2026/08/15 - 2026/08/15
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jijidarumaさん
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【青梅:曾祖父が戦死した息子の遺言で石灯籠を寄進した千ヶ瀬神社は、ムカデ退治をした出雲太郎が創建したと云うから実に興味深い。】
8月15日は日本がアメリカを主力とした連合軍に負けた、敗戦の日である。
この日は終戦、終戦の文字が新聞各紙に踊る、妙な日なのだ。
今年は千葉豪雨のさなかのお盆、ご先祖様は御帰り頂いたろうか!
さて、坂東武者・平将門伝説、将門信仰について、先に何度か書いたが、
東京は西の果て、三多摩の青梅市界隈にも将門伝説が残る。
だが、手元にある地元の郷土史家が纏めた【青梅 おちこち こぼれ話】には、何故か私共も知っている将門伝説がなく、【出雲太郎のムカデ退治】の伝説が書かれていた。
その将門は朝敵(ちょうてき:京の朝廷の敵)あるいは反逆者として朝廷(藤原秀郷・平貞盛連合軍)の追討を受けて戦死したが、興味深いことに*藤原秀郷(ふじわらのひでさと)はムカデ退治の伝説でも主人公として、名を残している。
写真:青梅 おちこち こぼれ話の表紙
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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【坂東の英雄・平将門信仰は板東(関東)の地に広く残っている。】に関連して、青梅の将門伝説を思い出した。
将門が勝峰山(現東京都日の出町)に城塞を構えた時の伝説として、一夜城を築き立て籠もり、藤原秀郷は幸神に陣を張り攻め上るも将門は一丈(じょう:凡そ3m)の金棒を振り回して奮闘した。
そこで秀郷は大将らしき者の姿に狙いを定め、弓を引かせると将門の鎧の裾をかすめ、谷向こうの矢越沢まで飛んで行き、将門は宵闇に隠れ青梅方面へ逃げのびたそうだ。
この時、将門は青梅市の古刹・金剛寺(こんごうじ)に立ち寄り、馬の鞭としていた梅の枝を地にさして「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったそうだ。
【金剛寺(こんごうじ)】
東京都青梅市天ヶ瀬町1032
平将門(西暦903年~940年)が、承平年間(西暦931~937年)に創建したとされる真言宗の古刹。
将門がこの地に来たとき、馬の鞭としていた梅の枝を地にさして「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったところ、この枝は見事に根を張り、葉を繁らせた。この梅の木がつける実がいつまでたっても青く、熟すことがなかったことから、いつからか「将門誓いの青梅」と云われ、この土地の名も青梅と呼ばれることとなったと云う。
境内には四脚門の表門(都指定有形文化財)などの文化財や枝垂れ桜があり、国指定重要文化財の絹本着色如意輪観世音像なども所蔵している。
参考写真:青梅市の古刹・金剛寺(こんごうじ)の誓いの梅金剛寺の青梅 自然・景勝地
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イチオシ
それで、手持ちの【青梅 おちこち こぼれ話(妖怪伝説話)】をのぞいて見た。ここには将門信仰の話は一つもなかったのだが、出雲族の出雲太郎のムカデ退治の伝説にあたった。
我が家のご先祖の千ヶ瀬神社に関連した話も出てくるので、以下に纏めた。
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青梅:こぼれ話の(妖怪変化の章)の引用
【出雲太郎(いずもたろう)のムカデ退治】
(212~215頁)
むかし、千ヶ瀬地区にある千ヶ瀬神社は、「出雲神社」と云っていたそうだ。
どうして、遠い島根県の出雲の名前が、こんなところにあるのか不思議だが、むかし出雲の人達は、集団を組んで各地を砂鉄(さてつ)や銅などの金属を求めて移動していたようだ。
砂鉄を見つける人、その砂鉄を精錬する人、それに使う炭を焼く人達などが、ひとつの集団を作って「*たたら師」と呼ばれていた。
(*たたら師とは、古代から近世にかけて日本で砂鉄を精錬し、鉄を製造する職人を指し、彼らは、たたら炉を使用して砂鉄を木炭で還元し、純度の高い鉄を生産した。たたら師は、特に信仰や伝承が多く、地域社会において重要な役割を果たしていた。彼らは、たたら製鉄の技術を伝承し、地域の文化や経済に貢献した。たたらは「鑪」や「踏鞴」と書いたと云う)
関東地方にも、そういうたたら師が入りこんでいたと考えると、千ヶ瀬神社が「出雲神社」といわれていたことも説明がつく。
そのたたら師の親玉を、みんな「出雲太郎」といっていたようだ。
写真:青梅 おちこち こぼれ話の表紙にある出雲太郎のムカデ退治の絵 -
関東地方のかつての調布村(現青梅)にも、そういう「たたら師」が入りこんでいたと思えば、埼玉県の県境を越え、飯能、入間と云う地域も似た環境にあったのだろう。「出雲」の名前が付く神社が埼玉県入間郡毛呂山(いるまぐん もろやま)町にあるのも納得である。
その神社の創建の謂れなどを読むと、興味深いのだ。
【出雲伊波比(いずもいわい)神社】
埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
埼玉県入間郡毛呂山(いるまぐん もろやま)町のほぼ中央、小高い独立丘陵である臥龍山(がりゅうさん)上に位置している。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征した折、命を助けた龍が姿を変えてこの御山になった伝えがある。
出雲伊波比(いずもいわい)神社には、大宝2年(702年)に再建されたという棟札(むなふだ)が残されている。出雲神社の名が付くのは出雲族とも関係があり、出雲族は大昔、このあたりまで確かにきていたらしい。
この地の伊波比(いわい)、つまり岩井は関東各地にあるが、将門に縁がある地名で知られているから、出雲族と将門も何やら縁がありそうだが・・・。
伊波比(いわい)という御社名から「祝いの宮」として親しまれていて、厄除方位除、子育安産、病気平癒など様々な御神徳を頂きに、遠近より多くの御参拝客が訪れると云う。
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)の旧社格は郷社で、埼玉県内で唯一、古式ゆかしい「流鏑馬(やぶさめ)が毎年奉納されている。
(歴史)
創建について、社伝(『臥龍山宮伝記』)では、景行天皇53年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げ、凱旋した際、日本武尊が天皇より下賜されたヒイラギの鉾(ほこ)を神宝として奉納し、出雲の大己貴命(オオナムチノミコト)を祀ったとされている。その後、第13代成務天皇の代に出雲族の武蔵国造(むさしのくにやっこ)兄多毛比命(エタモヒノミコト)が、出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)を祀り、大己貴命とともに出雲伊波比神(いずもいわいのかみ)とされた。出雲族との関係が実に深い。
奈良時代の宝亀3年(772年)の大政官符によると、天平勝宝7年(755年)に朝廷から幣帛(ヘイハク・神前に供えるもの)を受けたという記載があり、出雲伊波比神社が官弊社であったことが明らかにされた。
平安時代の延喜式神名帳では入間郡鎮座5社の筆頭とされた。
鎌倉時代以降、武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年(1527年)の焼失後、翌亨祿元年(1528年)には、*毛呂季光(もろすえみつ)の子孫である毛呂顕繁(あきしげ)が再建し、毛呂氏の氏神になっていたようである。現在の社殿は再建当時のもとして伝わる。
一間社流造、県内最古の神社建築であり、棟礼二面と併せて国の重要文化財に指定されている。
*毛呂季光(もろすえみつ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人であった。武蔵国入間郡毛呂郷の在地領主で、豊後守。1156年の保元の乱の後、京より武蔵国毛呂郷に移り住んだのち、毛呂氏を名乗った。
源頼朝の側近として鎌倉幕府成立に尽し、嫡男の季綱と共に二代に渡り仕えた。
因みに毛呂<もろ>の名前は珍しく、私にも読めない。けろ、げろ、もうろ とも読むと云う。全国姓順位は8,091位、全国人数は およそ990人だそうだ。
(流鏑馬やぶさめ)
当社の流鏑馬は康平6年(1063年)に源義家・義家親子が奥州平定の凱旋の折、奉納したのが起源と伝えられている。後に毛呂季光(もろすえみつ)を祀る意味も加わったらしく、明治時代の境内を描いた絵図があり、「季光社」という社が描かれている。
2010年代、春秋の2回開催されるが、春は7歳未満の男児が騎乗して1度だけ矢を射る儀式(願的)をおこなうもので、本格的な騎射(夕的)が実施されるのは秋の本祭りである。こちらは15歳程度の少年が騎乗し、3頭の馬(祭礼区ごとに1頭)による3回の騎射がおこなわれる。
開催日時(本祭り):毎年11月3日(文化の日)
朝的 午前9時ごろから10時30分ごろまで
夕的 午後2時30分から5時ごろ
・・・・・
参考写真:埼玉県入間市:出雲伊波比(いずもいわい)神社出雲伊波比神社 寺・神社・教会
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たたら師(前述参照)の親分!である出雲太郎と書いたが、
ムカデ退治は、出雲の国の「おろち伝説」(背景に「たたら師」の存在がある)にもつながり、主人公が秀郷、出雲太郎と二人いるとは知らなかったので、気になって調べたら、たたら師の親分!である出雲太郎は我が家とも関連がある青梅市千ヶ瀬神社の創建者だというから興味はさらに倍加した。
*秀郷は平安中期の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん:軍政府長官)である。俗に「俵藤太(たわらのとうた)」と云う。下野押領使(しもつけ おうりょうし:警察・軍事官職名)として平将門の乱を鎮圧、その功によって下野守(しもつけのかみ)となった。東国・坂東武士の小山・結城・下河辺氏などの祖と云われる。
近江・三上山(みかみやま)のムカデ退治の伝説(後述)の主人公だ。
以下は古墳時代(こふんじだい)と比較的古い時期に製鉄が行われていた事象である。
参考写真:広島県立みよし風土記の丘に移築復元された「戸の丸山製鉄遺跡(とのまるやませいてついせき)」は*古墳時代(こふんじだい)後期の製鉄炉である。・・・山の急斜面を削って造った約7.5m×5.5mの平坦面上に遺跡がある。製鉄炉は78cm×55cm、深さ25cmの隅丸長方形の炉穴に木炭粉を混ぜた黒色土を埋め、その上に薄く砂をまき、炉底とした。
炉床を掘り下げ、木炭などを敷き詰めた簡単な防水構造としている。
(広島県庄原市濁川町字上組山369-1)
*古墳時代とは、日本列島の歴史における弥生時代に続く時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指す。
倭国が統一していった時代とされる。 -
島根県東部の出雲地方では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われていたと云う。
天平5年(733年)に書かれた【出雲国風土】には、「この地で生産される鉄は堅く、いろいろな道具をつくるのに最適である」と、生産される鉄の優秀性が語られている。
そして、江戸時代後半から明治にかけての最盛期には、全国のおよそ8割の鉄が、当地を中心とした中国山地の麓でつくられていたそうだ。
<たたら師>(日本大百科全書)
たたら(踏鞴・高殿)炉で砂鉄の精錬作業をする職人。古代・中世には、特殊の職能集団として移動・漂泊していた。近世に入り1770年代から、それまでの露天の野たたらにかわって、屋内に構築されたたたら炉が砂鉄産地に普及していった。これには鉄師(鉄山師)の管理下にたたら職人が置かれた。
鉄師のことをたたら親方ともいい、
たたら職人には村下(むらげ):職長、
炭坂(すみさか):炭の吟味役・職長補佐、
炭焚(すみたき)、番子(ばんこ):天秤吹子(てんびんふいご)を踏む者)などの職階があり、これらを俗にたたら師といったものであろう。
参考写真:たたら師の送風作業(日本山海名物図絵18世紀) -
出雲地方は【須佐之男(スサノオ)の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治神話】の舞台でもある。
小さい頃からこの伝承は絵本などで「神話上、目は真っ赤、腹は血が滲んでいて、首が8本、尻尾も8本あって、その体は8つの谷、8つの山にも及ぶ巨大さで苔や杉が生えているという」と学んだものだが、現在も伝承地が点在し、各地で舞われる神楽が神代の世界を伝えている。
この神話に登場する八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を、砂鉄採取の影響で氾濫する川になぞらえ、退治したオロチから取り出された剣を製鉄の象徴に、稲田姫神(イナダヒメノカミ)は砂鉄採取の跡地に拓かれた稲田に見立て、「たたら製鉄の歴史」と重ね合わせながら語り継がれてきた。
「たたら製鉄」は、産業としては100年ほど前に終焉を迎えたが、その技術は今も絶えることなく世界で唯一この地で伝承されている。
流通の拠点として賑わいを見せた港町は今や全国有数のハガネの産地へと発展し、「たたら製鉄」の技術を受け継ぐ高級特殊鋼「ヤスキハガネ」が現代の“ものづくり”を支えている。
また、鉄穴流しにより拓かれた耕作地では、全国に名高い「出雲そば」や「仁多米(にたまい)」を育んだ。
参考写真:出雲大社:(左) ヤマタノオロチ退治の神話を伝える神楽、(右)今も残る 鉄師が暮らした街並み -
【出雲大社】
島根県出雲市大社町杵築東195
出雲大社の社伝によると、古くは御社殿の高さは32丈(約96m)、その後、16丈(約48m)もあったと伝えられている。32丈については、御本殿背後の八雲山(やくもやま)の高さとほぼ同じで、これをさしてることも考えられる。
16丈については、平安時代の藤原摂関家の家庭教師であった源為憲(みなもとためのり)により書かれた*『口遊(くちずさみ)』という教科書に、平安時代の巨大建造物の順位を、「雲太・和二・京三」と記されていると云う。
すなわち「雲太」とは〝出雲太郎〟の略で、出雲大社の神殿のことと言い、〝大和二郎〟の東大寺大仏殿より大きかったと明記している。
*平安時代の天禄元年(西暦970年)に編纂された『口遊』(くちずさみ)
Wikiによると、『口遊』(くちずさみ)とは、平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書。全一巻。源為憲の作。
ただし書名は「くちすさび」と読んだかともいう。
平安時代(天禄元年(西暦970年)の『口遊』(くちずさみ)には、「雲太謂出雲国城築明神殿」、「和二謂大和国東大寺大仏殿」、「京三謂大極殿八省」との記載があり、「大きくて立派な建築」として、神社では出雲大社、仏寺では大仏殿、宮殿では大極殿が掲げられたものと考えられる。
「雲太」(うんた)は出雲太郎、「和二」(わに)は大和二郎、「京三」(きょうさん)は京都三郎を示し、河川における「坂東太郎」(利根川)、「筑紫二郎」(筑後川)、四国三郎(吉野川)と同様な言い方だろう。
参考写真:現在の出雲大社 -
【須佐神社(すさじんじゃ:須佐大宮)】
島根県出雲市佐田町須佐730
(御由緒)
神話の国出雲地方を潤す神戸川の上流に祀られている延喜式内の古社である。
「出雲國風土記」によれば、須佐之男命(スサノオのミコト)が「この国は小さい国であるがよい処なので、自分の名前は木石ではなく土地につける」と仰られ、御自ら御魂を鎮め置いた霊蹟であり、その御由緒の深遠な事は他に類を見ない須佐能袁命の御本社とも言えよう。
故に古くから朝廷をはじめ武将の崇敬は言うに及ばず世人の信仰も篤く、延喜式神名帳に記載されており、中世~近世には須佐大宮・出雲大宮・十三所大明神と称えられ、松平公・松江藩時代には一社一例国主守護之社として崇拝されていた。
明治 5年(1872年)年郷社に、同 6年(1873年) 県社に、同 32年(1899年) 国幣小社に列せられ、戦後は別表神社として今日に至っている。
須佐国造(すさのくにのみやつこ:大宮司家)は須佐国造出雲太郎某、須佐国造出雲次郎某を名乗っていたが、永享6年(1434年)、第59代国造孝時の時に出雲国造(いずものくにのみやつこ)を憚って<出>の一字を除き、以後代々交代に国造雲太郎、国造雲治郎 (雲次郎) として今日まで連綿と続き、現当主は第79代須佐雲治郎建央氏である。
参考写真:須佐神社(須佐大宮) -
参考写真:須佐神社(須佐大宮)大杉・・・社殿の後に巨木あり。周囲七m余り、樹高二十四m余りの老杉が立っている。
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【青梅に残る出雲太郎のムカデ退治】
青梅に残る出雲太郎のムカデ退治も、俵藤太のムカデ退治のようなものであったろうと絵を引用した・・・ムカデ退治はこちらが全国的だろう。
あるとき、出雲太郎が千ヶ瀬神社のあたりまできたとき、川向こうからゴーゴーとすごい音とともに、地響きもしてきた。
川向こうの長淵山(ながぶちやま)の方を見ると、大ムカデが暴れまわっていた。大ムカデは、太郎を見ると、巨大な頭を上げて襲いかかってきた。
太郎は、三本の矢を背負っていた。その一本を弓につがえるや、ムカデめがけてヒョウッと放った。だが、その矢は大ムカデの上を越えて、長淵山の方へ飛んでいってしまった。
大ムカデは、これを見ていきり立ち、牙をむきだし、百本の足をふりあげながら迫ってきた。もう多摩川を越えてハブチというところまできていた。
太郎は、二本目の矢をつがえると、さらに力をこめて放った。これは、ムカデの腹にささったが、真っ二つに折れてしまった。大ムカデは、いよいよ怒り狂い、木をなぎ倒して迫ってくる。太郎は、絶体絶命。もう後には引けない。
ふと、太郎の胸に浮かんだことがあった。
(ムカデは、人の唾を嫌うと聞いたことがある。それに人の唾には、霊力があるとも・・・ )
太郎は、最後の矢に、自分の唾を吹きかけた。
キリキリと弓を引き絞ると、ムカデの目を狙って矢を放った。
矢は、大ムカデの目に命中し、頭まで貫いていた。大ムカデは、のたうちまわりながら、後に下がり、やがて息絶えた。
大ムカデの頭から流れ出た血は、三日三晩流れつづけた。大ムカデの頭があったところは、毒のためにいつまでも木が生えず、赤茶けたハゲ山のままだった。
いつしか人々は、そこを「赤ボコ山」というようになった。また大ムカデの体が、山になったのが、いまの*長淵山(ながぶちやま:)だそうだ。
太郎は、ムカデの崇りを恐れて、千ヶ瀬神社に二本の椎ノ木を植えた。
右側を 「朝日の御影(みかげ)」、左を「タ日の御影」という。現在、青梅市の天然記念物になっている。
千ヶ瀬の集落も、そのころから始まったということだ。
参考写真:俵藤太のムカデ退治の武者絵はなかなかのものだ。
尚、付記すると、今は*長淵山ハイキングコースというものが出来た。
青梅市と日の出町の市境に整備されたハイキングコースで、途中には眺望の良い「愛宕山」、「赤ぼっこ」や「天狗岩」などの休憩スポットがあり、気軽に登れるコース(距離10.5km、所要時間4時間50分)として人気との事。
具体例としては、
宮ノ平駅(08:50)・・・ハイキングコース入口(09:25)・・・分岐(09:55)・・・要害山(10:20)・・・天狗岩分岐(10:55)・・・天狗岩(11:02)[休憩 20分]・・・天狗岩分岐(11:31)・・・赤ぼっこ(11:50)[休憩 10分]・・・馬引沢峠(12:15)・・・旧二ッ塚峠(12:35)・・・分岐(12:58)[休憩 20分]・・・ハイキングコース入口(13:50)[休憩 10分]・・・青梅駅(14:24) -
【俵藤太(たわらのとうた)のムカデ退治】
尚、俵藤太の百足(ムカデ)退治伝説(概略を記した)が残る。
俵藤太こと藤原秀郷は、天慶3年(940年)の平将門の乱の討伐で知られる勇者である。
俵藤太が瀬田唐橋に現れた大蛇に頼まれ、三上山に住む百足を成敗したという伝説も、武勇のほまれ高い秀郷らしい。
近江・三上山(みかみやま)は高さ432mで、なだらかな稜線を描くその美しい姿から、近江富士と呼ばれている。また、この山を7巻半した「大ムカデ」を武将「俵藤太」が弓矢で退治したという伝説が残っており「ムカデ山」の別名もある。大蛇は瀬田川に住む龍王の化身とされ、橋の東詰には、この秀郷と龍王をまつる橋守神社がある。
参考写真:俵藤太のムカデ退治
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イチオシ
青梅と言えば、いまや昭和レトロを売りにしている。
JR青梅駅構内のレトロの写真も色々変わっている。私共は普段は車で行くので、墓参り用の花を買いに駅前の花屋さんに寄るだけで、駅構内の様子はもう何年も見ていない。
駅から旧青梅街道に出て、駅前通りを歩くと、レトロ感のある映画ポスターが見られて、昔の姿は何処へやら、様変わりの通りになった。
故郷を出て、五十年も過ぎると、我が町も変わってしまい、やむないことなのだが、何となく違和感を持ってしまう。
さて、2022年4月21日(木)に2泊3日の予定で青梅を訪れた。
コロナ禍でノビノビにした両家の墓参りを3年ぶりに済ませるのが、この旅の目的だった。
【青梅市:曾祖父理平が戦死した長男雄太郎の遺書に由って、村の鎮守様・千ヶ瀬神社に石灯篭(いしどうろう)を奉納した話】
千ヶ瀬神社の境内面積は580坪(1,914平方メートル)と云われているが、山際の斜面にくっついて建てられている社殿などの様子を見ると、現在の境内は思ったより狭く見える。
かつての神社が所有した境内は、抜けてきた参道の長さを思えば、また左右の学校・住宅などを考えると、結構な広さを持っていたに違いないと思ったが。
(後に宮司の高野さんに電話で確認したら、元々、神域はそう広いものではなく、一帯は宮司の高野家の地所だったそうだ。その後、学校用土地などの必要が生じた為、手放してしまったとか。中学の同級生に高野さんという色の白い、無口な方がいたが、宮司の妹さんであったようだ。すでに故人になっているが)
社殿の裏手は古くからの木々が神域を作っているが、社務所のようなものが右にあり、宮司さんの家も傍にあるようだ。
社殿前はやや広く、昔のイメージはもっと木々があって、全体に暗い感じを持っていたが、今は意外と明るくすっきりしたものだった。
石段の右に銀杏の木、手水舎(てみずや)、左に大正15年の神社拝殿改装記念碑が建ち、更に左手に立つ石碑は旧千ヶ瀬村山車の完成記念の石碑だ。
数年前に拝殿階段、石段など改装したので全体の景観もきれいなものだ。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・正面に社殿 -
【千ヶ瀬(ちがせ)神社】
〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町2-117
社務所(宮司・高野さん)
千ヶ瀬神社は「氏神様(うじがみさま)」、「産土様(うぶすなさま)」、「鎮守様(ちんじゅさま)」と呼ばれた。
村人には子供が生まれるとお宮参り、七五三、我が子の成長の祈願、成人祝、結婚式、新年の祈願、家内安全、交通安全、厄払い等などで古くから親しんだ、かけがえのない存在でした。
御祭神:
豊宇気姫命(とようけひめのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、他2柱 、
境内社:神明社(天照大神)、その横左から順に春日神社、八雲神社、浅間神社
社宝:応安の棟札、明治維新の時、江戸城無血開城を為した事で知られる幕臣・勝海舟(かつ かいしゅう)筆の幟一対(のぼりいっつい)などがある。
御由緒:
平安時代、承平3年(933年)に社殿を建てたのが始まりと云う。
千ヶ瀬神社は古くは大社権現稲荷大明神、江戸時代には稲荷社と称した。
慶安2年(1649年)には江戸幕府より社領1石5斗の御朱印状を拝領したとされている。
千ヶ瀬村の鎮守で、神官高野氏の祖先出雲太郎(古事記や日本書紀に出てくる出雲の国の豪族、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の子孫と称す)が、この地に至り、出雲神社を創建したのが始まりと伝えられている。
慶長12年(1607年)4月神官の邸宅が火災に被り、社記古文書等殆どが焼失したため 、神社創建後の変遷は詳らかでない。
明治7年(1874年)村内の神明大神宮(神明社)を合祀し、明治16年(1883年)千ヶ瀬神社と改称した。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・曾祖父が寄進した石灯籠一対 -
<千ヶ瀬神社:曾祖父が奉納した一対の石灯籠>
実は母の祖父(私にとっては曾祖父だが)が、かつての千ヶ瀬村の鎮守様、千ヶ瀬神社の正面階段上にある一対の石灯籠を奉納したと、2019年10月に弟から概略を聞いていたので、一度見に行きたかったのだ。
江戸時代に名主・村役人を務めた旧家を継いだ曾祖父は、明治維新から以降、一族郎党を養うために、生糸作りや黒八丈(黒色無地の絹布)作りに苦心して上手くいかなかったと聞く。
石灯籠に彫り込んだ文字は(石工の技術が悪かったのか、材質に問題なのか)歳月と共に薄くなっていたが、奉納者である曾祖父理平と次男傳吉の名前と、由縁、つまり(日露戦争の旅順戦で第三回総攻撃が行われた203高地で戦死した)戒名は「建功院英機良雄居士」、陸軍歩兵軍曹、勲7等、功7級の長男雄太郎(明治14年~明治37年(1904年、享年23歳)の遺書に由って石灯籠を建立し、奉納した・・・と読むことができた。
雄太郎は戦死を覚悟し、その魂の帰る場所に村の鎮守を選んだのだろう。
当時でも、多くの軍人さんは「靖国で会おう」というのが普通だったはずだが、彼は故郷の鎮守様を選んだ。
遺族である家を継いだ弟は靖国神社に参る。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・石灯籠の中台(ちゅうだい)に文字が刻まれていた。 -
長く村人、地域の人達の信仰の対象であった鎮守様・千ヶ瀬神社には、出雲太郎伝説にも出てくるのだが、社殿の東西に御神木・朝日夕日と称する椎の樹(シイノキ)二株の巨木が青々と茂り、大正15年に改装したと云う社殿もまだ十分に美しく、神域は面積580坪の中に、社殿、神輿庫(神輿が鎮座している)、手水舎、境内社(神明社(天照大神)、八雲神社、浅間神社、春日神社)などが見られる。
社殿の東西に出雲太郎が植えたと伝えられる*御神木は誰が付けたか好ましい「朝日夕日」と称する椎の樹(シイノキ)二株があった。
残念ながら「夕日の御蔭(みかげ)」は文明12年(1480年)に大風で折れ、枯れてしまった。現在の椎の樹はその後に植えられたものだと云う。神明社を覆うように椎の樹が横に樹形を伸ばし、太い二本の丸太でこれを支えている。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・境内社の神明社と御神木・「夕日の御蔭(みかげ)」 -
これに対して、「朝日の御蔭(みかげ)」は現在も青々と茂り、青梅市一の巨木・古木として昭和32年(1857年)に青梅市の天然記念物に指定された。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・御神木・「朝日の御蔭(みかげ)」 -
『青梅文化財・史跡・天然記念物』によると、河岸段丘の崖下であることで日だまりに恵まれ、背後の南向き斜面が冬の寒風をさえぎることもあって、このように大きく生長することができたと云う。このシイノキは、幹周7.2m、樹高23mで、実際の樹齢は300年程度とされる。
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・御神木・朝日の御蔭・・・説明版 -
千ヶ瀬神社の参道入口、鳥居前で駐車し、写真を一枚。
(参道左に青梅第二中学校の校舎と汗を流したグランドが見える。
中学時代は野球部のエース、東京都下大会(参加82校)では優勝候補の八王子三中を5対0で完封し、ベストエイトになった。ちょっとした自慢話だ)
写真:鎮守様・千ヶ瀬神社・・・神社の鳥居、桜の季節も良さそうだ。 -
我が家の菩提寺、宗建寺(そうけんじ)には先祖代々の墓石の横に、「建功院英機良雄居士」の立派な墓石が並んで建っている。
この墓碑の側面に雄太郎の履歴が刻まれている。
この事も曾祖父の長男の戦死を悼む思いが察せられる。
その墓石には雄太郎の履歴、戦歴が詳細に彫られていて判読できた。当時、各戦役で亡くなった戦死者の栄誉を称え、地域の寺々には先祖代々の墓石の他に、戦死者の立派な墓石が建てられたものだ。
以前、この墓石に興味があり、写真を撮り、墓石に刻まれた文字を拡大して読んだ。そして以下のように纏めた。
【故陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 XX雄太郎 履歴】
雄太郎は明治十四年三月十五日、東京府武蔵国西多摩郡調布村千ヶ瀬、XX氏邸に生まれる。父を理平という。雄太郎はその長男なり。父母に仕え、郷土の皆はその孝を称える。
丁年(ていねん:一人前に成長しての意味)に及んで、徴兵検査に合格。明治三十四年十二月一日に東京麻布・第一師団第一連隊・第三中隊に入営す。
明治三十六年十一月三十日に帰休。
日露の役(戦争)、起るに及んで動員令に接し、明治三十七年三月十日予備を以て入営し、出征*第三軍に属し、三月十九日出発。清国孫家明子に上陸す。
爾来(じらい:それからの意味)、警戒、捜索等の任務に服す。又、南山及び石展盤溝等の戦に奮戦して功あり、同三十七年九月十八日、歩兵伍長に昇任す。
旅順攻囲軍の203高地を攻撃するに際し、雄太郎は中隊の突撃隊に任ぜられ、奮然、衆に先んじ、敵陣に突入し、頑強なる敵を駆逐し、殆んど同地を占領せんとする一刹那、敵弾に当りて、遂に戦死す。
実に明治三十七年十一月二十八日なり。後ににその功を表賞(ひょうしょう:褒め称えるという意味)し、軍曹に昇任し、勲七等功七級を賜る。
・・・・・
写真:青梅の菩提寺宗建寺・・・雄太郎の墓 -
私が小・中学生の頃、小・中の恩師が二人そろって、お盆時期になると仏壇に御線香をあげに来られた。
思えば、二人の恩師は雄太郎さんと東京府立農林学校(明治42年(1909年)に創立。現在は東京都立青梅総合高等学校)の同窓であった。
有り難いことに同窓会を代表されて、御線香をあげに来られたのだ。
当時の青梅には高等教育を受ける学校として、府立農林学校と東京府立青梅実科高等女学校(大正12年(1923年)に創立、その後、府立第九高等女学校、戦後は都立多摩高校と改称)があった。
写真:仏壇に飾られていた建功院英機良雄居士(俗名雄太郎)の写真・・・日露戦争の旅順203高地にて明治37年11月28日戦死・・・
尚、曾祖父理平の長女ツルの長女だった我が母静子は、この家に相続人が途絶えたこともあって、大正12年10月、祖母スヱの養女になった。
それで理平長男の雄太郎(戦死)、次男傳吉(病死)は、母の兄になった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お盆の時期の14日、歯のインプラント手術(二本)をした。
まだ上あごの骨は丈夫と云うことらしい。
痛みは少なくなったが、まだ口回りが腫れて、食事も食べにくい。
ご先祖様の墓参も神社参詣もままならぬので、秋まで延期にした。
ともあれ、出雲太郎のムカデ退治の伝説を本稿で纏めながら、
ご先祖様の事を思い起こすのも良いことかもしれない。
(2026年8月15日Wiki/Hp参考、編集・追記)
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