2023/05/26 - 2023/05/27
143位(同エリア482件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2023/05/27
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古熊神社拝殿
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金刀比羅神社
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方生池
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山口十境詩 猿林
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清水寺
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山口十境詩 清水晩鐘
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清水寺梵鐘
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蛍籠
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大殿大路
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大殿大路の町屋
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この旅行記スケジュールを元に
山口市の基礎作りをした大内弘世公。市内を流れる一の坂川を京都の鴨川に似せて京風の町造りをしました。街の通り名も大路・小路を用い通りの角では京童を配置して遊ばせ、京言葉を流行らせる念の入れようでした。
さらにより京風の町造りの行ったのが京都の神社のご分霊を勧進したことです。
代表的なのが八坂神社と北野天満宮から勧進した古熊神社です。天満宮は近隣の防府市に日本三天神の一つ防府天満宮があるためわざわざ勧進する必要は無いと思われるのですが、弘世公の京風街づくりは徹底して京風を追求したということでしょう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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大内弘世公が山口開府を成し遂げるために京都から勧進した神社があります。
それは京都祇園の八坂神社と北野天満宮です。
周防の国衙(現在の防府市)には日本三大天満宮で、日本で最初に建てられた防府天満宮があります。
なぜ山口の近郊に由緒正しき天満宮があるのに、わざわざ北野天満宮から分霊を勧進したのかその理由ははっきり分かっていません。
しいて言えば大内弘世公が京都大好き人間だったとしか考えられないのです。
弘世公の正室が藤原五摂家の三条公の姫君であったことが影響しているのかもしれませんね。
八坂神社が建てられているのは築山館と呼ばれる迎賓館の跡地です。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山館は28代大内教弘公が建てた館です。教弘公以後の歴代当主の居館として使用されましたが、明や朝鮮の使節、足利将軍家や公家の迎賓館としても使用されました。
荒れ果てた京都から山口へ来山し長く逗留していた連歌師の宗祇は「池は海 こずゑは夏の 深山かな」と詠んでおり、当時の館の池泉の豪華さが偲ばれます。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山跡の平面図。
現在の築山跡地の平面図です。館跡には築山神社と八坂神社がありますが、その配置図のみで大内時代の築山御殿の場所や豪華と言われた池泉庭園の跡は表記されていません。
私が高校時代に見た平面図はこのような図面では無く、築山館の跡や池泉庭園が描かれていました。
なにせ古い記憶ですから大内時代の配置想像図だったのかもしれませんが、現在はこの地に八坂神社があり祇園祭りが7月20日から行われています。 -
大内氏遺跡築山跡の案内板。
築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山跡の遺構はほとんど残っていませんがわずかに館の北西部に築山(土塁)の遺構が残っています。
写真が築山館の土塁の遺構です。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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館跡に祀られている八坂神社。
大内弘世公が京都八坂神社から分霊を勧進して建てた神社です。八坂神社 寺・神社・教会
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重要文化財八坂神社の説明板です。
社殿は上竪小路から水の上、高峰山麓そして毛利時代に現地に移転していたんですね。
4回も社殿が移転したとは知りませんでした。
山口でも京都の祇園祭に習って7月20日、コンチキチンの宵山から祭りが始まり7日間催されます。
第二次世界大戦前は市内の山車巡行ルートの電線が全て外されて京都の山鉾巡行と同じように山車が市内を練り歩き多くの人出で賑わったそうです。
戦争中には軍によって祭りは中止させられ、多くの山車は解体させられました。
戦後祇園祭の山車復興の機運が盛り上がったものの、敗戦国としては時期尚早としてGHQから圧力がかかり祭りの開催が認められませんでした。
ようやく日本がGHQの支配を脱したころから祇園祭りは復活しましたが、戦前のような華麗な山車を見ることは無く、小規模なものに留まりました。
現在は市民総踊りやお神輿、鷺舞が奉納されますが戦前の祭りを知る老人からは祭りが寂しくなったとの声を聴きます。 -
八坂神社拝殿です。
八坂神社 寺・神社・教会
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八坂神社は拝殿の楼門に翼廊を付けて両方に床を貼り、拝殿・幣殿(翼廊)・本殿が一直線に並ぶ山口地方独特の建築様式で建てられています。
他県ではこのような建築様式は見られないとの事、どのような謂れでこのような建築様式が広まったかは分かりません。 -
拝殿に奉納された絵です。中央に龍神、そして龍神に貢物を捧げる村人たち。
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拝殿入り口上部には祇園の銘板。
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提灯には祇園八坂神社の家紋と八坂神社の文字が・・。
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本殿右の隅にあるこの場所は夏に行われる祇園祭りで鷺舞が奉納される所です。
大内弘世公が京都から八坂神社を勧進した際に、同時に伝習された物です。
夏の疫病除けを祈願して山口祇園祭りに始められました。
雌雄一対の白鷺が舞いを奉納します。この鷺舞が島根県の津和野に伝わり現在に至っていますが、本家の京都八坂神社の鷺舞は江戸時代中期に廃絶しました。
現在舞われているのは主に津和野と山口市ですが、戦後京都でも舞が復活したそうです。
津和野の鷺舞は山口から伝習された物で、大内氏の分国石見の守護代吉見政頼が大内氏30代大内義興公の息女を迎えた時に疫病除けを祈念して始められました。 -
次は大内弘世公が京都北野天満宮から勧進した古熊神社です。
古熊神社は応安6年(1373年)に大内弘世公が北野天満宮を勧進した神社です。
元は北野天神と言い頓挫場所も市内中市町の北野小路でしたが、元和4年(1618年)に毛利藩初代藩主毛利秀就公によって現在地に移築されました。
この移転は「山口の北野天神を別の場所に移すように」との御神託があったそうです。
それ以降は今天神と呼ばれ、現在の名称「古熊神社」は明治6年(1873年)に改名されたものです。
主祭神は菅原道真、配祀神は菅原福部童子です。
福部童子は菅原道真公の23番目の子供です。他の子供は次々に処分されましたが福部童子はわずか10歳であったため京都の残ることを許されました。
寂しい日々が続いた福部童子は翌年父道真に会うために数名の従者を引き連れて大宰府に向けて旅立ちました。
しかし道中周防国山口で夏の病に罹われ身動きが取れなくなりました。従者は急いで大宰府に向かい道真公に事の次第をお伝えすると、道真公は心を痛まれ一つの掛け軸を従者に渡されました。
急いで山口に帰った従者は福部童子が横になられている部屋の壁に、道真公から頂いた掛け軸をかけました。するとそこには簾の節で細工された道真公のお姿が浮かび上がりました。
久しぶりに父上道真公のお姿を御覧になられた福部童子は大層お喜びになり、「山口の子供たちが私と同じような病気に罹らないようにお祈りをして冥途へ行きましょう」と言う言葉を残されて延喜2年(902年)8月26日に短い生涯を終えられました。
不憫に思った山口の住民によって手厚く葬られ、山口駅前にある山口病院の敷地内に墓がたてられました。
菅原道真公の御分霊ご鎮座の際に大内氏の計らいにより福部童子の御霊も合わせて祀られることになり、約500年の時を経て父菅原道真公との再会を果たすことができました。古熊神社 寺・神社・教会
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古熊神社の拝殿(重要文化財)です。
神社の拝殿と本殿は伴に重要文化財で本殿には「大内菱」が付いた松竹梅の蟇股があります。
山口の天神様として親しまれ、弘以降の勧請以来絶えることなく続く山口天神祭りは今も大変な賑わいです。古熊神社 寺・神社・教会
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古熊神社の境内案内図。
拝殿・幣殿・本殿が一直線に並び結合している山口地方独自の建築様式で建てられています。 -
重要文化財拝殿の表柱。
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拝殿の天井に掲げられているのは「天神絵巻」の絵。
奥に見える建物は幣殿、その奥に本殿があります。この本殿で有名なのが松竹梅の蟇股。
中央には梅と大内菱、右が松に鳳凰、左が竹に鳳凰の蟇股があり、この松竹梅は日本最古の松竹梅として有名です。
松竹梅という組み合わせが庶民の間に浸透したのは江戸時代に入ってから、当神社が建てられた室町時代はまだ京の貴族の間でしか流行っていませんでした。
当神社を創建された大内弘世公は社殿の造営に当たり、都の最先端の文化である松竹梅を彫刻として取り入れました。
その後応仁の乱で京都の神社仏閣はほとんど消失してしまい、結果として戦の少なかった山口に建てられた当神社の松竹梅がわが国で最も古い物になりました。 -
拝殿・本殿の説明板。
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神馬です。
古い青銅製の神馬は戦時中に供出されたので、現在の神馬は平成元年に再建されたものです。 -
楼閣のような拝殿とそれに続く幣殿。右の建物は雅楽殿です。
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楼閣造りの拝殿を右斜め前から写す。
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本殿の右隣りにあったのが金刀比羅神社。
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主祭神は大歳神、副神は大山神、大物主神。
交通安全の神様です。 -
菅公の御詠。
題は「月耀如晴雪」。 -
菅公御詠の説明板。
説明板によるとこの御詠は菅原道真公が11歳の時に初めて作った詩だそうです。 -
拝殿・幣殿を横から眺める。山口地方独特の建築様式は横から見るとその構造が良く分かります。
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こちらは拝殿・幣殿を左横から眺める。
本殿に向かって右には神馬、左には神牛が配置されていました。 -
真横から見ると拝殿・渡り廊下・幣殿の構造がよく分かります。
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方生池です。
池の右奥に見えるのは菅公の歌碑。亀の上に乗っかっている洒落た作りです。
「海ならず たたへる水の底までに きよき心は月ぞてらさむ」
菅原道真公御詠 -
古熊神社大鳥居を上がった所で山口十境詩の歌碑を発見。
題は「猿林暁月」
曙色初分天雨霜 凄々残月伴琳琅 山人一去無消息 驚起哀猿空断腸
書き下し文と訳の銅板が著しく痛んでいて文字の解読が不可能なため写真には写しませんでした。 -
古熊には大内弘世公の父第23代大内弘幸公の菩提寺大雄山永興寺がありましたがその境内に猿林(永興寺の僧が猿に餌付けをしていた場所)がありました。
私が大内弘幸公の墓所を訪ねた時に墓所の案内板に猿林の書き下し分がありました。
「猿林書き下し分」は郷土史家荒巻大拙、山口大学田 梅氏共著の解釈に従います。
猿林の暁月
曙色(しょくしょく)、初めて分かなり(あきらかなり)天の霜をして雨らしむる、と
凄々たる残月、琳琅を伴ふ 山人一たび去って、消息無し 驚起すれば哀猿空しくしく腸を断つ
(注釈)
琳琅 精美な玉石。玉が触れ合って鳴る美しい音色。
山人 隠遁者。ここでは正平8(1353)年に病没し、古熊の菩提寺大雄山永興寺境内の猿林に葬られている23代大内弘幸を指す。趙秩は永興寺西庁日新軒に逗留していた。
驚起 驚いて飛び起きる様。
哀猿 哀惜きわまりない猿の啼き声
「通訳」
夜明けのほのかな明かりによって、地面の降霜を見分けることができる。寂しげな残月はあたかも玉が触れ合って美しい音色を響かせているかのように西天に傾いている。隠者が一たび姿をくらませてより、音信が絶えてしまった。
夜中、急に驚いて飛び起きると猿の悲痛な叫び声が伝わってきて、腸が千切れるほどつらい。
詩の調子は次第に沈痛となり鬱情さを帯びてくる。日頃の話から趙秩は大内弘世が21年前に亡くした大内弘幸を偲ぶ気持ちに共感した詩です。
大内弘幸公の墓所は別の旅行記で説明します。今回の旅行記は大内弘世公の関連する場所のみとしました。 -
次は山口市宮野下恋路にある清水寺。
山号を花瀧山(かろうさん)と称する真言宗の寺です。
平城天皇の御代(806年から809年)に創建されたと伝えられており山口盆地では最も古い寺です。 -
清水寺の説明文。
創建は大同元年(806年)で千手観音菩薩を本尊とする真言宗の寺院。
境内には山口十境詩の一つ「清水晩鐘」が詠まれています。
また秋にはイロハカエデの紅葉が楽しめるそうです。。 -
清水寺の山門。
南北朝時代の傑作、阿形・吽形の仁王像があります。 -
南北朝時代に制作された金剛力士像の説明板。
仁王像は榧木の一本彫りで作られています。 -
こちらは阿形の像。丁度口のあたりが木枠で隠れていて阿形か吽形か近寄らないと分からない。
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吽形の像。
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近寄って吽形の仁王像を写す。
ここなら閉じた口がはっきり分かります。 -
これはまさしく阿形の仁王像。迫力あるーっ。
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山門を潜ると長い急な石畳の坂道が続きます。
傾斜が急なのでこの坂道はキツイ。 -
登り終えたのかと思えば次の坂道が現れて、この階段どこまで続くのやら。
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次の坂道を上り終えると今度は深山のような昼なお暗い坂道に差し掛かりました。
石の階段ですが足元はしっかりしているので踏み間違えるなどは無いものの、傾斜がきつい。 -
お寺がやっと見えてきました。この多t物は庫裏。
観音堂は26代大内盛見(もりはる)公が建造し、30代大内義興公が重建したと伝えられています。 -
趙秩の山口十境詩「清水晩鐘」に詠まれた梵鐘です。
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階段を昇り詰めると広地があって左奥に観音堂、右に趙秩の山口十境詩の石碑がありました。
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「清水晩鐘」
暮雲疎雨欲消魂 独立西風半掩門 大内峰頭清水寺 鐘声驚客幾黄黄昏 -
書き下し分
清水の晩鐘
暮雲疎雨(ばうんそう) 魂消えんと欲す 独り西風に立てば、半ば門を掩ざす(とざす)
大内峰頭(おおうちほうとう)、清水寺(せいずいじ)
鐘声、客を驚かすこと幾黄昏(いくこうこん) -
(通訳)
清水寺の夕暮れの鐘声
夕暮れの雲を眺め、疎らに降る雨の音にじっと耳を澄ませていると、魂が消え入りそうになる。折から一陣の秋風が門扉を半ば吹き閉じたりする。
大内地域の連峰の頂上に位置している清水寺の境内、夕暮れごとに鳴り響き、入相の鐘の音は異郷に滞留している私に懐郷の思いをかきたてるのである。 -
更に銅板には清水寺の由来書きがありました。
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清水寺境内で大内弘世公の時代に建てられたのが山王社の本殿です。
写真は山王社本殿の説明板。
山王社は清水寺の鎮守として大内弘世公の時代に建てられました。 -
清水寺山王社本殿です。
清水寺境内からさらに一段奥にある石段を登り切った所にあります。 -
山王社本殿の中の様子。
普通は中に入れないところですが、何故がカメラを差し入れると内部の様子が写せました。
上の山王社本殿のガラス窓を御覧下さい。内部の写真を取りなさいとばかりに一区画の窓が空いていました。
ここから写真を写していいんですよと言う意味だと勝手に解釈して写真を撮らせて頂きました。
本当にこれで良かったんでしょうか。いい方に解釈し、お礼を述べて帰りました。 -
ここは大内弘世公が町中の中心街路と定めた大殿小路。現在は道幅が広くなり大殿大路と呼ばれています。
通りにはこのような大路の説明板が小さく取り付けてありました。
以前は通りの角々に通りの名前の看板が取り付けてありましたが、今はそのような看板、案内板はありません。
写真に写したものが唯一残っていたものです。
町の景観の保護のため全て取り外したのでしょうか? -
大殿大路から北が大内御殿や築山館に代表される武士階級の居住地です。南は町屋や町家で庶民の居住区でした。
二つの居住区を分けていたのが大殿小路です。小路とはいえ大内時代は通りの幅を約4mと決めていました。
大内弘世公の時代の町割りではどの通りも4m幅だったそうです。
江戸時代、大殿大路は町の大動脈で通り沿いには大きな町屋が軒を連ねるように建てられていました。 -
その面影を残す大店がいくつも残っていましたが、昭和末期から平成にかけていくつもの町屋が取り壊され、往時の様子が様変わりしました。
残された古民家を町造り委員会が借用して飲食店や衣料品店などに転用している所もありますが、もう昔の町屋の景色を見ることができなくなりました。
写真はそのなかでいくつか残った大店や町家の写真です。 -
大殿大路の古民家。
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同じく大殿大路の商家。
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同じく大店の商家跡。
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大殿大路で軒先に飾られているのはこの時期に取り付けられる
蛍籠です。
ゲンジボタルの生息地一の坂川に近い町家では蛍籠を吊り下げます。これが山口市の夏の風物詩。 -
風に吹かれて渦きき状にゆっくりと回ります。
ソフトクリームが渦巻き状に回る感じですが、微風状態であればあまり回りません。
何処が蛍の入れ口か分かりませんが、古民家によく似合っています。 -
大殿大路の大店、醤油業の万代家の離れです。
この商家の屋敷は市が買い上げて十朋亭維新館として公開されています。
これで大内弘世公の関連する施設の照会は終わります。次は弘世公の長男大内義弘公の旅行記をお送りします。
大内義弘公は大内氏歴代当主でも最も武力と胆力に優れた武将として有名です。
また当時難題だった南北朝の合体に尽力した武将でもありました。
今回も訪問下さり有難うございました。十朋亭維新館 美術館・博物館
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