2023/11/25 - 2023/11/25
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ポポポさん
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山口市内にある雪舟庭の最後は常徳寺庭園。
古くから雪舟庭として伝えられている庭園であったが、発掘調査の結果雪舟作の庭園と認められ国の名勝として指定された。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
私が常徳寺庭園を知ったのは善生寺庭園の事を調べている時だった。
今まで聞いた事のない名前の庭園が雪舟の庭園として国の名勝に指定され、しかも山口市にあるという事が目に止まった。
この庭園は令和2年に復元整備さされた最も新しい雪 舟庭だった。
但しこの庭園は山奥の不便な場所にあり車でないと来れない。しかも庭の規模は小さいらしい。
急いで訪ねる必要もなさそうだと思い後に残していたが、善生寺の旅行記を記載する時にこの庭も紹介したいと思い秋の紅葉が終わる頃一念発起して出かけた。
寺の名前は常徳寺、場所は山口市阿東蔵目喜1498番地だ。
阿東生雲から萩に抜ける県道沿いにある集落にある。
この地域は古くから鉱山で栄えた所で、この一帯に大小さまざまな鉱山が確認されているそうだ。
江戸時代は藩の主要鉱山として銀、銅、鉛を産出していた。
山口市内から木戸山トンネルを抜けて阿東生雲地区にやってきた。 -
国道9号線から県道11号線に入って萩に向う途中の右側にある。
初めての場所なのでナビを使用して訪ねることにした。
写真の交差点を過ぎると一本道をひた走る。目的地500m手前でナビが目的地間近と伝えてくれた。
事前にネットで進入口を調べておいた。道沿いに常徳寺入り口の案内表示が立っているのでそれが目印らしい。
ナビは目的地到着と告げて案内を終了したが辺りには何もない。道の右側にはガードレールがあるばかりで右に入る道など無かった。ナビはピンポイントで案内しない場合が多いので、少しこのまま走って見ることにした。一本だけ右に入る細い道があったがその入り口には常徳寺の案内表示は無かった。
さらにそこを通り過ぎて車を走らせたが何もない為来た道を戻る。再びナビを始動させ萩の方に進むと道の左側にこの先右に常徳寺入り口と言う案内表示板があった。
右に入る道を見過ごした可能性もあるので今度は注意深く運転した。 -
再びナビから「500m先目的地」の音声が流れ、その後目的地に到着の音声があり案内終了。
先程と何も変わらない。ガードレールの横で終った。先程よりも今少し先に車を走らせたがガードレールしかない。
何度か往復して分かったのは西教寺という寺に行く道しかないという事だった。
その道は西教寺への進入路かもしれないが、右に入る道がこの道しかない以上行くしかなかった。
写真が西教寺への進入路。道が広いように見るが、ここが広く見るだけでこの先は狭い山道だった。 -
これが西教寺入り口の案内板。常徳寺入り口の案内板はどこにもなかった。
不安な気持ちで車を進めたがここからは下りの狭い山道。対向車が来たら離合はもちろんバックも難しい下り坂の道だった。
この道は軽自動車かコンパクトカー以外の車は進入しない方がいいと思う。 -
下りの山道を下りきった先に西教寺があった。
周囲は山里の小集落の村という感じだった -
寺の駐車場の先に・・・、「あった。」常徳寺庭園入り口の看板。
やって来た道で間違いなかったんだとやっと安堵した。
「この先道幅が狭くなります。」まさにその通り。道の右側は川、左は民家の石垣、道幅は先程の山道よりも狭い。
対向車が来ないことを願って、いざ常徳寺へ。 -
常徳寺の駐車スペースに到着。
写真は今来た道。写真の先の道がとにかく狭い。
車は寺の入り口に駐車したのだが、寺の境内の中でも止められた。
寺の中の方が方向転換しやすいのでそちらの方がいいと思う。 -
入り口に立派な看板があった。
看板の奥には農家風の家屋。常徳寺はすでに廃寺で庭園だけが発掘整備されたらしい。常徳寺庭園 寺・神社・教会
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入り口の右には「常徳寺庭園(雪舟庭)の表示がある。
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山口地方の農家造りのた建物。正面が主屋で、右の建物が長屋風の農業用倉庫だろう。長屋は2階建てが多く、1回が作業場兼倉庫、2階が居住スペ-スになっている。
雨戸が閉め切ってあるので空き家のようだ。
元は寺の敷地なのでお墓があちこち残っている。 -
敷地の一番奥に「名勝 常徳寺庭園」の碑があった。
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入口門がある?先程の家屋の入り口には門は無かった。
ひょっとして常徳寺時代の門だけが残っているのかな? -
門柱には「常徳寺」の名前がかかgtあった。
うん?常徳寺っtまだあるのかな?そんな疑問を持ちながら山門をくぐった。 -
山門をくぐって右側に広がっているのが名勝常徳寺庭園だった。
池泉鑑賞式庭園である。庭の中央に中島を配し、後方のせり出た岩盤の斜面を借景にして岩盤の先下は渓谷風の滝石組に仕上げてあるそうだ。
池泉庭園なので中島の周囲は池の水で満たされているはずだが、ここ数カ月の水不足で池の水が干上がったようだ。
水は僅かしか残っていなかった。常徳寺庭園 寺・神社・教会
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常徳寺庭園及び常徳寺の案内。
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常徳寺庭園の説明。
常徳寺庭園は雪舟庭として言い伝えられてきた庭園で江戸時代に毛利藩がまとめた「防長風土注進案」には前回紹介した善生寺と同様雪舟作との伝承が残っていた。また「防長国郡志」には江戸時代後期にはすでに庭園は荒廃し埋没していた様子が記述されていた。
平成8年度から10年度にかけて発掘調査が行われ、中央に中島のある池泉式鑑賞庭園であったことが明らかになった。
庭園は室町時代に作庭され、江戸時代に2度改修されていることが分かった。
調査の結果から「近世初頭のすぐれた作庭として価値が高い」として平成12年に国の名勝に指定された。 -
更に常徳寺、蔵目喜地区の説明。
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常徳寺は山号を銅出山という浄土宗の寺院。
幾度かの災禍に見舞われ、寺史などの資料は残っていないが、江戸時代の文献には天正期に創建再興されたとの記録が残り、境内に残る石造物の多くがこの時期に作られた物であることから常徳寺はこの時期に創建、再興されて繁栄していたと考えられている。
天正期から慶長期にかけては蔵目喜鉱山が繁栄した時期と重なるので地域一帯が経済的に潤っていたと推測される。
本堂は明治3年に焼失し再建された。本堂の他に書院、薬師堂、観音堂があったが現在は残っていない。 -
蔵目喜地区の紹介。
古くから鉱山で栄えた地域。江戸時代には藩の主要鉱山だった。昭和39年に閉山したが地図上には多数の鉱山跡が印されていた。 -
庭園の特徴と保存整備。
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東西に伸びる台形形の庭園で岩盤を削り出して渓谷風の滝石組、中島の本堂寄りには大振りの石を集中的に配置している。
本堂側(庭園西側)から見ると岩盤の右下の滝石組から池泉が流れる様子が見えるらしい。
当日は渇水の影響でこのような光景は見れなかった。また農家の納屋と思っていた建物が本堂だと分かった。
今もこの寺は昨日しているらしい。 -
保存整備は説明文参照。
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中島と渓谷を模した滝石組みの様子。
午前中の早い時間に来たので日が陰っていた。その為庭の印象が暗い。常徳寺庭園 寺・神社・教会
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池の残り水は僅かにここだけ。
庭園の右に流れている川も干上がってカラカラ。もちろん取水部分の鍾乳洞からの水も無し。
滝石組みの渓谷も水なしのカラ渓谷だった。 -
庭の南側から見た中島の景色。
確かに本堂側に大きな石が配置してある。後ろの大きな岩盤は自然石を生かした借景。 -
写真の大きな石は影石と呼ぶらしい。
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本堂と中島。
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薬師堂跡。
庭の整備と同時にこの跡も整備された。 -
薬師堂跡のアップ。
他にも書院や観音堂の跡もあったそうだが、探した限りでは無かった。 -
ここは鍾乳洞からの取水口でここもカラカラ。
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滝石組みである。
近くによって見るとかなり大きな石が組まれていた。 -
滝石組みから見た中島と寺の本堂。
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中島は遠近法が使われている。
中島の本堂側は長辺、奥は短辺とし、本堂側には大きな石を、奥には石を配置せずに島の形を台形状にしていた。ここに雪舟の工夫が見える。 -
本堂側の大きな石組み。
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少ししたら中島に日が射してきた。
中島が明るくなると奥の岩盤や滝石組みは暗くて判別が難しくなった。 -
背景の岩盤も暗くて見えない。
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全体が影になると滝石組みの様子が見えるる。
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この庭の特徴はもう一つ。
作庭当時は中島の後ろの岩盤の奥の借景として高さ18mの石灰岩の岩峰(地蔵の滝と呼ばれている)を取り込んだそうだ。さらに池泉の取水口である鍾乳洞の岩山も借景だった。
現在では杉の木立が邪魔してこれらの岩山は見えないがこれらの一連の景色が雪舟筆「秋冬山水図(国宝)」の冬景図の構成に似ていると指摘されている。 -
庭の北西から見た景色。
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南から見た中島の景色。
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本堂側(西側)から見た景色。
ここから見る景色がベスな鑑賞ポイントだそうだ。 -
南東から見た中島の景色。
中島の東側は石組みがほとんどない。 -
池の後背の岩盤。この岩を切り出して滝石組みの石として組んだそうだ。
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池泉の取水口である鍾乳洞を見てみよう。この取水口は地元の人達からコウモリ穴と呼ばれているそうだ。
説明板の地図てコウモリ穴の場所を確認した。
さあ、行こう。 -
庭園の奥から行くのが近道のようだ。
岩山の岩盤そばを通って・・・。 -
日が陰ったが明るい箇所が無いので写真を撮るにはこの方がいい。
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中島と本堂、水の無い池泉。
水無しの池泉はやはり趣に欠ける。 -
瀧石組みから見た池泉と寺の本堂。
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最初は庭を奥へ奥へと歩いて行ったが鉄柵にぶち当たり進めなくなった。
これはイノシシの防護柵。
庭園が復元公開されると、中島がイノシシに荒らされ公開が中止されたそうだ。そのための防護柵だろう。
中島の復元はこれで2回目である。
一旦寺の入口まで引きかし、川沿いに歩いて山に向かった。
この辺りは熊の目撃が多い。ゆっくり注意深く歩くことにした。 -
山道を行けども行けども鍾乳洞には行きつかない。
見過悟したのかもしれないがもう少し歩いてみる。ここて分かれ道になったが右の木々にはピンク色のリボンが巻き付けてあり登山道が示されていた。
では右の方へ進もう・・。
しばらく進むと杉の木が伐採された場所に着く。正面には切り立った垂直の大きな岩盤の山がそそり立っていた。
多分これが地獄の滝だろう。この時は庭園にあったパンフを読んでいなかったので庭園の借景になっていた高い岩盤とは知らなかった、
その為写真も撮らずに引き返した。 -
庭園周辺に張り巡らされたイノシシの防護柵。
一旦庭園に戻りもう一度地図を確認した。
地図を確認して再び鍾乳洞へ。鍾乳洞があるのは道の右側。熊の確認で前方と右側を注意深く見ながら歩いた。 -
道の右側に鍾乳洞確認。
写真からここが鍾乳洞がある岩山に間違いないが鍾乳洞があるコウモリ穴は草が生い茂って確認できない。
以前人が入った形跡はあるがとてめではないが立ち入れうも無い。
水路を足で確認しながら向こう側に移ったが、トゲのある蔓が繁茂して前に進めなかった。 -
取水口は目視確認できなかったが。ここに間違いないので戻ることにした。
幸い熊には遭遇しなかったので急いで山道を下りて行った。 -
昼を過ぎる頃、ようやく中島全体に日が差し込むようになった。
後ろの岩盤や滝石組みまで日に照らされたらいいのだが、今日は帰ることにした。常徳寺庭園 寺・神社・教会
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途中に寄った山口大神宮。
神宮の敷地の中に多賀神社がある。その祭神の中に大内正弘公の父君大内教弘公が祀られているのだ。
教弘公が神として祀られるようになったのは息子正弘公のおかげ。さらに教弘公には天皇から従三位の贈位が行われた。
従三位は公卿になったという事。これ以降は大内氏の当主は公卿となったのである。
従三位の位を賜るのは足利将軍とその一門だけ。それ以外では大内氏が初めてだった。山口大神宮 寺・神社・教会
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神社入り口にある多賀大社の社号碑。
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こちらが多賀大社の拝殿。
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こちらは山口大神宮の拝殿。
山口大神宮 寺・神社・教会
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多賀大社の拝殿とその奥に見えるのが本殿。
この御祭神の一人に大内教弘公が神として祀られている。
教弘公は死して後、非常に強い存在感を示すことになる。子の正弘公によって築山霊神として祀られた。1487年には土御門天皇から「築山大明神」の神号を賜わり、築山館は祭祀の地になって県内各地の神社で築山大神宮が祀られた。
1487年は大内正弘公にとって特別な年。応仁の乱における大内氏分裂の危機を乗り越え、当主としての正当性をアピールする出来事が相次いだ。
その年に起きた特別な出来事を列挙すると。
6月 亡き父教弘公に異例の従三位の位階が朝廷から贈られた。
8月 教弘公を祭る築山の祠で京都五山の重鎮了庵桂悟らによる仏事が盛大に行われた。
8月 大内氏の氏寺興隆寺が勅願寺となることを朝廷から許可された。さらに土御門天皇から興隆寺に掲げる勅願を賜った。
12月 国宝「四季山水図(山水長巻)」が完成し正弘公に献上された。
-
多賀大社の祭神。
中央下に大内教弘命として祀られている。
大内正弘公は応仁の乱の戦後処理とし領国支配に力を注いだ。まず九州に出陣し少弐氏を撃破し豊前・築前を制圧。豊後の大友氏とは連携の確認などをおこなった。法令の集中的な整備、官僚機構や軍事制度の整備、大内氏傘下の他国の武将との関係改善をおこなった。
応仁の乱で荒廃した京都から公卿の三条公敦などの貴族・文化人・僧侶らが正弘公を頼って山口に来山した。
勅撰和歌集の新撰菟玖波集の編集も援助し、死後に完成した。
また大内文庫を創設し源氏物語や古今和歌集などの書写本を収集した。しかし、陶晴賢の乱やその後の重臣の内乱で焼失してしまった。
今残っていれば国宝級のお宝だと思う。 -
はっきり分かるようにアップにしでみた。大内の御屋形様で神になったのは教弘公だけである。
雪舟は正弘公亡き後も雲谷庵で制作に励んだ。次の当主大内義興公とも良好な間係が続いた。
大内正弘公と雪舟はこれで終わり、次は西国の「覇者」大内義興公です。
訪問下さりありがとうございました。
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