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東京そぞろ歩きも、10回目となった。今回は、文京区ふるさと歴史館で開催されている企画展『八景十境』を観るついでに、本郷菊坂界隈を歩くことにした。菊坂は、以前二度ほど歩いたことがあるのだが、今回はその周辺を歩いてみることにした。<br /><br />(2022.03.07 投稿)

東京そぞろ 其の10 本郷菊坂界隈

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2022/02/27 - 2022/02/27

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東京そぞろ歩きも、10回目となった。今回は、文京区ふるさと歴史館で開催されている企画展『八景十境』を観るついでに、本郷菊坂界隈を歩くことにした。菊坂は、以前二度ほど歩いたことがあるのだが、今回はその周辺を歩いてみることにした。

(2022.03.07 投稿)

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 東京メトロ南北線の東大前駅から歩き始める。地上に出ると、目の前を本郷通が走っている。旧日光御成道である。道なりに南へ少し歩くと、旧中山道との駒込追分がある。東側には東大農学部の正門があり、その向かいには、江戸時代から続く酒屋『高崎屋』があり、その近くに、中山道最初の一里塚があったそうだ。

    東京メトロ南北線の東大前駅から歩き始める。地上に出ると、目の前を本郷通が走っている。旧日光御成道である。道なりに南へ少し歩くと、旧中山道との駒込追分がある。東側には東大農学部の正門があり、その向かいには、江戸時代から続く酒屋『高崎屋』があり、その近くに、中山道最初の一里塚があったそうだ。

  • 追分から旧中山道へと入り、そのすぐ先の細道へと入る。住宅街の中を歩いて行くと、洋館と日本家屋が並んで立つ大きな邸宅があった。大正10年(1921)から翌年に掛け、住宅作家である保岡勝也により建てられた和洋折衷住宅である。敷地内には、茶室や煉瓦造りの蔵などもあるそうだ。

    追分から旧中山道へと入り、そのすぐ先の細道へと入る。住宅街の中を歩いて行くと、洋館と日本家屋が並んで立つ大きな邸宅があった。大正10年(1921)から翌年に掛け、住宅作家である保岡勝也により建てられた和洋折衷住宅である。敷地内には、茶室や煉瓦造りの蔵などもあるそうだ。

  • その邸宅からほど近い場所には、歌学者である佐佐木信綱の邸宅跡もあった。そして、その並びには、東京美術学校建築科の助教授であった金澤庸治が建てた、アトリエを兼ね備えた住宅も残されていた。昭和5年(1930)に建てられたものである。西片や本郷界隈は、戦災に遭わなかったため、以前は戦前の建物が多く残っていたが、今は建て替えが進み、数えるほどしかない。

    その邸宅からほど近い場所には、歌学者である佐佐木信綱の邸宅跡もあった。そして、その並びには、東京美術学校建築科の助教授であった金澤庸治が建てた、アトリエを兼ね備えた住宅も残されていた。昭和5年(1930)に建てられたものである。西片や本郷界隈は、戦災に遭わなかったため、以前は戦前の建物が多く残っていたが、今は建て替えが進み、数えるほどしかない。

  • その西片と本郷を結ぶ清水橋を渡る。この橋は、江戸時代には無かったものである。橋の下には道路が走っているが、江戸時代は、備後福山藩阿部家と三河岡崎藩本多家の下屋敷の境にあった谷で、小川が流れていたそうである。当時の面影は、まったく無い。

    その西片と本郷を結ぶ清水橋を渡る。この橋は、江戸時代には無かったものである。橋の下には道路が走っているが、江戸時代は、備後福山藩阿部家と三河岡崎藩本多家の下屋敷の境にあった谷で、小川が流れていたそうである。当時の面影は、まったく無い。

  • 橋を渡ってしばらく歩くと、五差路に出る。そこを南へと進み、さらに路地裏へと入ると、そこにも風情のある木造家屋が建っている。その建物は、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、徳田秋声が亡くなるまでの38年間を過ごした家である。代表作の多くが、この家で執筆されたそうである。見学できないのが残念である。

    橋を渡ってしばらく歩くと、五差路に出る。そこを南へと進み、さらに路地裏へと入ると、そこにも風情のある木造家屋が建っている。その建物は、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、徳田秋声が亡くなるまでの38年間を過ごした家である。代表作の多くが、この家で執筆されたそうである。見学できないのが残念である。

  • そこから路地を抜けると、石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡があった。北海道から上京した啄木は、最初赤心館に下宿したが、家賃が払えず、友人の金田一京助の助けで移り住んだ場所である。3階の部屋からは富士山が見え、啄木はとても喜んだそうだが、今はまったく見えない。伊井圭の推理小説『啄木鳥探偵處』の舞台でもある。少し前まで、太栄館と言う宿が建っていたが、今はマンションが建つ。その脇を下る坂は新坂である。

    そこから路地を抜けると、石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡があった。北海道から上京した啄木は、最初赤心館に下宿したが、家賃が払えず、友人の金田一京助の助けで移り住んだ場所である。3階の部屋からは富士山が見え、啄木はとても喜んだそうだが、今はまったく見えない。伊井圭の推理小説『啄木鳥探偵處』の舞台でもある。少し前まで、太栄館と言う宿が建っていたが、今はマンションが建つ。その脇を下る坂は新坂である。

    蓋平館別荘跡 名所・史跡

  • 坂を降り西へと少し歩くと、菊坂の入口である。菊坂に入ってすぐ左手には、旧菊坂町に住んでいた樋口一葉が、苦しい家計をやりくりしていた際に通った伊勢屋質店の建物がある。江戸時代創業の老舗だが、昭和57年に廃業し、建物だけが保存されている。

    坂を降り西へと少し歩くと、菊坂の入口である。菊坂に入ってすぐ左手には、旧菊坂町に住んでいた樋口一葉が、苦しい家計をやりくりしていた際に通った伊勢屋質店の建物がある。江戸時代創業の老舗だが、昭和57年に廃業し、建物だけが保存されている。

  • 少し戻ると、東側に登る坂がある。胸突坂である。文京区にある3つの胸突坂のひとつで、他の坂と同様に、急な坂であることから名付けられたようだ。江戸時代からある坂で、登り切ると本郷菊坂台町であった。

    少し戻ると、東側に登る坂がある。胸突坂である。文京区にある3つの胸突坂のひとつで、他の坂と同様に、急な坂であることから名付けられたようだ。江戸時代からある坂で、登り切ると本郷菊坂台町であった。

  • その登り切った南側に、明治時代に下宿屋として建てられ、その後旅館となった鳳明館の本館と台町別館が建っている。下宿や旅館が多かった本郷界隈の風情を今に伝える旅館である。一度泊まってみたいと思っていたのだが、昨年5月から休業となり、再開の目途は立っていないそうだ。

    その登り切った南側に、明治時代に下宿屋として建てられ、その後旅館となった鳳明館の本館と台町別館が建っている。下宿や旅館が多かった本郷界隈の風情を今に伝える旅館である。一度泊まってみたいと思っていたのだが、昨年5月から休業となり、再開の目途は立っていないそうだ。

  • 鳳明館本館の前を通り、台町別館の裏手に回り、さらに歩いて行くと、長泉寺の前に解体中の建物があった。ここには、蓋平館別荘へ移る前に啄木が下宿していた赤心館が建っていたそうだ。その南側の路地には、竹久夢二や谷崎潤一郎、坂口安吾なども宿泊したことのある菊富士ホテル跡の石碑も建っていた。

    鳳明館本館の前を通り、台町別館の裏手に回り、さらに歩いて行くと、長泉寺の前に解体中の建物があった。ここには、蓋平館別荘へ移る前に啄木が下宿していた赤心館が建っていたそうだ。その南側の路地には、竹久夢二や谷崎潤一郎、坂口安吾なども宿泊したことのある菊富士ホテル跡の石碑も建っていた。

  • その東側を菊坂へと降りる坂がある。本妙寺坂である。坂上に本妙寺と言う大寺院があったことから名付けられた坂である。本妙寺と言えば、かの振袖火事の火元となったことで知られている。諸説あるので真意は分からないが、歴史の一場面を感じることが出来る場所である。

    その東側を菊坂へと降りる坂がある。本妙寺坂である。坂上に本妙寺と言う大寺院があったことから名付けられた坂である。本妙寺と言えば、かの振袖火事の火元となったことで知られている。諸説あるので真意は分からないが、歴史の一場面を感じることが出来る場所である。

  • 菊坂まで下りると、向かいにも坂がある。現在は、こちらが本妙寺坂と呼ばれている。案内板もあり、本妙寺のある方へ下りる坂なので、名付けられてと書かれていた。坂の西側には、肥前唐津藩小笠原家の中屋敷があった場所で、幕末には、信濃上田藩松平家の中屋敷となっていた。昭和の発掘調査では、多くの遺物が出土したそうだ。真砂遺跡と言うそうである。

    菊坂まで下りると、向かいにも坂がある。現在は、こちらが本妙寺坂と呼ばれている。案内板もあり、本妙寺のある方へ下りる坂なので、名付けられてと書かれていた。坂の西側には、肥前唐津藩小笠原家の中屋敷があった場所で、幕末には、信濃上田藩松平家の中屋敷となっていた。昭和の発掘調査では、多くの遺物が出土したそうだ。真砂遺跡と言うそうである。

  • 菊坂へ戻り、坂を下って行く。すると、坂と並行して走る裏道へと降りる階段があった。その向かいに、大正10年1月に上京した宮沢賢治が8月までの7ヶ月を過ごした場所である。案内板は、なぜか階段脇にあった。

    菊坂へ戻り、坂を下って行く。すると、坂と並行して走る裏道へと降りる階段があった。その向かいに、大正10年1月に上京した宮沢賢治が8月までの7ヶ月を過ごした場所である。案内板は、なぜか階段脇にあった。

  • 菊坂をさらに下ると、右手に分かれて行く坂がある。本郷菊坂台町へと至る梨木坂で、台町で胸突坂と直角に交わっている。本郷菊坂界隈は、江戸時代からほとんど町割りも道も変わっていない場所である。

    菊坂をさらに下ると、右手に分かれて行く坂がある。本郷菊坂台町へと至る梨木坂で、台町で胸突坂と直角に交わっている。本郷菊坂界隈は、江戸時代からほとんど町割りも道も変わっていない場所である。

  • 菊坂沿いに、空き地があった。その裏手に、表通りから隠れている街並みが望めた。細い路地に、身を寄せ合うように住宅が建ち並んでいる。

    菊坂沿いに、空き地があった。その裏手に、表通りから隠れている街並みが望めた。細い路地に、身を寄せ合うように住宅が建ち並んでいる。

  • その先には、斜面に建つ、木造三階建ての住宅があった。菊坂に面して建っているので、玄関は二階ということになるのだろうか。

    その先には、斜面に建つ、木造三階建ての住宅があった。菊坂に面して建っているので、玄関は二階ということになるのだろうか。

  • その脇にある階段を下ると、斜向かいにマンションが建ってる。その角に、『菊水』と刻まれた鬼瓦のようなものが置かれている。これは、明治中期に創業したとされる『菊水湯』と言う銭湯の屋根に挙げられていたものである。一葉や賢治、啄木なども通っていたかもしれない銭湯である。2015年9月に廃業してしまい、今はこの瓦だけが残されている。

    その脇にある階段を下ると、斜向かいにマンションが建ってる。その角に、『菊水』と刻まれた鬼瓦のようなものが置かれている。これは、明治中期に創業したとされる『菊水湯』と言う銭湯の屋根に挙げられていたものである。一葉や賢治、啄木なども通っていたかもしれない銭湯である。2015年9月に廃業してしまい、今はこの瓦だけが残されている。

    菊水湯 温泉

  • 『菊水湯』のあった菊坂と並行する裏道は、懐かしさを感じる佇まいの街並みが続いている。冷たい感じの街並みが増える中、人のぬくもりを感じる街がここには残っている。

    『菊水湯』のあった菊坂と並行する裏道は、懐かしさを感じる佇まいの街並みが続いている。冷たい感じの街並みが増える中、人のぬくもりを感じる街がここには残っている。

  • 『菊水湯』のあった場所から西へ少し歩くと、また坂が現れる。これが、一葉ゆかりの鐙坂である。以前は、とても風情のある坂であったが、坂沿いの家が新しくなり、かなり雰囲気が変わってしまっていた。それでも、まだ木造の古い家も残っていた。この坂の途中には、言語学者の金田一京助の住居があり、国学者の金田一晴彦は、この地で生まれたそうである。

    『菊水湯』のあった場所から西へ少し歩くと、また坂が現れる。これが、一葉ゆかりの鐙坂である。以前は、とても風情のある坂であったが、坂沿いの家が新しくなり、かなり雰囲気が変わってしまっていた。それでも、まだ木造の古い家も残っていた。この坂の途中には、言語学者の金田一京助の住居があり、国学者の金田一晴彦は、この地で生まれたそうである。

  • その住居跡の北側に、木造十宅が密集する場所がある。細い路地が入り込み、何とも言えない場所である。

    その住居跡の北側に、木造十宅が密集する場所がある。細い路地が入り込み、何とも言えない場所である。

  • かつての東京の街が、そのまま残っている感じである。戦災にも、再開発にも遭わず、奇跡的に残った街並みがそこにあった。

    かつての東京の街が、そのまま残っている感じである。戦災にも、再開発にも遭わず、奇跡的に残った街並みがそこにあった。

  • その一角は、樋口一葉が家族と住んでいた場所でもある。木造三階建ての住居が建ち、一葉も使ったという井戸がある。ふと、時が止まったかのような感覚を覚えた。<br />※現在、一葉の旧居跡を示す標識なども外され、普通の住宅地となっています。立ち入る際には、迷惑にならないよう、十分な配慮が必要です。

    その一角は、樋口一葉が家族と住んでいた場所でもある。木造三階建ての住居が建ち、一葉も使ったという井戸がある。ふと、時が止まったかのような感覚を覚えた。
    ※現在、一葉の旧居跡を示す標識なども外され、普通の住宅地となっています。立ち入る際には、迷惑にならないよう、十分な配慮が必要です。

  • 鐙坂のひとつ東側にある炭団坂を登る。名前の由来は諸説あるようだが、かなり急な坂で、雨の時は難儀したようである。坂上の西側には、坪内逍遥が明治17年から3年ほど住んでいたそうだ。明治21年に逍遥が越した後、そこは寄宿舎となり、正岡子規なども暮らしていたそうである。

    鐙坂のひとつ東側にある炭団坂を登る。名前の由来は諸説あるようだが、かなり急な坂で、雨の時は難儀したようである。坂上の西側には、坪内逍遥が明治17年から3年ほど住んでいたそうだ。明治21年に逍遥が越した後、そこは寄宿舎となり、正岡子規なども暮らしていたそうである。

  • そこからすぐ南側に、立派な日本家屋があった。かなり古そうだが、案内板も何も無い。後で調べてみると、秩父セメントの創業者で、秩父鉄道の社長にもなった本庄宿の実業家諸井恒平が、明治39年に建てた邸宅であった。関東大震災や戦災で、多くの建物が失われた東京で、これほどの規模の建物が残っているとは奇跡である。

    そこからすぐ南側に、立派な日本家屋があった。かなり古そうだが、案内板も何も無い。後で調べてみると、秩父セメントの創業者で、秩父鉄道の社長にもなった本庄宿の実業家諸井恒平が、明治39年に建てた邸宅であった。関東大震災や戦災で、多くの建物が失われた東京で、これほどの規模の建物が残っているとは奇跡である。

  • 旧諸井恒平邸からすぐの場所に、この日の目的地である文京ふるさと歴史館があった。まずは、常設展示を見学し、文京区の歴史を学ぶ。その後、地下で開催されている企画展『八景十境』を観た。開館30周年特別展示である『太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻』には、太田資宗の駒込屋敷からの眺めである『八景』と、屋敷内の名所『10境』を描いたもので、江戸時代の大名屋敷の風情を感じることが出来る絵巻物である。詩が添えられなかなか風流なものであった。

    旧諸井恒平邸からすぐの場所に、この日の目的地である文京ふるさと歴史館があった。まずは、常設展示を見学し、文京区の歴史を学ぶ。その後、地下で開催されている企画展『八景十境』を観た。開館30周年特別展示である『太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻』には、太田資宗の駒込屋敷からの眺めである『八景』と、屋敷内の名所『10境』を描いたもので、江戸時代の大名屋敷の風情を感じることが出来る絵巻物である。詩が添えられなかなか風流なものであった。

  • 文京ふるさと歴史館からさらに南へと歩くと、春日通りに出る。そこから東側に進むと、理髪店が角に立っている。そこは、啄木が、新坂上の蓋平館別荘から移り、2年2ヶ月暮らした理髪店『喜之床』があった場所である。当時の建物は春日通りの拡幅工事で解体されてしまったが、今でも理髪店として営業している。

    文京ふるさと歴史館からさらに南へと歩くと、春日通りに出る。そこから東側に進むと、理髪店が角に立っている。そこは、啄木が、新坂上の蓋平館別荘から移り、2年2ヶ月暮らした理髪店『喜之床』があった場所である。当時の建物は春日通りの拡幅工事で解体されてしまったが、今でも理髪店として営業している。

  • 春日通り沿いに歩いて行くと、左手に櫻木神社があった。以前も参拝したことがあったが、せっかくのなので立ち寄ることにした。この社は、太田道灌が江戸城を築城した際、京の北野天満宮から勧請したものである。江戸時代は、北ノ天神と呼ばれていたようである。

    春日通り沿いに歩いて行くと、左手に櫻木神社があった。以前も参拝したことがあったが、せっかくのなので立ち寄ることにした。この社は、太田道灌が江戸城を築城した際、京の北野天満宮から勧請したものである。江戸時代は、北ノ天神と呼ばれていたようである。

  • そこからほど近い路地裏に、野晒しで仏像が置かれている。享保5年(1720)に造られた十一面観世音菩薩で、この地にあった真光寺に祀られていたものである。寺は戦災で焼けてしまい、仏像だけが残されている。

    そこからほど近い路地裏に、野晒しで仏像が置かれている。享保5年(1720)に造られた十一面観世音菩薩で、この地にあった真光寺に祀られていたものである。寺は戦災で焼けてしまい、仏像だけが残されている。

  • そこから本郷通の方へ歩くと、本郷薬師を祀る赤い御堂が見えて来る。この薬師堂も、真光寺の境内にあったもので、江戸時代には庶民に深く信仰されていたそうである。やはり戦災で失われ、現在のものは、昭和53年に再建されたものである。

    そこから本郷通の方へ歩くと、本郷薬師を祀る赤い御堂が見えて来る。この薬師堂も、真光寺の境内にあったもので、江戸時代には庶民に深く信仰されていたそうである。やはり戦災で失われ、現在のものは、昭和53年に再建されたものである。

  • 本郷通りに出ると、その辺りは別れの橋跡と呼ばれている。旧中山道が少し低くなっていて、そこに小川が流れ、橋が架かっていたそうである。江戸追放となった者が、ここで親類縁者と別れた場所だそうである。江戸側を見送り坂、橋の向こうを見返り坂と呼んでいたそうである。

    本郷通りに出ると、その辺りは別れの橋跡と呼ばれている。旧中山道が少し低くなっていて、そこに小川が流れ、橋が架かっていたそうである。江戸追放となった者が、ここで親類縁者と別れた場所だそうである。江戸側を見送り坂、橋の向こうを見返り坂と呼んでいたそうである。

  • その旧中山道沿いに北へと歩くと、右手に有名な東大赤門が見えて来る。その門は、この地にあった加賀前田家上屋敷の御守殿門である。徳川将軍家から正室を迎えた際に建てられたものであるため、将軍家所縁の建物だけに許された濃い紅色を纏っているのだ。

    その旧中山道沿いに北へと歩くと、右手に有名な東大赤門が見えて来る。その門は、この地にあった加賀前田家上屋敷の御守殿門である。徳川将軍家から正室を迎えた際に建てられたものであるため、将軍家所縁の建物だけに許された濃い紅色を纏っているのだ。

  • その赤門の向いに、法真寺が建っている。一葉が、その作品『ゆく雲』の中で、『御梵刹』として登場するのが、この寺である。死の直前、病床で書いた雑記の中で、『桜木の宿』と呼んだ家は、この寺の左隣にあったそうだ。境内には、一葉塚なるものがあり、一葉の像が置かれていた。

    その赤門の向いに、法真寺が建っている。一葉が、その作品『ゆく雲』の中で、『御梵刹』として登場するのが、この寺である。死の直前、病床で書いた雑記の中で、『桜木の宿』と呼んだ家は、この寺の左隣にあったそうだ。境内には、一葉塚なるものがあり、一葉の像が置かれていた。

  • 法真寺から、本郷三丁目交差点へ戻る。その西南角には、以前、歴史好きには知られた『かねやす』があった。家康の江戸入府に従った口中医(歯医者)兼康祐悦が創業した店で、後に、今でいう歯磨き粉である『乳香散』が人気となり、以後、この地で営業を続けていた老舗である。享保の大火事の後、この『かねやす』以南は土蔵造りとし、茅葺を禁止したため、『本郷もかねやすまでは江戸の内』と言われるようになった。実際の江戸朱引線は、もっと北に引かれている。

    法真寺から、本郷三丁目交差点へ戻る。その西南角には、以前、歴史好きには知られた『かねやす』があった。家康の江戸入府に従った口中医(歯医者)兼康祐悦が創業した店で、後に、今でいう歯磨き粉である『乳香散』が人気となり、以後、この地で営業を続けていた老舗である。享保の大火事の後、この『かねやす』以南は土蔵造りとし、茅葺を禁止したため、『本郷もかねやすまでは江戸の内』と言われるようになった。実際の江戸朱引線は、もっと北に引かれている。

  • そろそろ歩き疲れたので、丸ノ内線の本郷三丁目駅から帰ることにする。駅のある場所は、江戸時代、将軍直営のの御持組の組屋敷がなどがあった場所である。今は、地下鉄の駅とは思えないほど綺麗な佇まいをしている。本郷菊坂界隈を歩いた今回のそぞろ。懐かしさと郷愁を感じた一日だった。惜しむらくは、菊坂コロッケを食べられなかったことだけである。

    そろそろ歩き疲れたので、丸ノ内線の本郷三丁目駅から帰ることにする。駅のある場所は、江戸時代、将軍直営のの御持組の組屋敷がなどがあった場所である。今は、地下鉄の駅とは思えないほど綺麗な佇まいをしている。本郷菊坂界隈を歩いた今回のそぞろ。懐かしさと郷愁を感じた一日だった。惜しむらくは、菊坂コロッケを食べられなかったことだけである。

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この旅行記へのコメント (6)

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  • norio2boさん 2022/04/13 11:28:12
    旅行記楽しく読まさせて頂きました
    旅猫さん

    本郷は25年ほど住んだ土地なので懐かしく拝見、拝読させて頂きました。

    スポットのご説明も詳しくて感銘を覚えました。

    今後ともよろしくお願いします。

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2022/04/13 20:25:56
    RE: 旅行記楽しく読まさせて頂きました
    norio2boさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    本郷にお住まいでしたか!
    しかも四半世紀。
    本郷は、好きな街のひとつです。
    歩いていると、どこか懐かしくて。
    こちらこそ、よろしくお願いいたします。

    旅猫
  • Decoさん 2022/03/10 10:28:43
    東京にこんな場所が!
    旅猫さん、こんにちは。

    東京は再開発も盛んなようですが、菊坂あたりは古い東京の街並みが残っていたのですね。時代に即して街が変わり、家も建て替わるのは当たり前のことかも知れませんが、こういった古い街の景色を見るとほっとします。何十年にも渡って人々が生活してきた証、人の息遣いが聞こえるような生活感のある家々。
    路地裏の植木鉢が並んだ家などは、都市生活の原風景かも知れません。あの三階建ての家、都心の狭い土地に暮らす知恵でしょうか。住んでる人は高低差があって大変かも知れませんが、地形を利用して建てられていて、とても心惹かれます。最近は盛り土や造成が当たり前かも知れませんが、地形に素直な街並みは自然で良いですね。こういった街並みって、一種の文化遺産ではないかと思います。
    自分では行ったこともないのに、どこか懐かしく感じる今回の旅行記、心和む思いです。以前の大洲の旅行記でも感じましたが、旅猫さんは人の生活感のある風景に対して豊かな感性をお持ちだと思います。これからも楽しみにしています。
                                 Deco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2022/03/10 19:36:11
    RE: 東京にこんな場所が!
    Decoさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    都心部の再開発は、とどまることを知りません。一年も経つと、街並みが変わってしまうこともしばしばです。それでも、東京のそこかしこに、戦災を免れた町があり、令和の今でも残っている場所があるのは、とても嬉しいです。植木鉢が並ぶ風景は、下町ではよく観られた景色ですが、今となっては貴重になってしまいました。そんな街並みは、綺麗に整えられた新建材の街並みと比べると、とても温かみがあり、人が住んでいる感じがします。そんな生活感のある街並みが好きで、ついそんな場所を歩き回ってしまいます。旅行記としては、華やかさが無いかもしれませんが(笑)そんな旅行記を気に入っていただき、とても嬉しく思います。失われていく風景かもしれませんが、これからも、出来る限り、歩いて行きたいと思っています。 

    旅猫
  • jh2fxvさん 2022/03/08 19:34:49
    街並みいいですね。
    旅猫さん 

    東京そぞろ歩きの10回目なかなかいいですね。
    こういった街並みや古い家屋がこれだけ残る場所があったとは・・・
    このシリーズ自分の東京歩きの参考にもさせていただきます。

    jh2fxv

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2022/03/10 09:13:47
    RE: 街並みいいですね。
    jh2fxvさん、こんにちは。

    書き込みありがとうございます。
    学生の頃からやっていた東京の街歩きですが、
    今でも、昭和の佇まいを残す界隈があるのは嬉しいです。
    上野界隈も結構残っていますが、本郷もなかなかでした。
    ぜひ、歩いてみてください。

    旅猫

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