2026/05/30 - 2026/05/30
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茨城から利根川を渡り、千葉に戻る。
茨城県の南部にあたる取手市、守谷市、千葉県の西北になる柏市、流山市、我孫子市のあたりは、 平将門(たいらのまさかど)を祖とあがめる相馬氏(千葉氏もそうだが)の領地であったようです。
先日、以前から気になっていた将門に縁があると云う、小さな寺を訪れた。
【坂東の英雄伝説:平将門の守り本尊が安孫子(あびこ)市の小さな日秀観音(ひびりかんのん)堂にある。その境内の一角に朝敵(ちょうてき)平将門調伏の祈願をした成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)にそっぽを向くように、「首曲り(くびまがり)地蔵」が立っている。】
関東各地には、朝敵(ちょうてき)平将門調伏の祈願をした成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)に反旗を翻す(はんきをひるがえす)ような態度を示す寺社や地域があることを、この小旅行で初めて知った。
とりわけ、我孫子の日秀観音(ひびりかんのん)の一隅に立つ「首曲り(くびまがり)地蔵」は秀逸である。
写真:我孫子市・日秀観音・首曲り(くびまがり)地蔵
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
名前も珍しい観音様で、JR成田線(我孫子=成田)に沿った、*湖北(湖北の由来は手賀沼の北側にある意)地域にある。
つまり車で走ると、成田街道=国道356号線の沿線になる。
*我孫子の湖北地区:
湖北地区は、1950年(昭和25年)代までは、主に成田街道(国道356号線)沿いとJR湖北駅北側に集落と住家が点在する農村地区でした。
地区南北の利根川と手賀沼沿いの低地や谷津には水田が広がるとともに、台地上はほとんど農地や山林でした。
1960年(昭和35年)代に入ると、既存の住家周辺を中心に宅地化が進み、現在の町並みとなって、様変わりした。
参考写真:千葉県我孫子市湖北・将門信仰の地Map -
<日秀観音(ひびりかんのん)>
千葉県我孫子市日秀90。
Tel:04-7188-2244
茨城の取手(とりで)からは、千葉の安孫子(あびこ)も近いが、ここにも将門の守り本尊が残る。
茨城県南部から千葉県北西部にかけては平将門(西暦903~940年)にまつわる地が数多く点在する。我孫子市日秀(ひびり)もそのひとつだ。
この寺は曹洞宗観音寺と称し、「平将門の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩」を祀っている。
1662年(寛文2年)、名翁全誉によって開山された。
ただ、開山以前から、少し離れた「将門神社」に仏堂が置かれ、平将門の守り本尊とされた観音菩薩像が安置されていたそうだ。それが現在の日秀観音の観音堂に移されたのだと云う。
写真:日秀観音と将門・・・説明版 -
平将門が幼少時に、この地域に住んでいたという伝承が残っており、近くの「将門神社」、「将門の井戸」とともに将門伝説の中心的存在となっている。
将門の守り本尊は行基菩薩の作と伝えられていて、この地域の字名をあてて「ひびり観音」として深く信仰されている。
写真:日秀観音:将門の守り本尊を祀る小さな観音堂 -
イチオシ
関東各地には、朝敵(ちょうてき)平将門調伏の祈願をした成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)に反旗を翻す(はんきをひるがえす)ような態度を示す寺社や地域があることを、この小旅行で初めて知った。
この様子が顕著に表れているのが、日秀観音の境内にある首曲地蔵(くびまがりじぞう)で、この地蔵は将門調伏を祈願した成田山新勝寺のご本尊・成田不動尊を嫌い、成田に顔を背けた姿と云われている。
日秀観音(ひびりかんのん)の一隅に立つ「首曲り(くびまがり)地蔵」の様子は実に秀逸である。
首曲り地蔵様のお顔を拝見すると、根強い民心というか、将門信仰の面白さが伝わってくる。
写真:首曲がり地蔵・・・将門調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田に顔を背(そむ)けた姿といわれる。 -
イチオシ
ついでに云えば、
将門とその家来の子孫は、1000年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないと云う。
例えば、千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて将門の政庁が置かれた茨城県坂東市の 一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。
あるいは将門と縁のある、東京の築土神社(つくどじんじゃ)や神田明神の氏子も参詣しない者が多いのだそうだ。
ともあれ、後述するように成田山新勝寺で将門調伏祈願が行われたことが、成田山新勝寺の創建話に 残り、現在の隆盛につながっているのだが・・・。
写真:日秀観音:将門の守り本尊のある観音堂 -
写真:日秀観音・観音堂の軒下
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写真:日秀観音の堂内・・・中央に守り本尊の聖観世音菩薩の写真が立てられていた。狭い堂内だが、寄合はできるようだ。
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写真:日秀観音・観音堂の説明版
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参考写真:かつて千葉県我孫子の日秀観音寺の軒下に飾られていた「放れ駒」の絵馬
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写真:次の写真に並ぶ札所、庚申塔などの説明版。
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写真:庚申塔などの石塔が並ぶ。
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写真:相馬霊場29番札所。
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<相馬新四国八十八ヶ所霊場>は茨城県と千葉県に札所がまたがる、弘法大師巡拝の本四国写し霊場である。
主に大師堂を巡ることになるので、霊場御本尊は弘法大師像になる。
開創者とされる観覚光音禅師は、長禅寺の住職だった人物。
写真:新四国相馬霊場第29番札所(観音寺)・・・中央は弘法大師像 -
写真:日秀観音・薬師堂の説明版
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写真:日秀観音・薬師堂・・・・狭い堂内の真ん中に薬師様が見える。左右に日光・月光菩薩、前に十二神将が並んでいる。
-
日秀観音だけでなく、将門信仰では以下のような神社もでてくる。
A)我孫子の将門神社(まさかどじんじゃ)
千葉県我孫子市日秀131
祭神は平将門(たいらのまさかど)。旧日秀村の村社で石祠がある。
940年(天慶てんぎょう3年)に将門が戦没すると、遺臣が将門の霊を携え、騎馬で手賀村明神下より手賀沼を渡り、丘の上で日の出を拝したのが、この地との伝承がある。
創建年代は不明であるが、平将門討死後、時を経ずして創建されたという。
当初は「将門社」という社名だった。
かつて「将門神社」に仏堂が置かれ、「平将門の守り本尊とされた観音菩薩像」が安置されていたそうだ。それが現在の日秀観音の観音堂に移されたのだと云う。
平将門が幼少時にこの地域に住んでいたという伝承が残っており、観音寺とともに将門伝説の中心的存在となっている。
1908年(明治41年)に水神社を合祀し「将門神社」に改称した。
将門神社では、1月6日に*「おびしゃ」の行事が行われる。近隣から人々が集まり、成田(成田山新勝寺)の方角に向かって矢を射ることになっているそうだが、これが意味するのは、成田に反旗を翻す(はんきをひるがえす)ような態度を示しているわけだ。
*『おびしゃ』とは、御歩射、御奉射、御奉謝、御毘舎などと書き、弓で的を射ることで、その年の豊作を祈願する新年の行事であり、関東地方、とくに利根川沿岸一帯の地域に多くみられる神事である。
・・・・・ -
B)将門の井戸
千葉県我孫子市日秀字石井戸
将門の井戸は市道を将門神社と反対方向に行く。
ゆるやかな坂道を20m程下ったところにある。
932年(承平2年)、将門が開き、軍用に供した井戸との伝承がある。
『湖北村誌』に「中相馬七ヶ村、すなわち、岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村に七つ井戸と称して、必ず一村一個有せり」とある。
七つ井戸の一つを日秀では岩井戸と呼ぶ。
岩井戸は平将門が都を置いた坂東市岩井に由来しているのだろう。
参考写真:千葉県我孫子市日秀の「将門の井戸」 -
参考写真:成田山新勝寺Map
<国指定重要文化財>
新勝寺 5棟
仁王門
三重塔
釈迦堂
額堂
光明堂
木造不動明王及二童子像 -
<成田山新勝寺の創建>
成田山新勝寺は平安時代中期に起こった平将門の乱に由来します。
西暦939年(天慶2年)、坂東の武者・平将門が新皇を名乗って朝廷と敵対し、戦乱が起こり、 乱世の中で人びとは、不安と混乱にさらされていた。
朝廷は乱の制圧の祈願を大寺社や密教僧に命じます。
939年に寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)も、時の朱雀天皇(すざくてんのう)の勅命(ちょくめい)を受け、弘法大師空海(こいぼうたいしくうかい)が 敬刻開眼(けいこくかいげん:仏像を彫りあげるに際し、一刀を刻むごとに三拝するほど大切に仕上げた仏像を安置して佛眼を入れる、つまり仏像に魂を入れることをいう)されたという、京都の神護寺(じんごじ)の不動明像を捧持(ほうじ:ささげもつ)して関東へ出発された。
難波の港から船に乗り、 房総半島の山武郡横芝光町尾垂ヶ浜(おだれがはま)に上陸したと云う。
寛朝は下総国公津ヶ原(こうづがはら)へ入り、成田の地にご尊像を奉安し、朝敵調伏(ちょうてきちょうぶく:魔障(ましょう)を打ち破ること)を 旨とする不動護摩供(ふどうごまく)を奉納した。
それは21日間にわたって護摩を焚いて、将門の乱の終息を祈願したそうだ。
結願(けちがん:祈願の最終日の意)の日に、平将門は戦いの中、流れ矢にあたり、敗死してしまった。平将門が敗れ、関東の地に 再び平和が訪れたことを天皇は不動明王の霊験(れいげん:神様や仏様のご加護によって実際に起こる良い出来事のこと)だと、たいへんお喜びになったと云う。
寛朝が京の都へ帰ろうとしたところ、ご尊像が磐石(ばんじゃく:大きな、重い石)のごとく動かず、不動明王から「この地に留まり人びとを救う」というご霊告を受ける。
このことを朱雀天皇にお伝えすると、「新たに勝つ・・・新勝寺」の寺号を賜り、 関東守護霊場として成田山新勝寺が開山された。
これが成田山新勝寺の<開山縁起(かいざんえんぎ:始まりの歴史)>として寺伝にある。
・・・・・
参考写真:成田山新勝寺本堂 -
また、成田山新勝寺の開山の祖となった寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)は916年(延喜16)年に 敦実新王の第二子として生まれ、宇多天皇の孫にあたると云う。11歳で出家され、仁和寺・東大寺 ・西寺の別当、東寺の長者を歴任した。
986年(寛和2年)に行基菩薩・慈恵大師良源上人に次いで日本で3人目の、真言宗では 初の大僧正になられた。
仏典に節をつけて唱える声明(しょうみょう)の第一人者でもあった。
・・・・・
参考写真:成田山新勝寺の開山の祖となった寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう) -
<不動明王>
真言密教の最高仏大日如来の成り代わった姿という、お不動さまは、心の迷いや煩悩を取り除いて全ての人を救うため、忿怒の表情をしているのだと。
また奴僕の姿は、奉仕の大切さを教えるためと言われている。
① 右手の利剣→「悟りの智慧」で心のあらゆる迷いを断ち切る
② 左手の羂索(縄)→煩悩を縛って封じ、物事を正しい方へ導くため。
③ お不動様が座る磐石→あらゆる苦難に耐える堅固な御心を表わす。
④ お不動様背後の炎→あらゆる障害を焼き尽くす火焔を背負っています。
大本堂に安置する新勝寺の秘仏本尊、不動明王像は、坐像で像高約133㎝。
両脇に二童子をしたがえる。
1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された。
参考写真:成田山新勝寺の調伏・・・成田山不動尊 -
C)柏の将門神社(まさかどじんじゃ)
千葉県柏市岩井424
創建年代は不明であるが、940年(天慶3年)の平将門の討死後まもなく、将門の次女の如春尼か三女の如蔵尼によって創建されたという。
当社の所在地が「岩井」なのは、平将門が都を置いた坂東市岩井に由来しているという。
社殿には将門にちなんだ「放れ駒」、「隻眼の姫君」といった精巧な彫刻が施されている。
・・・・・
1814年『遊歴雑記』に次のような記述があります。
「下総の国成田山の不動尊は弘法大師の作ながら、俵藤原秀郷等が念願せし平の将門を調伏の尊像なるによって、神田明神 ・元鳥越明神 ・築土明神の三ヶ所の氏子はまいらず。その像へ参詣すれば氏神の祟ありて途中に煩ひ怪我などする事とかや」。
現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と云い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわる大野城とされる祠も祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。
このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。
また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。
築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。
例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年(昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。
さて、将門が主人公であったのは、昭和51年(1976年)の大河ドラマの『風と雲と虹と』でした。大河14作目で、主演はお気に入りに俳優加藤剛でした。
この時期は第一回目のドイツ駐在中で、実際は見ていないのだが。
昔、私が読んだのは原作の海音寺潮五郎作品の『平将門』、『海と風と虹と』(角川文庫)だったか! -
千葉県東金市(とうがねし)は平将門を祖とする千葉氏の領地であった。
千葉氏の領地であっただけに、平将門に由来する場所がある。
地名としては市の東端に「御門=みかど」や「宮=みや」、「殿廻=とのまわり」が将門に由来するそうだ。
<帝立山 妙善寺(ていりゅうざん みょうぜんじ)>
千葉県東金市御門(みかど)358
東金市御門(みかど)は、地名自体からして新皇を名乗った将門に所縁を感じさせるものです。
妙善寺は、将門が慈母*「桔梗の前(ききょうのまえ)」の菩提を弔うために、天慶元年(西暦938年)4月、真言宗の一刹を建立し、京の都より貞観法師を迎え開基したと伝えられている。
*平将門伝説で「桔梗の前」というと、将門の愛妾として知られていますが、この地(千葉県東金市)では、平将門の慈母として伝わっている。
【東金に伝わる将門伝説】
平将門の父は良将といった。良将(よしまさ)の妻に、桔梗(ききょう)の前という方があったが、懐妊した時、その当時の習慣に従って、うらない師に占ってもらったところ、「生まれる子は、恐るべき反逆児になるであろう」ということだった。そこで良将は、兄の国香という人に相談したところ、「そんな反逆児が生まれたら大変だ。母親もろとも、かわいそうだけど仕方がない。水に流してしまえ」と言う。
良将は仕方なく、一そうの舟に乗せて、「桔梗の前」を海に流してしまった。
「桔梗の前」に仕えていた三平という者、この人は、本当に桔梗の前によく仕えた忠僕であった。この三平は、主人が海に流されたことを知って、これを助けようと海に飛び入り、舟におよぎついて、東国の海辺を数十日も漂流していたが、遂に九十九里浜の海保という所に着いた。海保は今の横芝町である。
海保に着いた「桔梗の前」と三平は、土地の人に救われた。
ある時、「桔梗の前」は三平をつれて、十文字川のほとりを歩いていたところ、急に産気づいて、元気な男の子を産み落した。
三平はあわてて、川の上流に走り、そこにあった竹を切ってこれを束ね、川を留め、白い布で川水をこして、嬰児を洗おうとしていると、そこへ七郎兵衛という漁師が通りかかって、着ていた袖なしをぬいでこの子を包み、母子をともなって自分の家につれて行き、いろいろ世話をしてやったという。
この十文字川を「ぬのどめ川」といい、「桔梗の前」を助けた七郎兵衛には、後に「布留川(ふるかわ)」という姓が与えられ、お産をしたところにあった橋を「産前橋(さんまえばし)」とよぶようになったというが、今では三枚橋と書いている。
また、いまでもこの地方では、出産児の産衣に「袖なし」を用いているという。
この伝説は、東金市御門(みかど)にある妙善寺(日蓮宗)の「妙善寺由来記」によったものである。
・・・・・
参考写真:東金市の帝立山 妙善寺の山門 -
面白いことに、<東金市の民話集に布留川さんという方の話>が残っている。
この方は察するに、「桔梗の前」を助けた七郎兵衛(後に布留川の姓を与えられた)につながる方だろうか?
【東金市の民話集から】
<将門のたたり>
成田山へ参ってはいけない話(布留川貞夫さんの話):
成田山さ参ってはいけないっていうのは、これはひじょうにみんな守っています。これはね、私のおじいさんがいろんな事業に失敗してね、ここんちは貧乏したですけどね……。
ここんちは将門の恩恵を受けた人がいるのにもかかわらず、成田山の信者になっちゃってね、講社(こうしゃ:講社は仏教や神道に基づく信者が集まる団体で、教えを広めたり、信仰を深めたりするための活動を行う)を作っちゃったですよ。それで三十五歳で死んじゃったですよ。
将門の恩恵とはほかでもない、鍬(くわ)だと思うですよね。ここんちは水難にあった将門を助けて、鍬をもらい開墾(かいこん)が進んでひじょうに栄えたという言い伝えがあんですよ。
そんだもんで、この辺では、 「それは、将門のたたりだ」っていうことになってんですよ。
だから、この辺では成田山に絶対お参りしちゃいけねえってことになってんです。
私が終戦後、兄貴が戦死したもんで、「百姓になるんだ」 っていったら、近所のおじさんどんが来て、いま生きてたら百才以上のおじいさんが真顔で私にいうですよ。「絶対、成田山にお参りしちゃいけねえ。おめらえのおじいさんは、将門のおかげがあって栄えたにもかかわらず、成田山を信心しちゃって、講社まで作っちやって のぼせちゃったから、三十五才で死んだんだから・・・・・」
って三年も四年も注意してくれてね、
親父に聞いたけら親父は笑っていましたけど。
その後、七、八年たってから親父が死ぬですけど、その二、三年前からいろんな
話を教えてくれてね、そういうことがあっただそうでして・・・・・。
だからうちのほうでは成田山に行きません。
東京の神田明神は、将門が祭神ですよ。二つあるですけど、 一つは将門ですよ。
だから神田明神の氏子は成田山さ、お参りしません。
(注) 成田山の縁起
将門調伏のために東国公津ケ原(今の成田市)に地をえらび、ここに不動明王の尊像を安置し三七日間、朝敵降伏の祈祷護摩供養をした。満願の日、天慶(てんぎょう)三年(九四〇年)二月一四日に将門の乱は治まった。
その後、そこに御堂を建立して尊像を安置した。これが成田山新勝寺の草創(そうせい)である。 (『成田山教化読本』より)
(聞き手:小見川典子)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考写真:東金市の帝立山 妙善寺の厳島神社・桔梗弁天
稲荷神社から西の方向に歩いて約5分のところに、厳島神社(桔梗弁天)という神社がある。
ここは、将門の母と伝えられる桔梗の前が、お乳が不足し困ったので、関内(せきうち)にある水神社に祈ったところ、その後、お乳に恵まれ無事に将門を育て上げ、土地の人が桔梗の前を弁財天の再来とあがめて祀られたと伝えられている。
明治になり、厳島神社と名称を変更させられたが、地元の方は今でも桔梗弁天と呼んでいるそうだ。 -
イチオシ
思えば、坂東の広い地域に様々な平将門の恨み、祟りや厄災を鎮める神社、仏閣の多いこと、地元に根付いた将門信仰の強いことに驚いた。
将門信仰は私の故郷、青梅や多摩の地域にも多いが、このあたりで了としたい。
写真:日秀観音(ひびりかんのん)の境内・・・桜の大木が大きく育ち、春の桜は美しいと云う。
80代を過ぎて、将門信仰の各地を巡るのも遅すぎますが、
こんな伝説話をご紹介できるのも長生きのお陰です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2026年06月14日Wiki・HP参考、編集追記)
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