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【松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。】<br /><br />久しぶりに小旅行に出た。<br />かつて松戸市の北小金にあった社宅に横浜の西口にあった社宅から、転居したのが1971年12月末でした。ドイツに赴任する1974年1月まで、ここにお世話になっていた。<br /><br />戸定(とじょう)邸は訪れたことが無い。以前から、重要文化財として目にする新聞記事もあって、一度は訪ねてみたいと思っていたので、今回の小旅行の目的地に戸定(とじょう)邸・歴史館、ついでに北小金の旧社宅を入れてみた。<br /><br />ちょっとナビが悪さをして、JR松戸駅からも近いのに、小高い丘(戸定が丘)の上の戸定(とじょう)邸に行きつくのに遠回りした。<br />駐車場は2つ、戸定(とじょう)邸の入口傍(管理人付き)と、一段下の比較的広い駐車場があり、私共は最初に見た広い方に車を停めた。<br /><br />季節は春3月の終わり、すでに桜はなく、かわって立派な邸の庭園には新緑と真っ赤なツツジが目立って美しいものでした。<br />一つ残念だったのは、曇天だったので、自慢の富士山をこの高台から見る事が出来なかった。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸の入口階段(女坂が右手にある)

松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。

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2025/04/20 - 2025/04/20

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旅行記グループ 日本の小旅行2

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jijidaruma

jijidarumaさん

【松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。】

久しぶりに小旅行に出た。
かつて松戸市の北小金にあった社宅に横浜の西口にあった社宅から、転居したのが1971年12月末でした。ドイツに赴任する1974年1月まで、ここにお世話になっていた。

戸定(とじょう)邸は訪れたことが無い。以前から、重要文化財として目にする新聞記事もあって、一度は訪ねてみたいと思っていたので、今回の小旅行の目的地に戸定(とじょう)邸・歴史館、ついでに北小金の旧社宅を入れてみた。

ちょっとナビが悪さをして、JR松戸駅からも近いのに、小高い丘(戸定が丘)の上の戸定(とじょう)邸に行きつくのに遠回りした。
駐車場は2つ、戸定(とじょう)邸の入口傍(管理人付き)と、一段下の比較的広い駐車場があり、私共は最初に見た広い方に車を停めた。

季節は春3月の終わり、すでに桜はなく、かわって立派な邸の庭園には新緑と真っ赤なツツジが目立って美しいものでした。
一つ残念だったのは、曇天だったので、自慢の富士山をこの高台から見る事が出来なかった。

写真は戸定(とじょう)邸の入口階段(女坂が右手にある)

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 【徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館】<br /><br />松戸駅(JR/新京成)東口から徒歩10分だが、登りの坂道である。<br />Tel:047-362-2050<br />開館時間: 9:30~16:30、休館:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)<br />無料駐車場:あり<br /><br />・・・・・<br /><br />敷地内に戸定邸や戸定歴史館があり、春には梅や大きなしだれ桜が、秋にはモミジなどが色づき、四季折々の草木が美しい公園になっている。<br /><br />戸定邸は幕府最後の15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)の実弟、徳川昭武(あきたけ)が明治17年(1884年)に別邸として建設し、後半生を過ごした。<br />昭和26年(1951年)に松戸市に寄贈され、平成3年(1991年)に周囲の敷 地2.3ヘクタールが「戸定が丘歴史公園」として整備され一般公開された。<br />平成19年(2007年)に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸のパンフレット

    【徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館】

    松戸駅(JR/新京成)東口から徒歩10分だが、登りの坂道である。
    Tel:047-362-2050
    開館時間: 9:30~16:30、休館:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
    無料駐車場:あり

    ・・・・・

    敷地内に戸定邸や戸定歴史館があり、春には梅や大きなしだれ桜が、秋にはモミジなどが色づき、四季折々の草木が美しい公園になっている。

    戸定邸は幕府最後の15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)の実弟、徳川昭武(あきたけ)が明治17年(1884年)に別邸として建設し、後半生を過ごした。
    昭和26年(1951年)に松戸市に寄贈され、平成3年(1991年)に周囲の敷 地2.3ヘクタールが「戸定が丘歴史公園」として整備され一般公開された。
    平成19年(2007年)に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。

    写真は戸定(とじょう)邸のパンフレット

    松戸駅

  • 松戸市戸定歴史館学芸員 斉藤洋一氏の解説を引用すると、<br />・・・・・<br /><br />【徳川昭武(1853年~1910年)】<br />最後の水戸藩主(第11代)。水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)の18男で、最後の将軍徳川慶喜の実弟にあたる。1867年、数えで14才の時、将軍慶喜の名代としてパリ万博に派遣され、その後、ヨーロッパ各国を歴訪。明治維新によりパリでの留学生活を中断して帰国、最後の水戸藩主となる。明治17年(1884年)には、戸定邸を建てて移り住んだ。狩猟、写真撮影、自転車、製陶など多彩でハイカラな趣味の持ち主でもあった。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸のパンフレット(縄張り図)

    松戸市戸定歴史館学芸員 斉藤洋一氏の解説を引用すると、
    ・・・・・

    【徳川昭武(1853年~1910年)】
    最後の水戸藩主(第11代)。水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)の18男で、最後の将軍徳川慶喜の実弟にあたる。1867年、数えで14才の時、将軍慶喜の名代としてパリ万博に派遣され、その後、ヨーロッパ各国を歴訪。明治維新によりパリでの留学生活を中断して帰国、最後の水戸藩主となる。明治17年(1884年)には、戸定邸を建てて移り住んだ。狩猟、写真撮影、自転車、製陶など多彩でハイカラな趣味の持ち主でもあった。

    写真は戸定(とじょう)邸のパンフレット(縄張り図)

  • 昭武の日記によると、彼は明治八年(1875年)正月、狩猟のため松戸を訪れている。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられる。<br />以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになり、彼は明治十五年三月、松戸に彼専用の住まいの建設を始めた。翌十六年に水戸家の家督を甥に譲り隠居となり、十七年四月(1884年)に戸定邸を完成させた。<br /><br />眼下に江戸川、遠くに富士を望む小高い岡の上に建つ戸定邸は、今や明治期の旧大名家の和様の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものとなっている。<br />意図的に装飾を廃し、最高級の杉の柾目材がふんだんに使われた戸定邸は、質実剛健の水戸徳川家の遺風を今に伝えている。客間の前には、起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園が広がっている。<br /><br />部屋数が二十以上もあり、迷路のように廊下が伸びる戸定邸ですが、生活空間としては、当時の言葉でいうところの「表」と「奥」に明確に区分されていた。<br />表とは、来客者用のスペース、奥は家族と使用人のためのスペースである。<br />多数の部屋が連なる邸宅は、旧大名家の生活様式を反映したものだった。<br /><br />戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われた。<br /><br />・・・・・<br /><br />参考写真:戸定(とじょう)邸:茅葺き門

    昭武の日記によると、彼は明治八年(1875年)正月、狩猟のため松戸を訪れている。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられる。
    以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになり、彼は明治十五年三月、松戸に彼専用の住まいの建設を始めた。翌十六年に水戸家の家督を甥に譲り隠居となり、十七年四月(1884年)に戸定邸を完成させた。

    眼下に江戸川、遠くに富士を望む小高い岡の上に建つ戸定邸は、今や明治期の旧大名家の和様の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものとなっている。
    意図的に装飾を廃し、最高級の杉の柾目材がふんだんに使われた戸定邸は、質実剛健の水戸徳川家の遺風を今に伝えている。客間の前には、起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園が広がっている。

    部屋数が二十以上もあり、迷路のように廊下が伸びる戸定邸ですが、生活空間としては、当時の言葉でいうところの「表」と「奥」に明確に区分されていた。
    表とは、来客者用のスペース、奥は家族と使用人のためのスペースである。
    多数の部屋が連なる邸宅は、旧大名家の生活様式を反映したものだった。

    戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われた。

    ・・・・・

    参考写真:戸定(とじょう)邸:茅葺き門

  • 駐車場から登ってくると、正面に大きな銀杏の木や戸定(とじょう)邸の茅葺き門が見えて来る。丘の上は立派な大木に囲まれた森のようなものだ。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸の入口階段(女坂が右手にある)

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    駐車場から登ってくると、正面に大きな銀杏の木や戸定(とじょう)邸の茅葺き門が見えて来る。丘の上は立派な大木に囲まれた森のようなものだ。

    写真は戸定(とじょう)邸の入口階段(女坂が右手にある)

    戸定邸 名所・史跡

  • 茅葺き門をくぐり、少し上ると右手に戸定(とじょう)邸、左手に歴史館の建物がある。こちらは戸定(とじょう)邸の表玄関があり、左手に使者の間に入る内玄関がある。主客と供を区別した玄関である。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸の正面入り口<br />

    茅葺き門をくぐり、少し上ると右手に戸定(とじょう)邸、左手に歴史館の建物がある。こちらは戸定(とじょう)邸の表玄関があり、左手に使者の間に入る内玄関がある。主客と供を区別した玄関である。

    写真は戸定(とじょう)邸の正面入り口

  • 表玄関先に看板があり、邸の平面図や入館時間、入館料などが書かれていた。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:入口の看板

    表玄関先に看板があり、邸の平面図や入館時間、入館料などが書かれていた。

    写真は戸定(とじょう)邸:入口の看板

  • 最初に見るのは内蔵棟(うちくらとう)である。<br />言わば建物内に作られた蔵で、2階建て、20cmと分厚い石造りの扉が頑丈で、防犯防火の役目を果たしたのだろう。<br />目に入ったのは三葉葵の定紋が付いた立派な長持ちだ。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・内蔵棟(うちくらとう)の土蔵内に保管中の品が見える。

    最初に見るのは内蔵棟(うちくらとう)である。
    言わば建物内に作られた蔵で、2階建て、20cmと分厚い石造りの扉が頑丈で、防犯防火の役目を果たしたのだろう。
    目に入ったのは三葉葵の定紋が付いた立派な長持ちだ。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・内蔵棟(うちくらとう)の土蔵内に保管中の品が見える。

  • 明治時代のテーブル、写真撮影を趣味にした昭武が人物撮影に利用したテーブルだと云う。小さな写真が見えるが、彼が写した生母秋庭(しゅうてい)の写真だそうだ。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・明治時代のテーブル

    明治時代のテーブル、写真撮影を趣味にした昭武が人物撮影に利用したテーブルだと云う。小さな写真が見えるが、彼が写した生母秋庭(しゅうてい)の写真だそうだ。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・明治時代のテーブル

  • 写真を撮った流れは、<br />表玄関=>内蔵棟(うちくらとう)=>表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)=>中座敷棟(なかざしきとう=>湯殿(ゆどの:お風呂場)=>離座敷棟(はなれざしきとう)=>奥座敷棟(おくざしきとう)=>表座敷棟(おもてざしきとう)=>庭園=>表座敷棟(おもてざしきとう)=>使いの間=>表玄関になった。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・中庭から中座敷棟(なかざしきとう:子供たちの部屋)、奥座敷棟(おくざしきとう:寝所)などが見える。

    写真を撮った流れは、
    表玄関=>内蔵棟(うちくらとう)=>表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)=>中座敷棟(なかざしきとう=>湯殿(ゆどの:お風呂場)=>離座敷棟(はなれざしきとう)=>奥座敷棟(おくざしきとう)=>表座敷棟(おもてざしきとう)=>庭園=>表座敷棟(おもてざしきとう)=>使いの間=>表玄関になった。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・中庭から中座敷棟(なかざしきとう:子供たちの部屋)、奥座敷棟(おくざしきとう:寝所)などが見える。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・中庭から3間続きの中座敷棟(なかざしきとう:子供たちの部屋)、奥座敷棟(おくざしきとう:寝所)などが見える。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・中庭から3間続きの中座敷棟(なかざしきとう:子供たちの部屋)、奥座敷棟(おくざしきとう:寝所)などが見える。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・9つの建物(23部屋)を渡り廊下でつないでいて、それを行くと、外に雨水受けが見えた。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・9つの建物(23部屋)を渡り廊下でつないでいて、それを行くと、外に雨水受けが見えた。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)に向かう長々とした廊下

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)に向かう長々とした廊下

  • 戸定(とじょう)邸の中心にあたる表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)は全体で畳63枚が敷かれていると云う。<br /><br />こちらは床の間(とこのま)があり、御本間(ごほんま)と呼び、最上等の木材を使用した長押(なげし)の柱には4枚の葵でデザインした「釘隠し」が見られる。<br />武家らしい質素な作りだが、主人の昭武が床の間を背に座り、広々とした庭園や富士山を眺めたそうだ。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟に見られる書院造りの部屋

    イチオシ

    戸定(とじょう)邸の中心にあたる表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)は全体で畳63枚が敷かれていると云う。

    こちらは床の間(とこのま)があり、御本間(ごほんま)と呼び、最上等の木材を使用した長押(なげし)の柱には4枚の葵でデザインした「釘隠し」が見られる。
    武家らしい質素な作りだが、主人の昭武が床の間を背に座り、広々とした庭園や富士山を眺めたそうだ。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟に見られる書院造りの部屋

  • 表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟)には客間と主人の居間がある。<br />此処には鴨居(かもい)の上に*欄間(らんま)に出自を示す、水戸徳川家の三つ葉葵の御紋が彫られていた。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・*鴨居(かもい)の上に*欄間(らんま)・・水戸徳川家の三葉葵の御紋。<br /><br />*鴨居(かもい)とは、和室の仕切りとなる障子や襖(ふすま)といった建具の設置のために取り付けられる、引き戸上部の横木(よこぎ)のこと。鴨居の対となる引き戸下部の横木は敷居(しきい)。<br /><br />*欄間(らんま)は日本の伝統的な建築様式のひとつ。鴨居(かもい)や長押(なげし)と天井のあいだにはめ込む、透かし彫りされた板などのこと。

    イチオシ

    表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟)には客間と主人の居間がある。
    此処には鴨居(かもい)の上に*欄間(らんま)に出自を示す、水戸徳川家の三つ葉葵の御紋が彫られていた。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・*鴨居(かもい)の上に*欄間(らんま)・・水戸徳川家の三葉葵の御紋。

    *鴨居(かもい)とは、和室の仕切りとなる障子や襖(ふすま)といった建具の設置のために取り付けられる、引き戸上部の横木(よこぎ)のこと。鴨居の対となる引き戸下部の横木は敷居(しきい)。

    *欄間(らんま)は日本の伝統的な建築様式のひとつ。鴨居(かもい)や長押(なげし)と天井のあいだにはめ込む、透かし彫りされた板などのこと。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の欄間(らんま)に見られた水戸徳川家の三葉葵の御紋(反対側)

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の欄間(らんま)に見られた水戸徳川家の三葉葵の御紋(反対側)

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の部屋

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の部屋

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)で見られた庭先の手水(ちょうず、てみず)だろう。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)で見られた庭先の手水(ちょうず、てみず)だろう。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)から眺めた庭

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)から眺めた庭

  • 表座敷棟(おもてざしきとう)には全体で畳63枚が敷かれていると云うが、これを見ると納得する。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の部屋

    表座敷棟(おもてざしきとう)には全体で畳63枚が敷かれていると云うが、これを見ると納得する。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の部屋

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の朝の洗面所

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の朝の洗面所

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・沓脱石 (くつぬぎいし)は庭と建物の出入りに一段据える、天端の平たい石。靴脱ぎ石とも書かれる通り、靴を脱ぎ履きする役割があり、出入り間口の広さに合わせた沓脱石を選んだ。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・沓脱石 (くつぬぎいし)は庭と建物の出入りに一段据える、天端の平たい石。靴脱ぎ石とも書かれる通り、靴を脱ぎ履きする役割があり、出入り間口の広さに合わせた沓脱石を選んだ。

  • こちらの湯殿は昭武が入浴した当時のものではないらしいが、天井の杉板4枚が見所だとか。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・湯殿棟(ゆどのとう:お風呂場)

    こちらの湯殿は昭武が入浴した当時のものではないらしいが、天井の杉板4枚が見所だとか。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・湯殿棟(ゆどのとう:お風呂場)

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)だろうか?

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)だろうか?

  • 明治19年(1886年)、昭武の生母秋庭(しゅうてい)の為に増築された離座敷棟(はなれざしきとう)である。表座敷から一番奥まった場所にある。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)「秋庭(しゅうてい)の間」の説明版。

    明治19年(1886年)、昭武の生母秋庭(しゅうてい)の為に増築された離座敷棟(はなれざしきとう)である。表座敷から一番奥まった場所にある。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)「秋庭(しゅうてい)の間」の説明版。

  • 昭武の生母秋庭(しゅうてい:1834年~1921年)は、第9代水戸藩主斉昭(なりあき:1800年~1860年)の側室で、5男1女をもうけた。<br />公家の万里小路家(までのこうじけ)の息女でした。<br />物入れの上に、丸窓が設けられている。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)には三つの間からなる「秋庭(しゅうてい)の間」がある。

    昭武の生母秋庭(しゅうてい:1834年~1921年)は、第9代水戸藩主斉昭(なりあき:1800年~1860年)の側室で、5男1女をもうけた。
    公家の万里小路家(までのこうじけ)の息女でした。
    物入れの上に、丸窓が設けられている。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟(はなれざしきとう)には三つの間からなる「秋庭(しゅうてい)の間」がある。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)には昭武の生母秋庭(しゅうてい)の為に建てられた事に因んだ蝶々、スズメ、竹の透かし彫りが見られる。<br /><br />

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)には昭武の生母秋庭(しゅうてい)の為に建てられた事に因んだ蝶々、スズメ、竹の透かし彫りが見られる。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)の反対側

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)の反対側

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)には別の透かし彫りが。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・秋庭の間の欄間(らんま)には別の透かし彫りが。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・昭武の寝所兼八重の部屋に使用された*奥座敷棟(おくざしきとう)の説明版<br /><br />*奥座敷棟(おくざしきとう)は昭武の後妻・八重の部屋に用いられたそうだ。彼女は幕府御家人の娘で側女中(そばじょちゅう)として昭武に仕え、三男二女をもうけ、後に妻として入籍した。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・昭武の寝所兼八重の部屋に使用された*奥座敷棟(おくざしきとう)の説明版

    *奥座敷棟(おくざしきとう)は昭武の後妻・八重の部屋に用いられたそうだ。彼女は幕府御家人の娘で側女中(そばじょちゅう)として昭武に仕え、三男二女をもうけ、後に妻として入籍した。

  • 再び、表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)<br />に来る。庭を見に来たのだが。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷の説明版

    再び、表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)
    に来る。庭を見に来たのだが。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷の説明版

  • 戸定(とじょう)邸の中心にあたる表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)は、全体で畳63枚が敷かれていると云うがやはり広々としている。<br /><br />参考写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・大きな表座敷の広間

    戸定(とじょう)邸の中心にあたる表座敷棟(おもてざしきとう:最も格式の高い棟で客間と主人の居間がある)は、全体で畳63枚が敷かれていると云うがやはり広々としている。

    参考写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・大きな表座敷の広間

  • 表座敷棟(おもてざしきとう)の客間と主人の居間からは、広々とした、起伏のある芝生に、丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園を見ることができる。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園の説明版

    表座敷棟(おもてざしきとう)の客間と主人の居間からは、広々とした、起伏のある芝生に、丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園を見ることができる。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園の説明版

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・表座敷棟(おもてざしきとう)の西から南に庭園(標高25m)が広がっている。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・表座敷棟(おもてざしきとう)の西から南に庭園(標高25m)が広がっている。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の側面の庭

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・表座敷棟(おもてざしきとう)の側面の庭

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟と思われる建物の横、庭園の端に真っ赤なツツジの大株があった。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・離座敷棟と思われる建物の横、庭園の端に真っ赤なツツジの大株があった。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園にはコウヤマキの巨木やアオキリ、モミジ、杉、桜、ケヤキなど大きくなった木々が立つ。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園にはコウヤマキの巨木やアオキリ、モミジ、杉、桜、ケヤキなど大きくなった木々が立つ。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から表座敷棟を望む。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から表座敷棟を望む。

  • 戸定(とじょう)邸は思っていた以上に、水戸っぽらしい質実剛健らしさがみえて、たいへん好ましく思えた。<br />戸定(とじょう)邸の主、徳川昭武は水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)の18男で、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟にあたるというが、18男目(庶子)でよく第11代水戸藩主に成れたものだと思われ、また、30歳の若さで水戸藩主の座を甥に譲ったそうだから、幕末から明治にかけて、徳川家の衰退を目の当たりにして、何やら感じ取ったものがあったのだろうか。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から表座敷棟を望む。

    イチオシ

    戸定(とじょう)邸は思っていた以上に、水戸っぽらしい質実剛健らしさがみえて、たいへん好ましく思えた。
    戸定(とじょう)邸の主、徳川昭武は水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)の18男で、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟にあたるというが、18男目(庶子)でよく第11代水戸藩主に成れたものだと思われ、また、30歳の若さで水戸藩主の座を甥に譲ったそうだから、幕末から明治にかけて、徳川家の衰退を目の当たりにして、何やら感じ取ったものがあったのだろうか。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から表座敷棟を望む。

  • 参考写真は戸定(とじょう)邸:春先には庭園にも桜が咲く。

    参考写真は戸定(とじょう)邸:春先には庭園にも桜が咲く。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園には大きなツツジの株

    イチオシ

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園には大きなツツジの株

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・東屋から松戸市内が見える。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・東屋から松戸市内が見える。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から出た先に休憩所である茅葺きの東屋がある。このあたり一帯は東屋庭園というらしい。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園から出た先に休憩所である茅葺きの東屋がある。このあたり一帯は東屋庭園というらしい。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・庭園

  • 再び、庭から表座敷に上がって、帰り道に使者の間棟(ししゃのまとう)に入った。<br /><br />皇族華族、または身分の高い主人の帰りを待つお供の方は、正式な玄関を通らず、内玄関から「使者の間」に通されたと云う。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間棟の説明版

    再び、庭から表座敷に上がって、帰り道に使者の間棟(ししゃのまとう)に入った。

    皇族華族、または身分の高い主人の帰りを待つお供の方は、正式な玄関を通らず、内玄関から「使者の間」に通されたと云う。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間棟の説明版

  • 戸定(とじょう)邸には三つの座敷で欄間の透かし彫りを見る事が出来た。<br />いずれも意味があり、水戸徳川家の三葉葵の御紋、秋武の生母秋庭(しゅうてい)の為に建てられた事に因んだ蝶々、スズメ、竹のデザイン、そして幸福を招くと云うコウモリの透かし彫りだ。<br />いずれも反対側から見るのも一興であった。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間の欄間には幸福を招くと云う「蝙蝠(こうもり)」の透かし彫りが見られた。

    戸定(とじょう)邸には三つの座敷で欄間の透かし彫りを見る事が出来た。
    いずれも意味があり、水戸徳川家の三葉葵の御紋、秋武の生母秋庭(しゅうてい)の為に建てられた事に因んだ蝶々、スズメ、竹のデザイン、そして幸福を招くと云うコウモリの透かし彫りだ。
    いずれも反対側から見るのも一興であった。

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間の欄間には幸福を招くと云う「蝙蝠(こうもり)」の透かし彫りが見られた。

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間棟

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間棟

  • 写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間のあまり見たことが無い障子<br /><br />

    写真は戸定(とじょう)邸:邸内巡り・・・使者の間のあまり見たことが無い障子

  • 戸定(とじょう)邸を出て、次は歴史館を見学する。<br /><br />参考写真:戸定(とじょう)邸:歴史館の玄関<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2025年12月8日Wiki・HP参考、編集追記)<br /><br />

    戸定(とじょう)邸を出て、次は歴史館を見学する。

    参考写真:戸定(とじょう)邸:歴史館の玄関

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2025年12月8日Wiki・HP参考、編集追記)

    松戸市戸定歴史館 美術館・博物館

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