神楽坂・飯田橋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
14回目のそぞろ歩きは、神楽坂駅界隈である。神楽坂とは言え、学生時代に過ごした、所謂神楽坂ではない。神楽坂駅は、矢来町にあるのだ。今回は、神楽坂駅から、反時計回りに、赤城元町、赤城下町、中里町、天神町、南榎町、横寺町、神楽坂6丁目と歩いた。<br /><br />(2023.02.28 投稿)

東京そぞろ 其の14 赤城元町・矢来町界隈

157いいね!

2023/02/18 - 2023/02/18

12位(同エリア473件中)

旅行記グループ 東京そぞろ

6

34

旅猫

旅猫さん

14回目のそぞろ歩きは、神楽坂駅界隈である。神楽坂とは言え、学生時代に過ごした、所謂神楽坂ではない。神楽坂駅は、矢来町にあるのだ。今回は、神楽坂駅から、反時計回りに、赤城元町、赤城下町、中里町、天神町、南榎町、横寺町、神楽坂6丁目と歩いた。

(2023.02.28 投稿)

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

PR

  • 久しぶりに降り立った神楽坂駅は、随分佇まいが変わっていた。神楽坂駅がある場所は、かつて御先手組の与力同心が暮らしていた場所である。南側には、若狭小浜藩酒井家の広大な下屋敷があり、屋敷の周囲に竹矢来が組まれていたので、現在の早稲田通りは当時牛込矢来下と呼ばれていた。

    久しぶりに降り立った神楽坂駅は、随分佇まいが変わっていた。神楽坂駅がある場所は、かつて御先手組の与力同心が暮らしていた場所である。南側には、若狭小浜藩酒井家の広大な下屋敷があり、屋敷の周囲に竹矢来が組まれていたので、現在の早稲田通りは当時牛込矢来下と呼ばれていた。

  • 1a出口から左手に進むと、正面に大きな鳥居がある。赤城神社である。その境内は、最後に訪れた10数年前から、かなり佇まいが変わっていた。平成22年(2010)に社殿を建て替え、敷地内にマンションを建てたそうである。多くの樹々が伐採され、雰囲気が変わってしまった。

    1a出口から左手に進むと、正面に大きな鳥居がある。赤城神社である。その境内は、最後に訪れた10数年前から、かなり佇まいが変わっていた。平成22年(2010)に社殿を建て替え、敷地内にマンションを建てたそうである。多くの樹々が伐採され、雰囲気が変わってしまった。

  • 社殿は、以前よりも高い場所に建っている。その建物は硝子張りの神社とは思えないものであった。まるで、観光地の休憩施設の様である。社務所もマンションの中にあり、以前の赤城神社の風情はまったく無かった。

    社殿は、以前よりも高い場所に建っている。その建物は硝子張りの神社とは思えないものであった。まるで、観光地の休憩施設の様である。社務所もマンションの中にあり、以前の赤城神社の風情はまったく無かった。

  • その社務所で、御朱印と兎のおみくじをいただく。兎のおみくじは、焼き物の兎の中におみくじが入っていた。開いてみると、何と大吉であった。今年は、まだおみくじを引いていなかったので、これはかなり運が良い。

    その社務所で、御朱印と兎のおみくじをいただく。兎のおみくじは、焼き物の兎の中におみくじが入っていた。開いてみると、何と大吉であった。今年は、まだおみくじを引いていなかったので、これはかなり運が良い。

  • 境内の片隅に、赤城出世稲荷神社が鎮座していた。室町時代に赤城神社が勧請される前から鎮座していた地主神である。今回の旅の無事は、こちらで祈願した。

    境内の片隅に、赤城出世稲荷神社が鎮座していた。室町時代に赤城神社が勧請される前から鎮座していた地主神である。今回の旅の無事は、こちらで祈願した。

  • 再開発された境内には、古いものは無いかと思っていたが、出世稲荷の前に、以前からあるお狐様が置かれてた。

    再開発された境内には、古いものは無いかと思っていたが、出世稲荷の前に、以前からあるお狐様が置かれてた。

  • 境内に西側の石段を降りると、坂道がある。赤城坂である。その名が示す通り、赤城神社の脇を北へと下る坂道である。この坂は、道幅も道筋も、江戸時代とまったくと言っていいほど変わっていない。

    境内に西側の石段を降りると、坂道がある。赤城坂である。その名が示す通り、赤城神社の脇を北へと下る坂道である。この坂は、道幅も道筋も、江戸時代とまったくと言っていいほど変わっていない。

  • その坂の途中から、さらに西へと歩いて行く。すぐのところに、赤茶色の屋根が目立つ平屋の民家があった。前を通ると、そこはドーナツ屋であった。開店前だったが、開いていれば食べてみたかった。

    その坂の途中から、さらに西へと歩いて行く。すぐのところに、赤茶色の屋根が目立つ平屋の民家があった。前を通ると、そこはドーナツ屋であった。開店前だったが、開いていれば食べてみたかった。

  • さらに歩いて行くと、いかにも路地裏と言う場所があった。この界隈は、まだ再開発の波が辛うじて押し寄せて無く、昭和の東京の風情が色濃く残る。しかし、すぐ隣の区画には、壁のようなマンションが迫っていた。

    さらに歩いて行くと、いかにも路地裏と言う場所があった。この界隈は、まだ再開発の波が辛うじて押し寄せて無く、昭和の東京の風情が色濃く残る。しかし、すぐ隣の区画には、壁のようなマンションが迫っていた。

  • その舗装されていない路地に入ると、傍らにコンクリート製のごみ箱が置かれていた。今では滅多にお目にかかれない代物だが、昭和30年代くらいまでは、よく見られたそうである。東京オリンピックの開催が決まると、街の景観を良くするために撤去され、今観ることが出来るのは、それを免れたものたちである。

    その舗装されていない路地に入ると、傍らにコンクリート製のごみ箱が置かれていた。今では滅多にお目にかかれない代物だが、昭和30年代くらいまでは、よく見られたそうである。東京オリンピックの開催が決まると、街の景観を良くするために撤去され、今観ることが出来るのは、それを免れたものたちである。

  • 路地のある赤城下町は、江戸の頃と町割りがほとんど変わっていない。当時は、持組と呼ばれる将軍直属の弓鉄砲組の組屋敷が建ち並んでいた。今も道幅は狭く、車はほとんど通らず、行き交う人が多い。ここは、都心にあって、人の暮らしが感じられる街である。

    路地のある赤城下町は、江戸の頃と町割りがほとんど変わっていない。当時は、持組と呼ばれる将軍直属の弓鉄砲組の組屋敷が建ち並んでいた。今も道幅は狭く、車はほとんど通らず、行き交う人が多い。ここは、都心にあって、人の暮らしが感じられる街である。

  • 天神町との境を早稲田通りの方へと歩いて行くと、道は緩い坂道となっている。地図には『比丘尼坂』とあるが、切絵図などには坂名は無い。その坂の途中には、綺麗に化粧直しされた木造モルタル造りの建物が並んでいた。ひとつは企業が入り、もうひとつには芸術関係の人が住んでいるようである。古い家を巧く利用していて嬉しくなる。

    天神町との境を早稲田通りの方へと歩いて行くと、道は緩い坂道となっている。地図には『比丘尼坂』とあるが、切絵図などには坂名は無い。その坂の途中には、綺麗に化粧直しされた木造モルタル造りの建物が並んでいた。ひとつは企業が入り、もうひとつには芸術関係の人が住んでいるようである。古い家を巧く利用していて嬉しくなる。

  • 天神町に入る。そこは、御先手組の組屋敷が建ち並んできた場所である。江戸は、坂の多い街であるが、現在の東京も起伏が多いままである。歩いていると、突然、急な石段が現れたりする。とは言え、そんな石段も、再開発の波には勝てず、マンションなどが建つと、平らに整地され、それらの痕跡は失われてしまう。

    天神町に入る。そこは、御先手組の組屋敷が建ち並んできた場所である。江戸は、坂の多い街であるが、現在の東京も起伏が多いままである。歩いていると、突然、急な石段が現れたりする。とは言え、そんな石段も、再開発の波には勝てず、マンションなどが建つと、平らに整地され、それらの痕跡は失われてしまう。

  • その先で、江戸川橋通りに出た。その通りは、すぐ南で早稲田通りと出会う。その場所は、緩やかに弧を描いて曲がっていて、地蔵坂と呼ばれている。由来は定かではく、資料によっては場所も違うようだ。脇に立っていた標柱に寄れば、坂沿いに地蔵堂があったからではないかとしている。

    その先で、江戸川橋通りに出た。その通りは、すぐ南で早稲田通りと出会う。その場所は、緩やかに弧を描いて曲がっていて、地蔵坂と呼ばれている。由来は定かではく、資料によっては場所も違うようだ。脇に立っていた標柱に寄れば、坂沿いに地蔵堂があったからではないかとしている。

  • 坂上の交差点を渡り、西へと歩いて行くことにする。詩人生田春月の旧居跡を横目で見ながらしばらく歩くと、左手に宗柏寺と言う寺があった。その境内には、桜の古木が何本かあり、春には美しそうである。

    坂上の交差点を渡り、西へと歩いて行くことにする。詩人生田春月の旧居跡を横目で見ながらしばらく歩くと、左手に宗柏寺と言う寺があった。その境内には、桜の古木が何本かあり、春には美しそうである。

  • その裏手の墓地には、『平将門一族之霊位』と言うものが立っていた。最近建てられたもののようだが、将門とこの寺の関係はわからなかった。

    その裏手の墓地には、『平将門一族之霊位』と言うものが立っていた。最近建てられたもののようだが、将門とこの寺の関係はわからなかった。

  • その寺の裏手に、小さな社があった。両社稲荷神社と呼ばれる社であるが、正式な名称は稲荷神社だそうだ。江戸時代の元和年間にこの地に勧請された際、赤城神を合祀していたことから、両社と呼ばれていたそうだが、今は赤城神を合祀していない。それでも、両社と呼ばれている。江戸時代から、変わらず信仰されていることが、その狭い境内が清らかなことでわかる。

    その寺の裏手に、小さな社があった。両社稲荷神社と呼ばれる社であるが、正式な名称は稲荷神社だそうだ。江戸時代の元和年間にこの地に勧請された際、赤城神を合祀していたことから、両社と呼ばれていたそうだが、今は赤城神を合祀していない。それでも、両社と呼ばれている。江戸時代から、変わらず信仰されていることが、その狭い境内が清らかなことでわかる。

  • 稲荷神社の一本西側の坂道を登る。滝の坂と地図にはあるが、詳しくは分からない。坂の辺りは牛込榎町と呼ばれた界隈で、江戸の頃には御先手組の与力同心の屋敷が並んでいた。登り切った先で左に曲がり、矢来町へと入る。すると、十字路の角に公園があった。その場所は、若狭小浜藩邸があった場所で、かの杉田玄白もここで生まれている。また、私の好きな画家鏑木清方が住んでいた場所でもある。

    稲荷神社の一本西側の坂道を登る。滝の坂と地図にはあるが、詳しくは分からない。坂の辺りは牛込榎町と呼ばれた界隈で、江戸の頃には御先手組の与力同心の屋敷が並んでいた。登り切った先で左に曲がり、矢来町へと入る。すると、十字路の角に公園があった。その場所は、若狭小浜藩邸があった場所で、かの杉田玄白もここで生まれている。また、私の好きな画家鏑木清方が住んでいた場所でもある。

  • 矢来町の南側にある南榎町の一角に、小説家泉鏡花の旧居跡があった。4年間ほどしか暮らしていなかったそうだが、代表作のひとつである『高野聖』は。ここで書かれたそうだ。今は集合住宅が立ち、面影は無い。

    矢来町の南側にある南榎町の一角に、小説家泉鏡花の旧居跡があった。4年間ほどしか暮らしていなかったそうだが、代表作のひとつである『高野聖』は。ここで書かれたそうだ。今は集合住宅が立ち、面影は無い。

  • 南榎町から矢来町の南側を抜け、横寺町へと向かう。その途中、秋葉神社を見つけた。その境内には、正雪地蔵が祀られていた。拝見すると、普通の石のようで地蔵のようには見えない。切支丹燈篭の一部ではないかとも云われているそうだが、詳しいことは分からないようだ。

    南榎町から矢来町の南側を抜け、横寺町へと向かう。その途中、秋葉神社を見つけた。その境内には、正雪地蔵が祀られていた。拝見すると、普通の石のようで地蔵のようには見えない。切支丹燈篭の一部ではないかとも云われているそうだが、詳しいことは分からないようだ。

  • 歩いていると、未舗装の道に石が敷かれている場所があった。道の片側には新しい集合住宅が立ち、もう片側は新建材の住宅と更地となっている。この路地も、以前は木造の民家が両側に建ち、風情があったのだろう。

    歩いていると、未舗装の道に石が敷かれている場所があった。道の片側には新しい集合住宅が立ち、もう片側は新建材の住宅と更地となっている。この路地も、以前は木造の民家が両側に建ち、風情があったのだろう。

  • 横寺町に入り、そぞろに歩いていると、また石の敷かれた路地があった。しかも、奥に板塀も見える。これはと思い路地に入ってみると、そこは子供の頃に見た東京の街が、奇跡的に残っていた。

    横寺町に入り、そぞろに歩いていると、また石の敷かれた路地があった。しかも、奥に板塀も見える。これはと思い路地に入ってみると、そこは子供の頃に見た東京の街が、奇跡的に残っていた。

  • 路地は奥で直角に曲がり、その角には街灯がある。木造モルタル造りの民家が立ち、樹々もある。この路地の一角には、かつて尾崎紅葉が暮らした家があったそうだ。当時の建物は無いが、所縁の鳥居家は、今も同じ場所に建っていた。

    路地は奥で直角に曲がり、その角には街灯がある。木造モルタル造りの民家が立ち、樹々もある。この路地の一角には、かつて尾崎紅葉が暮らした家があったそうだ。当時の建物は無いが、所縁の鳥居家は、今も同じ場所に建っていた。

  • 横寺町から箪笥町へと続く坂を下ると、その坂下に狭い階段があった。標柱が立ち、『袖摺坂』とある。『御府内備考』に寄れば、当時、高台と垣根に挟まれた狭い坂で、すれ違う人の袖が摺り合うほどだったそうだ。その坂の西側には、明治になってから造られた大久保通りへ下る緩い坂もある。五味坂と言うようだ。『袖摺坂』の別名である『芥坂』から採ったのかもしれない。

    横寺町から箪笥町へと続く坂を下ると、その坂下に狭い階段があった。標柱が立ち、『袖摺坂』とある。『御府内備考』に寄れば、当時、高台と垣根に挟まれた狭い坂で、すれ違う人の袖が摺り合うほどだったそうだ。その坂の西側には、明治になってから造られた大久保通りへ下る緩い坂もある。五味坂と言うようだ。『袖摺坂』の別名である『芥坂』から採ったのかもしれない。

  • その坂を降りると、広い通りに出た。大久保通りである。その通りも坂となっていて、中程に『弁天坂』の説明板が置かれていた。名の由来は、坂の南側にある南蔵院にあった弁天堂に因むようだ。ただ、説明に寄れば、坂上に横寺町があるとしているので、この坂ではなく、『袖摺坂』が『弁天坂』ではないかと思われる。

    その坂を降りると、広い通りに出た。大久保通りである。その通りも坂となっていて、中程に『弁天坂』の説明板が置かれていた。名の由来は、坂の南側にある南蔵院にあった弁天堂に因むようだ。ただ、説明に寄れば、坂上に横寺町があるとしているので、この坂ではなく、『袖摺坂』が『弁天坂』ではないかと思われる。

  • 『袖摺坂』を登り返し、横寺町へ戻る。そして、町を貫く朝日坂を下る。下り始めてすぐの左手に、圓福寺と言う寺があった。どこにでもある様な佇まいの寺であるが、江戸時代には、江戸の庶民に厚く信仰され、大いに賑わっていたそうである。

    『袖摺坂』を登り返し、横寺町へ戻る。そして、町を貫く朝日坂を下る。下り始めてすぐの左手に、圓福寺と言う寺があった。どこにでもある様な佇まいの寺であるが、江戸時代には、江戸の庶民に厚く信仰され、大いに賑わっていたそうである。

  • 坂をさらに下りて行くと、明治から大正にかけ、文芸評論などで活躍した島村抱月が活動拠点とした芸術倶楽部の跡もあった。島村抱月はここで急死し、その二ヶ月後、妻で女優であった松井須磨子もそこで自殺したと言う。芸術座は解散し、今、その跡地には面影すら残っていない。

    坂をさらに下りて行くと、明治から大正にかけ、文芸評論などで活躍した島村抱月が活動拠点とした芸術倶楽部の跡もあった。島村抱月はここで急死し、その二ヶ月後、妻で女優であった松井須磨子もそこで自殺したと言う。芸術座は解散し、今、その跡地には面影すら残っていない。

  • 朝日坂が早稲田通りに出る手前で路地へと入る。少し歩くと、そこだけ時が止まったかのような街並みが現れた。少し手を加えれば、洒落た喫茶になりそうな平屋の建物と、下宿のような二階建ての建物が並んでいる。どちらも、登録文化財の指定板が付いていた。平屋の方は。鈴木家住宅主屋として登録されているようだが、詳しいことは分からなかった。

    朝日坂が早稲田通りに出る手前で路地へと入る。少し歩くと、そこだけ時が止まったかのような街並みが現れた。少し手を加えれば、洒落た喫茶になりそうな平屋の建物と、下宿のような二階建ての建物が並んでいる。どちらも、登録文化財の指定板が付いていた。平屋の方は。鈴木家住宅主屋として登録されているようだが、詳しいことは分からなかった。

  • 二階建ての方は、一水寮と言う建物であった。調べてみると、建築家の高橋博が大工寮として建てたものであった。その後、アパートとして使われていたそうだが、今は事務所などとして利用されているらしい。しかし、外観はほぼ当時のままの様だ。玄関先の裸電球が、昭和を感じさせる。

    二階建ての方は、一水寮と言う建物であった。調べてみると、建築家の高橋博が大工寮として建てたものであった。その後、アパートとして使われていたそうだが、今は事務所などとして利用されているらしい。しかし、外観はほぼ当時のままの様だ。玄関先の裸電球が、昭和を感じさせる。

  • 表側も、これが現役の建物とは思えない佇まいである。大八車が立て掛けてあるが、よくあるわざとらしさが無い。

    表側も、これが現役の建物とは思えない佇まいである。大八車が立て掛けてあるが、よくあるわざとらしさが無い。

  • その一角を抜けると、そこも風情のある街並みが少し残っていた。背後のビルが迫ってるが、古き良き東京の佇まいが感じられる。

    その一角を抜けると、そこも風情のある街並みが少し残っていた。背後のビルが迫ってるが、古き良き東京の佇まいが感じられる。

  • 朝日坂に戻りさらに下る。坂沿いには、木造モルタル造りの商店が並んでいる。どの店も、古い建物を巧く利用し、なかなか洒落ている。神楽坂の路地裏では、神楽坂らしい風情を残す、色々な取り組みを行っているそうだ。途中、建物は古いが、とても洒落た眼鏡屋や器の店、雑貨や小間物を扱う店が路地裏に静かに佇んでいた。芸術を志す若い方が集まる場所もあり、とても良い感じであった。

    朝日坂に戻りさらに下る。坂沿いには、木造モルタル造りの商店が並んでいる。どの店も、古い建物を巧く利用し、なかなか洒落ている。神楽坂の路地裏では、神楽坂らしい風情を残す、色々な取り組みを行っているそうだ。途中、建物は古いが、とても洒落た眼鏡屋や器の店、雑貨や小間物を扱う店が路地裏に静かに佇んでいた。芸術を志す若い方が集まる場所もあり、とても良い感じであった。

  • 多くの人で賑わう神楽坂を横切り、最後に立ち寄ったのは、就職した頃から気に入って立ち寄っているチーズの専門店に入った。以前は、友人宅などで定期的にワイン会を開き、その時はここのチーズをよく買っていたのだ。今回は、食べごろだと言うブルーチーズと、好きな山羊のチーズを買い込むことにした。相変わらず、新聞や紙で包んでくれるのが嬉しい。

    多くの人で賑わう神楽坂を横切り、最後に立ち寄ったのは、就職した頃から気に入って立ち寄っているチーズの専門店に入った。以前は、友人宅などで定期的にワイン会を開き、その時はここのチーズをよく買っていたのだ。今回は、食べごろだと言うブルーチーズと、好きな山羊のチーズを買い込むことにした。相変わらず、新聞や紙で包んでくれるのが嬉しい。

  • 裏通りを辿り、都営大江戸線の牛込神楽坂駅へ出て、上野御徒町駅から上野駅まで歩いた。途中の道沿いには居酒屋が多くあり、外にある席も埋まり、昼間から大いに賑わっていた。上野駅では、ちょうど栃木県の物産展が開催されていたが、チーズが気になるので、そのまま帰ることにした。久しぶりに歩いた神楽坂界隈、気になる場所もあったので、また歩いてみたいと思う。

    裏通りを辿り、都営大江戸線の牛込神楽坂駅へ出て、上野御徒町駅から上野駅まで歩いた。途中の道沿いには居酒屋が多くあり、外にある席も埋まり、昼間から大いに賑わっていた。上野駅では、ちょうど栃木県の物産展が開催されていたが、チーズが気になるので、そのまま帰ることにした。久しぶりに歩いた神楽坂界隈、気になる場所もあったので、また歩いてみたいと思う。

157いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (6)

開く

閉じる

  • hot chocolateさん 2023/03/01 23:30:13
    神楽坂界隈
    旅猫さま

    こんばんは。
    もうすっかり春の訪れを感じますね。
    今年は桜の花も早く見られそうです。

    赤城神社は、完成した翌年訪れています。
    マンションと一体となった神社ですが、狛犬も昔ながらの狛犬ではなくて
    なんだか漫画チックな、とても由緒ある神社とは思えない狛犬でした。
    設計者は、赤城神社近くに住む、著名建築家「隅研吾」氏とのこと。
    とても由緒ある神社のようですが、風情は全くないですね。

    神楽坂といえば、昔ながらの黒塀の料理屋さんがあるかと思えば、
    お洒落なフランスやイタリアのレストランがあったり、
    裏路地には昭和の雰囲気が残っていたり、とても魅力ある街ですね。

    >相変わらず、新聞や紙で包んでくれるのが嬉しい。

    チーズを新聞紙や紙で包むのですか・・・
    今時珍しいですね。

    hot choco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/03/04 09:49:40
    RE: 神楽坂界隈
    hot chocoさん、こんにちは。

    いつもありがとうございます。
    すっかり春の気配で、しっかり花粉も飛んでいます(^^;
    梅の花をしっかり観ないうちに、桜の季節になりそうです。

    由緒のある赤城神社ですが、意地が出来なくなり、大手資本に身売りしたそうです。
    それで、マンションを建てる代わりに、土地の賃借料を受け取り、立派(?)な社殿に建て替えたとのこと。
    たくさんあった木々も伐採され、冷たい簡易の社になってしまいました。。。

    神楽坂は、雑多な感じで面白い街です。
    色々な世代の大人が遊べる街です。

    あのチーズ屋は、昔からプラスチックやビニールをほとんど使っていません。
    チーズを包んでいる紙は専用のもので、購入するとそれを新聞紙と包装紙(昔お肉屋さんなどにあった薄茶色の薄い紙)で包んでくれます。
    女性だけで経営している、環境に配慮したお店です。
    日本は環境後進国なので、今となっては珍しい店かもしれません。

    旅猫
  • ポテのお散歩さん 2023/03/01 11:08:03
    赤城神社
    旅猫さん こんにちは。

    赤城神社と赤城カフェは初めて参拝した時、ガラス張りの社殿に驚きました。
    カフェも神社の中と思えない、綺麗なガラス張りの空間で
    境内がよく見えました。

    出世稲荷神社の西は絶壁で、高低差にも驚きました。
    そこには急な階段があって あかぎ児童遊園へ辿り着くのですが
    江戸川橋駅方面から神楽坂駅方面への抜け道にもなっているようで
    時間帯によって 足早に通り過ぎる大人と近所の子供さんが遊ぶ
    大きな象の鼻の滑り台が楽しい、小さいながらもインパクトのある公園でした。

    神楽坂駅から南も昭和の雰囲気を残す景色が残っているのですね。
    この界隈も、地図で見るだけでは距離感がつかめない
    起伏の激しい地形で、歩くのが面白そうだけど体力のいる所ですね(^-^;

    神楽坂下にあった『紀の善』は昨年の秋に閉店されたようで
    いつか入ってみたいと思っていたので残念です。
    「ペコちゃん焼き」で有名な『不二家』はまだ営業しているので
    行ってみたいお店の一つです(*^-^*)

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/03/04 08:30:39
    RE: 赤城神社
    ポテさん、こんにちは。

    いつもありがとうございます。
    赤城神社も、昔の樹々が生い茂った風情のある境内が無くなり、社殿も硝子張りになり、ちょっと悲しかったです。
    カフェは、時間が早過ぎて入れませんでした。

    私が歩いた時も、たくさんの人が歩いていました。
    細い裏通りなのに、あの界隈の道は結構な人通りですね。

    神楽坂も、中心部は人が溢れ、飲食店や雑貨店などが多いですが、裏に入れば、まだまだ昭和の面影が多く残っています。
    古い木造モルタル造りの建物を利用した店や若い芸術家などが住み、独特の感じもあります。

    『紀の善』は、知りませんでした。
    閉店とは残念ですね。
    『不二家』は、学生時代からあるので、かなりの長生きです(笑)

    旅猫
  • pedaruさん 2023/03/01 06:35:25
    保存版そぞろ歩き
    旅猫さん おはようございます

    ある時期東京で暮らしていましたが、田舎で暮らした年数は少ないのに、東京のことはしりません。
    旅行記の表題を見て、赤城元町、矢来町とあったので、何処の市のことかと思ったほどでした。初めて聞く名でしたので、やはり東京のことはしらないな、と感じました。

    作家や思想家、芸術家や歴史上の人物が住んだ町、というだけで歩を進める度に、気分は高揚してきますね。戦前のたたずまいが、つぎつぎと消失し、マンション等に変わっていくのは残念ですね。

    横寺町の路地に入ると、奇跡的に残った古い東京の街を発見、うれしいですね。
    板を交互に張りあわせた塀の形、なつかしいですね、昔は塀といえばこの形でしたね。

    旅猫さんの旅行記は独特の味があり、いつも楽しみにしております。

    pedaru

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/03/04 08:12:02
    RE: 保存版そぞろ歩き
    pedaruさん、おはようございます。

    書き込みありがとうございます。
    住んでいる土地は、灯台下暗しで結構観ていないものですよね。
    新宿区の東側は、昔のままの住居表示が残っているので、何丁目と言う標記がほとんどありません。
    東京に住んでいても聞いたことが無い地名が多い界隈だと思います。

    東京は、至るところで再開発が進み、地形も町割りも変わってしまっています。
    ちょっとやり過ぎではないかと思っています。
    その土地が紡いで来た歴史を簡単に破壊してしまい、悲しくなります。

    横寺町の路地に入った時、目の前に昔の東京の街が現れ、驚きました。
    高層ビルや新建材の住宅が溢れる街中で、そこだけが温もりに包まれていました。
    あの木の塀、懐かしいですよね。

    旅猫

旅猫さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP