい!!!
◆SNCF/ベルシー駅までは・・
(宿泊ホテルのある)メトロ/モンパルナス駅から、メトロ6番線で、メトロ/ベルシー駅まで行き、一旦地上の出口へ。 シャンベルタン通り → ベルシー通り → ★ 階段 → SNCF/ベルシー駅 と歩きました。 (添付写真5の★印が階段)
◆関連クチコミ
ヴェズレーへ列車とバスで移動する場合は aller a Vezelay en train
http://4travel.jp/overseas/area/europe/france-bourgogne/vezelay/tips/10406904/
◆参考: SNCF パリ・ベルシー駅発着 ⇔ ヴェズレー往復(日帰り)日程
往路
08:38 PARIS BERCY(Ter 列車)11:10 SERMIZELLES
11:15 SERMIZELLES(Autocar バス)11:30 VEZELAY
復路
16:19 VEZELAY(Autocar バス)16:34 SERMIZELLES
16:45 SERMIZELLES(Ter 列車)19:22 PARIS BERCY- 旅行時期
- 2012年10月
-
すり鉢状になった庭園斜面に咲くつつじが見事 花の寺 塩船観音寺
投稿日 2014年05月12日
総合評価:4.5
JR青梅線 河辺(かべ)駅 の北方、「花と歴史の寺」として知られる塩船観音寺。 毎年ゴールデンウィーク前後には、塩船観音寺の護摩堂の裏手のすり鉢状の庭園に約2万本の様々なツツジが咲き、その様は見事です。 塩船観音寺のツツジは品種が多く、開花時期がずれる(早咲き中咲き遅咲きがある)ので長い期間観賞することができるそうです。 つつじ開花情報は、公式HPで確認することができます。 ( http://www4.ocn.ne.jp/~kannonji/ )
※ 塩船観音寺(しおふねかんのんじ)は、東京都青梅市塩船にある真言宗醍醐派の別格本山。 山号は大悲山。 関東八十八ヶ所霊場第七十二番札所、東国花の寺百ヶ寺東京第十三番札所、奥多摩新四国八十八ヶ所霊場第五十九番札所。 伝説によれば、大化年間(645年 - 650年)に、若狭国の八百比丘尼(やおびくに)が、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。 「塩船」の名は、天平年間(729-749)に行基がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて船の形に似ているところから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟(ぐぜいのふね)」になぞらえて、名付けられたものと伝えられている。 室町時代後期に建てられた本堂、阿弥陀堂、仁王門(山門)は、本堂内の厨子とともに国の重要文化財に、御本尊の十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音)像、本尊千手観音の眷属の二十八部衆像などは東京都の有形文化財に指定されている。 ツツジが有名で、毎年春(特に5月)にはつつじ祭りが開催されている。- 旅行時期
- 2014年05月
- アクセス:
- 3.0
- JR青梅線河辺(かべ)駅下車 → 西東京バス・都バス ”塩船観音入口” 下車 徒歩10分、 または河辺駅より徒歩約35分
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.5