2023/05/27 - 2023/05/27
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ポポポさん
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大内義弘公は領国摂津の堺に上陸し、ここを死地と定めて直ちに堺の町を要塞化しました。
足利義満から上洛命令が届きますが全て拒否、義満の外交僧の説得も丁重に断りました。
これを受けて足利義満は大内義弘公に追討令を発し
ここに応永の乱が勃発しました。時に応永6年(1399年)11月の事でした。
義弘公も単独で反乱した訳ではありません。反義満派と呼ばれる勢力が(鎌倉公方、比叡山延暦寺、興福寺、南朝勢力など)加担しました。鎌倉公方の足利満兼とは同盟が成立し、鎌倉と摂津東西で反乱を起すことが約されたのです。
義弘公が堺に入ると鎌倉公方も呼応して出陣、1万の関東勢を率いて武蔵の国まで進軍したところで関東管領上杉憲正に諌めれて進軍を中止してしまいます。
もはや鎌倉公方の援軍が来ないと知った義弘公は孤軍で幕府軍と戦う事を決意されました。
そして皆を呼び初七日の法要と四十九日法要を行って弟盛見に分国を固く守るようにとの遺書を送りました。
義弘軍には南朝の残存兵力が参加していました。
九州では南朝方の主力菊池武朝の一族、摂津の楠木正秀一族および残党などです。
彼らは義弘公が南北朝合体に人力した事を良く知っており微力なりとも義満に一太刀浴びせたいと合力したのです。
ここに応永(139911月29日)の乱が勃発、幕府軍3万と大内勢5300が激突しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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義弘公が応永の乱で破れた後、分国を守るように遺言された弟盛見公は全国から派遣された幕府軍を撃破。さらに大内軍は安芸、石見まで侵攻して武威を天下に示しました。これにより遂に将軍は防長二州の守護を大内盛見に任じる命令を出すに至って収束した。
その後義弘公が建立した菩提寺の境内に兄の菩提をともらう為に盛見公が建てた供養塔が国宝五重塔である。
現在は国清寺は取り払われ、その跡地に瑠璃光寺が建てられた事から瑠璃光寺五重塔と呼ばれている。(塔の写真は2022年4月に写したもの)国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会
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国宝瑠璃光寺五重塔説明板。
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国宝瑠璃光寺五重塔は日本で美しい五重塔の内、3本の指に這入る塔で、室町時代の建築様式を今に伝える重要な健康物だと言われている。
国宝五重塔の美しさの秘密は①屋根を瓦では無く檜皮葺にして優美な曲線を作り上げた事。②最上層の屋根の先が天に向けて強く反り返っており、塔を軽やかに見せている。③高欄や縁を2層のみとして塔身をすっきり見せているからである。瑠璃光寺五重塔 公園・植物園
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この塔が一年で一番輝く時が桜の時期。
今は美しく佇む五重塔も過去2回ほど火災や解体の危機に曝された。
1回目は陶晴賢の乱、大内氏滅亡の時である。城下は反乱軍の放火で燃え上り、火の粉が五重塔に降り注ぐ。
町の何処からともなく「義弘公の塔を守れ、火を消せ」の掛け声が沸き起こり町衆の尽力で焼失を免れた。
今一度は関ヶ原の後、防長二州に減封された毛利輝元が大内義弘公の菩提寺香積寺を勝手に解体し、さらに供養塔(五重塔)も解体しようとした時である。
町衆の人々が塔の周りに多数集まり解体しようとする作業を妨害した。作業を妨害さrた毛利の侍と阻止しようとする町衆達は正に一触即発の状態に陥ったが、奉行が中に入ったことで一旦衝突は避けられ、後日毛利輝元から解体は中止する命が傳えられ解体を免れた。。
また香積寺には大内義隆が創建した禅宗様式の仏殿があったが毛利時代に毛利の外交僧安国寺恵瓊によって
広島に移築させられた。現在広島市内にある不動院金堂がその建物で、国宝に指定されている。 -
塔の檜皮が著しく傷んだため今年70年振りの全面檜皮葺き替え工事が始まった。
おとずrたた時は仮設の足場の鉄骨設置工事が始まっていた。国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会
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工期は令和4年12月から令和8年3月まで。
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五重塔の周囲は柵が立てられ立ち入り禁止になっていた。
檜皮の葺き替えが終わるまでの向こう3年間は優美な塔の姿は見られない。 -
五重塔側にある司馬遼太郎氏の碑文。
街道を行く長州路より、司馬遼太郎氏が国宝五重塔を賛美した一節から。 -
碑文の出典部分のアッブ
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国宝五重塔がある場所は旧香積寺の境内であったが現在は香山公園となっている。
香山公園 公園・植物園
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香山公園には若山牧水の碑文もあった。
詩作旅行で山口を訪れた時に詠んだ短歌だそうです。 -
公園内にある雪舟の胸像。
雪舟は山口にとてもゆかりのある画僧。大内教弘が当主の時に山口にやってきた。
大内教弘公の時に詳しく説明したいと思います。 -
雪舟の説明板。
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陶氏の菩提寺瑠璃光寺。
大内義弘公の菩提寺香積寺の跡地に山口市仁保から移設された。瑠璃光寺 寺・神社・教会
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瑠璃光寺は曹洞宗の禅寺である。
瑠璃光寺 寺・神社・教会
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瑠璃光寺の由来説明板。
陶氏の7代目当主陶弘房の死後、弘房の婦人(仁保氏の女)が夫を弔うために文明3年(1471年)に建立した。当時は安養寺と呼ばれ山口市仁保にあったが香積寺が解体されて萩に移転した跡地に元禄3年(1630年に仁保から移転した。
陶氏は大内氏の一族で代々周防守護代を務めた城代家老の家系である。
陶弘房は応仁の乱の際に京都における東軍の本陣相国寺の戦いで大活躍するも壮烈な戦死をする。陶氏の活躍もあり相国寺の東軍本陣は壊滅し東軍細川勝元は命からがらに逃亡。花の御所も半分近くを焼失した。
これ以降細川勝元を対象とする東軍は敗戦が続き衰退しいく。 -
瑠璃光寺五重塔の説明板。
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では瑠璃光寺の中に入りましょう。
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鐘楼。
梵鐘は瑠璃光寺の末寺光明禅寺のために文元年(1532年)に鋳造された梵鐘が中にある。
光明禅寺が廃寺になった時に瑠璃光寺に移って来たそうだ。瑠璃光寺がこの地に移る前の出来事である。 -
梵鐘の説明板。
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鐘楼。この高さなら中の梵鐘が見える。
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同じく鐘楼と梵鐘。
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寺の前に置かれていた鎮守石殿。
この石殿は瑠璃光寺が仁保の地にあった頃、当山の16代和尚が寺の鎮守とし慶安3年(1630年)に造立したもの。 -
鎮守石殿の説明板。
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寺の境内右奥に墓地があるが、その右上に金毘羅宮がある。
山口県内には神仏習合の様子を伝える寺が沢山残っているが瑠璃光寺もその中の一つ。
1364年讃岐の金毘羅神社本宮の御分霊を勧進し大内氏一族代々の鎮守の神として祀ったのが始まり。 -
金毘羅神社の由来書き。
以上で瑠璃光寺の説明は終わるが、旧瑠璃光寺の跡地がどうなっているのか興味が湧いたので訪ねてみることにした。
調べたところ旧瑠璃光寺跡地は山口市の火葬場の近くと言う事が分かった。 -
旧瑠璃光寺跡地は火葬場の下、火葬場の敷地の隣りだが、上り道のカーブの所なので感覚的には下と言った方が分かり易いと思う。
火葬場の受付の人に場所を教えてもらった。旧瑠璃光寺の敷地はとても広かったそうだが、残された部分はほんの僅かであった。
大部分は火葬場の敷地になっているそうだ。 -
ここが旧瑠璃光寺の敷地。
歴代住職の墓地と墓石が残っていた。 -
旧瑠璃光寺歴代住職墓碑の説明。
この寺を建てたのは陶弘房の夫人だが、夫人は仁保氏13代盛郷の二女だそうだ。
仁保氏は源頼朝の御家人で鎌倉幕府から仁保地方一帯を治めるよう派遣された地頭で、その子孫が大内氏の家臣となった。山口市仁保にその屋敷跡があるねで後日訪れてみたい。 -
旧瑠璃光寺住職の墓碑。
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旧瑠璃光寺住職の墓碑。
時代毎に異なる様式の墓が建てられているので、建てられた時代を調べるには便利かもしれない。 -
旧瑠璃光寺住職の墓碑。
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旧瑠璃光寺住職の墓碑。
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旧瑠璃光寺住職の墓碑。
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敷地には国宝五重塔のミニチュアが。
なぜミニチュアがここに建てられたのか分からないが、瑠璃光寺と国宝五重塔を関連付ける為なのかもしれない。 -
旧瑠璃光寺住職の墓碑。
大内義弘公の関連史跡を見てきたが、義弘公自身が戦に明け暮れて本国に居る年月が少ない為に山口県に残る関連施設は少ない。
10代から20代にかけては九州探題の主力軍として菊池一族ら南朝軍と対決しこれを撃破。
その後高麗国の要請で倭寇を討伐すれば、そのみかえりとして高麗国との交易が認められ、今迄九州探題の今川了俊に独占されていた朝鮮貿易に新風が拭き込まれた。
朝鮮国になると義弘公は倭寇討伐の見返りに百済の父祖の地を賜わりたいと朝鮮国王に要望している。国王は承諾したものの家臣の反対に合い実現しなかった。
しかし、大内氏との貿易は認められた。この時聖淋太子は百済国聖明王の第三王子にして大内氏の始祖である旨の系図や由緒書きを提出している。
この時期に聖淋太子伝説が作られたと考えられている。
朝鮮同様明国からも倭寇討伐の功績により独自貿易を認められている。
大内氏が海外貿易により経済的地位を築く先駆けが大内義弘であった。
次は義弘公の弟で義弘公より分国を守るように遺言された大内盛見公です。
足利将軍の命令で全国の大名が山口県に押し寄せました。
盛見公は如何にして幕府軍を打ち破り分国を守りきったのか?
次回に続きます。
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