2023/06/05 - 2023/06/05
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ここからは大内正弘公時代の文化面をみて行きたいと思う。
雪舟は正弘公の支援を受けて明国に留学し、その後帰国。帰国後は雲谷庵というアトリエで絵画の制作と弟子の指導に携わった。また雪舟は正弘公の求めに応じて別宅の庭園を制作している。
今回は二人に関わりのある施設である雲谷庵と常栄寺雪舟庭を訪ねてみた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
大内氏の文化面と言えば何と言っても画聖雪舟である。
と言う事で大内氏と雪舟の関わりについて調べてみた。
雪舟と関わりが深かったのは28代教弘公と正弘公。教弘公はパトロンとして山口にやっと来た雪舟の為にアトリエ雲谷庵を建て、創作活動を支援した。
一方正弘公は明に渡って絵の修行を希望する雪舟を大内氏の遣明船に乗せて明に送り出した。
帰国後は雲谷庵で画業に専念し国宝の「山水長巻」や山口市宮野にある常栄寺に山水画風の庭園を造った。
雪舟は1420年備中(現在の岡山県)で生まれ若くして出家し京都の相国寺に学んだ。絵は同じ相国寺の僧で幕府の御用絵師だった周文に学ぶ。
若い頃は拙宗と称し、1457年頃に雪舟と名乗ったと考えられている。
なお雪舟は号で僧侶としての名は等楊である。なので雪舟等楊と呼ばれるのが一般的。
大内教弘公が遣明船の経営に参入すると、雪舟は大内氏の支援で明に渡り絵の修行をする機会を求めて山口にやって来たと考えられている。大内正弘公の時代1467年に大内氏の遣明船で明に渡り、寧波から北京へ移動。北京では画家の李在らに師事し、水墨画の修行に努めた。
明滞在中は北京の役所の壁画や「絹本淡彩四季山水図」(重文)を描いている。
1469年に帰国して一時豊後の国(現在の大分県)で活動、1479年に石見の国(現在の島根県)の益田氏当主の肖像画を描き、2年後に各地を旅して1486年に再び山口に戻った。一時的に山口を離れる事があったが、基本的には晩年まで山口を画家活動の拠点としている。
1486年には国宝「山水長巻」を完成。これは明国留学に便宜を図って貰ったお礼として雪舟が書いたとも、正弘公から描いて欲しいと要望されたとも言われているが真相は分かっていない。
また雪舟は亡くなった年も場所もハッキリしていない。
年については1502年と1506年説があり、亡くなった場所は石見国益田の大喜庵、備中国芳井の重玄寺、雲谷庵など諸説あり判明していない。
それでは雪舟のアトリエだった雲谷庵から訪ねてみよう。 -
雲谷庵は萩往還道の天花にあった。
江戸時代の萩往還の絵図でも天花の街道側に書かれている。
ここは雲谷庵の無理駐車場。普通自動車4台が駐車できる。 -
駐車場の側に雲谷庵の入口がある。
石畳の細い道を登りきった所に雲谷庵がある。 -
矢印の方に進むと雲谷庵。
さて、雪舟は大変ミステリアスな人物。亡くなった年も場所も分からない。
山口にやって来た理由もハッキリしない。正弘公に招かれたのか、それとも明国留学を実現する為に大内氏の援助を求めて来たのか、これさえハッキリしない。
帰国して山口の雲谷庵で画業に専念する傍ら豊後国(大分県)、丹後国(京都府)、美濃国(岐阜県)など各地を旅して作品を残している。
これらの旅は画業の為ばかりでは無く、大内氏から密命を受けた諜報等情報の為ではなかったのかと言う説もあるほどだ。 -
雲谷庵は江戸時代の街道萩往還に面した天花の閑静な住宅地の一画にある。
進入路は綺麗な石畳の道だった。 -
入口にある雲谷庵跡の説明板。
ここは画聖雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡である。
雪舟は明から帰国後山口に住み、アトリエ「天開図画楼」を開いて弟子を育成する傍ら画禅一体の生活をした。
この「天開図画楼」が雲谷庵と考えられている。
雪舟存命中京都の禅宗界の重鎮了庵桂悟は山口のアトリエを訪れ、その地を大内正弘公も度々訪れたと「天開図画楼記」に記している。 -
雪舟の死後アトリエは弟子達に受け継がれたがやがて荒廃。
安土桃山時代1593年、この地と雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」は毛利輝元から毛利藩のお抱え絵師、原治兵衛直治に与えられた。
これは原が「四季山水図(山水長巻)」を模写し、出来栄えを認められた為と言われているが、これはいつもの大内氏のお宝無料放出という輝元の癖が出たのだと思う。
重ねて記述する事になるが毛利輝元は藩主としては珍しく文化教養が身につかず、美術品の良し悪しも全く分からなかった人物だったそうだ。
こうして当代一流の美術品は市勢に流れていったが幸い他藩に流出する事は無く、1708年萩藩主から差し出すように命じられ藩秘蔵の物となった。
現在防府市にある毛利博物館が所蔵していて年1回行なわれる国宝展で展示されている。
原直治は雪舟等楊の一字を撮って雲谷等顔と改名し、拝領したアトリエを再興。やがて等顔が亡くなるとアトリエは雲谷派の絵師に受け継がれた。
しかし時を経てアトリエは失われ、明治時代初めその地は畑に。
大内氏研究家近藤清石らはその地が不明になる事を恐れて買い取り雲谷庵を再建した。 -
雲谷庵の南側が勝手口。庵の中には勝手戸を開けて入る事ができる。以前訪れた時は勝手戸は開け放たれていたが、現在はその都度開けたら閉めるようになっている。
雲谷庵跡 名所・史跡
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庵の中に掲示されていた庵の間取りと再建に掛かる部材等の説明。
再建に当たっては大内氏の時代に栄えた寺社の部材を集めて使用している。
大内氏の氏寺興隆寺の扉、仁平寺の柱、大内持盛の菩提寺観音寺の窓、宝現霊社拝殿の柱など。
西側の玄関の天井には雲谷派に絵を学び、吉田松陰の門下生でもあった小野為八が描いた雲龍図がある。 -
雪舟とその作品の紹介。
雪舟の作品の中で特に有名な国宝「四季山水図(山水長巻)」の部分写真と、長巻全部の写真。
毛利博物館国宝展(11月)の時に見れるが、見れるのは春夏秋冬の一季節のみ。
全巻見るには毎年4回見に来ないといけないのだ。
でも平成以降は雪舟の展覧会では全巻見る事が出来るよになったらしい。
私は展覧会で山水長巻全巻を4回見た。お近くの美術館で雪舟展、若しくは雪舟国宝展などの展示がある場合は山水長巻が展示されると思うので、機会を逃さないようにされたらいいと思う。
ちなみに山水長巻は全長16m、幅40cmにも及ぶ大作である。 -
間取り図では板間の奥の部屋。囲炉裏があるので来客や弟子達との団らんに使用したのか。
板間の部屋の方が広いので、こちらをアトリエとして使用したのかもしれない。 -
雪舟のアトリエと思われる板間の部屋。
北側の明かり窓の下に机を置いて山水画を書いたのであろうか? -
「絹本着色雲谷等楊像」
雲谷等益筆。等益は等顔の息子。雲谷派二代目宗家。
この絵の上部には讃があるのだが、この軸はそこをカットした写真製版である。
本物は重文で山口県立美術館で保管している。 -
板間の部屋には旧仁平寺の柱と旧観音寺の窓が部材として使われている。
-
旧仁平寺の柱と旧観音寺の窓は板間の部屋の北側にあった。
旧観音寺の窓は障子で見えないため、後で外から見てみよう。
旧仁平寺は興隆寺、乗福寺とともに大内時代の3大寺院と呼ばれた寺で、境内には五重塔が建っていた。
今残っていれば山口の北と東で五重塔が見れる事ができた。
大内氏の滅亡ともに著しく衰退し、現在では伽藍の基壇さえも残っていない。
明治時代まで五重塔は残っていたがやがて朽ちて倒れたそうだ。 -
板間の隣の四畳半の和室。西側の入口から入るには躙り口になっているので茶室兼用の和室らしい。
現在の建物は明治時代に再建した物であり、室町時代の建築様式に則して建てられたかどうかは疑問である。 -
4畳半の和室の西側の壁である。
壁の上には雪舟筆の山水画の縮小版があった。壁の下の板戸は紛れもなく茶室様式の躙り口だった。
躙り口はそもそも利休が安土桃山時代に確率した茶室の建築様式である。利休が茶室待庵を造ったのがこの様式の初めと言われている。
大内氏の当主は山口の3名水を使用して京都から下向した公卿らと茶会を催しているが、大内氏が千利休より先に茶室様式の躙り口を考案、もしくは使用したという記録は無いらしい。
明治17年に雲谷庵は再建されたが、多分に郷土史家近藤清石氏らの思惑に基づき建てられたと思われる。
再建は室町時代の建築様式でするべきだと思うが、四畳半の和室が茶室である事を誰にも分かるように、あえて躙り口を取り付けたのかもしれない。 -
雲谷庵を南西方向から見る。
西側の中央がアトリエの入口である。入口のすぐ右に茶室に入る躙り口がある。雲谷庵跡 名所・史跡
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西北西側から見た雲谷庵。
西側4枚の障子がある部屋が板間のアトリエ。雲谷庵跡 名所・史跡
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北西側から見た雲谷庵の全景。
北側の壁には旧観音寺の窓がある。そして窓の左側にある柱は旧仁平寺の柱である。
近寄って観音寺の窓を見てみよう。 -
旧観音寺の窓と旧仁平寺の柱。
雲谷庵の間取り図の説明によると、この窓は手前に引き上げる事ができるようだが、今は動かせ無い。 -
雲谷庵の正面入口。
室内で紹介されていた大内氏時代に栄えた寺社の部分で入口部分は造られている。
入口左右の柱は宝現霊社拝殿の柱。入口上部には山口大神宮の蟇股。入口扉は大内氏氏寺の僧房の扉。雲谷庵跡 名所・史跡
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山口大神宮(室町時代は高嶺宮)の蟇股。
その奥の天井に小野為八が描いた龍の絵がある。 -
入口の天井に描かれた龍の絵。
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入口の扉は左右共に興隆寺僧房の扉。こちらは左側の扉。
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入口から左側にある板間の境には板戸があり、三番叟と思しき踊りてが描かれている。
年月の経過により絵の色は抜けていたが、絵の形はハッキリと分かる。 -
こちらは右側の扉。
玄関から上がるとすぐ右には茶室に入る躙り口が有る事が分かる。 -
入口右側にあるのは茶室に入る躙り口。
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入口正面には雲谷庵の扁額。
永年の風雪に耐えて額は傷みが激しい。 -
雲谷庵の敷地にある雪舟の足跡。
明国から帰国後山口に戻り雲谷庵をアトリエとして制作に没頭したが、文明8年(1476年)頃より数年間各地を旅した。
九州の豊後から石見、丹後、美濃などに足跡を止め、遠くは出羽まで足を伸ばしているが、また山口に帰還した。
このように広範囲な移動(旅)は大内正弘の密命を受けた諸国の情報収集だとする説もある。 -
日本地図の下には雪舟の年表があった。
雪舟が亡くなった年は1502年石見国の益田の大喜庵とする説と1506年山口の雲谷庵で亡くなったとする説が
る。
益田説の根拠は大喜庵に雪舟の墓があるとするものだが、これは江戸時代に作られた伝説と言われている。
一方山口説の根拠は牧松周省と了庵桂悟の賛のある雪舟筆「山水図」である。永正4年(1507年)3月了庵桂悟が山口にやって来て雲谷庵に雪舟を訪ねたところすでに雪舟は亡くなっていて弟子が庵を守っていた。
そこで了庵桂悟は雪舟の死をいたみ、雪舟が描いた山水図の牧松周省の賛の後に漢詩を書いて弔った。
この詩文から雪舟は前年に死亡したと想定される。
雪舟が死亡した年と場所については定かではないが、了庵桂悟の漢詩や山口で見聞きした事などから雪舟は死ぬまで山口に居住し、雲谷庵で死亡したと言うのが至当であると考えられる。
山口では当然のように雪舟の死亡年は1506年、87歳で没したと記されていた。
次は雪舟が作庭した庭園がある常栄寺を訪ねてみよう。 -
常栄寺は山口市の郊外宮野にある臨済宗の寺で雪舟が作庭した庭が雪舟庭として有名である。
元々は大内正弘公の別邸で、正弘公が雪舟に依頼して造らせたと伝えられている。
正弘公の母、妙喜寺殿が亡くなると菩提を弔う為に別邸を寺とし「妙喜寺」となった。
一方常栄寺は毛利元就が長男隆元の菩提を弔う為に安芸の吉田郡山城内に建てられた。
ちなみに洞春寺も毛利隆元の妻の菩提寺妙寿寺も吉田郡山城内に建てられた寺である。
毛利輝元が関ヶ原の戦い後厳封されて萩に移封されると常栄寺は大内盛見の菩提寺国清寺に移転し常栄寺に、毛利隆元夫人の菩提寺妙寿寺は妙喜寺に移転して妙寿寺になった。
更に幕末、文久3年(1863年)に毛利敬親公が萩から山口に城を移した時に萩城内の各菩提寺を山口に移転した。
その結果妙寿寺は毛利隆元の菩提寺常栄寺となり、かつ毛利隆元夫婦の菩提寺になった。
大正15年には隣家から出火、その延焼で当寺は鐘楼と宝蔵を残して全焼したが幸いにも諸仏・宝物や文書類は運び出されて無事だった。
常栄寺は都合3回ほど火災にあって焼失している。その為室町時代に建てられた建物は残っていない。
本堂が再建されたのは昭和8年で、諸堂の建設など復興には四十数年を要したそうだ。
写真は常栄寺の山門。常栄寺 寺・神社・教会
-
常栄寺の庭は大正15年に国の史跡・名勝に指定された。
入り口門横に描かれている常栄寺と雪舟庭の案内板。
雪舟庭は3つの視点から鑑賞するそうでその場所が拝観ポイントとして紹介されていた。
45年以上も前に来た時は、雪舟庭にこのような拝観ポイントがある事は紹介されていなかった。
久しく訪れていなかったので、新しく拝観ポイントがあるなんて事は全く知らなかった。 -
前庭「無隠」
常栄寺二十四世今井任桃(いまいにんとう)老師の晋山記念事業として平成24年に作庭された。
正面が本堂で左の建物は地蔵堂。常栄寺 寺・神社・教会
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常栄寺雪舟庭の説明書。
雪舟庭は大正15年2月24日に国指定史跡及名勝に指定された。 -
昭和の大火災で焼け残った鐘楼門。
門の上部に鐘楼がある。 -
中央の白壁越しに見える建物が常栄寺の本堂。
-
正面の建物が雪舟庭と本堂の入口。
建物の中には茶堂がある。その右にある建物の中に明治天皇が宿泊された宿泊の間があるが、普段は公開されていない。
なおこの間は昭和42年に当寺に移設されてきたものである。 -
建物の中にある茶堂。ここは有料だが抹茶を頂く事ができる。
本日の来客は私一人で閑古鳥が鳴いていた。何故こんなにも観光客が少いのか理由は後で分かったのだが・・・。
茶席の反対側には下駄箱がある。そこから本堂に上がれ、本堂からは雪舟庭との庭を眺める事ができる。 -
本堂の南側にある南溟庭(なんめいてい)。この庭は雪舟の作庭ではない。
常栄寺二十世安田天山老師が古典造園の復元や修復、創作や造園学の大家重森三玲に「雪舟より良い庭を造られては困る。恥をかくような下手な庭を造って貰いたい」と依頼した。
重森は固辞したが、老師は「上手に下手な庭を造って貰いたい」と重ねて依頼。昭和43年、重森72歳の時に築庭したものだ。
「南溟」の由来は、安田老師が荘子内編第一「逍遥遊」から取ったもの。
南溟は陽の世界、果てしなき南の海、彼岸を望む光明の世界の事。(常栄寺HPより引用) -
南溟庭。
雪舟が入明し、帰国するまでの海をイメージして造られた。
砂は海、X状に配置された石は島を表現している。苔による築山は方丈側を高くし、端は州浜形にして動きを持たせている。
高い本堂から立って見るために庭を俯瞰するように作られているそうだ。
X状に配置された石は本堂側からは分からない。
庭の東端から眺めると分かるが、庭に入る事ができないため一般の観光客には分からないのだ。常栄寺 寺・神社・教会
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南溟庭。
西の端の部分。苔の築山が多あ場所で築山は陸地をイメージして作られている。
海の西にある陸地なのでこちらが明国かと想像した。 -
南溟庭。こちらが東側の陸地と海だ。さすれば東隅の築山が日本か?
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南溟庭。日本から明国に至る広大な東シナ海。
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南溟庭。
本堂西北からの庭の眺め。西側の築山は明国を意識してか東の築山よりもかなり大きく作られている。 -
本堂にある吉田郡山城下図。
毛利隆元の菩提寺他諸寺が吉田郡山から山口に移って来たことが分かる絵画。
吉田郡山城の発掘調査により郡山城の全貌が明らかになる過程で、絵画に描かれた様子と発掘の状態が一致している事で絵画の正確さが確認されたり、発掘された遺構が何かと言う根拠になっているそうだ。 -
郡山城下図の説明書。
説明書によればこの絵はレプリカだそうだ。
この説明書を見るでは本物かと思っていた。 -
本堂に安置されている本尊は千手観世音菩薩。
元は大内盛見公の菩提寺国清寺にあったものである。
国清寺の本尊は千手観世音菩薩だった。 -
国清寺の本尊だった千手観世音菩薩。
室町時代中期の作。
以前は本堂内部に「絹本着色雪舟等楊像」「紙本着色毛利隆元像」「紙本着色大内盛見像」の3枚の肖像画が掲げであった。
特に有名なのが雲谷等益筆の「絹本着色雪舟等楊像」だ。国の重用文化財に指定されているが、描いたのは雲谷派二代目の等益。
雪舟が弟子の秋月等観に与えた自画像をもとに江戸時代に制作されたものである。
この絵が重要文化財に指定されているとはこの時は知らなかった。
この寺には大内盛見公の像が伝わっているが、盛見公の菩提寺国清寺が毛利隆元の菩提寺である常栄寺になったので、常栄寺が現地に移った時に一緒に移されたのだろう。 -
雪舟庭の案内図。
雪舟庭は池泉廻遊式庭園で、その面積は900坪もある。
そのため見る場所によって景観が異なるらしい。
案内図には第一から第三までの拝観ポイントが数字で表示されていた。
第一の視点は本堂から見た庭の景色。本堂からは庭全体を俯瞰して見る事ができる。
枯山水の前庭、心字池と四仙島、東北の隅にある龍門と枯滝。正面奥の山畔石組が見える。
第二の視点は池の西側迎月亭跡地の後から。
心字池に浮かぶ四仙島の姿を別角度から見る事ができる。東北隅の枯滝はここからが一番良く見れる。
第三の視点は庭園東側にあった書院跡から見た景観。
ここからの景色は心字池とその奥にあった楼閣風二階建ての迎月亭のだった。
しかし書院も迎月亭も焼け落ちて今は無く、当時の景色は想像するしか無い。
-
雪舟庭の解説。
第一の視点から第三の視点まで見処が説明してあった。
45年前迄に訪れた時は、この様な視点の解説は無かった。
当時は池泉庭園に配置された五台山や蘆山、崇山など中国の三山五岳を象徴する石組や日本を象徴する富嶽(富士山)、更には心字池の四仙島や枯滝を雪舟独特の山水画に照らして、雪舟の画家としての境地を庭に体現したものとして説明してあった。
現在の視点としての説明の方が親切かもしれないが、山水画の境地を体現したものとしての庭の方が雪舟絵画を理解し易いのではなかろうかと思う。 -
それでは第一の視点から庭を鑑賞しよう。今迄何度か雪舟庭を訪れたが、たった一人でこの庭を見ることができたことは一度も無い。
平日でも数人は観光客が訪れていたものだ。今日はこの庭園を独り占めできる。他人が写真に入り込むことも無い。このような機会はめったに無いので思う存分楽しませていただこう。
前庭は五台山、廬山、崇山など中国の三山五岳を象徴する石組がある。その中に日本を象徴する富嶽(富士山)が見える。前庭の奥には四仙島(岩島、亀島、船島、鶴島)を配した心字池があり東北隅には枯滝がある。50年前の入場チケットの裏には庭園の見取り図が印刷されてあり、主要な岩などが名前入りで説明されていた。
その当時(45年前)の記憶では、芝生の前庭には富嶽と命名された富士山があり、そね周辺は蓬莱島(日本)若しくは蓬莱と説明してあったと記憶している。
しかし、現在のチケットには庭の説明は印刷されていなかった。常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会
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本堂から見た雪舟庭。
写真は庭の西側部分。池泉の西端にあるサツキが咲いている所が迎月亭跡。 -
本堂(第一の視点)から見た庭園。
中央に心字池と四仙島。その手前の芝生部分に配置されいるのが中国の三山五岳を象徴する石。写真東奥にあるのが枯滝だが木立の陰で暗くなり、滝の姿は判別きない。 -
心字池の西端部分は富嶽(富士山)に象徴される日本(蓬莱島)。
その奥に見る2段のサツキが咲く場所が迎月亭跡。常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会
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中国の三山五岳を象徴する石組み。
ここで池の異変に気がついた。いつもより池の水が少なすぎないか?
もっと多かったはずだが・・・?常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会
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水平方向からは分かり難いが心字池の亀島。
アップにしたので逆に分かり難くなった。 -
心字池の西端に配置されているのが四仙島の一つ岩島である。
アップにすると心字池の水が少ないことがはっきり分かる。 -
池の中央から右寄りにあるのが舟島。
舟島は第二の視点から見た方がその形が分かり易い。 -
心字池の右奥に見えるのが石橋。この石橋には確か名前が付いていたと記憶しているが思いだせない。
橋の右前にある大きな岩は蓬莱石と案内図には書かれているが果たしてそうだったのか疑問に残る。
昔のチケットの裏に印刷されていた庭園内の石の名前では富嶽(富士山)の集辺が蓬莱とされていた。果たして以前にはこの岩が蓬莱石だったかどうか記憶に無いのだ。 -
心字池の奥の石組み。案内図では山畔石組と照会されている場所で、ここから右端にかけて、このような石組みが続いていた。
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雪舟庭で次に気になったのがこの石である。この石こそ日本の象徴富嶽(富士山)なのだが何かがおかしい。
そう、富士山の左側の斜面がないのだ。以前は確かにあったのにその部分が欠けて無くなっているでは無いか。
欠けたのであれば石をくっつけておけばいいものを、欠けたままで放置されている。これでは案内図に富嶽とは書けないだろう。
45年振りに訪れて見ると庭の姿が変わっていた。何という事だろう。どうして石が欠けたのだろうか?
富士山の姿が変わったなんて全く知らなかったので、その衝撃は大きかった。 -
この形は酷い。これでは富嶽とは呼べそうも無い。そのため前庭の石の名前を全てカットしたのだろうか?富士山の代わり果てた姿に言葉も無かった。
大學時代に訪ねてきた友人や後輩を何人も案内してきた庭園だ。何が原因でこうなったのか帰りにチケット売り場の女性に聞いてみよう。
次回は引き続き雪舟庭と常栄寺の後編をお送りします。
訪問頂き有難うございました。
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