2025/04/09 - 2025/04/09
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jijidarumaさん
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≪千葉県多古町(たこまち)にある竹林山 妙光寺(ちくりんざん みょうこうじ)の枝垂れ桜はツイテいないことに早々と散っていた。≫
千葉はこのところ天気予報がちっとも当たらず、寒い日が続いていたので、まだまだと思って久しぶりにお出かけしたのだが、このところの厳しい雷雨と風で、近隣に美しさで知られた妙光寺の枝垂れ桜は、残念にも最初の写真の様に早々と旬の時期を過ぎていた。
多古の地は江戸時代から明治維新までの150年間、多古藩松平家(1万2千石)が治めてきた、小さな城下町である。
多古町には思っている以上に歴史的な見所がある。
さて、多古町には妙光寺が三つあると云う。
これらを「下総三妙寺」と称し、多古町・居射(いざ)の台地裾にたつ「妙印山 妙光寺」、唐竹の「竹林山 妙光寺」、そして現存していないが島の「本覚山 妙光寺」である。
いずれも常在院 日朝(にっちょう)上人(藻原の齊藤遠江守兼綱・・・茂原市 茂原)の開基によるものと伝えられている。
三つの内、居射(いざ)の「妙印山 妙光寺」は2年前、2023年4月8日に訪れた。「妙印山 妙光寺」は多古音頭にも歌われる町最大の寺院で、この寺の祖師像(日蓮像)は「ひげの祖師」として信仰されている。
また、島の「本覚山 妙光寺」(約700年前に日朝により開山された)を買い受けて、新たに「成等山 正覚寺」として発足したので、「下総三妙寺」も今は二つになってしまった。
写真は竹林山妙光寺(みょうこうじ)の寂しい枝垂れ桜の様子
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
この日は多古町八田(たこまち はった)桜通り(ソメイヨシノの桜のトンネル)、唐竹の「竹林山 妙光寺」の枝垂れ桜、中村檀林・日本寺(にちほんじ)のソメイヨシノ・枝垂れ桜を見てきた。
多古町は人口13千人、千葉県の北東部に位置し、香取郡に属する町。下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を栗山川が流れている。
弥生時代から稲作が盛んであり、多古米はブランド米として知られる。
写真は千葉県多古町(たこまち)にある竹林山 妙光寺のアクセスMap -
満開の桜が咲く町立中村小学校から、県道多古・山田線を北へ約400mほど進むと、道路分岐点の手前右側に巨大な杉の老木があり、その下が同寺への入口となっていた。
写真は千葉県多古町(たこまち)にある竹林山 妙光寺のアクセスMap(右下拡大版) -
イチオシ
【竹林山(ちくりんざん) 妙光寺(みょうこうじ)】
〒289-2257 千葉県香取郡多古町南中163
妙光寺は貞治3年 (1364年) 常在院日朝上人(藻原の城主齊藤遠江守兼綱)の開基である。
多古と島の妙光寺も同じ上人による開基で、あわせて三妙光寺と呼ばれていた。
(現在は多古とここ南中の二ヶ寺)
この寺は題目板碑の多いことで知られ、全部で14基存在する。
下総型の題目板碑14基は、応安四年(1371年)から永享十年(1438年)にいたる六十七年の間に造立された下総型題目板碑の典型を示すものである。
また、南中五軒堂といわれた郷士の平山藤右衛門の弟で、鏑木(現旭市)に移住した平山忠兵衛家の菩提寺になっている。
山号:竹林山
宗旨:日蓮宗
創建:貞治3年 (1364年)
開基:常在院日朝上人(齊藤遠江守兼綱)
正式名:竹林山 妙光寺
別名:唐竹の妙光寺
文化財:竹林山妙光寺板碑群(多古町指定有形文化財)
写真は千葉県多古町竹林山 妙光寺の脇道入口の高々とした巨木(杉と黄色の小さな花が咲いた木?)と左右にソメイヨシノが咲いていた。 -
多古町の日蓮宗 竹林山妙光寺はその名の通りたくさんの竹に囲まれた山寺で、春の季節の枝垂れ桜が美しいことでも知られている。
その姿は日蓮宗の大本山である身延山久遠寺の桜を思わせるとか。
桜の見頃は3月下旬から4月上旬である。
写真は千葉県多古町竹林山 妙光寺の脇参道入口と桜ソメイヨシノ -
所在地は南中字唐竹163番地で、釈迦牟尼仏を本尊とする日蓮宗の寺院である。
山門がある方が参道で、今は脇参道が正門のようになっている。
写真は千葉県多古町竹林山 妙光寺の脇道入口に、県道に面して聳える500年は超えると思われる杉と名前の分からぬ木が競い合って。 -
また、この妙光寺は千葉の豪族千葉氏との関わりが深いことでも知られており、*千田荘(ちだのしょう)を本領としていた千葉氏の板碑(板石塔婆)が残されている。(*千田荘(ちだのしょう)は、中世の下総国匝瑳郡にあった荘園で、現在の千葉県香取郡多古町付近に相当する)
写真は千葉県多古町指定有形文化財:竹林山 妙光寺の板碑群の*説明版
*「多古町指定有形文化財竹林山妙光寺板碑群 平成十年四月二日指定」と記載のあとの本文には
「板碑とは、板石塔婆のことで、板状の石を用い、卒塔婆の一種として発生した供養塔であるが、副次的には墓石の意味をもつようになっていく。
竹林山妙光寺に所在する下総型の題目板碑十四基は、応安四年(1371年)から永享十年(1438年)にいたる六十七年の間に造立された下総型題目板碑の典型を示すものである。
安山岩を石材に用いたこの題目板碑は、同類のものとしては大型に属し、文字曼荼羅の書体や天蓋、蓮台などの装飾も入念に施されている。明徳三(1392年)年十月碑には、一結衆の法名が連記されていて、「堯」の字が三例ほど見られる。これは、この寺に伝わっていた、応永十一(1404年)年十二月八日付の曼荼羅本尊が中山法華経寺五世の日暹(にっせん)から「比丘尼妙堯(びくにみょうぎょう)」に与えられたものであることと関連があるものとみられる。
応永三十三年八月碑には、初七日から三十三年忌までの仏事が記されていて、当時の仏教儀礼の一端をうかがうことができる。
応永三十三年九月碑には、千田庄を本領としていた千葉胤貞から胤満に至るまでの歴代が、あたかも系図を読むように記されている。」と記載され、
最後に「平成十一年一月 多古町教育委員会」とある。
・・・・・ -
イチオシ
脇参道から入ると入口から進んだ右手に板碑群(前述参照)が目に入る。
先に進むと直ぐに妙光寺の小ぶりな本堂がある。
写真は千葉県多古町指定有形文化財:竹林山 妙光寺の下総型題目板碑14基 -
<千葉氏の歴史>
平安時代末期から室町時代中期にかけて、千葉県北部地方一帯を支配していたのは名家千葉氏である。その千葉宗家の終焉の地が千田荘(ちだのしょう、現在の多古町)である。
室町時代中期、千葉家第16代の千葉胤直(ちば たねなお)は鎌倉府の重鎮でしたが、鎌倉公方・管領足利成氏と執事上杉氏の内紛に巻き込まれた。
これが元で千葉氏は親族で争う骨肉の戦いを始めた。千葉氏の主将胤直は母の実家上杉派に組み、同族の原胤房・馬加康胤は管領足利成氏派に党し、一族が戦うことになった。
千葉胤直は原胤房に千葉城を急襲されて落城、千田荘に逃れて胤直は志摩城(島城)に、子の胤宣は多古城で再起を図りましたが、両軍の攻撃に多古、志摩城は防戦かなわず落城した。胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃し、まもなく胤直は*東禅寺に走り、ここで一族郎党と自刃して果てた。時に胤直は42歳、胤宣は弱冠15歳の若武者であったと云う。
鎌倉時代には源頼朝の信頼が篤く、千葉氏の祖・千葉常胤(ちば つねたね)が築いた名家千葉氏は、この多古町で終焉することとなった。
写真は竹林山 妙光寺の板碑・・・目を凝らしてみても分かりません! -
写真は竹林山 妙光寺の板碑・・・目を凝らしてみても分かりません!
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写真は千葉県多古町指定有形文化財:竹林山 妙光寺の下総型題目板碑14基
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参考写真:多古町・竹林山 妙光寺の小ぶりな山門と枝垂れ桜
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写真は竹林山妙光寺(みょうこうじ)の寂しい枝垂れ桜の様子だが、樹形は良い。
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参考写真:多古町・竹林山 妙光寺の満開時期の美しい枝垂れ桜
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参考写真:多古町・竹林山 妙光寺の枝垂れ桜の枝
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参考写真:多古町・竹林山 妙光寺の枝垂れ桜(拡大)・・・満開の時期に再度来たいものだ。
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写真:多古町・竹林山 妙光寺の墓碑・・・第2世から18世の歴代住職の内、12名が刻まれている。
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写真は竹林山 妙光寺:歴代住職の墓碑群の前で
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本堂左手の墓地入口に一段と小高い丘があり、そこに小社屋がある。これは妙見堂で、寺伝によると寛永九年(1632年)に住職日大が勧請したものであるという。
この地には千葉氏に属していた下総・大堀城(注:千葉県匝瑳市大堀字城用台・・・下総多古藩陣屋まで3.5kmの距離、唐竹妙光寺に1.2km)の那須氏が、天正の落城と同時に隠退して土着帰農したとの口伝があり、千葉一族の守り神である妙見尊とともに唐竹に逃れ、後に一宇を建ててこれを祀ったものであろう。
参考写真:竹林山 妙光寺の妙見堂は歴代住職の墓の横に千葉氏の氏神として知られる妙見さま(妙見菩薩 みょうけんぼさつ)を祀るお堂がある。 -
山門から眺めた境内は、その面積402坪で、正面の本堂は十二世日(境智院・寛保二年(1742年)没)のときに建てられたというが、近年改修されて新しい装いとなった。
参考写真:多古町・竹林山 妙光寺の本堂・・・檀家が少ない由で、その為、他の寺よりも小ぶりである。 -
参考写真:唐竹 妙光寺の扁額・・・唐竹は字(あざ)であり、竹林山妙光寺は別名 唐竹 妙光寺と称する。
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イチオシ
丁度お会いした住職夫人(92歳の御長寿)に堂内の説明を受けた。
年齢以上に大変お元気で、言葉もはっきりしたもので、日頃の精進生活がうかがわれた。外出中のご住職も95歳でやはりお元気だと云う。
息子さんも日蓮宗の僧で、都内の寺に勤務されていて、妙光寺の行事の際は手伝いに帰ってくるとおっしゃっていた。
写真:多古町・竹林山 妙光寺の本堂内にお邪魔して・・・日蓮上人の座像がやはり綿帽子姿で鎮座されている。(綿帽子姿については後述した) -
【日蓮大聖人尊像にかける綿帽子はどういう意味があるか】
(布教研究所所員・岡崎 妙国寺住職 西川泰裕氏の説明引用)
日蓮大聖人が遭われた法難の一つに「小松原の法難」があります。大聖人は現千葉県小湊のお生まれですが、立教開宗後は布教の拠点を鎌倉に構えておられました。
鎌倉の地で辻説法をされているときに、故郷にいる母の病の報を聞き、小湊に向かわれたのですが、大聖人を恨んでいた地頭の東条景信が、小松原という地で一行を待ち伏せ、襲撃しました。
その時大聖人を護ろうとして弟子の鏡忍房は討ち死にし、九死に一生を得た大聖人も、額に傷を負われました。
晩年大聖人は身延山に住まわれますが、
五尺の雪ふりて本よりかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすく、かん(寒)ふせぎがたし。食たえて命すでに終りなんとす。(上野殿御返事一七二一) とあるように、身延山の冬は厳しく、大聖人の額の傷も病まれました。
そのお姿を見たお弟子たちが自分の衣の袖をちぎり、大聖人がその袖を頭巾代わりにしたという故事にのっとり、大聖人の尊像には秋のお会式から春の彼岸まで*綿帽子をお掛けするのです。
また、千葉県小湊(旧安房郡小湊町・・・現在の鴨川市の一部)に日蓮宗の日蓮寺という寺(小松原の法難後、額に傷した大聖人が一夜を過ごされた厳谷の寺)があり、こちらにも綿帽子の由来の話があります。
日蓮寺では、綿は三層になっており、額から順に、赤・黄・白の染めた綿を使っておられ、これは大聖人の額の傷の血の色を表すそうです。
・・・・・
写真:2023年多古町の妙印山妙光寺本堂内に見た日蓮上人の綿帽子姿の座像 -
*先の住職夫人にお聞きした際も似たようなお話をされていた。
ここでは花まつり・灌仏会(かんぶつえ)という日があって、華やかな花御堂に安置された誕生仏に甘茶をそそぐことで仏を供養し、子ども達の健康を祈る仏教行事だが、一般的に、お釈迦様生誕の日とされる4月8日に行われ、その日を過ぎると、綿帽子を外すのだとおっしゃっていた。
ほんとは外していないと・・・ちょっと忙しくててね。
写真:2023年山武市長光寺で拝見した日蓮上人の綿帽子姿 -
妙光寺の本堂内にはご住職が描いたと言う、お手製の日蓮上人御一代記が二十数枚掲げられていた。
写真:多古町・竹林山 妙光寺の本堂内:日蓮上人御一代記・・・安房の国小湊浦(千葉県 安房郡 天津小湊町 (あまつこみなとまち)、現鴨川市)に生誕 -
写真:多古町・竹林山 妙光寺の本堂内:日蓮上人御一代記・・・清澄寺での出家
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東京都 大田区 池上にある日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺(ほんぎょうじ)は日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)である。
池上 大坊 本行寺の「ご臨終の間」は、日蓮聖人がお亡くなりになられた池上宗仲公邸の仏間であったお部屋の跡に建てられたお堂だと云う。
写真:多古町・竹林山 妙光寺の本堂内:日蓮上人御一代記・・・日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)の場面。 -
【「中村檀林(なかむらだんりん)「日本寺(にちほんじ)」】
〒289-2257千葉県香取郡多古町南中1820-1
Tel:0479-76-3745
竹林山 妙光寺からの帰り道に、「中村檀林(なかむらだんりん)・「日本寺(にちほんじ)」に立寄った。
「日本寺」というと、鋸山(のこぎりやま)にある「日本寺」だと思う方が多い。鋸山は「にほんじ」であるから、日本語は難しく、面倒だ。
写真:多古町「中村檀林(なかむらだんりん)正東山 日本寺(しょうとうざん にちほんじ)の山門前で・・・アジサイ寺で有名であるが、今日は午後5時近いので車が3台だけ。正東山日本寺 寺・神社・教会
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日蓮宗の本山(由緒寺院)であり、山号は正東山(しょうとうざん)と称した。
元来は元応元年(1319年)、千葉胤貞(ちば たねさだ:鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第九代当主千葉宗胤の長男)より土地の寄進を受けた、中山法華経寺(なかやまほけきょうじ:千葉県市川市にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。山号は正中山)の3代目住職であった日祐(にちゅう:胤貞の子)上人が「高祐山東福寺」として建立した。
そして建立された「高祐山東福寺」を日祐の師・日常(にちじょう)上人に譲り、日常上人が開基・一世とされたのである。
写真:多古町「中村檀林(なかむらだんりん)日本寺の樹齢200年以上の「夫婦銀杏」には乳頭が見える。 -
約270年後の天正十九年(1591年)に「高祐山東福寺」を「正東山日本寺」に改めて現在の日本寺となった。
日本寺の十世を継いだ広才博学の僧日円(にちえん)により、「中村檀林(なかむらだんりん)が開かれたのは慶長4年(1599年)のことである。
千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となった。
開壇の慶長4年(1599年)から、学制発布によって廃檀となる明治8年(1875年)まで、僧侶の養成機関であった中村檀林では、270余年の間に延べ10万人もの僧侶を輩出したと云う。
写真:多古町・多古発見マガジン・・・中地区の正東山 日本寺(しょうとうざん にちほんじ)、竹林山 妙光寺など。因みに妙光寺は日本寺の末寺にあたるそうだ。 -
中村檀林は小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで関東三大壇林と称された。
水戸藩主・水戸光圀公の足跡が千葉県には多い。
日本寺の本堂傍に水戸光圀(黄門さま)公の御手植えの大きなモミジの木が立っている。樹形も良く、秋の紅葉時期には見事なものになるだろう。
水戸光圀公が学僧の便宜をはかり、当山を起点にして江戸まで1里毎に、塚を建てた。その名残が「三里塚(成田市)」という地名に残っている。
香取郡多古町の日蓮宗日本寺が江戸までの道程に築いた17の法華塚の3番目に由来すると云う。
大きな5色の椿と、傍に白椿の木があった。好みで言えば白が良い。
写真:多古町・多古発見マガジン・・・中地区の竹林山 妙光寺、渋谷嘉助旧宅正門など。 -
写真:多古町日本寺(にちほんじ)本堂右手にソメイヨシノが満開。傍にはお約束の立派な「鐘楼」が建っている。
鐘楼(入母屋造り、銅版瓦棒葺)は享和三年(1803年)の建立だから、古刹にしてはそれほど古くはない。 -
イチオシ
こちらの枝垂れ桜は若い所為か、丁度満開であった。
竹林山 妙光寺の枝垂れ桜が寂しかったので、ここで気分は一新できた。
写真:多古町日本寺の枝垂れ桜も満開 -
写真:多古町日本寺の枝垂れ桜も満開
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写真:多古町日本寺の桜ソメイヨシノとライラック(お寺にライラックとは珍しい)
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写真:多古町日本寺の海棠(かいどう)の花・・・数本が新たに植えられていた。
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写真:多古町・多古発見マガジン・・・多古地区Map拡大版
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<妙印山 妙光寺(みょういんざん みょうこうじ)>
千葉県香取郡多古町多古2550
「多古音頭にも歌われる町最大の寺院」
多古居射(いざ)にある妙印山妙光寺は、400~500の檀家を有する多古町最大の日蓮宗の寺院である。弘安中期(1278~87年)に日蓮上人の高弟日朝が創建したと伝えられている。
妙印山妙光寺は、もともとは染井原、小井戸の付近にあり、のちに居射に移ったといわれている。多古由来記には、寛永4年(1627年)に江戸谷中(現:文京 区)の報恩寺の堂を移して寺堂としたそうで、現在の堂は享保14年(1729年)の建立と記されている。
元禄4年(1691年)には水戸光圀が参詣。宝暦4年(1754年)になると葵の紋章を使うことを許された。山門前大題目塔は宝暦9年(1759年)、大常夜燈は寛永2年(1849年)の建立と、いずれも長い時間を経てきた貴重なもの。
昭和35年には大原内の妙見堂から、中世、多古地方を支配した千葉氏一族の守護神である妙見像が移され、兜をいただき、甲冑をつけて刀印を結ぶ勇ましい武装形で、目を大きくこらした形相は力強さを感じさせる。
石段脇には「妙見大菩薩」と刻まれた石塔。
写真:多古町・多古発見マガジン・・・多古地区は多古藩1万2千石の中心として栄えた歴史がある。多古藩陣屋跡、居射(いざ)にある妙印山妙光寺など。 -
<成等山 正覚寺(じょうとうさん しょうかくじ)>
多古町島2320
成等山正覚寺は日蓮宗不受不施派の寺。不受不施派はキリシタンとともに江戸幕府から弾圧されるという受難の歴史を持つ宗派で、寛文5年(1665年)から明治9年(1876年)までのあいだ、表向き寺を持つことができませんでした。
このため禁教がとけ公に認められるようになると、本覚山妙光寺(ほんかくざん みょうこうじ、約700年前に日朝により開山された)を買い受け、新たに正覚寺として発足しました。
不受不施とは、僧にあっては法華経を信じない者からの布施・供養を受けず、法も施さない。また信者にあっては法華経を信じない僧には布施・供養を施さず、その教えも受けないというもの。
正覚寺のある島地区の住民は、幕府の弾圧を受けながらも大半が不受布施の信仰を続けた。家の天井裏などに隠れ部屋をつくり、取りしまりの目を逃れながらここにかくれ集まって教義を語り信仰を確かめあったと云う。
写真:多古町・多古発見マガジン・・・多古地区には千葉宗家滅亡の歴史的舞台となった志摩城址や『禁教の歴史をくぐってきた不受不施派』の寺であった成等山正覚寺(じょうとうさん しょうかくじ)などがある。 -
写真:多古町・多古発見マガジン・・・久賀地区には千葉宗家一族が眠る土橋山東禅寺(つちはしざん とうぜんじ)など。
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写真:多古町・多古発見マガジン・・・常盤地区には古墳時代前期最大級の前方後円墳しゃくし塚古墳などが目玉。
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(2025年4月12日Wiki・HP参考、編集追記)
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