四ツ谷旅行記(ブログ) 一覧に戻る
9回目のそぞろ歩きは、四ツ谷駅から始めた。今回は、四ツ谷駅の西側にある若葉、須賀町界隈を歩いてみる。この界隈は、寺院と坂が織り成す街が広がっている。以前も歩き回ったことがあるのだが、久しぶりに散策してみることにしたのだ。時を経て歩いた若葉界隈は、新しい住宅が増えて街並みが変わってしまった場所も多かったが、変わらぬ景色にも出会え、懐かしさに浸る旅となった。<br /><br />(2022.03.01 投稿)

東京そぞろ 其の9 新宿若葉町、須賀町界隈

125いいね!

2022/02/23 - 2022/02/23

13位(同エリア262件中)

旅行記グループ 東京そぞろ

4

20

旅猫

旅猫さん

9回目のそぞろ歩きは、四ツ谷駅から始めた。今回は、四ツ谷駅の西側にある若葉、須賀町界隈を歩いてみる。この界隈は、寺院と坂が織り成す街が広がっている。以前も歩き回ったことがあるのだが、久しぶりに散策してみることにしたのだ。時を経て歩いた若葉界隈は、新しい住宅が増えて街並みが変わってしまった場所も多かったが、変わらぬ景色にも出会え、懐かしさに浸る旅となった。

(2022.03.01 投稿)

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

PR

  • 四ツ谷駅の四ツ谷口を出ると、入口に石碑が置かれていた。碑文は達筆過ぎて読めなかったが、明治29年に桜を植えたことに関係するものらしい。

    四ツ谷駅の四ツ谷口を出ると、入口に石碑が置かれていた。碑文は達筆過ぎて読めなかったが、明治29年に桜を植えたことに関係するものらしい。

  • 外堀通りを渡ると、向かには『しんまち通り』と言う細道がある。江戸時代には、麹町十一丁目と四谷伝馬町一丁目の境となっていた道である。四谷御門外と呼ばれたこの辺りは、『鬼平犯科帳』の中でも度々登場する街でもある。

    外堀通りを渡ると、向かには『しんまち通り』と言う細道がある。江戸時代には、麹町十一丁目と四谷伝馬町一丁目の境となっていた道である。四谷御門外と呼ばれたこの辺りは、『鬼平犯科帳』の中でも度々登場する街でもある。

  • 南側に走る新宿通りを渡り、外堀通り沿いに歩いて行くと、右手に四谷中学校が見えて来る。そこは、出雲広瀬藩松平家の上屋敷があった場所である。大名屋敷の多くは、明治になると、新政府の役所や要人の邸宅となったが、学校の敷地となった屋敷も多かったのだ。

    南側に走る新宿通りを渡り、外堀通り沿いに歩いて行くと、右手に四谷中学校が見えて来る。そこは、出雲広瀬藩松平家の上屋敷があった場所である。大名屋敷の多くは、明治になると、新政府の役所や要人の邸宅となったが、学校の敷地となった屋敷も多かったのだ。

  • その裏手を走る道は、四ツ谷仲町通と呼ばれていた。その西側には、旗本の屋敷などが建ち並んでいた。その一角に、明治13年から1年間、『浮雲』で知られる小説家、二葉亭四迷住んでいたそうである。

    その裏手を走る道は、四ツ谷仲町通と呼ばれていた。その西側には、旗本の屋敷などが建ち並んでいた。その一角に、明治13年から1年間、『浮雲』で知られる小説家、二葉亭四迷住んでいたそうである。

  • そこから裏道を西へと辿って行くと、西念寺と言う寺に出る。『鬼の半蔵』として知られる徳川家康の家臣、服部半蔵正成が建立した寺である。寺には、半蔵が家康より拝領したと伝わる槍が残されている。遠くからではあるが、戦国時代の実物の槍を拝むことが出来るのは貴重である。

    そこから裏道を西へと辿って行くと、西念寺と言う寺に出る。『鬼の半蔵』として知られる徳川家康の家臣、服部半蔵正成が建立した寺である。寺には、半蔵が家康より拝領したと伝わる槍が残されている。遠くからではあるが、戦国時代の実物の槍を拝むことが出来るのは貴重である。

  • 境内には、徳川家康の嫡男であり、織田信長の命により切腹した信康の供養塔が残されている。切腹の際、家康から介錯を命じられたものの、半蔵は果たすことが出来ず、後に出家したそうである。近くには、半蔵の墓も建っていた。ちなみに、江戸城西側にある半蔵門は、門の外に半蔵の屋敷があったことに由来する。

    境内には、徳川家康の嫡男であり、織田信長の命により切腹した信康の供養塔が残されている。切腹の際、家康から介錯を命じられたものの、半蔵は果たすことが出来ず、後に出家したそうである。近くには、半蔵の墓も建っていた。ちなみに、江戸城西側にある半蔵門は、門の外に半蔵の屋敷があったことに由来する。

  • 西念寺を後にして、寺の北から西へと下る観音坂を降りて行く。坂の両側には寺が建っているが、コンクリートの谷のようで風情は無い。坂の名の由来は、坂の西側に建つ真成院に祀られている潮踏観音に因むそうだ。海も無いのに『潮踏』とは不思議だが、江戸時代以前、この辺りは『潮踏の里』と呼ばれていたそうである。地形図を見ると、坂下まで海が入り込んでいたようである。

    西念寺を後にして、寺の北から西へと下る観音坂を降りて行く。坂の両側には寺が建っているが、コンクリートの谷のようで風情は無い。坂の名の由来は、坂の西側に建つ真成院に祀られている潮踏観音に因むそうだ。海も無いのに『潮踏』とは不思議だが、江戸時代以前、この辺りは『潮踏の里』と呼ばれていたそうである。地形図を見ると、坂下まで海が入り込んでいたようである。

  • その坂下の丁字路を南へと進むと、すぐに西へと登る坂が現れる。戒行寺坂である。坂上の北側に、名の由来となった戒行寺がある。この坂も前に歩いたことがあるが、周囲の街並みがかなり変わってしまっていた。

    その坂下の丁字路を南へと進むと、すぐに西へと登る坂が現れる。戒行寺坂である。坂上の北側に、名の由来となった戒行寺がある。この坂も前に歩いたことがあるが、周囲の街並みがかなり変わってしまっていた。

  • その坂を登って行くと、途中に宗福寺と言う寺がある。曹洞宗の寺院で、江戸時代の寛永年間に現在地に移って来たそうだ。本堂脇には、江戸後期の名刀工である源清麿の墓があった。

    その坂を登って行くと、途中に宗福寺と言う寺がある。曹洞宗の寺院で、江戸時代の寛永年間に現在地に移って来たそうだ。本堂脇には、江戸後期の名刀工である源清麿の墓があった。

  • その寺の斜向かいに、戒行寺がある。この寺には、かつて、火付盗賊改役の長谷川平蔵の墓があった。現在は、供養碑が建っている。池波正太郎の小説『雲霧仁左衛門』に登場する安部式部など、他に5人の火付盗賊改役が葬られていたそうだ。久しぶりに訪れたが、供養碑以外は見るべきものが無い。

    その寺の斜向かいに、戒行寺がある。この寺には、かつて、火付盗賊改役の長谷川平蔵の墓があった。現在は、供養碑が建っている。池波正太郎の小説『雲霧仁左衛門』に登場する安部式部など、他に5人の火付盗賊改役が葬られていたそうだ。久しぶりに訪れたが、供養碑以外は見るべきものが無い。

  • 坂を上り切ると、左手に古風な集合住宅があった。新建材の住宅が幅を利かせる昨今、しかも東京の只中で健在とは驚きであった。

    坂を上り切ると、左手に古風な集合住宅があった。新建材の住宅が幅を利かせる昨今、しかも東京の只中で健在とは驚きであった。

  • そのすぐ先にあった西應寺には、最後の剣客と呼ばれた榊原健吉の墓がある。直心影流師範であり、かの上野戦争にも幕府遊撃隊頭取として参戦。戦後、明治新政府からの招聘にも応じず、亡くなる明治27年まで髷を切らなかったほどの人物である。最後の剣客と呼ばれたそうだが、肝心の墓は分からなかった。

    そのすぐ先にあった西應寺には、最後の剣客と呼ばれた榊原健吉の墓がある。直心影流師範であり、かの上野戦争にも幕府遊撃隊頭取として参戦。戦後、明治新政府からの招聘にも応じず、亡くなる明治27年まで髷を切らなかったほどの人物である。最後の剣客と呼ばれたそうだが、肝心の墓は分からなかった。

  • その西隣には永心寺がある。その山門と本堂は、江戸時代に建立されたものである。四谷界隈は、戦災の被害を受けているため、伝統的な建築物が少ないので、とても貴重なものである。また、この界隈は、江戸時代から続く寺院がほぼそのまま残っており、寺町の風情を残している街でもある。江戸時代には、南寺町と呼ばれていた場所である。

    その西隣には永心寺がある。その山門と本堂は、江戸時代に建立されたものである。四谷界隈は、戦災の被害を受けているため、伝統的な建築物が少ないので、とても貴重なものである。また、この界隈は、江戸時代から続く寺院がほぼそのまま残っており、寺町の風情を残している街でもある。江戸時代には、南寺町と呼ばれていた場所である。

  • 永心寺の向いにある勝興寺の東側に続く細道を辿ると、四谷界隈の総鎮守である須賀神社に至る。この社の氏子地域は、新宿区でありながら、丁目表示の無い単独町名である11町を含んでいる。ここで、今回の旅の無事を祈願。拝殿からは、新宿区指定文化財である三十六歌仙の絵を観ることが出来た。

    永心寺の向いにある勝興寺の東側に続く細道を辿ると、四谷界隈の総鎮守である須賀神社に至る。この社の氏子地域は、新宿区でありながら、丁目表示の無い単独町名である11町を含んでいる。ここで、今回の旅の無事を祈願。拝殿からは、新宿区指定文化財である三十六歌仙の絵を観ることが出来た。

  • 須賀神社の男坂の上からは、四谷らしい深い谷が望める。四谷とは、四つの谷がある場所に開けた町であることが分かる眺めである。向かいの台地に登る坂は、東福院坂である。

    須賀神社の男坂の上からは、四谷らしい深い谷が望める。四谷とは、四つの谷がある場所に開けた町であることが分かる眺めである。向かいの台地に登る坂は、東福院坂である。

  • 女坂の坂下にある妙行寺と草分稲荷に立ち寄った後、向かいに見えた東福院坂を登る。この坂の由来は、やはり、坂の途中にある東福院に因むものである。別名は天王坂と言う。江戸時代、須賀神社が牛頭天王社と呼ばれ、この界隈が天王横町だったことから付けられた名である。

    女坂の坂下にある妙行寺と草分稲荷に立ち寄った後、向かいに見えた東福院坂を登る。この坂の由来は、やはり、坂の途中にある東福院に因むものである。別名は天王坂と言う。江戸時代、須賀神社が牛頭天王社と呼ばれ、この界隈が天王横町だったことから付けられた名である。

  • 坂を登って行くと、右手に煉瓦塀が見えて来る。江戸御府内八十八箇所の18番である独鈷山愛染院の入口である。二度目の訪問であるが、相変わらず入りづらい寺であり、今回も入口だけとした。境内には、内藤新宿を開設した高松喜六や『群書類従』で知られる江戸時代の国学者塙保己一の墓があるのだが、未だに拝見することが出来ない。

    坂を登って行くと、右手に煉瓦塀が見えて来る。江戸御府内八十八箇所の18番である独鈷山愛染院の入口である。二度目の訪問であるが、相変わらず入りづらい寺であり、今回も入口だけとした。境内には、内藤新宿を開設した高松喜六や『群書類従』で知られる江戸時代の国学者塙保己一の墓があるのだが、未だに拝見することが出来ない。

  • 裏道を辿りながら四谷一丁目へと戻る。そこには、日本酒好きには知られている酒屋『鈴傳』がある。就職したばかりの頃、日本酒好きの先輩に連れられて訪れた懐かしい店だ。それまで、ワインやカクテルばかりを呑んでいた私を、魅惑の日本酒世界に引き入れた場所でもある。酒屋であるが、夕方以降は角打ちとなる。

    裏道を辿りながら四谷一丁目へと戻る。そこには、日本酒好きには知られている酒屋『鈴傳』がある。就職したばかりの頃、日本酒好きの先輩に連れられて訪れた懐かしい店だ。それまで、ワインやカクテルばかりを呑んでいた私を、魅惑の日本酒世界に引き入れた場所でもある。酒屋であるが、夕方以降は角打ちとなる。

    鈴傳 四ツ谷 グルメ・レストラン

  • 四ツ谷駅へと戻り、駅北側に架かる新四谷見附橋を渡る。その東詰北側に、石垣が残されている。これは、そこにあった江戸城四ツ谷御門の枡形の一部である。この辺りは、学生時代、学園祭の季節には、打ち上げで多くの学生たちが入り乱れた場所である。早稲田、上智、本女、妻女、法政などが、覇を競ったことが懐かしい。

    四ツ谷駅へと戻り、駅北側に架かる新四谷見附橋を渡る。その東詰北側に、石垣が残されている。これは、そこにあった江戸城四ツ谷御門の枡形の一部である。この辺りは、学生時代、学園祭の季節には、打ち上げで多くの学生たちが入り乱れた場所である。早稲田、上智、本女、妻女、法政などが、覇を競ったことが懐かしい。

  • そろそろ歩き疲れたので、切り上げることにする。駅構内に入ると、四ツ谷駅界隈の歴史に関する展示があった。その壁には、中央本線の前身である甲武鉄道の象徴である兜が飾られていた。開業当時、四ツ谷隧道の入口に飾られていたもので、実物は、鉄道博物館で観ることが出来るそうである。久しぶりに歩いた若葉、須賀町界隈。街並みが変わってしまった場所も多かったが、懐かしさを感じる街歩きであった。

    そろそろ歩き疲れたので、切り上げることにする。駅構内に入ると、四ツ谷駅界隈の歴史に関する展示があった。その壁には、中央本線の前身である甲武鉄道の象徴である兜が飾られていた。開業当時、四ツ谷隧道の入口に飾られていたもので、実物は、鉄道博物館で観ることが出来るそうである。久しぶりに歩いた若葉、須賀町界隈。街並みが変わってしまった場所も多かったが、懐かしさを感じる街歩きであった。

125いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (4)

開く

閉じる

  • ポテのお散歩さん 2022/03/02 13:41:46
    四谷
    旅猫さん こんにちは。

    四谷駅と新宿御苑の間にある界隈を歩かれたのですね。
    今度 東京へ行く事が出来たら、長谷川平蔵のお墓は訪れたいです。
    旅行記を拝見していると、池波正太郎や時代小説の多くの作家さんも、
    江戸の香りを求めて何度も東京の街を歩かれて、消えつつある足跡を
    探される姿を思い浮かべました。

    須賀神社の男坂から見る景色は凄い坂ですね。
    本当に「谷」ですね。
    坂道は、写真や映像で見ると風情がありますが、通勤・通学は大変ですね。
    電動自転車でも上がれないかも。

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2022/03/04 12:31:10
    RE: 四谷
    ポテさん、こんにちは。

    今日も、こちらは暖かい一日です。
    東京の山手線の内側は、起伏が激しいので、散策するには手強いです。
    ちなみに、長谷川平蔵の墓は、実際には無縁仏となってしまい、無くなっています。
    今、四ツ谷にあるのは、近代に建てられた供養碑です。
    『鬼平犯科帳』人気にあやかって建てたようです。
    池波正太郎は、江戸切絵図を見ながら執筆したので、実際にはあまり歩かれていないようですよ。
    小説と切絵図、実際の場所を見比べると、結構誤りに気付きます。
    切絵図は、無理やり描き込んでいるため、実際とは街並みが違っていたりします。

    須賀神社の男坂の下は、かつて海だった場所です。
    国土地理院の地形図を見ると、江戸湾から低地が入り込んでいるのがよくわかります。
    リアス式海岸のと言ってよいと思います。

    坂道は、散歩するには楽しいですが、毎日上り下りするのはきつそうです。
    電動自転車どころか、軽自動車でも、上がるのは大変そうですよ。

    旅猫
  • hot chocolateさん 2022/03/01 20:41:10
    四ツ谷界隈
    旅猫さま

    こんばんは。
    このところ急に暖かくなってきましたね。
    気持ちも明るく、活発になってきました。

    四ツ谷周辺はあまり歩いたことはないのですが、神社仏閣が結構多い街ですね。
    上智大学付近の桜土手や聖イグナチオ教会には行った事がありますが。
    それに「鬼平犯科帳」や「雲霧仁左衛門」も登場する江戸の町。
    なんだかふらりと歩いてみたいような・・・

    独鈷山愛染院の煉瓦塀、寺院で煉瓦塀って珍しくありませんか。
    奈良で行った少年刑務所の建築物と塀が煉瓦でした。(笑)
    煉瓦って、モダンな明治の近代建築物の感じがして、和のお寺さんにはどうなのかなと、思ったりして・・・

    hot choco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2022/03/01 21:42:14
    RE: 四ツ谷界隈
    hot chocoさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    今日はやたらと暖かかったですね。
    汗ばむほどでした。

    四ツ谷周辺は、結構寺社仏閣が多いのです。
    江戸時代から寺町だったので、今でも結構残っています。
    町並みは、真新しくなってしまいましたが。
    四ツ谷御門外は、鬼平では、大抵、押し込まれる商家の所在地として登場しますね。

    愛染院は、参詣者以外で写真撮影はお断りなので、なかなか入りづらい寺です。
    センサーに引っ掛かるとチャイムが鳴るので、回れ右です。
    あの煉瓦塀は、なぜあそこにあるのかが良くわかりません。

    旅猫

旅猫さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP