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東京そぞろの17回目は、以前訪れた上野桜木を再訪し、谷中界隈へと歩いてみる。今回は、明和三美人として知られる笠森お仙所縁の笠森稲荷と、鬼平犯科帳の舞台を訪ねるのが主題である。<br /><br />(2025.12.19 投稿)

東京そぞろ 其の17 上野桜木・谷中界隈

146いいね!

2025/12/10 - 2025/12/10

10位(同エリア608件中)

6

80

旅猫

旅猫さん

東京そぞろの17回目は、以前訪れた上野桜木を再訪し、谷中界隈へと歩いてみる。今回は、明和三美人として知られる笠森お仙所縁の笠森稲荷と、鬼平犯科帳の舞台を訪ねるのが主題である。

(2025.12.19 投稿)

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 特急『あかぎ8号』で降り立ったのは、上野駅の地平ホーム。かつては、東北や信越、北陸からの長距離列車が発着した場所だ。この季節、雪を纏った列車が到着し、とても風情があったのだが、それもいまや過去のものとなった。変わらず人を出迎えているのは、啄木の歌碑である。

    特急『あかぎ8号』で降り立ったのは、上野駅の地平ホーム。かつては、東北や信越、北陸からの長距離列車が発着した場所だ。この季節、雪を纏った列車が到着し、とても風情があったのだが、それもいまや過去のものとなった。変わらず人を出迎えているのは、啄木の歌碑である。

  • 一駅戻り、鶯谷駅で下車。木造の跨線橋と平屋の駅舎が、変わらぬ佇まいで嬉しい。

    一駅戻り、鶯谷駅で下車。木造の跨線橋と平屋の駅舎が、変わらぬ佇まいで嬉しい。

  • しかし、地図を良く見ていなかったため、出口を間違ってしまった。仕方が無く、跨線橋通って東側へと向かう。多くの跨線橋には、金網などがあり景色が見にくいのだが、ここは遮るものも無い。

    しかし、地図を良く見ていなかったため、出口を間違ってしまった。仕方が無く、跨線橋通って東側へと向かう。多くの跨線橋には、金網などがあり景色が見にくいのだが、ここは遮るものも無い。

  • 跨線橋から降り、線路沿いに歩いて行くと、小さな公園に出た。鶯谷公園とある。かなり前に、一度だけ通ったことがある。その際にあったブランコは無くなっていたが、最近撤去が進むj線橋から降り、線路沿いに歩いて行くと、小さな公園に出た。鶯谷公園とある。かなり前に、一度だけ通ったことがある。その際にあったブランコは無くなっていたが、最近撤去が進むグローブジャングルがまだあった。

    跨線橋から降り、線路沿いに歩いて行くと、小さな公園に出た。鶯谷公園とある。かなり前に、一度だけ通ったことがある。その際にあったブランコは無くなっていたが、最近撤去が進むj線橋から降り、線路沿いに歩いて行くと、小さな公園に出た。鶯谷公園とある。かなり前に、一度だけ通ったことがある。その際にあったブランコは無くなっていたが、最近撤去が進むグローブジャングルがまだあった。

  • その気は、鶯谷駅東側に林立するファッションホテル街である。その手前に、古風な一軒家が立っていた。背後はマンション、奥はホテル街と言う環境だが、よく残ったものである。

    その気は、鶯谷駅東側に林立するファッションホテル街である。その手前に、古風な一軒家が立っていた。背後はマンション、奥はホテル街と言う環境だが、よく残ったものである。

  • 昼でも怪しげなホテル街を抜けると、駅前の飲み屋街となる。その中に、朝からやっている居酒屋があるのだが、帰りに立ち寄ることにする。

    昼でも怪しげなホテル街を抜けると、駅前の飲み屋街となる。その中に、朝からやっている居酒屋があるのだが、帰りに立ち寄ることにする。

  • その先は、またホテル街となる。そこを抜け、再び橋で線路を渡る。緩やかに曲がりながら登る橋は、『寛永寺坂』の一部となっている。大正時代に出来た道で、かつての寛永寺の境内を貫いている。

    その先は、またホテル街となる。そこを抜け、再び橋で線路を渡る。緩やかに曲がりながら登る橋は、『寛永寺坂』の一部となっている。大正時代に出来た道で、かつての寛永寺の境内を貫いている。

  • 坂の先は、かつて徳川家の菩提寺であった寛永寺の支院が立ち並んでいた場所である。三十六を数えた支院だが、今でも十九残っている。そのうちのひとつである養寿院に立ち寄る。かつては、寛永寺の西側に位置していたが、大正期に現在の場所に移ったのだそうだ。

    坂の先は、かつて徳川家の菩提寺であった寛永寺の支院が立ち並んでいた場所である。三十六を数えた支院だが、今でも十九残っている。そのうちのひとつである養寿院に立ち寄る。かつては、寛永寺の西側に位置していたが、大正期に現在の場所に移ったのだそうだ。

    養寿院 (台東区) 寺・神社・教会

  • その境内に、笠森稲荷がある。谷中界隈には、現在、三つの笠森稲荷があるが、明和の三美人と言われた笠森お仙が働いていた水茶屋『鍵屋』があったのは、この門前である。とは言え、実際の笠森稲荷は、天王寺境内にあった福泉院の近くにあり、福泉院が廃寺となった後、ここ養寿院に移されたそうである。

    その境内に、笠森稲荷がある。谷中界隈には、現在、三つの笠森稲荷があるが、明和の三美人と言われた笠森お仙が働いていた水茶屋『鍵屋』があったのは、この門前である。とは言え、実際の笠森稲荷は、天王寺境内にあった福泉院の近くにあり、福泉院が廃寺となった後、ここ養寿院に移されたそうである。

  • その養寿院の隣に、『おせん』と言う看板を掲げた建物がある。かつては店だったようだが、今は廃墟となっている。

    その養寿院の隣に、『おせん』と言う看板を掲げた建物がある。かつては店だったようだが、今は廃墟となっている。

  • この界隈は、戦災を免れた建物が点在している。以前に比べると、かなり減ってしまったが、それでも、町の歴史を繋いでいる。

    この界隈は、戦災を免れた建物が点在している。以前に比べると、かなり減ってしまったが、それでも、町の歴史を繋いでいる。

  • そのひとつが、彫刻家の平櫛田中が暮らしたアトリエ兼住居である。横山大観、下村観山らの支援により、大正八年に建てられたもので、奇跡的に戦災を免れ、今にその姿を残している。戦前の東京の風情を見せてくれる貴重な建物だ。

    そのひとつが、彫刻家の平櫛田中が暮らしたアトリエ兼住居である。横山大観、下村観山らの支援により、大正八年に建てられたもので、奇跡的に戦災を免れ、今にその姿を残している。戦前の東京の風情を見せてくれる貴重な建物だ。

    旧平櫛田中邸 名所・史跡

  • その近くに、寛永寺の支院ひとつであった浄名院がある。往時の境内をほぼ残している珍しい寺である。その広い境内には、 八万四千体地蔵と呼ばれる地蔵尊が並んでいる。以前は塀や樹々があったのだが、それらが取り払われ、裏手からも観られるようになっていた。工事が終わるまでの光景である。

    その近くに、寛永寺の支院ひとつであった浄名院がある。往時の境内をほぼ残している珍しい寺である。その広い境内には、 八万四千体地蔵と呼ばれる地蔵尊が並んでいる。以前は塀や樹々があったのだが、それらが取り払われ、裏手からも観られるようになっていた。工事が終わるまでの光景である。

    浄名院 寺・神社・教会

  • 旧吉田屋酒店の前に出た。以前歩いた時にも立ち寄っているが、せっかくなので入ってみることにした。吉田屋は、江戸時代から酒屋を営んでいた商家で、残っている建物は、明治四十三年に建てられたものだそうだ。

    旧吉田屋酒店の前に出た。以前歩いた時にも立ち寄っているが、せっかくなので入ってみることにした。吉田屋は、江戸時代から酒屋を営んでいた商家で、残っている建物は、明治四十三年に建てられたものだそうだ。

    下町風俗資料館付設展示場旧吉田屋酒店 美術館・博物館

  • 館内には、当時の品々が展示されている。

    館内には、当時の品々が展示されている。

  • 壁には、宣伝用の絵なども飾られていた。

    壁には、宣伝用の絵なども飾られていた。

  • 吉田屋の向かいには、観光客に人気の喫茶がある。大正時代に建てられた和洋折衷のような建物である。店自体は平成十八年に閉店となり、今はNPO法人が観光用に運営している。

    吉田屋の向かいには、観光客に人気の喫茶がある。大正時代に建てられた和洋折衷のような建物である。店自体は平成十八年に閉店となり、今はNPO法人が観光用に運営している。

  • 間の道を入ると、和食の店と手焼きのせんべい屋が軒を連ねる。

    間の道を入ると、和食の店と手焼きのせんべい屋が軒を連ねる。

    嵯峨の家 グルメ・レストラン

  • その先の大雄寺の脇には、明治三十三年創業の和菓子屋『谷中岡埜栄泉』の風情のある木造の建物がある。

    その先の大雄寺の脇には、明治三十三年創業の和菓子屋『谷中岡埜栄泉』の風情のある木造の建物がある。

    谷中岡埜栄泉 グルメ・レストラン

  • 大雄寺を拝観。境内には、大きな楠がある。その根元には、山岡鉄舟の義兄である高橋泥舟の墓が、ひっそりと立っている。

    大雄寺を拝観。境内には、大きな楠がある。その根元には、山岡鉄舟の義兄である高橋泥舟の墓が、ひっそりと立っている。

    大雄寺 寺・神社・教会

  • 脇道に入ると、古い建物があった。前に置かれていた看板を見ると、美容室を営んでいるようだ。

    脇道に入ると、古い建物があった。前に置かれていた看板を見ると、美容室を営んでいるようだ。

  • さらに路地へ入ると、道のチョークで絵が書かれている。かつて、東京の下町までは、ごく普通に見られた光景だが、今は道が拡幅され、車が頻繁に通るようになり、ほとんど見られなくなった。区画整理もされず、戦前の町割りが残るこの界隈は、まだ下町の情緒が微かに残っている。

    さらに路地へ入ると、道のチョークで絵が書かれている。かつて、東京の下町までは、ごく普通に見られた光景だが、今は道が拡幅され、車が頻繁に通るようになり、ほとんど見られなくなった。区画整理もされず、戦前の町割りが残るこの界隈は、まだ下町の情緒が微かに残っている。

  • そんな町の一角に、戦災に遭わず、奇跡的に残った木造の町屋が残されている。今は、『あかり』と言う名で商業地となっている。その入口にあるのが、『谷中ビアホール』である。

    そんな町の一角に、戦災に遭わず、奇跡的に残った木造の町屋が残されている。今は、『あかり』と言う名で商業地となっている。その入口にあるのが、『谷中ビアホール』である。

    谷中ビアホール グルメ・レストラン

  • 前にも入ったことがあるが、平日なら空いているだろうと、立ち寄ってみることにする。

    前にも入ったことがあるが、平日なら空いているだろうと、立ち寄ってみることにする。

  • 入口の丸い電球が良い感じだ。

    入口の丸い電球が良い感じだ。

  • 中へ入ると、一番乗りであった。他に客がいないので、許可を頂いて、店内を撮影させていただくことにする。

    中へ入ると、一番乗りであった。他に客がいないので、許可を頂いて、店内を撮影させていただくことにする。

  • 二階へ上がる階段も趣がある。

    二階へ上がる階段も趣がある。

  • 二階は座敷になっていて、三人以上で利用できる。

    二階は座敷になっていて、三人以上で利用できる。

  • 一階には、二人掛けのテーブル席が点在する。

    一階には、二人掛けのテーブル席が点在する。

  • その一角に席を決め、まずは四種飲み比べを注文。ここの麦酒は、かのアウグスビールが醸しているのだが、『谷中』を冠する麦酒は、ここでしか味わえない。

    その一角に席を決め、まずは四種飲み比べを注文。ここの麦酒は、かのアウグスビールが醸しているのだが、『谷中』を冠する麦酒は、ここでしか味わえない。

  • 料理は、定番の『土鍋ローストフランクフルト』と、ハムカツとする。やはり、麦酒にはソーセージが良く合う。

    料理は、定番の『土鍋ローストフランクフルト』と、ハムカツとする。やはり、麦酒にはソーセージが良く合う。

  • 窓には、ねじ締めの古風な真鍮製の鍵が付いている。

    窓には、ねじ締めの古風な真鍮製の鍵が付いている。

  • 麦酒のおかわりは、もうひとつの四種飲み比べとした。アウグス三種と谷中ブラックである。今回は八種類飲んでみたが、どれも飲みやすかった。

    麦酒のおかわりは、もうひとつの四種飲み比べとした。アウグス三種と谷中ブラックである。今回は八種類飲んでみたが、どれも飲みやすかった。

  • 次に合わせたのは、小あじ・子イワシのみりん干し焼きと、クリームチーズの西京味噌漬け&ブルーベリーである。どちらも美味しかったが、量が少ないのが玉に瑕であった。

    次に合わせたのは、小あじ・子イワシのみりん干し焼きと、クリームチーズの西京味噌漬け&ブルーベリーである。どちらも美味しかったが、量が少ないのが玉に瑕であった。

  • 麦酒を堪能した後、他の建物も見学。木造の民家と井戸と言う、江戸から続く東京らしい路地裏の風景が残っている。

    麦酒を堪能した後、他の建物も見学。木造の民家と井戸と言う、江戸から続く東京らしい路地裏の風景が残っている。

    上野桜木あたり 名所・史跡

  • もう一軒は、店などとして利用されている。冬枯れのおかげで、建物の姿が良く見える。

    もう一軒は、店などとして利用されている。冬枯れのおかげで、建物の姿が良く見える。

  • 中へ入ると、一階には、オリーブを扱う店であった。

    中へ入ると、一階には、オリーブを扱う店であった。

  • 二階にも、小さな店などがあるようだ。やっているかどうかは、靴箱などで使われる鍵を利用しているのが面白い。

    二階にも、小さな店などがあるようだ。やっているかどうかは、靴箱などで使われる鍵を利用しているのが面白い。

  • 二階へ上がると、古風な背面台があった。

    二階へ上がると、古風な背面台があった。

  • 板張りの天井からは、しずく型の電球が下がっている。新しそうだが、この建物に良く似合っていた。

    板張りの天井からは、しずく型の電球が下がっている。新しそうだが、この建物に良く似合っていた。

  • 『あたり』を後にして、谷中霊園の方へと歩いて行く。その入口手前に、斜めに走る道で街割りが分断されている一角がある。そこは、かつての天王寺門前にあたり、新茶屋町と言う場所であった。通称『いろは茶屋』と呼ばれた岡場所があった場所であり、鬼平犯科帳でも度々登場している。

    『あたり』を後にして、谷中霊園の方へと歩いて行く。その入口手前に、斜めに走る道で街割りが分断されている一角がある。そこは、かつての天王寺門前にあたり、新茶屋町と言う場所であった。通称『いろは茶屋』と呼ばれた岡場所があった場所であり、鬼平犯科帳でも度々登場している。

  • この界隈にも、古い町屋が残り、なかなか風情がある。

    この界隈にも、古い町屋が残り、なかなか風情がある。

  • 向かいには、霊園に付き物の花屋もある。前に訪れた時は風情があったのだが、観光客向けのよくある喫茶が併設され、雰囲気が変わっていた。かつては、横山大観なども訪れた歴史ある建物だが、令和二年に一旦閉店したそうだ。その後、新しい運営会社により改装され、令和五年の夏に再開したそうである。

    向かいには、霊園に付き物の花屋もある。前に訪れた時は風情があったのだが、観光客向けのよくある喫茶が併設され、雰囲気が変わっていた。かつては、横山大観なども訪れた歴史ある建物だが、令和二年に一旦閉店したそうだ。その後、新しい運営会社により改装され、令和五年の夏に再開したそうである。

    花重谷中茶屋 グルメ・レストラン

  • 喫茶には興味が無いので、店舗の方へ入る。すると、二階が見学できると言うので、上がってみると、そこでは、正月飾りなどが展示販売されていた。その中に、なかなか良いものがあったので、自宅用に購入した。

    喫茶には興味が無いので、店舗の方へ入る。すると、二階が見学できると言うので、上がってみると、そこでは、正月飾りなどが展示販売されていた。その中に、なかなか良いものがあったので、自宅用に購入した。

  • 花重の先は、谷中霊園である。その奥には、いつの間にか高層マンションが立っていた。景観を阻害するような建物が、いとも簡単に建てられてしまうこの国は、文化意識があまりにも低過ぎる。

    花重の先は、谷中霊園である。その奥には、いつの間にか高層マンションが立っていた。景観を阻害するような建物が、いとも簡単に建てられてしまうこの国は、文化意識があまりにも低過ぎる。

  • それでも、この界隈には、まだ漏示裏の景観が微かに残っている。

    それでも、この界隈には、まだ漏示裏の景観が微かに残っている。

  • 霊園脇の細い道に入る。この道沿いは、かつて天王寺中門前町と呼ばれた界隈で、西側には多くの寺院が立ち並んでいた場所である。今でも寺町となっているが、その中に、築百年と言う古い建物がある。今は、お酒や食を提供する店となっているのだが、残念ながら、定休日であった。この店の斜向かい辺りに、かつて、笠森稲荷があり、お仙が働いていた水茶屋があった。

    霊園脇の細い道に入る。この道沿いは、かつて天王寺中門前町と呼ばれた界隈で、西側には多くの寺院が立ち並んでいた場所である。今でも寺町となっているが、その中に、築百年と言う古い建物がある。今は、お酒や食を提供する店となっているのだが、残念ながら、定休日であった。この店の斜向かい辺りに、かつて、笠森稲荷があり、お仙が働いていた水茶屋があった。

    散ポタカフェのんびりや グルメ・レストラン

  • そのすぐ先に、隅切りの建物があった。その隅切り部分に入口が設けられていて、木製の扉がなかなか洒落ていた。

    そのすぐ先に、隅切りの建物があった。その隅切り部分に入口が設けられていて、木製の扉がなかなか洒落ていた。

  • 少し歩くと、功徳林寺と言う寺があり、その境内にも笠森稲荷が祀られている。この寺の創建は明治二十六年であり、笠森稲荷も改めて勧請されたものである。そのため、笠森お仙とは縁が無い。ところが、門前に置かれた案内板には、所縁があると書かれていた。

    少し歩くと、功徳林寺と言う寺があり、その境内にも笠森稲荷が祀られている。この寺の創建は明治二十六年であり、笠森稲荷も改めて勧請されたものである。そのため、笠森お仙とは縁が無い。ところが、門前に置かれた案内板には、所縁があると書かれていた。

    功徳林寺 寺・神社・教会

  • 霊園に入りトイレを探していると、駐在所の裏手に、『天王寺五重塔跡』があった。寛政三年(1791)に建立され、往時は関東一の高さを誇り、震災戦災をも潜り抜けた谷中の象徴であったが、昭和三十二年に惜しくも放火により焼失してしまった。

    霊園に入りトイレを探していると、駐在所の裏手に、『天王寺五重塔跡』があった。寛政三年(1791)に建立され、往時は関東一の高さを誇り、震災戦災をも潜り抜けた谷中の象徴であったが、昭和三十二年に惜しくも放火により焼失してしまった。

    天王寺五重塔跡 名所・史跡

  • その近くには、かつて笠森稲荷の別当であった福泉院があった。今は廃寺となり、その跡地は霊園の一部となっている。

    その近くには、かつて笠森稲荷の別当であった福泉院があった。今は廃寺となり、その跡地は霊園の一部となっている。

  • 霊園脇の道に戻ると、すぐの場所に長安寺がある。以前も立ち寄った寺であり、墓地には、明治初期に活躍した日本画家狩野芳崖の墓がある。西洋文化偏重の明治時代、凋落した日本画の復興に努力した画家のひとりである。おかげで、今でも素晴らしい日本画を目にすることが出来るのだ。

    霊園脇の道に戻ると、すぐの場所に長安寺がある。以前も立ち寄った寺であり、墓地には、明治初期に活躍した日本画家狩野芳崖の墓がある。西洋文化偏重の明治時代、凋落した日本画の復興に努力した画家のひとりである。おかげで、今でも素晴らしい日本画を目にすることが出来るのだ。

    長安寺 寺・神社・教会

  • この界隈でも、建て替えが進み、古い町屋は数えるほどである。大工の手仕事を必要としない、工場で生産される加工済みの木材や外壁パネルを組み立てるだけの建物が増え続けている。『建物のファスト化』とは、よく言ったものである。

    この界隈でも、建て替えが進み、古い町屋は数えるほどである。大工の手仕事を必要としない、工場で生産される加工済みの木材や外壁パネルを組み立てるだけの建物が増え続けている。『建物のファスト化』とは、よく言ったものである。

  • 観音寺と言う寺の前を通ると、『赤穂浪士ゆかりの寺』とある。気になったのでお邪魔すると、境内に、四十七士の慰霊塔と伝わる宝篋印塔があった。この寺の六世朝山大和尚の名が刻まれている。この朝山大和尚は、四十七士の近松行重、奥田行高の兄弟であるそうだ。その関係で、赤穂浪士の会合がこの寺で行われていたそうだ。

    観音寺と言う寺の前を通ると、『赤穂浪士ゆかりの寺』とある。気になったのでお邪魔すると、境内に、四十七士の慰霊塔と伝わる宝篋印塔があった。この寺の六世朝山大和尚の名が刻まれている。この朝山大和尚は、四十七士の近松行重、奥田行高の兄弟であるそうだ。その関係で、赤穂浪士の会合がこの寺で行われていたそうだ。

    観音寺 寺・神社・教会

  • さらに歩いて行くと、右手に朝倉彫塑館が見えて来た。明治から昭和にかけて活躍した彫刻家朝倉文夫の住居兼アトリエである。この日は、生誕100年を迎えた娘朝倉響子の特別展が開かれていた。

    さらに歩いて行くと、右手に朝倉彫塑館が見えて来た。明治から昭和にかけて活躍した彫刻家朝倉文夫の住居兼アトリエである。この日は、生誕100年を迎えた娘朝倉響子の特別展が開かれていた。

    台東区立朝倉彫塑館 美術館・博物館

  • そのすぐ先に、谷中で三代続いた銅細工職人の建物を受け継いだ『未来定番研究所』と言う変わった名前の事務所があった。大丸松坂屋百貨店に関係があるそうだ。その隣の銅板建築の建物も風情がある。

    そのすぐ先に、谷中で三代続いた銅細工職人の建物を受け継いだ『未来定番研究所』と言う変わった名前の事務所があった。大丸松坂屋百貨店に関係があるそうだ。その隣の銅板建築の建物も風情がある。

  • 日暮里駅から続く道へ出た。その角に、経王寺がある。明暦元年(1655)創建の寺で、日蓮上人作と伝わる大黒天が祀られている。その山門は、天保七年(1836)に建立されたもので、向かって左手に門番所もある。

    日暮里駅から続く道へ出た。その角に、経王寺がある。明暦元年(1655)創建の寺で、日蓮上人作と伝わる大黒天が祀られている。その山門は、天保七年(1836)に建立されたもので、向かって左手に門番所もある。

    経王寺 (西日暮里) 寺・神社・教会

  • 上野戦争の際に彰義隊が逃げ込んだため、西軍の攻撃を受けている。山門には、今でもその時の銃痕が残っている。

    上野戦争の際に彰義隊が逃げ込んだため、西軍の攻撃を受けている。山門には、今でもその時の銃痕が残っている。

  • そこから西へ向かうと、多くの文人や谷中に住む人たちに愛された場所に出る。そこは、現在『夕焼けだんだん』と呼ばれている。その名の通り、美しい夕焼けが望める場所として名が知れていた。ところが、最近マンションの建設が始まり、その夕焼けが望めなくなってしまった。

    そこから西へ向かうと、多くの文人や谷中に住む人たちに愛された場所に出る。そこは、現在『夕焼けだんだん』と呼ばれている。その名の通り、美しい夕焼けが望める場所として名が知れていた。ところが、最近マンションの建設が始まり、その夕焼けが望めなくなってしまった。

    夕やけだんだん 名所・史跡

  • 建設中のマンションの壁には、著名な文人たちの姿がある。歴史を紡いでいくような印象を強調しているが、その文人墨客が愛した景色を壊す行為をどう考えているのだろうか。

    建設中のマンションの壁には、著名な文人たちの姿がある。歴史を紡いでいくような印象を強調しているが、その文人墨客が愛した景色を壊す行為をどう考えているのだろうか。

  • 『夕焼けだんだん』を下ると、観光客で混雑する谷中銀座の入口に出る。平日だと言うのに、大変な混みようである。

    『夕焼けだんだん』を下ると、観光客で混雑する谷中銀座の入口に出る。平日だと言うのに、大変な混みようである。

  • こちらは人混みを避け、その手前で左に折れる。すると、すぐに静かな街並みとなり、ほっとする。

    こちらは人混みを避け、その手前で左に折れる。すると、すぐに静かな街並みとなり、ほっとする。

  • しばらく歩くと、煉瓦塀が見えて来た。大円寺のものである。

    しばらく歩くと、煉瓦塀が見えて来た。大円寺のものである。

  • 大円寺は、江戸時代から続く寺である。その本殿は、ふたつの御堂がひとつになっている珍しい様式であった。向かって左手に日蓮上人を祀り、右手には瘡守稲荷を祀っている。

    大円寺は、江戸時代から続く寺である。その本殿は、ふたつの御堂がひとつになっている珍しい様式であった。向かって左手に日蓮上人を祀り、右手には瘡守稲荷を祀っている。

    大円寺 寺・神社・教会

  • 境内には、『錦絵開祖鈴木春信』の碑と、永井荷風の撰による『笠森阿仙の碑」が立っている。永井荷風は、この寺に祀られている瘡守稲荷が笠森お仙所縁のものとして碑を建てたのだが、この瘡守稲荷は、享和年間に小石川白山から移されたものものなので、実は時代が合わないのである。

    境内には、『錦絵開祖鈴木春信』の碑と、永井荷風の撰による『笠森阿仙の碑」が立っている。永井荷風は、この寺に祀られている瘡守稲荷が笠森お仙所縁のものとして碑を建てたのだが、この瘡守稲荷は、享和年間に小石川白山から移されたものものなので、実は時代が合わないのである。

  • その碑の近くで、古風な井戸のポンプを見つけた。

    その碑の近くで、古風な井戸のポンプを見つけた。

  • 大円寺のすぐ近くに、元治元年(1864)創業の江戸千代紙を取り扱う『菊寿堂いせ辰』がある。今回は、千代紙の暦と招福えと飴を買い求めた。

    大円寺のすぐ近くに、元治元年(1864)創業の江戸千代紙を取り扱う『菊寿堂いせ辰』がある。今回は、千代紙の暦と招福えと飴を買い求めた。

    いせ辰 (谷中本店) 専門店

  • 『いせ辰』の前の三崎坂を上る。この坂も、鬼平犯科帳の作中に幾たびか登場する。『首ふり坂』とも呼ばれる。

    『いせ辰』の前の三崎坂を上る。この坂も、鬼平犯科帳の作中に幾たびか登場する。『首ふり坂』とも呼ばれる。

    三崎坂 名所・史跡

  • その坂の途中に、小さな寺があった。長久寺と言う。鬼平犯科帳の『老盗の夢』の作中で、大盗賊蓑火の喜之助が仮寓していたのが、首ふり坂にあった長遠寺の離れ。しかし、長遠寺と言う寺は実在しない。なので、この長久寺が比定されると考えている。

    その坂の途中に、小さな寺があった。長久寺と言う。鬼平犯科帳の『老盗の夢』の作中で、大盗賊蓑火の喜之助が仮寓していたのが、首ふり坂にあった長遠寺の離れ。しかし、長遠寺と言う寺は実在しない。なので、この長久寺が比定されると考えている。

    長久寺 寺・神社・教会

  • 長久寺の隣に、全生庵と言う寺があった。境内には、山岡鉄舟が眠っている。かなり大きな墓で、高橋泥舟の墓とは比べ物にもならない。勝海舟は論外として、幕末の三舟の中では、高橋泥舟が最も好感が持てる。

    長久寺の隣に、全生庵と言う寺があった。境内には、山岡鉄舟が眠っている。かなり大きな墓で、高橋泥舟の墓とは比べ物にもならない。勝海舟は論外として、幕末の三舟の中では、高橋泥舟が最も好感が持てる。

    全生庵 寺・神社・教会

  • 斜向かいにある天龍院を訪ねる。その墓地には、幕末に活躍した蘭方医伊東玄朴が葬られている。彼が設立した種痘所は、後に幕府直轄となり、東大医学部の前身となったことは有名だ。

    斜向かいにある天龍院を訪ねる。その墓地には、幕末に活躍した蘭方医伊東玄朴が葬られている。彼が設立した種痘所は、後に幕府直轄となり、東大医学部の前身となったことは有名だ。

    天龍院 寺・神社・教会

  • さらに登って行くと、長屋のような建物があった。その一角に、雰囲気の違う喫茶が隣り合わせで入っていた。入ってみたかったが、今回は止めておいた。

    さらに登って行くと、長屋のような建物があった。その一角に、雰囲気の違う喫茶が隣り合わせで入っていた。入ってみたかったが、今回は止めておいた。

  • そのすぐ先に、杉玉が吊られた古い建物があった。昭和初期に建てられたもので、宝永三年(1706)創業の伊勢五本店と言う酒屋だったそうだ。<br />

    そのすぐ先に、杉玉が吊られた古い建物があった。昭和初期に建てられたもので、宝永三年(1706)創業の伊勢五本店と言う酒屋だったそうだ。

  • 近寄ってみると、何と麦酒工房であった。すでに谷中ビアホールで飲んでいたのだが、気になるので入ってみることにした。中はかなり手が入れられていて、あまり風情は無い。

    近寄ってみると、何と麦酒工房であった。すでに谷中ビアホールで飲んでいたのだが、気になるので入ってみることにした。中はかなり手が入れられていて、あまり風情は無い。

  • 麦酒は六種類あったが、変わり種が多かったので、その中から一番普通そうな『飾りじゃないのよ麦芽は』と言う名のセッションエールを注文。飲んでみると、名前の割には普通の味わいであった。

    麦酒は六種類あったが、変わり種が多かったので、その中から一番普通そうな『飾りじゃないのよ麦芽は』と言う名のセッションエールを注文。飲んでみると、名前の割には普通の味わいであった。

  • 坂を登り切り、右手の脇道に入る。江戸時代には、多くの寺院が集まっていた場所である。その路地裏に、取り残されたように懐かしい街並みが残っていた。

    坂を登り切り、右手の脇道に入る。江戸時代には、多くの寺院が集まっていた場所である。その路地裏に、取り残されたように懐かしい街並みが残っていた。

  • その道は、途中で鉤の手になっている。そして、その先には一乗寺の塀が続いている。その一乗寺沿いの道は、やはり鬼平犯科帳の舞台となった場所である。かの兎忠こと木村忠吾が初登場する『谷中・いろは茶屋』の中で、『いろは茶屋』に向かう木村忠吾が通った道である。その先の鉤の手の場所で、偶然盗賊に出くわしている。

    その道は、途中で鉤の手になっている。そして、その先には一乗寺の塀が続いている。その一乗寺沿いの道は、やはり鬼平犯科帳の舞台となった場所である。かの兎忠こと木村忠吾が初登場する『谷中・いろは茶屋』の中で、『いろは茶屋』に向かう木村忠吾が通った道である。その先の鉤の手の場所で、偶然盗賊に出くわしている。

  • 一乗寺は、戦国末期に創建された寺だそうだ。本堂は、明和九年(1772)の焼失後に再建されたものである。他の建物も、戦前までに建てられたものだそうだ。

    一乗寺は、戦国末期に創建された寺だそうだ。本堂は、明和九年(1772)の焼失後に再建されたものである。他の建物も、戦前までに建てられたものだそうだ。

    一乗寺 寺・神社・教会

  • 一乗寺の前から、鶯谷駅の方へと向かう。その途中に、『喜久月』と言う古風な和菓子屋があった。旅や散歩の途中で見つけた和菓子屋には立ち寄ることにしているので、迷わず入ることにした。

    一乗寺の前から、鶯谷駅の方へと向かう。その途中に、『喜久月』と言う古風な和菓子屋があった。旅や散歩の途中で見つけた和菓子屋には立ち寄ることにしているので、迷わず入ることにした。

    喜久月 グルメ・レストラン

    文人も愛した和菓子 by 旅猫さん
  • 趣のある店内には、木枠の商品棚が置かれ、商品が飾られている。どれも美味しそうだったが、柚子餅と柚子饅頭、あを梅、上生菓子の『冬椿』を選んだ。帰ってから食べてみたが、どれもとても美味しかった。平日にふらりと訪れた上野桜木・谷中界隈。三つの笠森稲荷と鬼平の舞台を巡る楽しい一日であった。

    趣のある店内には、木枠の商品棚が置かれ、商品が飾られている。どれも美味しそうだったが、柚子餅と柚子饅頭、あを梅、上生菓子の『冬椿』を選んだ。帰ってから食べてみたが、どれもとても美味しかった。平日にふらりと訪れた上野桜木・谷中界隈。三つの笠森稲荷と鬼平の舞台を巡る楽しい一日であった。

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この旅行記へのコメント (6)

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  • willyさん 2025/12/23 10:18:21
    ニアミス?
    旅猫さん

    タイトルでおお、と思いました。大したわけもないのですが、私は以前から住んでいる与野の家にいて上野桜木には家族の一部が暮らしております。平日は会社帰りにご飯を作りにいっていますので、鶯谷駅から浄名院までは毎日通っている道すじです。埼玉から向かうときはは日暮里から谷中墓地を抜けていくのでこのあたりも同様。しかし谷中ビアホールやその他ご紹介の各所については知らないところも多く、大変興味深く拝見しました。
    そして歩かれたのは10日???その日わたしも日本医科大付属病院にいくのに、そのあたり歩いておりました。すれ違っていたかもしれませんね(笑)

    willy

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2025/12/23 17:39:34
    RE: ニアミス?
    willyさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    何と、10日にあの界隈を歩かれていましたか!
    もしかしたら、本当にすれ違っていたかもしれませんね。

    上野桜木にご家族がお暮しとは!
    そうすると、街の変遷もずっと見て来られたのでしょうね。
    それでも、高層ビルが建つような再開発の波は来ていないようなので、他に比べれば、大きな変化はないのでしょうかね。

    日常に歩いている場所は、意外といつもの場所しか通らないので、かえって知らない場所が多いと思います。
    地図を頼りに適当に彷徨い歩いているので、色々と発見があります。
    それが、街歩きの面白さですね。

    旅猫
  • Tripにこちゃんさん 2025/12/23 06:51:28
    おはようございます。
    旅猫さま

    いつも見て頂き、ありがとうございます。

    東京は良く知らないので、グーグルマップで検索してみました。
    台東区にあるのですね。
    東京は、人が多くてごちゃごちゃしていると主人は思っています。
    しかし、紹介していただいた上野桜木や谷中界隈は、落ち着いた家並みがあります。
    これならば、私たちもゆっくり散歩できそうです。
    近くには、以前から行きたかった東京国立博物館や国立科学博物館がありました。
    これらに行くときに、回ってみたいと思います。
    私のように、地方にいる物にとっては、旅猫さまの旅行記は助かります。
    これからも旅行記を、楽しみにしています。

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2025/12/23 17:33:06
    RE: おはようございます。
    Tripにこちゃんさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    こちらこそ、いつもありがとうございます。

    上野桜木や谷中は、下谷と呼ばれる地域に含まれ、東京の下町を構成する街です。
    台東区は、そのほとんどがかつての下町になります。
    東京は、人が多くてごみごみしていますが、実際には、一部の繁華街に集中しているため、少し外れれば人も疎らです。
    国内外の観光客でごった返す谷根千地区ですが、すぐ隣の上野桜木は比較的静かです。

    博物館のある上野公園からもほど近く、散策にはお勧めです。
    旅行記がお役に立てれば嬉しいです。

    旅猫
  • ポテのお散歩さん 2025/12/19 22:47:55
    街の景色
    旅猫さん こんばんは。

    公園の遊具、『グローブジャングル』と言うのですね。
    この遊具で よく遊びました。
    児童公園を見ても、ほとんど遊ぶものが無くなりましたね。

    歩かれた道には、残っているのが奇跡の様な建物ばかりで
    わずかながらタイムスリップしたかのような佇まいです。
    逆に、『夕やけだんだん』の様変わりにはショックを受けました(^-^;
    私もマンションに住んでいるので 何も言えませんが。。。
    荒川区のHPでは、観光スポット欄の日暮里地域に紹介されています。
    地域を代表する景色が無くなってしまいましたね。

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2025/12/20 08:01:26
    RE: 街の景色
    ポテさん、おはようございます。

    いつもありがとうございます。
    ジャングルジムの変形のような感じみたいです。
    最近は、老朽化による事故なども起きているので、撤去されてしまうことが多いため、こうして残されているのは、珍しいですね。

    上野桜木から谷中に掛けては、戦災を免れた建物が点在していて、かつての東京の面影を垣間見ることが出来ます。
    『あかり』と言う場所は、奇跡的に三軒が集まって残っていて、とても風情があります。
    その界隈の隣に、観光客で大混雑している谷根千地区があります。
    夕焼けだんだんもその一角にありますが、かつての階段状からの美しい夕焼けの眺めは過去のものになってしまいました。
    地元の人たちに愛され、公募で決められた名前なので、その眺めが失われたのは痛恨の極みです。
    これから訪れる人は、あの階段が、何故『夕焼けだんだん』なのか分からなくなるでしょうね。

    旅猫

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