2023/05/29 - 2023/05/29
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ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2023/05/29
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築山跡の築地
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宗祇の句碑
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筝曲組歌発祥の地の碑
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泰雲寺山門
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泰雲寺の参道
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泰雲時中庭
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泰雲寺本堂
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開山供養塔
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大内教弘公供養塔
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小早川隆景供養塔
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小早川隆景公令室の墓
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この旅行記スケジュールを元に
大内盛見公が筑前で戦死すると義弘公の長男持世と二男持盛の間で跡目争いが発生しました。
戦いの末に持世公が勝利し、持盛は九州へ逃亡して大友氏を頼りました。
翌1433年、持世公は幕府の許可を得て持盛、少弐氏、大友氏を撃つべく九州へ侵攻。持盛を討伐して少弐氏を筑前から駆逐、大友氏を大敗させ九州における大内氏の勢力を回復し、翌年山口に凱旋しました。
その後将軍足利義教から再三上洛を求められて京に上洛します。
しかしながら嘉吉の乱に巻き込まれ不運にも重症を負い亡くなりました。
持世の跡を継いだのは盛見公の子教弘公でした。
教弘公は正式に筑前の守護となり当時の国際貿易港博多を支配下に置いて日明貿易に参入しました。
博多は盛見公の時代に代官として支配に携わっていましたし、日明貿易は義弘公の時に私的に行われていましたが正式な参入は教弘公からです。
また教弘公は琉球との交易も始めています。一方朝鮮貿易は引き続き行なわれており朝鮮国王から正式に通信符を送られたのは大内教弘公だけでした。従って教弘公の時代に海外貿易が確立したと言えるでしょう。
写真は大内教弘公の供養塔です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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不運にも嘉吉の乱に巻き込まれて亡くなった持世公。
その後を継いだのが28代教弘公です。
教弘公も家督を継いで早々トラブルに見舞われます。
幕府の命で嘉吉の乱を起こした赤松氏討伐のため播磨へと出発しましたがその途上九州北部九州に勢力を有していた少弐氏が挙兵。
その為反乱軍鎮圧の為大内軍は九州へ出兵しました。
この時少弐勢には教弘公の兄大内教幸が味方していました。
またもや兄弟による跡目争いが起こったのです。
教弘公は少弐氏、教幸を撃破。教幸は逃亡して出家しました。
教弘公はこの戦いの後に正式に筑前の守護に就任しました。
国際貿易港を完全に支配下に置くと遣明船の経営権を獲得、正式に日明貿易に参入しました。
この話を聞いた雪舟は1545年頃山口にやってきて、教弘公の庇護を受けて山口市天花に雲谷庵というアトリエを構えました。
雪舟が山口に来たのは遣明船で明国に入国することでした。
その希望がかなったのは1467年、教弘公の嫡男正弘公の時代になってからでした。
写真は史跡築山跡です。山口市民はここを築山御殿もしくは築山館跡と呼んでいます。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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この築山館を建てたのが大内教弘公です。
教弘公は東は安芸(広島県)の東西条で管領細川勝元にそそのかさ支援を受けた武田氏を撃破して代々の領地を守り、西の九州では肥前国(佐賀県)神崎郡(現在の佐賀市の東側と神崎市)まで勢力を広げました。
積極的に勢力拡大を図っていた教弘公でしたが1457年に突然息子の亀童丸(大内正弘)に家督を譲り隠居しましています。
隠居した教弘公が隠居所として建てたのが築山館です。
写真は現在の築山跡の平面的。敷地には築山神社と八坂神社しかありませんが、以前は料亭菜香亭がありました。旧菜香亭に隣接していた学校法人野田学園の敷地の一部も築山跡です。
菜香亭が移転した後、料亭の跡地の発掘調査が行なわれました。
築山跡は教弘公が死去した後は明や朝鮮の外交使節団、朝廷の使者、将軍の使者、多くの公家や文化人を歓待する迎賓館として使用されました。
平面図八坂神社の右側(東)から下(南)にかけて広大な池泉庭園があったと言われています。
跡地からは青磁や白磁、土器、大内菱の瓦、金箔が残る瓦等が出土しています。
出土品から往時は金色の瓦で覆われた豪壮華麗な建物だったと想像されています。
その為築山館は築山御殿と喚ばれていました。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山跡の説明板。
館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、池泉の跡は江戸時代中期まで残っていましたがその後埋められてしまいました。く -
連歌師宗祇の句碑
「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」
この句から豪壮だった庭の様子が偲ばれます。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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大内氏月見の松記念碑。
月見の松は碑の後にある切株。いつ伐採されたのか分かりませんが、築地に植えられた或いは自然に生えて大きく育った木々が皆伐採されていました。
月見の松は築地の内側に植えられていたはずですから伐採しなくてもいいのにと思うは私だけでしょうか。 -
これが月見の松。今は切り株が残るのみ。
築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山館跡で唯一残っている遺構築地です。
築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山館跡の築地(土塁)。
築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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哀れ「史跡大内氏遺跡築山跡」。
文字はかすれ、斜めに傾いた標識。築山跡【大内氏遺跡】 名所・史跡
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築山跡に建てられた築山神社。
写真は築山神社拝殿です。築山神社 寺・神社・教会
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築山神社の拝殿です。
築山神社は元々毛利輝元が大内義隆を祀る為に1605年(慶長10年)に建立した「宝現霊社」が始まり。
当初は山口市の多賀神社境内にありましたが、その後龍福寺(大内義隆公菩提寺)に移転、さらに市内片岡(何処か分からない)に移転して明治3年に現在の場所に移り東照宮と合肥されました。
大内義隆公、徳川家康と喧嘩してなきゃいいんですけどね。
東照宮は大内氏の氏寺興隆寺境内に毛利氏によって建立された社殿です。明治3年にここに移築されました。
江戸時代初期、幕府は全国の諸大名に東照宮の造営を強く促しました。
この時毛利輝元は率先して東照宮を建立しました。また興隆寺にあった一切経(高麗版大蔵経)をこれまた率先して徳川家康に進呈しています。
愚かなり毛利輝元、112万石から36万9千石に厳封された関ヶ原の悔しさを忘れたのか?
そこまで家康に媚びへつらうとは馬鹿にも程があると思われますが、これも家康を安堵させる策略だったとしたら分からなくもありません。果たしてそうだったのかな?築山神社 寺・神社・教会
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築山神社の説明板。
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築山神社の拝殿。
築山神社 寺・神社・教会
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築山神社の本殿。手前の拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下は幣殿として拝殿から本殿までを一直線で結ぶ神社様式は山口県独自の建築様式です。
築山神社 寺・神社・教会
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箏曲組歌発祥之地碑。
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箏曲組歌発祥之地由来説明書です。
応仁の乱後の京は荒れに荒れて当時西の京と呼ばれていた山口に貴族や文化人が大挙して逃れて来ました。
その為大内義隆公の時代には京をも凌ぐ文化発信の地になりました。
箏曲組歌もそうした義隆公の時代に催された詩歌管弦の催しにおける箏曲組歌の所伝を縁として、併せて往時の音文化の反映を偲び建立されたそうです。 -
築山神社の案内表示。
御祭神は大内義隆卿。 -
築山跡に移築された八坂神社拝殿。
八坂神社 寺・神社・教会
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同じく八坂神社の拝殿、幣殿、及び本殿。
八坂神社 寺・神社・教会
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この建物は河村写真館。
築山跡の敷地に建っていた洋館風のスタジオですが廃業して今は空き家です。
この建物は今後どうなるんでしょうか?河村写真館 名所・史跡
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つぎは山口市下小鯖の鳴滝近くにある曹洞宗月光山泰雲寺です。
この寺は防長五刹の一つに数えられる名刹で、大内教弘の菩提寺です。
教弘公は家督を継いだ時は周防、長門、筑前、豊前4カ国の守護でしたが、肥前(佐賀県)にも勢力を拡大して5カ国の守護に、安芸国の東西条(東広島)は元々大内氏の領地でしたがこれに目を付けて国衆武田信繁をそそのかして攻めさせたのが管領細川勝元、安芸の国人衆毛利、小早川らを武田の支援に与力させました。
教弘公は武田の居城を攻めましたが、城は攻め落とせずに撤退したものの東西条は守り切りました。
その後管領細川勝元が操る幕府は教弘公の当主の地位を剥奪し、嫡男亀童丸に与える命を下します。
この命に従い一旦教弘公は隠居。
その後更に追い打ちをかけるように東西条を武田に引き渡すようにとの将軍の御教書(命令書)を携えた使者が到着しました。
この御教書が管領細川勝元の策略と見抜いていた教弘公は幕府の使者を追い返し東西条死守を決断。
直ちに軍勢を率いて東西条を守り鏡山城に進発。鏡山城を守るは周防守護代陶弘正。大内軍本隊と呼応し細川氏、武田氏、安芸の国人衆毛利、小早川等を撃破。
大内氏の勢力を石見、安芸に拡大しました。
結果幕府も大内氏の実力を認めざるを得ず、教弘公の地位剥奪は取り消し、東西条は大内氏の領地として再度認められたのです。
教弘公最後の戦いは幕命による伊予河野通春討伐。
教弘公は1万の軍勢を率いて四国の伊予に到着すると、河野通春に味方して細川勝元と決戦に及ぶ旨明らかにしました。
教弘公は細川勝元の腹黒い陰謀を見切っていたのです。
勝元は伊予河野家の内紛を画策、分家の河野通春を支援して河野本家と戦わせ、伊予一国を我が物にしようと企んでいました。泰雲寺 寺・神社・教会
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細川勝元は伊予河野家の内紛を画策、分家の河野通春をそそのかし、後ろ盾となって河野本家と争わせました。
勝元は通春を手先にして河野本家の伊予国守護を取り上げて通春に渡し、今度は通春の伊予国を勝元の分国にしようとしていたのです。
ところが細川勝元の陰謀が露見、河野一族は勝元の支配から逃れるためには本家と分家が和睦する他無しと一族が団結。
これを知った勝元は「河野家の本家と分家が和睦したのは謀反の証拠と騒ぎ立て、将軍足利義政に訴えて河野一族追討命令の御教書を引き出しました。
教弘公と河野通春は昵懇の仲、細川勝元の陰謀には屈しないと决意した河野一族でしたが全国の大名と戦うには分が悪い。
窮鼠訪ねた先が大内教弘公。大内氏も細川勝元から領地の東西条(現在の東広島市)を取られそうになったいきさつがあるので勝元の陰謀は理解が出来ました。泰雲寺 寺・神社・教会
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ここに大内氏が河野一族を支援するとの密約が結ばれました。
この約束通り教弘公は河野側に付いて細川勢に反抗したのです。
この時期管領細川勝元に正面切って反抗したのは河野家以外では大内氏だけでした。
当時の細川勝元は将軍足利義政を傀儡の如くに扱い、管領の位を傘にきておのが欲望を達成する為、将軍の御教書を利用して領地を増やそうと画策していました。
伊予の興居島を本陣にした教弘公は河野通春の居城近くに布陣し、勝元に奪われた湯築城奪還を開始。
先陣が破竹の勢いで細川の陣地を奪取していた時に本陣から急報が・・・。
教弘公が急な熱病に倒れ病は重いとの事。手当の甲斐もなく教弘公は陣中で亡くなられました。
46歳の生涯でした。この時将軍義政から薬師の板坂宗徳が派遣されましたが病状は回復しませんでした。
亡骸霊柩船に仕立てた船に乗せられて山口へ送り返されました。
河野通春は興居島の本陣には墓石を据え、分骨と教弘公の刀を埋めて追善供養を営み、代々の河野家の当主も墓前に参拝し供養を欠かさなかったそうです。泰雲寺 寺・神社・教会
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そしてこちらの寺は教弘公の菩提寺月光山泰雲寺。
泰雲寺は始め闢雲寺(びゃくうんじ)と称し、現在地より5km奥の稔畑にありました。
時の御屋形様大内盛見公が薩摩の石屋真梁禅師を招い応永11年(1404年)に開創された寺です。
その後永享元年(1429年大内教弘公の時代に当山三世覚隠永本禅師が現在地に移転しました。
最初は大内教弘公の菩提寺でしたが、後に小早川隆景公御夫婦の菩提所となり、隆景の法名により泰雲寺と名称を改められました。 -
入口の山門を潜ると長い参道があります。
正面の階段を上がった所が寺の境内です。 -
階段を上がって境内の中に。
泰雲寺 寺・神社・教会
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境内に入ると沢山の石仏が迎えてくれましたが、その中でユニークだったのがこの石仏。
見るからに凄みのある顔は地獄の番人か。他の石仏は阿弥陀如来像や観世音菩薩などの馴染みの仏様。
名前が彫ってあれば分かりやすいのですが名前が分かりません。何ともユニークな石仏でした。 -
泰雲寺は曹洞宗なので建築様式は禅宗様式です。
回廊で囲まれた中には中庭と本堂があります。
回廊の外側には菖蒲が植えられていました。泰雲寺 寺・神社・教会
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右側の回廊と菖蒲。
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こちらは左側の回廊と菖蒲。
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回廊内の通路の様子。
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入口正面左右の回廊には石仏が置かれていました。
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中庭には池と石橋かあり、その奥に本堂がありました。
泰雲寺 寺・神社・教会
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泰雲寺の中庭の様子。
庭の奥に見えるのは十三重の塔。泰雲寺 寺・神社・教会
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泰雲寺中庭の十三重の塔。右の建物は本堂。
十三重の塔の奥が供養塔のある庭園と古い墓石群がある墓地です。 -
本堂前から見た中庭と入口の回廊。
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泰雲寺の本堂。
本堂の中には自由に出はいりできます。泰雲寺 寺・神社・教会
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本堂内部の様子。
本堂内には来客者の為に無料のパンフが置いてありました。泰雲寺 寺・神社・教会
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開山供養塔です。
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大内教弘公の供養塔です。
教弘公は伊予の興居島で病死した後に霊柩船に仕立てられた大船に乗せられて山口に送り返され、泰雲寺に埋葬されしたが、長い年月の末に埋葬された場所が分からなくなったそうです。
その為供養塔が建てられてました。現在の供養塔は新しく建て直されたものです。 -
大内教弘公の供養塔。
大内教弘公の贈名は闢雲寺殿です。 -
供養塔の前にあった開山座禅石。
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小早川隆景公の供養塔。
闢雲寺が隆景公の菩提寺になったことから隆景公の法名から泰雲寺と改めてられました。
小早川隆景公は毛利元就の三男で兄吉川元春と伴に宗家の毛利輝元を助け、戦国の世を勝抜いた歴戦の勇士。
備後の三原城主で晩年は秀吉五大老の一人として手腕を振るいましたが、慶長2年に病で三原城で亡くなられました。
毛利輝元に子が無かった時、秀吉は身内の秀秋を毛利家の養子にしようとしましたが、秀秋を良くない人物と見ていた隆景公は秀秋を自分の養子に貰い受け、毛利家には隆景公の身内にあたる秀元を養子に送り込んて宗家を守った話しは有名です。 -
小早川隆景公の供養塔ですが、供養塔にしては余りにもお粗末な供養塔です。
単に自然石を立てただけの供養塔は小早川隆景公の功績を考えると余りに失礼かと思いました。
隆景公の墓は三原にあるので、供養塔ならこの程度で良いと毛利家初代藩主毛利秀就(ひでなり)は考えたのかもしれません。 -
小早川隆景公の供養塔です。
自然石を積み上げただけの供養塔でした。 -
小早川隆景公の供養塔。
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隆景公の供養塔から離れた場所にある小早川隆景公の令室の墓です。
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御令室の墓は立派でした。
隆景公の令室満壽殿(ますどの)は後に山口市大内問田に移られたので「問田の大方」と呼ばれていましたが、元和5年(1619年)に亡くなられたので泰雲寺内に埋葬されました。 -
隆景公令室の墓。
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泰雲寺内中庭の一角にひっそりと埋葬されている隆景公令室の墓。
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泰雲寺庭園内に作庭された滝。
近くにある鳴滝川から水を引いています。 -
泰雲寺内の古い墓石群。
古いお寺なので、室町時代以降の墓が
あちこちにありました。 -
古い墓石群。中央の五基の墓が古そうです。
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車で泰雲寺を訪れる時はこちらの車専用の進入路から。
坂を登りきると右側に広い駐車場があります。寺の入口は左から。
これで教弘公の旅行記は終わりです。まだ雪舟との関わりがありますが次の正弘公の方が多いので、そちらで触れる事にします。
訪問頂きありがとうございました。泰雲寺 寺・神社・教会
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