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松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。<br /><br />最初に戸定(とじょう)邸を見て、次は歴史館を見学する。<br /><br />【源氏物語が残る戸定(とじょう)歴史館では、写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちが魅力的だ。】<br /><br />参考写真の多くは目に着いた徳川家、徳川係累の美女たちである。<br />鼻筋が通った気品のある姿が魅力的であった。<br /><br />写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・<br />左から徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、<br />慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、<br />慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。<br /><br />彼女らは徳川家の旗本の娘から慶喜の側室となった母が生んだ。七女と八女は同じ側室から生まれたので、顔が似ている。

松戸市:源氏物語が残る戸定(とじょう)歴史館では、写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちが魅力的だ。

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2025/04/20 - 2025/04/20

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jijidaruma

jijidarumaさん

松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。

最初に戸定(とじょう)邸を見て、次は歴史館を見学する。

【源氏物語が残る戸定(とじょう)歴史館では、写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちが魅力的だ。】

参考写真の多くは目に着いた徳川家、徳川係累の美女たちである。
鼻筋が通った気品のある姿が魅力的であった。

写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・
左から徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、
慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、
慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。

彼女らは徳川家の旗本の娘から慶喜の側室となった母が生んだ。七女と八女は同じ側室から生まれたので、顔が似ている。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 松戸市戸定(とじょう)歴史館は松戸徳川家や徳川慶喜家の資料が展示され、幕末に昭武が訪れたパリ万国博覧会の関係資料など、幕末から明治にかけての国際交流と写真撮影好きだった徳川慶喜・昭武兄弟が撮影した写真をメインテーマに、時期に応じて展覧会などが行われている。<br /><br />写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館の玄関

    松戸市戸定(とじょう)歴史館は松戸徳川家や徳川慶喜家の資料が展示され、幕末に昭武が訪れたパリ万国博覧会の関係資料など、幕末から明治にかけての国際交流と写真撮影好きだった徳川慶喜・昭武兄弟が撮影した写真をメインテーマに、時期に応じて展覧会などが行われている。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館の玄関

    松戸市戸定歴史館 美術館・博物館

  • 【徳川昭武(とくがわあきたけ)の概要】<br />国立国会図書館の「近代日本人の肖像」<br />嘉永6年9月24日 ~ 明治43年7月3日(1853年10月26日 ~ 1910年7月3日)<br /><br />徳川昭武は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の十八男として生まれた。<br />慶応2年(1866年)*徳川御三卿(ごさんきょう)の一つ、清水家を継いだ。<br />翌年、徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。引き続きフランスで留学生活を送るが、明治維新のため急遽帰国し、最後の水戸藩主となる。<br />明治9年にはアメリカ大博覧会御用掛として渡米し、再びフランスに留学した。<br />明治14年に帰国、以後長年にわたり明治天皇に奉仕する。<br />晩年は茨城県で植林事業を行った。<br /><br />*御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門(親藩)である。以下の3家が該当する。 <br />田安徳川家(田安家) - 家祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の三男)、 <br />一橋徳川家(一橋家) - 家祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)、<br />清水徳川家(清水家) - 家祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男) 、<br /><br />各家は江戸幕府より10万石の賄料を与えられ、将軍の親族として御三家(水戸藩、尾張藩、和歌山藩)に準じる高い格式を有したが、一般の大名と異なり独立した藩を形成することはなく、実質的には将軍の庶子やその子女を、適当な養家となる大名家が現れるまで待機させておく「将軍家の部屋住み」として扱われたと云う。<br /><br />参考写真は徳川昭武(とくがわあきたけ)・・・国立国会図書館の「近代日本人の肖像」

    【徳川昭武(とくがわあきたけ)の概要】
    国立国会図書館の「近代日本人の肖像」
    嘉永6年9月24日 ~ 明治43年7月3日(1853年10月26日 ~ 1910年7月3日)

    徳川昭武は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の十八男として生まれた。
    慶応2年(1866年)*徳川御三卿(ごさんきょう)の一つ、清水家を継いだ。
    翌年、徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。引き続きフランスで留学生活を送るが、明治維新のため急遽帰国し、最後の水戸藩主となる。
    明治9年にはアメリカ大博覧会御用掛として渡米し、再びフランスに留学した。
    明治14年に帰国、以後長年にわたり明治天皇に奉仕する。
    晩年は茨城県で植林事業を行った。

    *御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門(親藩)である。以下の3家が該当する。
    田安徳川家(田安家) - 家祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の三男)、
    一橋徳川家(一橋家) - 家祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)、
    清水徳川家(清水家) - 家祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男) 、

    各家は江戸幕府より10万石の賄料を与えられ、将軍の親族として御三家(水戸藩、尾張藩、和歌山藩)に準じる高い格式を有したが、一般の大名と異なり独立した藩を形成することはなく、実質的には将軍の庶子やその子女を、適当な養家となる大名家が現れるまで待機させておく「将軍家の部屋住み」として扱われたと云う。

    参考写真は徳川昭武(とくがわあきたけ)・・・国立国会図書館の「近代日本人の肖像」

  • 1867年(満28歳、慶應3年1月3日)、水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎は徳川昭武渡欧に随行した。<br />その行程は京都発、神戸より幕府軍艦、長鯨丸に乗船、1月9日、横浜着。<br />2月15日、フランス、メッサリーアンペリアル社の飛脚船で横浜発、香港から大型船、スエズから鉄道、アレキサンドリアから船で、 慶應3年2月29日、マルセイユ着。<br />4月5日、当地の写真場で写真を撮る。<br />昭武に向って右隣、小姓頭取菊池平八郎として太刀を捧げ、大小を帯刀、髷、和装姿である。<br /><br />参考写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:徳川昭武と水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎(渡欧に随行)

    1867年(満28歳、慶應3年1月3日)、水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎は徳川昭武渡欧に随行した。
    その行程は京都発、神戸より幕府軍艦、長鯨丸に乗船、1月9日、横浜着。
    2月15日、フランス、メッサリーアンペリアル社の飛脚船で横浜発、香港から大型船、スエズから鉄道、アレキサンドリアから船で、 慶應3年2月29日、マルセイユ着。
    4月5日、当地の写真場で写真を撮る。
    昭武に向って右隣、小姓頭取菊池平八郎として太刀を捧げ、大小を帯刀、髷、和装姿である。

    参考写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:徳川昭武と水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎(渡欧に随行)

  • 【訪欧使節団・パリ万博訪問】<br /><br />徳川昭武が日本の代表として参加した1867年パリ万国博覧会は、日本の国際デビューのきっかけとなった。昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら万博経験者は、明治維新後の近代日本を牽引する役割を果たした。<br /><br />慶応3年1月(1867年2月)に使節団28名を率いて約50日をかけて渡仏した。<br />使節団の責任者(全権公使)として若年寄格・勘定奉行格・外国奉行の向山一履 (むこうやまかずふみ)を派遣。条約国を歴訪した。<br /><br />使節団随行員には昭武の水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎ら水戸藩士6人が含まれ、先の横浜鎖港談判使節団で渡欧経験がある田辺太一(公使館書記官)や杉浦譲(すぎうら ゆずる)を始め、保科俊太郎や栗本鋤雲 (くりもと じょうん)がいた。会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲(たかまつ りょううん:適塾、将軍家お抱え医師)、通訳に山内堤雲(やまのうちていうん)、翻訳者として箕作麟祥(みつくり りんしょう )、さらに会津藩の海老名季昌(えびなすえまさ:会津藩家老)・横山常守(よこやまつねもり:会津戦争の際、白河口副総督として戦死。享年22歳)や播磨山崎藩の木村宗三(砲兵差図役頭取勤務方)も同行した。<br /><br />到着後の昭武はナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問した。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪した。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。<br />以後はパリにて留学生活を送った。この頃の昭武は日記をつけており、『徳川昭武幕末滞欧日記』に採録されている。<br /><br />参考写真はパリ万博後:ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武ほか(1867年)

    【訪欧使節団・パリ万博訪問】

    徳川昭武が日本の代表として参加した1867年パリ万国博覧会は、日本の国際デビューのきっかけとなった。昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら万博経験者は、明治維新後の近代日本を牽引する役割を果たした。

    慶応3年1月(1867年2月)に使節団28名を率いて約50日をかけて渡仏した。
    使節団の責任者(全権公使)として若年寄格・勘定奉行格・外国奉行の向山一履 (むこうやまかずふみ)を派遣。条約国を歴訪した。

    使節団随行員には昭武の水戸徳川家小姓頭取菊池平八郎ら水戸藩士6人が含まれ、先の横浜鎖港談判使節団で渡欧経験がある田辺太一(公使館書記官)や杉浦譲(すぎうら ゆずる)を始め、保科俊太郎や栗本鋤雲 (くりもと じょうん)がいた。会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲(たかまつ りょううん:適塾、将軍家お抱え医師)、通訳に山内堤雲(やまのうちていうん)、翻訳者として箕作麟祥(みつくり りんしょう )、さらに会津藩の海老名季昌(えびなすえまさ:会津藩家老)・横山常守(よこやまつねもり:会津戦争の際、白河口副総督として戦死。享年22歳)や播磨山崎藩の木村宗三(砲兵差図役頭取勤務方)も同行した。

    到着後の昭武はナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問した。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪した。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。
    以後はパリにて留学生活を送った。この頃の昭武は日記をつけており、『徳川昭武幕末滞欧日記』に採録されている。

    参考写真はパリ万博後:ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武ほか(1867年)

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」 

    イチオシ

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」 

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」〈右隻〉・・・『源氏物語』の第17帖「絵合」の巻、第2章第4段の描写を描いた屏風である。<br />主人公の光源氏の養女・梅壺の女御の御前で、左方(梅壺側。光源氏方。)と右方(弘徽殿の女御側。権中納言方。)が、それぞれに絵巻物を見せ合い、優劣を決める場面である。<br /><br />本作品は、高さ160センチメートル、幅347.5センチメートルで、飾り金具には三葉葵があらわされている。六曲一双のうちの右隻で、左隻には同じく源氏物語の「胡蝶」の場面が描かれている。<br />裏面は、浜千鳥を描いた金屏風となっている。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」〈右隻〉・・・『源氏物語』の第17帖「絵合」の巻、第2章第4段の描写を描いた屏風である。
    主人公の光源氏の養女・梅壺の女御の御前で、左方(梅壺側。光源氏方。)と右方(弘徽殿の女御側。権中納言方。)が、それぞれに絵巻物を見せ合い、優劣を決める場面である。

    本作品は、高さ160センチメートル、幅347.5センチメートルで、飾り金具には三葉葵があらわされている。六曲一双のうちの右隻で、左隻には同じく源氏物語の「胡蝶」の場面が描かれている。
    裏面は、浜千鳥を描いた金屏風となっている。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「胡蝶」〈左隻〉・・・『源氏物語』の第24帖「胡蝶」の巻、第1章第1段の描写を描いた屏風である。<br />主人公の光源氏が自邸で催した管弦の宴の一幕で、唐風(中国風)の船を造らせて女房(高貴な人に仕えている女性)たちを乗せ、敷地内の池を漕ぎまわらせている場面である。<br />唐風の船が色彩鮮やかに描かれ、花浅黄色の装束が目を引く漕ぎ手やそれぞれに華やかな女房装束を身につけた女性達が乗っている。<br />季節は春で、強い色味のマツや苔のほか、前景にフジ、中景にサクラ、ヤマブキ、ツツジ、ヤナギの若芽などが丹念に描きこまれている。<br />金を使って春霞を表現し、空間の奥行を感じさせる描写が秀逸である。<br />署名と印から作者は板谷桂意廣長(1760-1814)で、幕府の奥絵師であった板谷家の2代目である。板谷家は大和絵の画派・土佐派の流れをくむ住吉家の分家で、天明2年(1782)に創立された家である。<br /><br />本作品は、高さ160センチメートル、幅347.5センチメートルで、飾り金具には三葉葵があらわされている。六曲一双のうちの左隻で、右隻には同じく源氏物語の「絵合」の場面が描かれている。<br />裏面は、浜千鳥を描いた金屏風となっている。<br />

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「胡蝶」〈左隻〉・・・『源氏物語』の第24帖「胡蝶」の巻、第1章第1段の描写を描いた屏風である。
    主人公の光源氏が自邸で催した管弦の宴の一幕で、唐風(中国風)の船を造らせて女房(高貴な人に仕えている女性)たちを乗せ、敷地内の池を漕ぎまわらせている場面である。
    唐風の船が色彩鮮やかに描かれ、花浅黄色の装束が目を引く漕ぎ手やそれぞれに華やかな女房装束を身につけた女性達が乗っている。
    季節は春で、強い色味のマツや苔のほか、前景にフジ、中景にサクラ、ヤマブキ、ツツジ、ヤナギの若芽などが丹念に描きこまれている。
    金を使って春霞を表現し、空間の奥行を感じさせる描写が秀逸である。
    署名と印から作者は板谷桂意廣長(1760-1814)で、幕府の奥絵師であった板谷家の2代目である。板谷家は大和絵の画派・土佐派の流れをくむ住吉家の分家で、天明2年(1782)に創立された家である。

    本作品は、高さ160センチメートル、幅347.5センチメートルで、飾り金具には三葉葵があらわされている。六曲一双のうちの左隻で、右隻には同じく源氏物語の「絵合」の場面が描かれている。
    裏面は、浜千鳥を描いた金屏風となっている。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」の説明

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「絵合」の説明

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「胡蝶」の説明

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:源氏物語図屏風「胡蝶」の説明

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:起き上がり人形など

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:起き上がり人形など

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:昭武作の節分盃(せつぶんはい)・・・明治29年(1896年)、表は「鬼」、裏は「おかめ」なのだそうだ。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:昭武作の節分盃(せつぶんはい)・・・明治29年(1896年)、表は「鬼」、裏は「おかめ」なのだそうだ。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:昭武の子供たちが親しんだであろう雛飾り、洋人形などの展示。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:昭武の子供たちが親しんだであろう雛飾り、洋人形などの展示。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:立派な雛人形セットの展示。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:立派な雛人形セットの展示。

  • 参考写真は最後の将軍・徳川慶喜・・・徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は説明するまでもないが、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。<br /><br />天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の王女・登美宮吉子女王。<br />御三卿の一橋家相続後、将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた。<br />さらに徳川宗家を相続し将軍職に就任し、歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。<br />慶応3年(1867年)に大政奉還を行った。<br />明治43年(1910年)に七男の慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に薨去。

    参考写真は最後の将軍・徳川慶喜・・・徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は説明するまでもないが、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。

    天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の王女・登美宮吉子女王。
    御三卿の一橋家相続後、将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた。
    さらに徳川宗家を相続し将軍職に就任し、歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。
    慶応3年(1867年)に大政奉還を行った。
    明治43年(1910年)に七男の慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に薨去。

  • 参考写真は徳川慶喜の長女鏡子(きょうこ、1873~93年)・・・田安徳川家第9代当主・徳川達孝(さとたか)に嫁いだ。4女をもうけたが、1893年9月29日に享年21で病死した。

    参考写真は徳川慶喜の長女鏡子(きょうこ、1873~93年)・・・田安徳川家第9代当主・徳川達孝(さとたか)に嫁いだ。4女をもうけたが、1893年9月29日に享年21で病死した。

  • 御三卿の田安徳川家第9代当主徳川達孝(さとたか)と鏡子夫人との間の長女として生まれる。徳川須美子は旧新発田藩第13代藩主・伯爵 溝口 直亮(みぞぐち なおよし)に嫁した。<br /><br />参考写真は徳川(溝口)須美子(1913年)<br /> 

    御三卿の田安徳川家第9代当主徳川達孝(さとたか)と鏡子夫人との間の長女として生まれる。徳川須美子は旧新発田藩第13代藩主・伯爵 溝口 直亮(みぞぐち なおよし)に嫁した。

    参考写真は徳川(溝口)須美子(1913年)
     

  • 徳川昭武は、私邸として戸定邸を建てて、松戸に移り住んだ。この戸定の地で昭武は、家族と過ごし、趣味を楽しむ生活を送った。<br />仲が良かった徳川慶喜(兄よしのぶ)、昭武の後に水戸徳川家当主となった甥の徳川篤敬(あつよし)や徳川圀順(篤敬の子くにゆき)、徳川家達(徳川宗家第16代当主いえさと)が遊びに来たり、写真師や陶芸の専門家が訪れることもあった。<br />また、皇太子・嘉仁親王(よしひといんのう:後の大正天皇)や、東久邇宮、朝香宮、北白川宮ら皇族がお立ち寄りになるなど、戸定邸は折々に大切なお客様を迎えた。<br />戸定邸では、親戚の集まりや地域の方を招いて会食などが行われることもあり、ビールや果物など心づくしの品がふるまわれ、庭園は饗応(きょうおう=おもてなし)の場として使用された。<br /><br />写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・左から徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。<br />彼女らは徳川家の旗本の娘から慶喜の側室となった母が生んだ。七女と八女は同じ側室から生まれたので、顔が似ている。

    イチオシ

    徳川昭武は、私邸として戸定邸を建てて、松戸に移り住んだ。この戸定の地で昭武は、家族と過ごし、趣味を楽しむ生活を送った。
    仲が良かった徳川慶喜(兄よしのぶ)、昭武の後に水戸徳川家当主となった甥の徳川篤敬(あつよし)や徳川圀順(篤敬の子くにゆき)、徳川家達(徳川宗家第16代当主いえさと)が遊びに来たり、写真師や陶芸の専門家が訪れることもあった。
    また、皇太子・嘉仁親王(よしひといんのう:後の大正天皇)や、東久邇宮、朝香宮、北白川宮ら皇族がお立ち寄りになるなど、戸定邸は折々に大切なお客様を迎えた。
    戸定邸では、親戚の集まりや地域の方を招いて会食などが行われることもあり、ビールや果物など心づくしの品がふるまわれ、庭園は饗応(きょうおう=おもてなし)の場として使用された。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・左から徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。
    彼女らは徳川家の旗本の娘から慶喜の側室となった母が生んだ。七女と八女は同じ側室から生まれたので、顔が似ている。

  • 参考写真は写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・大河内國子・松平浪子・徳川鐵子(1909年) <br /><br />徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、<br />慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、<br />慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。

    参考写真は写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たち・・・大河内國子・松平浪子・徳川鐵子(1909年) 

    徳川家第15代将軍・公爵徳川慶喜(よしのぶ)の三女:徳川鉄子(一橋家第11代・伯爵 徳川達道とくがわ さとみちの妻)、
    慶喜の八女:徳川國子(旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕おおこうち きこうの妻)、
    慶喜の七女:徳川浪子(旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉まつだいら ひとしの妻)。

  • 参考写真は徳川慶喜の三女鐵子(1875~1921年)、一橋家第11代・伯爵 徳川達道(とくがわ さとみち)に嫁した。

    参考写真は徳川慶喜の三女鐵子(1875~1921年)、一橋家第11代・伯爵 徳川達道(とくがわ さとみち)に嫁した。

  • 参考写真は徳川慶喜の七女浪子(1880~1954年)、旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉(まつだいら ひとし)に嫁した。

    参考写真は徳川慶喜の七女浪子(1880~1954年)、旧津山藩主10万石・分家・男爵 松平 斉(まつだいら ひとし)に嫁した。

  • 参考写真は徳川慶喜の八女國子(1880~1954年)、旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕(おおこうち きこう)に嫁した。

    参考写真は徳川慶喜の八女國子(1880~1954年)、旧高崎藩主8万石・子爵 大河内輝耕(おおこうち きこう)に嫁した。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちの説明

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちの説明

  • 昭武は写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお以下のような多くの写真が残されている。<br /><br />参考写真は昭武撮影:古ケ崎の農家(1906年)

    イチオシ

    昭武は写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお以下のような多くの写真が残されている。

    参考写真は昭武撮影:古ケ崎の農家(1906年)

  • 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の弟で、水戸藩第11代藩主であった徳川昭武は32歳の時に隠居し、家督を甥の篤敬(あつよし)に譲り、明治17年(1884年)に戸定邸に生母秋庭と共に移り住んだ。<br />狩猟、釣り、陶芸など様々な趣味を楽しむ中、写真にも熱中した。写真がまだ珍しく高価だった時代、昭武は、自身の家族だけでなく、江戸川流域の身近な自然、郊外の農村風景など、多くの枚数を費やして生活の一幕を撮影した。<br /><br />参考写真は昭武撮影:初猟の獲物(1906年)

    江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の弟で、水戸藩第11代藩主であった徳川昭武は32歳の時に隠居し、家督を甥の篤敬(あつよし)に譲り、明治17年(1884年)に戸定邸に生母秋庭と共に移り住んだ。
    狩猟、釣り、陶芸など様々な趣味を楽しむ中、写真にも熱中した。写真がまだ珍しく高価だった時代、昭武は、自身の家族だけでなく、江戸川流域の身近な自然、郊外の農村風景など、多くの枚数を費やして生活の一幕を撮影した。

    参考写真は昭武撮影:初猟の獲物(1906年)

  • 昭武の撮影対象は、家族や親戚、友人といった身近な相手から、戸定邸に勤める職員、地域の農家や漁師、子どもたちなど、当時の松戸に暮らしていた人たちにもたびたびレンズを向け、彼らの心情まで汲み取れるような写真を残した。<br />人物のほかにも、風景、地域の行事、植物など、興味深く関心を持った対象を、広く、撮り続けた様子が伺われる。<br /><br />参考写真は昭武撮影:松戸市小金本土寺の仁王門 (1907年)・・・<br />本土寺<br />〒270-0002 千葉県松戸市平賀63、最寄り駅はJR北小金駅。<br /><br />建治3年(1277年)豪族平賀忠晴の屋敷内に日蓮上人の高弟日朗を導師として開堂したのが発祥、下総国の日蓮宗の中心寺院の一つで、同じく日朗の開創した鎌倉妙本寺、池上本門寺と共に「郎門の三長三本」と称された屈指の名刹です。<br />日蓮直筆の書状類をはじめ貴重な中世史料を数多く所蔵することでも知られています。近年境内整備が進み、5万本のあじさい・5千本の花菖蒲でも有名で「あじさい寺」「紅葉の寺」としても親しまれている。

    昭武の撮影対象は、家族や親戚、友人といった身近な相手から、戸定邸に勤める職員、地域の農家や漁師、子どもたちなど、当時の松戸に暮らしていた人たちにもたびたびレンズを向け、彼らの心情まで汲み取れるような写真を残した。
    人物のほかにも、風景、地域の行事、植物など、興味深く関心を持った対象を、広く、撮り続けた様子が伺われる。

    参考写真は昭武撮影:松戸市小金本土寺の仁王門 (1907年)・・・
    本土寺
    〒270-0002 千葉県松戸市平賀63、最寄り駅はJR北小金駅。

    建治3年(1277年)豪族平賀忠晴の屋敷内に日蓮上人の高弟日朗を導師として開堂したのが発祥、下総国の日蓮宗の中心寺院の一つで、同じく日朗の開創した鎌倉妙本寺、池上本門寺と共に「郎門の三長三本」と称された屈指の名刹です。
    日蓮直筆の書状類をはじめ貴重な中世史料を数多く所蔵することでも知られています。近年境内整備が進み、5万本のあじさい・5千本の花菖蒲でも有名で「あじさい寺」「紅葉の寺」としても親しまれている。

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた立派な長持ち

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた立派な長持ち

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた化粧道具箱

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた化粧道具箱

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた黒塗御紋散極箱(くろぬりごもんちらしきわめばこ)

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:三葉葵の定紋が付いた黒塗御紋散極箱(くろぬりごもんちらしきわめばこ)

  • 写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:天鵞絨(びろーど)嵐山風景図(春)は絹織物画・・・初めて見た絹織物画ですが、明治から大正時代にかけて、絹織物で絵を描くことが流行ったそうだ。

    写真は松戸市戸定(とじょう)歴史館:天鵞絨(びろーど)嵐山風景図(春)は絹織物画・・・初めて見た絹織物画ですが、明治から大正時代にかけて、絹織物で絵を描くことが流行ったそうだ。

  • 参考写真は昭武の乗馬姿:明治28年(1895年)東京高等師範附属(現筑波大附属小)

    参考写真は昭武の乗馬姿:明治28年(1895年)東京高等師範附属(現筑波大附属小)

  • 【徳川昭武 年表】<br /><br /><西暦(年齢)><br />1853年(1歳):江戸駒込の水戸藩中屋敷にて生まれる。第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の18男、慶喜の異母弟(庶子)。<br />1864年(12歳):「禁門の変」、「天狗党の乱」にて、一軍を率いて出陣。<br />1867年(15歳):徳川御三卿・清水家を相続。パリ万博開催に伴い、第15代将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣される。<br />1868年(16歳):戊辰戦争勃発。新政府の命令に従い帰国する。<br />1869年(17歳):第11代水戸藩主に就任。版籍奉還により水戸藩知事となる。北海道開拓に伴って、北海道北部5郡の統治を任される。<br />1871年(19歳):廃藩置県により免職。<br />1875年(23歳):陸軍少尉となる。伯爵・中院通豊(なかのいんみちとよ)の娘・盛子(もりこ)と結婚(明治16年(1883年)1月に長女昭子出産、産後の肥立ちが悪く、同年2月に盛子は死去した)。<br />1876年(24歳):フィラデルフィア万博の開催に伴い、アメリカへ派遣される。その後フランスへ留学。<br />1881年(29歳):ロンドンに半年間滞在ののち、帰国。<br />1884年(32歳):甥の徳川篤敬(あつよし)に家督を譲り隠居。千葉県松戸市の戸定邸(とじょうてい)に移り住む。<br />1892年(40歳):次男・武定(たけさだ:海軍士官、後に東京帝大工学部教授、海軍技術中将)が子爵となったことを機に、松戸徳川家を創設。<br />1898年(46歳):甥の篤敬が死没。その息子・圀順(くにゆき)が水戸徳川家を継いだため、後見人を務める。<br />1910年(58歳):江戸・小梅邸(水戸徳川家の江戸下屋敷だった。現・隅田公園)にて死没。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />参考写真は徳川昭武(松戸徳川家の創設)・・・1907年、大礼服姿の54歳の子爵・徳川昭武

    【徳川昭武 年表】

    <西暦(年齢)>
    1853年(1歳):江戸駒込の水戸藩中屋敷にて生まれる。第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の18男、慶喜の異母弟(庶子)。
    1864年(12歳):「禁門の変」、「天狗党の乱」にて、一軍を率いて出陣。
    1867年(15歳):徳川御三卿・清水家を相続。パリ万博開催に伴い、第15代将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパへ派遣される。
    1868年(16歳):戊辰戦争勃発。新政府の命令に従い帰国する。
    1869年(17歳):第11代水戸藩主に就任。版籍奉還により水戸藩知事となる。北海道開拓に伴って、北海道北部5郡の統治を任される。
    1871年(19歳):廃藩置県により免職。
    1875年(23歳):陸軍少尉となる。伯爵・中院通豊(なかのいんみちとよ)の娘・盛子(もりこ)と結婚(明治16年(1883年)1月に長女昭子出産、産後の肥立ちが悪く、同年2月に盛子は死去した)。
    1876年(24歳):フィラデルフィア万博の開催に伴い、アメリカへ派遣される。その後フランスへ留学。
    1881年(29歳):ロンドンに半年間滞在ののち、帰国。
    1884年(32歳):甥の徳川篤敬(あつよし)に家督を譲り隠居。千葉県松戸市の戸定邸(とじょうてい)に移り住む。
    1892年(40歳):次男・武定(たけさだ:海軍士官、後に東京帝大工学部教授、海軍技術中将)が子爵となったことを機に、松戸徳川家を創設。
    1898年(46歳):甥の篤敬が死没。その息子・圀順(くにゆき)が水戸徳川家を継いだため、後見人を務める。
    1910年(58歳):江戸・小梅邸(水戸徳川家の江戸下屋敷だった。現・隅田公園)にて死没。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    参考写真は徳川昭武(松戸徳川家の創設)・・・1907年、大礼服姿の54歳の子爵・徳川昭武

  • 参考写真は昭武の後妻・斎藤八重(1883年)・・・明治16年(1883年)2月の夫人正妻盛子の死後に後妻を迎える話もあったが、昭武が隠居の身分となったこともあり、同年8月1日に静岡県士族・斎藤貫行の娘の八重を「召抱」、10月19日に徳川家に入籍した。<br />昭武とともに八重は戸定邸に暮らし、男女6人の子をもうけた。次男の武定(たけさだ:海軍士官、後に東京帝大工学部教授、海軍技術中将)は、父昭武の功績により子爵を授けられた。

    参考写真は昭武の後妻・斎藤八重(1883年)・・・明治16年(1883年)2月の夫人正妻盛子の死後に後妻を迎える話もあったが、昭武が隠居の身分となったこともあり、同年8月1日に静岡県士族・斎藤貫行の娘の八重を「召抱」、10月19日に徳川家に入籍した。
    昭武とともに八重は戸定邸に暮らし、男女6人の子をもうけた。次男の武定(たけさだ:海軍士官、後に東京帝大工学部教授、海軍技術中将)は、父昭武の功績により子爵を授けられた。

  • 参考写真は徳川昭武と正妻・中院 盛子(なかのいん もりこ)の長女・松平昭子(1903年)・・・昭子は旧高松藩(水戸徳川家が祖)12万石の松平家に嫁ぎ、貴族院議長を務めた12代松平頼寿(よりなが)の妻になった。

    参考写真は徳川昭武と正妻・中院 盛子(なかのいん もりこ)の長女・松平昭子(1903年)・・・昭子は旧高松藩(水戸徳川家が祖)12万石の松平家に嫁ぎ、貴族院議長を務めた12代松平頼寿(よりなが)の妻になった。

  • 帰りはゆったりした女坂を下り、表階段前(男坂)にでた。<br /><br />写真は戸定(とじょう)邸と歴史館の女坂である。

    帰りはゆったりした女坂を下り、表階段前(男坂)にでた。

    写真は戸定(とじょう)邸と歴史館の女坂である。

  • 戸定(とじょう)邸と歴史館に向かう階段(女坂が右手にある)である。<br />帰りは女坂を下り、この階段前に来た。<br />満足な時間が過ごせてた事を感謝して、改めて振り返ってみた。<br /><br />写真は徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館に向かう階段。<br /><br />次はかつての松戸市・北小金の社宅に向かう。<br />1970年代の初めから半ばまで過ごした北小金社宅は、当時の社宅制度を利用させて頂いた中で、最も長い期間を過ごした所だ。<br /><br />さて、どんなふうに変わってしまったのか興味津々である。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2025年12月12日Wiki・HP参考、編集追記)

    戸定(とじょう)邸と歴史館に向かう階段(女坂が右手にある)である。
    帰りは女坂を下り、この階段前に来た。
    満足な時間が過ごせてた事を感謝して、改めて振り返ってみた。

    写真は徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館に向かう階段。

    次はかつての松戸市・北小金の社宅に向かう。
    1970年代の初めから半ばまで過ごした北小金社宅は、当時の社宅制度を利用させて頂いた中で、最も長い期間を過ごした所だ。

    さて、どんなふうに変わってしまったのか興味津々である。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2025年12月12日Wiki・HP参考、編集追記)

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