2025/05/16 - 2025/05/17
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jijidarumaさん
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故郷青梅も遠くなりました。
2025年5月、家内の母の17回忌で、菩提寺の寿香寺に行ってきました。
26歳で家内と結婚して、青梅を出て以来、もう82歳を迎えます。
今は両家の実家を弟たちが継いでいますが、青梅で事件が起き、新聞、TVのニュースで報道されると気になり、或いは大雨、地震などがあれば、いつも情報を後追いしてしまいます。
さて、最近、その故郷青梅に猫神社とか、猫地蔵、あるいは猫町、猫通りなどといった話を聞き及びました。
<故郷青梅にいつの間にやら、猫様の神社が出来たなんて、驚く事ばかり、益々故郷が遠くなる!>
私共には意外で、さびれゆく青梅はどうしたのかと、心配になりました。
その話の起こりはあの有名な漫画家・赤塚不二夫氏の作品に端(たん)を発しているように思えたが・・・。
参考写真は青梅宿妖怪伝説絵図・・・雪女や猫地蔵も載っている。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
300頁の「青梅おちこち こぼれ話」(文と絵 小川 秋子)を持っている。
青梅にある昭和レトロ商品博物館を訪れた際に、参考に購入した。
こぼれ話というだけに、其々が短編である。
かつてこの地には狼が生息したから、狼の話も残り、「青梅おちこち こぼれ話」にはそれらの話が、「お狗(いぬ)さま=狼のこと」の章として、最初に出て来る。しかも11編も掲載されている。
第二章は「神さま、仏さまの章」の28編でこの中に「猫地蔵」の話(後述)があった。猫神社とか、あるいは猫町、猫通りというものではないが・・・。
最初の写真、<青梅宿妖怪伝説絵図(雪女や猫地蔵も載っているが、其々後述した)>には、猫地蔵(無関係と思しき<にゃにゃ通り>も)の絵がある。
「青梅おちこち こぼれ話」は全部が妖怪伝説というわけではなく、多岐に渡っていて、様々な話が載っているのだ。
こぼれ話の表表紙には、時計回りに右上から「カマイタチ」、「テンマル(ムササビあるいは貂テンの化け物という)」、「ムジナ(狸のこと)ババア」、「流転のサル人形」、「幻のかみしもびな」、「雪女」の題名と絵が描かれている。
写真:手持ちの「青梅おちこち こぼれ話」(文と絵 小川 秋子:2008年6月第2版、1500円) -
こぼれ話の裏表紙には、時計回りに右上から「成木(なりき)のお狗(いぬ)さま=狼のこと」、「キツネの話」、「防ぎのワラジの穴」、「出雲太郎のムカデ退治」、「姫ヶ釜」、「柚木(ゆぎ)のお不動さま」の題名と絵が描かれている。
写真:手持ちの「青梅おちこち こぼれ話」(文と絵 小川 秋子) -
青梅市・滝ノ上町の常保寺には、門を入って左に招き猫姿のお地蔵さんがある。
猫地蔵といわれる珍しい地蔵さまだ。
・・・・・
【猫地蔵(ねこじぞう)】
招き猫の石像です。裏面には「南無妙法蓮華経」と彫ってあります。(市内の裏宿神社あたりに、摩利支天様のお堂があり、なんみょうさんといわれる人が住んでいました。近隣の信者が集まり日蓮宗を信仰していた時の石佛と思われる)
昭和の中頃、青梅市内の無住寺院(住職のいない寺)の土地処分の為、引き取ったそうです。
現在、境内中央に移動。白瀧不動尊の裏。
こちらの話は「猫地蔵」、
むかし昔、永山丘陵の上でキジ猫と一緒に暮らす身寄りのない男がおりました。
男はたいそう猫を可愛がり、また猫も男を慕っていたそうです。
いつしかキジ猫にも寿命が訪れ、亡くなりました。
男は大層悲しみ、せめてもと愛猫に見立てた地蔵を彫り、大事にしながら共に暮らしました。しかしだんだんと老いていく男は自分がいなくなったら愛猫の地蔵も山の上で忘れ去られてしまうと心配し、常保寺のお寺さんに遷し祀ってもらったのでした。
・・・・・・
写真:手持ちの「青梅おちこち こぼれ話」(文と絵 小川 秋子)66頁に掲載されている。 -
<青梅市・滝ノ上町の常保寺(じょうほじ)>
臨済宗 建長寺派 瀑布山常保寺
住所:〒198-0085 東京都青梅市滝ノ上町1316
Tel:0428-22-2418
常保寺には珍しいことに招き猫姿のお地蔵さん(写真参照)がある。
その建立の謂れは愛猫話であり、妖怪伝説の類いではない。
JR青梅駅より徒歩5分
概要:
常保寺は昭和39年発行の「稿本青梅市史第6集」によると、応永年間(室町時代・西暦1394年)天ケ瀬町(あまがせまち)の真言宗金剛寺の第2世により創建されたが、西暦1400年代頃になり、山梨県の武田信玄の菩提寺・塩山恵林寺(えりんじ)より吹峰宗陰禅師が赴き臨済宗に転宗となった。
開基及び開創の年月は数度の火災により古事来歴を失い、その縁起等は不詳ですが、瀑布山の由来は、境内地に小瀑布(小さな滝)があるを以て名付けたと伝わっている。
江戸時代には多摩川の景勝地として名高い常保寺に中原章(なかはらあきら:江戸時代中期の学者) 、小林天淵(こばやしてんえん:江戸時代の文化人)などの青梅文化の基となった文化人が自己修練や作品作りの為に集まったと伝えられている。
川沿いまでの一部の境内地は、昭和の中頃まで井伊直弼の子孫(直安)が別荘地として使用していましたが、道路の拡張に伴い現在では青梅市立美術館となっています。
参考写真は青梅市・滝ノ上町の常保寺にある猫地蔵 -
イチオシ
妖怪伝説絵図には、雪女や猫地蔵も載っている。雪女はともかくも猫地蔵は妖怪でもなんでもなく、単なる愛猫を地蔵にしたというだけの話で、何でもありのネタ話と思われ、いささか無理やり感が強いのだ。
参考写真は青梅宿妖怪伝説絵図・・・最近、こちらの妖怪伝説などに縁のある寺社を巡るガイドツアーとスタンプラリーが催されているそうだ。 -
*青梅は江戸時代初期から織物が盛んで、綿と絹の交織の着物生地「青梅縞(じま)」が、江戸の商人や武家に仕える女性に愛用されていた。
その後も明治、大正、昭和と、青梅は庶民の衣服用に普及した「青梅縞(じま)」、「青梅綿」として知られ、昭和初期には木綿の布団生地「青梅夜具地(やぐじ)」の一大産地になった。
第二次世界大戦で織物産業は大打撃を受けたものの、1950年(昭和25年)頃から日本で発生した景気拡大現象であるガチャマン景気、つまり「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった「青梅夜具地」の最盛期を迎えた。
しかし、マットレスや洋掛け布団などの普及により、徐々に「青梅夜具地」は衰退し、現在では、タオルなどの生産のみとなった。
参考写真は青梅宿:青梅の住吉神社(すみよしじんじゃ:応安二年・1369年)住吉神社 寺・神社・教会
-
歴史的には、東西に長々とした細い形状の宿場地域の青梅宿が市の中心であって、現在の青梅駅周辺一帯がそれである。その後、東青梅駅から羽村駅にかけた原っぱが発展し、市の中心は東に移り、役所関係、警察、企業団地なども東にある。
今の青梅駅周辺は年々、訪れる度にさびれて行く様子が見えたものだ。
青梅のさびれた商店街活性化事業として、三つの昭和レトロの記念館は平成11年(1999年)、15年(2003年)、17年(2005年)と其々開館された。
その後、いつしか【昭和のまち青梅】として知られるようになったと云う。
青梅駅のロータリーの先の大通りを左手に行くと、丘の上に祀られた住吉神社の近辺に三つの昭和レトロの記念館がある。
①昭和幻灯館、
②昭和レトロ商品博物館(かつての谷村家具店)、
③赤塚不二夫記念館(かつては外科の医院だったような記憶がある・・・小学生の頃、薪割りの手伝いをしていて、誤って左手の親指の先を爪と肉を削いでしまった事があったが、軍医上がりの医者が手当てをしてくれた)。
<①昭和幻灯館>
住所:〒198-0084 東京都青梅市住江町9
開館:10:00~17:00 、休館:月 祝日の場合は翌平日、年末年始
青梅線青梅駅から徒歩で5分。
ここでは久保板観作の映画看板と山本高樹作の昭和の風景のジオラマを展示する。
青梅を離れて何十年も経ってしまうと、この町はどんどん東に発展し、旧市街はレトロが売りの町に変っていました。
実は私の中では三つの昭和レトロの記念館に結構抵抗感があって、今まで見た事が無かった。
青梅に映画館があり、商店街が賑わいを見せていた昭和30年代(1955~1964年)は私が小学生から中学生の頃でした。
確かに活気が町全体にあったように思います。
その頃の繁栄を今一度と、町の知恵者が平成3年(1991年)から「青梅宿アートフェスティバル」を開催するようになった。
平成6年には「振り向けば青梅宿」と題して映画看板を街中に掲げ、平成13年には「妖怪たちの青梅宿」と題して調布橋のたもとに「小泉八雲 雪おんな縁の碑」を建立するなどが、その結果としてある。
昔、皆さんも見たであろう邦画・洋画の看板が街道沿いの商店や建物に架かっているのをいくつも見られる。
この看板の描き手は青梅在住の*久保板観という方で、映画が娯楽の王者であった昭和30年代から、当時あった青梅の3つの映画館(3館もあった事に驚くのだが)の看板を一手に描いてきたのだそうだ。
妙に懐かしく、さびれた町にはお似合いの映画看板といえようか。
写真は青梅宿:昭和幻灯館と映画看板昭和幻燈館 美術館・博物館
-
*参考;久保板観
1941年~2018年・享年77歳、 東京都青梅市出身。
「最後の映画看板師」と呼ばれた久保板観(くぼ・ばんかん、本名昇)さんは中学卒業後、見よう見まねで何百枚もの小型映画看板を描き、将来は映画看板絵師になることを決心。
1954年、生家の近くにあった映画館「青梅大映」に自ら売り込みに行き、若くして映画看板絵師となる。最盛期には、一日一枚の割合で映画看板を描き続けた。しかし、テレビなどの影響で映画産業が衰退し、映画看板絵師もその職を失っていった。
1993年、「青梅宿アートフェスティバル」で、19年ぶりに映画看板を描いたのを機に、映画看板は再び青梅商店街を飾った。
2000年、昭和レトロ商品博物館内に、「板観・映画館板の部屋」を併設。なお、これまでに描いた映画看板は3~4千枚といわれ、それがまた板観氏の技術力の高さを裏付けている。
・・・・・
写真は青梅宿:昭和幻灯館傍の猫のまねき食堂の絵があるバス停 -
前述したように、猫神社などの話の起こりはあの有名な漫画家・赤塚不二夫氏の作品に端(たん)を発しているように思えたが・・・。
<③赤塚不二夫記念館>
〒198-0084 東京都青梅市住江町66
開館:10:00~17:00 、休館:月 祝日の場合は翌平日、年末年始
青梅線青梅駅から徒歩で5分。
2012年12月の時、赤塚不二夫記念館はまだ②昭和レトロ商品博物館の左隣にあった。
かつて土蔵作りの外科医院(進藤さんという元軍医?)であった記念館内は
1階がミュージアムショップとキャラクターで飾られた記念撮影用の部屋とか、雑誌などの切り抜きや赤塚の交友関係(イグアナのまねをしていたタモリを有名にしたのは赤塚不二夫だと云う)などの展示があった。
2階は売れなかった当時の「ときわ荘の部屋」が再現されていた(そこの窓から下を見ると、何と我が家の実家の屋根が見えた!)。漫画家・*赤塚不二夫のさまざまな写真、赤塚作品の代表作(『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』)などのパネルや、生原稿、掲載雑誌などが数多く展示されていた。
昭和を代表する漫画家であり、青年時代(新潟市在住時代)に「映画看板の仕事に従事!」した事がある赤塚不二夫氏(尚、親族を含め赤塚不二夫と青梅市に縁は特に無かった)に白羽をたてたそうだ。
私感だが、昭和レトロのテーマからすると、少し違っていたのかもしれない。
開館されたのは2003年10月、十数年観光客を集めていたが、令和2年(2020年)に至り、耐震性などについて建物改修の必要が生じたこと、周辺の商店街商店主の高齢化・後継者不足などの管理上の問題が生じ、閉館が決定されたと云う(Wiki)・・・この点は①昭和幻灯館、②昭和レトロ商品博物館も同じ問題は残るのだが・・・。
2020年3月に閉館し、2020年6月の訪れた方の写真を拝見すると、既に赤塚不二夫会館は取り壊されて無くなっていた。
写真は青梅宿:赤塚不二夫記念館・・・代表作の漫画、おそ松くん、ひみつのアッコちゃんの看板が見える。青梅赤塚不二夫会館 美術館・博物館
-
イチオシ
また生前可愛がっていた猫の「菊千代」に関するレプリカ(ちなみに菊千代を祀った“バカ田神社”なる小さな神社もあるのも可笑しい。
赤塚不二夫記念館は既に無いが、想像をたくましくすると、写真の猫の菊千代とバカ田神社をなぞって、猫神社を作ったのかもしれない。
だが、Wikiによれば、こんな項があった。
<青梅駅周辺の「昭和レトロ」と「猫の街」>
青梅駅南側の市街地には、平成11年(1999年)~17年(2005年)にかけて、串間努の収集品などを展示する昭和レトロ商品博物館と別館の昭和幻燈館、隣接する青梅赤塚不二夫会館ができていた。
周辺商店街も1994年以降、往年の名作映画の看板を掲げ、昭和のムードを演出していた。
しかし、2018年2月に看板絵師の久保板観氏が死去して新作が制作できなくなったほか、老朽化による事故が懸念されたため、同年秋に撤去(青梅駅構内にある映画看板は現在も展示されている)したと云う。
思えば、昭和レトロと映画看板での町おこしも力不足で、町の衰退に歯止めをかけることができないと判断したらしく、<猫を生かした町おこしに転じている>そうである。
「猫如きにそんな力があるのか!」と書くと叱られそうだが・・・。
故郷青梅はいつの間にやら、猫様の神社が出来た・・・そんなー!聞いてないよ。
写真は青梅宿:猫の「菊千代」を祀った“バカ田神社” -
「常保寺の猫地蔵さん」では、町おこしの為にはインパクトが無いようで、私には何やら唐突感(とうとつかん)感のある「猫神社」を作ったのだろう。
「猫神社」はこのようなものだ。
【阿於芽猫祖神(あおめびょうそじん)】
=青梅宿に福を招いた猫神様=
住吉神社参道横にある「阿於芽猫祖神(あおめびょうそじん)」は、右手で金運を招き、左手にはマタタビの葉を持っている。「阿於芽(あおめ)」には「青梅」と「青目」がかけられているそうだ。
商店街の店主たちが商店街の復活を願って、商売繁盛の招き猫に福を招いてもらおうと話し合ったのがきっかけで、1998年に奉納された。
*古くから織物産業で栄えた青梅は、養蚕業も盛んで、蚕(かいこ)を狙うネズミの駆除に猫が珍重されたと、何やらもっともらしく付け加えている。
家内の家もかつて絹織物業をしていたから、御蚕様もいた。その家内に聞いても、蚕とネズミの関係などといった特段の話を知らないと云う。
もっとも、青梅の街中にはさほど猫を見かけないのだが・・・。
参考写真:「阿於芽猫祖神(あおめびょうそじん)」=>招福殿 -
招福殿の中には阿於芽猫祖神が鎮座している。
右手は金運の招き、左手にはマタタビの葉を持っている。
こうした猫神様が他に見られるのか?よく分からない。
参考写真:「阿於芽猫祖神(あおめびょうそじん)」拡大=>招福殿 -
実は参道の奥に、阿於芽猫祖神と同時期に奉納された2体の猫神様が祀られている。
猫の七福神の「大黒天猫」と「恵比須猫」という名である。
こうなると何でもありか?!。
他の七福神、つまり福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天の猫神もその内に登場しそうである。
参考写真:七福神のうち、「大黒天猫」と「恵比寿猫」の二体がある。 -
イチオシ
<昭和レトロ商品博物館>
住所:〒198-0084 東京都青梅市住江町65
Tel:0428-20-0234
青梅駅を降りて、駅前のロータリーを大通りまで歩く。大通りを左手に行くと、4分で丘の上に祀られた住吉神社(応安二年・1369年)前に至る。
その近辺に昭和レトロ商品博物館、赤塚不二夫記念館、昭和幻灯館といった「レトロが売り」の建物がある。
「レトロが売り」の建物は最近、各地に見る事も多い。
青梅宿の昭和レトロ商品博物館も多くは各地のものと似たものだが、内部は見れば見るほど、子供のころの思い出に直結するから、私共にもとても面白かった。
ここはレトロ大好き人間には実に楽しく、興味深い場所と言って良いだろう。
加えて、2階に雪女伝説の展示があるので、伝説好きには見逃せないのだ。
写真は青梅宿:昭和レトロ商品博物館・・・美空ひばりの弁天小僧、大河内伝次郎の丹下左膳などの映画看板が架かる。昭和レトロ商品博物館 美術館・博物館
-
【小泉八雲の怪談「雪女」は青梅の伝説から採った・・・故郷は如何に田舎だったか!】
怪談「雪女」の話だが、平成13年(2001年)には町おこしの「妖怪たちの青梅宿」と題した企画があり、先の“千ヶ瀬の渡し場(後述)”は小泉八雲の怪談「雪女」に登場する渡し場として日の目を見る事となった。
八雲に雪女の話を伝えた調布村の父娘が、<千ヶ瀬の渡し>の近くに住んでいたことも判明していると云う。だから、樵(きこり)の巳之吉が雪女を見たのは青梅宿に近いこの渡しだとされ、現在、多摩川に架かる調布橋のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が建てられている。
・・・・・
写真は青梅宿:昭和レトロ商品博物館の2階にある雪女の襖(2012年12月) -
イチオシ
【小泉八雲の「雪女」】Wikiに依れば:
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い=*千ヶ瀬村)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている。
この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。
100年前は現在とは気候が相当異なり、東京の中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。
XXXXXXXXXXX
<小泉八雲の「雪女」;Wikiより>
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『怪談(Kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。
あらすじ:
武蔵の国のある村に、茂作(もさく)と巳之吉(みのきち)という2人の樵(きこり)が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめの美しい女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。
「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」
それから数年して、巳之吉は「お雪」という、ほっそりとした美しい女性と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。
「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
そういうと、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。
それ以来、お雪の姿を見たものは無かった。
XXXXXXXXXXX
写真は青梅宿:調布橋のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が建てられている。 -
青梅にも様々な歴史や伝説、美しい景観、伝統の味があるので、以下にそれらの写真を載せてご紹介したい。
ご興味あれば、お立ち寄りください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<宗建寺(そうけんじ)>;
臨済宗建長寺派仙桃山 宗建寺
〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町6-734
山号・・・仙桃山、 寺号・・・宗建禅寺、
本尊(ほんぞん)=毘沙門天王(びしゃもんてんのう)
本山(ほんざん)=鎌倉の巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)
宗派(しゅうは)・・・臨済宗建長寺派(りんざいしゅうけんちょうじは)
慶安二年(1649年)、一石七斗の朱印状を寄せられている。
宗建寺は我が家や分家・姻族の菩提寺である。
明和年間(1764~1771年)大祐和尚により現在の堂宇が再建された。
仙桃山の扁額の懸かる山門を潜ると右手は客殿、庫裡、本堂とつづき、左手は鐘楼、さらに左は広い墓所となっている。境内の奥、本堂前は整備された美しい庭園となっている。
また、庭園左奥の一段高い所に、弁財天を祀る「妙音殿」が立っている。
本堂には「多摩青梅七福神の毘沙門天」が安置され、当寺の本尊である。
加えて、「義賊 裏宿七兵衛の墓」まであるから面白い。
参考写真は青梅の宗建寺:弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」宗建寺 寺・神社・教会
-
≪青梅:宗建寺・我が家が寄進した御堂「妙音殿」と庚申塔≫
宗建寺境内の池の築山に弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」がある。
我が家の菩提寺は宗建寺であるが、建立当時からの檀家で、世話人役を務めたと云う。この弁天様を寄進したのも我が家だそうだ。
我が家の墓誌は初代が元禄7年(1694年)徳山道隣居士・俗名七右衛門の名が彫られている。家に残る過去帳を父が墓誌に写し、刻ましたものである。
それ以前の家系は不明であるが、上述したように、宗建寺の建立当時からの檀家で、名主であった事から世話人役を務めたと云われている。
我が家の古文書目録(青梅市郷土博物館)の19項に寄附状受取之事:文政13年9月(1830年)が記載されている。
差出人は宗建寺大湫(たいしゅう)とあり、受取人は我が家の小右衛門老母とある。弁天様を寄進したことに対するものだ。
また、127番には母の養父(実の祖父)が宗建寺の本堂屋根改修に付き尽力あったと、大正8年9月(1919年)、臨済宗建長寺派管長より表彰されたとある。
写真は青梅の宗建寺:弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」
宗建寺の妙音堂にはかつて、たくさんの「三味線のばち」が納められていたそうだ。この写真ではその姿は見えない。
妙音堂に祀られているのは「弁財天様」で、弁財天様は音楽や芸術の神様なのだ。 多くの音楽や芸術を志す人々の心の支えとなり、信仰の対象ともなっていた。
昔の青梅は江戸時代より、*織物業が盛んで、それに支えられた文化芸術も栄え、花街も多くあったそうだ。その花街で芸を磨く芸子さんたちはその技の向上を願い宗建寺の妙音堂に三味線のばちや弦を納めたと云われている。 -
御堂「妙音殿」の参道(階段)の登り口にある丸型の石塔が庚申塔(こうしんとう)で円形という珍しい形に青面金剛塔・二匹の邪鬼・三匹の猿神が見られる。
中心には焔髪(えんぱつ:髪が逆立ち、炎のような髪の形)と憤怒(ふんぬ)の表情、六腕にそれぞれ武器・宝具を持ち、二匹の邪鬼(じゃき)を踏みつけた青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られている。
その下には三匹の猿神(さるがみ)が刻まれていますが、青面金剛とは打って変わってユニークな造りになっています。
これは所謂「見ざる・言わざる・聞かざる」で、さらに珍しいことにそれぞれの動作を、扇を使って表現していると云う。
写真は青梅の宗建寺:弁財天をお祀りする「妙音殿」の参道に庚申塔がある。 -
菩提寺・宗建寺には義賊 裏宿七兵衛の墓がある。
偶々、青梅の観光スポット ランキングを見る機会があって、その口コミ95件の内、第60位にランクされていたのが、我が家や分家・姻族の菩提寺である宗建寺でした。
口コミにも書かれていなかった「義賊 裏宿七兵衛」の事などを書いてみたくなった。
【青梅:菩提寺の宗建寺に義賊 裏宿七兵衛の墓がある】
青梅市千ヶ瀬町の宗建寺境内、ここには中里介山(なかざと かいざん)の長編小説『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』で知られている裏宿七兵衛(うらじゅく しちべえ)の墓がある。
小説『大菩薩峠』では義賊として描かれていますが、元文7年(1739年)に七兵衛なるものを首領とする盗賊団が捕えられ、処刑された記録が昭和26年(1951年)になって発見されて、実在人物であったことが分かった。
何時の頃からか、我が家の菩提寺の宗建寺に、義賊 裏宿七兵衛の墓が出来て、一種の観光名所になった。
【義賊 裏宿七兵衛うらじゅく しちべえ】
(青梅の昔話;奥多摩民話の会編・第一集「奥多摩の昔話」より引用・編集)
昔、亨保から元文の頃,青梅の町外れの裏宿というところに七兵衛(しちべえ)という百姓が住んでおりました。
七兵衛は、足が並はずれて速く、一夜に十数里(数十km)を歩き、すげ傘を胸に当てて走っても地に落ちず、一反(いったんは凡そ10m)の布を引いて走ってもその端が地につかなかったといいます。
七兵衛は、昼間は畑を耕し、夜は早くから戸を閉めて近所の者とのつきあいも一切なかったものだから、村人は七兵衛をまじめな男だ、とばかり思っておりました。
ところが七兵衛は夜になると盗みに出かけるのでした。近隣はけっして荒らさず、快速をきかして遠く甲斐(かい)、相模(さがみ)、秩父(ちちぶ)まで飛んで一仕事し、朝までには青梅へ帰って何食わぬ顔をしていました。
盗んだお金は、当時、うち続く飢饉(ききん)にあえぐ貧しい人々にそっとばらまいてしまい、自分では何の道楽もなかったから、近所の者もあやしまず、捕らわれるまでだれも七兵衛の大罪(たいざい)を知る者はいませんでした。
やがて、七兵衛は捕らわれ、「大柳の渡し(かつて青梅と対岸の駒木野を結んだ渡し」があった大柳川原(おおやながわら)で処刑されると、笹の門(現在の青梅市住江町と西分町のさかい、五叉路(ごさろ)のあたり)で晒(さらし)首にされました。
その夜ふけに風が吹き荒れ、豪雨となり、七兵衛の首は側の別当沢(べっとうざわ)を流れて、宗建寺(そうけんじ)のかたわらへ流れつきました。
それを哀れんだ住職がひろいあげて、寺へ葬りました。
さて、裏宿七兵衛についての記録は「谷合氏見聞録」にあるのみです。
昭和二十六年八月に郷土史家清水利氏により、青梅市二俣尾の旧名主谷合家の土蔵の中から「谷合氏見聞録」が発見され、裏宿七兵衛の実在が確認されたのです。
谷合氏見聞録では、「元文四年(1739年=八代将軍将軍吉宗治下)十月四日の項に、代官手代の長谷川儀助、火方奉行の配下奥村藤九郎が村山三ツ木村(現在の武蔵村山市三ツ木)に来て、裏宿七兵衛(青梅七兵衛)、小作(おざく)大蔵(羽村の惣右衛門)ほか一味四人が召し捕りになり、十一月に処刑された」・・と記されているだけである。
それまでは青梅の古刹、宗建寺の過去帳に記された、「五月三日 法山祖幢信士 年号不知 裏宿人也 俗名七兵衛 由来不可尋 永々回向可致者也」が唯一の手がかりだった。即ち、「裏宿の人、俗名・七兵衛・・・由来を尋ねず。永く供養すべき者なり・・・」と。
(注;谷合氏は永禄六年(1563年)、三田弾正少弼綱秀が二俣尾村の辛垣城にて没落の際、綱秀の遺児を預かって土着したといわれる三田の旧臣・谷合太郎重久信を祖とする(「谷合氏見聞録」)。
「谷合氏見聞録」は元禄十一年(1698年)から寛保四年(1744年)までの四十六年の記録である。それは綱吉の後、家宣、家継、吉宗の期間になる。赤穂浪士の討ち入り、富士山の大噴火、江戸から近在の火事、米価の推移、代官の異動などを、事細かに記録しているのだが、盗賊についての記述は裏宿七兵衛の処刑された元文時代に限られている。これは大岡越前を登用した吉宗の時代の治安の良さを窺える)
七兵衛の死後、七兵衛の屋敷跡や所有地の畑は耕しても作物ができず、家を建てたりすると祟りがあると云われて、長い間空き地になっていました。
屋敷跡は七兵衛公園と言う児童公園となり、昭和三十五年(1960年)には七兵衛の供養碑が建てられています。
また、青梅図書館脇の土地には、大正5年(1916年)に西多摩郡役所が建てられましたが、怪我や病気や、いろいろと困った出来事が続いたため、敷地の一隅(いちぐう)に七兵衛の祟りを鎮めるべく、昭和七年五月三日(1932年)に地蔵堂が建立された。これを今は七兵衛地蔵と呼んでいます。
七兵衛地蔵尊は足、腰の病、旅道中、交通安全にご利益があるとされています。
しかも、青梅の仲町の裏宿には「七兵衛通り」がある。
本物の義賊であったかは分からないが、盗賊の名が“通りの名”になるのは妙だが、青梅での人気の高さを窺える。
青梅市千ヶ瀬町の宗建寺境内にある七兵衛のお墓には、近年、青梅マラソンに参加する人や、お相撲さんで足を怪我した人など祈願に訪れたりしている。
今でも地元では義賊 裏宿七兵衛は手厚く供養されていて、毎年6月8日には大祭が行われているそうだ。
参考:中里介山の長編小説『大菩薩峠』:
参考写真は青梅の宗建寺:義賊(盗賊)裏宿七兵衛の墓 -
古稀の祝(2012年11月23日~24日):
御岳渓谷のゆずの里・勝仙閣(しょうせんかく)の下の御岳渓谷に下りて、「お山の杉の子」の歌碑を見て、紅葉の多摩川べりを散歩(~10:20)した。
この地で佐々木すぐる氏が作曲したのが「お山の杉の子」で、多摩川べりを散歩する遊歩道にその歌碑がある。
写真は御岳:「お山の杉の子」の歌碑と孫たちゆずの里 勝仙閣 宿・ホテル
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<櫛かんざし美術館>
住所:東京都青梅市柚木町3-764-1
Tel:0428-77-7051
JR青梅線 沢井駅下車 徒歩10分。
江戸から昭和にかけての櫛とかんざしを中心に、紅板、はこせこ、かつら、矢立など季節に合わせた作品を常時約400点を展示している。
写真は御岳:櫛かんざし博物館澤乃井櫛かんざし美術館 美術館・博物館
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写真は御岳:櫛かんざし美術館の展望ホールから見る多摩川の流れは絶景。
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<御嶽渓谷・河鹿園(かじかえん)>
住所:東京都青梅市御岳本町335
Tel:0428-78-8218
JR青梅線・御嶽駅から徒歩約1分
河鹿園は御嶽渓谷の美しい景観を我がものとしていた感があった。
もともと料亭・旅館だったが今は廃業し、建物丸ごと美術館になっている。
国登録有形文化財である元・割烹旅館「河鹿園」の建物を利用し、歴史的な建物と書画を展示すると云う。
かつて、隆盛を誇っていた頃、父の叙勲祝や母の米寿祝をこの旅館で催したので、我が家には思い入れのある旅館だった。
写真は御岳:玉堂美術館のの向こう岸は旅館河鹿園(かじかえん)旅館建物室礼美術館 河鹿園 美術館・博物館
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御岳駅を下りて、御岳橋を渡ると左手に直ぐ見える。
写真は御岳:玉堂美術館_map -
<玉堂美術館>
住所: 198-0174 東京都青梅市御岳1-75
Tel:0428-78-8335
玉堂美術館は日本画壇の巨匠・川合玉堂が昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10余年を青梅市御岳で過ごしたのを記念して建てられた。
自然を愛し、人を愛した玉堂の人柄は土地の人々からも慕われ、「玉堂の愛してやまなかった御岳渓谷に美術館を建てよう」との声が上がり、皇后陛下をはじめ諸団体、地元有志、全国の玉堂ファンより多大の寄付が集まり、没後4年の昭和36年5月に早くも美術館が開館した。
玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和の三代にわたり、日本学術文化の振興に貢献された。展示作品は15歳ごろの写生から84歳の絶筆まで幅広く展示されている。
展示替は年7回行われ、その季節に見合った作品が展示されている。
玉堂さんの様々な絵は市民にも人気で、多くの家の応接間を飾ったそうだ。
・・・・・
参考写真は御岳:玉堂美術館正面玉堂美術館 美術館・博物館
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写真は御岳:玉堂美術館の庭園
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写真は御岳:玉堂美術館の庭園
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写真は御岳:玉堂美術館の作品
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写真は御岳:玉堂美術館の作品
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写真は御岳:玉堂美術館の作品
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青梅市釜の淵公園の桜並木は、家内の祖父定吉翁が植えて、育てたものだ。
「釜の淵公園」は多摩川が大きく蛇行している地形をそのまま公園にしたもので、四季折々の自然美を楽しめる。
とりわけ桜や紅葉の名所として知られている。
公園周辺には○丸印を付けた地図に見るような「かんぽの宿青梅」、*「青梅市郷土博物館」、*「旧宮崎邸」があり、対岸に「青梅市立美術館」などがある。
写真は青梅:釜の淵公園図
*<青梅市立郷土博物館>
昭和49(1974)年、緑に恵まれた多摩川のほとりに開館した。
建物は鉄筋コンクリート造り2階建て、延べ面積約786平方メートルに展示室・会議室・収蔵庫などがあり、年に数回特別展を行っている。
収蔵品としては、市内の遺跡から出土した遺物、市有形文化財の旧宝林庵文書(3点)を含む数多くの古文書、地機(じばた)、青梅縞(おうめじま)(3点)など多くの分野にわたる歴史史料があります。
入場無料で月曜日が休館。
(因みに我が家の古文書も同館にある)
*<旧宮崎家住宅>
青梅市立郷土博物館傍に、昭和53年(1978年)1月に、国の重要文化財に指定された旧宮崎家住宅がある。江戸時代後期に建築されたという家は、青梅市成木8丁目の宮崎義雄氏宅から昭和54年(1979年)に移築・復元された。
内部も一般に公開されている。 入口のすぐ左側には風呂場、土間にはカマド、板の間には家族が集まる囲炉裏(いろり)があり、当時の生活が再現されている。
座敷は8畳間、4畳間があり、床面積の3分の1を占め、土間と板の間がほぼ同じ割合になっているそうだ。
江戸時代における山間部の農家の生活がよく理解できる建物である。
見学時間:9時から16時30分まで、なお、月曜日は休館日。釜の淵公園 公園・植物園
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釜の淵公園を柳淵橋(りゅうえんばし)から望む、かんぽの宿青梅と多摩川、釜の淵の景観が楽しめる。
釜の淵の名前の由来は上流の小河内ダム(1957年:昭和32年竣工)ができる以前、多摩川が急流であった頃、川の流れが岩盤にぶつかり、その流れの向きを変えるとき、渦巻く流れによって川底が深く抉られ、いわゆる「淵」を形作った。
現在のかんぽの宿青梅の急峻な岩壁下、ちょうど市営プールの対岸に当たる辺りに「淵」が生じ、この淵を昔から人々は「釜ヶ淵」と呼んだそうだ。
岩壁上から見ると文字通り、「釜」のように見え、丸い深い淵であったのだろう。
今の多摩川は昔ほどの水量はないものの、台風の季節には大雨が降ると、かつての急流のごとく、激しく水は岩壁に当たり、渦を巻く、昔から人々が「釜ヶ淵」と呼んだ様子を見せるのだと云う。
参考写真は青梅:かんぽの宿青梅と多摩川、釜の淵・・・水が少ない時期だ。 -
多摩川沿いにある「釜の淵公園」は緑が多く、広々とした自然な景観がつくる、恵まれた環境にある。
とりわけ、多摩川沿いに咲く桜並木は桜の名所として知られている。
青梅を離れて数十年、知らぬ間に桜並木が育っていた。
当時多摩川沿いにあった畑が多摩川の氾濫で流されるのを防ぐために、家内の祖父定吉翁は畑地の所有者たちであった地区民と共に堤を築き、凡そ50本の桜を多摩川沿いに植えたと伝えられている。
以来、年々桜の木は成長し、見事な桜並木を形作っている。
写真は青梅:釜の淵公園の桜堤 -
例年3月下旬から4月上旬にかけてピンクに色づいた桜が見頃を迎える。
満開時期の10日間、桜のライトアップを行われて人気も高いと云う。
参考写真は青梅:釜の淵公園の桜堤 -
私共が小学生の頃、よく水遊びをした大柳(おおやな)から千ヶ瀬への多摩川の流れには、岩壁や大岩(軍艦岩といった名で呼んでいた)が見られる場所があり、そこではかつて渦を作り、泳ぐ子供たちを引き込むような怖い淵があった。
海(東京湾)から61kmの距離になる。
写真は青梅:新緑の桜並木と多摩川の下流方向へ・・・右手に軍艦岩 -
写真は青梅:かんぽの宿から見る鮎美橋(あゆみばし)・・・竣工:1983年(昭和58年)だから、竣工時はドイツにいたので知らない。長さ120m、幅は3m、川からの高さは10mほどの橋だ。
鮎美橋 名所・史跡
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<青梅市立美術館(青梅市立小島善太郎美術館)>
住所:〒198-0085 東京都青梅市滝ノ上町1346-1
Tel:0428-24-1195
青梅市立美術館は1984年(昭和59年)10月1日開館した。
私がドイツ駐在中に出来たから、帰国して初めて知った。友人の家の近く、実家の近所といっても、ようやく2012年11月に初めて訪れた。
従って、青梅にゆかりのある洋画家小島善太郎、工芸家藤本能道といっても殆ど知識はない。履歴を見ても、ゆかりのある方々には思えなかったのは残念である。
多摩川を望む景勝の地に建ち、絵画の近代化をリードした日本画家、洋画家、戦後の版画家の作品を中心に2300点以上が収蔵されている。
<青梅にゆかりのある!>洋画家小島善太郎(1892~1984年:独立美術協会創立会員。地元である多摩地域・武蔵野地域の風景画を多く手掛けた)及び工芸家藤本能道 (よしみち、1919~1992年:陶芸家。東京藝術大学学長、名誉教授。重要無形文化財保持者(人間国宝)、尚、1973年 青梅市梅郷に築窯した)の作品の常設展示室もある。
レストラン・カフェ、駐車場有り。
休館日:月曜日、観覧料:大人200円。
猫地蔵のある常保寺も滝ノ上町1316にあり、かつて美術館は寺の敷地にあった。
当時、多摩川沿いまでの一部の境内地は、昭和の中頃まで井伊直弼の子孫(直安)が景勝の良い別荘地として使用していたそうだ。
昭和時代の後半、寺内を通る道路の拡張に伴い、現在では青梅市立美術館が建っている。
ともあれ、多摩川の景観の良さと、常保寺の猫地蔵がらみで、書き添えた。
写真は青梅:市立美術館から釜の淵方向を眺めると、柳渕橋(りゅうえんばし)が見える。竣工:1972年(昭和47年)、橋の長さは103mである。柳淵橋 名所・史跡
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2014年6月21日、久しぶりに故郷を訪れ、関東の古刹(こさつ)・塩船観音寺(しおぶねかんのんじ)と吹上菖蒲公園(ふきあげしょうぶこうえん)を訪れた。
どちらの名所も、私共には特段の場所というものではなく、
塩船観音寺はかつてものすごく鄙びたお寺であったし、友人がこの寺の板碑(いたび)について興味をもって、本を出版していたから、それらの事を思い出すぐらいのものだった。
しかも、故郷の名所と言いながらも、香港駐在(1992年~95年)から東京(1995年~96年)に、そして大阪(1996年~2001年)へと、単身生活が続いた時期に出来た吹上菖蒲公園(1998年開園)は、今までも一度も来たことがなかったのだ。
だから私共には、どちらも今回初めてと言って良い場所なのだ。
参考写真は塩船観音寺・吹上菖蒲公園Map -
<塩船観音寺>
東京都青梅市塩船194
樹齢千年を越えた杉木立に囲まれた塩船観音寺は青梅市塩船にある真言宗醍醐派の別格本山である。
山号は大悲山と称し、関東八十八ヶ所霊場第七十二番札所になる。
伝説によれば、大化年間(645年 - 650年)に、若狭国の八百比丘尼が、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。
また「塩船」の名は、天平年間(729年 - 749年)に行基がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて船の形に似ているところから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟(ぐぜいのふね)」になぞらえて、名付けられたものと伝えられている。
貞観年間(859年 - 877年)には、安然が12の坊舎を建てるなど、興隆を極めたという。
鎌倉時代には武蔵七党(むさししちとう:平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称)の流れを汲む金子氏の庇護を受け、室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏(みたし・・・平将門の後裔と称し、現在の青梅市周辺の杣保(そまほ)を本拠地とし、最盛期にはその周辺地域や高麗郡・入間郡方面まで支配していたと云われている)の帰依を得て栄えた。
写真は塩船観音寺のツツジは有名だが、ご本尊や大杉も良い。塩船観音寺 寺・神社・教会
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室町時代後期に建てられた本堂、阿弥陀堂、仁王門は本堂内の厨子とともに国の重要文化財に指定されている。
本尊の十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音)像、眷属の二十八部衆像も同じく国の重要文化財に指定されている。
また、約五千坪に咲くツツジが有名で、毎年春(特に5月)にはつつじ祭りが開催されている。
重要文化財の①仁王門は室町時代後期(1467年-1572年)の建立で、三間一戸八脚門、切妻造、茅葺である。
②阿弥陀堂は室町時代後期(1467年-1572年)の建立。
桁行四間、梁間三間、一重、寄棟造妻入、茅葺形銅板葺。桁行2間、梁行1間の身舎の周囲に庇をめぐらした形式になる。
アジサイの季節は6月中旬から7月中旬だそうだ。
③塩船観音の大杉(夫婦杉、二本)は東京都天然記念物になっている。
右の大杉は幹囲6.6m、樹高が40m、
左の大杉は幹囲5.7m、樹高が43mと書いてある。
④本堂(附:厨子)は室町時代後期(1467年-1572年)の建立で、仁王門、阿弥陀堂と同じ頃に建設された。
桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、茅葺の形式になっている。
田舎風の佇まいはなかなかである。
参考写真は塩船観音寺のツツジが満開の時期 -
イチオシ
【吹上菖蒲公園】
東京都青梅市吹上425番地
「吹上花しょうぶまつり」・・・6月1日~30日
青梅市北東部に広がる霞丘陵の*谷戸地(やとち:丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形)で、勝沼城跡歴史環境保全地域に位置する。
開園は1998年(平成10年)というから、まだ十数年経っただけだ。
それでも、全体面積 約2.100ヘクタールの広さになった。
花菖蒲が開花する5月から6月にかけて毎年「吹上花しょうぶまつり」が開催される。開催時の入園料は有料だが、それ以外のときは入園無料。
土曜日、日曜日は休園だがまつり開催時は無休。
吹上菖蒲公園は貴重な谷戸地(やとち)を保全するためにつくられた公園で200種超、10万本の花菖蒲が見られる。
花菖蒲(5月下旬~6月下旬)の他に、ホタルブクロをはじめとしてさまざまな花々も咲き、フジバカマ(9月中旬~10月中旬)や、彼岸花(9月上旬から中旬)も見ることができるそうだ。
写真は吹上菖蒲公園吹上しょうぶ公園 公園・植物園
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青梅の町は訪ねる度に、人の通りも少なくなりました。
それでも根強い人気が残る伝統の味、美味い「道味の最中」や「火打屋本店の酒まんじゅう」だけはまだまだ味も落ちずに売れています。
写真は青梅宿:「道味」の店道味 グルメ・レストラン
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写真は青梅宿:「道味」の店内
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写真は青梅宿:根強い人気が残る伝統の味、美味い「道味の最中」
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写真は青梅宿:「火打屋本店」のお店は普通のパン屋さんだが、私共は同年輩のババ様お手製の酒まんじゅうを買いに来る。
火打屋本店 グルメ・レストラン
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写真は青梅宿:「火打屋本店の酒まんじゅう」は安い、美味い。
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最中や酒まんじゅうに加えて、洒落たレストラン「井中居(いちゅうきょ)」での懐石料理もお勧めだ。
珍しい名前である“井中居”は古屋敷・蔵を改造した趣あるレストランである。
故郷・青梅の藤橋に“井中居”なる立派なお店がある事は知らなかったのだが、
其の古屋敷・蔵を改造した趣ある建物、竹林、庭園には感心しました。
写真は「井中居」のパンフレット(お献立、アクセス、店内)井中居 グルメ・レストラン
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・・・
井中覗星(せいちゅうけんせい)・・・井戸の中の蛙は大海を知らない。しかし、そこから見える小さな空の深さを、星々の輝きの美しさを知っている。
来てくださるお客様に、ときには世間という大海から離れた静かな井戸の中の様な空間で、旬の味を愉しみつつゆったりと過ごしていただきたい。
そんな願いから井中居は生まれました。
・・・
圏央道青梅ICから車で約5分。
JR青梅線・河辺駅北口より3.6km、小作駅東口より3.5kmあり、タクシー利用がよさそうだ・
東京都下青梅市の長閑な場所に井中居があり、明治時代初期に建てられた古民家を改装した、懐石料理とギャラリーのお店。
住所:東京都青梅市藤橋2-32
Tel:0428-30-1661
78席、半個室あり。駐車場有:25台 。
営業時間:
11:00~15:00
17:00~21:00(受付は19:00迄)
定休日:月曜日夜、火曜日(祝日の場合は営業)
写真は「井中居」の入口は竹藪の道を行く。 -
高校野球部時代の友人Tさんの御勧め、アレンジで、当日は3夫婦(私共以外は青梅市民)が参集し、青梅の藤橋という近郊にある古屋敷・蔵を改造した、趣あるレストランで旧交を温めた。
Tさんがお勧めされただけに、大変美味しく、素晴らしい懐石料理を楽しむ事が出来ました。
2010年5月1日、11:30~14:30 会費5千円
写真は「井中居」の懐石料理のスタート。前菜が興趣ある形で出てきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆さまへ、
暑中お見舞い申上げます。
梅雨も明け、毎日を暑い暑いで過ごしております。
jijidaruma
・・・・・
故郷青梅にいつの間にやら、猫様の神社が出来たと云う話にからんで、青梅宿の事を書いた。
誠に恐縮ながら、青梅にも様々な歴史や伝説、美しい景観、伝統の味があるので、それらを合わせご紹介させて頂いた。
(2025年7月22日Wiki・HP参考、編集追記)
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