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2025.05.18.~19.飯能の姉が入居している老人ホームに見舞いに出かけて1泊した。翌日、帰途に茨城の古河市古河公方(こがくぼう)、坂東市の逆井城址(さかさいじょうし)、平将門(たいらのまさかど)の遺跡などを初めて訪れた。<br /><br />【坂東の英雄伝説:平将門(たいらのまさかど)の守り本尊があるという長禅寺を訪ねた。】<br /><br />平将門については先に投稿したが、英雄・将門信仰が関東各地に多い事を知った。将門信仰の関係先のなかでも茨城の取手市の名刹長禅寺(ちょうぜんじ)、我孫子市・日秀観音(ひびりかんのん)と首曲り(くびまがり)地蔵が、片道40kmぐらいと近いこともあって、自らの好奇心を充足するべく、5月30日に回遊した。<br /><br />まずは「茨城百景」の一つに数えられる、取手の名刹長禅寺に向かった。<br />利根川沿いの道を走ると、利根川を渡る大橋のあたりが渋滞して、やや時間を食ったが、橋を渡ってしまえば、茨城の道はスイスイと走ることができた。<br />問題は取手市内である。長禅寺はJR取手駅東口から徒歩3分と近いだけに、駐車場が見つけにくいかなと思っていた。<br />ナビはこんもりと樹木の生い繁った小高い丘の裏手に案内した。<br />急な坂が丘の上に続いていて、上の境内の広さが不明で、車で上るのを躊躇し、結局諦めた。<br />やむなく徒歩10分ほどのセブンイレブンの店まで戻って、駐車させてもらって、再び徒歩で丘を目指した。<br /><br />承平元年(西暦931年)、平将門が祈願寺として創建したと伝えられる長禅寺の丘は取手の町を睥睨(へいげい)するように小高い丘に立っている。<br />裏手の坂を汗をかきかき上がってみると、名刹だけに境内は広く、参詣や墓参の方々が駐車できるスペースが予想以上にあった。<br />さらに正式な表側の登り道である石段そばに、それなりの駐車場が設けられているのが上から見えた。ただ、長禅寺の駐車場なのか?は不明で、有料・無料もわからないのだが・・・。<br />なんだあそこにナビが案内してくれれば、停められて良かったのにと、ぶつぶつ口の中で言ってしまった。<br /><br />汗をかきながら丘を登ったから、老体にはいささかしんどく、涼し気な、緑の森中に立つ、立派な山門を眺めて、小休止だ。<br /><br />写真:取手市・長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)<br />

坂東の英雄伝説:平将門(たいらのまさかど)の守り本尊があるという長禅寺を訪ねた。

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2026/05/30 - 2026/05/30

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jijidaruma

jijidarumaさん

2025.05.18.~19.飯能の姉が入居している老人ホームに見舞いに出かけて1泊した。翌日、帰途に茨城の古河市古河公方(こがくぼう)、坂東市の逆井城址(さかさいじょうし)、平将門(たいらのまさかど)の遺跡などを初めて訪れた。

【坂東の英雄伝説:平将門(たいらのまさかど)の守り本尊があるという長禅寺を訪ねた。】

平将門については先に投稿したが、英雄・将門信仰が関東各地に多い事を知った。将門信仰の関係先のなかでも茨城の取手市の名刹長禅寺(ちょうぜんじ)、我孫子市・日秀観音(ひびりかんのん)と首曲り(くびまがり)地蔵が、片道40kmぐらいと近いこともあって、自らの好奇心を充足するべく、5月30日に回遊した。

まずは「茨城百景」の一つに数えられる、取手の名刹長禅寺に向かった。
利根川沿いの道を走ると、利根川を渡る大橋のあたりが渋滞して、やや時間を食ったが、橋を渡ってしまえば、茨城の道はスイスイと走ることができた。
問題は取手市内である。長禅寺はJR取手駅東口から徒歩3分と近いだけに、駐車場が見つけにくいかなと思っていた。
ナビはこんもりと樹木の生い繁った小高い丘の裏手に案内した。
急な坂が丘の上に続いていて、上の境内の広さが不明で、車で上るのを躊躇し、結局諦めた。
やむなく徒歩10分ほどのセブンイレブンの店まで戻って、駐車させてもらって、再び徒歩で丘を目指した。

承平元年(西暦931年)、平将門が祈願寺として創建したと伝えられる長禅寺の丘は取手の町を睥睨(へいげい)するように小高い丘に立っている。
裏手の坂を汗をかきかき上がってみると、名刹だけに境内は広く、参詣や墓参の方々が駐車できるスペースが予想以上にあった。
さらに正式な表側の登り道である石段そばに、それなりの駐車場が設けられているのが上から見えた。ただ、長禅寺の駐車場なのか?は不明で、有料・無料もわからないのだが・・・。
なんだあそこにナビが案内してくれれば、停められて良かったのにと、ぶつぶつ口の中で言ってしまった。

汗をかきながら丘を登ったから、老体にはいささかしんどく、涼し気な、緑の森中に立つ、立派な山門を眺めて、小休止だ。

写真:取手市・長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 【長禅寺(ちょうぜんじ)】<br />茨城県取手市取手2丁目9-1 <br />Tel:0297-74-0008<br /><br />長禅寺は臨済宗妙心寺派、山号は大鹿山。<br />本尊は地蔵菩薩。<br />承平元年(西暦931年)平 将門が祈願寺として創建したと伝わる。<br /><br />山門から南にあたる、木々の影で黒々とした石段を見下ろす。<br />これが丘の高さを感じさせる石段で、降りるのも怖い感じに見える。右手に駐車場が見えている。<br /><br />写真:長禅寺の表口にある石段。

    【長禅寺(ちょうぜんじ)】
    茨城県取手市取手2丁目9-1 
    Tel:0297-74-0008

    長禅寺は臨済宗妙心寺派、山号は大鹿山。
    本尊は地蔵菩薩。
    承平元年(西暦931年)平 将門が祈願寺として創建したと伝わる。

    山門から南にあたる、木々の影で黒々とした石段を見下ろす。
    これが丘の高さを感じさせる石段で、降りるのも怖い感じに見える。右手に駐車場が見えている。

    写真:長禅寺の表口にある石段。

  • 石段を上がり、登りきった所に、二層の鐘楼門形式の山門があり、その先に三世堂(さんせどう)が見えてくる。<br /><br />茨城県の取手市、守谷市、千葉県の柏市、流山市、我孫子市のあたりは、平将門を祖と称する*相馬氏一族の領地であったと云う。<br /><br />写真:長禅寺の表口にある石段を少し下りて、二層の鐘楼門形式の山門を見上げて撮った。

    石段を上がり、登りきった所に、二層の鐘楼門形式の山門があり、その先に三世堂(さんせどう)が見えてくる。

    茨城県の取手市、守谷市、千葉県の柏市、流山市、我孫子市のあたりは、平将門を祖と称する*相馬氏一族の領地であったと云う。

    写真:長禅寺の表口にある石段を少し下りて、二層の鐘楼門形式の山門を見上げて撮った。

  • *相馬氏の系譜上は桓武天皇の子孫桓武平氏の平将門と伝えられるが、直接の祖は千葉常胤の二男師常である。千葉氏も将門を祖と仰ぎ、千葉師常は下総国相馬郡を領して相馬を称した。<br />奥州征伐の軍功で陸奥国行方郡を与えられて、1323年に重胤が同郡小高に移住。<br />江戸時代には宇多郡中村に居を移して中村藩主家となり、明治維新後は華族の子爵家に列した。通字は「胤」(たね)である。<br /><br />写真:長禅寺の二層の鐘楼門形式の山門

    *相馬氏の系譜上は桓武天皇の子孫桓武平氏の平将門と伝えられるが、直接の祖は千葉常胤の二男師常である。千葉氏も将門を祖と仰ぎ、千葉師常は下総国相馬郡を領して相馬を称した。
    奥州征伐の軍功で陸奥国行方郡を与えられて、1323年に重胤が同郡小高に移住。
    江戸時代には宇多郡中村に居を移して中村藩主家となり、明治維新後は華族の子爵家に列した。通字は「胤」(たね)である。

    写真:長禅寺の二層の鐘楼門形式の山門

  • 山門の柱に「相馬霊場総本地】とあり、ここが相馬新四国八十八ヶ所の一番と八十八番、発願所となっているのだ。<br /><br />山門の右側には「八十八ヶ所総拝堂」があり、四国八十八ヶ所霊場の写しにして結願所である。<br /><br />写真:二層の鐘楼門形式の山門下で

    山門の柱に「相馬霊場総本地】とあり、ここが相馬新四国八十八ヶ所の一番と八十八番、発願所となっているのだ。

    山門の右側には「八十八ヶ所総拝堂」があり、四国八十八ヶ所霊場の写しにして結願所である。

    写真:二層の鐘楼門形式の山門下で

  • 山門は19世紀初頭の建立である。 重層四脚門で上層には梵鐘を吊る。屋根は入母屋造で茅葺(かやぶき)であったのを銅板葺に改めた。<br />二手先挿肘木(さしひじき)で上層の縁を支え、軒(のき)は出三斗(と・・・十字状)。<br /><br />写真:二層の鐘楼門形式の山門を見上げて

    山門は19世紀初頭の建立である。 重層四脚門で上層には梵鐘を吊る。屋根は入母屋造で茅葺(かやぶき)であったのを銅板葺に改めた。
    二手先挿肘木(さしひじき)で上層の縁を支え、軒(のき)は出三斗(と・・・十字状)。

    写真:二層の鐘楼門形式の山門を見上げて

  • 写真:二層の鐘楼門形式の山門

    写真:二層の鐘楼門形式の山門

  • 写真:二層の鐘楼門形式の山門

    写真:二層の鐘楼門形式の山門

  • 写真:二層の鐘楼門形式の山門と「手水舎(てみずや)」

    写真:二層の鐘楼門形式の山門と「手水舎(てみずや)」

  • 写真:長禅寺二層の鐘楼門形式の山門はなかなか佇まいが良い。

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    写真:長禅寺二層の鐘楼門形式の山門はなかなか佇まいが良い。

    長禅寺 寺・神社・教会

  • 写真:長禅寺の「手水舎(てみずや)」

    写真:長禅寺の「手水舎(てみずや)」

  • 丘全体が長禅寺の伽藍(がらん)になっていて、丘に登って初めて、伽藍がこんなに広い面積があるとわかった。<br />森のように木々が大きく育ち、取手の町と隔絶した丘の上はまさに「霊域」と呼ぶにふさわしい場所になっていた。<br /><br />写真:長禅寺境内の桜の大木

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    丘全体が長禅寺の伽藍(がらん)になっていて、丘に登って初めて、伽藍がこんなに広い面積があるとわかった。
    森のように木々が大きく育ち、取手の町と隔絶した丘の上はまさに「霊域」と呼ぶにふさわしい場所になっていた。

    写真:長禅寺境内の桜の大木

  • 梅雨の季節、紫陽花の季節である6月もすぐだ。<br />桜の木の傍に紫陽花が咲きだしている。<br /><br />写真:長禅寺の紫陽花

    梅雨の季節、紫陽花の季節である6月もすぐだ。
    桜の木の傍に紫陽花が咲きだしている。

    写真:長禅寺の紫陽花

  • 桜も、銀杏も育って、いわゆる巨木になっている。<br /><br />写真:長禅寺の銀杏の大木が目立つ。

    イチオシ

    桜も、銀杏も育って、いわゆる巨木になっている。

    写真:長禅寺の銀杏の大木が目立つ。

  • <長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)><br /><br />長禅寺の三世堂(観音堂:県指定文化財)は現存する5つの*栄螺堂(さざえどう)建築の一つで、一見の価値がある。<br />三世堂(さんせどう)とは「過去・現在・未来の三千仏」を祀ることに由来し、観音堂、白嗣殿(はくしでん)とも呼ばれた。<br />『長禅寺地方用録』によると、文暦元年(1234年)に大鹿城主(茨城県取手市白山)であった織部時平(おりべときひら)が建立した観音堂が始まりとある。<br />その後動乱などで荒廃したが、宝暦13年(1763年)に伝堂の祈念と春翁の尽力により百観音堂(白嗣殿)が完成した。<br />寛政2年(1790年)に大風で大破するも、享和元年(1801年)に再建(観音堂)し、これが現在に伝わる。<br />またこれを示す棟札(むなふだ)も残る。<br /><br />*栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。<br />仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋(らせん)構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」や「さざえ堂」「さゞゐ堂」などと呼ばれる。<br /><br />写真:取手市・長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)

    イチオシ

    <長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)>

    長禅寺の三世堂(観音堂:県指定文化財)は現存する5つの*栄螺堂(さざえどう)建築の一つで、一見の価値がある。
    三世堂(さんせどう)とは「過去・現在・未来の三千仏」を祀ることに由来し、観音堂、白嗣殿(はくしでん)とも呼ばれた。
    『長禅寺地方用録』によると、文暦元年(1234年)に大鹿城主(茨城県取手市白山)であった織部時平(おりべときひら)が建立した観音堂が始まりとある。
    その後動乱などで荒廃したが、宝暦13年(1763年)に伝堂の祈念と春翁の尽力により百観音堂(白嗣殿)が完成した。
    寛政2年(1790年)に大風で大破するも、享和元年(1801年)に再建(観音堂)し、これが現在に伝わる。
    またこれを示す棟札(むなふだ)も残る。

    *栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。
    仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋(らせん)構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」や「さざえ堂」「さゞゐ堂」などと呼ばれる。

    写真:取手市・長禅寺の有名な三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)

  • 三世堂はこの日、内部の観覧はできなかった。<br />毎年4月18日は「百観音祭り」でこの日の御開帳日にしか、堂内の立ち入りはできないのだ。<br /><br />写真:長禅寺の縄張り図(スキャンして画像を写した)・・・中央上部に霊山堂(地蔵菩薩・取手大師)と三世堂、左に本堂・客殿・社務所・庫裡、右に太光音霊堂・第八十八番大師堂、中央下部に山門・鐘楼と八十八ヶ所総拝堂・石段、清涼亭が配置されている。

    三世堂はこの日、内部の観覧はできなかった。
    毎年4月18日は「百観音祭り」でこの日の御開帳日にしか、堂内の立ち入りはできないのだ。

    写真:長禅寺の縄張り図(スキャンして画像を写した)・・・中央上部に霊山堂(地蔵菩薩・取手大師)と三世堂、左に本堂・客殿・社務所・庫裡、右に太光音霊堂・第八十八番大師堂、中央下部に山門・鐘楼と八十八ヶ所総拝堂・石段、清涼亭が配置されている。

  • 三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)は方五間で外観は二層だが、内部は三層である。中央に四本の円柱の通し柱があり、角柱が外壁面に並ぶ。 中央4本の柱の周囲にコの字形に仏壇を配し百観音を祀る。 各層を右回りに廻りながら仏像を拝し、一周回り終える箇所にある階段で上層に登り、3層まで登る。3層には縁側が回る。下りは登りとは別の階段で降りる。<br />その間の動線は一切交わらない。<br /><br />写真:三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)の説明版

    三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)は方五間で外観は二層だが、内部は三層である。中央に四本の円柱の通し柱があり、角柱が外壁面に並ぶ。 中央4本の柱の周囲にコの字形に仏壇を配し百観音を祀る。 各層を右回りに廻りながら仏像を拝し、一周回り終える箇所にある階段で上層に登り、3層まで登る。3層には縁側が回る。下りは登りとは別の階段で降りる。
    その間の動線は一切交わらない。

    写真:三世堂(さんせどう)=栄螺堂(さざえどう)の説明版

  • 快慶作と伝わる十一面観音と、西国・秩父・坂東の合わせて百観音を祀る仏堂となっている。<br />外観は二層ですが、内部は三層(三階)になっていて、<br />一階には坂東三十三カ所の観音様が、<br />二階には秩父三十四カ所の、<br />三階には西国三十三カ所の観音様が写されて安置されている。<br />つまり、合わせて「百観音」である。<br /><br />写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)のご本尊は十一面観世音・・・平将門守り本尊

    快慶作と伝わる十一面観音と、西国・秩父・坂東の合わせて百観音を祀る仏堂となっている。
    外観は二層ですが、内部は三層(三階)になっていて、
    一階には坂東三十三カ所の観音様が、
    二階には秩父三十四カ所の、
    三階には西国三十三カ所の観音様が写されて安置されている。
    つまり、合わせて「百観音」である。

    写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)のご本尊は十一面観世音・・・平将門守り本尊

  • かつて会津を訪れた時に体験したのは、日本で5つあると云う内の一つ。<br />国の重要文化財である「会津さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂)」は寛政8年(1796年)、福島県会津若松市の飯盛山に建立された。<br />高さ16.5m、六角三層のお堂である。<br /><br />会津に取手、そしてほかの三つを挙げれば、以下の通りだ。<br /><br />*曹源寺本堂(国の重要文化財):1793年(寛政5年)~1798年(寛政10年)、群馬県太田市<br />*蘭庭院栄螺堂(弘前市指定有形文化財):1839年(天保10年)頃、青森県弘前市<br />*成身院百体観音堂(本庄市指定文化財):1911年(明治44年) 再建、埼玉県本庄市<br /><br />参考写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)の扁額(へんがく)を見上げて

    かつて会津を訪れた時に体験したのは、日本で5つあると云う内の一つ。
    国の重要文化財である「会津さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂)」は寛政8年(1796年)、福島県会津若松市の飯盛山に建立された。
    高さ16.5m、六角三層のお堂である。

    会津に取手、そしてほかの三つを挙げれば、以下の通りだ。

    *曹源寺本堂(国の重要文化財):1793年(寛政5年)~1798年(寛政10年)、群馬県太田市
    *蘭庭院栄螺堂(弘前市指定有形文化財):1839年(天保10年)頃、青森県弘前市
    *成身院百体観音堂(本庄市指定文化財):1911年(明治44年) 再建、埼玉県本庄市

    参考写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)の扁額(へんがく)を見上げて

  • 公開されていない三世堂であったが、建物は風通しのため少し空いていた。<br />失礼して、カメラで堂内を撮らせて頂いた。<br />予想しなかったが、中央にご本尊の十一面観世音菩薩、周囲に坂東三十三か所の観音様が並び立っているのが写っていた。<br /><br />写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)

    公開されていない三世堂であったが、建物は風通しのため少し空いていた。
    失礼して、カメラで堂内を撮らせて頂いた。
    予想しなかったが、中央にご本尊の十一面観世音菩薩、周囲に坂東三十三か所の観音様が並び立っているのが写っていた。

    写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)

  • 写真:十一面観世音菩薩は厨子(ずし)に隠れていて見えないが・・・。

    写真:十一面観世音菩薩は厨子(ずし)に隠れていて見えないが・・・。

  • 正面には、多分将門の守り本尊と思われる、十一面観音が光を浴びて、一段とキラキラと輝いている。(快慶作と伝わる十一面観音がこれなのか不詳)<br />右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に蓮の花を生けた花瓶を持っているから、十一面観世音菩薩でに間違いはない。さらに、頭上に正面の阿弥陀如来の化仏(けぶつ)、それと合わせ11の顔が乗っている形だ。<br /><br />参考写真:将門の守り本尊 十一面観世音菩薩のお姿

    正面には、多分将門の守り本尊と思われる、十一面観音が光を浴びて、一段とキラキラと輝いている。(快慶作と伝わる十一面観音がこれなのか不詳)
    右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に蓮の花を生けた花瓶を持っているから、十一面観世音菩薩でに間違いはない。さらに、頭上に正面の阿弥陀如来の化仏(けぶつ)、それと合わせ11の顔が乗っている形だ。

    参考写真:将門の守り本尊 十一面観世音菩薩のお姿

  • 一階には坂東三十三箇所の観音様が並んでいる。右回りに一回りすると、三十三カ所の巡礼したことに 成るのだ。<br /><br />以下に聖観世音菩薩、 十一面観音菩薩、千手観音菩薩、如意輪観音菩薩、馬頭観音菩薩などのお姿を並べた。(スキャンした画像を明るく細工したが、どれがどこの寺のものかはわからない)<br /><br />参考写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)内の坂東三十三か所の観音様(1階)

    一階には坂東三十三箇所の観音様が並んでいる。右回りに一回りすると、三十三カ所の巡礼したことに 成るのだ。

    以下に聖観世音菩薩、 十一面観音菩薩、千手観音菩薩、如意輪観音菩薩、馬頭観音菩薩などのお姿を並べた。(スキャンした画像を明るく細工したが、どれがどこの寺のものかはわからない)

    参考写真:長禅寺の三世堂(栄螺堂)内の坂東三十三か所の観音様(1階)

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様・十一面観音

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様・十一面観音

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・千手観世音菩薩

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・千手観世音菩薩

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・如意輪観世音菩薩

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・如意輪観世音菩薩

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・馬頭観世音菩薩

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様 ・馬頭観世音菩薩

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様・聖観世音菩薩

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様・聖観世音菩薩

  • 参考写真:坂東三十三箇所の観音様・六臂の観音様<br /><br /><br />・・・・・・・・<br /><br />03 茨城県指定有形文化財 長禅寺 三世堂 (取手の紹介映像・個別) - YouTube<br /><br />

    参考写真:坂東三十三箇所の観音様・六臂の観音様


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    03 茨城県指定有形文化財 長禅寺 三世堂 (取手の紹介映像・個別) - YouTube

  • <取手大師><br /><br />新四国相馬霊場八十八ヶ所第一番、五番、八十八番と、利根川七福神めぐり大黒天、空海の石像も鎮座している。おびんずる様も座っていた。<br /><br />本堂の本尊は地蔵菩薩像を祀る。<br /><br />写真:霊山堂・取手大師堂で

    <取手大師>

    新四国相馬霊場八十八ヶ所第一番、五番、八十八番と、利根川七福神めぐり大黒天、空海の石像も鎮座している。おびんずる様も座っていた。

    本堂の本尊は地蔵菩薩像を祀る。

    写真:霊山堂・取手大師堂で

  • 正しくは「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」様と称する。<br />おびんずる様の像は「なで仏」と呼ばれ、お参りの方が自分の体の悪い部分と同じ所を撫でると、病気やケガが治るという神通力をお持ちだとされている。<br /><br />お釈迦様の弟子の1人であり、さらに「十六羅漢(じゅうろくらかん)」の1人にも位置付けられている。本堂の外へお座りになり、いつも私たちの健康を祈ってくださる存在なのだと云う。<br /><br />おびんずる様は、お釈迦様の弟子の中でも特に優秀な方でした。<br />ところが、びんずる様はある時、大勢の人の前で自らの神通力を見せびらかしてしまいました。<br />それを見たお釈迦様は大変お怒りになり「お前は修行者らしからぬことをした!<br />お前は涅槃(ねはん)に入ることはせず、人々の病を治して救い続けよ!」とおっしゃったと伝わる。<br /><br />写真:霊山堂(取手大師)の外に座るおびんずる様

    正しくは「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」様と称する。
    おびんずる様の像は「なで仏」と呼ばれ、お参りの方が自分の体の悪い部分と同じ所を撫でると、病気やケガが治るという神通力をお持ちだとされている。

    お釈迦様の弟子の1人であり、さらに「十六羅漢(じゅうろくらかん)」の1人にも位置付けられている。本堂の外へお座りになり、いつも私たちの健康を祈ってくださる存在なのだと云う。

    おびんずる様は、お釈迦様の弟子の中でも特に優秀な方でした。
    ところが、びんずる様はある時、大勢の人の前で自らの神通力を見せびらかしてしまいました。
    それを見たお釈迦様は大変お怒りになり「お前は修行者らしからぬことをした!
    お前は涅槃(ねはん)に入ることはせず、人々の病を治して救い続けよ!」とおっしゃったと伝わる。

    写真:霊山堂(取手大師)の外に座るおびんずる様

  • 参考写真:霊山堂・取手大師前に空海の石像もある。

    参考写真:霊山堂・取手大師前に空海の石像もある。

  • 現在の長禅寺の本尊は延命地蔵尊である。<br /><br />長禅寺は承平元年(931年)に、平将門が勅願寺として創建されましたが、新皇の夢破れた将門は天慶三年(940年)には 朝廷の討伐軍に敗れ討死してしまった。<br />その後、*御厨三郎吉秀という人物が、将門の守り本尊十一面観音像を、密かに守り伝えたという。<br />承久元年 (1219年)には、義門和尚を開祖として長禅寺は再興され、文暦元年(1234年)には吉秀の後胤と称する人により四間四面のお堂が 建立され、将門の守り本尊の十一面観音像が祀られたと伝えられている。<br /><br />*平 将頼(たいら の まさより)は将門の弟で、「御厨三郎(みくりやさぶろう)」と称した。<br /><br />写真:霊山堂・取手大師の堂内を写してみたが、ちょっとぼけてしまった。

    現在の長禅寺の本尊は延命地蔵尊である。

    長禅寺は承平元年(931年)に、平将門が勅願寺として創建されましたが、新皇の夢破れた将門は天慶三年(940年)には 朝廷の討伐軍に敗れ討死してしまった。
    その後、*御厨三郎吉秀という人物が、将門の守り本尊十一面観音像を、密かに守り伝えたという。
    承久元年 (1219年)には、義門和尚を開祖として長禅寺は再興され、文暦元年(1234年)には吉秀の後胤と称する人により四間四面のお堂が 建立され、将門の守り本尊の十一面観音像が祀られたと伝えられている。

    *平 将頼(たいら の まさより)は将門の弟で、「御厨三郎(みくりやさぶろう)」と称した。

    写真:霊山堂・取手大師の堂内を写してみたが、ちょっとぼけてしまった。

  • 写真:境内の真ん中に池があり、コイが泳いでいた。

    写真:境内の真ん中に池があり、コイが泳いでいた。

  • 写真:境内の真ん中に池があり、コイが泳いでいた。

    写真:境内の真ん中に池があり、コイが泳いでいた。

  • 境内の池の傍にザクロの様な実をつけたものがあり、社務所の若い僧に聞いてみた。花は咲いていないが、実が付いている。<br /><br />沙羅双樹の木(夏椿)ではないかと家内が言うと、僧はスマホ!で確認してくれた。普通は梅雨の時期に花が咲くらしいが。<br /><br />間違いなく沙羅双樹の木で、見事に鈴なりに実をつけていた。<br />これも見るのも珍しく、かつ久しく、多分、長禅寺のご利益の一つと思えた。<br /><br />写真:沙羅双樹の木(夏椿)の実

    イチオシ

    境内の池の傍にザクロの様な実をつけたものがあり、社務所の若い僧に聞いてみた。花は咲いていないが、実が付いている。

    沙羅双樹の木(夏椿)ではないかと家内が言うと、僧はスマホ!で確認してくれた。普通は梅雨の時期に花が咲くらしいが。

    間違いなく沙羅双樹の木で、見事に鈴なりに実をつけていた。
    これも見るのも珍しく、かつ久しく、多分、長禅寺のご利益の一つと思えた。

    写真:沙羅双樹の木(夏椿)の実

  • 写真:驚くほど実なりが良い、沙羅双樹の木(夏椿)は大きい。

    写真:驚くほど実なりが良い、沙羅双樹の木(夏椿)は大きい。

  • 大鹿山長禅寺 大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派に属しており、朱雀天皇の代の承平元年(西暦931年)に 「平新皇将門相馬小次郎」が勅願所として創建したと伝えられている。<br /><br />将門の没後は、「御厨三郎吉秀」という人物がひそかに守り本尊の十一面観音像を伝えましたが、荒廃が甚だしかったと云われている。<br />それを承久元年(1219年)には義門和尚を開祖として再興を計り、さら に「吉秀後胤織部時平」なる人物が、文暦元年(1234年)に「四間四面御堂」を再建したと 伝う。<br />江戸時代に入ると、慶安2年(1649年)8月24日付で3代将軍徳川家光より寺領5石3斗を賜る朱印状の交付を受け、以後明治維新まで歴代の将軍より朱印状を賜ったと云う。<br /><br />写真:取手・長禅寺略記の説明版

    大鹿山長禅寺 大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派に属しており、朱雀天皇の代の承平元年(西暦931年)に 「平新皇将門相馬小次郎」が勅願所として創建したと伝えられている。

    将門の没後は、「御厨三郎吉秀」という人物がひそかに守り本尊の十一面観音像を伝えましたが、荒廃が甚だしかったと云われている。
    それを承久元年(1219年)には義門和尚を開祖として再興を計り、さら に「吉秀後胤織部時平」なる人物が、文暦元年(1234年)に「四間四面御堂」を再建したと 伝う。
    江戸時代に入ると、慶安2年(1649年)8月24日付で3代将軍徳川家光より寺領5石3斗を賜る朱印状の交付を受け、以後明治維新まで歴代の将軍より朱印状を賜ったと云う。

    写真:取手・長禅寺略記の説明版

  • 参考写真:長禅寺本堂

    参考写真:長禅寺本堂

  • 参考写真:長禅寺社務所

    参考写真:長禅寺社務所

  • 写真:光音霊堂=六角堂・・・宝暦9(1759)年・長禅寺の住職であった、観覚光音禅師が相馬霊場(相馬八十八ヶ所霊場)を開いた。その光音禅師を祀るお堂である。

    写真:光音霊堂=六角堂・・・宝暦9(1759)年・長禅寺の住職であった、観覚光音禅師が相馬霊場(相馬八十八ヶ所霊場)を開いた。その光音禅師を祀るお堂である。

  • 写真:第八十八番大師堂・・・これが相馬霊場の八十八番、結願札所。

    写真:第八十八番大師堂・・・これが相馬霊場の八十八番、結願札所。

  • 坂道を下る左手に、庚申塔(馬頭観音の石碑もある)の並ぶ一隅があり、左手の像は大日如来(だいにちにょらい・・・大いなる太陽の意味)だと云う。<br />よくわからないが、右側に奉造立大日如来為二世安楽也とあり、左側には元禄十三庚辰天とあり、1700年に 建てられたもののようである。<br />大日如来はたしか、私共の守り本尊なので、ご挨拶して帰途についた。<br /><br />写真:坂を下りる手前に庚申塔の並ぶ一隅があった。

    坂道を下る左手に、庚申塔(馬頭観音の石碑もある)の並ぶ一隅があり、左手の像は大日如来(だいにちにょらい・・・大いなる太陽の意味)だと云う。
    よくわからないが、右側に奉造立大日如来為二世安楽也とあり、左側には元禄十三庚辰天とあり、1700年に 建てられたもののようである。
    大日如来はたしか、私共の守り本尊なので、ご挨拶して帰途についた。

    写真:坂を下りる手前に庚申塔の並ぶ一隅があった。

  • 利根川に面した高台に位置する長禅寺は、古くから風光明媚な場所として、取手八景や茨城百景のひとつにも数えられ、地域の人々に愛され親しまれた古刹である。<br /><br />その為か、長禅寺境内には「小林一茶の句碑」、「小川芋銭(おがわうせん)の碑」、取手七福神の大黒天などが残され、また、新聞小説や家庭小説で人気を博した<菊池 幽芳(きくち ゆうほう)のエピソードもいまだに語り継がれている。<br /><br />・・・・・<br /><br /><菊池 幽芳(きくち ゆうほう)のこと><br /><br />「己が罪」・「乳姉妹」などの新聞小説・家庭小説で一世を風靡した菊池 幽芳(きくち ゆうほう:1870年~1947年)は水戸藩士の家に生まれ、旧制水戸中学校(現県立水戸第一高校)を卒業後、取手高等小学校(現市立取手小学校)の教師となり、この地で下宿生活をおくった。<br />幽芳は下宿屋のとなりの染物屋の娘さんと親しくなり、明治24年(1891年)3月に婚約した。この時、幽芳は数え年で22歳、相手の杉浦玉枝は17歳でした。<br />同年の8月、幽芳は大阪毎日新聞社編集局に入社している<br />取手を離れ大阪に赴任することになった幽芳は、婚約者と長禅寺の三世堂にのぼり、三層目の高欄で、しばしの別れを惜しんだと云う。<br />日はまさに西に落ちんとし、利根川の水は金色に輝き、また富士山がくっきりと見えたそうです。<br />後に明治28年(1895年)12月、幽芳は玉枝と結婚し、終生恵まれた家庭生活をおくったと云う。 <br /><br />大阪毎日新聞社に入社後、「家庭小説」というジャンルを確立し、、第一人者となる。作品を連載しながら、社会部長、学芸部長、副主幹を歴任し、1924年には同社の取締役に昇進した。1926年には相談役に就任した。<br /><br />尚、菊池幽芳は取手に住んでいたころ、長禅寺の三世堂(栄螺堂)に幾たびか登ったと自叙伝に記しているというから、明治の頃は自由に堂内に入れたのだろう。<br /><br />写真:長禅寺の清涼亭(スキャンして画像を写した)・・・清涼亭は小川芋銭(おがわうせん)が命名したと云う。

    利根川に面した高台に位置する長禅寺は、古くから風光明媚な場所として、取手八景や茨城百景のひとつにも数えられ、地域の人々に愛され親しまれた古刹である。

    その為か、長禅寺境内には「小林一茶の句碑」、「小川芋銭(おがわうせん)の碑」、取手七福神の大黒天などが残され、また、新聞小説や家庭小説で人気を博した<菊池 幽芳(きくち ゆうほう)のエピソードもいまだに語り継がれている。

    ・・・・・

    <菊池 幽芳(きくち ゆうほう)のこと>

    「己が罪」・「乳姉妹」などの新聞小説・家庭小説で一世を風靡した菊池 幽芳(きくち ゆうほう:1870年~1947年)は水戸藩士の家に生まれ、旧制水戸中学校(現県立水戸第一高校)を卒業後、取手高等小学校(現市立取手小学校)の教師となり、この地で下宿生活をおくった。
    幽芳は下宿屋のとなりの染物屋の娘さんと親しくなり、明治24年(1891年)3月に婚約した。この時、幽芳は数え年で22歳、相手の杉浦玉枝は17歳でした。
    同年の8月、幽芳は大阪毎日新聞社編集局に入社している
    取手を離れ大阪に赴任することになった幽芳は、婚約者と長禅寺の三世堂にのぼり、三層目の高欄で、しばしの別れを惜しんだと云う。
    日はまさに西に落ちんとし、利根川の水は金色に輝き、また富士山がくっきりと見えたそうです。
    後に明治28年(1895年)12月、幽芳は玉枝と結婚し、終生恵まれた家庭生活をおくったと云う。

    大阪毎日新聞社に入社後、「家庭小説」というジャンルを確立し、、第一人者となる。作品を連載しながら、社会部長、学芸部長、副主幹を歴任し、1924年には同社の取締役に昇進した。1926年には相談役に就任した。

    尚、菊池幽芳は取手に住んでいたころ、長禅寺の三世堂(栄螺堂)に幾たびか登ったと自叙伝に記しているというから、明治の頃は自由に堂内に入れたのだろう。

    写真:長禅寺の清涼亭(スキャンして画像を写した)・・・清涼亭は小川芋銭(おがわうせん)が命名したと云う。

  • <小川芋銭(おがわうせん)先生景慕之碑><br /><br />坂を上り切った所に、「小川芋銭先生敬慕の碑」がある。<br />茨城県牛久市出身の日本画家で、<かっぱの芋銭>と称された小川芋銭(1868年~1938年)の顕彰碑は、表の碑文を高村光太郎が書いた。<br />芋銭は、牛久藩の大目付の家に生まれ、廃藩置県後も牛久に住み、農業を営みながら画業を続けた。 川端龍子(かわばた りゅうし)らと珊瑚会を結成、横山大観に認められ日本美術院同人となっている。長女が文村(現利根町)の弓削家に嫁いだことから、晩年の2年間を利根町に暮らした。<br /><br />参考写真:小川芋銭先生敬慕の碑(取手市長禅寺)

    <小川芋銭(おがわうせん)先生景慕之碑>

    坂を上り切った所に、「小川芋銭先生敬慕の碑」がある。
    茨城県牛久市出身の日本画家で、<かっぱの芋銭>と称された小川芋銭(1868年~1938年)の顕彰碑は、表の碑文を高村光太郎が書いた。
    芋銭は、牛久藩の大目付の家に生まれ、廃藩置県後も牛久に住み、農業を営みながら画業を続けた。 川端龍子(かわばた りゅうし)らと珊瑚会を結成、横山大観に認められ日本美術院同人となっている。長女が文村(現利根町)の弓削家に嫁いだことから、晩年の2年間を利根町に暮らした。

    参考写真:小川芋銭先生敬慕の碑(取手市長禅寺)

  • 河童の絵で有名な芋銭は画家であり、また和歌や俳句もたしなむ文人でした。取手の「水月会」の句会に参加したのが、取手とのつながりができた。ここ長禅寺でもしばしば画会を開きました。<br /><br />高村光太郎(大正から昭和の詩人で彫刻家(1883年~1956年)の妻智恵子の看病をした姪で看護婦の春子が、取手の宮崎稔と結婚したことから、取手に 縁があったと云う。光太郎も何度か取手を訪ね、「利根川の美しさは空間の美である」との名言を残している。<br />宮崎稔の父の仁十郎は、 芋銭や光太郎と親しく交際しており、碑の裏面の文章は仁十郎が書いた。<br /><br />参考写真:小川芋銭(おがわ うせん)先生の河童の絵

    河童の絵で有名な芋銭は画家であり、また和歌や俳句もたしなむ文人でした。取手の「水月会」の句会に参加したのが、取手とのつながりができた。ここ長禅寺でもしばしば画会を開きました。

    高村光太郎(大正から昭和の詩人で彫刻家(1883年~1956年)の妻智恵子の看病をした姪で看護婦の春子が、取手の宮崎稔と結婚したことから、取手に 縁があったと云う。光太郎も何度か取手を訪ね、「利根川の美しさは空間の美である」との名言を残している。
    宮崎稔の父の仁十郎は、 芋銭や光太郎と親しく交際しており、碑の裏面の文章は仁十郎が書いた。

    参考写真:小川芋銭(おがわ うせん)先生の河童の絵

  • <小林一茶の句碑><br /><br />長禅寺の境内に立つ高さ約1m余の自然石の碑に<br />「下総(しもうさ)の 四国廻や 閑古鳥(かんこどり)」の句が刻まれている。<br />・・・・・「閑古鳥」の読みは「かんこどり」で、「カッコー」のことである。この言葉は夏の季語なので、句の意味は【下総(今の千葉県の北西部)の「新四国相馬霊場八十八か所(札所めぐり=弘法大師巡礼)」を巡る夏場の時期は、のどかな(長閑)な雰囲気がしていた。】といったことでしょう。<br />(文化7年4月(1810年)に詠む)<br /><br />この句は長禅寺を中心とした*「新四国相馬霊場八十八か所(札所めぐり=弘法大師巡礼)」を詠んだものだそうだ。一茶の句碑は小川芋銭の筆によるもの。<br /><br />小林一茶は江戸時代後期の俳人で、現利根町の布川や現守谷市にある*西林寺(さいりんじ)をしばしば訪ねていることから、取手にも立ち寄ったとされている。<br /><br />*「新四国相馬八十八カ所霊場」は、現在の取手市~我孫子市周辺に現在も多くが残されているそうだ。この霊場は今から約250年前頃に、観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したと云われている。<br />この霊場巡りは利根川の両岸に沿って比較的狭い範囲に集中しており、徒歩と渡し舟で二泊三日をかけて廻ることができた。このため、手軽なお遍路として江戸の人達に人気があった。<br /><br />参考写真:小林一茶の句碑(取手市長禅寺)<br />

    <小林一茶の句碑>

    長禅寺の境内に立つ高さ約1m余の自然石の碑に
    「下総(しもうさ)の 四国廻や 閑古鳥(かんこどり)」の句が刻まれている。
    ・・・・・「閑古鳥」の読みは「かんこどり」で、「カッコー」のことである。この言葉は夏の季語なので、句の意味は【下総(今の千葉県の北西部)の「新四国相馬霊場八十八か所(札所めぐり=弘法大師巡礼)」を巡る夏場の時期は、のどかな(長閑)な雰囲気がしていた。】といったことでしょう。
    (文化7年4月(1810年)に詠む)

    この句は長禅寺を中心とした*「新四国相馬霊場八十八か所(札所めぐり=弘法大師巡礼)」を詠んだものだそうだ。一茶の句碑は小川芋銭の筆によるもの。

    小林一茶は江戸時代後期の俳人で、現利根町の布川や現守谷市にある*西林寺(さいりんじ)をしばしば訪ねていることから、取手にも立ち寄ったとされている。

    *「新四国相馬八十八カ所霊場」は、現在の取手市~我孫子市周辺に現在も多くが残されているそうだ。この霊場は今から約250年前頃に、観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したと云われている。
    この霊場巡りは利根川の両岸に沿って比較的狭い範囲に集中しており、徒歩と渡し舟で二泊三日をかけて廻ることができた。このため、手軽なお遍路として江戸の人達に人気があった。

    参考写真:小林一茶の句碑(取手市長禅寺)

  • 参考写真:小川芋銭先生の絵(一茶の句碑・取手市長禅寺)

    参考写真:小川芋銭先生の絵(一茶の句碑・取手市長禅寺)

  • *<天台宗 西林寺(さいりんじ)><br />茨城県守谷市本町726)<br />この寺は将門が創建し、守谷で最も大寺(平将門の子孫と伝わる相馬氏の菩提寺)であったと伝えられている。<br />平将門がたて籠もった旧跡ということで、籠山(こもりやま)の名がある。<br />また、境内のシダレザクラは市の指定保存木であり、「西林寺の遺跡」は守谷八景の一つとなっている。<br />当時の住職と親しかった小林一茶は守谷に来た際には西林寺で過ごす事が多かったと云われ、将門のことを句に詠みました。<br />「梅さくや平親王の御月夜」<br /><br />また、境内には守谷のことを詠んだ句が刻まれた句碑もある。<br />「行くとしや空の名残を守谷まで」<br />(文化7年(1810年)12月23日に詠む)<br /><br />参考写真:守谷市西林寺の一茶の句碑<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />坂東の英雄は「将門信仰」を通して、この地方の人々にはいまだに身近なものになっているようだ。<br />長禅寺を訪れれば、新たに守谷市の西林寺といった将門・相馬氏の菩提寺まで出てきて、際限なく広がっていくようだ。<br /><br />   (2026年06月06日Wiki・HP参考、編集追記)<br />

    *<天台宗 西林寺(さいりんじ)>
    茨城県守谷市本町726)
    この寺は将門が創建し、守谷で最も大寺(平将門の子孫と伝わる相馬氏の菩提寺)であったと伝えられている。
    平将門がたて籠もった旧跡ということで、籠山(こもりやま)の名がある。
    また、境内のシダレザクラは市の指定保存木であり、「西林寺の遺跡」は守谷八景の一つとなっている。
    当時の住職と親しかった小林一茶は守谷に来た際には西林寺で過ごす事が多かったと云われ、将門のことを句に詠みました。
    「梅さくや平親王の御月夜」

    また、境内には守谷のことを詠んだ句が刻まれた句碑もある。
    「行くとしや空の名残を守谷まで」
    (文化7年(1810年)12月23日に詠む)

    参考写真:守谷市西林寺の一茶の句碑

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    坂東の英雄は「将門信仰」を通して、この地方の人々にはいまだに身近なものになっているようだ。
    長禅寺を訪れれば、新たに守谷市の西林寺といった将門・相馬氏の菩提寺まで出てきて、際限なく広がっていくようだ。

       (2026年06月06日Wiki・HP参考、編集追記)

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