2025/05/19 - 2025/05/19
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2025.05.18.~19.飯能の姉が入居している老人ホームに見舞いに出かけて、1泊して、帰途に茨城の古河市古河公方(こがくぼう)、坂東市の逆井城址(さかさいじょうし)、平将門(たいらのまさかど)の遺跡など初めて訪れた。
古来この地は【坂東(ばんどう)】と称し、古代から中世・近世にかけて、現在の関東1都6県とほぼ同じ地域を指す地域の名称であった。
とりわけ勇猛な坂東武者(ばんどうむしゃ)は世に知られた存在であった。
いずれも興味深い所で、千葉県の隣県ながら、今まで訪れたことがない。
本編は私が古城好き故、順序が逆になるが、まず坂東市の逆井城(さかさいじょう)を纏めてみた。
<茨城県指定史跡・逆井城跡公園>
住所:茨城県坂東市逆井1262
電話:0297-21-2204
開館:午前9時~午後4時まで、休館日は毎週月曜日・その他臨時休館有
但し、櫓や主殿、井楼矢倉(せいろうやぐら)等に入れないだけで、公園内は随時開放しています。
写真:中世の城郭の雰囲気を復元した逆井城
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
坂東市(ばんどうし)は、茨城県の県西地域に位置する。
東京都心から北北東約40kmに位置する市であり、思っていた以上に東京に近いことに気が付いた。南に利根川があり、千葉県と接している。
坂東市は2005年(平成17年)に岩井市と猿島郡猿島町の対等合併によって発足したもので、現在人口は5万人。
茨城県は私にとって、農業県という認識があったが、その通りで市域の中心部は猿島台地と呼ばれる平坦な台地が続き、レタス・ネギ(生産量全国トップクラス)、白菜等の農業用の田・畑地が広がっている。また、市内には多くの平地林や白鳥の飛来で有名な*菅生沼(すがおぬま:南北約5.5km、東西約0.4kmであり、水深は浅く、水をたたえるのは主に下沼と呼ばれる南部で、上沼と呼ばれる北部は湿地帯である)など、良好な自然が残されている。
*尚、菅生沼には伝説が残る。「かつて菅生(すがお)の城主であった越前守胤貞(たねさだ)は横瀬能登守長氏(ながうじ)の奇襲を受けて滅んだが、生き延びた胤貞の娘・妙が侍女を装って仇討ちの機会を狙った。ところが長氏の息子に恋をしてしまった妙は菅生沼に身を投げ、「白妙姫」と呼ばれる大きな白い鯉となり長く生きたという 。
1981年に『まんが日本昔ばなし』でも映像化されている。
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=456
参考写真:坂東市周辺Map -
坂東市に残る逆井城址は、私自身が知らなかった城で、世間的にも茨城の小さな農村都市にある、「中世の城郭を復元した」という、とかく、模擬天守閣を備えた城を作りたがる風潮の中で、ある意味、古城好きには納得できるもの、たいへん珍しい城址なのかもしれない。
ともあれ、一般にそう知られた城ではない。
因みに検索して見ると、茨城県にある【日本100名城】には、水戸城(水戸市)が選ばれている。そして【続日本100名城】には笠間城(笠間市)、土浦城(土浦市)が名を連ねている。
なるほど、そんなものかという感想だが、私自身一度も訪れていない。
坂東市の逆井城はそうした名城!?とは縁がないようだ。
【逆井城の概要・歴史】
逆井城は今から400年以上前の戦国時代末期(1577年)に*後北条氏(ごほうじょうし)の北関東進出拠点として築城されたものである。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼしたため、支城の逆井城も廃城になってしまった。
現在も、その外堀と土塁が残っており、調査によって、櫓(やぐら)門、橋、塀、主殿(しゅでん)、二層櫓(にそうやぐら)などが文献・資料によって復元され、戦国の世をちょっぴり楽しむ城址公園になっている。
主に左手(西)にある主殿を中心に復元された城址を巡った。
中央上(北)の本丸は復元された建物が少ない。
参考写真:逆井城址の縄張り図・・・大変良くできた縄張り図で、引用させて頂いた。
逆井(さかさい)という地名は実に変わった読み方だが、
この名前の由来には「井戸を逆さにしたように水がよく湧き出る場所」という説があるそうだ。
つまり、井戸が逆さまになったほど水が豊富な地の意味で低湿地で水が逆流するような場所を云うとか。
また、逆井さんという人名の方は、全国でおよそ3,000人おられるらしい。
その内、千葉県に約1200人、茨城県に約750人だそうだ。 -
逆井城は*飯沼(いいぬま)に望む標高20mの台地の先端にある。
城の北側は自然の要害である「飯沼」に囲まれ堅牢を誇っていた。西側は入江の蓮沼に接していた。
飯沼は江戸時代の新田開発により、今はその面影はない。
*飯沼(いいぬま)は茨城県南西部に存在していた湖沼。上流の古河市尾崎付近から南東方向へ細長く広がり、下流側南端は坂東市大口・猫実付近。古河市・八千代町・坂東市・常総市にまたがっていた。享保10年 (1725年) 以降の飯沼新田開発により排水され、現在は水田地帯になっている。
尚、古墳時代については、飯沼周辺に五十塚古墳群(いそづか こふんぐん:古河市東山田)、東浦古墳(円墳・古河市東諸川)、大塚古墳群(円墳3期・湮滅)、城山古墳群(円墳2基・八千代町栗山)など、多数の古墳が分布。集落遺跡も多くみられることから、政治経済活動が活発な地域であったと推定される。
平安時代の軍記物語『将門記(しょうもんき)・・・10世紀半ばの将門の乱を描いたもの』にある「広河江(ひろかわのえ)」は、この飯沼を指すと考えられている。いわゆる、飯沼の広さを表す呼称である。
戦国時代には飯沼城(いいぬまじょう)とも呼ばれた逆井城が、飯沼西岸の台地上にあった。当初は*古河公方(こがくぼう)に従った逆井氏、後には後北条氏の城となる。天正年間、飯沼城の北条氏繁が対岸の結城氏(ゆうきし)・多賀谷氏(たがやし)と対峙し、飯沼は古河公方領国防衛の最前線となっていた。
*古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏の当主であった。
享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が享徳の乱によって相模国鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となったことに始まる。その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城に置かれた。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。
江戸時代、享保年間以前の飯沼は周辺23ヶ村入会(いりあい:共同利用する権利)の沼であった。しかし、寛永年間に行われた鬼怒川の開削(かいさく)により干上がり地が生じ、周辺の村同士での干上がり地の境界や地先の損益をめぐって多くの争論が発生するようになった。
享保の改革の一環として新田開発が行われた。
参考写真:上部は逆井城の防壁ともなった飯沼で、かつての湖沼の面影はなく、一面の水田地帯になっている。 -
【後北条氏(ごほうじょうし)とは】
私自身が世界史が好きだった所為で、日本史では、この時代はあまり興味を持って学んだ記憶がない。
しかも、かつて日本史を学んだ時には<後>はなかったと思う。
その後北条氏は、小田原北条氏(おだわらほうじょうし)や相模北条氏(さがみほうじょうし)とも呼ばれる武家である。
一般的には豊臣秀吉の小田原攻めがあったことで、前者の名で理解されていると思われる。
本来の氏は「北条(北條)」であるが、鎌倉幕府の執権(しっけん)をつとめた北条氏・・・鎌倉幕府には権力者たる執権が17代続きましたが、初代北条時政、2代義時、3代泰時、8代時宗が良く知られている・・・と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、さらに相模国、小田原の地名から「小田原北条氏」、「相模北条氏」とも呼ばれているのだ。
伊勢盛時(いせもりとき:「北条早雲(ほうじょうそううん)」の名で広く知られている)を祖とし、戦国期に戦国大名として関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。
但し、分流の氏規の子孫が存続して江戸時代には狭山藩主家となり、他の分流としては、久野城主を務めた北条幻庵を始祖とする久野北条氏や、相模玉縄城主であった氏時を始祖とする玉縄北条氏、武蔵小机(こづくえ)城主の氏尭を始祖とする小机北条氏などがあると云う。
写真:逆井城址の縄張り図 -
ナビに案内されてやってきた逆井城跡公園前には、比較的広い駐車場があった。
この広い駐車場には、私の愛車が一台しか停まっていない。
もっとも、城祭りや桜の咲く時期には、駐車場も満杯になるのだろう。
<現在復元された逆井城跡公園の概要>
逆井城跡公園は全体面積が約63,000㎡で、うち27,245㎡が県指定史跡の区域(昭和60年3月指定)となっている。また、全域が緑地環境保全区域(昭和63年9月指定)に指定された。
旧逆井城の全体像は、東西420m、南北300mの面積126,000㎡ト御ことだが、東京ドームの2.7倍の面積だとか。
写真:比較的広い駐車場がある。 -
<逆井城の歴史>
逆井城は、もともと逆井氏(さかさいし)が治めていたと云われている。
逆井常繁(つねしげ)公の代、天文(てんぶん)5年(1536年)3月3日、小田原を本拠地とする後北条氏の軍勢に攻められ、支配下に置かれて以来、天正18年(1590年)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまで、後北条氏の北関東進出の拠点となっていたと云われている。
この地は常陸佐竹氏・結城氏・多賀谷氏との領国の境目にあたり、すぐ北側にある自然の要害である「飯沼」に囲まれ、防御も堅固でであったそうだ。
駐車場から歩くと、逆井城の入り口に簡単な冠木門(かぶきもん)が立っている。
中世といえば、この程度の門構えだったのだろう!
写真:模擬冠木門(かぶきもん)・・・冠木門は2本の門柱の上に横木をのせたもので、〈衡門(こうもん)〉ともいわれ、上土門(あげつちもん)とともに武家の屋敷に用いられたと云う。 -
イチオシ
当時の土塁・堀の一部が、手つかずの状態で現在まで保存されているそうである。
現在は歴史公園としての整備を重ね、戦国時代末期の建築群を再現(復元)し、当時の雰囲気を感じることができるとか。
筋違い橋(橋が「斜め」にかけられていたことから、こう呼ばれた)を渡り、大手門から城内に向かう。
橋の下はかつては水堀であったが、今は埋められて空堀となっている。
写真:中世城郭の雰囲気を感じさせる筋違い橋と二層櫓(にそうやぐら)。逆井城跡公園 名所・史跡
-
【二層櫓(にそうやぐら)】
この二層櫓は、戦国時代末期の城郭建築の歴史考証を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期櫓を復元したものである。
高さ10.6m。
近世の隅櫓(すみやぐら)とは違い、時代を感じさせる櫓で、6m四方の平面をもち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現している。
写真:小さな大手門(城門)と二層櫓(にそうやぐら)の裏側から。 -
城郭 の隅に 立てた 櫓(やぐら)と称した。
櫓 とは、 城郭内に防御や物見のために建てられた仮設または常設の建築物である。 日本では、石垣や土塁の上に木造の建築を建てて、攻め手への攻撃と防御を有利にした。
写真:二層櫓(にそうやぐら)の説明版 -
冠木門からまっすぐ歩き出すと、広々した原っぱがあり、右手に大きな桜、城跡公園の施設事務所があり、さらに奥には本丸や馬出などがある。
写真:西二の郭から東二の郭方面を望む。 -
イチオシ
左手には立派な城門が見える。
大木が囲んだ一帯は西二の郭にあり、復元した、あるいは移築した様々な建物が並んでいる。
観光はここが主となる地域だ。
【関宿城薬医門(せきやどじょうやくいもん)】
関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、本柱が門の中心線上からずれており、薬医門と呼ばれる。関宿城は久世氏(くぜし:徳川家の譜代大名、5万石、若年寄、老中を歴職した)が城主を努めていましたが、明治2年の廃藩置県により久世氏は関宿知藩事となり、城も明治6年廃城となった。
その後、建物の一部は民間に払い下げられ、残りの部分は取り壊されてしまった。このときに払い下げられたものの一つがこの城門と伝えられ、旧猿島町内の鶴見栄助(えいじょ)氏宅にあったものを移築したものである。
関宿城城門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式、木部朱塗り、向かって右側の袖壁に潜戸付。
写真:西二の郭にある関宿城薬医門(せきやどじょうやくいもん)の正面 -
薬医門と塀の中は復元された主殿があるのだが、しっかり閉ざされてしまっている。
写真:西二の郭にある関宿城薬医門に連なる塀がある。 -
写真:西二の郭にある関宿城薬医門の説明版
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写真:西二の郭にある関宿城薬医門の右手には観音堂がある。
-
【観音堂】
この観音堂は大安寺(旧岩井市)にあったものを市が譲り受け、移築・復元したものである。
建物解体時に、天正16年(1588年)建立時の棟札と弘化2年(1845年)再興時の棟札が発見され現存しているから古いものである。
これにより、天正16年の上棟後、幕末に改造の手が加えられたことが判明した。
木柄の大きな角柱の面取り、舟肘木(ふなひじき)などはいずれも天正期特有の様式をよく残していて、非常に貴重な建築物として市指定文化財となっている。
堂内は板敷きで、天井は棹縁天井(さおぶちてんじょう:細い木材を平行に渡した天井で、天井面にみえる細木を棹縁という)となっている。
写真:移築された観音堂と説明版 -
写真:新緑の中、朱色が映える観音堂
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大堀・本丸(主廓)の南面にある角馬出しが、分かりやすい。
【馬出し(うまだし)】
馬出し(うまだし)とは、虎口(こぐち)の外側を守るために作られた小さな曲輪(くるわ)のことで、半円形の丸馬出し(まるうまだし)と長方形の角馬出し(かくうまだし)の2種類がある。
ここでは後者であろうか。
尚、馬出しは関東や東海地方に集中しており、西日本ではほとんど見られないと云う。武田氏の城では馬出しが多用され、そのほとんどが丸馬出だった。
逆に角馬出しは後北条氏の城でよく見られると云う。
写真:馬出し(うまだし)や空堀の様子。 -
馬出しのあたりから、振り返ると、桜の木々の後方に朱色の建物が見える。関宿城薬医門だ。
写真:馬出しのあたりから、来た方向を振り返る。 -
本丸(主廓)を守る空堀や土塁(どるい)の様子が見て取れた。
【土塁(どるい)】
本丸、東二の郭一帯に見える土塁(どるい)は、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁である。
平地に盛られる土塁は堀と組み合わせて作られ、堀を穿って生じた土を盛土に利用して作られることが多い。これを掻揚土塁(かきあげどるい)という。
土塁内側からの高さは低くて約2m、高くて3mほどある。
江戸時代以前には、こうした土塁は土居(どい)、土手(どて)と呼ばれていた。
写真:本丸、東二の郭一帯に見える土塁(どるい) -
【鐘掘り池】
天文5年(1536年)3月3日、ときの逆井城主逆井常繁は、北条氏康の家臣であった大道寺駿河守(?)の城攻めに敗れ戦死した。この時、城主の奥方(又は娘)は先祖代々伝わる釣鐘(つりがね)をかぶってこの池に飛び込み自殺したと云われている。
この釣鐘を探そうと何人もの人が池を掘ったため、この池は「鐘掘り池」とか「鐘掘り井戸」と呼ばれている。
この池はどんな旱(ひでり)でも水が涸れたことがないと云われていて、湧水が豊かである。当然、城の生活水を賄うために掘られたのだろう。
写真:鐘掘り池の伝説が残る池が木立の中にあり、この奥は本丸につながる。 -
イチオシ
写真:樹形の良い、大きな桜の木・・・城跡公園には260本以上の桜の木があると云う。
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写真:逆井城跡緑地環境保全地域の看板(茨城県)
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写真:右手に鐘掘り池の伝説が残る池があり、木立一帯は土塁が見られる。
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【二階門(櫓門)と橋】
この二階門と橋は逆井城跡の発掘調査の成果を元に復元された。
橋の遺構は礎石・男柱・支柱の穴が見つかっていて、櫓門の遺構は東西に3個ずつ2列で方形に結べる柱穴と雨後溝(うごみぞ)が見つかった。
復元にあたり遺構保存のため、旧柱位置よりも西へ1m、北へ50cmずらされて作られたと云う。
また、形については、資料を基に戦国時代末期の姿を想定したようである。
(坂東市観光協会引用)
参考写真:二階門と橋の先には本丸一帯がある。 -
本丸までは行かずに二廓方向に戻ると、先ほどの大堀・本丸(主廓)の南面にある角馬出しに至る。
写真:大堀・本丸(主廓)の南面にある角馬出し -
かつての飯沼を見に城郭から出てみると、城郭周辺を囲む水堀が残っている。
写真:二廓北西端にある虎口の水堀 -
写真:二廓北西端にある*虎口(こぐち)
*虎口とは中世以降の城郭における出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「小口」とも書く。
「虎口(ここう)」とよむ場合は、中世の戦場や陣地における危険な場所を意味するもののこと。 -
写真:水堀、このあたりにも船着き場があったらしい。
-
虎口から再び城郭内にもどる。
写真:観音堂の背後 -
【主殿(しゅでん)】
この主殿は、茨城県潮来市(旧牛堀町)で発掘調査された大台城跡発掘の際に出土した主殿遺構を参考に建築されたもので、逆井城と同時代に存在していたと云うことから、その資料をベースにしたらしい。
主殿の構成は正面から見て右側半分が主室で、左側半分がその控室的な部屋となっている。
主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」と称したもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものだそうだ。
主殿の前面には枯山水庭園が広がっていて、美しい。
参考写真:主殿と庭園の俯瞰 -
写真:主殿の説明版
-
写真:木立の中から主殿をのぞく。
-
主殿と庭には正面の門が閉まり入れなかった。周囲をうろうろするうちに、横から入れる道を見つけて、お邪魔した!
写真:主殿と庭・・・右手から写す。 -
イチオシ
写真:こちら主殿の正面。
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写真:主殿の建物に近づいて。
-
この空欄を利用して、【室町時代から小田原征伐までの歴史】を書いてみる。
・・・・・
室町幕府8代将軍・足利義政の時代に、享徳(きょうとく)の乱」(1455年~1483年)が起こった。5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、部下の関東管領の上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を暗殺した事に端を発した。
室町幕府の足利将軍家と結んだ山内上杉家に対し、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎし)と足利成氏の連合が対抗し、彼らの 権力争いは関東地方一円に拡大し、約30年間続いた。
1455年、鎌倉公方の足利成氏は北関東遠征中に、鎌倉を今川氏に占拠され戻れなくなり、茨城の古河城を本拠地とした。以後古河公方と呼ばれる。
伊豆国では北条八雲が現れ、相模国、武蔵国へ勢力をのばして、上杉氏や古河公方方と対立することになった。
写真:主殿の庭 -
宝徳2年(1450年)頃、足利成氏の味方であった下野国(しもつけのくに:現栃木県)の守護・小山城主(おやまじょうしゅ)の小山義政(おやま よしまさ)の5男、常宗(つねむね)が逆井の地を与えられ、山内上杉氏への防衛拠点として城を構え、逆井常宗と名乗った。
明徳9年頃(1500年頃)、2代逆井貫利が後を継ぐ。
天文5年(1536年)、古河公方に仕えていた3代城主逆井常繁(つねしげ)は北条氏康の家臣・大道寺盛昌(だいどうじ もりまさ)の攻撃を受け、逆井城は落城し、逆井氏は滅亡してしまった。
常繁の妻は逆井城内で自害したと言う。
この逆井氏時代の城を「逆井古城」、以後の後北条氏時代の城は大規模に増改築されたので「飯沼城」と呼んでいたと云う。
逆井の地は、後北条氏にとって下野・常陸方面(佐竹氏・多賀谷氏)への侵攻の最前線であり、後北条氏の勢力下に入った逆井城は北条氏繫(うじしげ:氏康の家臣で玉縄城主(たまなわじょうしゅ)・・・鎌倉市玉縄地域城廻(旧相模国鎌倉郡玉縄村)にあった平山城である)によって新たに大規模な改修が行われ、現在の様な城郭となった。
天正6年(1578年)、北条氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜(うじとし:玉縄城主、天正9年(1581年)に死去)・氏勝(うじかつ)兄弟が続けて継いだ。
天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡したため、その前後に逆井城も落城した。
尚、氏勝(玉縄北条氏)は小田原の戦いでの山中城落城後に家康旗下に入り、家康の関東入国に際し、下総岩富(しもうさいわとみ:現千葉県佐倉市)藩の城主、一万石の大名となった。
・・・・・
写真:主殿前の庭園は良い感じだ。 -
写真:主殿の左側面
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写真:主殿の裏庭に誰が植えたのか?ボタンの花が満開に。
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写真:主殿の裏庭にボタン・・・満開よりは開き始めが美しい!
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主殿の横から、見たことがない、珍しい「井楼矢倉(せいろうやぐら)」を見る。
写真:高さ11.86mの井楼矢倉(せいろうやぐら) -
【井楼矢倉(せいろうやぐら)】
井楼矢倉は米を蒸す蒸篭と同じように、井形に組んだ方形材(ほうけいざい)を次々と組み上げた矢倉である。
この井楼矢倉は戦国時代末期のものを、資料を基に復元したものだ。
このような矢倉が作られるのは、次のような軍事目的のためである。
1.物見櫓として敵の動勢を監視する。
2.味方の軍の動勢を把握する。
このような矢倉の役割が発展・大規模化したものが、近世城郭に見られる天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されてきたものだと云われている。
写真:物見にふさわしい、高さ11.86mの井楼矢倉(せいろうやぐら) -
写真:井楼矢倉(せいろうやぐら)前から、主殿の裏手を見る。
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写真:左手の手前にある*平櫓(ひらやぐら)から見る、高さ11.86mの井楼矢倉(せいろうやぐら)。右手は主殿のある地域。
*平櫓は最も簡単な形の櫓で、屋根は入母屋造りとするか、格式が低い切妻造とされていた。二層櫓よりも低く、また小さいので、物見としては使用されなかった。土塀などが無い所に平櫓が建てられることが多かったそうで、天守などに付属する付櫓(つけやぐら)として建てられることも多かったとか。 -
イチオシ
写真:高さ11.86mの井楼矢倉(せいろうやぐら)
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写真:井楼矢倉(せいろうやぐら)の説明版
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写真:紅葉
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写真:この花は?落葉小高木のエゴノキの花らしい。最大樹高15m 前後、樹高のわりに余り幹は太くならず最大胸高直径は50cm程度である。
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写真:Web検索すると、落葉小高木のエゴノキの花らしい。
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イチオシ
写真:井楼矢倉(せいろうやぐら)側の水堀
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写真:奥に二層櫓(にそうやぐら)、平櫓が見え、横に塀の開口部(狭間)が立つ。
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写真:小さな大手門(城門)をくぐり、先の筋違い橋を渡り、冠木門に向かう。
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写真:逆井城外に戻って、遠景(井楼矢倉、平櫓、水堀・・・かつて船着き場があったと云う)を写す。
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イチオシ
写真:逆井城外に戻って、遠景を写す・・・左から井楼矢倉と土塀、中央に平櫓、右手に二層櫓が立ち、下手に水草の茂る水堀が見られる。
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写真:逆井城外に戻って、遠景(二層櫓、土手、筋違い橋、空堀)を写す・・・
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逆井城から帰路につく途中、大きな栴檀(せんだん)の木があるのに気づいた。
以前、千葉県旭市にある寺の境内で、立派な栴檀の木を見たことがある。
「栴檀(せんだん)は双葉より芳し(かんばし)」の用語がある。
・・・大成する人は幼少のときから優れているという意味で、昔は良くこの言葉を聞いた。
近くの小学校にも大きな栴檀の木があり、花の時期は素晴らしいが、今の教師は子供たちに上の様なことを教えているのだろうか?!
栴檀は 白檀(ビャクダン)のことで、香木として知られる。
芽が出たころから芳香を放つ。
写真:栴檀の花 -
写真:栴檀の花・・・逆光で花の色合いが見えない。
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参考写真:栴檀(せんだん)の花(拡大)
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参考写真:栴檀の実・・・秋になると、このような実ができて、ぶら下がっている。
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逆井城の祭りは近隣の人たちを集めて、にぎやかな祭りとなっているようだ。
県指定史跡・逆井城跡で4月上旬に行われ、いつもは静かなたたずまいの「逆井城跡公園」も、この日は幟旗(のぼりばた)や陣幕で華やかに飾られる。
猿島ばやし(県指定無形民俗文化財)などの郷土芸能の演奏、伝承に基づいた「出陣式」など、さまざまな催しで会場内は盛り上がると云う。
参考写真:逆井城祭り -
今年の春にこの景観を楽しもうと思っていたのだが、歯の治療などで、
その機会を逸した。
桜と城は良く似合う。
参考写真:逆井城址の桜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中世の城郭を復元する事は、小さな坂東市には少々荷の重いことであったろう。
まだ道半ばにもみえる城跡だが、さてどこまで完遂されるのだろうか?
小雨混じりの天候だった2時間、建物内の見学はできなかったが、城郭内を歩いてみれば、存亡の歴史、落城秘話という伝説、各地から移築された文化財など、なかなか興味深いものであった。
次は板東に覇を唱えた平将門(たいらのまさかど)、関東一円を席捲する反乱で朝廷を震撼させた将門の遺跡巡りを書いてみたい。
(2026年05月13日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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利根川を越えて、東国三社に数える神栖(かみす)の息栖(いきす)神社を初めて参詣した。
2022/11/22~
波崎・神栖
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多古町にある竹林山 妙光寺(みょうこうじ)の枝垂れ桜はツイテいないことに早々と散っていた。
2025/04/09~
香取・佐原
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松戸市:春の一日、重要文化財である徳川昭武の戸定(とじょう)邸と附属した歴史館を訪ねた。
2025/04/20~
松戸
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松戸市:源氏物語が残る戸定(とじょう)歴史館では、写真好きの徳川昭武が好んで撮った徳川家の美女たちが魅力的だ...
2025/04/20~
松戸
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香取市の府馬の大クス (ふまのおおくす)見物では巨木の放つ「気」に圧倒された。
2025/04/25~
香取・佐原
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銚子:妙見宮・海上山妙福寺に見事な「臥龍(がりゅう)の藤」など4藤の棚がいよいよ満開だ。
2025/04/25~
銚子
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匝瑳市(そうさし)の個人宅にある凄い巨木・安久山のスダジイ(シイの木)に出会った。
2025/04/30~
九十九里
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匝瑳市(そうさし):安久山の樹齢1000年の大スタジイがある平山邸を内覧させて頂いた。
2025/04/30~
九十九里
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故郷青梅:いつの間にやら、猫様の神社が出来た・・・そんなー!聞いてないよ。
2025/05/16~
青梅
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茨城県坂東市に、かつて後北条氏(ごほうじょうし)旗下の逆井城(さかさいじょう)があった。
2025/05/19~
結城・下妻
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春きたる!3年失敗した、枝垂れ桜巡りのリベンジにようやく成功した。
2026/03/24~
八街・富里
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