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2026年5月23日、青梅から圏央道に乗り、坂戸ICで降りた。筑波山に向かい、国道125号線(122号線)を走っていくと、途中加須市街で小さな城が見えた。小休止しようと、騎西(きさい)の文化センターの駐車場に車を止めた。<br /><br />埼玉県加須市には、加須低地に築かれ、周囲に沼や深田が広がる難攻不落の騎西城(きさいじょう)があった。<br />騎西城は、古河公方と関東管領、さらには小田原北条氏と上杉謙信が対(たい)峙(じ)する最前線の城として歴史にその名を遺した。<br /><br />写真:土浦城(亀城)の古絵図

加須(かぞ)から、筑波山、土浦と走り、譜代の土屋家が11代(約200年間)にわたって治めた土浦城址を訪れた。

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2026/05/23 - 2026/05/24

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jijidaruma

jijidarumaさん

2026年5月23日、青梅から圏央道に乗り、坂戸ICで降りた。筑波山に向かい、国道125号線(122号線)を走っていくと、途中加須市街で小さな城が見えた。小休止しようと、騎西(きさい)の文化センターの駐車場に車を止めた。

埼玉県加須市には、加須低地に築かれ、周囲に沼や深田が広がる難攻不落の騎西城(きさいじょう)があった。
騎西城は、古河公方と関東管領、さらには小田原北条氏と上杉謙信が対(たい)峙(じ)する最前線の城として歴史にその名を遺した。

写真:土浦城(亀城)の古絵図

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 2022年11月、故郷青梅を訪ねた帰りに、何となく関東道の駅の一覧表から道の駅「童謡のふる里おおとね」を選び、訪ねてみた。<br />この時は事前学習でも、騎西城(きさいじょう)などがあるとは思いもしなかった。<br /><br />東北自動車道加須ICから降りて、初めて訪れた加須(かぞと読む)市は埼玉県の北東部に位置し、人口は110,950人と中規模の市である。<br /><br />短い時間の訪問だったが、かつて歌った童謡・・・「電車ごっこ」<br />運転手は君だ 車掌は僕だ<br />あとの四人が 電車のお客<br />お乗りはお早く<br />動きます ちんちん ・・・の作者に出会えた。<br /><br />作曲家下總皖一(しもおさ かんいち)氏が、この加須市で育ち、世に知られた作曲家であったことも知らなかったが、加須市はこの作曲家の銅像を建て、立派な市立図書館(分館)に彼のコーナーまで設けていた。<br /><br />埼玉の加須市は読めないが、童謡(運転手は君だ 車掌は僕だ)の作曲家下總皖一(しもおさかんいち)の出身地だ。<br />https://4travel.jp/travelogue/11804686<br /><br />参考写真:茨城Map

    2022年11月、故郷青梅を訪ねた帰りに、何となく関東道の駅の一覧表から道の駅「童謡のふる里おおとね」を選び、訪ねてみた。
    この時は事前学習でも、騎西城(きさいじょう)などがあるとは思いもしなかった。

    東北自動車道加須ICから降りて、初めて訪れた加須(かぞと読む)市は埼玉県の北東部に位置し、人口は110,950人と中規模の市である。

    短い時間の訪問だったが、かつて歌った童謡・・・「電車ごっこ」
    運転手は君だ 車掌は僕だ
    あとの四人が 電車のお客
    お乗りはお早く
    動きます ちんちん ・・・の作者に出会えた。

    作曲家下總皖一(しもおさ かんいち)氏が、この加須市で育ち、世に知られた作曲家であったことも知らなかったが、加須市はこの作曲家の銅像を建て、立派な市立図書館(分館)に彼のコーナーまで設けていた。

    埼玉の加須市は読めないが、童謡(運転手は君だ 車掌は僕だ)の作曲家下總皖一(しもおさかんいち)の出身地だ。
    https://4travel.jp/travelogue/11804686

    参考写真:茨城Map

  • 【加須(かぞ)から、筑波山、土浦と走り、譜代大名の土屋家が11代(約200年間)にわたって治めた土浦城址を訪れた。】<br /><br /><加須市:騎西城(郷土史料展示室)><br /><br />加須は合併で中規模の都市となったが、田園都市の印象が強い。県内の市町村で唯一、北関東の群馬・茨城・栃木の3県に全て隣接する都市だと云う。<br />それで、作詞作曲家の故郷であること、うどんで有名であることの印象だったが、意外に城があった。地元ではそれなりに知られていたらしいが、街中を走っていると、突然目に入り、慌てて小休止した。<br /><br />〒347-0104 埼玉県加須市根古屋633-2<br />(加須市騎西文化・学習センター「キャッスルきさい」および騎西図書館 隣)<br /><br />騎西城(郷土史料展示室)は、城を模した鉄筋コンクリート3階建てで、入館は無料である。だが、あまり資料館の中身が無いように見えて、小休止しただけで、先を急いだ。<br /><br />後で知ったのだが、騎西城跡より出土した、市指定有形文化財「十六間筋兜(じゅうろっけんすじかぶと)」を公開中だったとのことで、惜しいことをした。<br /><br />写真:騎西城(郷土史料展示室)の旗<br />

    【加須(かぞ)から、筑波山、土浦と走り、譜代大名の土屋家が11代(約200年間)にわたって治めた土浦城址を訪れた。】

    <加須市:騎西城(郷土史料展示室)>

    加須は合併で中規模の都市となったが、田園都市の印象が強い。県内の市町村で唯一、北関東の群馬・茨城・栃木の3県に全て隣接する都市だと云う。
    それで、作詞作曲家の故郷であること、うどんで有名であることの印象だったが、意外に城があった。地元ではそれなりに知られていたらしいが、街中を走っていると、突然目に入り、慌てて小休止した。

    〒347-0104 埼玉県加須市根古屋633-2
    (加須市騎西文化・学習センター「キャッスルきさい」および騎西図書館 隣)

    騎西城(郷土史料展示室)は、城を模した鉄筋コンクリート3階建てで、入館は無料である。だが、あまり資料館の中身が無いように見えて、小休止しただけで、先を急いだ。

    後で知ったのだが、騎西城跡より出土した、市指定有形文化財「十六間筋兜(じゅうろっけんすじかぶと)」を公開中だったとのことで、惜しいことをした。

    写真:騎西城(郷土史料展示室)の旗

  • 元々、この建物は1975年(昭和50)年に「婦人会館」として建てられたもので、現在は郷土史料展示室として利用されている。<br /><br />郷土史料展示室(騎西城)には、昭和55年に始まった発掘調査(武家屋敷、城郭、外堀)による出土品(武器や生活用具)が展示されている。<br />その目玉は前述の「十六間筋兜(じゅうろっけんすじかぶと)」である。<br /><br />現在は騎西城の遺構として、高さ約3m土塁跡が残っただけで、その「騎西城土塁跡」は加須市指定史跡となっている。土塁跡に「私市城阯(きさいじょうし)」の石碑が建っているという。<br /><br />ただ、史実の騎西城(=古くは私市城きさいじょうと称した)は、土塁や塀を廻らした平屋の館だったようだが、(好ましいとは思わないが)今の流行りで天守閣を持つ城として復元されている。<br /><br />写真:騎西城・郷土史料展示室の説明版<br />

    元々、この建物は1975年(昭和50)年に「婦人会館」として建てられたもので、現在は郷土史料展示室として利用されている。

    郷土史料展示室(騎西城)には、昭和55年に始まった発掘調査(武家屋敷、城郭、外堀)による出土品(武器や生活用具)が展示されている。
    その目玉は前述の「十六間筋兜(じゅうろっけんすじかぶと)」である。

    現在は騎西城の遺構として、高さ約3m土塁跡が残っただけで、その「騎西城土塁跡」は加須市指定史跡となっている。土塁跡に「私市城阯(きさいじょうし)」の石碑が建っているという。

    ただ、史実の騎西城(=古くは私市城きさいじょうと称した)は、土塁や塀を廻らした平屋の館だったようだが、(好ましいとは思わないが)今の流行りで天守閣を持つ城として復元されている。

    写真:騎西城・郷土史料展示室の説明版

  • 騎西城(=私市城きさいじょう)は、埼玉県加須市騎西地域(武蔵国埼玉郡)にあった平城である。また、「根古屋城」、「山根城」とも呼ばれた。<br />築城時期は不明だが、上杉氏配下となっていた太田氏によって築城されたという説がある。<br />康正元年(1455年)に足利成氏に攻略されている。<br />永禄6年(1563年)には上杉謙信に攻められ、惜しくも落城した。<br />天正18年(1590年)の小田原征伐後、松平康重に与えられた。<br /><br />騎西城の遺構は東西約400m、南北約400mの規模を持つと云う。西端に「本丸」、「二の丸」を南北に置く。その東に「天神曲輪」、「馬屋曲輪」、さらに東に「丸」と呼ばれる曲輪が2つあり、東端側の丸に大手門を置く。 <br />1987年(昭和62年)、1988年(昭和63年)の武家屋敷の発掘調査で、本城との間の堀が全国的に珍しい「障子堀(しょうじぼり:障子堀は敵の侵入を制限するために設計された堀の一種で、堀の底に段差や陥し穴を設けた)」だった。 <br /><br />写真:騎西城・郷土史料展示室

    騎西城(=私市城きさいじょう)は、埼玉県加須市騎西地域(武蔵国埼玉郡)にあった平城である。また、「根古屋城」、「山根城」とも呼ばれた。
    築城時期は不明だが、上杉氏配下となっていた太田氏によって築城されたという説がある。
    康正元年(1455年)に足利成氏に攻略されている。
    永禄6年(1563年)には上杉謙信に攻められ、惜しくも落城した。
    天正18年(1590年)の小田原征伐後、松平康重に与えられた。

    騎西城の遺構は東西約400m、南北約400mの規模を持つと云う。西端に「本丸」、「二の丸」を南北に置く。その東に「天神曲輪」、「馬屋曲輪」、さらに東に「丸」と呼ばれる曲輪が2つあり、東端側の丸に大手門を置く。
    1987年(昭和62年)、1988年(昭和63年)の武家屋敷の発掘調査で、本城との間の堀が全国的に珍しい「障子堀(しょうじぼり:障子堀は敵の侵入を制限するために設計された堀の一種で、堀の底に段差や陥し穴を設けた)」だった。

    写真:騎西城・郷土史料展示室

    郷土史料展示室(騎西城) 名所・史跡

  • 前述したように騎西(=私市きさい)城の障子堀(しょうじぼり) から出土した兜がある。<br /><br />この兜を「十六間筋兜じゅうろっけんすじかぶと」と呼んでいるが、その 鉢(はち) の形状が16枚の鉄板をつなぎあわせ、合わせ目が筋状で、筋の間が16あることから16間筋兜と称したらしい。<br />騎西城から出土したと他の兜との違いは、鉢や吹返しなどが着いた状態で発見されたことである。戦国時代の兜で装飾がほとんど着いた状態で発見されたのはめずらしい例である。<br /><br />参考写真:騎西城から出土した十六間筋兜・・・実際見ることを逸したので、写真をお借りした。

    前述したように騎西(=私市きさい)城の障子堀(しょうじぼり) から出土した兜がある。

    この兜を「十六間筋兜じゅうろっけんすじかぶと」と呼んでいるが、その 鉢(はち) の形状が16枚の鉄板をつなぎあわせ、合わせ目が筋状で、筋の間が16あることから16間筋兜と称したらしい。
    騎西城から出土したと他の兜との違いは、鉢や吹返しなどが着いた状態で発見されたことである。戦国時代の兜で装飾がほとんど着いた状態で発見されたのはめずらしい例である。

    参考写真:騎西城から出土した十六間筋兜・・・実際見ることを逸したので、写真をお借りした。

  • <騎西藩><br /><br />小田原の役(天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東の北条氏を討伐した一連の戦)の後、関東に徳川家康が入ると、武蔵国騎西城には松平康重が配置された。<br /><br />その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大久保忠常(ただつね)は秀忠軍に従軍し、信濃国上田城の攻撃に加わっている。<br />その功により、騎西2万石を与えられ、騎西藩初代藩主となった。<br />しかし、大久保氏は寛永9年(1632年)に美濃加納藩に移封となったため、騎西城は廃城になってしまった。<br /><br />尚、騎西藩初代藩主の大久保忠常(ただつね)の父・大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、徳川家の譜代大名、相模小田原藩の初代藩主である。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />参考写真:騎西城から出土した十六間筋兜の構造・・・兜というものを意外に分かっていない。初めて詳細な説明を見つけたので、こちらに参考に示した。

    <騎西藩>

    小田原の役(天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東の北条氏を討伐した一連の戦)の後、関東に徳川家康が入ると、武蔵国騎西城には松平康重が配置された。

    その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大久保忠常(ただつね)は秀忠軍に従軍し、信濃国上田城の攻撃に加わっている。
    その功により、騎西2万石を与えられ、騎西藩初代藩主となった。
    しかし、大久保氏は寛永9年(1632年)に美濃加納藩に移封となったため、騎西城は廃城になってしまった。

    尚、騎西藩初代藩主の大久保忠常(ただつね)の父・大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、徳川家の譜代大名、相模小田原藩の初代藩主である。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    参考写真:騎西城から出土した十六間筋兜の構造・・・兜というものを意外に分かっていない。初めて詳細な説明を見つけたので、こちらに参考に示した。

  • 飯能の姉の見舞い、青梅の墓参の帰途は、ちょっとルートを変えて、初めて訪れる筑波山のホテルに1泊した。ケーブルカーにも乗らず、ただ山道を上っただけ。<br />中心地のホテル街より一段下がった場所に予約したホテルが在り、静かだったが、急斜面を下り、かつ、狭い道だったから、緊張しながら運転した。<br />珍しく十畳の畳部屋だった。<br />翌日は曇り空で早々に宿を引き払って、土浦に向かった。<br /><br />参考写真:筑波温泉ホテル<br /><br />ホテル名:筑波温泉ホテル<br />住所:〒300-4352 茨城県 つくば市筑波395<br />電話番号:029-866-0521<br />

    飯能の姉の見舞い、青梅の墓参の帰途は、ちょっとルートを変えて、初めて訪れる筑波山のホテルに1泊した。ケーブルカーにも乗らず、ただ山道を上っただけ。
    中心地のホテル街より一段下がった場所に予約したホテルが在り、静かだったが、急斜面を下り、かつ、狭い道だったから、緊張しながら運転した。
    珍しく十畳の畳部屋だった。
    翌日は曇り空で早々に宿を引き払って、土浦に向かった。

    参考写真:筑波温泉ホテル

    ホテル名:筑波温泉ホテル
    住所:〒300-4352 茨城県 つくば市筑波395
    電話番号:029-866-0521

    自家源泉を持つ隠れ宿 筑波温泉ホテル 宿・ホテル

  • 写真:筑波温泉ホテルから見る下界は今一つ。

    写真:筑波温泉ホテルから見る下界は今一つ。

  • <亀城公園(きじょうこうえん)><br /><br />〒300-0043 茨城県土浦市中央1-13<br />JR常磐線「土浦駅」から徒歩約15分の距離にある。<br />霞ケ浦の入り江が、JR土浦駅近くにあるのをMapで見ると、この城と城下町の成り立ちが理解できる。<br /><br />土浦の象徴でもある亀城公園(きじょうこうえん)は室町時代に築かれた「土浦城址」で、幸いにも市立博物館前にある駐車場が開いていて駐車できた。<br /><br />亀城公園は土浦城の本丸と二の丸の一部を整備した公園で、城郭が水に浮かぶ亀のように見えたことに由来するとされる土浦城の別名「亀城(きじょう」」から名付けられた。また、桜の名所としても知られ、園内には約50本のソメイヨシノがあり、例年の見頃は3月下旬から4月上旬で、土浦桜まつりの会場となる。<br />桜の櫓(やぐら)や堀との花見スポットは格別に美しい。<br /><br />写真:亀城(きじょう)の入り口にあったデザインマンホール・・・筑波山、霞ケ浦と帆引き船

    <亀城公園(きじょうこうえん)>

    〒300-0043 茨城県土浦市中央1-13
    JR常磐線「土浦駅」から徒歩約15分の距離にある。
    霞ケ浦の入り江が、JR土浦駅近くにあるのをMapで見ると、この城と城下町の成り立ちが理解できる。

    土浦の象徴でもある亀城公園(きじょうこうえん)は室町時代に築かれた「土浦城址」で、幸いにも市立博物館前にある駐車場が開いていて駐車できた。

    亀城公園は土浦城の本丸と二の丸の一部を整備した公園で、城郭が水に浮かぶ亀のように見えたことに由来するとされる土浦城の別名「亀城(きじょう」」から名付けられた。また、桜の名所としても知られ、園内には約50本のソメイヨシノがあり、例年の見頃は3月下旬から4月上旬で、土浦桜まつりの会場となる。
    桜の櫓(やぐら)や堀との花見スポットは格別に美しい。

    写真:亀城(きじょう)の入り口にあったデザインマンホール・・・筑波山、霞ケ浦と帆引き船

  • 最近の観光地は、デザインマンホールというものが流行り、土浦市もこれに追随した様子で、市立博物館で手に入れたこんなMapまである。<br />私も博物館前にあった前掲のマンホールだけは撮ってきた。<br /><br /><土浦市立博物館><br /><br />茨城県土浦市中央1丁目15-18<br />電話:029-824-2928<br />最寄り駅:土浦駅から徒歩15分<br /><br />土浦の歴史を伝える博物館。1階には土浦藩土屋家の見事な刀剣・茶道具などが鑑賞でき、「大名土屋家の文化」の展示室がある。2階は「霞ヶ浦に育まれた人々のくらし」を総合テーマとした土浦の歴史と文化を紹介する展示室となっている。<br />尚、1998年(平成10年)には土浦城東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として木造復元された。 <br /><br />実は入り口からエントランスホールに入ったが、資料確保だけで帰った。<br /><br />参考写真:土浦デザインマンホールMap 

    最近の観光地は、デザインマンホールというものが流行り、土浦市もこれに追随した様子で、市立博物館で手に入れたこんなMapまである。
    私も博物館前にあった前掲のマンホールだけは撮ってきた。

    <土浦市立博物館>

    茨城県土浦市中央1丁目15-18
    電話:029-824-2928
    最寄り駅:土浦駅から徒歩15分

    土浦の歴史を伝える博物館。1階には土浦藩土屋家の見事な刀剣・茶道具などが鑑賞でき、「大名土屋家の文化」の展示室がある。2階は「霞ヶ浦に育まれた人々のくらし」を総合テーマとした土浦の歴史と文化を紹介する展示室となっている。
    尚、1998年(平成10年)には土浦城東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として木造復元された。

    実は入り口からエントランスホールに入ったが、資料確保だけで帰った。

    参考写真:土浦デザインマンホールMap 

  • 【土浦城(亀城)】<br /><br />土浦城(つちうらじょう)は、茨城県土浦市(常陸国新治郡)にあった平城で、室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。<br />土浦城はわずかに盛りあがった楕円形の丘を中心に幾重にも堀がめぐらされていた城で、遠くから眺めると、霞ヶ浦に泳ぎださんとする亀にも似た姿から亀城(きじょう)とも云われる。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたらしい。<br /><br />今も幅の広い二重の堀で守られた平城の形状を示しているが、譜代大名で老中職にも任じられた土屋家だが、城内に天守閣を作らなかった。これは珍しい一例かもしれない。<br />茨城県指定史跡第1号である太鼓櫓門(たいこやぐらもん:2階に*太鼓を置いて城下へ時を告げるようにした)が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。<br /><br />参考写真:土浦城(亀城}Map<br /><br />*土浦古絵図のパンフレットに【土浦に過ぎたるものは二つあり、刻の太鼓に関の鉄砲】とあり、100年の間、時を知らせた太鼓、土浦藩士が学んだと云う関流砲術を指し、他に抜きんでたものとして土浦人の自慢の種であったようだ。

    【土浦城(亀城)】

    土浦城(つちうらじょう)は、茨城県土浦市(常陸国新治郡)にあった平城で、室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。
    土浦城はわずかに盛りあがった楕円形の丘を中心に幾重にも堀がめぐらされていた城で、遠くから眺めると、霞ヶ浦に泳ぎださんとする亀にも似た姿から亀城(きじょう)とも云われる。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたらしい。

    今も幅の広い二重の堀で守られた平城の形状を示しているが、譜代大名で老中職にも任じられた土屋家だが、城内に天守閣を作らなかった。これは珍しい一例かもしれない。
    茨城県指定史跡第1号である太鼓櫓門(たいこやぐらもん:2階に*太鼓を置いて城下へ時を告げるようにした)が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。

    参考写真:土浦城(亀城}Map

    *土浦古絵図のパンフレットに【土浦に過ぎたるものは二つあり、刻の太鼓に関の鉄砲】とあり、100年の間、時を知らせた太鼓、土浦藩士が学んだと云う関流砲術を指し、他に抜きんでたものとして土浦人の自慢の種であったようだ。

  • 千葉県の最北端にある関宿城(現模擬城)は江戸城防衛もあって、徳川家の譜代大名が代々の関宿藩藩主を務めた。<br /><br />野田市:関宿城博物館(せきやどじょう はくぶつかん)<br />所在地:〒270-0201 千葉県野田市関宿三軒家143-4<br />Tel:04-7196-1400<br /><br />利根川水運の中継地として栄えた関宿の関宿藩は、北の外様大名に対する備えもあり、徳川家康の異父弟・松平康元が藩祖となっている。松平家の後も幕府の要職を務めた譜代大名(小笠原、牧野、板倉、久世(くせ)家)が配置された。<br />特に久世家は5万石の藩主となり、若年寄、老中を歴職した。それも代々の城主が老中職を務めたのは、土浦藩の土屋家2代が老中職を務めたのと似ている。<br /><br />写真:亀城(きじょう)の西櫓と庭園・・・博物館前から道を亀城公園に向かうと、左手に庭園、西櫓の姿が目に入る。

    千葉県の最北端にある関宿城(現模擬城)は江戸城防衛もあって、徳川家の譜代大名が代々の関宿藩藩主を務めた。

    野田市:関宿城博物館(せきやどじょう はくぶつかん)
    所在地:〒270-0201 千葉県野田市関宿三軒家143-4
    Tel:04-7196-1400

    利根川水運の中継地として栄えた関宿の関宿藩は、北の外様大名に対する備えもあり、徳川家康の異父弟・松平康元が藩祖となっている。松平家の後も幕府の要職を務めた譜代大名(小笠原、牧野、板倉、久世(くせ)家)が配置された。
    特に久世家は5万石の藩主となり、若年寄、老中を歴職した。それも代々の城主が老中職を務めたのは、土浦藩の土屋家2代が老中職を務めたのと似ている。

    写真:亀城(きじょう)の西櫓と庭園・・・博物館前から道を亀城公園に向かうと、左手に庭園、西櫓の姿が目に入る。

  • 最近、平将門の乱、根強い将門信仰といった事を投稿してきたが、この土浦でも将門の名を知ることになる。<br />つまり、将門が最初の砦を築いたと云う話である。<br /><br />(概要)<br />平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代の永享年間(1429年から1441年)に常陸守護であった八田知家の後裔で豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。<br /><br />戦国時代に入り、永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時に小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時は信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、*小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)に小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。 <br /><br />*戦国時代に「常陸の不死鳥」と呼ばれた小田氏治は、本拠地を奪われるたびに土浦城へ逃げ込み、再起を図った場所としても有名だと伝わる。<br /><br />関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城城主の結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。その後、松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)には土屋数直が4万5千石で入封した。<br /><br />土屋家は、天和2年(1682年)に政直のときに駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、*土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代(約200年間)にわたって世襲して明治維新に至った。<br /><br />ちなみに*土屋政直は、徳川綱吉・徳川家宣・徳川家継・徳川吉宗の4代にわたって老中として仕え、6万5000石の所領を9万5000石まで拡大した。 <br /><br />千葉では佐倉藩堀田家(譜代・老中)の11万石が知られているが、土浦藩土屋家も似たような存在だろう。<br /><br />写真:亀城(きじょう)の庭園

    最近、平将門の乱、根強い将門信仰といった事を投稿してきたが、この土浦でも将門の名を知ることになる。
    つまり、将門が最初の砦を築いたと云う話である。

    (概要)
    平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代の永享年間(1429年から1441年)に常陸守護であった八田知家の後裔で豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。

    戦国時代に入り、永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時に小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時は信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、*小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)に小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。

    *戦国時代に「常陸の不死鳥」と呼ばれた小田氏治は、本拠地を奪われるたびに土浦城へ逃げ込み、再起を図った場所としても有名だと伝わる。

    関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城城主の結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。その後、松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)には土屋数直が4万5千石で入封した。

    土屋家は、天和2年(1682年)に政直のときに駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、*土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代(約200年間)にわたって世襲して明治維新に至った。

    ちなみに*土屋政直は、徳川綱吉・徳川家宣・徳川家継・徳川吉宗の4代にわたって老中として仕え、6万5000石の所領を9万5000石まで拡大した。

    千葉では佐倉藩堀田家(譜代・老中)の11万石が知られているが、土浦藩土屋家も似たような存在だろう。

    写真:亀城(きじょう)の庭園

  • 第9代藩主土屋彦直は隣藩の水戸藩主徳川治保の三男、第11代藩主土屋挙直は治保の孫の徳川斉昭の第17子である。土浦藩主は後半、水戸家からの養子が続いた。<br /><br />例えば、土浦藩の第11代(最後)の藩主となった土屋 挙直(つちや しげなお)は、水戸藩主徳川斉昭の十七男で、、徳川慶喜の異母弟に当たる。<br />彼は1852年10月、江戸小石川の水戸藩邸で生まれる。斉昭の従弟で大坂城代を務めた土浦藩の第10代藩主土屋寅直(ともなお)の養子として、1868年の寅直の隠居により家督を継いだ。<br />この背景もあってか、土屋 挙直(つちや しげなお)は明治9年(1876年)、德川昭武(あきたけ:将軍慶喜の弟・・・以前、千葉県松戸市の戸定邸(とじょうてい)の事を投稿した)に随行し、渡米してフィラデルフィア万国博覧会にも参加している。<br /><br />写真:亀城(きじょう:土浦城の別名)の縄張り図

    第9代藩主土屋彦直は隣藩の水戸藩主徳川治保の三男、第11代藩主土屋挙直は治保の孫の徳川斉昭の第17子である。土浦藩主は後半、水戸家からの養子が続いた。

    例えば、土浦藩の第11代(最後)の藩主となった土屋 挙直(つちや しげなお)は、水戸藩主徳川斉昭の十七男で、、徳川慶喜の異母弟に当たる。
    彼は1852年10月、江戸小石川の水戸藩邸で生まれる。斉昭の従弟で大坂城代を務めた土浦藩の第10代藩主土屋寅直(ともなお)の養子として、1868年の寅直の隠居により家督を継いだ。
    この背景もあってか、土屋 挙直(つちや しげなお)は明治9年(1876年)、德川昭武(あきたけ:将軍慶喜の弟・・・以前、千葉県松戸市の戸定邸(とじょうてい)の事を投稿した)に随行し、渡米してフィラデルフィア万国博覧会にも参加している。

    写真:亀城(きじょう:土浦城の別名)の縄張り図

  • 近年、特筆すべきは大きな地震災害に見舞われたことだろう。<br /><br />2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響を受け、太鼓櫓門、東櫓、西櫓と全ての建造物が破損した。とくに東櫓、西櫓は白壁の欠落など大きく破損し、東櫓展示館も閉館を余儀なくされた。 <br />2012年(平成24年)6月22日までに、櫓門、霞門、東櫓、西櫓、土塀の修復工事が終了。同30日から順次、一般公開が再開された。 <br /><br />2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(113番)に選定された。 <br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸=>本丸

    近年、特筆すべきは大きな地震災害に見舞われたことだろう。

    2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響を受け、太鼓櫓門、東櫓、西櫓と全ての建造物が破損した。とくに東櫓、西櫓は白壁の欠落など大きく破損し、東櫓展示館も閉館を余儀なくされた。
    2012年(平成24年)6月22日までに、櫓門、霞門、東櫓、西櫓、土塀の修復工事が終了。同30日から順次、一般公開が再開された。

    2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(113番)に選定された。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸=>本丸

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸=>本丸<br />

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸=>本丸

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門正面(別名:太鼓櫓門・・・時刻を知らせる太鼓があったと云う)

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    写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門正面(別名:太鼓櫓門・・・時刻を知らせる太鼓があったと云う)

    土浦城跡 名所・史跡

  • 水戸街道の要衝としての役目を持った土浦城のすごさは、この古絵図を見るとよくわかる気がする。<br /><br />考写真:土浦城(亀城)の(江戸時代)古絵図・・・川戸と濠を巡らせた城郭。

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    水戸街道の要衝としての役目を持った土浦城のすごさは、この古絵図を見るとよくわかる気がする。

    考写真:土浦城(亀城)の(江戸時代)古絵図・・・川戸と濠を巡らせた城郭。

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門わきの池=内堀

    写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門わきの池=内堀

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の碑・・・櫓門前に立つ石碑

    写真:亀城(土浦城の別名)の碑・・・櫓門前に立つ石碑

  • 写真:櫓門傍の池=内堀

    写真:櫓門傍の池=内堀

  • 写真:櫓門傍の池=内堀を泳ぐ定番牡の鯉

    写真:櫓門傍の池=内堀を泳ぐ定番牡の鯉

  • 本丸:<br /><br />本丸はやや東西に長い長方形である。周囲に水をたたえた堀をめぐらせ、堀に接する内側に土塁をめぐらせ、土塁の上に塀を建てた。出入りには南に二階建ての太鼓櫓門(木造復元:県重文、現在は門両脇に土塀が再建されている)、北東に霞門を設けた。東西に櫓を築いた。<br />太鼓櫓門は江戸時代前期の櫓門で、1656年に「朽木家」の時に「本丸楼門」を「櫓門」に改築し、その際に2階に太鼓を置いて城下へ時を告げるようにした。1階と2階屋根裏は「素木(素木)造り」、2階の櫓壁部分が「塗籠」になっている。また、窓は2階の各面にありますが、正面には大きな窓枠が付いていますが、裏面(本丸側)は小さな窓が付くだけである。<br /> 関東では「本丸」に現存する唯一の「櫓門」で、茨城県指定文化財である。 <br /><br />土塁上部までの規模は約95m×約55m、土塁敷まで含めた規模は101m×64m、水堀まで含めると約118m×82mである。<br /><br />ただし、かつて防衛のため屈曲していた堀・土塁線は現在では直線となっている。 江戸時代には、本丸御殿、西櫓、東櫓、櫓門、霞門、鐘楼、土塀の施設があった。現在も存在する建造物は、櫓門(県指定文化財)と霞門(市指定文化財)があり、茨城県で唯一、江戸時代からの現存建物遺構の存在する城となっている。<br /><br />また、西櫓、東櫓が木造復元されている。 明治に入り、本丸御殿は郡役所として使用されていたが、火災により消失。その後も本丸は郡役所の敷地として使われていたが、1926年(昭和元年)に郡役所が廃止となり、1932年(昭和7年)に建物を移築した。移築後、本丸は整地されて広場になった。 <br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門の本丸側(窓無し)

    本丸:

    本丸はやや東西に長い長方形である。周囲に水をたたえた堀をめぐらせ、堀に接する内側に土塁をめぐらせ、土塁の上に塀を建てた。出入りには南に二階建ての太鼓櫓門(木造復元:県重文、現在は門両脇に土塀が再建されている)、北東に霞門を設けた。東西に櫓を築いた。
    太鼓櫓門は江戸時代前期の櫓門で、1656年に「朽木家」の時に「本丸楼門」を「櫓門」に改築し、その際に2階に太鼓を置いて城下へ時を告げるようにした。1階と2階屋根裏は「素木(素木)造り」、2階の櫓壁部分が「塗籠」になっている。また、窓は2階の各面にありますが、正面には大きな窓枠が付いていますが、裏面(本丸側)は小さな窓が付くだけである。
    関東では「本丸」に現存する唯一の「櫓門」で、茨城県指定文化財である。

    土塁上部までの規模は約95m×約55m、土塁敷まで含めた規模は101m×64m、水堀まで含めると約118m×82mである。

    ただし、かつて防衛のため屈曲していた堀・土塁線は現在では直線となっている。 江戸時代には、本丸御殿、西櫓、東櫓、櫓門、霞門、鐘楼、土塀の施設があった。現在も存在する建造物は、櫓門(県指定文化財)と霞門(市指定文化財)があり、茨城県で唯一、江戸時代からの現存建物遺構の存在する城となっている。

    また、西櫓、東櫓が木造復元されている。 明治に入り、本丸御殿は郡役所として使用されていたが、火災により消失。その後も本丸は郡役所の敷地として使われていたが、1926年(昭和元年)に郡役所が廃止となり、1932年(昭和7年)に建物を移築した。移築後、本丸は整地されて広場になった。

    写真:亀城(土浦城の別名)の櫓門の本丸側(窓無し)

  • 東櫓の内部は資料館となっていて、土屋家代々の貴重な甲冑や刀剣などを見学できると云う(入館していない!)。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・東櫓、土塁塀

    東櫓の内部は資料館となっていて、土屋家代々の貴重な甲冑や刀剣などを見学できると云う(入館していない!)。

    写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・東櫓、土塁塀

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・東櫓・・・博物館の説明版

    写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・東櫓・・・博物館の説明版

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・西櫓

    写真:亀城(土浦城の別名)の本丸・西櫓

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・霞門側の本丸土手

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・霞門側の本丸土手

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸の北東に位置する「霞門」前で

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    写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸の北東に位置する「霞門」前で

  • 外丸: <br /><br />巽郭の一部で、17世紀後半に造られた。外丸御殿が置かれ、明治維新後は新治郡裁判所として使われた。<br />1905年(明治38年)に放火によって外丸御殿は焼失し、其の他は全て廃城の時に取り壊されてなくなり、往時を偲ばせる物は無い。<br />現在は、水戸地方裁判所土浦支部となっている。 なお、外丸前の道は、市の歴史の小径整備事業によって、修景整備及び「外丸通り」の命名がされている。 <br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸土手

    外丸:

    巽郭の一部で、17世紀後半に造られた。外丸御殿が置かれ、明治維新後は新治郡裁判所として使われた。
    1905年(明治38年)に放火によって外丸御殿は焼失し、其の他は全て廃城の時に取り壊されてなくなり、往時を偲ばせる物は無い。
    現在は、水戸地方裁判所土浦支部となっている。 なお、外丸前の道は、市の歴史の小径整備事業によって、修景整備及び「外丸通り」の命名がされている。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸土手

  • 土浦城の最大の特徴は石垣をほとんど使わず「土塁(どるい)」で防御を固めている点だと云う。この点の指摘は実際に見てみると、分かりやすい。<br />本丸を囲む高く切り立った土塁は、関東の粘土質の土を突き固めて作られており、石垣を使わない土塁は石垣とは異なる力強さがあると云う。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸土手、東櫓と濠

    土浦城の最大の特徴は石垣をほとんど使わず「土塁(どるい)」で防御を固めている点だと云う。この点の指摘は実際に見てみると、分かりやすい。
    本丸を囲む高く切り立った土塁は、関東の粘土質の土を突き固めて作られており、石垣を使わない土塁は石垣とは異なる力強さがあると云う。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸土手、東櫓と濠

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸・西櫓

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸・西櫓

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸・西櫓の説明版

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・本丸・西櫓の説明版

  • 三の丸:<br /><br />本丸の北西側の郭が三の丸で、乾郭とも呼ばれた。炎硝蔵が設置された時期もあるが、空間地として利用が主であった。国道や都市計画道路の整備により、往時の地形をほとんど留めていない。 <br /><br />その他: <br /><br />藩校郁文館の正門が土浦市立土浦第一中学校に現存している。<br /><br /><br />参考写真:土浦城パンフレット

    三の丸:

    本丸の北西側の郭が三の丸で、乾郭とも呼ばれた。炎硝蔵が設置された時期もあるが、空間地として利用が主であった。国道や都市計画道路の整備により、往時の地形をほとんど留めていない。

    その他:

    藩校郁文館の正門が土浦市立土浦第一中学校に現存している。


    参考写真:土浦城パンフレット

  • 写真:亀城(土浦城の別名)の本丸跡・・・西櫓から霞門・東櫓を望む

    写真:亀城(土浦城の別名)の本丸跡・・・西櫓から霞門・東櫓を望む

  • 二の丸:<br /><br />東南側には米蔵や厩、南西側には仕切門や馬場、北西側には兵庫門や武具蔵、北東側の亀井郭には長屋や楯蔵、稲荷などがあった。<br />明治維新後に、これらの建物は取壊しや払下げにより姿を消した。 <br />東南側、南西側は1899年(明治32年)に亀城公園となり、北西側には憲兵隊土浦支所とその馬屋が建った。戦後憲兵隊土浦支所には、土浦市郷土資料館が入り、1988年(昭和63年)には土浦市立博物館が建てられた。<br />二ノ門があったところには、旧前川口門が移築されている。二の丸土浦市立博物館の敷地との間に堀があるが、これは後に作られたもので、江戸時代には存在しなかった。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイ

    二の丸:

    東南側には米蔵や厩、南西側には仕切門や馬場、北西側には兵庫門や武具蔵、北東側の亀井郭には長屋や楯蔵、稲荷などがあった。
    明治維新後に、これらの建物は取壊しや払下げにより姿を消した。
    東南側、南西側は1899年(明治32年)に亀城公園となり、北西側には憲兵隊土浦支所とその馬屋が建った。戦後憲兵隊土浦支所には、土浦市郷土資料館が入り、1988年(昭和63年)には土浦市立博物館が建てられた。
    二ノ門があったところには、旧前川口門が移築されている。二の丸土浦市立博物館の敷地との間に堀があるが、これは後に作られたもので、江戸時代には存在しなかった。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイ

  • <亀城のシイ><br /><br />土浦市中央1丁目(亀城公園内)<br />県指定文化財 天然記念物・・・昭和31年(1956年)5月25日 指定<br /><br />巨木好きには嬉しいシイが大事にされている。<br /><br />お堀に面した二の丸の土塁上に立っている。<br />亀城のシイは胸高周は約7m、<br />樹高は約16m、<br />枝振り約21m、<br />樹齢は約500年とされる県下有数の巨木である。<br />根本付近の地上約1mの所で2つに分れ、各径0.8mある。<br />東西に双幹が横に伸び、大枝が複数の支柱で補助されているのが見て取れる。<br /><br />樹勢は旺盛です。<br />天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名はスダジイ(別名イタジイ・ナガジイ)である。スダジイは、福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で種子は食用になる。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・大木である亀城のシイ

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    <亀城のシイ>

    土浦市中央1丁目(亀城公園内)
    県指定文化財 天然記念物・・・昭和31年(1956年)5月25日 指定

    巨木好きには嬉しいシイが大事にされている。

    お堀に面した二の丸の土塁上に立っている。
    亀城のシイは胸高周は約7m、
    樹高は約16m、
    枝振り約21m、
    樹齢は約500年とされる県下有数の巨木である。
    根本付近の地上約1mの所で2つに分れ、各径0.8mある。
    東西に双幹が横に伸び、大枝が複数の支柱で補助されているのが見て取れる。

    樹勢は旺盛です。
    天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名はスダジイ(別名イタジイ・ナガジイ)である。スダジイは、福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で種子は食用になる。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・大木である亀城のシイ

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイの説明版

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイの説明版

  • 写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイの根元

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・二の丸の亀城のシイの根元

  • 亀城のシイの巨木の根の近くに立派な句碑がある。<br />高田保の句碑であるが、どうだろうか?<br />今でもこの方の名を覚えているだろうか?<br />私は80代という事もあり、幸いにもこの方の事を覚えている。<br /><br /><高田 保(たかた たもつ)><br /><br />高田保(1895年(明治28年)- 1952年(昭和27年))は、茨城県土浦市出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。<br /><br />1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。<br />子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。<br />旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。<br />大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。<br />上京した高田はモダンボーイとなるべく頻繁に銀座へ通って学生生活を謳歌した。1917年(大正6年)に早稲田大学を卒業する。<br /><br />高田は「昭和の斎藤緑雨」と称えられた。また、『とばした紙鳶』、『トスナキアの娘』、『トルとドス』などの小説も著している。<br />また、大宅壮一はその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したことでよく知られる。<br /><br />1952年2月20日、学生時代から罹患していた肺結核により、かつて藤村が住んでいた神奈川県中郡大磯町の自宅で死去した。56歳没。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・高田 保の句碑のよこに立つ看板には詳細が記されている。

    亀城のシイの巨木の根の近くに立派な句碑がある。
    高田保の句碑であるが、どうだろうか?
    今でもこの方の名を覚えているだろうか?
    私は80代という事もあり、幸いにもこの方の事を覚えている。

    <高田 保(たかた たもつ)>

    高田保(1895年(明治28年)- 1952年(昭和27年))は、茨城県土浦市出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。

    1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。
    子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。
    旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。
    大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。
    上京した高田はモダンボーイとなるべく頻繁に銀座へ通って学生生活を謳歌した。1917年(大正6年)に早稲田大学を卒業する。

    高田は「昭和の斎藤緑雨」と称えられた。また、『とばした紙鳶』、『トスナキアの娘』、『トルとドス』などの小説も著している。
    また、大宅壮一はその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したことでよく知られる。

    1952年2月20日、学生時代から罹患していた肺結核により、かつて藤村が住んでいた神奈川県中郡大磯町の自宅で死去した。56歳没。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・高田 保の句碑のよこに立つ看板には詳細が記されている。

  • 高田保は土浦市出身の人物であるから、*旧制土浦中学時代の友人たちなどによって、没後4年ほど経ってから、ここに句碑を立てたようだ。<br />立派な城下町、かつて俊秀が参じた旧制中学、高田氏も良い環境に育ったことだろう。当時の旧友が世に出た高田氏のことを忘れずに、土浦を象徴する城址の一角に句碑まで立てた。<br />良い時代だったのだろう。<br /><br />*旧制土浦中学は現在の土浦第一高等学校で、明治37年(1904年)、日本でも数少ない木造洋風建築物として建てられた旧制土浦中学校本館がいまだに残っている。荘厳なゴシック様式による直線的な正面構成に特色があり、国指定重要文化財として全国的にも貴重な建物である。<br /><br />写真:亀城(土浦城の別名)・・・高田 保の句碑<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />土浦は短い滞在であったものの、この町の印象は良かった。土浦城(亀城)を中心に整った町に見えた。<br />ドイツの町がマルクト広場を目指せば、町の中心に至ると同じように、土浦の町は城を目指せば良いのだ。<br />日本の城下町を訪ねると、その多くが城址の中に、役所や学校など公的な建物が建っている。城好きにとっては、残念なことだが、これが日本なのだろう。<br />現在見ることができる城址は、天守閣もなく、石垣が目立たぬ土浦城、復元も最小限にしたあたりは、土浦なりのポリシーがあるのだろう。<br /><br />城下町らしい鷹匠町、内西町、外西町などがあり、周辺の町名が本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」から採ったと云う、敷島・朝日・匂・小桜となっているのも興味深い。<br /><br />(2026年06月27日Wiki・HP参考、編集追記)

    高田保は土浦市出身の人物であるから、*旧制土浦中学時代の友人たちなどによって、没後4年ほど経ってから、ここに句碑を立てたようだ。
    立派な城下町、かつて俊秀が参じた旧制中学、高田氏も良い環境に育ったことだろう。当時の旧友が世に出た高田氏のことを忘れずに、土浦を象徴する城址の一角に句碑まで立てた。
    良い時代だったのだろう。

    *旧制土浦中学は現在の土浦第一高等学校で、明治37年(1904年)、日本でも数少ない木造洋風建築物として建てられた旧制土浦中学校本館がいまだに残っている。荘厳なゴシック様式による直線的な正面構成に特色があり、国指定重要文化財として全国的にも貴重な建物である。

    写真:亀城(土浦城の別名)・・・高田 保の句碑

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    土浦は短い滞在であったものの、この町の印象は良かった。土浦城(亀城)を中心に整った町に見えた。
    ドイツの町がマルクト広場を目指せば、町の中心に至ると同じように、土浦の町は城を目指せば良いのだ。
    日本の城下町を訪ねると、その多くが城址の中に、役所や学校など公的な建物が建っている。城好きにとっては、残念なことだが、これが日本なのだろう。
    現在見ることができる城址は、天守閣もなく、石垣が目立たぬ土浦城、復元も最小限にしたあたりは、土浦なりのポリシーがあるのだろう。

    城下町らしい鷹匠町、内西町、外西町などがあり、周辺の町名が本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」から採ったと云う、敷島・朝日・匂・小桜となっているのも興味深い。

    (2026年06月27日Wiki・HP参考、編集追記)

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