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コロナ過で都内に行く機会が減り、一年余りもご無沙汰していた『東京そぞろ』を再開。まず訪れたのは、佃島と鉄砲洲界隈。この辺りは、かの長谷川平蔵に所縁のある場所でもある。今回は、八丁堀駅を起点にぐるりと歩くことにした。<br />※今回の旅のきっかけをくださったpedaruさんに感謝します。<br /><br />(2021.12.21 投稿)

東京そぞろ 其の6 佃島と鉄砲洲界隈

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2021/12/12 - 2021/12/12

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旅行記グループ 東京そぞろ

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旅猫

旅猫さん

コロナ過で都内に行く機会が減り、一年余りもご無沙汰していた『東京そぞろ』を再開。まず訪れたのは、佃島と鉄砲洲界隈。この辺りは、かの長谷川平蔵に所縁のある場所でもある。今回は、八丁堀駅を起点にぐるりと歩くことにした。
※今回の旅のきっかけをくださったpedaruさんに感謝します。

(2021.12.21 投稿)

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
グルメ
4.5
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩

PR

  • 地元の駅から乗った特急『あかぎ8号』を終点の上野駅で下車。久しぶりに降り立った上野駅の地平ホーム。旅を愛する者にとっては、馴染み深く、都心部で最も旅情を感じる駅である。

    地元の駅から乗った特急『あかぎ8号』を終点の上野駅で下車。久しぶりに降り立った上野駅の地平ホーム。旅を愛する者にとっては、馴染み深く、都心部で最も旅情を感じる駅である。

  • 上野駅からは、日比谷線に乗り換え八丁堀駅へと向かう。連絡通路を歩いて行くと、銀座線の改札前に、ステンドグラス風の絵が飾られていた。描かれているのは、上野周辺にある名所のようである。

    上野駅からは、日比谷線に乗り換え八丁堀駅へと向かう。連絡通路を歩いて行くと、銀座線の改札前に、ステンドグラス風の絵が飾られていた。描かれているのは、上野周辺にある名所のようである。

  • 八丁堀駅のA2出口から地上へと出る。そこは、中央区立の桜川公園の一角である。桜川公園は、江戸時代に開削された八丁堀を埋め立てて造られた公園である。八丁堀は、昭和40年代には完全に埋め立てられ、その姿を観ることは出来ない。時代劇で登場する『八丁堀の旦那』は、この掘割の北側に屋敷を持っていた町奉行所配下の与力や同心たちのことである。

    八丁堀駅のA2出口から地上へと出る。そこは、中央区立の桜川公園の一角である。桜川公園は、江戸時代に開削された八丁堀を埋め立てて造られた公園である。八丁堀は、昭和40年代には完全に埋め立てられ、その姿を観ることは出来ない。時代劇で登場する『八丁堀の旦那』は、この掘割の北側に屋敷を持っていた町奉行所配下の与力や同心たちのことである。

  • 公園を抜け、しばらく歩くと、川に突き当たる。亀島川である。そこに架かる高橋から、川の景色を眺める。亀島川は、江戸時代には掘割であり、現在の橋の下流には、同じ名前の橋が架けられていた。

    公園を抜け、しばらく歩くと、川に突き当たる。亀島川である。そこに架かる高橋から、川の景色を眺める。亀島川は、江戸時代には掘割であり、現在の橋の下流には、同じ名前の橋が架けられていた。

  • 八丁堀は、その旧高橋のすぐ南で亀島川に繋がっていた。その河口に架かっていたのが稲荷橋である。明治時代に桜川と名前が変わった後も同じ場所にあったが、桜川が埋立てられた際に、その役割を終え、今は親柱だけが残されている。

    八丁堀は、その旧高橋のすぐ南で亀島川に繋がっていた。その河口に架かっていたのが稲荷橋である。明治時代に桜川と名前が変わった後も同じ場所にあったが、桜川が埋立てられた際に、その役割を終え、今は親柱だけが残されている。

  • 稲荷橋跡を過ぎると、道端の花壇に鉢とは違うものが使われていた。説明板があったので読んでみると、明治時代に制作された常滑焼の土管だそうだ。遺跡の発掘調査の際に出土したそうである。

    稲荷橋跡を過ぎると、道端の花壇に鉢とは違うものが使われていた。説明板があったので読んでみると、明治時代に制作された常滑焼の土管だそうだ。遺跡の発掘調査の際に出土したそうである。

  • そこからすぐ東側に、南高橋がある。昭和7年(1932)に竣工した橋だが、明治37年(1904)に架けられた両国橋の中央部分を転用したものである。両国橋は、関東大震災で被災していたので、その資材を再利用したそうだ。なかなか優雅な姿で、とても美しい橋だった。

    そこからすぐ東側に、南高橋がある。昭和7年(1932)に竣工した橋だが、明治37年(1904)に架けられた両国橋の中央部分を転用したものである。両国橋は、関東大震災で被災していたので、その資材を再利用したそうだ。なかなか優雅な姿で、とても美しい橋だった。

  • 橋の東詰に、小さな社があった。徳船稲荷神社と呼ばれる社で、御神体は、徳川家の船の舳を切ったものに彫られているそうだ。元々は、この界隈にあった越前福井藩松平家の中屋敷に祀られていたものらしい。平成3年に中央大橋が架けられた際に、現在の場所に遷座したそうだ。しかし、祭神については分からなかった。

    橋の東詰に、小さな社があった。徳船稲荷神社と呼ばれる社で、御神体は、徳川家の船の舳を切ったものに彫られているそうだ。元々は、この界隈にあった越前福井藩松平家の中屋敷に祀られていたものらしい。平成3年に中央大橋が架けられた際に、現在の場所に遷座したそうだ。しかし、祭神については分からなかった。

  • この後、佃島に向かうため、中央大橋へと向かう。その途中で。道端に変わった形をした石が置かれていた。やはり説明板があったので読んでみると、その石は、ここにあった越前堀の石垣に使われていたものらしい。この辺りは、中央大橋が開通する前の平成5年頃まで越前堀の一部残っていたそうだ。

    この後、佃島に向かうため、中央大橋へと向かう。その途中で。道端に変わった形をした石が置かれていた。やはり説明板があったので読んでみると、その石は、ここにあった越前堀の石垣に使われていたものらしい。この辺りは、中央大橋が開通する前の平成5年頃まで越前堀の一部残っていたそうだ。

  • 地図を観ると、近くに江戸湾開港の地と言う場所があるようなので行ってみることにする。すると、途中に二八蕎麦の屋台のようなものが歩道に置かれ、弁当を売っている。美味しそうなので、昼食用に購入した。

    地図を観ると、近くに江戸湾開港の地と言う場所があるようなので行ってみることにする。すると、途中に二八蕎麦の屋台のようなものが歩道に置かれ、弁当を売っている。美味しそうなので、昼食用に購入した。

  • そこからすぐの場所に、錨を使った記念碑が立っていた。この地に、江戸幕府により江戸湊が開かれたのが、現在の東京港の始まりなのだそうだ。昭和11年まで、伊豆七島などへ向かう船が発着していたと記されていた。

    そこからすぐの場所に、錨を使った記念碑が立っていた。この地に、江戸幕府により江戸湊が開かれたのが、現在の東京港の始まりなのだそうだ。昭和11年まで、伊豆七島などへ向かう船が発着していたと記されていた。

  • そして、中央大橋を渡る。橋は、江戸時代に霊岸島と呼ばれていた場所と、加役方人足寄場のあった石川島を結んでいる。北詰の西側一帯は、幕府の御用船を管理していた御船手組の屋敷があった場所である。しかし、当時の面影は微塵も無い。

    そして、中央大橋を渡る。橋は、江戸時代に霊岸島と呼ばれていた場所と、加役方人足寄場のあった石川島を結んでいる。北詰の西側一帯は、幕府の御用船を管理していた御船手組の屋敷があった場所である。しかし、当時の面影は微塵も無い。

  • 歩いていると、橋の下を水上バスが通り過ぎて行った。松本零士氏が手掛けた『ヒミコ』と呼ばれる船だった。水上バスに乗ったのは、17年も前のことだ。久しぶりに観たら、乗ってみたくなった。

    歩いていると、橋の下を水上バスが通り過ぎて行った。松本零士氏が手掛けた『ヒミコ』と呼ばれる船だった。水上バスに乗ったのは、17年も前のことだ。久しぶりに観たら、乗ってみたくなった。

  • 橋を渡り切ると、そこが人足寄場のあった石川島である。今は、大川端リバーシティなどの高層住宅が立ち並び、当時の面影は全くないが、復元された石川島灯台が建っている。

    橋を渡り切ると、そこが人足寄場のあった石川島である。今は、大川端リバーシティなどの高層住宅が立ち並び、当時の面影は全くないが、復元された石川島灯台が建っている。

  • 灯台の先に、石川島と佃島を隔てていた掘割が残っている。人足寄場があった当時には無かった橋を渡り、佃島へと入る。掘割の向こうには、以前は無かった高層ビルが立ち並んでいた。

    灯台の先に、石川島と佃島を隔てていた掘割が残っている。人足寄場があった当時には無かった橋を渡り、佃島へと入る。掘割の向こうには、以前は無かった高層ビルが立ち並んでいた。

  • 佃島に入ると、すぐに赤い鳥居が見えた。江戸時代からここに鎮座する住吉神社のものである。佃島を訪れたのは31年も前なので、あまり記憶がない。木造住宅の建ち並ぶ佃から望む高層住宅群と石川島灯台、路地裏にあった小さな社くらいなのである。それにしても、ずいぶんと新建材の住宅が増えたものだ。

    佃島に入ると、すぐに赤い鳥居が見えた。江戸時代からここに鎮座する住吉神社のものである。佃島を訪れたのは31年も前なので、あまり記憶がない。木造住宅の建ち並ぶ佃から望む高層住宅群と石川島灯台、路地裏にあった小さな社くらいなのである。それにしても、ずいぶんと新建材の住宅が増えたものだ。

  • それでも、まだ古い建物も残っているようだ。とは言え、周りは建て替えられてしまい、街並みとしては風情が無くなってしまっている。

    それでも、まだ古い建物も残っているようだ。とは言え、周りは建て替えられてしまい、街並みとしては風情が無くなってしまっている。

  • 鳥居からすぐの場所には、佃島と対岸の船松町とを結んでいた佃の渡しの船着場の跡があり、記念碑が建っていた。同じ形のものが、対岸にも置かれていたが、そちらは草に埋もれたいた。

    鳥居からすぐの場所には、佃島と対岸の船松町とを結んでいた佃の渡しの船着場の跡があり、記念碑が建っていた。同じ形のものが、対岸にも置かれていたが、そちらは草に埋もれたいた。

  • そして、佃と言えば、佃煮である。徳川家康が、摂津国佃村の漁師たちを呼び寄せて住まわせたのが佃島である。その漁師たちが、周囲で撮れた雑魚を醤油で煮詰めたものが佃煮である。今でも、江戸時代から続く佃煮屋が数軒残り、佃らしい景観を見せている。

    そして、佃と言えば、佃煮である。徳川家康が、摂津国佃村の漁師たちを呼び寄せて住まわせたのが佃島である。その漁師たちが、周囲で撮れた雑魚を醤油で煮詰めたものが佃煮である。今でも、江戸時代から続く佃煮屋が数軒残り、佃らしい景観を見せている。

  • 今回は、江戸時代に佃島だった場所を歩くことにする。現在の住所で言えば、佃一丁目の南側に当たる界隈である。鳥居のある西側の道から1本内側に入ると、懐かしい物があった。石造りの防火用水である。前に来た時も目に留まり、写真を撮っていた。後ろの民家もほぼ当時のままの姿で残っていて嬉しくなる。

    今回は、江戸時代に佃島だった場所を歩くことにする。現在の住所で言えば、佃一丁目の南側に当たる界隈である。鳥居のある西側の道から1本内側に入ると、懐かしい物があった。石造りの防火用水である。前に来た時も目に留まり、写真を撮っていた。後ろの民家もほぼ当時のままの姿で残っていて嬉しくなる。

  • その先にも、美しい佇まいの木造住宅があった。家の前に植物が置かれ、東京の下町の風情が感じられる。空を遮って建ち並ぶ高層住宅よりも、空が広がる街に建つ、温か味のある木造住宅の方が住みたいと感じる。

    その先にも、美しい佇まいの木造住宅があった。家の前に植物が置かれ、東京の下町の風情が感じられる。空を遮って建ち並ぶ高層住宅よりも、空が広がる街に建つ、温か味のある木造住宅の方が住みたいと感じる。

  • 一区画先で、鳥居から続く道に出た。そこを右に曲がると、住吉神社の境内となる。そこには石造の鳥居が建ち、掲げられた扁額は、珍しい陶器で出来たものだった。

    一区画先で、鳥居から続く道に出た。そこを右に曲がると、住吉神社の境内となる。そこには石造の鳥居が建ち、掲げられた扁額は、珍しい陶器で出来たものだった。

  • 明治2年(1869)に再建されたと言う水盤舎の欄間には、石川島灯台や佃の渡し、潮干狩りなど、佃島界隈の風景が彫られていた。住吉神社は、摂津の佃島から漁師たちが移って来た時に創建された社だそうだ。以来、佃島の鎮守としてこの場所に鎮座している。

    明治2年(1869)に再建されたと言う水盤舎の欄間には、石川島灯台や佃の渡し、潮干狩りなど、佃島界隈の風景が彫られていた。住吉神社は、摂津の佃島から漁師たちが移って来た時に創建された社だそうだ。以来、佃島の鎮守としてこの場所に鎮座している。

  • 境内では、もう水仙が花を咲かせていた。水仙が咲くと、冬が来たと感じるとともに、早春も感じる。

    境内では、もう水仙が花を咲かせていた。水仙が咲くと、冬が来たと感じるとともに、早春も感じる。

  • この街の鎮守なので、この社でご挨拶をする。街には観光客が多いのだが、境内は静かであった。

    この街の鎮守なので、この社でご挨拶をする。街には観光客が多いのだが、境内は静かであった。

  • 境内の南側から出て歩いて行くと、東側に佃小橋がある。古地図を観ると、江戸時代にも同じ場所に橋が架かっていたことが分かる。以前は木造船が浮かび、とても情緒のあった場所だが、掘割が整備され、係留されている船も新しくなり、すっかり景色が様変わりしていた。

    境内の南側から出て歩いて行くと、東側に佃小橋がある。古地図を観ると、江戸時代にも同じ場所に橋が架かっていたことが分かる。以前は木造船が浮かび、とても情緒のあった場所だが、掘割が整備され、係留されている船も新しくなり、すっかり景色が様変わりしていた。

  • 橋の東側も、江戸時代から続く街である。そんな街中に、井戸が残されていた。佃の街を歩くと、そこかしこに井戸が残っている。しかも、ほとんどが現役である。この日も、井戸を使い水を撒いている方がいた。

    橋の東側も、江戸時代から続く街である。そんな街中に、井戸が残されていた。佃の街を歩くと、そこかしこに井戸が残っている。しかも、ほとんどが現役である。この日も、井戸を使い水を撒いている方がいた。

  • 街の東側は、江戸時代には海であった。その境に通る道を歩いて行くと、三角公園と言う場所があった。元の佃島と、後世の埋め立てにより出来た街並みとが斜めに交わっている場所に造られた公園である。歴史を紐解くと、なぜこのような街の姿になったのかを知ることが出来るのだ。

    街の東側は、江戸時代には海であった。その境に通る道を歩いて行くと、三角公園と言う場所があった。元の佃島と、後世の埋め立てにより出来た街並みとが斜めに交わっている場所に造られた公園である。歴史を紐解くと、なぜこのような街の姿になったのかを知ることが出来るのだ。

  • 公園の近くに細い路地があり、その入口に赤い幟が立っている。『佃天台地蔵尊』とあり、その路地の奥に地蔵尊が祀られているのだ。31年前にも訪れた場所だが、久しぶりに参詣することにした。路地の隙間からは、黄色く色付いた銀杏の葉が綺麗に見えた。

    公園の近くに細い路地があり、その入口に赤い幟が立っている。『佃天台地蔵尊』とあり、その路地の奥に地蔵尊が祀られているのだ。31年前にも訪れた場所だが、久しぶりに参詣することにした。路地の隙間からは、黄色く色付いた銀杏の葉が綺麗に見えた。

  • 路地に入ると、その中央あたりに地蔵尊が祀られている。境内と言うにはあまりにも小さな空間には、手水鉢や路地の上に見えた銀杏がある。その地蔵尊は、平らに磨かれた自然石に彫られている珍しいものであった。

    路地に入ると、その中央あたりに地蔵尊が祀られている。境内と言うにはあまりにも小さな空間には、手水鉢や路地の上に見えた銀杏がある。その地蔵尊は、平らに磨かれた自然石に彫られている珍しいものであった。

  • 参詣後、路地を伝って反対側に出る。向かいには、於咲稲荷大明神と浪除稲荷大明神と言う二つの小さな社が建っていた。銀杏の樹に守られるように建つ社の境内には、『さし石』と呼ばれる力石のようなものがいくつか置かれていた。調べてみるると、やはり力石のことであった。

    参詣後、路地を伝って反対側に出る。向かいには、於咲稲荷大明神と浪除稲荷大明神と言う二つの小さな社が建っていた。銀杏の樹に守られるように建つ社の境内には、『さし石』と呼ばれる力石のようなものがいくつか置かれていた。調べてみるると、やはり力石のことであった。

  • その稲荷神社のすぐ脇が公園となっていた。佃島の掘割に面し、日差しが気持ちよく降り注いでいたので、ここで昼食とした。先ほど買い込んで来た弁当を広げ、のんびりと寛ぐ。弁当には、大好物の鯖の塩焼きと鶏の照り焼きが入っている。洋食は一切入っておらず、見事な和食である。ご飯は薪で炊いたものだそうだ。とても美味しく、次回は別の弁当を買おうと心に決めた。

    その稲荷神社のすぐ脇が公園となっていた。佃島の掘割に面し、日差しが気持ちよく降り注いでいたので、ここで昼食とした。先ほど買い込んで来た弁当を広げ、のんびりと寛ぐ。弁当には、大好物の鯖の塩焼きと鶏の照り焼きが入っている。洋食は一切入っておらず、見事な和食である。ご飯は薪で炊いたものだそうだ。とても美味しく、次回は別の弁当を買おうと心に決めた。

  • 弁当に満足した後、佃島砲台跡から、佃島の南側に架かる佃大橋で隅田川を渡る。対岸にある渡船場跡を観た後、鉄砲洲界隈を歩く。その入口に気になる日本料理の店があったが、すでに昼食後だったので諦めた。この辺りは、江戸時代、船松町一丁目と呼ばれていた場所だ。その町の向こうには、以前は無かった高層ビルが建っていた。

    弁当に満足した後、佃島砲台跡から、佃島の南側に架かる佃大橋で隅田川を渡る。対岸にある渡船場跡を観た後、鉄砲洲界隈を歩く。その入口に気になる日本料理の店があったが、すでに昼食後だったので諦めた。この辺りは、江戸時代、船松町一丁目と呼ばれていた場所だ。その町の向こうには、以前は無かった高層ビルが建っていた。

  • 現在、湊三丁目となっている街を抜けると、江戸時代には掘割であった道に出る。そこから先は、湊二丁目となり、江戸時代には鉄砲洲本湊町であった場所である。その一角には、かつて長谷川平蔵が暮らしたと云う屋敷もあった。以前歩いた時には、木造の民家と空地が多かった場所だが、今はビルばかりになっていた。

    現在、湊三丁目となっている街を抜けると、江戸時代には掘割であった道に出る。そこから先は、湊二丁目となり、江戸時代には鉄砲洲本湊町であった場所である。その一角には、かつて長谷川平蔵が暮らしたと云う屋敷もあった。以前歩いた時には、木造の民家と空地が多かった場所だが、今はビルばかりになっていた。

  • そこから隅田川のほうへ歩いて行くと、小さな公園と社があった。公園の場所は、以前は空き地であった。隣に建つ汐見地蔵尊は明治時代に創建されたものである。この辺りには、人足寄場とを結ぶ寄場の渡しの船着場があったらしいが、説明板などは無いようだ。

    そこから隅田川のほうへ歩いて行くと、小さな公園と社があった。公園の場所は、以前は空き地であった。隣に建つ汐見地蔵尊は明治時代に創建されたものである。この辺りには、人足寄場とを結ぶ寄場の渡しの船着場があったらしいが、説明板などは無いようだ。

  • 湊二丁目界隈は、かつて昭和の面影が残る街並みが続き、多くの商店が軒を連ねていた。高いビルが無かったので、街には陽が差し込み、明るくゆったりとした時間が流れていた。ところが、一帯は再開発され、高層マンションに囲まれてしまい、空が小さくなり薄ら寒く、冷たい街となってしまっていた。その中に、銅板張りの建物が残っていた。裏手には、港の社と言う小さな社があったが、ここも再開発の予定となっていた。

    湊二丁目界隈は、かつて昭和の面影が残る街並みが続き、多くの商店が軒を連ねていた。高いビルが無かったので、街には陽が差し込み、明るくゆったりとした時間が流れていた。ところが、一帯は再開発され、高層マンションに囲まれてしまい、空が小さくなり薄ら寒く、冷たい街となってしまっていた。その中に、銅板張りの建物が残っていた。裏手には、港の社と言う小さな社があったが、ここも再開発の予定となっていた。

  • 江戸時代には無かった鉄砲洲通りに出る。そこからは、今にも高層ビル群に飲み込まれようとしている商店街が望めた。高層ビルが、足元の街に影を作ってる。新しくできたビルには、その土地を知らない新しい住民が入り、街は歴史を失っていく。都心では、歴史を紡いで来た多くの街が急速に姿を消し、町割りすら変わってしまう。残念なことである。

    江戸時代には無かった鉄砲洲通りに出る。そこからは、今にも高層ビル群に飲み込まれようとしている商店街が望めた。高層ビルが、足元の街に影を作ってる。新しくできたビルには、その土地を知らない新しい住民が入り、街は歴史を失っていく。都心では、歴史を紡いで来た多くの街が急速に姿を消し、町割りすら変わってしまう。残念なことである。

  • 最後に、鉄砲洲稲荷神社に立ち寄った。江戸時代には、八丁堀河口の南側に鎮座し、そこに架かっていた稲荷橋の名の由来となった社である。現在は、阿波徳島藩蜂須賀家下屋敷跡の北東の隅に遷座している。社殿などは、関東大震災後、昭和になってから再建されたものだそうだ。

    最後に、鉄砲洲稲荷神社に立ち寄った。江戸時代には、八丁堀河口の南側に鎮座し、そこに架かっていた稲荷橋の名の由来となった社である。現在は、阿波徳島藩蜂須賀家下屋敷跡の北東の隅に遷座している。社殿などは、関東大震災後、昭和になってから再建されたものだそうだ。

  • 裏手には、中央区で唯一残る富士塚もある。富士の溶岩で築かれたもので、本来は登ることが出来るのだが、今は禁止されている。多くの石碑などが残され、富士信仰を今に伝えている。

    裏手には、中央区で唯一残る富士塚もある。富士の溶岩で築かれたもので、本来は登ることが出来るのだが、今は禁止されている。多くの石碑などが残され、富士信仰を今に伝えている。

  • 八丁堀駅に戻り、そぞろ歩きを終える。今回は、ある方の旅行記を読み、急に懐かしくなり歩いてみたが、再開発や建て替えで街並みが大きく変わり、かなり残念であった。それでも、そこかしこに歴史が息づいているのを感じられ、寂しさも少しは癒された。やはり、都心部は、今の内に歩いておくべきだと感じる旅でもあった。

    八丁堀駅に戻り、そぞろ歩きを終える。今回は、ある方の旅行記を読み、急に懐かしくなり歩いてみたが、再開発や建て替えで街並みが大きく変わり、かなり残念であった。それでも、そこかしこに歴史が息づいているのを感じられ、寂しさも少しは癒された。やはり、都心部は、今の内に歩いておくべきだと感じる旅でもあった。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • pedaruさん 2021/12/22 06:10:39
    同じ所を歩いても違いが出てくる旅行記、でもそれが面白い
    旅猫さん おはようございます。

    >※今回の旅のきっかけをくださったpedaruさんに感謝します。
    のっけからこんな風に言われて、恥ずかしいやら嬉しいやら、と言う心持です。

    同じ所を歩いたので親近感を持ちますが、私のが、気分に左右されてただ情緒的にかいているのに 比べて旅猫さんは人が見落としそうなものまで取り上げて、正確な歴史を説明しています。これこそ歴史旅ですね。
    花壇の土留めに使われていた石は、石垣の角に使われていたのでしょうか?興味深いですね。
    江戸の名残を必死に受け継ごうとしている反面、木造の民家の後ろに、真逆の高層ビル群、返って思い切りよく、独特の風景が作られていて面白いとも思いました。

    私も今後しばらくは、知られざる東京を歩いてみたいと思います、旅猫さんの感性を学びながら・・・・

    pedaru

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2021/12/26 12:40:49
    RE: 同じ所を歩いても違いが出てくる旅行記、でもそれが面白い
    pedaruさん、こんにちは。

    お返事が遅くなりすみません。
    ふらりと出掛けていました。

    同じ場所ですが、視点が違うと、変わりますね。
    歴史好きなので、つい、その方向へ行ってしまいます。
    花壇の置かれていたのは、手前の広めの部分が護岸部分で、細くなっているのが内側に入っていたそうです。
    角では無く、掘割に面して並べられていた石垣のひとつだそうです。

    日本は平地が少ないので、歴史的なものを残すのは難しいですね。
    今を生きる人の街も必要なので、どうしても古いものは壊されてしまいます。
    伝統的な街並みとして保存されているところでも、義務では無いので、家主が建て替えたくなれば、どうしようもないので。
    しかも、再開発と言うものもあるので、佃や品川のような特異な景観も出来上がっています。
    西新宿も、中野側から観ると似たような感じです。

    東京を歩くには、早い方が良さそうですね。
    どんどん、ビルや新建材の建物ばかりになり、情緒が無くなりますので。
    私も、コロナが落ち着いているうちに、歩きたいと思っています。

    旅猫
  • hot chocolateさん 2021/12/21 23:22:57
    佃島
    旅猫さま

    こんばんは~。
    未読の旅行記も沢山ありますが、最新の「佃島」の旅行記を拝読・・・

    私も3年ほど前に、隅田川の橋巡りと佃島周辺を歩きました。
    高層ビルに囲まれた佃島は、古い民家がそこここにあって、
    懐かしい江戸下町の雰囲気が味わえました。

    隅田川を宇宙船のような船が行き来しているのを見て、何となく違和感のようなものを感じたのですが、松本零士氏が手掛けた「ヒミコ」でしたか。
    なんとなく江戸情緒には程遠い外見でしたので。

    「鬼平犯科帳」の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵は実在の人物だったのですね。

    hot choco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2021/12/26 12:23:01
    RE: 佃島
    hot chocoさん、こんにちは。

    お返事が遅くなりすみません。
    少々出掛けていました。

    3年前に、あの辺りを歩かれましたか。
    橋は、なかなか良いものがありますね。
    佃は、昔に比べれば見る影もありませんが、まだ少し情緒が残っていますね。

    水上バスは、松本零士氏が手掛けた船が3隻あります。
    なので、結構出会うと思います。
    外観的には、江戸っぽくないですよね。

    長谷川平蔵は実在の人物です。
    しかも、かなり盗賊を捕えていて、なかなか敏腕だったそうです。
    ただ、ドラマや小説と違い、自ら出張ることはほとんど無かったそうですが。

    旅猫

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