2023/09/20 - 2023/09/20
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大内義隆公が九州支配に注力している隙をついて中国地方では尼子晴久が勢力を広げてきた。
義隆公は1540年安芸国へ遠征する。大内傘下の毛利元就は1540年10月尼子晴久の大軍に攻められ、吉田郡山城に3か月籠城して風前の灯であった。
大内氏の陣営は戦況を見守るだけだったが陶隆房(後の晴賢)は義を知ることの重要性を強調し「義を見てせざるは勇なきなり」と諸将を説得し、1万の援軍を率いて毛利氏を救援、尼子晴久を安芸国から駆逐した。
安芸国を平定すると陶隆房の進言で尼子氏の本拠地出雲遠征を敢行。備後、安芸、石見の領主が大内氏にこぞって加勢しその数4万という大軍勢で月山富田城の攻略に取り掛かった。
月山富田城は難攻不落の堅城、しかも出雲に侵入した大内軍は地理に不案内で食料の補給もままならず月山富田城を攻めあぐねた。
そうしたところ大内氏に帰順した吉川興経や三沢為清らが寝返り大内軍は退却のやむなきに至るが、その途中で悲劇が起こる。
海路撤退するはずだったが養嗣子晴持の船が転覆して溺死したのだ。3歳から我が子同然に養育してきた義隆公にとっては痛恨の極みだった。
出雲遠征の大敗と晴持の死は義隆公に大きな衝撃を与えることになった。
その後義隆公は休む間もなく戦後処理に取り掛かる。尼子氏の南下を防ぐため、安芸・石見国(広島県と島根県)の防備体制を整え備後国(広島県東部)に勢力を広げ、伊予国(愛媛県)にも出兵し勢力範囲は歴代最大となった。
しかしこれ以降は一度も対外戦争は遂行せず、内政や対外貿易・学問と芸能に専念した。
世は戦国時代で戦が絶えなかったが、大内氏の領国では義隆公が亡くなるまでの8年間は平和を謳歌し山口は繁栄の極みであった。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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大内義隆公一行の終焉の地長門市湯本温泉にある曹洞宗大寧寺の本堂である。
1551年8月、大内義隆公は家臣である長門守護代陶隆房(後に晴賢と改名)の謀反に遭い山口からこの地まで落ち延びてこの本堂で自尽、享年45であった。
出雲遠征の失敗以降死に至るまで今少し義隆公について触れておきたい。
対外侵略はこの後一度もしなかったが文治体制を強化し、石見銀山や勘合貿易による経済的背景を受けて山口は繁栄の極みを迎えた。
位は正三位を授けられて将軍足利義晴を越え、さらに従二位という武家としては破格の位まで上がり詰め、参議に任じられた。
義隆公は文芸への関心が特に高く、義隆公を頼って公家・知識人・僧侶・芸能者など多くの人が山口を訪れた。
義隆公は儒学、仏学、神道、有職額、漢詩文、和歌、連歌、能楽など多方面に渡って伝統的な学問、芸能を極めている。
義隆公は後奈良天皇の即位式の費用を献上したり、領内に多くの寺社を建立・改修するなど権威や新仏にたいする崇敬の念が厚かった。
その間側近の文治派相良武任が重用されるようになると武断派の陶隆房との対立が深まって行く。対外侵略をやめたことで武士の出番が無くなり、文治派の重用や度重なる朝廷への支援や公家との親密な関係も家臣たちに義隆公への反感を募らせたと考えられている。
もう一つ重要な要素として挙げるなら、陶隆房が父興房ほど義隆公に忠誠心が無かったと考えられる。
今までは陶隆房(後の晴賢)は陶興房の実子と考えられていたが、近年実子ではなく陶興房の妹(問田氏の妻)の二男であることが分かった。
養父陶興房は大内義興・義隆2代に使えた大内氏の筆頭家老、大内氏の柱石と呼ばれている。忠誠心が強く文武両道の重鎮であった。
陶隆房は養父興房ほど忠誠心は無かったと考えられるが、義隆公は隆房をことのほか信用していて度重なる「陶軍謀反、山口に進軍中」の報に接しても「隆房に限って決してそのようなことは無い」と信じなかったと伝わっている。
部下を信用すること、ことのほか強かった。というより部下を疑うことをしなかった御屋形様だった。
義隆公はなぜここまで陶隆房を信じ切っていたのだろうか?陶隆房が不穏な動きを見せていることは重臣からすでに知らされていたが、全く信じようとしなかった。
全く危機管理が欠如していたかのようだが、これには訳があった。
義隆公の母東向殿は大内義興公の正室であるが、父内藤弘矩と兄弘和が陶武護の讒言を受け謀反の疑いで自害した。その後疑いは晴れ内藤の名誉は回復し東向殿は義興公の側室に迎えられたが、父と兄を同時に失った悲しみから「家臣を疑うな」との教育を義隆公の幼少期から行ってきた。そのため家臣の善悪を見抜く力が失われ、陶の謀反を見抜けなかった。
東向殿は側近の者にそう言い残していたと今に伝えられている。大寧寺 寺・神社・教会
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凌雲寺跡。大内義隆軍が陶軍防御の拠点とする予定だった寺である。
陶隆房の目論見は着々と進んでいた。大内家臣では豊前守護代杉重矩(しげのり)、長門守護代内藤興盛が加わり、傘下の武将も領地安堵の見返りに毛利元就や石見国の益田氏らを味方につけて多数派工作に成功していた。
そして1551年8月周防富田(現在の周南市)で挙兵した。陶軍は江良房栄、宮川房長が率いる兵2千を先鋒に総勢5千の兵で押し寄せた。
先鋒の2千は山陽道を西に進み周防宮市(現在の防府市)から右田岳のすそ野の勝山峠を越えて山口に進む進路をとった。
兵力や先方の進路は直ちに山口の御屋形様に届けられたが、義隆公は陶隆房謀反の報を信じようとしなかった。
陶軍謀反の第一報が届けられた時、義隆公は能「田村」を待っていたと伝えられている。以降この時以降山口市で能「田村」が舞われたことはない。
周囲の冷泉隆豊や天野隆良らの近習は「直ちに振れを出せば手勢6千は集められる。敵は2千、手勢6千で勝山峠を抑えれば負けることはない、御屋形様直ちにご出陣を」と直言するも義隆公は陶を信じて疑わなかった。
この時陶軍本隊3千は現在の周南市を発して防府市の北徳地町から山口市の北にある仁保の山道を目指して進軍していた。
陶軍に加担している杉・内藤軍はまだ軍事行動を起こしていないため、もしこの時近習の進言通りに峻険な勝山峠に軍を急派して守れば、陶軍の先鋒は進撃を阻まれて逆に撃破されることも予想できたので戦局はどう転んでいたか分からない。
さらに有力武将で石見守護代の問田隆盛は陶から決起を誘われていたがはっきり協力を明言せず中立の立場を取っている。
筑前の杉興運(おきかず)は義隆派であったがこの時期筑前にいたため、義隆側は問田の動向如何では形勢逆転の可能性があった。・・・が、義隆公は動かなかった。
陶隆房の反抗に際し側近の冷泉隆豊らがいくら討伐を勧めても義隆公は動かなかった。
しかし何もせずに手をこまねいているうちに、陶軍の先鋒は勝山峠の険峻を越えて山口盆地に進軍してきた。
大内館は防御に向かないため防御に適した凌雲寺に退避し陶軍を迎え撃つことになった。しかしここで兵に動揺がはしる。長門守護代の内藤興盛と豊前守護代の杉重矩の兵が集まっていないのだ。内藤軍と杉軍はこの時各々1千の兵しかいなかったので冷静に考えれば6千の兵で館を囲み押しつぶせばよかったのだが、焦っているときはそのような考えさえ思い浮かばなかったようだ。勝山峠から山口お館までは2時間や3時間でたどり着けるような距離では無い。義隆軍の旗色が良くなれば中立を決め込む問田勢が加勢に加わるかもしれなかったのだ。
陶軍挙兵の第一報以降次々と送られてくる物見の報告に成す術もなく手をこまねいているうちに、打つ手が無くなってしまった。
義隆一行は武士だけでなく、足腰の弱い公家や女子供が同行していたため行軍が遅々として進まず凌雲寺までたどり着くにのは不可能となった。
そのため途中にある大内正弘公の菩提寺法泉寺(この寺も塀や土塀で囲まれており、大内館よりは防御に適していた。)で防ぐことになった。
しかし行軍途中に義隆公を見限った兵が次々に脱落し法泉寺に着いた時には兵は3千に減少、一夜明けるまでには500人に減少した。
これでは到底戦にはならないので義隆公主従は山口市吉敷の大峠を越えて長門方面に逃走した。
義隆公は長門の仙崎から船で脱出し石見の吉見氏を頼ろうとしたが悪天候のため断
念。ここに進退窮まった。
もはやこれまで。義隆公は逃走をあきらめて大寧寺に入り、住職と夜通し語り合いながら最期の時を過ごすのであった。
ちなみに石見の吉見正頼は義隆公の義兄、義隆公の実姉の婿である。義隆公の死後吉見氏は義隆公の仇を討つため津和野三本松城で挙兵している。 -
長門湯本温泉を抜けて俵山に向かう道筋に大寧寺がある。
道路沿いに写真の看板が見えてきたらもう大寧寺入口である。右側の道を奥に進むと大寧寺の大駐車場がある。駐車場は無料。
大寧寺は紅葉の名所でもあり秋のシーズンには近県からの観光客も多い。そのため広い駐車場が完備されている。 -
駐車場側には開山石屋真梁禅師大遠忌法要の看板があった。
石屋禅師は確か鹿児島の高僧、山口市の名刹泰雲寺も石屋禅師の開山だったと記憶している。 -
大寧護国禅寺(大寧寺)の由来
1410年、開山は石屋真梁禅司、開基は長門守護代鷲頭弘忠により開創された。
平成22年に開創以来600年を迎えた長門国の護国寺である。詳しくは由来説明を参照。 -
大寧寺略案内・
大寧寺は大内義隆公の終焉の地として広く知られているが、寺の墓地には関東管領で足利学校や金沢文庫を再興した関東の守護大名上杉憲実の墓がある。
政争に疲れて出家し諸国を行脚、大内氏を頼って山口に留まり大寧寺で亡くなった。
上杉憲実は歴史の教科書にも登場する人物なので名前を聞かれたことはあると思うが、まさか西の果ての禅寺に眠っていることをご存じの方はまずいらっしゃらないだろう。
またこの寺には毛利家の重臣たちが多数埋葬されている。その中には戦国時代に活躍したり大河ドラマに登場した家臣の墓もある。 -
大寧寺全体図。
境内の案内は矢印で示されているが建物など境内全体を把握するにはこの絵図が分かりやすい。大寧寺 寺・神社・教会
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大寧寺の境内は山口県の指定史跡になっている。
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大内義隆公「姿見の池」と「兜掛けの岩」
義隆公は大寧寺に入る前に乱れた髪を整えようと参道わきの岩に兜を掛け、そばの池に顔を映そうとしましたが水面に顔が映らなかった。
そのことからすでに自分の命運が尽きたことを悟り粛々と自刃したと伝えられている。
この話は義隆公の潔い最期の様子を伝える話として長門や山口の人々には代々言い伝えられたきた。
ちなみにここは姿見の池だが、高野山奥の院には姿見の井戸がある。高野山の井戸を覗いて自分の姿が水面に映るかどうか試された方も多いと思う。 -
姿見の池と兜掛けの岩は以前旧参道にあったものを近年こちらに移したそうだ。
現在は大寧寺の境内にある。 -
こちらが姿見の池。
池と言うから大きな物かと思ったら、小さな井戸のようなものだった。
井戸の淵に立つと水面にくっきりとおのが姿が映る。
苔むした石柵や池の周囲の苔が古めかしさを偲ばせていた。 -
私も自分の姿が映るかどうか試してみた。
顔や姿がくっきり映ったので一安心。 -
姿見の池の全景。
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大内義隆公兜掛けの岩標識。
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中央にある岩が兜掛けの岩。見るからに兜を掛けるにはちょうど良い大きさの岩だった。
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境内に沿って流れる大寧寺川。
紅葉の時期はこの川はとても美しい。 -
大寧寺境内の様子。
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大寧寺川にかかる盤石橋の説明板。
防長三奇橋の一つ。今から350年以上も前に大小の自然石のみで組積みされた石橋である。盤石橋 名所・史跡
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盤石橋は大寧寺の山門から本堂に至る参道上に架けられた石橋。
盤石橋 名所・史跡
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盤石橋組立図に示されている通り。橋の中央に太い石の橋脚があり、橋の通行部分は平らな石が使用されていた。
盤石橋 名所・史跡
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盤石橋も奥に見える赤い橋は虎渓橋。
周囲には沢山のモミジの木。紅葉の時期は美しいモミジの景色が見られる。 -
大寧寺境内側から見た盤石橋。
盤石橋 名所・史跡
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大寧護国禅寺の石柱。
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奥に見える建物が本堂。その手前は山門跡。
大寧寺 寺・神社・教会
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釈迦三尊像と十六羅漢像。
これらの石像は元々大寧寺川対岸の岩場に安置されていた。県道拡幅工事に伴い崖の上に移設されたが崩落の危険があるため、平成17年5月に寺の境内に移設された。
これらの石像は毛利家永代家老益田氏が建立したらしい。
以前訪れた時はこれらの石像は無かったが、平成17年に移設されたとは知らなかった。
写真中央が釈迦三尊像、その左右に十六羅漢像が配置されていた。 -
釈迦三尊像と十六羅漢像の説明板。
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釈迦三尊像と左側の8体の羅漢像。
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釈迦三尊像と右の羅漢像。
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参道沿いの両側には赤い帽子と赤い腹掛けを付けたお地蔵様が点々と並んでいる。
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山門の手前にある白蓮池。
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山門跡とその先に見えるのが寺の本堂。
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大内義隆公終焉の地の趾と刻まれた石碑。
その奥一段高いところが山門の跡。 -
山門跡の説明板。
1570年代毛利家永代家老益田藤兼により寄進された山門。その後寛永17年に焼失したが1677年益田氏によって再建された。
明治維新後は藩の庇護が無くなり明治末期に倒壊した。 -
現在残っているのは山門の礎石のみである。
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こちらは右側の礎石。
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山門の跡。礎石から規模の大きな山門であったことが分かる。
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大寧寺本堂。
大寧寺 寺・神社・教会
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本堂の左奥には墓所がありその一角に大内義隆主従の墓所がある。
ここには大寧寺開基鷲頭弘忠、関東管領上杉憲実、萩藩重臣の墓石群があり、毛利元就の重臣で中国地方制圧時にその名を知られた家臣も名を連ねている。 -
墓石の配列図。中央に南北に走る道があり、道の右側に鷲頭弘忠や上杉憲実、家老益田家の累代の墓がある。図の右上にあるのが大内義隆主従の墓所。
道の左は萩藩重臣の墓所である。 -
大寧寺境内の説明。
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墓石の配置図。
戦国時代に詳しい人であれば聞きなれた人物が何人か目に付くはずです。 -
経堂跡。
重臣冷泉隆豊が大内義隆公の介錯を務め、その後最後まで踏みとどまって奮闘した場所。
大内家家臣の中でも勇将として知られる隆豊は文治派の相良武任と武断派の陶興房の対立が深まるとその折衝役として家中が分裂しないように奔走、いち早く陶隆房の叛意に気づいて義隆公に隆房を討つように進言したが、義隆公は隆房に全幅の信頼を置いていたため一向に聞き入れられなかった。
隆豊は自刃する義隆公の邪魔をさせまいと、わずかな供とともに大寧寺に迫る陶軍に対して頑強に抵抗したのであった。陶軍は隆豊の意を汲み一時軍を引いたと言われている。
義隆公の介錯を終えると陶軍と最後の戦いに及び最期は火をかけた経堂内で腹を十文字に掻き切り、血が滴るはらわたを取り出して天井に投げ付けてなくなるという壮絶な戦いぶりだったと伝わっている。
辞世は「 みよやたつ 雲も煙も中空に さそいし風のすえものこらず 」
すえは隆房の苗字「陶」を、のこらずは滅亡を想定させるが、この歌の通りに4年後の厳島の戦いで滅亡した。 -
経堂跡から案内表示の矢印に従って石畳の坂道を上がると大内義隆主従の墓所がある。
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萩藩重臣の墓碑群の一画。
この一画には鷲頭弘忠、上杉憲実、萩藩永代家老益田氏の累代の墓がある。 -
大内義隆主従の墓所に向かう坂道は冷泉坂と命名されている。
この坂は冷泉隆豊から命名されたもの。冷泉隆豊は大内義隆の警固役で陶隆房の父、陶興房と並び称される大内義隆公の忠臣だった。
冷泉隆豊の始祖は大内家24代大内弘世公の四男で25代当主の大内義弘公の弟大内正弘である。
大内正弘は兄大内義弘公と一緒に京都に上京、この時冷泉家の姫君に見初められ和歌を取り交わすうちに恋仲となり姫君と結婚、姫君の父の希望により冷泉の姓を名乗るが、正弘はあくまで武家であり京都に留まることはできないと断り姫君と共に周防国に帰国して大内氏家臣団の一翼を担った。
そのため大内家では冷泉正弘ではなく大内氏の分家大内正弘として記されている。
大内正弘の子孫は6代・7代と正室を冷泉家から迎えており、正式に冷泉と名乗るのは隆豊の父冷泉興豊(30代大内義興公の家臣)からである。 -
冷泉坂を振り返る。
かなり勾配のきつい坂道だった。 -
坂を上り切ったところに大内義隆主従の墓所がある。
義隆主従は山口市の法泉寺を出立して長門仙崎を目指したが生憎の悪天候で船が出せず失意のうちにここ大寧寺に身を寄せたものの、迫りくる陶の大軍と戦う兵はごく僅かで抗う術はもう残されていなかった。
義隆公は大寧寺に入ると住職と仏法について夜通し語り合いながら最期の時を過ごす。
そして9月1日早朝、陶の軍勢が押し寄せる中、冷泉隆豊ら側近の奮戦に守られながら、義隆公は泰然と自刃。享年45歳だった。
義隆公は「武徳」の大内家当主として勢力を歴代最大にまで広げて遣明貿易を独占し、経済に裏打ちされた繁栄を成し遂げた西国一の戦国大名。
「人物の器量は世に二人といない」「末世の道者」とも伝えられた地位も教養も兼ね備えたスケールの大きな人物だった。大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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山口県指定史跡「大内義隆主従の墓所」の碑
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碑文のアップ。
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正面に大内義隆の墓。その右に嫡子大内義尊の墓。
義隆父子の墓の前左右には最後まで従った近習や側近の墓が並んでいる。
宝篋印塔の墓石の前や側に墓標があるが、これは明治21年に毛利家当主毛利元徳(もとのり)が建てたもので合計33基ある。大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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大寧寺に入山した大内義隆公を迎えたのは第13世異雪慶殊和尚。
義隆一行は山門の前で下馬し、軍装をといて寺内の客殿に案内された。そこで行水を済ませ湯漬けの接待を受けた受けた義隆公は身支度を整えて異雪慶殊の丈室に座った。
義隆公は住職と仏法についてレベルの高いやり取りを行い、住職に最後の遺言を伝えた。それは「これまで同行した先の二条関白殿の若君従三位中将殿(二条良豊、16歳)、権中納言持明院基規(義隆公の詠曲の師)殿、そして愚息新介(7歳、死後義尊)などのこと、如何なることがあっても木の陰、岩の間に隠してでも命を助け、二人は必ず京都に届けて欲しい。新介は僧にして我らを弔わしてほしい。」ということであった。
義隆公はこの三人のことが気がかりで丁重に住職に依頼したと陰徳太平記に残されている。
異雪和尚は義隆公を仏弟子として認め「瑞雲珠天」の法号を授けた。
供奉の者にも法名が授けられ義隆公と共に辞世の句を詠んだ。
義隆公の辞世は
「討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)」
「人生は露のように、また稲妻のようにはいかない。このような人生観を持つべきだ」という意味である。
写真は大内義隆公の菩提寺龍福寺にある辞世が刻まれた石碑。
義隆公は死に臨んでとても心安らかだったと伝えられている。刃を腹に突き立て横一文字に引くと冷泉隆豊が大太刀が振り下ろして介錯した。
すぐに遺体の上に褥や襖や障子が置かれ火がつけられた。火は障子を伝わって客殿の天井に移り、ドンドン燃え上がって火焔の火柱となり舞い上がった。
猛火は逆巻き飛散して仏殿(本堂)、庫裏、方丈、山門、僧堂、法堂にいたるまですべて焼き尽くした。
冷泉隆豊らは棟木が焼け落ちるまで義隆公の亡骸を護っていたと言う。
その間に大内新介、二条良豊、持明院基規、小幡義実らは異雪和尚が指揮する僧侶団と共に裏山から俵山に向けて逃れて行った。 -
大内義隆主従の墓所の場石配置図。
配置図は上に配置見取り図、下に墓石の名前が記されていた。 -
墓所に埋葬された人々の名前。その数33名である。
3から19までの人物が最後まで大内義隆公に忠節を尽くした武士だが大寧寺で討死したのに名前が無い武士がいる。
それは右田隆次、大内氏の分家で右田氏の一門。仁壁神社と今八幡宮で行われる例大祭で大内義隆公と相良武任を陶隆房が襲撃するとの噂が流れ、代理として参詣した。
大寧寺まで義隆公父子を守って警固し、大寧寺で討死している。
右田隆次は記録にもはっきり残っている人物であるが、なぜこの墓地の埋葬されていないのか分からない。 -
墓石の配置図。
x印の武士は墓石が無い、というか大寧寺で死亡していない。義隆公に最後まで忠節を尽くした武士達だが大寧寺以外で討死している。 -
大内義隆公の墓。
大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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大内義尊(新介)の墓。
異雪和尚ら僧侶たちに先導されて俵山から肥中街道に向かう途中、警戒線を張っていた陶軍に補足されてしまった。
僧侶達の必死の嘆願や説得にも拘わらず僧侶を除く全員が斬首された。
その中にいたのが大内義隆公の嫡子義尊(新介)だった。彼らの警固役が小幡義実で新介ともども斬首された。 -
最期まで義隆公に付き従った忠臣たち。
冷泉隆豊 陶軍と切りあい経堂に火を掛けて自刃。
黒川隆像 筑前国宗像大社宗像大宮司の嫡男。黒川と改正し大宮司となる。その後大宮司を従兄弟に譲り山口に出仕。陶隆房の乱で法泉寺に遁れ、最期は大寧寺で討死した。
岡部隆景 父興景から家督を相続し美祢郡岩永の領主。最後まで義隆公を護り大寧寺で討死。
天野隆良 安芸の国人天野元貞の次男。兄は毛利元就の重臣天野隆重。幼い時から義隆公の近習として使え、天文の変では護衛として大寧寺では陶の大群を相手に奮戦し討死した。
大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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奥から
太田隆道 隠岐守、軍評定衆。大寧寺で討死
岡屋隆秀 侍大将先手衆 大寧時で討死
禰宜右延 京極入道道誉の次男秀宗を先祖とする。秀宗の孫茂綱が吉敷郡秋穂荘禰宜村(現在の山口市秋穂町禰宜)に居住し以後禰宜を氏とする。禰宜村は秋穂八幡宮の禰宜領であったため禰宜村と言う。
茂綱は八幡宮の禰宜になった。曽祖父が築山大明神の社司となって以降社司職が世襲となり、右延は多賀神社大宮司と今八幡宮の禰宜を兼ねる等になった。
卜部兼右から神道行事の知識を授かった。民部少丞、従五位の下。
和歌が巧みで小座敷衆首座、大寧寺で討死。
小幡義實 小幡山城守の子。大内氏に小姓として使えた。天文の変(陶隆房のクーデター)では義隆公に従い山口から大寧寺に向かった。
義隆公が自刃する前に義隆公から後事を託され新介(義尊)を警固して脱出するが陶軍の哨戒部隊に捕まり新介ともども斬首された。わずか14歳の少年武士だった。 -
太田隆道以下4名、忠義の武士の墓。
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陶隆康は陶隆房とは同族で一門、叔父・甥の間柄だが義隆公の御恩は厚く義隆公を裏切りはせず、嫡子隆弘と共に義隆公に従った。
法泉寺に来てみると有力武将が少なく逃亡兵が相次いだことから、義隆公は長門に落ち延びることなった。陶軍の追撃をくい止めるため、陶隆康は義隆公の身代わりに嫡子隆弘は父隆康を演じて奮戦、追っ手を法泉寺に釘付けにして義隆公一行の逃
争を助けた。
父子共に壮烈な最期であったと後々まで伝えられた。
あっぱれ忠烈の父子ここに眠る。但し墓があるのは陶隆康のみ、嫡子康弘の墓はどこにあるのか分からない。
貫隆仲 下総守、従五位の下。義隆公の近習で法泉寺で討死。
杉興運 筑前国守護代。守護代で唯一義隆公に味方したが天文の政変時は筑前にいたため救援が間にあわず、義隆公自刃の後居城若杉山の高鳥居城(糟屋郡糟屋町)が陶軍に攻められた。杉興運は城にこもって抵抗しようとしたが陶氏に内通する者が出て防御できず、粕屋浜まで逃がれて自刃した。
そのため墓はここにはない。
相良武任 武断派の陶隆房と対立した文治派の長。右筆・奉行人として仕え、国人の統制と守護代の勢力抑制、守護大名の権力強化に努めた。この手腕を評価され、義隆公に信任された。
出雲遠征は陶隆房の強硬な申し出で実施されたが大敗北。遠征に反対した相良武任ら文治派が主導的立場にたち武断派と対立することとなった。
武断派の巻き返しなどで三度出奔しその度に義隆公に呼び戻された。三回目の出奔は天文の政変直前筑前守護代杉興運を頼ったが義隆公が自刃後花尾城(現在の北九州市八幡)で陶軍に討ち取られた。
辞世は「空蝉の つくしはよしとは 思わねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く」
平賀隆保 安芸国頭崎城の城主。父が尼子方であったため人質として大内義隆公に預けられるが寵童として可愛がられていた。頭崎城主の平賀隆宗が戦で死亡し、その遺言で小早川隆保を養子にするよう大内義隆公に請うていたことから相続人として隆保を頭崎城の城主とした。
天文の政変で義隆公が自刃すると毛利元就は陶隆房との密約に基づき頭崎城を攻撃、平賀隆康は西条盆地の大内氏の拠点槌山城に逃れた抵抗したが毛利元就に攻められて落城、平賀隆康は自刃した。 -
奥の墓から
佐波隆運 石見(島根県)の名門佐波常陸介誠運の息子で義隆公に仕えた。
天文の変では義隆公に従って法泉寺に行き嶽山を守った。翌朝法泉寺に呼び戻されたが、前夜軍が散り散りになったので本国の石見に逃れる途中、阿武郡生雲(現在の山口市阿東町生雲)で陶方の町野氏に殺害された。
小幡山城守 大内義尊らの警固役だった小幡義實の父。
天文の変で義隆公らと法泉寺に着陣。翌朝軍が壊滅した為石州津和野に逃れた。
賊軍はこれを追撃。阿武郡阿東町徳佐(現在の山口市阿東町徳佐)で逃れられないと知って自刃した。
松原隆則 松原土佐守安定の二男。幼い頃から義隆公に仕えた。成長すると陶隆房の一部衆となり熊毛郡で30石を領有していたが天文15年9月9日に直参に戻った。化け物退治で名を馳せた武士。
天文15年9月13日、詰所で宿直をしていた時に館を伺う化け物に遭遇。隆則は矢を射ると化け物は塀から落ちた。塀に上り逃げ去ろうとしたところを追いかけて切った。すると辺り一面搔き曇り、一寸先は分からない暗闇となって化け物を取り逃がした。
暗闇が晴れて辺りを探すと切り落とした化け物の大腿部が見つかった。足は毛が生えており、足の指は長く四、五寸(13㎝から16cm)もあったそうだ。
翌朝地に跡を辿って深い山奥まで行くと岩穴があり、その中に化け物が死んでいた。山女と言うそうだが山姥ではないだろうか。
義隆公は化け物退治の褒美に10石加増したという。
陶隆房が謀反に及ぶとき、冷泉隆豊と近しかったため仲間には誘われなかった。しかし、義隆公が難を逃れられないと知り父と子(又四郎、藤二郎)に譲り状と遺品を送っている。
すでに義隆公を守護して最期を迎える決意をしていたと考えられている。
大寧時まで義隆公に従い、大寧寺の山門で賊軍を防ぎ力尽きて自刃した。子孫は今に続く。 -
義隆公の長女珠光の墓。一般的には中将姫と呼ばれていた。
墓標には中将姫の戒名と辞世の句が彫られているが辞世の句は分かり難かった。
義隆公の姫は先の関白二条尹房の嫡男従三位中将二条良豊と将来を誓い合った仲、天文の変は縁談が内々に進められていた矢先のことだと言われている。
そのため中将姫と呼ばれていた。
2人は京都で再び相まみえるため別々の逃走路を進み、中将姫は乳母操と身の回りの世話をする下女小倉を伴い肥中街道の要衝西市で落ち合うこととなっていた。
しかし二条良豊の姿はいつまで待っても現れない。やがて秋風に乗って悲報が届いた。父も弟も愛しの中将様も、秋草の露と消えてしまったという。
悲しみに暮れる中将姫はある決意をして実行に移した。追っ手が来ないうちにと3人の女性はお互いの胸を刺し違えて亡くなったのである。
珠光姫享年15歳。
当時の常識として非戦闘員である上流女性に対しては危害が加えられないと考えられていた。
事実法善寺から逃れたご母堂や継室のおさい、愛妾たちは無事命を長らえ仏門に入って大内一族の菩提を弔いながら長寿を全うした。
中将姫が亡くなったのは肥中街道沿いの稲見村。彼女らの死は村人の涙を誘い香華を手向ける里人の列が絶えなかったという。大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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中将姫の墓と墓標。
墓標には中将姫の戒名と辞世の句が彫られている。 -
中将姫の辞世の句。
読めませーん。 -
中将姫と一緒に自決した乳母操、下女小倉の墓は写真手前から一番目と二番目の墓。
三番目の墓は戒名が居士であるから男性の墓である。
墓標には冷泉紹恵入道とある。冷泉範遠のことと思われるが範遠は大内義隆公の装束の師であった。
中将姫と乳母操と下女小倉と一緒に何故共埋葬されたのか分からないが、中将姫が自害した稲見村に範遠も逃げて来て、自害の現場に鉢合わせになったのではなかろいうか。 -
歴史書には稲見村で中将姫と操、小倉が差し違えて亡くなったとか、3人がともに自害したとの記憶しかなく、現場に冷泉がいたとの記憶がないため、想像する他はない。
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ここからは天文の政変で亡くなった公卿たちの墓。
先の関白二条尹房卿 天文15年に山口を訪れてそのまま滞在中に天文の政変に巻き込まれた。
天文の政変により義隆公と法泉寺に入る。法泉寺の方丈と外記と共に陶方の長門守護代内藤興盛を訪れ、義隆公が家督を義尊に譲って隠居し、国政は陶、内藤、杉に任せるとの和睦を勧めたが興盛は受け入れなかった。二条卿は失意のうちに法泉寺に戻るが翌朝までに多数の兵が逃亡し軍が崩壊。
二条卿は山口市糸米の覚皇寺に隠れたが杉隆相の兵士に見つけられて殺害された。
二条中将良豊卿 大寧時に逃れ、大内新介(大内義尊)、持明院基規、小幡義實と共に俵山から肥中街道に逃れようとしたが、俵山で警戒していた陶軍の哨戒部隊につかまり斬首された。 -
三条公頼卿 左大臣、天文20年8月に山口に下向。
天文20年8月29日山口から長門深川に逃げる途中暴徒に襲われ殺害された。
幕末七卿落ちで長州に落ち延びた三条実美は、ご先祖の三条卿の墓前を再三訪れている。 -
公卿の一番左端が持明院基規卿
正三位権大納言で義隆公の詠曲の師。山口に下向中に天文の政変に遭巻き込まれ、義隆公らと法泉寺に逃れた。出家して一忍軒と号す。
長門の大寧寺まで逃れてきたが陶軍につかまり殺害された。大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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公卿に付き従った人たち。
岡崎氏久 丹後守、二条家諸大夫。大寧寺でつかまり殺害された。
紀伊守源光政 長門に逃れる道中に殺害された。殺害された場所など詳細は分らない。
近江権守宣川 長門に逃れる道中に殺害された。
東儀兼康 天王寺の伶人(音楽師)。岡昌歳と共に管弦の師として下向していた時に政変に巻き込まれた。
殺害された詳しい場所は分かっていないが、ここに墓石があるので大寧寺か周辺で殺害されたものと思われる。雅楽師東儀秀樹さんのご先祖。
岡昌歳 東儀兼康と同様雅楽の師として山口に滞在中に政変に巻き込まれた。正確な殺害場所等は分かっていない。 -
大内義隆主従の墓所にある墓石群。
これらの墓石群を含めて主従の墓所(遊仙窟)とされていたので主従に付き従った武士や兵士の墓と思われていたが、これは寺の住職や僧侶の墓。
明らかに大寧時で討死した右田隆次や伊佐隆光、景久らの墓が無い。僧侶の墓の中には自然石の墓も見られるのでそれらがそうではないかと推測されている。 -
歴代の住職や僧侶の墓。
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歴代の住職や僧侶の墓。
これだけ苔むした墓が整然と並んでいると、何か別空間の中にいるような錯覚に陥る。 -
歴代住職や僧侶の墓。
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大内義隆公及び嫡子義尊の墓。
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二条公や三条公ら政変に巻き込まれた公家衆の墓。
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冷泉坂を下って本堂付近まで戻ろう。
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こちらは萩藩重臣の墓碑群。
この中に大寧寺開基鷲頭弘忠や関東管領上杉憲実の墓がある。
最も壮観だったのは永代家老益田氏一族の墓。墓の大きさが他の家臣ちは違ってとにかく大きい。 -
鷲頭弘忠の墓。
長門守護代で深川城主。大内教弘に攻められ深川城で戦死した。
元々鷲頭と大内教弘は不仲だったそうで、鷲頭弘忠が九州で勢力を拡大したことが教弘に警戒されたともいわれている。 -
関東管領上杉憲実の墓。
上杉憲実は足利学校や金沢文庫を再興した関東の守護大名。政争に疲れて出家し大内氏を頼って下向、大寧寺で亡くなった。 -
萩藩重臣の墓碑群の中に大内公教供奉四十八塔と呼ばれる墓石群がある。
これらの墓は大内義隆公に従い最後まで忠誠を尽くして陶軍と戦って散った兵士たちの墓である。
実はこの中に不明な墓が1基、やや大きな宝篋印塔が2基ある。大内義隆公主従の墓所には無かった右田隆次や伊佐隆光、景光らの墓がこの中に混じっているのではなかろうか? -
萩藩重臣墓碑B群の墓石群。
この中には毛利元就や輝元に仕えた重臣の墓がある。
中でも毛利元就の重臣で後に厳島の戦いで陶破晴賢を破る重要な役割を果たした武将の墓もあった。 -
その人物は38番の桂元澄。厳島の対岸にあった桜尾城主。
毛利元就が中国地方に覇を唱える決定的な戦いとなった厳島の戦いのキーパーソンである。
なぜ2万もの大群を小さな厳島に上陸させることになったのか?その重要な鍵を握っていたのが桂元澄だ。
桂は陶晴賢と気脈を通じたが、これは毛利元就の策略で桂は二重スパイの役を演じきった。罠の餌は厳島の宮尾城。ここに陶の大軍をおびき寄せることだった。
桂は陶晴賢に内応書を送り寝返りを約して待ち受けた。陶が宮尾城を攻めれば毛利本軍が厳島に兵を向ける。その隙に桂が毛利の本拠吉田郡山城を急襲するという手筈だったが桂は桜尾城から動かず。
毛利軍は陶の大軍をここにおびき寄せて動きを封じ海上を封鎖して陶軍を殲滅する作戦だったが、その作戦に陶晴賢がまんまと引っかかった。
毛利元就は嵐をついて厳島に上陸し陶軍に奇襲をかけた。陶軍は兵が多すぎて身動きできず島の両方向から挟み撃されて敗戦した。陶晴賢は乗るべき船が見当たらず逃げ場を失って自刃した。
この戦いで最も功をなしたのは陶晴賢を厳島に引っ張り出した桂元澄であった。
またこの戦いは毛利元就がまともに戦った最初で最後の戦いで乾坤一擲の大勝負sだったと言われる。元就が嵐をついて攻め寄せる戦いは生涯にこの戦いだけだった。
元就の戦いは生涯策略と謀略と暗殺の戦いだったので黒いイメージが付きまとい正面切って戦ったのは厳島の戦いだけだったと後世の人々からは言われた。
結論から言うと天文の変で最も徳をしたのは毛利元就である。
大内義隆公存命中は安芸国の一国人に過ぎなかったが、天文の変で陶隆房に与力したことで隆房と密約を結び、義隆公自刃の報に接すると、安芸国内の大内方の城を次々と攻め落とし、安芸国を平定し、安芸国人衆の結束を固めた。
結果天文の政変後は陶隆房と並ぶほどの実力者に成り上がったのである。 -
桂元澄の墓のある場所。
ついでに見ておきたかったのだが、この後俵山まで行く予定にしており、時間が無かったので今度来た時に訪ねてみたい。 -
萩藩重臣の墓碑。桂の墓はたぶんこの辺りだと思う。
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境内にある長門豊川稲荷。神仏習合が今に残る場所である。豊川稲荷が鎮座されたのは明治の神仏分離令以前ではなく昭和36年のことである。
山口の阿部家に伝わり、のちに白藤董氏秘蔵の叱枳尼真天(だきにしんてん)という御神体が大寧寺に送られたことによる。
叱枳尼真天は稲荷のご神体。白いキツネに乗って空を走り仏道を守るそうである。
さらに大寧寺と妙厳寺豊川稲荷とは深い関係がある。
幕末の文久3年七卿落ちで勤皇派の公家が長州に逃れてきた。その中の一人三条実美を手厚く保護したのが当寺四十五世簣運泰成(きうんたいじょう)和尚であった。
和尚が妙厳寺に身を寄せていた時、神仏分離令により妙厳寺豊川稲荷がつぶされそうになった。簣運和尚は妙厳寺の住職らと共に明治政府に救済を求めた。
新政府の要人に三条実美や多くの長州人がいたため、豊川稲荷は危機を救われた。
その奇縁から大寧寺に長門豊川稲荷を当寺に向かえることができた。
(大寧寺HPより抜粋)長門豊川稲荷 寺・神社・教会
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境内にある大内義隆公追善和讃の碑。
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冷泉坂。これを上ると大内義隆公主従の墓所に至る。
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祠堂。内部は歴史資料館と位牌室になっている。
時間が無いので中には入らなかった。大寧寺 寺・神社・教会
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大寧寺本堂。
天文の政変時に建物は焼失したが、義隆公の次に大内氏当主となった大内義長によって再建が始まり、毛利元就によって完成した。 -
大寧寺の賽銭箱は大内菱(大内氏の家紋)。
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本堂の内部。
これで大寧時の観光は終わり、次は俵山にある麻羅観音を訪れることにした。 -
麻羅観音は大寧寺から車で約30分の距離。県道に面した斜面に観音堂がある。
ここを訪れたのはかれこれもう40年も前のこと。
麻羅観音は名前だけは知っていたがここを訪れたのは偶然の事だった。昨夜俵山温泉に宿泊して翌朝下関に向かう県道を車で走っていた時、偶然に麻羅観音を見つけたのだ。
偶然の出来事だったのでどの道をどう走ったのか全く覚えていない。頼みの綱はナビだった。
こうして俵山にある麻羅観音に到着した。麻羅観音は地元の人々によって維持管理がされている。
私が訪れた時は夕暮れが迫る時間帯だったが2人の村人が観音堂の向かい側にある無料駐車場を掃き清められていた。
写真が麻羅観音。県道沿いに建っていて会談を登ったところに堂宇がある。 -
観音堂の周りにはたくましい男根の石像が幾本も立っていた。
この男根の像は麻羅観音の由来に基づくもので麻羅観音は子孫繁栄、精力増強、恋愛成就、夫婦円満などにご利益があるとされている。 -
麻羅観音の由来
家来に背負われて山口を脱出した大内義隆公の三男歓寿丸は、家来の機転で山中に身を隠し難を逃れたが、翌年春女装して暮らしていたのを見つけられ殺害された。
男児であるという証拠に男根を切り取られて首と共に陶隆房の元に届けられた。享年5歳だったという。
これを哀れんだ村人が霊を慰めるために観音堂を建てた。
やがて観音堂は歓寿丸の慰霊に加えて子宝祈願や健康増強の場として多くの参拝者で賑わうようになった。 -
観音堂。
子宝祈願など願い事は陶器製の男根像に記入して奉納する。
奉納された祈願用男根像の保管庫は観音堂の左奥にあるがこの写真には写っていない。 -
観音堂の内部。中央にご神体の男根が祀ってあるそうだ。
堂内には木製の巨大男根像が1体、他に白い陶器製の男根像が1体あるだけであった。
祭壇にはストローが刺されたジュースの紙パックが6箱あったが何のために置かれているのか?奉納された物なのか?理解できなかった。
以前訪れた時には祭壇やその周辺には所狭しと陶製の男根が奉納されており圧倒されたが、とてもすっきりしていた。 -
観音堂内部の様子。
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麻羅観音堂の周辺には男根の石像が並ぶ。
観音堂の左に見える建物が祈願した男根陶器の保管庫。 -
男根が林立する風景は壮観かな?
ちょっと表現に困る。 -
写真には写っていないがこれは六地蔵。
歓寿丸の供養仏のようだった。
以上で大寧寺と麻羅観音の旅行記を終わります。訪問下さりありがとうございます。
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