2016/03/25 - 2016/03/25
56位(同エリア723件中)
jijidarumaさん
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東京都青梅市は26歳の結婚まで、私共夫婦が育った町であるから、友人も、思い出も多い。
さて、ご存知の無い方も多いかと思い、故郷青梅のご説明と書きましょう。
青梅宿は関東山地と武蔵野台地にまたがり、東京の西部地区(東京から約50km)にある人口13万人の都市である。
市中を多摩川が東流し、中心市街は多摩川の谷口集落であり、青梅街道の宿場町として出来上がった町である。
多摩川が作った河岸段丘が川沿いの左右の両岸に出来て、人がそこに住みついてきた。
私の実家は青梅宿(おうめじゅく)から一段下の段(いわゆる多摩川の河岸段丘)にある。青梅市になる前はかつての調布村千ヶ瀬だ。
家内の家は多摩川の向こう岸、かつての調布村駒木野である。
青梅を訪れ、昨夜はかんぽの宿青梅(現亀の井ホテル)に1泊して、翌日は両家の菩提寺である寿香寺と宗建寺に墓参りした。
その後、私の実家から200mと近い、津雲邸前に雛祭りのタテカンが出ていたので、ついでに訪れたのだった。
写真は2016年3月25日雛祭り・津雲邸玄関前で。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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イチオシ
向こうに見えるのはかんぽの宿(現亀の井ホテル)青梅で、青梅に来ると空いていれば、たいていここに泊まることにしている。
ホテルの敷地の一部に家内の家の畑があって、ホテルに売却したのだと云う。
写真は2016年3月25日(金)家内の実家の墓参り(駒木野・寿香寺)亀の井ホテル 青梅 宿・ホテル
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かんぽの宿(現亀の井ホテル)青梅からは車で2,3分の場所に寿香寺(じゅこうじ)があるので、便利なのだ。
写真は2016年3月25日家内の実家の墓参り(駒木野・寿香寺) -
こちらの墓は宗建寺(そうけんじ)のもので、後で訪ねる津雲邸のすぐ下にある寺で、我が家とは縁も長く、深い菩提寺だ。
父の代に、家の裏手にあったケヤキと竹林の中に設けていた先祖代々の墓を掘り出し、こちらに古い墓石を埋め、その上に日露戦役・旅順203高地で戦死した母の兄の墓石(左)をうつし、さらに父は新しく墓石(右)をたて、その右に過去帳から写した先祖代々の石碑を建てた。
父はかつての野邊村(あきる野市のべ)から婿入りした所為か、婚家の事はきちんと仕上げて逝ったように思える。
写真は2016年3月25日我が家の実家の墓参り(宗建寺)宗建寺 寺・神社・教会
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本編は<4Tra仲間の旅猫さん>が、最近投稿された
『友人の写真展を観に青梅へ』
https://4travel.jp/travelogue/11986906/
を読み、私共の故郷でもあるから、コメントせねばと思って、書いていたら長文になってしまった。
少々長すぎて、コメントになりにくいなと思い、それならばと自分で投稿しようと更に編集・追記し、2編を書き出した内の1編なのだ。
言わば、仲間の投稿に触発されてしまった。
私には、時々こうした事がある。
旅猫さん、ありがとうございます。
さびれていく!青梅に又お立ち寄りください。
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<青梅街道と青梅宿(おうめじゅく)>
1606年(慶長11年)、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。
当時の名称は成木往還であった。青梅街道という言葉が文書内に初めて登場するのは『新編武蔵風土記稿』とされるが、この時点の道標では、江戸へ向かう道として「江戸道」「小川道」「箱根ヶ崎道」と呼ばれ、また青梅・奥多摩へ向かう道として「あふめ道」「みたけミち」などとも呼ばれていた。また、箱根ヶ崎においては「原江戸道」(はらえどみち)とも呼ばれた。
明治時代になってからは、『皇国地誌・西多摩郡村誌』によると「東京街道」「甲州脇往還」などと呼ばれた。 内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅から大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現・甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、青梅街道は江戸と甲府を結ぶ甲州街道の他にも往来できるルートであったことから<甲州裏街道>とも呼ばれた。また、青梅街道最大の難所が大菩薩峠であることから、別名大菩薩峠越えとも呼ばれた。
徳川家康が江戸幕府を開いたときに、青梅陣屋が置かれ(現森下町熊野神社付近)、青梅街道には御岳山岳信仰の参拝者、甲州への旅人である商人や職人が行き交い、青梅宿(おうめじゅく)は街道の宿場として栄えたと云う。
(Wiki)
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参考写真はかつての青梅宿の古絵(御嶽菅笠道中記《青梅宿の図》)・・・青梅宿の住吉神社が右上に見える。住吉神社 寺・神社・教会
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結婚して、青梅を出る前は家内と「とんかつもりた」でよくカツ丼を食べた。
ご夫婦二人でやっていたが、何時行っても誰も御客がいない店であった。
だが、もう年輩の親父さんが作る、ここのカツ丼は実に美味であった。
2016年はまだ店も健在だったが、今はもう無い。
今日は宗建寺の駐車場に車を入れて、坂を上って来た。
いつもは青梅街道を住吉神社の前を通り、この角で曲がり、坂道を下っていく。
坂の右手に小さな延命寺、左手に津雲邸、更にその下の左手に宗建寺がある。
参考写真は「とんかつもりた」はもう無くなった。 -
津雲邸と宗建寺の間に道路があり、青梅の住江町、かつての調布村千ケ瀬(ちがせ)の境になっていて、我が家はちょっとの差で千ケ瀬であった。
それで通学区が青梅1小や青梅1中、青梅2小(かつての調布小)や青梅2中(調布中)になっていて、私は後者に通った。
この雛祭りの絵が掲げられた塀を左に見て、坂道を下ると、右手に延命寺(えんめいじ)がある。
参考写真は津雲邸:雛祭りの絵が掲げられた塀 -
<臨済宗建長寺派住吉山 延命寺(えんめいじ)>
〒198-0084 東京都青梅市住江町82
TEL 0428-22-3386
延命寺は季竜元筍禅師の郷里である大阪堺の住吉明神を鎮守として勧請し、住吉山と号した。 延命寺の本堂にある本尊は釈迦如来で、脇侍は延命地蔵菩薩(右)、不動明王(左)がある。
創立は応安2年(1369年)で、 季竜元筍禅師の開山と伝えられている。
境内の呑竜堂(どんりゅうどう)に祀られる呑竜上人ゆかりの祭礼は、 [お呑竜さま」と呼ばれ市民に親しまれている。
小さかった頃は姉に連れられて、呑竜さんの甘茶を飲むのを楽しみにしていた。
小学生の頃、幼稚園の部屋を借りて、珠算教室が開かれていたので、珠算3級を取るまで通っていた。
兄は高校教師、弟は官僚、私は商社勤めになったので、親父に勧められて通った珠算塾だったが、教わった事は大いに身を助けたようだ。
参考写真は延命寺:呑竜さんMap -
また、 いまだ火災にあうことなく、この寺の創建当寺の鉄製棟札に [青梅」という地名が記されているものがあり、最も古い資料として、 市有形文化財に指定されている。
境内奥には安産子育ての*呑龍堂や天神社、入口の右手に市内では珍しい木造の小さい五重塔がたち、墓地への入口付近には六地蔵(文政3年・・・1820年)や文字馬頭(天保10年・・・1839年)などがあり、小さいながらも、古い寺格を感じさせるものがある。
*花祭り:呑龍上人開帳大祭(大般若会)
毎年4月8日
呑龍(どんりゅう)上人は徳川家菩提寺である群馬県太田市の大光院新田寺の江戸時代初期の住職でした。安産子育のお呑龍様として信仰の対象になった。
呑龍上人の逸話が残っている。
関ヶ原の戦い以降、徳川の世を迎えたが、いまだ乱世後の混沌とした時代が続き、山村は貧しい家が多く、子どもを育てられず、親は子を捨て、子を売ってしまうことも多かったと云う。そんな状況を嘆いた呑竜さまは国禁を犯し幕府に罰せられることも厭わず貧しい子どもたちを弟子という名目で寺で受け入れたそうです。
いつしかその善行は世に認められ「子育てどんりゅう」と呼ばれるようになったと伝えられている。
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参考写真は延命寺の本堂、左手奥に呑龍上人の分影を迎えた「呑龍堂」がある。延命寺 寺・神社・教会
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【歴史資料館 青梅 津雲邸】
現在の津雲邸は上記のように「歴史資料館」を称するようになった。
住所:〒198-0084 東京都青梅市住江町72-2番地
アクセス:青梅線 青梅駅(徒歩 約6分)
電話: 0428-27-1260
メール: tukumotei@tukumo-tei.com
概要:創業2014年11月1日 歴史・美術資料館、貸しギャラリー、喫茶
営業時間:10:00 - 16:00
催し会場:着物展示会、絵画展、写真展などの会場、三味線のお稽古、華道、茶道等、趣味の各種教室、会議、打ち合わせ場所
家内は若い頃、お茶をしていたので、津雲邸には入った事があると言っていた。お茶の先生は津雲家とも親しくしていたので、時々、津雲邸内のお茶室を借りて、生徒さんたちを教えたそうだ。また、家内の実家に同居していた叔母は、嫁入り前に津雲邸の料理教室に通ったとか。
つまり津雲邸は当時の青梅の文化を代表する存在だったようである。
参考写真は津雲邸(赤□印)Map -
イチオシ
【故郷青梅:ある日、特別企画「青梅宿 津雲邸(つくもてい) 雛まつり展」という催しを見に訪れた。】
<2016年1月6日:特別企画「青梅宿 津雲邸 雛まつり展」のおしらせ>
「津雲邸 雛まつり展」は下記の日程で開催いたします。
開催日:2016年2月11日~3月27日(金・土・日曜日、祝日のみ開館)
入館料:一般 500円、小中学生 200円
協力 NPO法人「ぶらり青梅宿」
写真は2016年3月25日雛祭り・津雲邸玄関前で・・・確か邸内の写真撮影は不可だった記憶がある。津雲邸 名所・史跡
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【津雲國利(つくも くにとし)氏と津雲邸】
チャンバラごっこに興じた子供心に小城(津雲邸)の石垣はすごいなと思った。
津雲邸に住む津雲国利(つくもくにとし:1893~1972年、享年78歳)氏は、私にとっては小城の当主といって良いかもしれない。
地元の政治家、名士、有力者だったが、子供にはそういった思いはない。
参考写真は津雲邸:屋敷横手の石垣 -
私が小さい頃、近くの宗建寺(そうけんじ)の庭でよく三角野球やチャンバラごっこをして遊び、ご住職(私が入学した調布小学校(青梅第二小学校)で先生をしていた)によく叱られた。その宗建寺の道路を隔てた上に津雲邸があった。
子供の目からも、小城のような石垣が積まれた邸の様子は、周辺から際立っていて、侵し難いような構えだった。
子供同士で、代議士さん(どんなことをしているのかもわからぬままに)の家だってよ!とお互いに言いつつ、何となく敬遠したい存在だった。
津雲邸は迎賓館的な役目もあったようだから、往時の政府高官や多くの著名人が訪れたそうだが、子供の中でそんなことが話題にもならず、両親たちからもそうした話題を聞いたことが無かった。
後に珍しい名前だなと思っていた津雲さんが、高校の大先輩であることを知ったのは、高校の同窓会名簿を見てからだったろう。
その時は職業欄に<農業、元代議士>とあり、小城の当主がその二つと結びつかず、妙な思いをした。
彼が残した津雲邸など、いわゆる農業で資産作りができるものではなく、若い頃に銀行員生活をした経験が生きたのだろうか?
私が選挙権を持ったのは昭和38年(1963年)のことで、津雲さんが代議士を引退した年であった。
私が政治などに興味を持ったのはその後の事なのだ。
参考写真は津雲国利(つくもくにとし)氏はなかなか個性的な風貌だ。 -
因みに津雲という名は、社会に出てもこの方しか知らないから、希少な名前なのだろう。
最初は出雲(いずも)の族から出たものかと思ったが、違った。
それで名字の由来Netを検索すると、
津雲の
【読み】つくも,つぐも
【全国順位】 18,510位
【全国人数】 およそ250人
築茂と起源をともにする。現山形県の広域である羽前が起源(ルーツ)である。
近年、東京都に多数みられる。
東京都におよそ100人、内青梅市におよそ40人とありました。
日本人の中でも、この名前を名乗る方はやはり少ない。
その中で津雲國利氏が有名人として、第一にランクされる。
参考写真は津雲国利氏と趣味としていた仏像コレクション。この写真のお顔は先のものとはさまがわりに見え、趣味の仏像コレクションに囲まれて満足げである。 -
<津雲國利氏の履歴:明治26年-昭和47年(1893-1972年)>
1893年(明治26年)10月18日、西多摩郡青梅町上町(かみちょう)(東京都青梅市上町)で生まれ、旧制東京府立第二中学校(都立立川高等学校)卒業とある。
同窓会名簿(昭和40年(1965年))によると、中学第8期(明治45年3月)卒業で、8期の卒業生44名、津雲氏は安田銀行員養成所卒、農業、元代議士(8期)と書かれていた。名簿のすぐ上に歌人の田中(村野)次郎氏(早大商学部卒)がいる。因みに弟の村野四郎氏(中学第16期で、慶大経済学部卒)も掲載されていて、詩人と書かれていた。同じ兄弟でも詩人の四郎氏の方が同窓会では知られている。
安田銀行員養成所を出てから、安田銀行、古河銀行に勤務した。若くして古河銀行宇都宮支店長をつとめた。さらに宇都宮市に於いて新聞経営に従事し、下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した。
経済人から政界に転じた。何があったかは当時の事は不肖である。
27歳で政界入りを決意、時の政友会幹事長横田千之助の知遇を得る。
1922年(大正11年)、29歳の時に分家し、一家を創立する。
1928年(昭和3年)、34歳で青梅から第1回普通選挙に出馬し、衆議院議員に初当選する。
以来8回、22年間にわたり衆議院議員を務めた。
この間、立憲政友会幹事、総務、顧問や拓務政務次官に任ぜられたが、議会の要職を歴任したため、第二次大戦後、公職追放された。
昭和26年、57歳の時に公職追放が解除となり政界に復帰した。
政界では津雲氏の弁論が高く評価され、特に若槻内閣瓦解の一因となった越後鉄道事件(1929年 (昭和4年)に発覚した越後鉄道の国有化を巡る贈収賄疑惑事件)摘発の演説は、当時の人々に広く知られた。また、浜口内閣時代の議会綱紀粛正の演説は、延々4時間半に及び、国会での新記録となった。
1963年(昭和38年)古稀の70歳になると、その年の衆議院解散以降は下野し、悠々自適の生活を送った。
1965年(昭和40年)、勲二等旭日重光賞受賞。
1972年(昭和47年)1月4日、78歳にて永眠。
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参考写真は津雲邸の玄関前
因みに大先輩に興味を持って、4Traに投稿したのは
【ベルリンの壁の崩壊とともに蘇った日本人医師Dr.肥沼(こえぬま )の献身】
https://4travel.jp/travelogue/11219271
以来、二つ目になる。 -
この雛祭りが、第二回の雛祭り展(2016年3月25日)だと知らずに訪れたのだが、その際に館長の津雲 薫氏(当時67歳・・・故津雲國利氏のお孫さん)と、お会いして説明をして頂いた。
その時、私の実家はご近所にあり、旧制東京府立第弐中学校の第8回卒(明治45年、1912年)である津雲國利氏の50年後輩(私は都立立川高校第14期卒・・・昭和37年、1962年)にあたると申上げたら、この写真の同窓会名簿をわざわざ奥から取り出してきて、祖父が此処に、darumaさんはこちらに名前がありますねと、ページ(氏名、住所、進学先が掲載された)を示してくれた。
もうあれから10年近くになる。
参考写真は昭和40年(1965年)旧制東京府立第弐中学校(現都立立川高等学校)同窓会名簿 -
【asacocoアサココは東京都下の多摩の地域新聞(創刊は2010年10月14日)だが、2016年2月18日発行号に下の記事(抜粋)が載っていた。その記事は津雲邸の歴史や現在に至る事情などたいへん詳しく、参考に引用させて頂いた。】
多摩川を見下ろす地に建つ津雲邸は、1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)にかけて、約700坪の敷地に地元出身の代議士・津雲國利(1893年~1972年)氏が建造した邸宅だ。純和風2階建ては、京都から宮大工を招いて地元の大工や石工、建具職人との協働により建築された。
政財界の要人や著名人も訪れたという。各室の柱や欄間、天井、書院などに繊細で凝った細工が施され目を奪われる。それにも増して展示された江戸後期からの古雛や御所人形の姿に魅了される。
1階茶室の床の間に飾られている2体は初参(ういざん)人形で、皇族や公家子女、能役者や狂言師の子弟が初めて参内した時、天皇から下賜(かし)された人形だ。髪を稚児輪に結い緋縮緬の小袖を着ているのは、公家の子女らに。おかっぱ頭で裃袴姿はごく限られた能役者などに賜れた。
同館館長で國利氏の孫の津雲薫さん(当時67歳)によると、どちらも明治初期、同じ作者による一対とされ、2体が揃っているのは同館だけだそうだ。
1階の元応接間には、庄内藩主家の娘が小倉藩主家に嫁いだ際の嫁入り道具の雛型一式が展示されている。金蒔絵の長持や箪笥、お膳、古伊万里の皿や鉢、ガラス器などミニチュアといえど精巧で美しい。嫁入り道具をお披露目する代わりとして、その雛型を誂えたと伝わる。
2階大広間の段飾りには、平安時代からの公家の風俗をもとに、忠実に制作された有職(ゆうそく)雛が最上段に。気品があり奥ゆかしい姿だ。江戸後期から末期につくられ、縁あって津雲家のコレクションに。江戸末期から明治初期に、高位の公家に伝えられた立雛、大名家に下賜された御所人形なども展示されている。
津雲館長によると「祖父は古美術に造詣が深く、骨董屋から鑑定を頼まれるほど。22年も政界で活躍してきたから、上層階級とも付き合いが多く、所蔵している仏像や骨董など、持ち込まれる機会が多かったようです」。
仏像は1000体以上も所蔵していた時期があり、860体を青梅市に寄贈したそうだ。
雛まつりは平安時代から、宮中の子女の遊びごととして始まり、女の子の誕生と健やかな成長を願って、江戸時代半ばから武家や商家でも盛んになった。子どもが育ちにくかった時代の親たちの思いが込められている。
当館での雛まつりは今年で2回目だが、戦前までは「津雲さんちのひな祭り」として、地域の子どもも親たちも楽しみにしていたそうだ。
しかし、國利氏亡き後、長く空き家になっていた。付近に高層ビル建築の計画が持ち上がり、景観を守るために「NPO法人ぶらり青梅宿」(野嵜弘代表)などが中心となり、保存運動が始まった。2014年11月から地域振興も兼ね、歴史資料館として活用していくことになった。
「雛まつり展示も、青梅市にある御岳土鈴展示館『鈴蔵』の藤沼万治子さんの指導により、地元商店主や華道サークルの女性たち十数人が手伝ってくれました」と、津雲館長。藤沼さんは「これだけ保存状態がいいお雛様は貴重な文化財です」と語っている。
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参考写真は【歴史資料館 青梅 津雲邸】館長の津雲薫氏、当時67歳、津雲國利(つくも くにとし)氏のお孫さんである。 -
【2016年1月6日:特別企画「青梅宿 津雲邸 雛まつり展」】
開催日:2016年2月11日~3月27日(金・土・日曜日、祝日のみ開館)
入館料:一般 500円、小中学生 200円
協力 NPO法人「ぶらり青梅宿」
江戸から明治につくられた貴重なひな人形と"極小ひな道具"700点を展示。
江戸後期の有職雛、稚児雛、次郎左衛門の立雛、江戸・七澤屋の雛道具のほか、明治初期に天皇家から下賜された初参人形など、貴重な名品を展示します
参考写真は津雲邸:雛祭り展2025年2月21日~3月30日冊子・・・実際は第二回の雛祭り展(2016年3月25日)に訪れた。 -
参考写真は津雲邸:雛祭り展・5段飾り
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<有職雛(ゆうそくびな)一対>
有職雛とは、公家の風俗を忠実に縮小した雛人形。
一般にはほとんど見かけない格の高い雛人形。
下段には五人囃子ではなく「五人楽人」。雅楽の楽人の優雅な趣きが上流階級に好まれ、高級なひな飾りに多く見られる。
参考写真は津雲邸:雛祭り展・有職雛(ゆうそくびな)一対 -
<芥子雛(けしびな)>
芥子粒のように小さいのでこう呼ばれた。
それまでどんどん大型化していった雛飾りが、寛政の改革で厳しく取り締まられ、逆に今度は極小サイズにも精密な技巧を施すという江戸文化の洗練が磨かれていった。顔の表情や、装束にもその技術が表れている。
参考写真は津雲邸:雛祭り展・芥子雛(けしびな) -
<ひな道具各種>
江戸後期の雛道具高級ブランド店「七澤屋」を中心に精巧な雛道具を数多く所蔵。みな贅を尽くした大変高価なものであり、人形玩具史上のみならず、江戸の美術工芸資料としてとても貴重なもの。
上の画像3点で、当時の平屋一軒が建つほど高価なものだったとか。
参考写真は津雲邸:書棚、黒棚といった展示品 -
<稚児雛(狩衣姿)一対>
幼子の姿で仕立てられた変わり雛。女の子の初節句のお祝いというよりも、高貴な女性の人形遊びとして所持したと思われる。
各地に現存する稚児雛は、ごく小型の雛人形であることが多く、こちらの大きさの稚児雛は珍しい。
参考写真は津雲邸:雛祭り展・稚児雛(狩衣姿)一対 -
<初参(ういざん)人形 二体>
公家の子女や能役者・狂言師の子弟らが、初めて御所に参内したときに天皇より賜る人形。公家タイプと能役者タイプが揃って保存されているのは珍しい。
髪を稚児輪に結い緋縮緬の小袖を着ているのは、公家の子女らに。
おかっぱ頭で裃袴姿はごく限られた能役者などに賜れた。
明治初期の衣装着人形として大変優れたものであり、資料的にも美術工芸的にも貴重な作品。
参考写真は津雲邸:雛祭り展・初参(ういざん)人形 二体 -
参考写真は津雲邸:雛祭り展・内裏雛(だいりびな)
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<御所人形>
大名が参勤交代の際、御所にご挨拶の目録を贈る風習があり、その返礼品として賜ったのが御所人形。
参考写真は津雲邸:雛祭り展・御所人形 -
津雲邸は登録有形文化財として登録された。
昭和初期の建築物「津雲邸」の一般公開は2014年11月から開始された。
参考写真は津雲邸:階段を上がった先にある狛犬 -
津雲邸の建物は津雲國利氏が1930年前後に京都の宮大工を招き、1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)にかけ建造したものである。
津雲國利氏が昭和初期から戦後にかけて衆議院議員として国政に携わったため、往時の政府高官や多くの著名人が津雲邸(一種の迎賓施設)を訪れたと云う。
津雲邸は瓦葺入母屋造、押縁下見板張、一部漆喰塗の建物です。純和風建築でありながら縁側との仕切りにガラス戸を用いるなど近代的な要素を持ち、また欄間や天井など随所に職人(京都の宮大工)が技巧を凝らした装飾を持つ贅を尽くした建築物として評価されている。
2階の広間は桐をふんだんに使い漆塗りで縁取られている。随所に職人の粋を集めた精密技巧が施された。
仏像コレクターでもあった津雲国利氏の別邸建築、津雲邸は2020年3月、「登録有形文化財(建造物)」に指定された。
現在、この津雲邸は、歴史資料館となっている。
坂本龍馬や近藤勇といった歴史的人物の書状や書画、関連史料などを展示し、企画展も不定期で行われている。
参考写真は津雲邸:玄関内 -
参考写真は津雲邸:玄関内①
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茶房「すす竹の間」の天井は希少なすす竹、床の間の柱は柚子の木など贅を尽くした客間であったが、現在は茶房として利用されている。
ここでは、厳選した香り高いコーヒー・抹茶・煎茶、そして手づくりのケーキを津雲家に伝わる茶器・コーヒーカップ・グラス・蒔絵のお盆でお楽しみいただけることになっている。
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参考写真は津雲邸:すす竹の間・喫茶室(1階) -
参考写真は津雲邸:すす竹の間の天井(1階)
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参考写真は津雲邸:1階茶室
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参考写真は津雲邸:茶室内の雪見障子
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参考写真は津雲邸:茶室内の天井
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参考写真は津雲邸:2階廊下
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参考写真は津雲邸:書院造りの大広間(2階)
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参考写真は津雲邸:大広間 欄間(2階)書院組子障子と透かし彫り欄間の鳳凰
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参考写真は津雲邸:大広間 控の間(2階)の火鉢
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参考写真は津雲邸:2階座敷のかもい
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参考写真は津雲邸:2階座敷・天井
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参考写真は津雲邸:2階座敷1
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イチオシ
津雲邸について書けば、以下の庭園も書かねばならないだろう。
庭園は津雲氏の面目躍如(めんもくやくじょ)の観がある。
【津雲國利の別荘であった日向和田(ひなたわだ)の「臨川庭園(りんせんていえん)】
住所:東京都青梅市日向和田2-271
アクセス:JR青梅線宮ノ平駅から徒歩5分と近い。
駐車場:一台分も無いから少々不便。
開園時間:午前9時~午後4時
休園日:毎週月曜日(祝日のときは翌日)
入園料:無料
津雲國利の別荘であった「臨川庭園」は現在、青梅市の管理になっている。
津雲國利が造った臨川庭園は、梅、桜、ツツジなどの花や紅葉の名所です。
入園は無料ですが、茶室は市に申し込むことで借りることができます。
日向和田 臨川庭園へは、JR青梅線、宮ノ平駅前の坂道を多摩川に向かって約200m下りたところです。
青梅出身の衆議院議員・津雲國利が昭和9年(1934年)に建造した邸宅は、氏の死後、遺族が青梅市へ寄付して、一般開放されるようになった。
故人となった津雲氏が「臨川梅園」と愛称していたことから、「日向和田 臨川庭園」と名付けられた。
飛石にて庭園を散策する園内には石で流水を表現した枯流れが見られ、庭園にはピンク色に花咲くミツバツツジ、赤い花を咲かせるバラ科の木瓜(ボケ)と、枝先の長い穂に白い花を咲かせる雪柳(ユキヤナギ)などが美しく咲く。。
京都から宮大工を招き、青梅の職人によって造られた瓦葺入母屋造(かわらぶきいりもやづくり)の建築物は見事なものだ。
参考写真は津雲別邸:日向和田臨川庭園のパンフレット -
イチオシ
以下はおまけに掲載した。
参考写真は昭和37年3月立川高校卒業アルバム・学校の俯瞰と校歌・・・校歌はいまだに歌えるから面白い。
懐かしいアルバムである。
母校は立川市の南、住宅街の中にたっている。
左手の白っぽい屋根は体育館でバスケや剣道部が使用し、その右に柔道場があった。左下の茶色の屋根の建物は食堂と合宿用の建物(その昔交通が不便な学生(八王子の奥、奥多摩や御岳の山)は此処を寄宿舎として利用していたと聞いている)である。
中央の野球場は左の右翼が狭く、右翼打ちには有利だった。右の丸くなった部分にバックネットがあった。人数の多いテニス部用のコートは校舎側噴水傍と右手の白い屋根の講堂前にあり、バレーボール部は左下の奥まった場所にあった。
運動各部の部室は中央下の茶色の屋根の建物だ。汗臭さで充満した部室は記憶から消えない。部室の横にプールが見える。
陸上部やサッカー部は少人数で、野球部の硬球に当たらないように小さくなっていた。今のサッカー部はこの狭い校庭を野球部と二分して、使用するようになった。
グランドは多摩川の所為か、小石交じりで、よくボールが変に跳ねて危険だった。ここで各校との練習試合もやったから、気の毒であった。むしろ、立派なグランドを持っていた日大二高、法政一高、桜美林高や都立五商、都立農林高に行って練習試合をするのを望んだものだ。
夏の大会が迫ってくると、学校から数キロ離れた立川市営球場を借りて練習をした。広い球場で練習しないと感覚がずれるからだったが、帰りは学校まで登りだから重い足を引きずりながら帰った。
冬季になると、自分たちでグランドを掘り返して、小石探しをし、黒土を入れた。
そんな野球部も今年、創部120年を祝った。
100周年の年、旧制府立一中(現都立日比谷高校)と対抗戦をやった。観戦したが、たいへん拮抗した試合で最後に逆転して勝った。
その後、両校は毎年秋に対抗戦をするようになった。
学業はともかく、野球は弐中が頑張っているようだ。 -
参考写真は昭和37年3月立川高校卒業アルバム・通学などのスナップ写真集・・・時計回りに左上から1段目が中央線・青梅線からの乗客で朝晩の通学は混雑した、今の立川駅の発展を思うと、様変わりの駅南口、2段目に登校風景、校門周辺、化学実験室の授業(男子組が4クラス、男女組が4クラスで合計8組、1学年は男300名+女100名=400名でした)、3段目は国語、英語の授業、当時食堂があって麺類が食べられた(弁当を早飯し、昼休みは食堂でうどんを食べた)、4段目は講堂での演奏会の様子、屋外プールでの*校内水泳大会など。
*当時野球部は今と真逆で、肩を冷やすなと指導されていて、水泳授業はいつも見学だった。担当の先生(バスケ、水泳部の顧問)は野球好きで、野球の大会には神宮まで応援にまざわざ来て下さった。
実に良い先生で、キャプテンをしていた私に望外の5を付けてくれた。高校時代の成績で唯一頂いた5である。
不思議なことに、いまだにここに登場する化学、国語、英語、体育の先生方の名は忘れていない。 -
参考写真は昭和37年3月立川高校卒業アルバム・学校内外の様子・・・時計回りに左上から中央玄関、屋上、天文台(天文気象部)のある屋上、階段(雨天は野球部の練習ができないので、ひたすら階段を上り下りした)、3年生は3階で廊下はコンクリートだった(イキガッテ、朴歯の高下駄で歩くとカランコロンと音がして気分が良かったが、夏のある日、体育(陸上・サッカーの担当)の教師に見つかり、直ちに脱げと叱られた)、お世話になった用務員の方々、教材の購買部の小父さん、中庭の噴水と*講堂など。
*講堂奥に部屋があって野球部はコンパにしばしば利用したが、或る晩大騒ぎしていたら、近所の小父さんに怒鳴り込まれた。
一緒に参加していた野球部OBが代表して謝ってくれたが、小父さんに「君は何年生だ?」と聞かれて、浪人中の先輩いわく、「4年です!」と答えた。
「そうか4年か、こんな大騒ぎを先頭に立ってやっているようでは、それも当たり前だな!」と・・・長く野球部に伝えられた話だ。先輩の為に書いておくと、1年浪人の後、志望した理系の大学に合格している。 -
イチオシ
参考写真は昭和36年10月~38年3月:高校から予備校時代・・・時計回りに左上から中央線の新宿駅で予備校仲間のS君と、高校時代に中庭の泰山木(タイサンボク )傍のベンチで、屋上でM君(彼と天城路を歩いた)と、体育祭でクラスのO君と、運動各部の部室前でM君、2年の投手N君(後に某市の市長を数期務めた)と、予備校帰りに友人O君宅を訪問。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上4枚の懐かしい写真をおまけに掲載した。
これも津雲大先輩のお蔭だろう。
思えば、現役時代はいかつい風貌した故人と書くと、故津雲氏にはたいへん失礼であるが、よくこれだけの貴重なものを一私人が残したものだと思う。
残しただけではなく、文化として見事に次代に引き継いでいったのには、畏れ入ったものだ。
歴史資料館として残った津雲邸は登録有形文化財として登録されたこともそうだが、860体という大変な数の仏像や、故人の思い入れのある別邸、あの美しい日向和田臨川庭園を青梅市に寄贈した津雲家にも驚く。
見事なお雛様の数々を、貴重な歴史的人物の書状や書画、関連史料などを展示する事で文化を地元に還元していくなど、凡人は唯、感嘆するばかりである。
(2025年7月11日Wiki・HP参考、編集追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2025/07/13 13:49:35
- 郷土愛
- jijidarumaさん こんにちは
たくさんの写真、資料、詳しいお話はとても魅力的でした。郷土を語るには当然
こうなるとは(笑)予測しておりました。読み終わって一冊の本を読破した気分です。
津雲邸の宮大工の技、デザイン、どれも見事だと想像します。保存されてしかるべきですね。青梅市には津雲邸のような文化財があること自体立派です。そして保存に力を入れていることは称賛すべきです。建築のみならず庭園も見るべきものがありますね。
ひな祭りのお雛さまの数々、どれも貴重な文化財、観賞できて幸せですね。
呑龍様のお話、興味深く拝読いたしました。というのは故郷館林から近い所の太田市にその呑龍様があるからです。正式には大光院と呼び、子供のころから呑竜様と親しんでいました。小学2年生?のころには学校の遠足で太田呑竜さまに出かけたほどです。思いだすのは持って行った柿が渋柿だったこと、それを飼われている猿に投げたところ渋柿だったので怒って投げ返してきた、と言って家族を笑わせたこと、しかしそれは受け狙いの嘘だったことなど、ああ、それから当時でも珍しい乞食の家族が寺にいたことなど印象に残っております。お陰で懐かしい思い出が浮かんできました。
機会があったら青梅をたずねたいですね。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/07/14 01:38:19
- Re: 郷土愛
- pedaruさん、
今晩は。早々のコメントありがとうございました。
郷土愛!その故郷も遠くなりました。5月に家内の母の17回忌で、本編の中で出て来た寿香寺に行ってきました。久し振りにおくたま路(かんぽの宿は予約できず)に一泊して、隣町の老人ホームの姉を見舞い、運転が怖くなった高速を使用せず、国道をテケテケ走って帰りました。
青梅の町は訪ねる度に元気が無くなりましたが、私共はいまだに新聞、TVで青梅で事件が起これば、或いは大雨、地震などがあれば、いつも気になってしまいます。この町は身近に自然と文化財がある環境にあり、結構なものです。
若い頃はそうした価値に鈍感でしたね。
故郷故郷と何気に書きだすと、恥ずかしながら、幼少期から青年期までの思い出があれこれと思い浮かんできました。
ほんとは、青梅に住みたかったのですよ。
呑竜さん!偉い呑竜さんは私共にも大変身近な存在でした。
本編に恥ずかしくて、書きませんでしたが、実は・・・
ある日、近所の悪ガキたちと一緒になって、延命寺内のお墓で遊んでいて、自分で墓石に登り、降りる際にうまく足が着かずに南無三!!!エイッと手を放して飛び降り、そのまま転げ落ちました。
墓石の角に頭を打ち付けたのでしょう。頭に傷を負いました。頭に包帯を巻いた不機嫌そうな顔で集合写真(小1の遠足)に写っています。
呑竜さんのお怒り!!に触れたのかもしれません。以来、片頭痛もちとなりました。その祟りは長く、本来持っていた私の良き頭脳!も落ちてしまったのです。一浪も親泣かせの留年もその祟りの所為でしょう(笑)。
今は幸い呑竜さんのお怒りもとけたようで、片頭痛もちはどこかに消えて、健康そのものになりました。
・・・・
青梅の美味い道味の最中や火打ちやの酒まんじゅうは、まだま味も落ちずに売れています。
もし、青梅をお訪ねの際はご購入を!^^。
いつもながらありがとうございます。
それではまた。
jijidaruma
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