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2022年11月21日~22日に、千葉の佐原、茨城の潮来・神栖(かみす)を巡り、その旅行記を投稿したが、これを千葉と茨城に分離し、2つの旅行記として投稿しなおした。<br />千葉については今年の12月21日にまた訪れたので、22年に24年の分を重ねて一つにした。<br /><br />・・・・・<br /><br />【利根川を越えて、東国三社に数える神栖(かみす)の息栖(いきす)神社に初めて参詣した。】<br /><br />神栖の息栖(いきす)神社も、先の佐原の荘厳寺(しょうごんじ)も最初は全く読めない字だった。息栖神社で出会った女子大生の2名にこの名は読めないと言ったら、ほんとにそうですねと、同意された。<br />土地名や神社仏閣の名前は実に難しい。<br /><br />さて、神栖市の神栖(かみす)は神之池(ごうのいけ)の「神」と息栖神社の「栖」から神栖となったそうだ。<br /><br />かつては広大な面積をもった池・「神之池(ごうのいけ)」は、約1,400~1,200年前に海面が下降して周辺砂丘の造成や土砂の堆積によって独立して出来たものだと云う。<br /><br />古くは周囲2里余(約8km)、面積292町歩余(約289ha)のおむすび型に近い円形の広大な淡水池があったものだが、日本列島は何処も同じで、鹿島地区の開発のため、現在は一部を残して大部分が埋め立てられてしまった。<br /><br />写真は神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)の看板:Map

利根川を越えて、東国三社に数える神栖(かみす)の息栖(いきす)神社を初めて参詣した。

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2022/11/22 - 2022/11/22

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旅行記グループ 日本の小旅行2

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28

jijidaruma

jijidarumaさん

2022年11月21日~22日に、千葉の佐原、茨城の潮来・神栖(かみす)を巡り、その旅行記を投稿したが、これを千葉と茨城に分離し、2つの旅行記として投稿しなおした。
千葉については今年の12月21日にまた訪れたので、22年に24年の分を重ねて一つにした。

・・・・・

【利根川を越えて、東国三社に数える神栖(かみす)の息栖(いきす)神社に初めて参詣した。】

神栖の息栖(いきす)神社も、先の佐原の荘厳寺(しょうごんじ)も最初は全く読めない字だった。息栖神社で出会った女子大生の2名にこの名は読めないと言ったら、ほんとにそうですねと、同意された。
土地名や神社仏閣の名前は実に難しい。

さて、神栖市の神栖(かみす)は神之池(ごうのいけ)の「神」と息栖神社の「栖」から神栖となったそうだ。

かつては広大な面積をもった池・「神之池(ごうのいけ)」は、約1,400~1,200年前に海面が下降して周辺砂丘の造成や土砂の堆積によって独立して出来たものだと云う。

古くは周囲2里余(約8km)、面積292町歩余(約289ha)のおむすび型に近い円形の広大な淡水池があったものだが、日本列島は何処も同じで、鹿島地区の開発のため、現在は一部を残して大部分が埋め立てられてしまった。

写真は神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)の看板:Map

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 【鹿島・香取とともに東国三社に数えられる息栖(いきす)神社に参詣した】<br />〒314-0133 茨城県神栖市息栖2882<br />Tel:0299-92-2300<br /><br /><祭神><br />主祭神は久那斗神 (くなどのかみ、岐神)<br />社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。<br /><br />相殿神には<br />天乃鳥船神 (あめのとりふねのかみ)<br />『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。<br /><br />住吉三神 (すみよしさんしん)<br />上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。<br /><br /><概略史><br />社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたと云う。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝わる。<br /><br />写真は神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)の看板:Map

    イチオシ

    【鹿島・香取とともに東国三社に数えられる息栖(いきす)神社に参詣した】
    〒314-0133 茨城県神栖市息栖2882
    Tel:0299-92-2300

    <祭神>
    主祭神は久那斗神 (くなどのかみ、岐神)
    社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。

    相殿神には
    天乃鳥船神 (あめのとりふねのかみ)
    『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。

    住吉三神 (すみよしさんしん)
    上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。

    <概略史>
    社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたと云う。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝わる。

    写真は神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)の看板:Map

  • 参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。<br />明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。<br />明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:二の鳥居・・・右手に広い駐車場がある。

    参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。
    明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。
    明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した。

    ・・・・・

    写真は息栖(いきす)神社:二の鳥居・・・右手に広い駐車場がある。

    息栖神社 寺・神社・教会

    イキスと読めなかった、東国三社に数えられる神栖の息栖神社に参詣した。 by jijidarumaさん
  • 息栖神社は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに【東国三社(とうごくさんじゃ)】と呼ばれている。<br />息栖神社の事を語る文章に、東国三社のうち他の二社に比べてより穏やかな趣がある神社が息栖神社だと云う。<br /><br />つまり、鹿島(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)と香取(経津主神フツヌシ)に祭られる二神が、武神(軍神)であり、その神剣であるのに対して、息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)は、武神の乗り物であった「天鳥舟(アメノトリフネ)」という神が祭られているからだとか!?<br /><br />参考写真は鹿島神社、神栖神社、香取神社の東国三社の位置

    息栖神社は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに【東国三社(とうごくさんじゃ)】と呼ばれている。
    息栖神社の事を語る文章に、東国三社のうち他の二社に比べてより穏やかな趣がある神社が息栖神社だと云う。

    つまり、鹿島(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)と香取(経津主神フツヌシ)に祭られる二神が、武神(軍神)であり、その神剣であるのに対して、息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)は、武神の乗り物であった「天鳥舟(アメノトリフネ)」という神が祭られているからだとか!?

    参考写真は鹿島神社、神栖神社、香取神社の東国三社の位置

  • 平安時代に「神宮(じんぐう)」の称号で呼ばれていたのは、<br />『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう:当時の官社の一覧表)』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけだった。<br /><br />鹿島と香取の両神宮が、日本の国でも別格の位置にあった事に比較し、<br />息栖神社は古くは「於岐都説神(おきつせのかみ」と記され、1321年の古文書では「おきすのやしろ」と記されたと云う。この「おきつせ・おきす => 沖洲」という古称から、香取海(かとりのうみ:古代の関東平野東部に広がっていた内海で、現在は霞ヶ浦や印旛沼などに名残を留めている)に浮かぶ沖洲(おきす)に祀られた神であると考えられている。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:説明版

    平安時代に「神宮(じんぐう)」の称号で呼ばれていたのは、
    『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう:当時の官社の一覧表)』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけだった。

    鹿島と香取の両神宮が、日本の国でも別格の位置にあった事に比較し、
    息栖神社は古くは「於岐都説神(おきつせのかみ」と記され、1321年の古文書では「おきすのやしろ」と記されたと云う。この「おきつせ・おきす => 沖洲」という古称から、香取海(かとりのうみ:古代の関東平野東部に広がっていた内海で、現在は霞ヶ浦や印旛沼などに名残を留めている)に浮かぶ沖洲(おきす)に祀られた神であると考えられている。

    写真は息栖(いきす)神社:説明版

  • 息栖神社が東国三社(とうごくさんじゃ)の一つと呼ばれている事については、私は今まで全く知らずにいた。<br />もちろん、東国三社の意味も。<br /><br />息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)・鹿島神宮(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)・香取神宮(経津主神フツヌシ)の三社は、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい=国譲り)の際に地上に遣わされたとされる神様をそれぞれ祀っていて、東国三社は互いに関係深く、2000年以上の歴史を持つ聖地である。<br /><br />そして「東国三社巡り」の言葉があるが、<br />江戸時代に「お伊勢参りの禊ぎ(みそぎ)の三社参り」と呼ばれ、信仰を集めた旅になっていた。<br />とりわけ、関東以北の人は伊勢神宮に参宮(さんぐう)したのち、「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したと云う。<br /><br />写真は茨城県神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)パンフレッ:案内図<br />

    息栖神社が東国三社(とうごくさんじゃ)の一つと呼ばれている事については、私は今まで全く知らずにいた。
    もちろん、東国三社の意味も。

    息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)・鹿島神宮(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)・香取神宮(経津主神フツヌシ)の三社は、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい=国譲り)の際に地上に遣わされたとされる神様をそれぞれ祀っていて、東国三社は互いに関係深く、2000年以上の歴史を持つ聖地である。

    そして「東国三社巡り」の言葉があるが、
    江戸時代に「お伊勢参りの禊ぎ(みそぎ)の三社参り」と呼ばれ、信仰を集めた旅になっていた。
    とりわけ、関東以北の人は伊勢神宮に参宮(さんぐう)したのち、「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したと云う。

    写真は茨城県神栖市・息栖神社(いきすじんじゃ)パンフレッ:案内図

  • 息栖神社(いきすじんじゃ)の祭神は、久那斗神=岐神(くなどのかみ:疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神)と天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ:水上交通の神、土地の守り神)だったから、より身近な神だったのだろう。<br /><br />まず向かったのは駐車場傍の二の鳥居である。駐車場が左右にあるが、右手の広い場所に停めた。<br />一の鳥居は下手の常陸利根川の傍にある。<br />順序が逆となったが、本殿を拝見してから一の鳥居に向かった。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

    息栖神社(いきすじんじゃ)の祭神は、久那斗神=岐神(くなどのかみ:疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神)と天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ:水上交通の神、土地の守り神)だったから、より身近な神だったのだろう。

    まず向かったのは駐車場傍の二の鳥居である。駐車場が左右にあるが、右手の広い場所に停めた。
    一の鳥居は下手の常陸利根川の傍にある。
    順序が逆となったが、本殿を拝見してから一の鳥居に向かった。

    写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

  • ご先祖様が青梅の千ヶ瀬神社に石灯籠を奉納した話を知って以来、石灯籠が気になってよく見る。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

    ご先祖様が青梅の千ヶ瀬神社に石灯籠を奉納した話を知って以来、石灯籠が気になってよく見る。

    写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

  • 写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

    写真は息栖(いきす)神社:様々な石灯籠

  • 神門は弘化4年(1847年)の造営時のもので、焼失を免れている。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:神門

    イチオシ

    神門は弘化4年(1847年)の造営時のもので、焼失を免れている。

    写真は息栖(いきす)神社:神門

  • 芭蕉句碑の隣に祭礼の際に若者たちが力比べをしたと伝えられる「力石」がある。<br />東庄町・神話時代に創建と伝わる東大社(とうだいしゃ)、東庄町・笹川繁蔵の奉納相撲が行われた諏訪神社にもこうした「力石」があったのを思い出した。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:力石<br /><br />

    芭蕉句碑の隣に祭礼の際に若者たちが力比べをしたと伝えられる「力石」がある。
    東庄町・神話時代に創建と伝わる東大社(とうだいしゃ)、東庄町・笹川繁蔵の奉納相撲が行われた諏訪神社にもこうした「力石」があったのを思い出した。

    写真は息栖(いきす)神社:力石

  • 俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは貞享4年(1687年)8月14日、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで鹿島の月を眺めるためでした。<br /><br />この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来の古刹長勝寺(ちょうしょうじ)と水郷地方を周遊した彼は、息栖地方にも足をのばした。<br /><br />芭蕉句碑<br />「この里は 気吹戸主(きぶきとぬし)の 風寒し」<br /><br />黄泉(よみ:あの世)の国から戻られたイザナギノカミが禊をした時、生成されたご祭神・久那斗神にあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も清められて、迷いも曇りも、なんのわだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜け、寒いくらいであるといった意味(立て札の説明:芭蕉は常識として知っていたが、今の人には日本神話を知らないと分からない)。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:松尾芭蕉の句碑<br /><br /><br /><br />

    俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは貞享4年(1687年)8月14日、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで鹿島の月を眺めるためでした。

    この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来の古刹長勝寺(ちょうしょうじ)と水郷地方を周遊した彼は、息栖地方にも足をのばした。

    芭蕉句碑
    「この里は 気吹戸主(きぶきとぬし)の 風寒し」

    黄泉(よみ:あの世)の国から戻られたイザナギノカミが禊をした時、生成されたご祭神・久那斗神にあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も清められて、迷いも曇りも、なんのわだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜け、寒いくらいであるといった意味(立て札の説明:芭蕉は常識として知っていたが、今の人には日本神話を知らないと分からない)。

    写真は息栖(いきす)神社:松尾芭蕉の句碑



  • 社殿は戦後の昭和35年(1960年)に火災で焼失した。焼失した社殿は享保7年(1722年)造営で、華麗なものであったという。<br />現在の社殿は、3年後の昭和38年(1963年)に再建されたものである。<br />鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿からなる。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:社殿前で

    社殿は戦後の昭和35年(1960年)に火災で焼失した。焼失した社殿は享保7年(1722年)造営で、華麗なものであったという。
    現在の社殿は、3年後の昭和38年(1963年)に再建されたものである。
    鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿からなる。

    写真は息栖(いきす)神社:社殿前で

  • 写真は息栖(いきす)神社:拝殿内部

    写真は息栖(いきす)神社:拝殿内部

  • 写真は息栖(いきす)神社:御神木は樹齢およそ1000年の夫婦杉。途中から幹が分かれ、寄り添うようにそびえ立つ巨木です。

    写真は息栖(いきす)神社:御神木は樹齢およそ1000年の夫婦杉。途中から幹が分かれ、寄り添うようにそびえ立つ巨木です。

  • 写真は息栖(いきす)神社:息栖ゆかりの歌碑の説明版<br /><br />海原や 沖つ潮合に 立浪の 鎮めがたきは 心なりけり<br />理然法師(息栖神宮寺僧)<br /><br />鹿島潟 沖洲の森の ほととぎす 船をとめてぞ 初音ききつる<br />藤原時朝(ふじわら ときとも)<br /><br />われのみと待ちつる暮をほととぎすまたたか為に鳴てすくらん<br />諦如法師<br /><br />里とをき山のすそののほととぎすたか為になく初音成らむ<br />稱佛法師<br /><br />

    写真は息栖(いきす)神社:息栖ゆかりの歌碑の説明版

    海原や 沖つ潮合に 立浪の 鎮めがたきは 心なりけり
    理然法師(息栖神宮寺僧)

    鹿島潟 沖洲の森の ほととぎす 船をとめてぞ 初音ききつる
    藤原時朝(ふじわら ときとも)

    われのみと待ちつる暮をほととぎすまたたか為に鳴てすくらん
    諦如法師

    里とをき山のすそののほととぎすたか為になく初音成らむ
    稱佛法師

  • 写真は息栖(いきす)神社:息栖ゆかりの歌碑

    写真は息栖(いきす)神社:息栖ゆかりの歌碑

  • 写真は息栖(いきす)神社:中央は*梛木(なぎ・椥)。<br /><br />*梛木の木はマキ科マキ属に含まれる常緑高木で高さ20mにも達するほど生長する。古来より縁起の良い植物とされていて、葉がつやつやして丈夫(=切れない)であることから「縁結びの木」とされている。<br />

    写真は息栖(いきす)神社:中央は*梛木(なぎ・椥)。

    *梛木の木はマキ科マキ属に含まれる常緑高木で高さ20mにも達するほど生長する。古来より縁起の良い植物とされていて、葉がつやつやして丈夫(=切れない)であることから「縁結びの木」とされている。

  • 写真は息栖(いきす)神社:季節柄、菊花展も<br /><br />

    写真は息栖(いきす)神社:季節柄、菊花展も

  • 息栖神社(いきすじんじゃ)に「二の鳥居」から、そのまま常陸利根川の方に歩いていくと、そこには日本三霊泉の「忍潮井(おしおい)」がある。<br /><br />大きな「一の鳥居」があり、船着場がありました。<br />その先の水門の堤に立つと、常陸利根川(ひたちとねがわ)が眼下に流れている。<br /><br />本来は「一の鳥居」から参拝がはじまるのだが、私共は「二の鳥居」からスタートした。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:季節柄、菊花展も

    息栖神社(いきすじんじゃ)に「二の鳥居」から、そのまま常陸利根川の方に歩いていくと、そこには日本三霊泉の「忍潮井(おしおい)」がある。

    大きな「一の鳥居」があり、船着場がありました。
    その先の水門の堤に立つと、常陸利根川(ひたちとねがわ)が眼下に流れている。

    本来は「一の鳥居」から参拝がはじまるのだが、私共は「二の鳥居」からスタートした。

    写真は息栖(いきす)神社:季節柄、菊花展も

  • 写真は息栖(いきす)神社:河岸、日本三霊泉の「忍潮井(おしおい)」の説明版<br /><br />【平成22年 神栖市教育委員会作成の看板】<br /><br /><息栖の津・渡船場跡><br />「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374年)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24、常陸国側の50の津(港)を支配した。<br />「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。<br />この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。<br /><br />江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。<br />記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854年~)には年平均4400~4500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。<br /><br /><br />

    写真は息栖(いきす)神社:河岸、日本三霊泉の「忍潮井(おしおい)」の説明版

    【平成22年 神栖市教育委員会作成の看板】

    <息栖の津・渡船場跡>
    「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374年)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24、常陸国側の50の津(港)を支配した。
    「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。
    この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。

    江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。
    記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854年~)には年平均4400~4500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。


  • 写真は息栖(いきす)神社:息栖の津・渡船場跡の説明版<br /><br />名のある文人墨客が息栖の地を踏んでいるが、芭蕉は、当時の息栖神社の主神を<br />「この里は 気吹戸主の(いぶきどぬし) 風寒し」と詠っている。<br />また「東海道膝栗毛」で有名な十返舎一九も訪れ、<br />「いつまでも 息栖の神の名にめでて 水にうききの 瓶ぞ久しき」<br />と詠っている。<br /><br />明治時代に入っても三社詣の旅は盛んであった。明治の徳冨蘆花は明治33年(1900年)に「自然と人生」を刊行した。その中「利根の秋暁」と題する随筆で、息栖河畔の柏屋に投宿し、朝がた村人が<br />「河水を掬(く)んで嗽(くちそそ)ぎ、顔を洗い、それから遥かに筑波の方を向いて、掌を合わせて拝んでいる。あ々実に好い拝殿、と自分は思った。」<br />と清流が流れる当時の息栖河岸を描いている。<br /><br />さらに明治期からは日用雑貨品の購入、また 莚や干鰯等出荷等で、対岸の小見川との経済交流がますます盛んになってきた。<br />明治13年(1880年)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932年)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。<br />昭和28年(1953年)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。<br />昭和48年(1973年)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。<br /><br />・・・<br /><br />

    写真は息栖(いきす)神社:息栖の津・渡船場跡の説明版

    名のある文人墨客が息栖の地を踏んでいるが、芭蕉は、当時の息栖神社の主神を
    「この里は 気吹戸主の(いぶきどぬし) 風寒し」と詠っている。
    また「東海道膝栗毛」で有名な十返舎一九も訪れ、
    「いつまでも 息栖の神の名にめでて 水にうききの 瓶ぞ久しき」
    と詠っている。

    明治時代に入っても三社詣の旅は盛んであった。明治の徳冨蘆花は明治33年(1900年)に「自然と人生」を刊行した。その中「利根の秋暁」と題する随筆で、息栖河畔の柏屋に投宿し、朝がた村人が
    「河水を掬(く)んで嗽(くちそそ)ぎ、顔を洗い、それから遥かに筑波の方を向いて、掌を合わせて拝んでいる。あ々実に好い拝殿、と自分は思った。」
    と清流が流れる当時の息栖河岸を描いている。

    さらに明治期からは日用雑貨品の購入、また 莚や干鰯等出荷等で、対岸の小見川との経済交流がますます盛んになってきた。
    明治13年(1880年)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932年)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。
    昭和28年(1953年)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。
    昭和48年(1973年)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。

    ・・・

  • 写真は息栖(いきす)神社:忍潮井(おしおい)・雌瓶(女瓶めがめ)<br /><br />利根川の支流の辺に立てられた大きな鳥居があり、その支柱の両側に井戸があって、小さな鳥居が立てられている。「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と言う名の井戸の中には魚が泳いでいる。<br /><br />この井戸は、汽水(きすい: 海水と淡水の混合による低塩分の水)の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられている。<br />海水をおしのけて清水が湧出していることからこの名前になったということです。<br />

    写真は息栖(いきす)神社:忍潮井(おしおい)・雌瓶(女瓶めがめ)

    利根川の支流の辺に立てられた大きな鳥居があり、その支柱の両側に井戸があって、小さな鳥居が立てられている。「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と言う名の井戸の中には魚が泳いでいる。

    この井戸は、汽水(きすい: 海水と淡水の混合による低塩分の水)の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられている。
    海水をおしのけて清水が湧出していることからこの名前になったということです。

  • 写真は息栖(いきす)神社:忍潮井(おしおい)・雄瓶(男瓶おがめ)<br /><br />左右の泉は小さいほうが女瓶(めがめ)、大きいのが男瓶(おがめ)と呼ばれる瓶が据えられていて、その中から湧き出している。<br />男瓶は銚子の形をしていて、女瓶は土器の形をしているそうだ。<br />その瓶は水の澄んだ日にしか姿を現さず、その姿が見られると幸運が舞い込んでくるといわれている。<br /><br />忍潮井(おしおい)のある河岸は息栖河岸と呼ばれ、利根川の舟運上、物資の輸送に役立っただけでなく、参詣者や旅行者にも大いに利用されました。<br /><br />息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変な賑わいをみせた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶船」(きおろしちゃぶね)と呼ばれた乗合船・遊覧船でした。<br />木下河岸 (きおろしがし)から船出する船は、江戸中期には一日平均12艘、年間1万7千人余りが利用したと云う。<br />

    写真は息栖(いきす)神社:忍潮井(おしおい)・雄瓶(男瓶おがめ)

    左右の泉は小さいほうが女瓶(めがめ)、大きいのが男瓶(おがめ)と呼ばれる瓶が据えられていて、その中から湧き出している。
    男瓶は銚子の形をしていて、女瓶は土器の形をしているそうだ。
    その瓶は水の澄んだ日にしか姿を現さず、その姿が見られると幸運が舞い込んでくるといわれている。

    忍潮井(おしおい)のある河岸は息栖河岸と呼ばれ、利根川の舟運上、物資の輸送に役立っただけでなく、参詣者や旅行者にも大いに利用されました。

    息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変な賑わいをみせた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶船」(きおろしちゃぶね)と呼ばれた乗合船・遊覧船でした。
    木下河岸 (きおろしがし)から船出する船は、江戸中期には一日平均12艘、年間1万7千人余りが利用したと云う。

  • 写真は息栖(いきす)神社:一の鳥居、息栖の津・渡船場跡・・・常陸利根川側から見る。<br /><br />

    イチオシ

    写真は息栖(いきす)神社:一の鳥居、息栖の津・渡船場跡・・・常陸利根川側から見る。

  • *木下河岸 (きおろしがし)は千葉県印西市木下にあり、江戸時代「利根川水郷」の宿場町として栄えた所である。利根川南岸にあり、下総台地上に広がる。中世はこの地に印西荘があり,近世には木下河岸が利根川水運の要衝として栄えた。木下河岸は銚子往還の中継所で銚子とは船で連絡し、江戸とは陸路で結ばれた。<br /><br />かつて、この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変な賑わいをみせたそうだが、この大名屋敷の様な建物を見ると、この地の繁栄の名残りを見た思いがした。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:大名屋敷の様な、びっくりした大きな屋敷の門構え。

    *木下河岸 (きおろしがし)は千葉県印西市木下にあり、江戸時代「利根川水郷」の宿場町として栄えた所である。利根川南岸にあり、下総台地上に広がる。中世はこの地に印西荘があり,近世には木下河岸が利根川水運の要衝として栄えた。木下河岸は銚子往還の中継所で銚子とは船で連絡し、江戸とは陸路で結ばれた。

    かつて、この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変な賑わいをみせたそうだが、この大名屋敷の様な建物を見ると、この地の繁栄の名残りを見た思いがした。

    写真は息栖(いきす)神社:大名屋敷の様な、びっくりした大きな屋敷の門構え。

  • 見るからに広大な敷地・・・常陸利根川側から忍潮井(おしおい)まで、この屋敷を一周するのも大変と思った・・・を持ち、家業なのか(有)猿田水産と言う会社の工場建物が屋敷の横にあった。<br /><br />写真は息栖(いきす)神社:大名屋敷の様な、びっくりした大きな屋敷の門構え。

    見るからに広大な敷地・・・常陸利根川側から忍潮井(おしおい)まで、この屋敷を一周するのも大変と思った・・・を持ち、家業なのか(有)猿田水産と言う会社の工場建物が屋敷の横にあった。

    写真は息栖(いきす)神社:大名屋敷の様な、びっくりした大きな屋敷の門構え。

  • 写真は息栖(いきす)神社:常陸利根川の上流方向。対岸が佐原方向である。     

    写真は息栖(いきす)神社:常陸利根川の上流方向。対岸が佐原方向である。     

  • 写真は息栖(いきす)神社:常陸利根川の下流。<br /><br />息栖大橋で常陸利根川を渡り、更に小見川大橋で利根川を越えた。<br /><br />小見川大橋を渡り、右折して、水郷利根ライン(国道356号線)を佐原の荘厳寺(しょうごんじ)に向かう。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />(2022年12月9日Wiki/Hp参考、編集・追記)<br /><br />

    写真は息栖(いきす)神社:常陸利根川の下流。

    息栖大橋で常陸利根川を渡り、更に小見川大橋で利根川を越えた。

    小見川大橋を渡り、右折して、水郷利根ライン(国道356号線)を佐原の荘厳寺(しょうごんじ)に向かう。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (2022年12月9日Wiki/Hp参考、編集・追記)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 旅猫さん 2025/01/11 06:40:40
    息栖(いきす)神社
    jijidarumaさん、新年あおめでとうございます。

    鹿島香取は参拝したことがありますが、息栖神社はまだ未踏です。
    いつかはと思っているうちに月日が流れ。。。
    三つの中では、一番小さく、名も知られていない感じがします。
    忍潮井は、面白そうですね。
    以前、天橋立の砂州でも清水が湧く井戸があり、驚いたことがあります。
    何故、海水が混じらないのかと。
    この社も、かつては海に鳥居が立っていたのでしょうね。

    それでは、今年もよろしくお願いいたします。
    旅猫

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2025/01/11 18:08:18
    Re: 息栖(いきす)神社
    旅猫さん、
    今晩は。新年おめでとうございます。
    本年も宜しくお願い致します。

    鹿島・香取とともに東国三社に数えられる息栖(いきす)神社は思っていた以上に素晴らしく、本編を独立させて投稿しました。
    忍潮井(おしおい)が汽水(きすい: 海水と淡水の混合による低塩分の水)の中に湧き出す非常に珍しい)だと云う事も大変興味深く、かつてドイツでこの汽水の言葉を知ったのですが、日本の地でこれを見るのは初めてでした。

    佐原や潮来には堀割を遊覧する小舟が観光客を乗せていますが、かつての「木下茶船」(きおろしちゃぶね)と呼ばれた乗合船・遊覧船が復活したら、是非乗りたいものです。

    さて、早速の御挨拶、ありがとうございます。
    今日は鏡開きということで、鏡餅を切り、お汁粉を作ってもらって、
    3時のお茶をしました(笑)。まだまだ正月気分なのです。
    そして、Wienの楽友教会でのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートをTV(毎年NHKの番組恒例)で聴きました。楽友教会のホールには円安の所為か?日本人のお客が少ない感じがしましたが。
    音楽には!門外漢ですが、気分の良いワルツの各曲、オーストリアの第二国歌と称される「美しき青きドナウ」を楽しみました。

    それではまた。
    この1年もお元気でご活躍下さい。
    jijidaruma

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