2023/05/26 - 2023/05/27
121位(同エリア482件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2023/05/27
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大内盛見公歌碑
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一の坂川川沿いの飲食店街
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龍福寺参道
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龍福寺山門
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大内義隆公主従の供養塔
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大内義隆公時世の歌碑
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池泉庭園
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大内氏館跡 塼列建物の意向
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台所、石組みかまどの跡
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発掘調査後、埋め戻された枯山水庭園の跡
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大内氏館跡 西門
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大内氏館跡 枯山水庭園
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この旅行記スケジュールを元に
大内氏の本拠地を大内村から山口に移設し山口開府を行った大内弘世公。後に西の京と呼ばれ大内文化を咲かせ県都山口の基礎を築いた足跡を子の旅行記で見て行きたいと思います。
写真は大内氏時代(室町期)の山口古地図です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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こんにちは。今回は大内弘世公の一大事業山口開府を見て行きたいと思います。
山口開府は14世紀に大内弘世公によってなされたと資料より判明しています。
市内を流れる一の坂川を京都の鴨川に見立てて地形に合わせた町づくりがおこなわれましたが、できるだけ京都の碁盤の目のような町づくりをした形跡が地図から読み取れます。
町の中心に置いたのが大内御殿(大内館)でその北にある大内御殿(築山館)は迎賓館として建てられた館です。築山館を建てたのは28代大内教弘。
そのためこの古地図は教弘公の時代以降のもという事が分かります。
町の通りは大殿小路、下小路、中殿小路、久保小路、鞍馬小路など京風の名前が付けられました。この多くが今も昔の名前の通りに呼ばれています。
さてこの古地図、築山館以南の町割りはほぼ現在の町割りや通りと同じです。 -
市内を流れる一の坂川。
この川を鴨川に見立てて町造りを行ないました。
この川は春の桜と夏のゲンシボタルで有名。一の坂川 自然・景勝地
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春の桜は1000本と言われ、満開の時には川の両岸がピンク色に染まります。
一の坂川 自然・景勝地
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夏の夜にはゲンシボタルが乱舞し、見学する人を幽玄の世界へと誘います。
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川沿いに山口ゲンシボタル発生地の碑が立てられていました。
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川沿いに大内盛見公の歌碑があります。
大内氏歴代の当主は文武両道に優れた武将が多いのですが26代盛見公もその中の一人。
「とふほたる をもひのみこそ しるへとや
み草かくれに よりはもゆらむ 」 -
歌碑の説明板。
大内氏25代当主大内義弘公は義のために死出の旅を決意し、後事を弟盛見公に全て任すので領国を守り切るように遺言されました。
その後盛見公は全国から集められた幕府軍を相手に分国を守るべく獅子奮迅の働きをされるのですが、重大事の後事を任された盛見公が小さな蛍から大きな励ましを得ておられたことが分かる詩です。重圧に押しつぶされそうになる我が身を歌に託して勇気を振り起されていたのでしょう。 -
一の坂川の川沿いの通りは、多くのレストラン、喫茶店、料亭が軒を連ねる場所です。
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しかし、コロナ禍の影響で廃業に追い込まれた店もあり、写真はその中の一つ。
毎年年度末の打ち上げと春の観桜会を兼ねてこの料亭の2階で宴席を設けていました。
私には毎年の行事であり若い頃の思い出深い料亭でしたが、今や廃業に追い込まれた現実を見るにつけて月日の経過を感じていました。 -
大内時代の古地図を見て下さい。
大内時代に武士階級が住む場所と、商人や町人が住む場所を分けていたのが一の坂川から東に伸びる大殿小路(後に大内義隆公の時代には大殿大路と呼ばれている)でした。
大殿小路から北が武士階級の居住区域、南が商人・町人の居住地として町割りを行いました。
武士の居住区で最も大きな場所を占めていたのが大内氏の政治の中心であった大内御殿(大内政庁)、さらに北側に大内御殿を表示されている築山御殿。築山御殿は明や朝鮮の使節、足利将軍家や京都の公家衆を接待する迎賓館でした。
築山館を建てたのは28代教弘公ですが、この場所は教弘公の時代に詳しく触れることにします。大内御殿は1551年8月27日陶晴賢の謀反で焼失しましたが、大内氏最後の守護大名大内義隆公の義息毛利隆元(毛利元就の長男)が養父義隆の菩提を弔うために菩提寺の龍福寺を建立しました。
かつての大内御殿の敷地に龍福寺がすっぱり治まっているような状態です。
写真は龍福寺の石碑。龍福寺 寺・神社・教会
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寺の入り口に大内氏衛門址の石碑が立っていました。
龍福寺 寺・神社・教会
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寺の山門の両側には緑の葉紅葉が折り重なるように繁っていました。
龍福寺 寺・神社・教会
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葉紅葉でうっそうとした参道。
所々光が参道に差し込んでいました。ここはとても静かな場所で道行く人の雑踏や車の音さえも聞こえてこない閑静な場所です。 -
葉紅葉で埋め尽くされた参道。
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ザビエル布教の井戸のレプリカ。
ザビエルが山口の街角で道行く人に布教していたことは同行した神父がローマ教皇にあてた手紙の中に詳しく記述されています。
その手紙には大殿小路にある石造りの井戸の周りで布教が行われていたことが記されています。
ある雑誌にそのザビエルの井戸とはここ(龍福寺境内)だと掲載されたために、間違った記述はしないようにと雑誌への掲載取りやめの運動がおこりました。
そのため現在では復元したものでオリジナルでは無いと記されています。
それでは本物のザビエル布教の井戸は何処にあるのでしょうか?
それは大内義隆公の所で触れたいと思います。 -
龍福寺山門入り口。
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龍福寺山門です。山門をくぐるとその先に本堂があります。
龍福寺 寺・神社・教会
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史跡、大内氏遺跡館跡の石碑。山門入り口の左にあります。
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大内館跡の説明板。
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大内氏館跡の航空写真。
写真中央の四角で囲まれた部分が大内御殿の跡地で龍福寺の境内とほぼ同じ大きさです。
大内氏は九州、中国地方7カ国の太守でありながら首府山口には城を築きませんでした。
戦後大名の武田信玄が本拠地に城を築かなかった事は有名ですが、大内氏も何百年にも渡って本拠地の山口には城を築いていません。
山口市内には名城百選に選ばれた高嶺城と言う山城がありますが、これは大内氏滅亡後に陶晴賢築城したもので、大内氏とな何ら関係の無い城であるので協調しておきたい。
城を築かなかった理由ですが、大内氏の防衛構想の中に山口が他国から侵略される、あるいは進入されるとの構想が元々無かったと考えられています。
分国には忠誠心が高く、武力にたけた重臣を守護代として配置していました。
筑前や豊前では度々南朝の遺臣や滅ばされた家の旧臣たちの反乱が起きましたが、その都度鎮圧されていました。
そのため本拠地の山口まで敵が侵攻してくることは予想されていなかったと思われます。 -
大内館(大内御殿)の外壁遺構部分。
植込みの所から手前の道までに堀があり、植込みの所に土塁が築かれていました。
このような構造の防御施設が館を取り巻いていたのです。龍福寺 寺・神社・教会
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上の写真では幅の狭い堀だと捉えられてしまいそうなので、分かり易いように掘の部分を写真に収めてみました。
植込みから右の2本線の石組みの所までが掘割である。堀の幅は約10m、当時としては幅広の掘だったことがうかがえます。 -
龍福寺内にある大内氏館跡の復元箇所等の案内図。
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龍福寺の案内。写真は本堂ですが、毛利隆元が義父大内義隆の菩提寺として建立した時に、寺の本堂として大内御堀にある興隆寺から移築した建物です。
大内24代弘世公以降歴代の当主は約200年に渡りここで政務を行い、山口は西日本の一大政治・経済の中心地になりました。
本堂の屋根は浅瓦葺でしたが、解体修理の痕跡や文書等によって檜皮葺であったことが分かり、檜皮葺に復元されました。
館跡は何度も発掘調査が行われていて、その結果残された文献が示す通りの数々の文物が発掘されました。
これらは市内にある山口市歴史民俗資料館に収蔵されています。
大内氏時代の華麗な文化を伝える実証資料がここには多数所蔵されていますが、そのいくつかを紹介すると・・。
黄金の瓦で葺きあげられた豪壮華麗な大内御殿。大内氏館は元々当主が政務を行う場所として建てられましたが、残された文献によると瓦が金で葺かれており、眩いばかりに黄金色をしていたと記述されています。
これを裏付けるように多くの金箔瓦が地中から見つかりました。現在大内菱金箔瓦として資料館に収蔵されています。当時明との勘合貿易と朝鮮貿易を独占していた大内氏の財力を示すものとして貴重な品です。
多くの唐物と土器の杯や皿の数々。当時中国製の青磁や陶磁器、朝鮮から輸入された白磁は唐物としてとても珍重されていました。
大内氏はこれらの唐物を足利将軍家や天皇、公家の献上品として多数使用していました。官位の授与や武士階級の潤滑油として使用したと考えられていますが、平素の食事や配下の武士との懇親には土器が多く用いられていました。
これを証明するように大量の土器の高坏や皿、杯などが出土しています。
貿易による巨万の富に胡坐をかいていた訳では無く、締めるべき時には締めるなど硬軟織り交ぜた経済手腕を発揮していたことが覗い知れます。 -
館の東南部の平地の更地から発掘されました。
この池泉庭園も文献の記述に残されている庭園の一つです。埋め戻された後に嵩上げされて往時の様子が覗いしれるように復元されましたが、大大名の館の庭としては余りにもお粗末な庭園です。
当時の大内氏の財力からすれば京都の有名寺院の庭園に負けず劣らずの立派な庭園であったことが想像されますが、余りにもみすぼらしい。 -
館の北西部にあった枯山水の庭園。
平成9年度から10年度の発掘調査で発見されました。この枯山水と反対側(館の北東部)の発掘調査でも枯山水庭園の遺構が発見されました。
平成何年頃だったのかはっきりした記憶は有りませんが、大規模な枯山水庭園が発見されたので発掘調査の報告を行うという記事を見つけて、現地に駆け付けたことを思い出します。
簡単に説明しますと枯山水の規模は北西部の庭の1.5倍はする規模、さらに滝から流れ落ちる部分は一旦製作した庭を一度取り壊して、さらに大きな滝へと造り替えた後がありました。
立派な枯山水だったのでこの枯山水も復元されるものと思っていましたが、こちらは全て埋め戻されてしまいました。 -
西門。
館跡の西側で発見された小規模の門の遺構。屋敷内の区画を仕切る内門と考えられています。 -
では山門を潜って寺の内部に入りましょう。
門を潜ってすぐ左にある岩と蘇鉄。この部分に庭があったであろうと想像させる場所がり、ここの岩は豊後岩と呼ばれています。
豊後岩とは豊後の国(現在の大分県)から作庭のために運ばれてきた岩の事。
これらの岩は豊後の国を恋しがり、雨の日は「豊後に帰りたい」といって泣いていたといいます。 -
豊後岩の由来の案内板。
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今に残る庭の作庭に使用された豊後岩と庭木。
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龍福寺の説明板。
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大内義隆郷主従供養塔の建立趣旨。
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大内義隆郷主従供養塔と時世の歌碑案内表示版。
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境内の一画にある大内義隆公主従の供養塔。
大内義隆公、中将姫、冷泉隆豊j他忠臣の墓は終焉の地である長門市太寧寺にありますが、平成12年大内義隆郷の450回大遠忌にあたり住職が建立したものです。大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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大内義隆郷供養塔。長門太寧寺にある墓を原寸大に複製したもの。
大内義隆供養塔 名所・史跡
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十三重の塔は、義隆郷に従って戦死した忠臣や公家の諸精霊の供養のため建立された。
大内義隆公墓所 大内義隆主従の墓所 名所・史跡
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大内義隆郷の時世の説明板。
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こちらは大内義隆郷の時世の歌碑。
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国の重要文化財龍福寺の説明板。
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屋根を総檜皮葺に葺き替え保存修理が完了。室町時代の姿に戻りました。
龍福寺 寺・神社・教会
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境内にある史跡案内板。
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次は館跡の東地区の発掘現場を見て行こうと思う。
発掘された池泉庭園の説明碑。 -
復元された池泉庭園。
発掘された池泉は一旦埋め戻され、嵩上げされて公開されています。
しかし、復元された池は小規模な沼のような印象で、往時の大内館の庭とは似ても似つかぬものであった。
もっと市も予算を投入して欲しいですね。 -
池泉を方向を変えて写してみたが代り映えがしない。
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邸宅内の石組み井戸。
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井戸は誤って中に落ちるのを防ぐためなのか、砂や砂利で埋められていた。
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館の北東部分にある広い敷地。
この部分には蔵、台所、かまど、枯山水庭園がありました。
私が枯山水庭園の発掘現場説明会を聞きに行った時は、これらの構造物は発掘された状態のままだったので、当時の様子がありありと想像できたのですが、埋め戻されてしまうともはや想像すら難しい状態でした。 -
塼列建物の遺構。塼列とはレンガの事。薄いレンガが敷き詰められた建物が西に伸びており、これらは蔵と考えられています。
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蔵と思しき建物があった場所。
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蔵の隣にあったのが石組みかまどがあった台所。
発掘されたままの状態であれば台所の大きさや石組みかまどのあった場所などが分かり易いのですが埋め戻されてしまうと比較が難しく、建物同士の境が分からなくなってしまいます。 -
石組みかまどの跡。
石組みの部分は残されていますが、これでは台所の大きさや全容は分かりかねます。
せめて台所の建物の大きさが分る様に線を引くなどして埋め戻し欲しかったですね。 -
大内館跡北東の端の部分に新しく砂を敷きつけたような場所がありますが、ここが発掘により発見された枯山水庭園があった場所です。
館の北西部で発掘された枯山水庭園よりもかなり規模が大きい庭園でした。
一旦作庭された庭園を中途から壊し、さらに規模の大きな枯山水庭園が造り替えられていた過程がはっきり分かる庭園でしたが、こちらは復元されずに埋め戻されていました。
何故そうしたのか理由が分からずしゃんとしません。 -
枯山水庭園がある場所と台所の場所との間に石組みが残されていました。
これは石組みの水路です。邸宅内の雨水を流す水路なのか、それとも台所の生活排水を流す水路なのかは説明が無く分かりませんが、多分どちらの排水も流すことができる水路が設けられていたのではないでしょうか?
館の西門辺りにも石組みの溝が残されており、排水ロであったと考えられています。
多分館の創建当時には敷地内に多くの排水路が施されていると考えられています。 -
石組み水路を示す石板。
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大内館の外周を見てみましょう。こちらは大内館西側の様子です。
館の外側は堀と土塁で囲まれていました。 -
大内館跡の南部分。
ここも館の周囲を囲むように掘りと土塁が張り巡らされていました。
通りと同じ高さで真砂土が撒かれている所が堀、堀から一段高い場所に小石が巻かれている所がありますがここに土塁が施されていました。 -
大内館跡の西側を掘り割沿いに歩いて行くと石組みが見えてきました。
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石組溝の説明文。
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西門です。
屋敷内の区画を仕切る内門と考えられています。 -
西門の説明文。
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次は大内館の北西で発掘された枯山水庭園。
大内義隆公の時代に作庭された庭だと考えられています。 -
枯山水の西側の一部は1500年代後半西堀の掘削時に一部消滅したと考えられています。
失われた西の部分は盛り土をして庭木を植え、復元保存されました。 -
同じく北西部分にあった枯山水の復元庭園。
この旅行記では歴代の当主が政を行った大内館を中心にお送りしましたが、次は町造りのために京都の神社から分霊を勧進して建立した社殿をご紹介したいと思います。
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