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10年程前まで楽しんでいた江戸歩きをしばらくやっていない。<br />かなりの月日が経ってしまったが、このところ、街歩きの虫がまた騒ぎ出した。<br />そこで、年が変わった2019年から、また初めてみようかと思い立つ。<br />ただ、今回は江戸歩きに拘らず、東京の街をそぞろ歩きすることにする。<br />まず思い付いたのは、気になっていた西新宿。<br />しかし、いざその日になって足を向けたのは文京区の小石川界隈だった。

東京そぞろ 其の1 小石川界隈

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2019/01/20 - 2019/01/20

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旅行記グループ 東京そぞろ

2

60

旅猫

旅猫さん

10年程前まで楽しんでいた江戸歩きをしばらくやっていない。
かなりの月日が経ってしまったが、このところ、街歩きの虫がまた騒ぎ出した。
そこで、年が変わった2019年から、また初めてみようかと思い立つ。
ただ、今回は江戸歩きに拘らず、東京の街をそぞろ歩きすることにする。
まず思い付いたのは、気になっていた西新宿。
しかし、いざその日になって足を向けたのは文京区の小石川界隈だった。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
  • その小石川への第一歩は、丸ノ内線の茗荷谷駅から。<br />江戸の頃、駅のある場所は小石川大塚と呼ばれ、旗本たちの屋敷があった。<br />今は、何の変哲も無い、ビルが立ち並ぶ街となっている。

    その小石川への第一歩は、丸ノ内線の茗荷谷駅から。
    江戸の頃、駅のある場所は小石川大塚と呼ばれ、旗本たちの屋敷があった。
    今は、何の変哲も無い、ビルが立ち並ぶ街となっている。

  • 駅から、とりあえず旧東京教育大学の跡地へと向かう。<br />その途中にあった小さな広場には、一角獣やアンモナイトなどの不思議な彫刻作品が設置されていた。<br />この彫刻たちは、文京区の姉妹都市であるドイツのカイザースラウテルン市出身の彫刻家によって製作されたものだそうだ。

    駅から、とりあえず旧東京教育大学の跡地へと向かう。
    その途中にあった小さな広場には、一角獣やアンモナイトなどの不思議な彫刻作品が設置されていた。
    この彫刻たちは、文京区の姉妹都市であるドイツのカイザースラウテルン市出身の彫刻家によって製作されたものだそうだ。

  • その広場に先に広がっているのが、旧東京教育大の跡地。<br />現在は、筑波大学や放送大学の校舎が建っている。<br />江戸時代には、陸奥森山藩松平家の上屋敷だった場所で、校内の一角には、本家である水戸中納言徳川斉修が庭の景観を称えて詠んだ碑文が建っていた。

    その広場に先に広がっているのが、旧東京教育大の跡地。
    現在は、筑波大学や放送大学の校舎が建っている。
    江戸時代には、陸奥森山藩松平家の上屋敷だった場所で、校内の一角には、本家である水戸中納言徳川斉修が庭の景観を称えて詠んだ碑文が建っていた。

  • 跡地の脇には、緩やかに下る坂道が沿っている。<br />湯立坂と呼ばれる坂で、坂下を流れていた小石川川の対岸に鎮座していた氷川社に由来する名前らしい。<br />湯立とは、沸騰した湯を参拝者に笹などで掛けて禊をする儀式のことだそうだ。

    跡地の脇には、緩やかに下る坂道が沿っている。
    湯立坂と呼ばれる坂で、坂下を流れていた小石川川の対岸に鎮座していた氷川社に由来する名前らしい。
    湯立とは、沸騰した湯を参拝者に笹などで掛けて禊をする儀式のことだそうだ。

  • その坂に面して堂々とした門を持つ屋敷が建っていた。<br />旧磯野家住宅で、銅板葺の屋根や銅版が特徴的な外観から通称『銅御殿』と呼ばれている。<br />実業家の磯野敬が建てたもので、主屋は大正元年(1912)、門は大正2年(1914)に竣工したもので、ともに重要文化財だそうだ。

    その坂に面して堂々とした門を持つ屋敷が建っていた。
    旧磯野家住宅で、銅板葺の屋根や銅版が特徴的な外観から通称『銅御殿』と呼ばれている。
    実業家の磯野敬が建てたもので、主屋は大正元年(1912)、門は大正2年(1914)に竣工したもので、ともに重要文化財だそうだ。

    旧磯野家住宅 名所・史跡

  • 旧磯野家住宅の前から脇道へと入る。<br />歩いて行くと、中学校の向かいの角にお洒落なバーがあった。<br />白い壁に青い扉が印象的だった。

    旧磯野家住宅の前から脇道へと入る。
    歩いて行くと、中学校の向かいの角にお洒落なバーがあった。
    白い壁に青い扉が印象的だった。

  • 中学校の北側を回り込みながらしばらく歩くと、団平坂に出た。<br />江戸の頃、この坂の途中に団平と言う米搗き住んでいたから名付けられたと言う。<br />庶民の名前が付くのは珍しいので、余程名の知られた人だったのだろう。

    中学校の北側を回り込みながらしばらく歩くと、団平坂に出た。
    江戸の頃、この坂の途中に団平と言う米搗き住んでいたから名付けられたと言う。
    庶民の名前が付くのは珍しいので、余程名の知られた人だったのだろう。

    団平坂 (丹平坂 袖引坂) 名所・史跡

  • その坂の脇には、竹早小学校の跡地がある。<br />現在は、図書館と公園になっていた。<br />ちなみに、明治に町名となった『竹早』は、江戸時代の町名であった御箪笥町の『箪』の字を上下に分割して付けられたそうだ。

    その坂の脇には、竹早小学校の跡地がある。
    現在は、図書館と公園になっていた。
    ちなみに、明治に町名となった『竹早』は、江戸時代の町名であった御箪笥町の『箪』の字を上下に分割して付けられたそうだ。

  • 団平坂の一本東側の道には、石川啄木終焉の地がある。<br />啄木が住んでいた頃は、小石川久堅町と呼ばれていた界隈だが、区画整理がされ、当時の面影はまったくない。<br />その終焉の地には、ビルが建ち、その壁に埋め込まれたプレートだけが、それとわかる唯一の痕跡だった。

    団平坂の一本東側の道には、石川啄木終焉の地がある。
    啄木が住んでいた頃は、小石川久堅町と呼ばれていた界隈だが、区画整理がされ、当時の面影はまったくない。
    その終焉の地には、ビルが建ち、その壁に埋め込まれたプレートだけが、それとわかる唯一の痕跡だった。

    石川啄木終焉の地 名所・史跡

  • 終焉の地から東へ一区画先には、広い道があった。<br />戦後に造られた坂道で、播磨坂と言う。<br />この辺りにあった常陸府中藩松平播磨守の上屋敷を貫いて造られたため名付けられたらしい。<br />江戸から昭和へと続く町割りをまったく無視して造られているが、接続する大通もほとんど無いので、何のために造られたのか不思議な道だ。

    終焉の地から東へ一区画先には、広い道があった。
    戦後に造られた坂道で、播磨坂と言う。
    この辺りにあった常陸府中藩松平播磨守の上屋敷を貫いて造られたため名付けられたらしい。
    江戸から昭和へと続く町割りをまったく無視して造られているが、接続する大通もほとんど無いので、何のために造られたのか不思議な道だ。

    播磨坂 名所・史跡

  • そんな播磨坂を横切り、小石川四丁目へ。<br />この辺りまで来ると、大きなマンションが増え、殺風景な感じがしてくる。<br />表通りに面したレストランの入口には、樺細工の飾りが掛けられていた。

    そんな播磨坂を横切り、小石川四丁目へ。
    この辺りまで来ると、大きなマンションが増え、殺風景な感じがしてくる。
    表通りに面したレストランの入口には、樺細工の飾りが掛けられていた。

  • 少し歩くと、また坂道に出る。<br />吹上坂と言う道で、昔、この辺りを吹上村と呼んでいたからのようだ。<br />坂の西側までが松平播磨守の屋敷があり、坂沿いには、善仁寺と宗慶寺が建ち、坂下には、長閑な播磨たんぼが広がっていたそうだ。<br />ふたつの寺院は、今でも坂沿いに健在だった。

    少し歩くと、また坂道に出る。
    吹上坂と言う道で、昔、この辺りを吹上村と呼んでいたからのようだ。
    坂の西側までが松平播磨守の屋敷があり、坂沿いには、善仁寺と宗慶寺が建ち、坂下には、長閑な播磨たんぼが広がっていたそうだ。
    ふたつの寺院は、今でも坂沿いに健在だった。

    吹上坂 名所・史跡

  • そのひとつ宗慶寺に立ち寄ってみる。<br />ビルに囲まれたコンクリート造りの本堂しかない寺だが、本堂前には、いくつかの石仏が並んでいた。

    そのひとつ宗慶寺に立ち寄ってみる。
    ビルに囲まれたコンクリート造りの本堂しかない寺だが、本堂前には、いくつかの石仏が並んでいた。

    宗慶寺 寺・神社・教会

  • 境内の片隅に、元和7年(1621)の銘がある宝篋印塔がある。<br />これは、徳川家康の側室で、6男松平忠輝の生母である茶阿局の墓碑だそうだ。<br />寺の名も、茶阿局の法名から付けられたとのこと。<br />伝通院とも深い関係がある寺らしい。

    境内の片隅に、元和7年(1621)の銘がある宝篋印塔がある。
    これは、徳川家康の側室で、6男松平忠輝の生母である茶阿局の墓碑だそうだ。
    寺の名も、茶阿局の法名から付けられたとのこと。
    伝通院とも深い関係がある寺らしい。

    茶阿局墓碑 (宗慶寺内) 名所・史跡

  • 宗慶寺の斜向かいにあった善仁寺に立ち寄る。<br />一歩境内に入ると、都会の喧騒が嘘のような静けさ。<br />大通から少し入っただけなのに、騒音は聴こえない。<br />空の広く、まるで都会の中の休息の場のようだ。<br />

    宗慶寺の斜向かいにあった善仁寺に立ち寄る。
    一歩境内に入ると、都会の喧騒が嘘のような静けさ。
    大通から少し入っただけなのに、騒音は聴こえない。
    空の広く、まるで都会の中の休息の場のようだ。

    善仁寺 寺・神社・教会

  • そんな境内の片隅に、青空を背に大きな仏様が建っていた。

    そんな境内の片隅に、青空を背に大きな仏様が建っていた。

  • 善仁寺の南側に続く住宅街の中の道を歩いて行く。<br />この辺りも、旗本の屋敷が建ち並んでいたところ。<br />今は、庶民の街だ。<br />そんな住宅街の中に空き地があった。

    善仁寺の南側に続く住宅街の中の道を歩いて行く。
    この辺りも、旗本の屋敷が建ち並んでいたところ。
    今は、庶民の街だ。
    そんな住宅街の中に空き地があった。

  • その空き地の片隅に、白くて可愛い花を付けた植物が。<br />雑草と呼ばれても、よく見れば結構綺麗だ。<br />植物は、暗い地面の下で陽が当たるのをじっと待っている。<br />そして、陽が当たればすぐに芽を出すのだから我慢強い。<br />

    その空き地の片隅に、白くて可愛い花を付けた植物が。
    雑草と呼ばれても、よく見れば結構綺麗だ。
    植物は、暗い地面の下で陽が当たるのをじっと待っている。
    そして、陽が当たればすぐに芽を出すのだから我慢強い。

  • 善仁寺を回り込むように歩いて行くと、小さな公園があった。<br />その公園の主役は、すくっと立った欅の木。<br />

    善仁寺を回り込むように歩いて行くと、小さな公園があった。
    その公園の主役は、すくっと立った欅の木。

  • 近付いてみると、幹の表面には苔が生えている。<br />こんな都会の中でも、小さな自然界がそこにはあった。

    近付いてみると、幹の表面には苔が生えている。
    こんな都会の中でも、小さな自然界がそこにはあった。

  • 少し歩き疲れたので、ベンチに座って一休み。<br />ゆっくりとした時間が流れていく。

    少し歩き疲れたので、ベンチに座って一休み。
    ゆっくりとした時間が流れていく。

  • 再び歩き始めると、すぐに観たことがあるような建物が現れた。<br />想い出した。<br />これは、ドラマ『やまとなでしこ』で魚春として登場した建物だ。<br />今は廃業したようだが、実際に魚屋だったことが看板からわかった。

    再び歩き始めると、すぐに観たことがあるような建物が現れた。
    想い出した。
    これは、ドラマ『やまとなでしこ』で魚春として登場した建物だ。
    今は廃業したようだが、実際に魚屋だったことが看板からわかった。

  • 次に目に付いたのは慈照寺。<br />本堂は江戸時代のものらしいが、詳しいことはわからない。<br />柱には、新春らしく『立春大吉』の文字が。<br />そういえば、元旦に地元の神社で引いたおみくじが大吉だった。<br />今年は、良い年であって欲しいと切に願う。

    次に目に付いたのは慈照寺。
    本堂は江戸時代のものらしいが、詳しいことはわからない。
    柱には、新春らしく『立春大吉』の文字が。
    そういえば、元旦に地元の神社で引いたおみくじが大吉だった。
    今年は、良い年であって欲しいと切に願う。

  • 境内には、江戸時代の遊侠人辰巳屋惣兵衛の墓があった。<br />惣兵衛は、本名を平井辰五郎と言い、伝通院門前に住んでいたそうだ。<br />女装して可笑しい所作で踊るのが評判となり、後に、仮面をつけて踊る『狂言神楽』を創案し、神田明神などの祭礼や大名屋敷での宴会の余興などで活躍したそうだ。<br />墓石には、振り袖姿で仮面をつけて踊る様子が刻まれていた。

    境内には、江戸時代の遊侠人辰巳屋惣兵衛の墓があった。
    惣兵衛は、本名を平井辰五郎と言い、伝通院門前に住んでいたそうだ。
    女装して可笑しい所作で踊るのが評判となり、後に、仮面をつけて踊る『狂言神楽』を創案し、神田明神などの祭礼や大名屋敷での宴会の余興などで活躍したそうだ。
    墓石には、振り袖姿で仮面をつけて踊る様子が刻まれていた。

  • 慈照寺近くの住宅街で、趣のある郵便受けを見つけた。<br />赤い実が、色褪せた木の郵便受けによく似あっていた。<br />この辺りは、小石川でも江戸時代の町割りが良好に残っている。<br />当時を思い起こすものは残っていないが、その道を辿るだけでも楽しいものだ。<br />

    慈照寺近くの住宅街で、趣のある郵便受けを見つけた。
    赤い実が、色褪せた木の郵便受けによく似あっていた。
    この辺りは、小石川でも江戸時代の町割りが良好に残っている。
    当時を思い起こすものは残っていないが、その道を辿るだけでも楽しいものだ。

  • そんなことを考えながら歩いていると、また坂に出た。<br />『三百坂』と呼ばれる坂で、何でも、松平播磨守の屋敷で新たに召し抱えた者たちが使えるものかどうか見極めるため、播磨守が登城の際、出立後に衣服を改めさせ、この坂で行列に追いつかせるということをやっていたそうだ。<br />追いつけなかった時には、罰金として三百文を払わせたことから、元々『三貊坂』と呼ばれていた坂が、『三百坂』になったようだ。<br />幕末、この坂で傑僧と呼ばれた琳瑞上人が暗殺されている。

    そんなことを考えながら歩いていると、また坂に出た。
    『三百坂』と呼ばれる坂で、何でも、松平播磨守の屋敷で新たに召し抱えた者たちが使えるものかどうか見極めるため、播磨守が登城の際、出立後に衣服を改めさせ、この坂で行列に追いつかせるということをやっていたそうだ。
    追いつけなかった時には、罰金として三百文を払わせたことから、元々『三貊坂』と呼ばれていた坂が、『三百坂』になったようだ。
    幕末、この坂で傑僧と呼ばれた琳瑞上人が暗殺されている。

  • 三百坂を登り切ると、道は鉤の手に曲がる。<br />この場所も、江戸時代のままだ。<br />その曲がり角には、石が置かれていた。<br />隅切りの部分だが、これは、京都で言う『いけず石』なのか。<br />それとも、辻を守る石なのか。

    三百坂を登り切ると、道は鉤の手に曲がる。
    この場所も、江戸時代のままだ。
    その曲がり角には、石が置かれていた。
    隅切りの部分だが、これは、京都で言う『いけず石』なのか。
    それとも、辻を守る石なのか。

  • そこからしばらく歩くと、伝通院に辿り着いた。<br />かの琳瑞上人は、ここ伝通院の塔頭処静院住持であり、『幕末の三舟』の一人、高橋泥舟宅からの帰途に襲われている。<br />処静院は、文久3年(1863)2月4日に浪士隊の結成が行われた場所である。<br />山岡鉄舟、清河八郎、近藤勇、土方歳三ら、幕末に名を馳せた面々が、その日一堂に会していたのだ。<br />山門の前に、その処静院に建っていた石柱が保存されている。

    そこからしばらく歩くと、伝通院に辿り着いた。
    かの琳瑞上人は、ここ伝通院の塔頭処静院住持であり、『幕末の三舟』の一人、高橋泥舟宅からの帰途に襲われている。
    処静院は、文久3年(1863)2月4日に浪士隊の結成が行われた場所である。
    山岡鉄舟、清河八郎、近藤勇、土方歳三ら、幕末に名を馳せた面々が、その日一堂に会していたのだ。
    山門の前に、その処静院に建っていた石柱が保存されている。

    伝通院 寺・神社・教会

  • 伝通院は、徳川家所縁の寺だ。<br />至る所に、徳川家の葵の紋が掲げられている。<br />現在の伝通院は、往時の半分にも満たない広さだが、それでも結構広い境内だ。

    伝通院は、徳川家所縁の寺だ。
    至る所に、徳川家の葵の紋が掲げられている。
    現在の伝通院は、往時の半分にも満たない広さだが、それでも結構広い境内だ。

  • 本堂にお詣りした後、墓地を拝見。<br />すぐに目に留まったのは、清河八郎の墓。<br />幕府を裏切った者の墓が、徳川家所縁の寺にあるというのは不思議なことだ。<br />麻布赤羽橋で暗殺された後、その首を山岡鉄舟がこの寺に埋葬したらしい。<br />

    本堂にお詣りした後、墓地を拝見。
    すぐに目に留まったのは、清河八郎の墓。
    幕府を裏切った者の墓が、徳川家所縁の寺にあるというのは不思議なことだ。
    麻布赤羽橋で暗殺された後、その首を山岡鉄舟がこの寺に埋葬したらしい。

    伝通院 寺・神社・教会

  • 奥へと進むと、巨大な五輪塔が建ち並ぶ場所があった。<br />ここが、徳川家の子女が眠る墓所だ。<br />それぞれに、誰の墓であるか書かれているので興味深く拝見する。<br />徳川家光の次男亀松君や正室であった鷹司孝子など、将軍家所縁の方々が眠っていた。

    奥へと進むと、巨大な五輪塔が建ち並ぶ場所があった。
    ここが、徳川家の子女が眠る墓所だ。
    それぞれに、誰の墓であるか書かれているので興味深く拝見する。
    徳川家光の次男亀松君や正室であった鷹司孝子など、将軍家所縁の方々が眠っていた。

  • その一角に、ひと際大きな五輪塔があった。<br />これは、徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室であった千姫の墓。<br />徳川家の天下取りの犠牲となった悲劇の女性は、今ここで静かに眠っているのだ。<br />

    その一角に、ひと際大きな五輪塔があった。
    これは、徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室であった千姫の墓。
    徳川家の天下取りの犠牲となった悲劇の女性は、今ここで静かに眠っているのだ。

    伝通院 寺・神社・教会

  • そして、この伝通院の墓地で最も広い墓域を持っているのが、かの徳川家康の生母である於大の方。<br />伝通院の名は、この於大の方が剃髪後に号したものである。<br />谷中の徳川家の墓地は整理されてしまったが、こちらは往時のままなのか。

    そして、この伝通院の墓地で最も広い墓域を持っているのが、かの徳川家康の生母である於大の方。
    伝通院の名は、この於大の方が剃髪後に号したものである。
    谷中の徳川家の墓地は整理されてしまったが、こちらは往時のままなのか。

    伝通院 寺・神社・教会

  • 伝通院を後にして、道沿いに東へと歩いて行く。<br />するとすぐ、道の真ん中に大きな樹が見えて来た。<br />近付いてみるとかなり太い幹だが、枝はかなり疎らで細い。<br />案内板を見ると、この樹は、近くの澤蔵司稲荷のご神木で、樹齢は約400年のムクノキとのこと。<br />昭和20年の空襲で上部が焼け、幹も炭化してしまったそうだが、それでも奇跡的に生き残り、今でもしっかり葉をつけるらしい。<br />植物の生命力を、改めて感じさせられた。

    伝通院を後にして、道沿いに東へと歩いて行く。
    するとすぐ、道の真ん中に大きな樹が見えて来た。
    近付いてみるとかなり太い幹だが、枝はかなり疎らで細い。
    案内板を見ると、この樹は、近くの澤蔵司稲荷のご神木で、樹齢は約400年のムクノキとのこと。
    昭和20年の空襲で上部が焼け、幹も炭化してしまったそうだが、それでも奇跡的に生き残り、今でもしっかり葉をつけるらしい。
    植物の生命力を、改めて感じさせられた。

    善光寺坂のむくのき 名所・史跡

  • ムクノキを過ぎると、澤蔵司稲荷が見えてくる。<br />境内の入口では、水仙がたくさん咲いていた。

    ムクノキを過ぎると、澤蔵司稲荷が見えてくる。
    境内の入口では、水仙がたくさん咲いていた。

  • 澤蔵司稲荷は、伝通院の学寮で修業した澤蔵司と言う僧が、実は千代田(江戸)城の稲荷大明神だったと云うことで境内に祀ったもの。<br />ご神木には、その澤蔵司稲荷が宿っていると言うことで、今でも道が樹を避けて通っているのだ。<br />ちなみに、澤蔵司が通っていたという門前の蕎麦屋は、今も場所を移して健在だそうだ。

    澤蔵司稲荷は、伝通院の学寮で修業した澤蔵司と言う僧が、実は千代田(江戸)城の稲荷大明神だったと云うことで境内に祀ったもの。
    ご神木には、その澤蔵司稲荷が宿っていると言うことで、今でも道が樹を避けて通っているのだ。
    ちなみに、澤蔵司が通っていたという門前の蕎麦屋は、今も場所を移して健在だそうだ。

    慈眼院 沢蔵司稲荷 寺・神社・教会

  • まずは参拝し、ご挨拶といつもの大切なお願いを。<br />お稲荷さんなので、狛犬ではなくお狐様がお出迎え。

    まずは参拝し、ご挨拶といつもの大切なお願いを。
    お稲荷さんなので、狛犬ではなくお狐様がお出迎え。

  • 賽銭箱を見ると、梵字があるので神紋ではない。<br />別当寺である伝通院の塔頭慈眼院のものらしい。<br />しかし、稲穂が描かれているので、ある意味、稲荷と関係が無いわけでもない。

    賽銭箱を見ると、梵字があるので神紋ではない。
    別当寺である伝通院の塔頭慈眼院のものらしい。
    しかし、稲穂が描かれているので、ある意味、稲荷と関係が無いわけでもない。

  • 建物も、拝殿ではなく本堂と言った感じ。<br />唐破風には、二対の白狐が彫られているが、これは、澤蔵司が白狐になって消えたという伝説に因むものだろう。

    建物も、拝殿ではなく本堂と言った感じ。
    唐破風には、二対の白狐が彫られているが、これは、澤蔵司が白狐になって消えたという伝説に因むものだろう。

  • 参拝後、境内を散策してみる。<br />手水舎の裏手には、以前社が建っていたという場所があり、そこには本地社と言う小さな社が建っていた。<br />かなり小さな社だが、精巧な彫り物が施されていて、かなり見応えがあった。

    参拝後、境内を散策してみる。
    手水舎の裏手には、以前社が建っていたという場所があり、そこには本地社と言う小さな社が建っていた。
    かなり小さな社だが、精巧な彫り物が施されていて、かなり見応えがあった。

  • 歩いていると、奥へと続く道があった。<br />社殿の辺りとは、明らかに異なる空気を感じる。<br />すると、奥には窪地があり、朱色の鳥居が建ち並んでいるのが見えた。

    歩いていると、奥へと続く道があった。
    社殿の辺りとは、明らかに異なる空気を感じる。
    すると、奥には窪地があり、朱色の鳥居が建ち並んでいるのが見えた。

  • 降りてみると、先ほどまで居た場所とは異質の空間に迷い込んだ雰囲気が。<br />ここは、霊窟(おあな)と呼ばれる場所で、狐が住んでいた洞穴があったらしい。

    降りてみると、先ほどまで居た場所とは異質の空間に迷い込んだ雰囲気が。
    ここは、霊窟(おあな)と呼ばれる場所で、狐が住んでいた洞穴があったらしい。

  • そこには稲荷が祀られていたらしいが、今は塞がれているようだ。<br />下の方に僅かに穴のようなものが見えたのだが。<br />

    そこには稲荷が祀られていたらしいが、今は塞がれているようだ。
    下の方に僅かに穴のようなものが見えたのだが。

  • 周囲には、多くの祠や狐様が祀られている。<br />中には、かなり摩耗している古いお狐様も。

    周囲には、多くの祠や狐様が祀られている。
    中には、かなり摩耗している古いお狐様も。

  • 興味深く歩き回っていると、ふと視線を感じた。<br />その先を見ると、猫さんが一匹こちらを見ている。<br />そして、ゆっくりと斜面を登って行き、またこちらを振り返った。<br />その後ろには、隣にある善光寺の屋根が聳えていた。

    興味深く歩き回っていると、ふと視線を感じた。
    その先を見ると、猫さんが一匹こちらを見ている。
    そして、ゆっくりと斜面を登って行き、またこちらを振り返った。
    その後ろには、隣にある善光寺の屋根が聳えていた。

  • 昭和20年の空襲の際には、霊窟手前辺りで火災が止まったそうだ。<br />そのためか、この霊窟の辺りだけは、江戸時代の面影が残っているらしい。<br />ここが東京のど真ん中だとは思えない、そんな空間だった。

    昭和20年の空襲の際には、霊窟手前辺りで火災が止まったそうだ。
    そのためか、この霊窟の辺りだけは、江戸時代の面影が残っているらしい。
    ここが東京のど真ん中だとは思えない、そんな空間だった。

  • 澤蔵司稲荷から少し坂を下ると、朱色の山門が見えてくる。<br />ここは、伝通院の塔頭であった緑受院を受け継いだ善光寺だ。<br />同じような山門がもうひとつあるが、どちらも空襲の火災から免れたそうだ。<br />山門の前を下る坂は、この寺の名に因んで善光寺坂と言うらしいが、明治以降に名付けられたと案内板に書いてあった。

    澤蔵司稲荷から少し坂を下ると、朱色の山門が見えてくる。
    ここは、伝通院の塔頭であった緑受院を受け継いだ善光寺だ。
    同じような山門がもうひとつあるが、どちらも空襲の火災から免れたそうだ。
    山門の前を下る坂は、この寺の名に因んで善光寺坂と言うらしいが、明治以降に名付けられたと案内板に書いてあった。

  • 坂は善光寺の角から二つに分かれているが、寺に沿って曲がっているほうが善光寺坂だ。<br />江戸の頃は、両側に伝通院の塔頭があったのだが、今はマンションなどになり、面影はまったくない。<br />唯一、坂上に見える善光寺の屋根だけが往時を物語っている。

    坂は善光寺の角から二つに分かれているが、寺に沿って曲がっているほうが善光寺坂だ。
    江戸の頃は、両側に伝通院の塔頭があったのだが、今はマンションなどになり、面影はまったくない。
    唯一、坂上に見える善光寺の屋根だけが往時を物語っている。

    善光寺坂 名所・史跡

  • 坂を下り切り、回り込むように南へと向かう。<br />そこに現れたのが六角坂。<br />名前は、坂の西側に高家六角家の屋敷があったからである。<br />この坂の先には、当時、御三家水戸徳川家の広大な上屋敷があった。

    坂を下り切り、回り込むように南へと向かう。
    そこに現れたのが六角坂。
    名前は、坂の西側に高家六角家の屋敷があったからである。
    この坂の先には、当時、御三家水戸徳川家の広大な上屋敷があった。

    六角坂 名所・史跡

  • のんびり坂を登って行くと、右手に小さな教会が建っていた。<br />入口には、上富阪教会と書いてある。<br />江戸の頃、この辺りは、小石川上富阪町と呼ばれていたのだが、思わぬところでその名残を見つけた。

    のんびり坂を登って行くと、右手に小さな教会が建っていた。
    入口には、上富阪教会と書いてある。
    江戸の頃、この辺りは、小石川上富阪町と呼ばれていたのだが、思わぬところでその名残を見つけた。

  • 教会の少し先の住宅街の一角に、歌人島木赤彦が下宿していたいろは館の跡がある。<br />もちろん建物は残っていないが、それを示す碑があった。<br />『アララギ』はここで編集されていたそうだ。

    教会の少し先の住宅街の一角に、歌人島木赤彦が下宿していたいろは館の跡がある。
    もちろん建物は残っていないが、それを示す碑があった。
    『アララギ』はここで編集されていたそうだ。

  • この界隈は、新建材の新しい住宅が増え、街並みが落ち着きがない。<br />それでも、そこかしこに優し気な光景も残っている。

    この界隈は、新建材の新しい住宅が増え、街並みが落ち着きがない。
    それでも、そこかしこに優し気な光景も残っている。

  • その上富阪町から下富阪町へと下る坂が堀坂。<br />名前の由来は、北側にあった堀内蔵助の屋敷からだ。<br />坂の途中には、堀家が坂を修復した際に建てられた『ほりさか』と刻まれた石標が残されていた。<br />それにしても、坂道が多い。<br />まあ、これが江戸らしさなのだが。<br />そして、坂の向こうの風景がビルで遮られているのは、東京らしさと言える。

    その上富阪町から下富阪町へと下る坂が堀坂。
    名前の由来は、北側にあった堀内蔵助の屋敷からだ。
    坂の途中には、堀家が坂を修復した際に建てられた『ほりさか』と刻まれた石標が残されていた。
    それにしても、坂道が多い。
    まあ、これが江戸らしさなのだが。
    そして、坂の向こうの風景がビルで遮られているのは、東京らしさと言える。

    堀坂 名所・史跡

  • 坂を下り、突き当りの丁字路を左へと曲がる。<br />この道も細く、江戸時代から残る道だ。<br />道の左側には再開発を免れている街並みが続いている。<br />江戸の頃は、堀家の屋敷だった場所だ。

    坂を下り、突き当りの丁字路を左へと曲がる。
    この道も細く、江戸時代から残る道だ。
    道の左側には再開発を免れている街並みが続いている。
    江戸の頃は、堀家の屋敷だった場所だ。

  • その道の一本東側の道へ出る。<br />そこは、都道436号小石川西巣鴨線、通称千川通りだった。<br />その通りに面して建っていたのは、常光山源覚寺。<br />俗に、こんにゃくえんまとして親しまれている寺院だ。<br />

    その道の一本東側の道へ出る。
    そこは、都道436号小石川西巣鴨線、通称千川通りだった。
    その通りに面して建っていたのは、常光山源覚寺。
    俗に、こんにゃくえんまとして親しまれている寺院だ。

    源覚寺(こんにゃくえんま) 寺・神社・教会

  • その閻魔堂には、運慶派により鎌倉時代に制作されたという閻魔王坐像が安置されている。<br />この像の右目が黄色く濁っているそうだが、これは眼病を患った信心深い老婆へ右目を与えたためで、その後、老婆が欠かさずこんにゃくを備え続けたことから、こんにゃくえんまと呼ばれているそうだ。<br />目の病にご利益があるようなので、しっかりお参りしてきた。

    その閻魔堂には、運慶派により鎌倉時代に制作されたという閻魔王坐像が安置されている。
    この像の右目が黄色く濁っているそうだが、これは眼病を患った信心深い老婆へ右目を与えたためで、その後、老婆が欠かさずこんにゃくを備え続けたことから、こんにゃくえんまと呼ばれているそうだ。
    目の病にご利益があるようなので、しっかりお参りしてきた。

  • 境内の片隅に、塩地蔵尊なるものがあった。<br />この地蔵尊は、源覚寺が開創された寛永元年(1624)より前からこの地にあったそうで、お参りする時に塩を盛ることから名付けられたそうだ。<br />現在でも、そこにはたくさんの塩が盛られていた。

    境内の片隅に、塩地蔵尊なるものがあった。
    この地蔵尊は、源覚寺が開創された寛永元年(1624)より前からこの地にあったそうで、お参りする時に塩を盛ることから名付けられたそうだ。
    現在でも、そこにはたくさんの塩が盛られていた。

  • 源覚寺前の丁字路は、こんにゃくえんま前交差点。<br />周辺には、アーケード街があり、昔は賑わったようだ。<br />今は、高層マンションの足元に、肩を寄せ合うように僅かに残っているだけだった。

    源覚寺前の丁字路は、こんにゃくえんま前交差点。
    周辺には、アーケード街があり、昔は賑わったようだ。
    今は、高層マンションの足元に、肩を寄せ合うように僅かに残っているだけだった。

  • 交差点を渡り、さらに白山通りを横切ると、そこは本郷。<br />江戸の頃は、本郷菊坂田町と呼ばれた町屋があったところだ。<br />この後、菊坂を歩いてみようと思ったが、思いのほか足が疲れていたので、今回はここで切り上げることにした。<br />ちょうど菊坂の入口に、上野駅へ向かう都バスのバス停があったので、そこからバスで上野へ出ることにした。

    交差点を渡り、さらに白山通りを横切ると、そこは本郷。
    江戸の頃は、本郷菊坂田町と呼ばれた町屋があったところだ。
    この後、菊坂を歩いてみようと思ったが、思いのほか足が疲れていたので、今回はここで切り上げることにした。
    ちょうど菊坂の入口に、上野駅へ向かう都バスのバス停があったので、そこからバスで上野へ出ることにした。

  • 菊坂下バス停から乗った13:46発のバスは、ちょうど満席で座れなかった。<br />バスは、言問通りから不忍通りを走り、15分足らずで終点の上野公園バス停に着いた。<br />バスを降りると、目の前には不忍池が広がっている。<br />冬枯れの蓮が草紅葉のような池の向こうには、弁天堂が佇んでいた。

    菊坂下バス停から乗った13:46発のバスは、ちょうど満席で座れなかった。
    バスは、言問通りから不忍通りを走り、15分足らずで終点の上野公園バス停に着いた。
    バスを降りると、目の前には不忍池が広がっている。
    冬枯れの蓮が草紅葉のような池の向こうには、弁天堂が佇んでいた。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 前日光さん 2019/10/05 22:45:59
    東京って、本当に坂道が多いですよね!
    旅猫さん、こんばんは。

    東京散歩、私も何度か東京町歩きをしたことがあります。
    漱石の「こころ」の舞台になった小石川界隈も歩いたことがあります。
    昔の人は、よく歩いたものだなと想いながら、その足跡を辿りました。

    腰を痛めてから少し遠ざかっていますが、東京って大都会ではありますが、時々驚くほど昔の面影が残っていますよね。

    また東京は、ホント、坂道が多いですよね!
    東大の講座に通っていたことがありますが、いつも弥生坂を登っていました。
    千代田線の根津駅から行っていたので。
    時々地元の年配の方が、スーパーの袋を重そうに持って坂を登ってこられましたが、実際に生活するのはご老人には大変だろうなと思ったことがあります。

    旅猫さんもこの町歩きで、たくさんの坂を歩かれていますが、江戸を一番感じるのは、坂道かもしれませんね。
    時々出会う猫さんも、まるでお江戸の昔から突如ワープしてきたような風情を漂わせていたりして。
    都会の猫も、かなり好きな旅のモチーフです(^_-)


    前日光

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2019/10/08 19:28:16
    RE: 東京って、本当に坂道が多いですよね!
    前日光さん、こんばんは。
    書き込みありがとうございます。

    小石川界隈は、街歩きには良いところですよね。
    あの辺りは、昭和の香りが色濃く残り、結構好きです。
    東京は、思ったよりも江戸の風情も残っていて、面白いです。
    坂が多いのも、東京の魅力ですね。
    確かに、江戸の名残を感じるのは坂道かもしれません。
    そして、そこかしこで出会う猫さんも。
    秋が近づいて来るので、また街歩きを再開しようと思います。

    旅猫

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