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茨城の古河市古河公方(こがくぼう)、坂東市の逆井城址(さかさいじょうし)、平将門(たいらのまさかど)の遺跡など初めて訪れた。<br /><br />古来、この地は【坂東(ばんどう)】と称し、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称であった。<br />とりわけ勇猛な坂東武者(ばんどうむしゃ)は世に知られた存在であった。<br /><br />いずれも興味深い所で、千葉県の隣県ながら、今まで訪れたことがなかったのが不思議である。<br /><br />今回は板東に覇を唱えた平将門(たいらのまさかど)、関東一円を席捲(せっけん)する反乱で朝廷を震撼させた将門の遺跡巡りを書いてみたい。<br /><br />参考写真は*豊原国周作錦絵「前太平記擬玉殿(ぜんたいへいきまがいのぎょくでん) 平親王将門(たいらのしんのうまさかど)」<br /><br />*豊原国周(とよはら くにちか、旧字体は豐原國周、天保6年〈1835年〉~ 明治33年〈1900年〉は、幕末から明治にかけての浮世絵師。「明治の写楽」と称されるなど、役者絵の第一人者として活躍する一方、繊細かつ優美な美人画でも人気を得た。

坂東の地は英雄、あるいは朝敵(ちょうてき)と云われた男を生んだ。その名を平将門(たいらのまさかど)という。

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2025/05/19 - 2025/05/19

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旅行記グループ 日本の小旅行2

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jijidaruma

jijidarumaさん

茨城の古河市古河公方(こがくぼう)、坂東市の逆井城址(さかさいじょうし)、平将門(たいらのまさかど)の遺跡など初めて訪れた。

古来、この地は【坂東(ばんどう)】と称し、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称であった。
とりわけ勇猛な坂東武者(ばんどうむしゃ)は世に知られた存在であった。

いずれも興味深い所で、千葉県の隣県ながら、今まで訪れたことがなかったのが不思議である。

今回は板東に覇を唱えた平将門(たいらのまさかど)、関東一円を席捲(せっけん)する反乱で朝廷を震撼させた将門の遺跡巡りを書いてみたい。

参考写真は*豊原国周作錦絵「前太平記擬玉殿(ぜんたいへいきまがいのぎょくでん) 平親王将門(たいらのしんのうまさかど)」

*豊原国周(とよはら くにちか、旧字体は豐原國周、天保6年〈1835年〉~ 明治33年〈1900年〉は、幕末から明治にかけての浮世絵師。「明治の写楽」と称されるなど、役者絵の第一人者として活躍する一方、繊細かつ優美な美人画でも人気を得た。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 平将門の史跡である國王神社(こくおうじんじゃ)は合併前の旧岩井市にある。<br />車のアクセスは常磐道「谷和原IC」より車でR294経由約18km30分。<br />また、公共交通だと。東武愛宕駅→茨城急行バス岩井行きで30分、バス停岩井局前より車で約5分。<br /><br />駐車場は県道20号線沿い、國王神社境内の東側にあり、ナビに導かれて、駐車場に止める。<br />月曜日とあって、ほとんど人の姿がない。<br /><br /><國王神社(こくおうじんじゃ)><br /><br />住所:〒306-0631 茨城県坂東市岩井951<br />駐車場:有り(無料)15台<br /><br />千年という長い年が経過してきましたが、逆族(ぎゃくぞく)とされて来た平将門を祀る神社が、今まで残っていること自体が不思議で、いわゆる奇跡と云っても良いかもしれません。<br /><br />写真は國王神社(こくおうじんじゃ)のある坂東市周辺Map

    平将門の史跡である國王神社(こくおうじんじゃ)は合併前の旧岩井市にある。
    車のアクセスは常磐道「谷和原IC」より車でR294経由約18km30分。
    また、公共交通だと。東武愛宕駅→茨城急行バス岩井行きで30分、バス停岩井局前より車で約5分。

    駐車場は県道20号線沿い、國王神社境内の東側にあり、ナビに導かれて、駐車場に止める。
    月曜日とあって、ほとんど人の姿がない。

    <國王神社(こくおうじんじゃ)>

    住所:〒306-0631 茨城県坂東市岩井951
    駐車場:有り(無料)15台

    千年という長い年が経過してきましたが、逆族(ぎゃくぞく)とされて来た平将門を祀る神社が、今まで残っていること自体が不思議で、いわゆる奇跡と云っても良いかもしれません。

    写真は國王神社(こくおうじんじゃ)のある坂東市周辺Map

  • 【國王神社(こくおうじんじゃ)と将門座像】<br /><br />坂東市街から結城(ゆうき)街道を沓掛(くつかけ)に向かう左側に、杉木立におおわれて國王神社がある。<br /><br />天禄3年(西暦972年)創建の平将門を祭る神社が森の中の一角にあった。<br />坂東の覇者であり英雄と称された将門の神社にしては少々小さい。<br />それも長く朝敵(ちょうてき:京の朝廷の敵)あるいは反逆者として朝廷(藤原秀郷・平貞盛連合軍)の追討を受けて戦死したこともあって、遠慮がちの大きさになったのだろうか。<br /><br />國王神社では、将門の三女・如蔵尼が亡き父の魂を慰めるために三十三回忌に刻んだ木造の坐像をご神体として祭っている。<br /><br />背の高い杉並木の参道の先には、当時を思わせる茅葺き屋根の拝殿がある。<br />本殿にはつながれた馬をかたどった紋章があり、駿馬に乗った将門が再び朝廷に反旗をひるがえす朝敵(ちょうてき)にならないことを示すために彫られたと伝えられる。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の鳥居と参道<br /><br />

    【國王神社(こくおうじんじゃ)と将門座像】

    坂東市街から結城(ゆうき)街道を沓掛(くつかけ)に向かう左側に、杉木立におおわれて國王神社がある。

    天禄3年(西暦972年)創建の平将門を祭る神社が森の中の一角にあった。
    坂東の覇者であり英雄と称された将門の神社にしては少々小さい。
    それも長く朝敵(ちょうてき:京の朝廷の敵)あるいは反逆者として朝廷(藤原秀郷・平貞盛連合軍)の追討を受けて戦死したこともあって、遠慮がちの大きさになったのだろうか。

    國王神社では、将門の三女・如蔵尼が亡き父の魂を慰めるために三十三回忌に刻んだ木造の坐像をご神体として祭っている。

    背の高い杉並木の参道の先には、当時を思わせる茅葺き屋根の拝殿がある。
    本殿にはつながれた馬をかたどった紋章があり、駿馬に乗った将門が再び朝廷に反旗をひるがえす朝敵(ちょうてき)にならないことを示すために彫られたと伝えられる。

    写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の鳥居と参道

    國王神社 寺・神社・教会

  • 写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道傍に神社の来歴が書かれたものがある。新しい所為か、見やすい看板だ。<br />

    写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道傍に神社の来歴が書かれたものがある。新しい所為か、見やすい看板だ。

  • 古風な木造*両部鳥居(りょうぶとりい)をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われる。<br /><br />*両部鳥居(りょうぶとりい)とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、貫ぬきで連結したもの。神仏習合の神社に多い。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道<br />

    古風な木造*両部鳥居(りょうぶとりい)をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われる。

    *両部鳥居(りょうぶとりい)とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、貫ぬきで連結したもの。神仏習合の神社に多い。

    写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道

  • 背の高い杉並木の参道には朱色と青の旗が賑々(にぎにぎ)しく並んで、参詣客を迎えている。<br />その先には参道の様子とはうって変わって、質素な、当時を思わせる茅葺き屋根の拝殿がある。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道<br />

    背の高い杉並木の参道には朱色と青の旗が賑々(にぎにぎ)しく並んで、参詣客を迎えている。
    その先には参道の様子とはうって変わって、質素な、当時を思わせる茅葺き屋根の拝殿がある。

    写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の参道

  • 常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられて、気に入った。<br />祭神はもちろん平将門命(たいら の まさかど の みこと)です。<br /><br />・國王神社本殿(県指定有形文化財)<br />・國王神社拝殿(県指定有形文化財)<br />・寄木造平将門の木像(県指定有形文化財)<br /><br />國王神社は下総に勢力を持っていた将門の後裔を自認する「相馬氏」により長年管理されてきた。江戸時代には徳川家光から10石の寄進を受け、将門大明神と呼ばれていた<br /><br />写真:平将門を祭る、小ぢんまりした國王神社(こくおうじんじゃ)の拝殿・・・屋根の棟木(むなぎ)の部分には神紋の「九曜紋(くようもん:中心に大きな1つの星を置き、その周囲に8つの星を配したもの)」が3つ。九曜紋は将門公の紋である。

    イチオシ

    常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられて、気に入った。
    祭神はもちろん平将門命(たいら の まさかど の みこと)です。

    ・國王神社本殿(県指定有形文化財)
    ・國王神社拝殿(県指定有形文化財)
    ・寄木造平将門の木像(県指定有形文化財)

    國王神社は下総に勢力を持っていた将門の後裔を自認する「相馬氏」により長年管理されてきた。江戸時代には徳川家光から10石の寄進を受け、将門大明神と呼ばれていた

    写真:平将門を祭る、小ぢんまりした國王神社(こくおうじんじゃ)の拝殿・・・屋根の棟木(むなぎ)の部分には神紋の「九曜紋(くようもん:中心に大きな1つの星を置き、その周囲に8つの星を配したもの)」が3つ。九曜紋は将門公の紋である。

  • <将門とは?><br /><br />平 将門(たいら の まさかど、延喜3年〈西暦903年〉~ 天慶3年2月14日〈西暦940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族でした。<br />将門は第50代桓武天皇四代の皇胤(こういん・・・天皇の血筋)であり、平氏の姓を授けられた平高望王(たいら の たかもち おう)の子で*鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)である平良将(たいらのよしまさ)の子である。  <br /><br />*奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官をいう。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされていた。<br /><br />将門は下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰(いんやく)を奪い、京都の朝廷朱雀天皇(すざくてんのう)に対抗し「新皇(しんのう)」を称した。<br />東国の独立を標榜し、朱雀天皇の朝敵となったが、藤原秀郷・平貞盛らによって討伐された(平将門の乱)。  <br />将門の敗死後、朝廷のさらなる追討により将門の弟や子ら近親者も皆殺しにされ、将門の首は平安京にて晒し首となり、獄門が日本史上で確認されている最も古く記録された例が将門となった。<br />将門の死は、坂東の地は勿論、全国的に怨霊話となって、いまだに世に知られているのが興味深いものだ。<br /><br />中世以降将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により、平親王や日本将軍として受け入れられ、逆臣的要素が払拭され、「将門伝説」が伝承されていった。<br />将門伝説は、千葉一族の分布する場所に多く見られると云う。<br /><br />近世の徳川時代になると、東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。勅使として江戸にいた烏丸光広(からすまる みつひろ:江戸時代前期の公卿・歌人・能書家)は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上し、寛永三年(1626年)12月9日後水尾天皇によって勅免を受ける。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に、民衆の支持を受けたといえる。<br />その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、将門を日本三大怨霊の一つとするのもこの頃からと考えられる。<br /><br /><日本三大怨霊>の一人としても知られるが、仁義に厚く温かい人物であったとされており、後に御首神社(みくびじんじゃ)・築土神社(つくどじんじゃ)・神田明神・國王神社などに祀られた。<br />尚、日本の三大怨霊は、菅原道真、平将門、崇徳天皇(すとくてんのう)の三人であり、彼らはそれぞれ特異な背景と怨念を持つ存在として知られている。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の拝殿内はやや薄暗い。<br />

    <将門とは?>

    平 将門(たいら の まさかど、延喜3年〈西暦903年〉~ 天慶3年2月14日〈西暦940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族でした。
    将門は第50代桓武天皇四代の皇胤(こういん・・・天皇の血筋)であり、平氏の姓を授けられた平高望王(たいら の たかもち おう)の子で*鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)である平良将(たいらのよしまさ)の子である。

    *奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官をいう。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされていた。

    将門は下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰(いんやく)を奪い、京都の朝廷朱雀天皇(すざくてんのう)に対抗し「新皇(しんのう)」を称した。
    東国の独立を標榜し、朱雀天皇の朝敵となったが、藤原秀郷・平貞盛らによって討伐された(平将門の乱)。
    将門の敗死後、朝廷のさらなる追討により将門の弟や子ら近親者も皆殺しにされ、将門の首は平安京にて晒し首となり、獄門が日本史上で確認されている最も古く記録された例が将門となった。
    将門の死は、坂東の地は勿論、全国的に怨霊話となって、いまだに世に知られているのが興味深いものだ。

    中世以降将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により、平親王や日本将軍として受け入れられ、逆臣的要素が払拭され、「将門伝説」が伝承されていった。
    将門伝説は、千葉一族の分布する場所に多く見られると云う。

    近世の徳川時代になると、東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。勅使として江戸にいた烏丸光広(からすまる みつひろ:江戸時代前期の公卿・歌人・能書家)は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上し、寛永三年(1626年)12月9日後水尾天皇によって勅免を受ける。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に、民衆の支持を受けたといえる。
    その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、将門を日本三大怨霊の一つとするのもこの頃からと考えられる。

    <日本三大怨霊>の一人としても知られるが、仁義に厚く温かい人物であったとされており、後に御首神社(みくびじんじゃ)・築土神社(つくどじんじゃ)・神田明神・國王神社などに祀られた。
    尚、日本の三大怨霊は、菅原道真、平将門、崇徳天皇(すとくてんのう)の三人であり、彼らはそれぞれ特異な背景と怨念を持つ存在として知られている。

    写真:平将門を祭る國王神社(こくおうじんじゃ)の拝殿内はやや薄暗い。

  • <将門の生い立ち・平氏一族の争い><br /><br /> 父の鎮守府将軍平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現・千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされている。<br />将門は地方より15歳の時に平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を主君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士(9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士)でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。<br />将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが昇進できなかった。この後、将門は東下する。関東の地に戻った際、伯父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている。 以後「平将門の乱」へつながる騒擾がおこるが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていないと云う。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社も拝殿内に恐ろし気な、坂東武者の棟梁将門を描いた絵が見えた。

    イチオシ

    <将門の生い立ち・平氏一族の争い>

    父の鎮守府将軍平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現・千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされている。
    将門は地方より15歳の時に平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を主君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士(9世紀末頃から蔵人所の下で内裏の警護にあたっていた武士)でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。
    将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが昇進できなかった。この後、将門は東下する。関東の地に戻った際、伯父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている。 以後「平将門の乱」へつながる騒擾がおこるが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていないと云う。

    写真:平将門を祭る國王神社も拝殿内に恐ろし気な、坂東武者の棟梁将門を描いた絵が見えた。

  • 國王神社(こくおうじんじゃ)は、茨城県坂東市にある神社で、『神社分限帳』には「平将門が討たれた所にその霊を祀った」と記述があり、天慶3年(西暦940年)2月14日、藤原秀郷・平貞盛連合軍との戦いの最中、流れ矢に当たって落命した将門公の「終焉の地」が、この境内であると伝えられている。<br /><br />参考写真:平将門を祭る國王神社も拝殿内は将門関連の絵や写真など所狭しと掲示されていた。

    國王神社(こくおうじんじゃ)は、茨城県坂東市にある神社で、『神社分限帳』には「平将門が討たれた所にその霊を祀った」と記述があり、天慶3年(西暦940年)2月14日、藤原秀郷・平貞盛連合軍との戦いの最中、流れ矢に当たって落命した将門公の「終焉の地」が、この境内であると伝えられている。

    参考写真:平将門を祭る國王神社も拝殿内は将門関連の絵や写真など所狭しと掲示されていた。

  • <将門一族と称される千葉氏、相馬氏の伝説><br /><br />遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録(げんぺいとうそうろく)』は、*千葉平氏に焦点を当てた異本平家物語である。<br /><br />鎌倉末から南北朝初期にかけて、坂東で成立した平家物語が源平闘諍録で、坂東の武士団、梶原氏・熊谷氏・千葉氏等に焦点を当て、その活躍を描く注目すべき異本である。<br />この異本以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。<br />この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生(ごりしょう:利益)で八ヶ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。<br />この伝説は、良文の子孫を称する千葉氏一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨 (そうまのみくり)を領した相馬氏に伝えられた。<br /><br />相馬御厨は現在の 茨城県 取手市 、守谷市 、千葉県 柏市 、流山市 、我孫子市 のあたりにあった中世の 寄進型荘園 の一つで、「御厨 (みくりや)」は皇室や 伊勢神宮 、 下鴨神社 の領地を意味する。<br /><br />*千葉氏は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた。<br />平安時代末期、千葉氏は下総国の任用国司として「下総権介(しもうさごんのすけ)」に任じられていた千葉庄の豪族で、平氏に敗れた源頼朝を同族の上総権介広常とともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島にいたるまで、全国各地に領地を与えられた。<br /><br />千葉一族は「妙見」神を信仰し、移り住んだ全国各地の領地に祀りました。妙見は北極星(または北斗七星)を神格化したもので、もともとは「尊星王(そんじょうおう)」という大陸から伝えられた神様である。千葉一族の代表的な定紋である月星紋や曜星紋は妙見を表している。<br /><br />参考写真:平将門を祭る國王神社・・・提灯にかかれた紋章は将門が使用していたもと云われる。これは北斗七星を表しているそうだ。<br /><br />

    <将門一族と称される千葉氏、相馬氏の伝説>

    遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録(げんぺいとうそうろく)』は、*千葉平氏に焦点を当てた異本平家物語である。

    鎌倉末から南北朝初期にかけて、坂東で成立した平家物語が源平闘諍録で、坂東の武士団、梶原氏・熊谷氏・千葉氏等に焦点を当て、その活躍を描く注目すべき異本である。
    この異本以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。
    この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生(ごりしょう:利益)で八ヶ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。
    この伝説は、良文の子孫を称する千葉氏一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨 (そうまのみくり)を領した相馬氏に伝えられた。

    相馬御厨は現在の 茨城県 取手市 、守谷市 、千葉県 柏市 、流山市 、我孫子市 のあたりにあった中世の 寄進型荘園 の一つで、「御厨 (みくりや)」は皇室や 伊勢神宮 、 下鴨神社 の領地を意味する。

    *千葉氏は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた。
    平安時代末期、千葉氏は下総国の任用国司として「下総権介(しもうさごんのすけ)」に任じられていた千葉庄の豪族で、平氏に敗れた源頼朝を同族の上総権介広常とともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島にいたるまで、全国各地に領地を与えられた。

    千葉一族は「妙見」神を信仰し、移り住んだ全国各地の領地に祀りました。妙見は北極星(または北斗七星)を神格化したもので、もともとは「尊星王(そんじょうおう)」という大陸から伝えられた神様である。千葉一族の代表的な定紋である月星紋や曜星紋は妙見を表している。

    参考写真:平将門を祭る國王神社・・・提灯にかかれた紋章は将門が使用していたもと云われる。これは北斗七星を表しているそうだ。

  • 元文3年(1738年)に編纂された「神社縁起書」によると、将門戦死の際、母と共に奥州に逃れた三女が成人後出家して、如蔵尼(にょぞうに)となった。<br /><br />将門の死後33年目に郷里の岩井(坂東市)に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝(仏像を彫刻する際に、一刻ごとに三度礼拝することを指す)して父将門の像を刻み、小祠(しょうし)を建てて安置し、将門大明神と号して祀られたと云われている。<br />これが國王神社(こくおうじんじゃ)の始まりという説である。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社の拝殿内に「寄木造 平将門木像(よせきづくり たいらのまさかどもくぞう)」(茨城県指定文化財:像高76cm、年代不詳)図の写真(築土神社(つくどじんじゃ)にあったと云う)がある。

    元文3年(1738年)に編纂された「神社縁起書」によると、将門戦死の際、母と共に奥州に逃れた三女が成人後出家して、如蔵尼(にょぞうに)となった。

    将門の死後33年目に郷里の岩井(坂東市)に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝(仏像を彫刻する際に、一刻ごとに三度礼拝することを指す)して父将門の像を刻み、小祠(しょうし)を建てて安置し、将門大明神と号して祀られたと云われている。
    これが國王神社(こくおうじんじゃ)の始まりという説である。

    写真:平将門を祭る國王神社の拝殿内に「寄木造 平将門木像(よせきづくり たいらのまさかどもくぞう)」(茨城県指定文化財:像高76cm、年代不詳)図の写真(築土神社(つくどじんじゃ)にあったと云う)がある。

  • 御神体の像は、寄木造座像(よせきづくり ざぞう)で高さ2尺8寸(76㎝)の衣冠束帯姿で、右手に笏(しゃく)を持っている姿である。<br />座像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎって、恐ろし気なものだ。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社の将門の寄木造 の木像(よせきづくり もくぞう)図(拡大)

    イチオシ

    御神体の像は、寄木造座像(よせきづくり ざぞう)で高さ2尺8寸(76㎝)の衣冠束帯姿で、右手に笏(しゃく)を持っている姿である。
    座像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎって、恐ろし気なものだ。

    写真:平将門を祭る國王神社の将門の寄木造 の木像(よせきづくり もくぞう)図(拡大)

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・境内に入ると、大きな口の狛犬がお出迎え

    写真:平将門を祭る國王神社・・・境内に入ると、大きな口の狛犬がお出迎え

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・拝殿左側、市の天然記念物「アラカシの大木」

    イチオシ

    写真:平将門を祭る國王神社・・・拝殿左側、市の天然記念物「アラカシの大木」

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・拝殿左側、市の天然記念物「アラカシの木」

    写真:平将門を祭る國王神社・・・拝殿左側、市の天然記念物「アラカシの木」

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・相対する狛犬

    写真:平将門を祭る國王神社・・・相対する狛犬

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・本殿左手、境内社と摩利支天像

    写真:平将門を祭る國王神社・・・本殿左手、境内社と摩利支天像

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・左手から見る拝殿と一体型の茅葺き本殿。

    写真:平将門を祭る國王神社・・・左手から見る拝殿と一体型の茅葺き本殿。

  • 写真:平将門を祭る國王神社・・・神社裏手に廻ると、張り出し部分に彫刻がある。彫刻1、2も形が崩れておらず美しい。

    写真:平将門を祭る國王神社・・・神社裏手に廻ると、張り出し部分に彫刻がある。彫刻1、2も形が崩れておらず美しい。

  • 繰り返すが、<br /><br />【坂東武士(坂東武者ばんどうむしゃ)とは?】 <br /><br />古来この地は【坂東(ばんどう)】と称し、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称であった。<br />とりわけ勇猛な坂東武者(ばんどうむしゃ)は世に知られた存在であった。<br /><br />「坂東」現在の関東に領地を構えた武士。 坂東とは、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称。 <br />平安時代、国力が安定し平和な時代になると、朝廷による徴兵が廃止され、地方の治安を守るのは領主たちが編成した軍隊=健児(こんでい)だけとなった。<br /><br />写真:右手後方から見る平将門を祭る國王神社・・・拝殿と一体型の茅葺き本殿。

    繰り返すが、

    【坂東武士(坂東武者ばんどうむしゃ)とは?】

    古来この地は【坂東(ばんどう)】と称し、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称であった。
    とりわけ勇猛な坂東武者(ばんどうむしゃ)は世に知られた存在であった。

    「坂東」現在の関東に領地を構えた武士。 坂東とは、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称。
    平安時代、国力が安定し平和な時代になると、朝廷による徴兵が廃止され、地方の治安を守るのは領主たちが編成した軍隊=健児(こんでい)だけとなった。

    写真:右手後方から見る平将門を祭る國王神社・・・拝殿と一体型の茅葺き本殿。

  • 【坂東平氏(ばんどうへいし)とは?】<br /><br />桓武平氏(桓武天皇の孫、あるいは曾孫にあたる)のうち平高望(たいらのたかもち)が上総介(かずさのすけ)に任じられ東国(坂東)に下向し、土着したことに始まる一族の呼称を云う。武家平氏と呼ばれるものはこの流れに当たる。<br />上総氏は「平忠常」(たいらのただつね)を祖とする房総平氏です。 <br />「上総介」(かずさのすけ:官職のひとつ)として房総半島(千葉県)に広大な領地を有した。<br /><br />上総国(かずさのくに)、常陸国(ひたちのくに)・上野国(こうずけのくに)といった国々はともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように上総介であった。<br /><br /><坂東平氏の成立><br />寛平元年5月13日(西暦889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し上総介に任じられた平高望は、遥任国司(国司が任国へ赴任しなかったこと)が多い当時ではあったが、子の国香・良兼・良将とともに任地に下向した。<br />彼らは、任期が過ぎても帰京せず、元皇族の血すじを武器に婚姻関係によって在地勢力との連携を深め、上総国・下総国・常陸国の未墾地を開発、私営田を経営し勢力を拡大した(この付近は、玉浦(現・九十九里平野)や香取海が陸地化した箇所であり、当時は湖沼群が残され新田開発に適した多くの未墾地があった)。<br />そして、自らの権利を守るため武士団を形成、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社

    【坂東平氏(ばんどうへいし)とは?】

    桓武平氏(桓武天皇の孫、あるいは曾孫にあたる)のうち平高望(たいらのたかもち)が上総介(かずさのすけ)に任じられ東国(坂東)に下向し、土着したことに始まる一族の呼称を云う。武家平氏と呼ばれるものはこの流れに当たる。
    上総氏は「平忠常」(たいらのただつね)を祖とする房総平氏です。
    「上総介」(かずさのすけ:官職のひとつ)として房総半島(千葉県)に広大な領地を有した。

    上総国(かずさのくに)、常陸国(ひたちのくに)・上野国(こうずけのくに)といった国々はともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように上総介であった。

    <坂東平氏の成立>
    寛平元年5月13日(西暦889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し上総介に任じられた平高望は、遥任国司(国司が任国へ赴任しなかったこと)が多い当時ではあったが、子の国香・良兼・良将とともに任地に下向した。
    彼らは、任期が過ぎても帰京せず、元皇族の血すじを武器に婚姻関係によって在地勢力との連携を深め、上総国・下総国・常陸国の未墾地を開発、私営田を経営し勢力を拡大した(この付近は、玉浦(現・九十九里平野)や香取海が陸地化した箇所であり、当時は湖沼群が残され新田開発に適した多くの未墾地があった)。
    そして、自らの権利を守るため武士団を形成、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

    写真:平将門を祭る國王神社

  • 承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。<br />一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。天慶の乱(てんぎょうのらん)とも呼ばれる。<br /><br />ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 また平将門、藤原純友の反乱と同時進行で各地で反乱(天慶の出羽俘囚の乱など)が発生し、東北地方から九州に至る日本各地が騒乱状態となった。<br /><br />鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。<br />関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。<br /><br />瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社・・・参道方面を見ると、枯れた御神木と石碑

    承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。
    一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。天慶の乱(てんぎょうのらん)とも呼ばれる。

    ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 また平将門、藤原純友の反乱と同時進行で各地で反乱(天慶の出羽俘囚の乱など)が発生し、東北地方から九州に至る日本各地が騒乱状態となった。

    鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。
    関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。

    瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。

    写真:平将門を祭る國王神社・・・参道方面を見ると、枯れた御神木と石碑

  • 若くして、敗死した平将門の略歴は<br /><br />生誕:延喜3年(西暦903年)<br />死没:天慶3年2月14日(西暦940年3月25日)(38歳没)<br />別名:相馬小次郎、滝口小次郎、平新皇将門<br />氏族:桓武平氏、房総平氏<br /><br />父の平良将(たいら の よしまさ)は下総国佐倉(千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。<br />また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされている。<br /><br />墓所:<br />東京都千代田区 将門塚(首塚)、<br />茨城県坂東市 延命院(胴塚)<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社・・・境内右手、枯れた御神木と石碑<br /><br />

    若くして、敗死した平将門の略歴は

    生誕:延喜3年(西暦903年)
    死没:天慶3年2月14日(西暦940年3月25日)(38歳没)
    別名:相馬小次郎、滝口小次郎、平新皇将門
    氏族:桓武平氏、房総平氏

    父の平良将(たいら の よしまさ)は下総国佐倉(千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。
    また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされている。

    墓所:
    東京都千代田区 将門塚(首塚)、
    茨城県坂東市 延命院(胴塚)

    写真:平将門を祭る國王神社・・・境内右手、枯れた御神木と石碑

  • ある郷土史家」によると、平将門には10もの伝説があると云う。<br />中でも、千葉県がらみで面白いのは「調伏伝説(ちょうぶくでんせつ)」である。<br />勿論、以下はあくまで民間伝承であるが、民心に深く影響をもたらしている。<br /><br />【調伏伝説(ちょうぶくでんせつ)】<br /><br />千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、京の高雄山(神護寺じんごじ)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(西暦940年)海路にて上総国(千葉県山武郡横芝光町)尾垂浜(おだれはま)に上陸し、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原(成田市)で不動護摩の儀式を行ったという。<br />これが成田山新勝寺の開山起源だとされている。<br /><br />このため、将門とその家来の子孫は、1086年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないと云う。<br />また、将門生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて将門の政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。<br /><br />後述された将門所縁の築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多いそうだ。<br /><br />例年、NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の「節分豆まき」に参加するが、将門が主人公であった昭和51年(1976年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。 <br />現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り、縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地はかつて将門の城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされる祠も祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。<br />また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く、将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った*桔梗姫(ききょうひめ)にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。<br /><br />*桔梗の前(ききょうのまえ)は、平将門の愛妾であったとされている平安時代の女性で、桔梗、桔梗姫、桔梗御前とも呼ばれる。<br />桔梗の前の伝承は将門の鉄身伝説(将門は鉄身であるが、こめかみだけが肉身であると言う伝説)や七人将門の伝説(将門の影武者の伝説、将門と行動を共にする7人のうち、影武者の6人には影がないというもの)との関連が深く、伝承は多く関東から東北地方まで広く分布する。 <br />伝承地により内容が異なるが、「将門の寵姫のなかでもとりわけ寵愛が深かったが、藤原秀郷に内通して将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げる」というのが大筋である。<br /><br />写真:平将門を祭る國王神社・・・右手から見た、拝殿と一体型の茅葺き本殿。

    ある郷土史家」によると、平将門には10もの伝説があると云う。
    中でも、千葉県がらみで面白いのは「調伏伝説(ちょうぶくでんせつ)」である。
    勿論、以下はあくまで民間伝承であるが、民心に深く影響をもたらしている。

    【調伏伝説(ちょうぶくでんせつ)】

    千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正(かんちょうそうじょう)が、京の高雄山(神護寺じんごじ)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(西暦940年)海路にて上総国(千葉県山武郡横芝光町)尾垂浜(おだれはま)に上陸し、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原(成田市)で不動護摩の儀式を行ったという。
    これが成田山新勝寺の開山起源だとされている。

    このため、将門とその家来の子孫は、1086年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないと云う。
    また、将門生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて将門の政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。

    後述された将門所縁の築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多いそうだ。

    例年、NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の「節分豆まき」に参加するが、将門が主人公であった昭和51年(1976年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。
    現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り、縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地はかつて将門の城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされる祠も祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。
    また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く、将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った*桔梗姫(ききょうひめ)にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。

    *桔梗の前(ききょうのまえ)は、平将門の愛妾であったとされている平安時代の女性で、桔梗、桔梗姫、桔梗御前とも呼ばれる。
    桔梗の前の伝承は将門の鉄身伝説(将門は鉄身であるが、こめかみだけが肉身であると言う伝説)や七人将門の伝説(将門の影武者の伝説、将門と行動を共にする7人のうち、影武者の6人には影がないというもの)との関連が深く、伝承は多く関東から東北地方まで広く分布する。
    伝承地により内容が異なるが、「将門の寵姫のなかでもとりわけ寵愛が深かったが、藤原秀郷に内通して将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げる」というのが大筋である。

    写真:平将門を祭る國王神社・・・右手から見た、拝殿と一体型の茅葺き本殿。

  • 参考写真:*豊原国周作錦絵「前太平記擬玉殿(ぜんたいへいきまがいのぎょくでん) 平親王将門(たいらのしんのうまさかど)」<br /><br />*豊原国周(とよはら くにちか、旧字体は豐原國周、天保6年〈1835年〉~ 明治33年〈1900年〉は、幕末から明治にかけての浮世絵師。「明治の写楽」と称されるなど、役者絵の第一人者として活躍する一方、繊細かつ優美な美人画でも人気を得た。

    参考写真:*豊原国周作錦絵「前太平記擬玉殿(ぜんたいへいきまがいのぎょくでん) 平親王将門(たいらのしんのうまさかど)」

    *豊原国周(とよはら くにちか、旧字体は豐原國周、天保6年〈1835年〉~ 明治33年〈1900年〉は、幕末から明治にかけての浮世絵師。「明治の写楽」と称されるなど、役者絵の第一人者として活躍する一方、繊細かつ優美な美人画でも人気を得た。

  • 参考写真:歌川国芳作錦絵「*相馬の古内裏(そうまのふるだいり)1845~16年」<br /><br />*山東京伝(さんとう きょうでん)によって書かれた読本作品、『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』を題材にしている。『善知安方忠義伝』は、歌舞伎でも周知されていた平将門と藤原純友たちの残党たちの活躍する「前太平記の世界」を題材にした物語で、大宅光圀(源頼信の家臣、画面中央)に滝夜叉姫(たきやしゃひめ『善知安方忠義伝』における平将門の娘という設定の登場人物、画面左)が骸骨の妖怪を呼び出して驚かせる場面を描いた作品である。<br />相馬の古御所(ふるごしょ)は、新皇を名乗った平将門が下総国猿島郡(茨城県坂東市)に置いていた御所の跡地で、将門たちが滅ぼされたあとは荒れるに任せており、この場面の舞台となっている。<br /><br />原作での滝夜叉姫(たきやしゃひめ)は、数百体もの骸骨たちが出現して東西に分かれて合戦する様子を見せて光圀を驚かそうとするのだが、本作で国芳はその骸骨を一体の巨大な骸骨として描くという新奇な演出を加えた点で、高く評価されている。

    参考写真:歌川国芳作錦絵「*相馬の古内裏(そうまのふるだいり)1845~16年」

    *山東京伝(さんとう きょうでん)によって書かれた読本作品、『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』を題材にしている。『善知安方忠義伝』は、歌舞伎でも周知されていた平将門と藤原純友たちの残党たちの活躍する「前太平記の世界」を題材にした物語で、大宅光圀(源頼信の家臣、画面中央)に滝夜叉姫(たきやしゃひめ『善知安方忠義伝』における平将門の娘という設定の登場人物、画面左)が骸骨の妖怪を呼び出して驚かせる場面を描いた作品である。
    相馬の古御所(ふるごしょ)は、新皇を名乗った平将門が下総国猿島郡(茨城県坂東市)に置いていた御所の跡地で、将門たちが滅ぼされたあとは荒れるに任せており、この場面の舞台となっている。

    原作での滝夜叉姫(たきやしゃひめ)は、数百体もの骸骨たちが出現して東西に分かれて合戦する様子を見せて光圀を驚かそうとするのだが、本作で国芳はその骸骨を一体の巨大な骸骨として描くという新奇な演出を加えた点で、高く評価されている。

  • 参考写真:*月岡芳年作錦絵「芳年武者旡類 相模次郎平将門(よしとしむしゃぶるい・・さがみじろうたいらのまさかど)」<br /><br />*幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)。「平将門」と彼が跨る馬の描写が醸し出す、溢れる躍動感と見事な迫力。平将門が手に持つ槍を起点として、こちらに尻を向けて転げる武士に至るまで、1本の縦線で繋がっているかのようにも思える大胆な構図が用いられています。

    参考写真:*月岡芳年作錦絵「芳年武者旡類 相模次郎平将門(よしとしむしゃぶるい・・さがみじろうたいらのまさかど)」

    *幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)。「平将門」と彼が跨る馬の描写が醸し出す、溢れる躍動感と見事な迫力。平将門が手に持つ槍を起点として、こちらに尻を向けて転げる武士に至るまで、1本の縦線で繋がっているかのようにも思える大胆な構図が用いられています。

  • <将門まつり><br /><br />岩井将門まつりは、昭和47年(1972年)4月の旧岩井市市政施行を記念して始まったものだと云う。毎年11月の第2日曜日に行なわれ、秋を彩る風物詩として、市内外の人たちから親しまれている。<br />まつりは、国王神社での戦勝祈願で始まり、境内の杉木立のなかを総勢100人の武者が「神田明神将門太鼓」の響きのなかを進み、武者の参詣が行われる様子はなかなかのものだと云う。<br /><br />小説、映画に将門は登場するが、私が読んだのは海音寺潮五郎の『平将門』、『海と風と虹と』(角川文庫)だったか!<br /><br /><平将門公之像><br />市道長谷八幡線に面した雑木林の中に、総合文化ホール「ベルフォーレ」があり、この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設で、平成6年(1994年)3月に完成した。<br />その完成記念事業の一つとして、前庭広場に平将門公の騎馬像が建立された。<br />(彫刻家一色邦彦氏の作)<br /><br />参考写真:坂東市・平将門の騎馬像(Civic_Concert_Hall)

    <将門まつり>

    岩井将門まつりは、昭和47年(1972年)4月の旧岩井市市政施行を記念して始まったものだと云う。毎年11月の第2日曜日に行なわれ、秋を彩る風物詩として、市内外の人たちから親しまれている。
    まつりは、国王神社での戦勝祈願で始まり、境内の杉木立のなかを総勢100人の武者が「神田明神将門太鼓」の響きのなかを進み、武者の参詣が行われる様子はなかなかのものだと云う。

    小説、映画に将門は登場するが、私が読んだのは海音寺潮五郎の『平将門』、『海と風と虹と』(角川文庫)だったか!

    <平将門公之像>
    市道長谷八幡線に面した雑木林の中に、総合文化ホール「ベルフォーレ」があり、この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設で、平成6年(1994年)3月に完成した。
    その完成記念事業の一つとして、前庭広場に平将門公の騎馬像が建立された。
    (彫刻家一色邦彦氏の作)

    参考写真:坂東市・平将門の騎馬像(Civic_Concert_Hall)

  • 國王神社のあと、同じ坂東市内の平将門の史跡、「石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)」にやってきた。<br /><br />國王神社手前の交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称している。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡が残っているのだ。このような目だった案内が出ている。<br /><br />農村地帯のちょっとした丘陵地帯の一角にこの史跡(館、陣所)がある。<br />近くに駐車場があったので車を止め、そこから徒歩で150mほど歩いた。<br /><br />写真:平将門の史跡:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま) <br /><br />

    國王神社のあと、同じ坂東市内の平将門の史跡、「石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)」にやってきた。

    國王神社手前の交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称している。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡が残っているのだ。このような目だった案内が出ている。

    農村地帯のちょっとした丘陵地帯の一角にこの史跡(館、陣所)がある。
    近くに駐車場があったので車を止め、そこから徒歩で150mほど歩いた。

    写真:平将門の史跡:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま) 

  • 【平将門の史跡:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)】<br /><br />住所:茨城県坂東市岩井1603-2<br /><br />明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられている。<br /><br />石井営所(いわいえいしょ)は茨城県坂東市岩井にある標高17mの丘城である。<br />現在の漢字地名は「岩井」と書くがおなじ「いわい」でも奈良時代には石井郷と記載されている。<br />低い台地が広がっており、低い湿地帯からは島のように見えたよようで、台地を島広山(しまひろやま)と呼ぶため、島広山・石井営所と記載されていることも多い。<br /><br />尚、平将門関連の舘跡・城跡は、営所だとか陣営と呼ばれていることが多いが、それは将門記などの史料にそのように明記されているためであり、通常であれば下総・石井館などの表記になるのだろう。<br /><br />写真:平将門の史跡・・・石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)の石碑<br /><br />

    イチオシ

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    【平将門の史跡:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)】

    住所:茨城県坂東市岩井1603-2

    明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられている。

    石井営所(いわいえいしょ)は茨城県坂東市岩井にある標高17mの丘城である。
    現在の漢字地名は「岩井」と書くがおなじ「いわい」でも奈良時代には石井郷と記載されている。
    低い台地が広がっており、低い湿地帯からは島のように見えたよようで、台地を島広山(しまひろやま)と呼ぶため、島広山・石井営所と記載されていることも多い。

    尚、平将門関連の舘跡・城跡は、営所だとか陣営と呼ばれていることが多いが、それは将門記などの史料にそのように明記されているためであり、通常であれば下総・石井館などの表記になるのだろう。

    写真:平将門の史跡・・・石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)の石碑

    石井の営所(島広山) 名所・史跡

  • 石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられている。<br /><br />石井営所は名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(西暦940年)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまった。<br /><br />当時から1000年が経った現在は、上とこちらの写真で見られるように、それほど広いとは言えない場所に石碑・副碑が置かれ、周囲を樹木が立ち並んでいるだけだ。<br /><br />写真:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)の石碑(副碑)

    石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられている。

    石井営所は名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(西暦940年)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまった。

    当時から1000年が経った現在は、上とこちらの写真で見られるように、それほど広いとは言えない場所に石碑・副碑が置かれ、周囲を樹木が立ち並んでいるだけだ。

    写真:石井営所(いわいえいしょ)・島広山(しまひろやま)の石碑(副碑)

  • 【関東には平将門に関係した神社が実に多いが、主な神社は次の通りである。】<br /><br />築土神社所蔵の平将門の肖像画(束帯姿の写真)を初めてみる事になった。<br />が、勇猛な坂東武者の代表であった平将門の人物画だ!と誰が信じるだろう。<br /><br /><築土神社(つくどじんじゃ)><br />東京都千代田区九段北1-14-21にある神社。<br /><br />創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館(日本武道館では日本の武道、つまり柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた・銃剣道・古武道の稽古場、競技場として使用されている)の氏神でもあるのが興味深い。<br /><br />「相殿神(あいどのしん)」として将門を祀る。将門は東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると皇国史観の影響もあり、将門を「逆賊(ぎゃくぞく)」のように評する風潮も見受けられた。<br />それまで築土神社では将門を唯一の祭神としていたが、明治7年(1874年)社格を意識して便宜上、天皇と関わりの深い神である天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を霧島神宮より勧請してこれを「主神」とし、将門と菅原道真公(すがわらのみちざねこう) を「相殿神」として祀るようになった。<br /><br />参考写真:築土神社所蔵の平将門の肖像画、束帯姿の写真はなかなか品の良いものに見える。

    【関東には平将門に関係した神社が実に多いが、主な神社は次の通りである。】

    築土神社所蔵の平将門の肖像画(束帯姿の写真)を初めてみる事になった。
    が、勇猛な坂東武者の代表であった平将門の人物画だ!と誰が信じるだろう。

    <築土神社(つくどじんじゃ)>
    東京都千代田区九段北1-14-21にある神社。

    創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館(日本武道館では日本の武道、つまり柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた・銃剣道・古武道の稽古場、競技場として使用されている)の氏神でもあるのが興味深い。

    「相殿神(あいどのしん)」として将門を祀る。将門は東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると皇国史観の影響もあり、将門を「逆賊(ぎゃくぞく)」のように評する風潮も見受けられた。
    それまで築土神社では将門を唯一の祭神としていたが、明治7年(1874年)社格を意識して便宜上、天皇と関わりの深い神である天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を霧島神宮より勧請してこれを「主神」とし、将門と菅原道真公(すがわらのみちざねこう) を「相殿神」として祀るようになった。

    参考写真:築土神社所蔵の平将門の肖像画、束帯姿の写真はなかなか品の良いものに見える。

  • 尚、江戸時代の文献によると、当神社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたと云われ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、「将門信仰」の象徴的神社となっていた。<br /><br />明治に教部省(きょうぶしょう)の指示により将門は相殿(あいどの)に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。<br />戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。<br />昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。<br /><br />写真:天皇家に遠慮したように、小ぢんまりした築土神社本殿だが、ビルの間でそれなりに威を示している。

    尚、江戸時代の文献によると、当神社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたと云われ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、「将門信仰」の象徴的神社となっていた。

    明治に教部省(きょうぶしょう)の指示により将門は相殿(あいどの)に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。
    戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。
    昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。

    写真:天皇家に遠慮したように、小ぢんまりした築土神社本殿だが、ビルの間でそれなりに威を示している。

  • 多分、平将門の関連さきで、一番知られているのは将門塚(しょうもんづか)かもしれない。<br />大手町近辺で働くサラリーマンも「平将門の恨み、怨霊話」は一度は聞いてことがあるだろう。<br /><br />平安京でさらし首にされた将門の首は、故郷の関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したとも云う。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がったのだが、とりわけ著名なのが、東京都千代田区大手町にある将門塚である。この首塚には塚移転などの計画があると、必ず事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。<br />東京都も手を出せずに、「都指定旧跡」にまでしてしまった。<br />(将門塚に隣接して建つのは総合商社三井物産の本社ビル:住所も大手町1丁目2番1号となっている。天下の物産も将門には勝てないのだ!)<br /><br /><将門塚(しょうもんづか)(都指定旧跡 )><br />東京都千代田区大手町1丁目2番1号外!!<br /><br />東京メトロ大手町駅から徒歩3分のところにある。首を供養するために石碑が建てられている。<br />将門塚中央にある「板石塔婆」は昭和45年に再建されたもので、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年(1307年)」が刻み込まれている。<br /><br />現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っていると云う。<br />写真のように、花が供えられて、この一角は美しい。<br /><br />参考写真:東京都大手町・将門塚・・・第6次改修後の首塚(2021年5月3日)

    多分、平将門の関連さきで、一番知られているのは将門塚(しょうもんづか)かもしれない。
    大手町近辺で働くサラリーマンも「平将門の恨み、怨霊話」は一度は聞いてことがあるだろう。

    平安京でさらし首にされた将門の首は、故郷の関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したとも云う。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がったのだが、とりわけ著名なのが、東京都千代田区大手町にある将門塚である。この首塚には塚移転などの計画があると、必ず事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。
    東京都も手を出せずに、「都指定旧跡」にまでしてしまった。
    (将門塚に隣接して建つのは総合商社三井物産の本社ビル:住所も大手町1丁目2番1号となっている。天下の物産も将門には勝てないのだ!)

    <将門塚(しょうもんづか)(都指定旧跡 )>
    東京都千代田区大手町1丁目2番1号外!!

    東京メトロ大手町駅から徒歩3分のところにある。首を供養するために石碑が建てられている。
    将門塚中央にある「板石塔婆」は昭和45年に再建されたもので、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年(1307年)」が刻み込まれている。

    現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っていると云う。
    写真のように、花が供えられて、この一角は美しい。

    参考写真:東京都大手町・将門塚・・・第6次改修後の首塚(2021年5月3日)

  • 大きな祭りが連綿と続き、都民の人気も高い神田明神(かんだみょうじん)も平将門ゆかりの神社だ。<br /><br /><神田明神(かんだみょうじん)><br />東京都千代田区外神田2-16-にある神社。<br /><br />三之宮に除災厄除の神様「平将門命」(たいらのまさかどのみこと:まさかど さま)として祀る。<br />明治7年(1874年)に一時、摂社・将門神社に遷座されたが、昭和59年(1984年 )に再び本殿に奉祀された。<br /><br />社伝によると、当社は天平2年(西暦730年)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村・・・現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。<br />その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、「将門公の御神威」として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309年)当社に奉祀された。<br />戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されていた。<br /><br />慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行なわれた。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされた。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられたと云う。<br /><br />江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守(そうちんじゅ)」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けることとなった。<br />明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められ、明治7年(1874年)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられた。<br /><br />参考写真:東京都千代田区・神田明神のご社殿

    大きな祭りが連綿と続き、都民の人気も高い神田明神(かんだみょうじん)も平将門ゆかりの神社だ。

    <神田明神(かんだみょうじん)>
    東京都千代田区外神田2-16-にある神社。

    三之宮に除災厄除の神様「平将門命」(たいらのまさかどのみこと:まさかど さま)として祀る。
    明治7年(1874年)に一時、摂社・将門神社に遷座されたが、昭和59年(1984年 )に再び本殿に奉祀された。

    社伝によると、当社は天平2年(西暦730年)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村・・・現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。
    その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、「将門公の御神威」として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309年)当社に奉祀された。
    戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されていた。

    慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行なわれた。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされた。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられたと云う。

    江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守(そうちんじゅ)」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けることとなった。
    明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められ、明治7年(1874年)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられた。

    参考写真:東京都千代田区・神田明神のご社殿

  • 神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。<br /><br /><3柱を祭神として祀っている><br /><br />一ノ宮 - 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。<br />縁結びの神様。天平2年(西暦730年)鎮座。<br /><br />二ノ宮 - 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。<br />商売繁昌の神様。1874年(明治7年)に大洗磯前神社より奉祀。<br /><br />三ノ宮 - 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。<br />除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、1874年(明治7年)に構内の摂社である将門神社に遷座、1984年(昭和59年)に本殿に奉祀復帰。<br /><br />このような伝説が残る:<br /><br />神田明神を崇敬する者は、成田山新勝寺(千葉県成田市)を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝(かんちょう)を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるのだと云う。<br /><br />尚、同じく将門を祭神とする「築土神社(つくどじんじゃ)」にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。<br />将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。<br /><br />参考写真:神田明神の神幸祭 三ノ宮 平将門命の列

    神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。

    <3柱を祭神として祀っている>

    一ノ宮 - 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。
    縁結びの神様。天平2年(西暦730年)鎮座。

    二ノ宮 - 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。
    商売繁昌の神様。1874年(明治7年)に大洗磯前神社より奉祀。

    三ノ宮 - 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。
    除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、1874年(明治7年)に構内の摂社である将門神社に遷座、1984年(昭和59年)に本殿に奉祀復帰。

    このような伝説が残る:

    神田明神を崇敬する者は、成田山新勝寺(千葉県成田市)を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝(かんちょう)を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるのだと云う。

    尚、同じく将門を祭神とする「築土神社(つくどじんじゃ)」にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。
    将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。

    参考写真:神田明神の神幸祭 三ノ宮 平将門命の列

  • 江戸時代の神田祭には、各町より華麗な山車が36番組45本前後も出され多くの人々をひきつけた。しかしそれを凌ぐほどの人気があったのは「附け祭」といわれた出し物であった。<br />「附け祭」とは、曳き物と呼ばれた巨大なはりぼての人形や様々な衣装を身にまとい流行の音楽を奏でながら行列に参加した踊り子などのことをいい、毎回違う出し物が出されたため多くの見物人を楽しませた。<br />現代の神田祭でも、様々な附け祭を出し話題を呼んでいる。<br />いつの時代も流行を先取りした附け祭は人気である。<br /><br />参考写真:神田明神・神幸祭 附け祭り 相馬野馬追騎馬武者十騎・・・江戸時代に行われていた神田祭て?、最も人気か?あった附け祭で、神田明神の御祭神・平将門公の意を継ぐ、「相馬野馬追」の騎馬武者行列が福島県南相馬市から特別参加。騎馬武者たちが都心を練り歩き、勇壮な姿を披露する。<br />また、茨城県坂東市よりも「坂東武者行列」が参加する。<br /><br />

    江戸時代の神田祭には、各町より華麗な山車が36番組45本前後も出され多くの人々をひきつけた。しかしそれを凌ぐほどの人気があったのは「附け祭」といわれた出し物であった。
    「附け祭」とは、曳き物と呼ばれた巨大なはりぼての人形や様々な衣装を身にまとい流行の音楽を奏でながら行列に参加した踊り子などのことをいい、毎回違う出し物が出されたため多くの見物人を楽しませた。
    現代の神田祭でも、様々な附け祭を出し話題を呼んでいる。
    いつの時代も流行を先取りした附け祭は人気である。

    参考写真:神田明神・神幸祭 附け祭り 相馬野馬追騎馬武者十騎・・・江戸時代に行われていた神田祭て?、最も人気か?あった附け祭で、神田明神の御祭神・平将門公の意を継ぐ、「相馬野馬追」の騎馬武者行列が福島県南相馬市から特別参加。騎馬武者たちが都心を練り歩き、勇壮な姿を披露する。
    また、茨城県坂東市よりも「坂東武者行列」が参加する。

  • <相馬神社><br /> 福島県相馬市中村字北町101にある神社。<br /><br />相馬中村城(そうまなかむらじょう)境内の国王社に素戔嗚尊(スサノオのミコト)と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祀る。<br /><br /><相馬野馬追(そうまのまおい)><br /><br />相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領=中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。  <br /><br />馬を追う野馬懸(のまがけ)、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街中を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。<br />起源は鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると云われている。<br />https://soma-nomaoi.jp/<br /><br />参考写真:福島県・相馬神社

    <相馬神社>
    福島県相馬市中村字北町101にある神社。

    相馬中村城(そうまなかむらじょう)境内の国王社に素戔嗚尊(スサノオのミコト)と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祀る。

    <相馬野馬追(そうまのまおい)>

    相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領=中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。

    馬を追う野馬懸(のまがけ)、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街中を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。
    起源は鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると云われている。
    https://soma-nomaoi.jp/

    参考写真:福島県・相馬神社

  • さて、将門の首は東京・大手町まで飛んでいったのか?<br />面白いことに、岐阜県大垣市の御首神社(みくびじんじゃ)には将門の御首を射落としたと云う話が信じられていて、首の落ちた場所にこの神社を建てて、将門の怒りを鎮め、霊を慰めたと云う。<br />名前も実に珍しいもので、今や合格祈願などにも霊験があると云う。<br /><br /><御首神社 (みくびじんじゃ)><br />岐阜県大垣市荒尾町字南瀬古1283番地の1<br /><br />当社は大垣市荒尾町に鎮座しており桓武天皇六代の皇胤平将門公の御神霊をお祀りしている。今から約1000年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りをおぼえ乱(天慶の乱)を起こした。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ将門は捕らえられ首を討たれた。その首は京に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。<br />この異変を知り美濃国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に坐す隼人神が矢をつがえ東に飛びゆく将門の首を射落とした。(その時、隼人神の射た神矢が飛んで行った道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある)<br /><br />この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀ることによって、再びその首が関東に戻らぬようその怒りを鎮め、霊を慰めるために創建されたのが当御首神社であると伝えられている。<br /><br />このような謂れから、古来より首から上の病気平癒に御利益があるとされ、近年においては学業成就・合格祈願などにも御利益があるといわれている。<br />当社は古来より首上の諸祈願に霊験あらたかとされてきた。<br /><br />参考写真:大垣市御首神社(みくびじんじゃ)

    さて、将門の首は東京・大手町まで飛んでいったのか?
    面白いことに、岐阜県大垣市の御首神社(みくびじんじゃ)には将門の御首を射落としたと云う話が信じられていて、首の落ちた場所にこの神社を建てて、将門の怒りを鎮め、霊を慰めたと云う。
    名前も実に珍しいもので、今や合格祈願などにも霊験があると云う。

    <御首神社 (みくびじんじゃ)>
    岐阜県大垣市荒尾町字南瀬古1283番地の1

    当社は大垣市荒尾町に鎮座しており桓武天皇六代の皇胤平将門公の御神霊をお祀りしている。今から約1000年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りをおぼえ乱(天慶の乱)を起こした。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ将門は捕らえられ首を討たれた。その首は京に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。
    この異変を知り美濃国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に坐す隼人神が矢をつがえ東に飛びゆく将門の首を射落とした。(その時、隼人神の射た神矢が飛んで行った道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある)

    この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀ることによって、再びその首が関東に戻らぬようその怒りを鎮め、霊を慰めるために創建されたのが当御首神社であると伝えられている。

    このような謂れから、古来より首から上の病気平癒に御利益があるとされ、近年においては学業成就・合格祈願などにも御利益があるといわれている。
    当社は古来より首上の諸祈願に霊験あらたかとされてきた。

    参考写真:大垣市御首神社(みくびじんじゃ)

  • <神田山延命院><br />茨城県坂東市神田山715<br /><br /> 茨城県坂東市にある真言宗智山派の寺院。将門の遺体を葬った胴塚がある。<br />その胴塚を抱くように大きなカヤの木が立っており、西側には、昭和50年(1975年)に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。<br />境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、又は神田山と称している。<br /><br />将門は、天慶3年(西暦940年)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れた。<br /><br />将門の首は藤原秀郷(ひでさと)によって京都に送られ、東市にさらされたと云われている。<br />残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられ、この地は相馬御厨 (そうまのみくりや)の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいると云われている。<br /><br />参考写真:神田山延命院にある将門の胴塚とカヤの大木

    <神田山延命院>
    茨城県坂東市神田山715

    茨城県坂東市にある真言宗智山派の寺院。将門の遺体を葬った胴塚がある。
    その胴塚を抱くように大きなカヤの木が立っており、西側には、昭和50年(1975年)に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。
    境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、又は神田山と称している。

    将門は、天慶3年(西暦940年)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れた。

    将門の首は藤原秀郷(ひでさと)によって京都に送られ、東市にさらされたと云われている。
    残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられ、この地は相馬御厨 (そうまのみくりや)の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいると云われている。

    参考写真:神田山延命院にある将門の胴塚とカヤの大木

  • 現存する観音堂は、下総関宿(せきやど:現野田市)城主牧野成春(なりはる)公の助力で宝永7年(1710年)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられている。<br /><br />参考写真:神田山延命院の観音堂

    現存する観音堂は、下総関宿(せきやど:現野田市)城主牧野成春(なりはる)公の助力で宝永7年(1710年)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられている。

    参考写真:神田山延命院の観音堂

  • <長禅寺(ちょうぜんじ)><br /> 茨城県取手市取手2丁目9-1<br /><br />長禅寺は臨済宗妙心寺派、山号は大鹿山。本尊は地蔵菩薩。<br />承平元年(西暦931年) 将門が祈願寺として創建したと伝わる。<br /><br />写真:取手市・長禅寺本堂

    <長禅寺(ちょうぜんじ)>
    茨城県取手市取手2丁目9-1

    長禅寺は臨済宗妙心寺派、山号は大鹿山。本尊は地蔵菩薩。
    承平元年(西暦931年) 将門が祈願寺として創建したと伝わる。

    写真:取手市・長禅寺本堂

  • 長禅寺の三世堂(県指定文化財)は現存する5つの*栄螺堂(さざえどう)建築の一つで、一見の価値がある。<br />三世堂とは「過去・現在・未来の三千仏」を祀ることに由来し、観音堂、白嗣殿とも呼ばれた。<br />『長禅寺地方用録』によると、文暦元年(1234年)に大鹿城主(茨城県取手市白山)であった織部時平が建立した観音堂が始まりとある。その後動乱などで荒廃したが、宝暦13年(1763年)に伝堂の祈念と春翁の尽力により百観音堂(白嗣殿)が完成。<br />寛政2年(1790年)に大風で大破するも、享和元年(1801年)に再建(観音堂)し、これが現在に伝わる。またこれを示す棟札も残る。<br /><br />*栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」や「さざえ堂」「さゞゐ堂」などと呼ばれる。<br /><br />参考写真:取手市・長禅寺の栄螺堂

    長禅寺の三世堂(県指定文化財)は現存する5つの*栄螺堂(さざえどう)建築の一つで、一見の価値がある。
    三世堂とは「過去・現在・未来の三千仏」を祀ることに由来し、観音堂、白嗣殿とも呼ばれた。
    『長禅寺地方用録』によると、文暦元年(1234年)に大鹿城主(茨城県取手市白山)であった織部時平が建立した観音堂が始まりとある。その後動乱などで荒廃したが、宝暦13年(1763年)に伝堂の祈念と春翁の尽力により百観音堂(白嗣殿)が完成。
    寛政2年(1790年)に大風で大破するも、享和元年(1801年)に再建(観音堂)し、これが現在に伝わる。またこれを示す棟札も残る。

    *栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」や「さざえ堂」「さゞゐ堂」などと呼ばれる。

    参考写真:取手市・長禅寺の栄螺堂

  • 茨城の取手(とりで)から、千葉の安孫子(あびこ)も近いが、ここにも将門の守り本尊が残る。<br />茨城県南部から千葉県北西部にかけては平将門(西暦903?~940年)にまつわる地が数多く点在する。我孫子市日秀もそのひとつだ。<br /><br /><日秀観音(ひびりかんのん)><br />千葉県我孫子市日秀90。<br /><br />曹洞宗観音寺と称し、「平将門の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩」がある。<br />平将門が幼少時にこの地域に住んでいたという伝承が残っており、将門神社とともに将門伝説の中心的存在となっている。<br />将門の守り本尊は行基菩薩の作と伝えられていて、この地域の字名をあてて「ひびり観音」として信仰されている。<br /><br />参考写真:我孫子市・日秀観音(ひびりかんのん)

    茨城の取手(とりで)から、千葉の安孫子(あびこ)も近いが、ここにも将門の守り本尊が残る。
    茨城県南部から千葉県北西部にかけては平将門(西暦903?~940年)にまつわる地が数多く点在する。我孫子市日秀もそのひとつだ。

    <日秀観音(ひびりかんのん)>
    千葉県我孫子市日秀90。

    曹洞宗観音寺と称し、「平将門の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩」がある。
    平将門が幼少時にこの地域に住んでいたという伝承が残っており、将門神社とともに将門伝説の中心的存在となっている。
    将門の守り本尊は行基菩薩の作と伝えられていて、この地域の字名をあてて「ひびり観音」として信仰されている。

    参考写真:我孫子市・日秀観音(ひびりかんのん)

  • 日秀観音(ひびりかんのん)境内にある「首曲り(くびまがり)地蔵」は、将門調伏を祈った成田市の成田山新勝寺を嫌い、成田にそっぽを向くように立てられている。<br /><br />地蔵様のお顔を拝見すると、民心というか、将門信仰の面白さが伝わってくる。<br /><br />参考写真:我孫子市・日秀観音・首曲り(くびまがり)地蔵<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />平将門の國王神社の名称も興味深く、よくこの名前で長らく無事に来たものと思ったが、思えば、様々な平将門の恨み、祟りや厄災を鎮める神社、仏閣の多いこと、広い地域の民心に将門信仰の強いことに驚いただけに、それはまた当然のことなのだろう。<br /><br />   (2026年05月24日Wiki・HP参考、訳・編集追記)

    日秀観音(ひびりかんのん)境内にある「首曲り(くびまがり)地蔵」は、将門調伏を祈った成田市の成田山新勝寺を嫌い、成田にそっぽを向くように立てられている。

    地蔵様のお顔を拝見すると、民心というか、将門信仰の面白さが伝わってくる。

    参考写真:我孫子市・日秀観音・首曲り(くびまがり)地蔵

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    平将門の國王神社の名称も興味深く、よくこの名前で長らく無事に来たものと思ったが、思えば、様々な平将門の恨み、祟りや厄災を鎮める神社、仏閣の多いこと、広い地域の民心に将門信仰の強いことに驚いただけに、それはまた当然のことなのだろう。

       (2026年05月24日Wiki・HP参考、訳・編集追記)

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